傍に



「こんな時間まで何をやっているんだか…」

木に背をもたせかけ、弥勒は目の前で黙々と修行を続ける少女の姿を見つめる。
空にかかる月は、既に中天を通り越した。
草木ですらも眠りに落ちるといわれる時間帯。

「明日、不機嫌な不細工顔を見せられるのは勘弁なんですが…?」

ふぁ、と一つ小さくあくびを漏らしながらもその場から離れようとはしない。
周りには誰もいない。
フクロウの鳴き声と、珊瑚の木刀が空を切る音、それだけがその場を支配する音だった。

「眠いなら、お先にどうぞ。」

短い返事。
それすらも惜しいとそのピンと伸びた背中が言っている。

「珊瑚ー」

「…………」

「珊瑚さーん?」

「…………」

やれやれと首を振ると、弥勒は踵を返した。
足音がどんどん小さくなっていく。
やがて、その音も途絶えた。

辺りに静寂が降りる。

いつの間にか、フクロウの鳴き声も聞こえなくなっていた。
自分の呼吸の音が、やけに耳につく。

急に、何か居たたまれない気持ちになってきた。

別に妖怪や野盗共に恐れをなしているわけではなかったのだが。

疲れが出たのだと思い、珊瑚も来た道を戻る。
…と。


「………何やってんの?」

「……い、いや別に……」


てっきり先に戻ったとばかり思っていた弥勒がそこにいた。
しかも、不自然に木に張り付いて。
呆れたように珊瑚が軽く息を吐く。
つい、と空に架かる月を見上げてから。

「法師様?少し、一緒に歩かない?」


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「静かだね…」

「ああ。」


どこへ行くでもなく、何をするでもなく。
二人はただぶらぶらと歩いていた。
別に、何か話したいことがあったわけでもなかったので、たまにぽっと出る会話も二言三言で終わってしまう。

どちらからともなく立ち止まり、その場に腰をおろした。
そのまま弥勒は寝転がり、空に目をやる。

「…吸い込まれそうだ…空に。」

感じた事がそのまま口をついて出た。
少し驚いて、珊瑚が弥勒を見やる。
静かな、寂しい表情。

「だが…そうなれば、あの星のようになれるのだろうか…」

いつも飄々としている弥勒が、まるで少年のようだった。

珊瑚にはかけるべき言葉が見つからない。
彼女には計り知れない何かが、彼の体を包んでいたから。

「なあ、珊瑚…」

「な、何…?」

声とともに、詰めていた息を吐き出す。
深く吐き出し、深く息を吸う。
少し、息遣いが乱れているか。

「少しだけ…お前に触れてもいいか?」

断れない。
また、呼吸ができない。
指先が、知らず知らずのうちに震える。

「い…いよ…」

声が上擦っていた気がする。
弥勒は気付いただろうか?

「……あたたかい。」

珊瑚の太腿に頭を乗せ、弥勒は呟く。
いつものふざけた感はなかった。

「生きて、いるんだな…」

少し躊躇ってから、珊瑚はそっと弥勒の頬に触れる。
あたたかかった。
ちゃんと血が通っている、生きているあたたかさだった。

「法師様だって、生きているよ。」

その言葉に、弥勒は一瞬間をおいてから、

「…ありがとう…」

ふっ、と柔らかく、消えそうな笑みをその顔に浮かべた。

いつの間にか呼吸は整い、息苦しさは消えていた。
珊瑚は、軽く弥勒の髪を己の指で梳いてやる。
何度も、何度も。



何もかもを知っている星々は静かに、己の宿命と戦い続ける幼き子等を見守る。






[了]