4月1日。

うららかな春の陽気には負けじ、と机にかじりついていた僕に、



「おにいちゃんなんてきらいだもーん!」



愛くるしい天使が、悪戯っぽい笑みを浮かべて無邪気に言い放った。





……僕の勉強は今日も捗りそうにない。





うそつきはどろぼうのはじまりですから





「こらっ!待ちなさい、アンジェ!!」


「きゃぁあー!」



大人気ないことに、感情の半分以上を本気の怒りに傾けて、僕はアンジェリークを追いかけていた。

もう十分に成長しきった僕の身体では通れない柵の下や踏めばつぶれてしまいそうな足場も、

小さくて軽い彼女にとっては、とっておきの逃げ道。

いくら何もないところで差を縮めても、小さな天使は逃げるセンスが抜群に秀でているようで、

その差は縮まったり広がったりを延々と繰り返す。


両親が死んでから、塞ぎこんで怯えて家から出ようとしなかった彼女が、

ようやく近所の子供達と遊ぶようになったのは、本当に本当につい最近の話だ。

明るい太陽の下で、年相応の表情で遊ぶ小さな天使の姿を見れば、心の底から嬉しく思う。

だが、悲しいかな。

人間というものの欲深さよ。

一つ願いが叶うと、すぐに次の願望が芽生えてしまう。



「おにいちゃんは、おにいちゃんの『くせに』おっそいんだー!『ださーい』っ!!」


「……アンジェ!どこでそんな言葉を覚えてくるんだっ!?」


「おにいちゃんきらーい!こわーい!きゃぁー!!」



僕には弟も妹もいないから。

だからせめて。

この小さくてとびきり愛くるしい天使だけは、綺麗なものや可愛いものでいっぱいにして、

粗暴なことや汚いものには、ほんの少しだって触れさせたくない。

それは勿論言葉遣いだって例外じゃない。

たとえそのことで、欲深い、と天の女王様に咎められたとしても。



「っ、捕まえたぁあ!」


「……ぁやーーっ!!」



ようやく捕まえた天使は、これからどんな境遇が待っているのか想像できないのか、

僕とじゃれあう時のように、可愛らしい抗議の声をあげながら、両手両足をばたつかせている。

その様子を見れば、もうだいぶ脳を侵食していた怒りも、なんだかくだらない、

それこそ、取るに足らないことのように思えてきて。

思わず小さな天使を、優しく抱きしめてしまいそうになったのだけれど。



「やーぁ!おにいちゃん、きらいよー」



二度あることは三度あり。

三度目の事柄なればこそ、正直な気持ちなわけで。

ならば、仏(?)の顔も三度まで。



「……アンジェリークっ!!」


「っ?」



僕が強く肩を掴んだからだろうか。

それとも、普段よりも声が低かったからだろうか。

いや、やはり声を荒げたのが原因か。

まあ、きっとそのどれもが原因なのだろうけれど。


小さな天使は、僕の腕……というよりは手の中でびくりとその小さな身体を震わせて、

くしゃりと丸めた紙のような表情になる。



「ぅ……ぇ……」


「あっ……アンジェ……?」


「ふっ……ぇええええええん!!」



ああ、やってしまった。

この小さな身体の一体どこからこんな大きな声が発せられるのか、

到底理解できないほどの声量で、小さなアンジェリークは泣き叫ぶ。

み、耳が……



「ぉ、おにー、ちゃ……っ、きらーいー……」


「……泣きたいのは僕の方だよ、アンジェ……

どうしてさっきからそんなことばかり言うんだい?」



思わずため息がもれる。



「だっ……、きょぅは……うそつくひ、だっぇ……ぅぇぇん」


「嘘をつく日?」



……ああ、なるほど。

エイプリルフールズデイというわけか。

全く、純真無垢な僕の天使にとんでもない日を教えてくれたものだ。

まあ、そんな悪ガキへの制裁は後で考えるとして。



「……アンジェ、僕は、アンジェが大好きだよ」


「……うそ?」


「ふわふわの髪の毛で、まあるいほっぺで、くりっとした大きなおめめをしていて。

とびきりチャーミングな君のことが、大好き」


「ふぁふぁ……まぁるい……おめめ……」



アンジェはその小さな手で、一つ一つ僕の言ったことを確かめるように触る。

その大きな瞳は、まだ涙が残って濡れてはいるけれど。

まあるいほっぺには、もう涙は伝わない。



「だいすき?」


「うん、大好きだよ」


「……アンジェも……」


「ん?」


「……おにいちゃん、すき……」


「……っ!アンジェ!!」



ああ、なんてなんて可愛らしいんだろう。

喜びのあまり、思わずアンジェを優しく抱きしめてしまったけれど。

ダメダメ。

これでは、これから先、毎年同じことが繰り広げられてしまう。

名残惜しくはあったが、そっと小さな両肩を自分の胸から離す。



「だから、アンジェ。僕はね、君に『嫌い』なんて言われると、

とってもとっても悲しくなってしまうんだ」


「ないちゃう?」


「うん、泣いちゃうかもしれない」


「…………」


「たとえそれが嘘でも、君にはそんなことを言って欲しくないんだ

なぜって、君の周りにはいつも笑顔が溢れていて欲しいから」


「??」


「誰かが悲しくなってしまうような嘘はつかないで欲しい。

それは、いつか君を悲しませてしまうだろうから」


「アンジェも?」


「そう」



君の穢れない瞳に映るものは、やっぱり清らかなものだけであって欲しい。

可愛いものや、美しいものだけであって欲しい。

勿論、そんなわけにはいかないけれど。

それでも、僕が君の傍にいられる間ぐらいは。



「大好きな君には、世界で一番幸せになってもらいたいんだ」



こんなことを話しても、幼い君はきっといつか今日のことを忘れてしまうだろう。

僕の言葉も……もしかしたら僕のことだって。

それでも。

君が明日、僕の言った事を覚えていてくれていれば。

明日は、嘘をつかないでいてくれれば。

明後日も、嘘をつかないでいてくれれば。

そうして、一週間後も、一ヶ月後も、来年も。

心にもない『嫌い』なんて言葉を、その可愛らしい唇が紡いだりしなければ。

今日、僕の心が痛んだことも。

今日、君のほっぺが涙に濡れたことも。

意味のあることだったと、いつか、振り返ることが出来るから。



「それに、アンジェ。嘘をつく人は泥棒さんになっちゃうんだぞー?」


「……えっ?」


「泥棒さんになると、お友達がいなくなっちゃうんだぞー?」


「……ええっ!?」


「だから、嘘ついちゃダメだよ?可愛い僕のアンジェ」


「……うん、うん!つかない!うそつかない!!」



きっと君は今、さっき自分がついてしまった嘘のことで、頭がいっぱいなんだろう。

やれやれ。これじゃあ、さっきの言葉は明日まで覚えていないかもしれないな。

でもまあ、最後の方が良い薬になったかな。



「さ、アンジェ!いっぱいいっぱい走ってお腹が空いただろう?

家に帰ったら、アンジェの大好きなはちみつビスケットとミルクを用意してあげるからね」


「うんっ!おにいちゃん、だぁいすきー!」



まったく。

君との毎日は、退屈しなくて、幸せで。

とても愛おしくて、たまらない。










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ピロリン♪
アンジェリークは経験値を獲得。
はちみつビスケットとミルクを手に入れた。









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2009.05.10