異国の文化花開く地、横浜を訪れた時のこと。 まるで狂犬にでも追いかけられてきたかのように、息せき切らせて宿屋に飛び込み、 そのまま床に崩れ落ちた輝を、薫は心配そうに見下ろした。 しかし薫が声をかけようとしたその瞬間、輝はがばりと跳ね起きると、 「薫さん!これ、なぁーんだっ?」 薫の鼻先に紙に包まれた薄い小さな板のようなものを突きつけ、へらりと笑った。 輝が持っていたのは、小さな板でも、ましてや分厚い紙でもない。 異国のお菓子『しょくらーと』なるものだった。 「……どうしたの?それ、簡単に手に入るものじゃないでしょう?」 「街で出会った異人さんがくださったんです!とっても良い方で……」 と、輝は目を輝かせながら異人とのやりとりを最初から話し出した。 輝が道を歩いていると、突然異人が話しかけてきて早口に何か言ってまくし立ててきた。 当然、異国の言葉などわかるはずもない輝は困ってしまい、ただただ苦く笑うしかなかった。 その異人は途中、日本語もいくつか話していたのだが、何とかが割れんだとか、 それを祝うんだとか、結局輝には何を言っているのかさっぱり理解できなかった。 そして、異人が最後に輝の手を取り『しょくらーと』を握らせて言うことには、 「ワタシ、アゲマス、コレ」 輝が理解できたのは、唯一それだけだったのだが、輝にはそれで十分だった。 その後その異人はビードロだか博打をするんだとか言って手を振って走っていってしまった。 輝は異人とのやりとりで興奮していたことと、初めて異国のお菓子を手にしたという興奮で、 その場に落ちついているどころか、宿屋までのんびり帰ることなどとてもできず、 とうとう全力で走って帰ってきたと、そういうことだった。 二人のやりとりを聞いていた宿屋の主人は帳簿をつけていた手を止めてにこやかに微笑むと、 「おやまあ、それは随分とつれないことをなさったんですねぇ」 と輝に話しかけてきた。 なぜ宿屋の主人などにそんなことを言われなければならないのか、輝は見当がつかない。 だが、薫はなんとなく話の展開に予想がついたのか、困ったような笑みを浮かべた。 「……どうしてでしょうか?」 まぁ、まずは落ち着いて水でもお飲みなさい、と主人は水の入ったコップを輝に手渡す。 空っ風の中、全力で走ってきた輝の喉はからからで、雪解け水のように冷たい水は喉に染み入った。 そのまま一気に水を飲み干すと、まるで酒でも飲み下したかのように、輝は盛大に息を吐いた。 「いえね、その異人さんはお嬢さんに恋心を打ち明けたのではないかと思いましてね」 「……えっ!だ、だって今日初めてお会いした方なのに……」 「まあ、惚れた腫れたは理屈じゃありませんからねぇ……」 宿屋の主人が言うことには、輝が聞き取った『割れん』は『われんたいん』という西洋の偉人のことでで。 西欧諸国では、毎年この季節にその人を讃える祭りを催すのだという。 祭りの日には好いた者に菓子や花などの贈り物をして思いのたけをぶつけるのだが。 とにかくその異人もまた、輝に菓子とともに想いをぶつけたのではないか、ということだった。 そして最後に。 異人はビードロをしに行ったのでも、ましてや博打をしに行ったのでもなく、 「あいるびーばっく、と言ったのではありませんかね?」 「……そんな……私、わかりません……」 「それ、なんて意味なんです?」 宿屋の主人は、この後の展開を想像したのだろう。 口元が緩むのを必死で堪えているのか、顔は奇妙に歪み、 まるで、愉快でたまらない、と訴えているかのようだった。 「まあ……また戻ってくるので待っててください、とでも言いましょうかね」 「……え……?」 「えええええええぇぇぇええ!!」 * * * 宿屋の主人とのやりとりの後、自己嫌悪に陥る輝を宥めながらも、 薫は、宿屋の主人が話してくれた『ワレンタインの日』というのが気になって仕方がなかった。 恋い慕う者同士が贈り物をし合ったり、想いを確かめ合うための日があるというのなら、 それを活用しないのは勿体ない、と薫は思うのだ。 「ねぇ、輝さん?私達も『ワレンタインの日』を祝いましょうよ」 「祝うって……何をするのですか?」 「もう……忘れちゃったの? 宿屋のご主人が、その日は好きな人に贈り物をするんだ、って言ってたじゃない」 「……そう言われましても……」 自分には好きな人などいない、と言おうとして、結局輝は口を噤んだ。 好きな人がいないわけではない。 ただ、傍にいないだけだ。 だが、傍にいなければ、贈り物などできようはずもない。 長く輝が俯いているのを、否と受け取ったのか、薫は小さくため息をついた。 「……まあ、無理強いしてもしょうがないものね……」 残念そうな薫の顔を見れば、ちくりと輝の心は痛む。 手の中には異人にもらった『しょくらーと』が1枚。 これをくれたあの異人には悪いが、探す気にはなれなかったし、 もし向こうが輝を探し当て、訪ねてきたとしても、 申し訳なさと気恥ずかしさで、会おうという気にはなれない。 自身の手の中にある『しょくらーと』も、異人の想いのこもったものだと思えば、 一人で食するのは、なんとなく気が重いのだった。 だから輝は、 「……これ、使ってみませんか……?」 と小さな声で呟いた。 「え?」 「その……宿屋の女将さんならきっと、お国のお菓子ですから、 何か変わった異国の菓子の作り方も知っていると思いますし……」 輝がそう言った途端、薫の表情にみるみる光が差し込み、目がきらきらと輝きだした。 「……輝さんっ!ありがとう!!」 感極まって首に抱きついてきた薫を見て、これでよかったのだ、 と輝は心の中で1度だけ大きく頷いた。 しかし、それからが大変だった。 それはもう、これ以上に大変なことなどないと思えるくらいに大変だったのだ。 なにしろ、薫の意気込みは大変なものだったから、その意気込みが空回ったとき、 こんな凄惨な事態に陥ってしまうのか、と輝は女将と二人、台所の隅っこに座り込んでしまったのだった。 台所中に漂うのは、焦げてしまった『しょくらーと』の甘く切ない香り。 見た目はまるで小さな泥団子か、炭団子。 口の中に放り込めば、かろうじて『しょくらーと』の香りが広がるものの。 大部分が炭化してしまっているため、味は苦さの方がまさる。 「……『しょくらーと』とは……ず、随分と苦いのでござるなぁ……」 「……剣心、もうやめとけ。こりゃ人間の食いモンじゃねーぜ……」 薫の思惑は見事に外れ、剣心と左之助の言葉が耳に痛い。 弥彦などまるで、毒団子を食べたネズミのように台所の土間に突っ伏している。 それでも、私たち一生懸命作ったのvと輝と薫が上目遣いをすれば、 愚かな男達は渋々ながらも手作り『しょくらーと』を口に運び続けるのだった。 それからしばらく、悶絶する男達を介抱した後。 にぎやかな台所を離れて輝は一人、表に出た。 激闘の後のような疲労感を覚えて大きく伸びを一つすれば、 その視界の端に信じられないものを認め、輝は二度三度と眼をこすった。 見慣れた白い外套を着た長身の男が、道を曲がるのが見えたのだ。 輝は足元に落ちていた紅い椿の花にも気付かずに走った。 その花を踏みつけたことにすら気付かずに。 同じ角を曲がれば、あとは波止場まで一本道だ。 あと一分。 いや、あと数十秒で追いつく。 そう、輝は自分の身体に言い聞かせて左右の足を交互に前に出す。 果たして、行き止まりの波止場で男は海を眺めていた。 日が海と接する瞬間を見逃すまいとでもしているかのように。 「っ、蒼紫様!!」 その声にゆっくりと振り返った男は、四乃森蒼紫その人だった。 「…………」 蒼紫の手の中からころころと椿の花が三つ、地面に零れ落ちた。 花が少ない冬も鮮やかに咲き、真白い雪の上にもよく映える紅い椿。 しかしすぐに強い海風に吹かれて海に落ちると、椿は波間を漂う。 「この花を供えたのは、お前か?」 そう、それは輝が御庭番衆の墓に供えたもの。 だが、蒼紫の問いに、そうだ、と答えることもできず、輝は俯くことしかできない。 「違うのなら、それでいい……邪魔をした……」 そう言って蒼紫は輝に背を向けると、港を歩き出す。 待って、と。 行かないで、と言いたいのに、言葉が出てこない。 まるで金縛りにでもあったかのように身体も思うように動いてくれなくて、 伸ばした指先に蒼紫の外套が触れたのは、ほとんど奇跡に近かった。 夕焼けの色で染め上げられた海に立つ白波がきらめいて。 その光が瞳を射るものだから、輝は目を細めずにはいられなかった。 もっと蒼紫の姿を見ていたいと思うのに、それすらままならない。 それならせめて離すまいと、輝は蒼紫の外套を握り締めていたのだが。 「…………」 外套を握り締める固く小さな拳を、そっと温かく大きな手が包み込めば、 輝の意思とは裏腹に力が抜けていく。 自分の外套から離れた後も、蒼紫はしばらくの間自分の手で輝の小さな手を包んでいた。 其を貴しと思ひて 願うのは、お前の幸せだけ もしも蒼紫が、そう声に出して言えていたなら。 『その日』はすぐさま形を変えて二人を祝福したというのに。 太陽が水平線に浸かりきり最後の光が薄れるまで。 束の間の逢瀬の名残を惜しむように、二人は長いことそうしていたのだった。 了 2009年バレンタイン企画作品 紺様にリクエストいただいた蒼紫輝でのバレンタインものですv ホントは、神谷道場で渡す、というリクエストをいただいていたのですが、 「待っててください」 という輝の言葉を無視して蒼紫様がお帰りになってしまった為、 イカンイカンとこの内容が出来上がりました。 笑える内容にしたかったのに、結局切ない感じに……(汗) |