立春を迎えたとはいえ、春とは名ばかりの日々が続いていたある日。 輝は茶色い泥と白い雪が混ざり合った神谷道場の庭を歩いていた。 一刻ほど前に聞いた時川の話を思い出し、輝は天を仰ぐ。 西洋の国々では節分も節季も祝わないのだという。 それでは季節の到来を実感させるような日や祭りはないのか、と輝は思ったが、 如月にはとある変わった祭りの日があるそうで。 それは日本でいう立春の数日後で、時川も正確には何月何日か知らなかったのだが、 昔々に生きた耶蘇の聖人が、恋仲の者達のために命を奉げたのがその祭りのはじまりなのだとか。 その聖人を讃え、その日には想いを寄せる者に心の内を打ち明けたり、贈り物をするのだという。 京都に王城ができるよりもまだ早くに生きた者のことなど、輝には想像もつかない。 しかしそれよりも輝にとって衝撃だったのは、西洋ではそんな祭りの日があるということだった。 恋人達の日! 世界というものの広さを感じずにはいられない瞬間であった。 「想いを寄せる人……」 誰に聞かせるでもなくこぼした一言を、ため息でかき消した。 あの時。 この場所で。 彼が輝の想いを拒絶したのは、彼が優しすぎたからだ。 だからこそ、彼は自分の前に二度と現れないのでは、という不安が常に輝の中にあった。 彼は、影が難だというのだろう。闇が……難だと言うだろう。 しかし、それがなんだというのだ、と輝は思う。 想うのはただ一人だというのに。 耶蘇の聖人よ我が願いにも耳を傾けてはくれまいか、と輝は指を絡めて目を閉じる。 頬に触れた冷たさに目を開けると、まるで返事の代わりだとでも言わんばかりに、 曇って真っ暗な空から真白い雪がひらひらと舞い降りてきたのだった。 * * * その夜遅く。 妙に胸が騒ぐような気がして、輝は上半身を起した。 頭が眠りから覚めれば、普段から研ぎ澄まされた感覚が、庭に何かいることを告げてくる。 夜盗かもしれないと思いつつも、上掛けだけを羽織って転がるように廊下へと飛び出した。 そんな輝の目に飛び込んできたのは、ほの白く光る雪の中に浮かび上がる愛しい男の姿だった。 「……元気そうだな」 ぼたん雪が舞う中、いつからそうして立っていたのか、彼の肩にはうっすらと雪が積もりはじめていた。 その雪を払いながら、蒼紫は輝の目の前まで歩み寄ってきた。 「蒼……紫、様……」 輝は口に手をあて、あぁ、と小さな悲鳴をあげるとその場に立ち尽くしてしまった。 彼女の様子に、蒼紫は不思議そうな表情を浮かべて、 「……どうした?」 と声をかけながら、ずり落ちかけている上掛けをかけ直してやる。 最後に輝と会ったのは、雪どころか霜が降りる前だったので、 随分久方ぶりの再会なのだな、と蒼紫は思い当たった。 蒼紫は庭に立ったままだったので、縁側に立つ輝とはいつもと逆の身長差があり、 そのことも手伝ってか彼の目には、彼女の様子が数ヶ月前とはどことなく違ったように映るのだった。 ふっくらとしてあどけなかった両の頬から顎にかけての線は、以前よりもすっとして細くなっていた。 雪の真白さと茶や黒しか目に入らぬこの場では、 輝の顔も首筋も、口元を押さえたまま肘の辺りまで露になっている手も、 柔らかそうなその皮膚のどこも、桜の花びらのような桜色に色づいて見える。 輝の年頃を考えれば数ヶ月で面立ちが変わるのは何も特別なことではない。 しかし、蒼紫にはその変化がまるで、 葉色をしていたかたい蕾が、急に紅色のやわらかな花弁をのぞかせたかのように感じられるのだった。 「……お元気でいらっしゃって……ほっといたしました」 綺麗な涙をはらはらと零しながら輝は口元から手を離し、 蒼紫がかけ直してくれた上掛けをしっかりと握り締めてそう言った。 「随分と見くびられたものだな」 「いいえ、いいえ。とんでもない!ただ……」 「ただ……なんだ?」 「ただ、女というものは愚かな生き物です。信じていると口先では言ってみても、その強さを存じていても、 離れればたちどころに不安に憑かれてしまう……」 無意識のうちなのだろうが、輝が自身を『女』と明言したことに、蒼紫は少なからず驚いていた。 たった数ヶ月のうちに、この少女の身に一体何が起こり、どんな心境の変化があったというのか。 そんな蒼紫の心の内など知る由もない輝は、 「ああ……けれど、本当に信じられない気持ちです。本当に本物の蒼紫様が目の前にいる…… 耶蘇の聖人は、信仰のない私にも恩恵を与えてくださるのですね……」 そう言って口元を緩めた。 輝が耶蘇などという言葉を口にしたことで、蒼紫の心は常になく乱される。 まさかとは思うが、あの時自分が拒絶したことで、輝は耶蘇に寄辺を求めたのではあるまいか。 この変化もそのためのものだというのか、と蒼紫は思った。 「輝」 「……!」 蒼紫に名前を呼ばれたのは数えるほどしかない、と輝は記憶している。 今夜は本当に、なんという夜なのだろう、と輝の瞳から再び涙が溢れた。 あの時蒼紫は、泣いて縋る輝をここに置き去りにした。 だが。 しかし、今度は。 蒼紫は指先のない手袋をはずし、冷えた指でその涙をすくうと、蒼紫は輝の左頬に手のひらをあてる。 輝の頬も蒼紫の手のひらも、どちらもぬくもりなど無いに等しいというのに、 触れ合っている部分だけは熱くなるような錯覚に互いに陥る。 「一目、姿を見れればと思っていた……普通に暮らすお前の姿を……」 姿をただ見るだけで良いのであれば、遠目にでも見れば済むこと。 それなのにこうして人目を忍んでまで、蒼紫は輝に会いに来てしまった。 再び見え、その身体に触れてしまえば、手放すことなど出来はしないと知りながら、 蒼紫は輝の頬に触れてしまったのだ。 「……普通の暮らしが幸せだと感じるまで、私はどれだけ一人の苦しみを味わえばよいのですか?」 蒼紫はその言葉を聞いた次の瞬間、自分の半分もしかない輝の身体に腕をまわして強く引き寄せていた。 輝もまた、ようやく腕の中に手に入れた愛しい者を手放すまいと、蒼紫の背をぎゅっと掴む。 お互いがお互いの肩に顎を乗せ、まるで互いの胸を押しつぶそうとでもしているかのように。 それでもまだ近寄り足りないとでも言わんばかりに、輝は蒼紫の頬に自分のそれを押し当てた。 時川は知らないと言っていたが、今日がその恋人達の日なのではないだろうか、と輝は思う。 輝は蒼紫のぬくもりを感じながら、遠い異国の地の恋人達のことや遠い昔の聖人のことを考えていた。 昔々の偉い人 もう、耶蘇への信仰はいらんだろう? 信仰?一体、何のことですか?蒼紫様…… 了 2009年バレンタイン企画作品 奈津様にリクエストいただいた蒼紫輝でバレンタインもの(?)ですv 蒼紫輝の甘い話というリクエストだったので、かなり自由に書かせていただきましたv 書く力も無いくせに古めかしい表現を使った為、諸所おかしなところがあるかもしれません……(汗) 容認されたとはいえ、禁教の時代が長かったキリスト教をそんなに簡単に受け入れることは難しいよね。 なのに、想い人がいきなりそんな話をしだしたら、いくら蒼紫様でも驚いちゃうよねって話でした。 個人的に、輝の最後の「普通の暮らしが〜」という台詞が気に入っております。(笑) |