8:Ball ―舞踏会― 車は、時々大きく揺れたことを除けば、無事に会場まで着いた。 会場からはカドリーユの楽しげな音色が漏れ聞こえてきて、 既にダンスが始まっていることを教えてくれる。 だが、パーティーはまだ始まったばかりだ 「……では、エリカ君。君の手を取る幸運を私に与えてくれたまえ」 扉を開ければそこには、宝石箱を解き放ったような世界が広がっていた。 学校の一行事とは、とても思えないほどの絢爛さ。 着飾った男女が踊るホールは、神が創りだした箱庭なのではと思うほど。 この年になっても、未だ社交界に出たことのないフリーデリカにとっては、 感動するよりも圧倒されてしまい、ただただ呆然とするばかりだった。 「……エリカ君?大丈夫か?」 「え?……あ!は、はい……」 「……もし、気分が優れなくなったら、すぐに言って欲しい」 「ありがとうございます、オルフェ様」 白い絹のグローブに包まれた小さな手を取り、オルフェレウスは窓際へとエスコートする。 皆、ホールの中央で踊っているため、場所を確保するのは予想以上に簡単だった。 配された椅子にフリーデリカを座らせると、辺りを見回して給仕の者を探したのだが、随分遠くにいた。 「何か、飲み物を取ってこよう。少し、待っていてくれるだろうか」 「はい、お待ちしています」 彼の後姿が人波に紛れて見えなくなると、フリーデリカは軽く目を伏せた。 今日はあまりにもいろんなことがありすぎて、頭が上手く働かない。 ただ、オルフェレウスの気遣いは、素直に嬉しいと思う。 「失礼、お美しい方。是非自分と一曲踊っていただきたいのですが」 その声に顔を上げると、そこには彼女に向かって微笑む美貌の東洋人の姿。 その後ろには、気まずそうに佇む、エドヴァルドの姿があった。 「ナオジ様、エドヴァルド様……」 「気分は……優れませんよね。話はエドから聞きました。災難でしたね……」 「……私は、大丈夫です……」 「……例えその言葉が本当だとしても。今はひと時、そのことは忘れましょう。 今宵は、誰もが平等に夢見ることを許された日。 貴女だけがこの時を楽しむことができないなんて、自分は認めない」 「……ふふ、ナオジ様。貴方という方は……」 やんわりと微笑むフリーデリカ様子は、普段よりも疲れているように見えたが。 それを、無防備だという表現に言い換えれば、彼女の魅力に色が増すようにも感じる。 それだけ、普段の彼女が潔癖で、隙がないということでもあるのだが。 「今宵のフリーデリカ嬢は、自分の知っている限りのどんな賞賛の言葉でもってしても、 表現することはできそうにないですね。そうは思いませんか?エド……」 「え?……あ、あぁ……」 「……貴方に聞いた自分が愚かだったようですね……」 間の抜けたような返事を返したエドヴァルドの様子に、ナオジは苦笑してしまった。 気の利いた言葉を期待していたわけではないが、これではあんまりだろうと。 だが実際には、エドヴァルドはフリーデリカに見とれていたのだった。 ぼうっと彼女を見つめる彼の様子を見て、ようやくナオジは気付いた。 彼が、そのせいで話を聞いていなかったのだということに。 結い上げたストロベリーブロンドの髪。 ほんの少しほつれた短い髪の毛が、ふんわりと白い首筋にかかっている様子も艶がある。 普段は、制服の下に隠れている鎖骨と肩が、今夜は惜しげもなく衆目に晒されている。 目の覚めるような青いドレスは、ふんわりとしたフリルで飾られ、 まるで一輪の青い薔薇が咲いているかのようだ。 真珠の首飾りと髪飾りは、彼女の清楚な魅力を十分に引き立てていた。 先ほどの言葉はお世辞などではない。 ナオジの心からの言葉だった。 だが、本当にフリーデリカをの美しさを賞賛するのであれば、一つ一つを褒め称え、 さらにその上で、完成された全体美を称えなければならなくなるだろう。 いくら彼でも、そんなことをしていたら何曲分の時間がかかることか。 「ところで、オルフェ殿はどちらですか? てっきり一緒にいるものと思っていましたが……」 「ええ、飲み物を取りに行っていただいていて……あぁ、戻っていらっしゃいました」 「……ナオジ!エド!」 両手にグラスを持ったオルフェレウスが、三人の元に戻ってきた。 「オルフェ、話は聞きました。何か自分にも手伝えることがあれば、言ってください。 自分だけ蚊帳の外、とは随分水臭いではありませんか」 「ナオジ……」 「ナオジ様……ありがとうございます……」 ナオジもまた、自分を心配してくれているようだ。 彼も、自分のことを仲間だと思ってくれているのだろうか、とフリーデリカは思った。 先ほどのエドヴァルドの言葉を思い出し、そっと彼を盗み見れば、露骨に目を反らされた。 やはり、怒っているのだろうか、と彼女は暗い気持ちになる。 謝りたいと思うのに、喉が詰まってしまったように、その言葉だけが出てこない。 だが、エドヴァルドは怒ってなどいなかった。 彼はずっと、先ほどのやりとりについて思いを巡らせていたのだった。 彼女に対して言ったことは全て本当のことだ。 だから撤回できないし、してはいけないとも思う。 だが、他に言い方があったのではないか、とは思わずにいられなかった。 涙を堪え、話を聞いていた彼女の姿を思い出せば、そんな気持ちにもなる。 そんな自分が、なぐさめの言葉など今更言えるわけもない。 「……ナオジ、行こう!」 「エド?……ちょっ、引っ張らないで下さいっ!!」 突然、エドヴァルドはナオジの腕を強引に引っ張り、人波に消えていってしまった。 ナオジはわけがわからなかっただろうが、エドヴァルドはもう、その場にいられなかった。 「……ぁ……」 結局、フリーデリカはエドヴァルドに謝ることができなかった。 だが、このままでいてはいけないような気がする。 なんとか、今日中に。 そう、今夜ならば、普段より素直に彼に向かえる気がしたから。 ホールに流れる曲は、いつの間にかガロップに変わっていた。 陽気な曲は、彼女の沈んだ気持ちを少しは和らげてくれるかもしれないと、 オルフェレウスは彼女をダンスに誘った。 返事の代わりに、フリーデリカは彼の手に自分の手を重ね、そっと微笑んだ。 少しずつではあったが、彼の気遣いは自分への思いやりなのだと、彼女は思い始めていた。 今までそう感じていなかったのかと、今日までのことを思い返せば、靄がかかったようで。 確かに、今日自分の中の何かが変わったのだと、フリーデリカは気付いた。 彼女は、彼らにまだ話していなかったことを、伝えても大丈夫なのだと思った。 少なくとも彼らは、くだらないこと、と一笑に付したりはしないと、思えたから。 「オルフェ様……実は、まだお話していないことが……」 「……事件のことか?」 「はい……おそらく…………そうおそらくは、皆、私が目障りなのです……」 「……何故、そう思うのだ?」 「私が、シュトラール補佐委員で、皆様と面識があるのが、気に入らないのだと思います」 「なっ……!!」 フリーデリカの告白に、オルフェレウスは愕然とした。 その程度のことで、あれほど酷いことができるものなのか、という疑問と。 彼女がこんな目に遭った原因が、自分にもあるのだということに。 そして同時に、それに気付かなかった自分自身が、情けなかった。 「どうか、勘違いなさらないでくださいね。皆様の所為ではないのです。 私は、そんな視線に気付いていました。気付いていて、何の対策も講じなかった。 言わば、自業自得というものなのですから」 「それは違う!……それこそ、君が悪いわけではないだろう!!」 「お優しいオルフェ様。ですが、もし私が皆様を心から信頼し、相談していたなら。 こうはならなかったと思うのです……ですが……」 それを言われればもう、オルフェレウスは何も言えなくなってしまった。 そう、過ぎた事にあれこれ仮定をたてても、もうどうしようもないことだ。 ならば、これからどうするか、という事の方が重要だろう。 オルフェレウスは全ての言葉を呑み込み、代わりに彼女と踊りの輪に飛び込んだ。 |