草履を履こうとしていた輝が、あっ、と小さく声をあげた。

見れば千代に彩られた草履の鼻緒の先がぷっつりと切れている。

役目を放棄したのかそれとも事故なのか。

どちらにせよ、直さなければ使いものにならない。

新しい履物を取り出すのかと思えば、輝は屈み込んで草履を揃え、そのまま立ち上がると振り向いて、



「今日はもう出掛けないことにします」



そう言った。

他に履物はあるのだろう、と問い掛ければ、ありますよ、と答えが返ってくる。

それなのに、今日は出掛けないのだと言う。

まるで出掛けないことが、この上もない程の幸せであるかのように微笑んで。


蒼紫は、その笑顔の裏の真意を量りかねたのだが、ついに輝に聞くことはなかった。







それから数日が経ったある日、蒼紫は所用で葵屋に赴いていた。

本来の用事は半刻も掛からずに済んだのだが、蒼紫は輝との生活を知りたがる翁にあれやこれやと尋ねられる破目に陥り。

まともに相手をしていたわけでもなかったのだが、それでもようやく蒼紫が家路に着く頃には日が傾き始めていた。


輝に告げていた帰宅予定時刻はとうに過ぎている。

帰りが遅い自分を案じ、一人家で心を砕いているであろう幼い妻を思えば、蒼紫の心は自然に逸る。



「っ……」



そうして、そういう時ほどツキに見放されるものなのか。

ぶちり、という音とともに蒼紫は体の均衡を失い、前のめりに2、3歩よろめいた。

豪快にも切れた鼻緒の先から滑り込んだ蒼紫の足は、直に地を踏みしめてしまっている。


鼻緒が切れるのは虫の知らせ、などとはよく言ったものだ。

良きにせよ悪きにせよ、迷信の類は一切信じていない蒼紫ではあったが、

ふと家に残した輝を気に掛ければ、途端に胸が騒ぐ。

鼻緒の先の切れた下駄を引っ掴むと、蒼紫は裸足で京都の町を駆け抜けた。









「戻ったぞ!」


玄関の戸を開けるやいなや、蒼紫は大声で自分の戻ったのを中の者に告げる。

そのまま上がろうにも、裸足のまま地を駆けてきた為に両足は足首まで汚れており、

家に戻ったことで多少正気に返った蒼紫は、框に腰掛けて妻の出てくるのを大人しく待った。



「まあまあ、蒼紫様!どうなさったんですか?」



框に座り込んだままの蒼紫を見るや、輝は驚きの声をあげた。

良人の帰りが遅いと気を揉んでいたところに、普段は聞かれぬ大声がして出てきてみれば、

なぜか足を泥だらけにした良人の姿と土間に転がる鼻緒の切れた下駄。

輝が慌てて、何か拭うものを、と言いながら背を向けようとすると、蒼紫は彼女の腕をむんずと掴んだ。



「な……何か?」



突然の蒼紫の行動に輝は驚いたのだが、それをした蒼紫自身もまた驚いていた。

無事であることも、大事無いことも見ればわかる。

わざわざ聞くまでもないというのに。



「大事、なかったか?」


「……は、い……」



怪訝な表情を浮かべながらも、輝は一言返事をすると奥に手拭いを取りに行った。

その後姿を眺めた時、蒼紫の脳裏に甦ったのはあの日の輝の言葉と笑顔。



『今日はもう出掛けないことにします』



なるほど、あの出来事が出掛ける前だったからこそ、あの日輝は家を空けなかったのだ。

たとえ新しい履物を用意したところで、一度抱いた懸念を払拭できはしないだろう。



蒼紫の中で疑問がとけたところで、輝が濡れた手拭いを持って戻ってきた。

輝は蒼紫の傍らに跪くと、手拭いを渡して微笑んだ。



「明日、鼻緒をすげかえてもらいに行ってきますね」


「……ああ」


「鼻緒が切れると、困ってしまうんですよね」


「…………」







杞憂





全てお見通しというわけか、と蒼紫は苦い顔をした。












2009年のバレンタイン企画作品。

差し上げるものとしてはボツになったものの、ネタとしてはどうしても捨てがたかったものです。

後書きがおかしかったため、修正しました。(遅)2009.08.09









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2009.02.15