緋色の記憶10






いやだ



いやだ。





おもいだしたくない。







記憶を必死で手繰り寄せようと試みた。
あの夜、一体何があったのだろうと。
自分は何をしたのだろうか、と。


ひとつひとつ、丁寧に記憶の絡まりを解こうと……しかし。
その瞬間、こめかみの辺りに激痛が走った。


糸が、切れていく。


切られる。



「つっ……!」



頭が、割れそうだった。
血管が脈打つような痛みが、頭から指先まで侵食して、心臓の音がやけに大きく聞こえた。
喉が渇いて、気管を塞ぐように薄い膜がはりついているような感覚と。


記憶が。


意識が。


自分が。


揺さぶられる。




「…………」

「ぅ……ぁ……ああああぁっ!!」




輝は、頭の中で誰かが呼んでいるような気がしていた。
それが、彼女の失われた記憶と関係があるとも。
だが、その声の正体を突き止めようにも、呼ぶ声が大きくなるにつれ、意識が遠のいていく。
その声が一際大きく、そして、優しく呼びかけられたとき、ついに輝はその意識を手放したのだった。


「…………?」


急に、彼女は沈黙し、その動きが止まった。
およそ不自然なほどにうなだれ、だらりと腕が伸びている。
ひやりとした空気が蒼紫の頬に触れる。
それは確かに、渓谷で感じる風のように冷たかったのだが。
両手でやさしく包み込むような風だった。
しかし。


「……く…………に…………しや………」


ぼそぼそと、低い、気味の悪い声が蒼紫の耳に届く。
途端に、音が聞こえそうな程に空気が凍りついた。
よく聞こえなかったのだが、先ほどの輝の声ではないと蒼紫は思った。
彼女の声は、幼い少女特有の高く透き通った声をしていた。
どう低く声を出そうと、こんな声にはならないだろう。

まして、この声は―――


「…………っ!」


今度の動きは、先ほどと明らかに違う。
躊躇いもなく刀を引き抜き、蒼紫に斬りかかってきた。
寸でのところで、小太刀を引き上げ盾にしたのだが、あまりの力に押されてしまう。
衝撃を受けた右手が、じん、と痺れた。

「とうとう……」

そう、この感覚だ。身体中が喜びに震える。
何故この少女にこのような力があるのかはわからない。
そんな疑問はこの際、たいした問題ではないのだ。
あるのは、目の前の強き者との命のやりとり。
だが。

「っ……『貴様』何者だ……?」

至近距離で覗き込む少女の瞳。
つい先日も今くらいの距離で見たが。

「……『本物』なのか……?」

それが、正しい表現なのかは、蒼紫にもわからなかった。
だが、そう表現するほかなかった。
それは、ただの勘だったからだ。
あの夜。
自分に刀を突きつけながらも泣いていたのは、今目の前にいる者ではない気がしたのだ。
もしかしたら、その寸前までは、今目の前にいる者が刀を振るっていたのかもしれない。
止めを刺すのを躊躇ったのが、先ほどまでの少女と考えれば……だが、確信はない。

「…………っ」

一際激しく刀がぶつかりあい、昼なお暗い小屋に火花が散った。
蒼紫が瞬きをした隙を突き、輝は小屋の入り口まで一足飛びに跳ぶと、そのまま小屋を飛び出す。
蒼紫もその後を追うが、輝の速さは尋常ではなかった。
小屋から出て、輝の姿を探したのだが、既にその背中は森に消えようとしていた。

「(逃げ足の速い……)」

舌打ちをすると蒼紫も追いかける……と、次の瞬間。




「きゃあああぁあぁっ!!」




それは、確かに少女の声だった。そして、森を揺らす獣の咆哮。
蒼紫は声のした方へ足を速める。
近づくにつれ、嗅ぎ慣れた匂いが空気中に漂っていることに気づいた。

辺りの木々に散る、原型を留めぬ緋色の肉片。

その滴る緋の海の中、呆然と己の手の中の血塗れた刀を見つめる輝の瞳に、先ほどの殺気は宿っていなかった。





---------------



おかしいとは思っていた。
この刀が護身用ではないと知った時から。
このような刀を今の時代持つ者はいないのだという。
帯刀はご法度だから。

まして自分は女だ。

武士であるはずも、警官であるはずもない。
この刀にこびりついている血は、自分が殺した者の――いや、「者達の」ものなのかもしれない。

わからないではすまない。
覚えていないでは赦されないことがあるのに。

思い出せない。



思い出したくない。



---------------



「気づいたか……」

蝋燭の灯りに照らされた端正な顔を見て、輝は一瞬、この人は誰だろうと思った。
静かな瞳。
だが、見つめていると、暗がりを照らすように、記憶が蘇ってくる。

「(あぁ……)」

血の匂いが、鼻孔をくすぐる。
手のひらを見ると、既に乾き始めた何物かの血がべったりとついていた。

夢ではなかった。
現実だったのだ。

腕が重い。
胸が苦しい。


「……何も、覚えていないのです……」


かぼそいため息のような声が、輝の唇から零れる。


「?」

「……人、殺し……かも……」

「……」

「でも、それすらも……」

「……」

「私は、自分が……恐ろしい……」





「ならば何故、貴様は刀を捨てぬのだ?」




青紫の視線が、言葉が。
輝の心に突き刺さる。

「己が恐ろしいと慄いておきながら、何故その手は刀を握って離さぬのだ?」

「それ……は……」

蒼紫の問いに、輝には答えられなかった。
事実、輝の手は刀を離そうとしない。
『それ』は自分が身に着けていたものだから。記憶を追う手がかりになるものだから。
今までは、そうやって誤魔化してきた。

しかし……本当は。
血を、求めていたのかもしれない。
失った記憶が。
この刀が。
そして、今の自分さえも。

それほどまでに、血が欲しいのなら。


「……っ……」


薫や左之助を悲しませてしまうかもしれない。
彼女らは優しいから。
だが、いつか遠くない将来、彼女らを傷つけてしまう日がくるよりは。
今、いなくなった方が。

「……」

先ほど刃を当てられた首筋に、静かに己の刀を寄せる。
これをこのまま引けば……


「輝さんっ!!?」


聞き覚えのある声。
甘く優しい気持ちを呼び起こす、声。


「あ……薫……さ」

「何やってるのよっ!?」


刀を取り上げられる瞬間、輝は全く抵抗しなかった。
それが、まるで助けてもらうことを期待していたかのようで。
輝は自分が許せなかった。

そんな輝の心の内など知るべくもない薫は、輝の頭を胸に引き寄せ、蒼紫をきっと睨みつける。


「貴方……彼女に何をしたの?」

「何も。強いて言うならば、記憶を戻す手伝いをした、だ」

「!?……どうして輝さんが記憶喪失だって知ってるの?」

「その女が」

「……え?」


胸の中で震えたままの輝を、薫は驚いたように見下ろす。
だが、薫の尋問はここまでだった。


「……見つけたぜっ!!これで薬ができるんだなっ!?」


小屋を潰さんばかりの勢いで飛び込んできた左之助のおかげで、全ての出来事はそこでうやむやになってしまったのだ。
そして、その後村に戻った三人は、蒼紫に調合してもらった薬を弥彦に与えた。
東の空がうっすらと白み始めた頃、小さな剣士はようやくその瞼を開けたのだった。






[9へ]         [11へ]          [戻る]