オレンジがくすんだような色の光。いくつかあるそれらが、その店の色を決めていた。
店内は薄暗く、視界がぼやけるほど煙草の煙に満ちている。
閉鎖的な空間に漂う、酒と煙草の匂い。
それに、顔を顰める事もなく、少女はカウンターの一番奥に腰掛けた。
「何になさいますか?」
グラスを拭いていた手を止め、マスターは少女へ声をかけた。
「……オススメがあればそれを」
マスターの返事を待たずに、疲れたように目を伏せ、少女は頬杖をつく。
この店内において、なお美しく映える糖蜜色の髪の毛。
まだまだ幼さの抜けきらぬ容貌。
旅人にしては、軽装すぎる。
しかし、普通の少女が出歩くような時間帯でも、ましてや足を運ぶような場所でもない。
この空間で、少女はある意味での異様さを醸し出していた。
シェーカーの小気味良い音が、店内の喧騒を切り裂いていく。
少女の瞳は、ただぼんやりと、その光景を目に映すのみ。
すぐ傍で沸き起こる大声も、どこか遠い場所での出来事のように、少女の耳には届いていないようだった。
やがて、コトリ、と少女の目の前にグラスが置かれる。
深い桃色の液体が、冷たい硝子の中で揺れ。映る少女の顔まで、歪めた。
「ピーチリキュールをベースにした、口当たりの良いカクテルです」
差し出されたそれを、のろのろと手に取り、喉に流しこむ。
食道と胃が、一気に燃えあがったかのような感覚に襲われた。
それでも、口に広がった甘酸っぱさは、決して不味いわけではなく。
少女は、一言も発せず、それを飲み干した。
「……美味しい……」
小さな溜息とともに、言葉が零れる。
液体で濡れた唇に、光が弾けた。
今まで影の差していた表情が、少し、明るくなったように、見えた。
マスターは満足げな笑顔を浮かべただけで、それ以上は何も言わなかった。
何も言わず、またグラスを磨き始めた。
「恋って、綺麗なモノだと……ずっと……思っていた、んだ」
数分の沈黙の後。
ぽつりぽつりと、少女は自ら話し始める。
「清らかで……愛しいモノだと」
アルコールが入った為か、少女の目の焦点は徐々に怪しくなっていく。
「……ずーっと、さぁ……」
「違いますよ」
ハッキリした声が、少女の頭に降ってきた。
伏しかけた顔が、ゆるゆると持ち上げられる。
「人を好きになるなんて、そんな甘いもんじゃないんですよ」
諭すように。
マスターは静かに、しかしきっぱりと言いきった。
「マスターも、好きな人が……いるの?」
少し、安心したような笑みを浮かべて、少女は再びグラスを呷る。
しかし、そのグラスの中身は、先ほど彼女自身ですでに飲み干していたために。
カランという音と共に、液体ではなく、冷たい固体が彼女の唇を打った。
「ええ、いました」
「今は……いないの?」
「フラれました。甲斐性がなかったもので」
そう言って笑うマスターは、やはり大人だ、と。
少女は思った。
「サービスです」
言葉と共に手を伸ばし、少女からグラスを受け取る。
再び、小気味良い音が鳴り始めた。
照明が酒のボトルに反射して、何色もの鮮やかな色が生まれた。
くすんだオレンジ色は、今一時、その場だけ、壁かテーブルにでも溶けこんでしまったかのようだった。
「必ずしも、綺麗でありつづける必要なんて、ないんじゃありませんか?」
グラスを再び差し出し、彼は続ける。
「『綺麗であれば良い』それは、きっと誰でも思うことでしょう。けれど『綺麗でいなければならない』というのは、とても辛いことです。
いつでも完璧でいなければならないのだから。
人を好きになるのは難しいことです。何が正しいと言うこともない。
だからこそ、貴女は貴女のままで良いのだと思いますよ?
貴女が思うように、その誰かを愛しては如何でしょうか?」
「……でも、僕は……」
「誰かが答えを導くことはできないのです。貴女自身で、見つけ出さなければならない。
今は、悩んでください。そして、ただ、その人を好きでありなさい。それでいいんです」
しばし、少女は考えこんでいるようだった。
睨みつけるようにある一点を見つめ続けていた。
おもむろに、目の前のグラスを引っつかむと、一気に液体を流しこむ。
唖然としているマスターの目の前に、空になったグラスを突きつけて見せ、
「ありがとう、美味しかった」
笑った。
心底可笑しそうに。
酔った所為だろう、頬が真っ赤に火照っていた。
しかし、突然そのグラスが手から滑り落ち、カウンターで軽い音をたてて転がった。
彼が慌ててグラスを押さえ、何事かと少女の顔を覗きこむと、なんと寝ているではないか。
規則正しい寝息とともに上下する小さな肩に、思わず笑みが零れた。
そろそろ、閉店時間が迫っていた。
店内で大騒ぎをしていた客も、もう、数人を残すのみだ。
「さて……どうしましょうかねぇ」
カウンターで眠りつづける少女を見下ろし、彼は小さく苦笑した。
まさか、追い出すわけにはいかない。
とはいえ、このままにしておくわけにもいかない。
「……失礼しますね?」
一晩とはいえ。
決して居心地の良いとは言えない店のソファーに寝かせるのは、申し訳ない気もしたのだが、仕方がないと言い聞かせつつ。
考えあぐねた末、少女の体を抱き上げた。
その体は想像通りに軽く、そして、柔らかかった。
自分を押さえる術を知らなければ、取り返しのつかない事をしていたかもしれない。
それほどに、少女は魅力的だった。
この少女に思われる『誰か』を、少し嫉ましくも、思い。
丁度その時。
荒々しい音をたて、ドアが開いた。呼び鈴がけたたましく鳴り響く。
一人の男が立っていた。
青年といった方が正しいのかもしれない。
いかにも旅人といった装束を身に纏い、長い前髪から覗く瞳は鋭い。
「……申し訳ないのですが、もう閉店時間な」
「そいつをどうするつもりだっ!?」
「へっ!?」
彼が言い終わらぬうちに、青年は掴みかからんばかりの勢いで問い詰めてきた。
少女を抱いていたからこそ、そんな態度を取ったのだろうが。
しかし、少女を抱いていなければ、彼は明らかに殴り倒されていただろう。
それほどに、青年の剣幕は凄まじかった。
「ま、待ってください!どうするも何も……」
「黙れ……!!」
その態度があまりに乱暴だったために。
この青年は少女にとって危険な人物なのではないだろうか、と思ってしまうほどだった。
しかし次の一言で、その考えは否定され、別の考えの確証となる。
「……ティアラに触れるなっ!」
『ティアラ』確かにそう言った。おそらく、少女の名前なのだろう。
だとすれば。
「貴方は……彼女の恋人?」
途端に、青年の体が強張った。まるで予告なしに電池を抜き取られたダンスドールのように。
その顔色は薄暗い店内でもそれとわかるほどに赤い。
「な……そ、馬鹿なっ!!」
ああ、と彼は思った。
なんと、初々しい二人なのだろう、と。
瑞々しい青葉のようだ、と。
彼等は、これからも開き、綻んでいくのだろう。
そんなことを思いながら、彼は青年に少女の体を預ける。
「この人は、可愛い人ですね」
「………………」
「大切にしてあげてくださいね?」
「貴様には関係のないコトだ」
自分を睨みつける険しい瞳とは全く反対に、少女を受け取る時の細心の注意を払った動き。
そして、抱きしめる腕は力強く。しかし、それだけで充分だった。
邪魔した、という言葉一つ残し、青年は彼女を抱えなおした。
青年が歩き始めた直後。
小さな風が砂を舞わせ、マスターは思わず目を瞑ってしまう。
再び彼がその瞳を開いた時、二人の姿は何処にもなかった。
[END]
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