「危ないっ!!」
眼前に黒い影が迫ったかと思ったその瞬間、輝は垂れ下がった木の枝に激しく顔を打ち付けた。
「いったー……」
「危ない、って言ったのに……どうしたの?ぼーっとして」
「すみません……」
「川に落ちるといけないから、前はしっかり見て歩いてね。あら、頬に擦り傷が……」
痕は残らないだろうけど、などと呟きながら、薫は懐から手拭いと水の入った竹筒を取り出す。
ほんの少し水を垂らして濡らした手拭いで、輝の頬に滲んだ血を拭ってやった。
声を上げるほどの痛みではなかったが、それでもじわりとしたしびれのような痛みが頬に広がる。
軟膏を右手の薬指にとると、薫は血を拭き取った輝の頬の擦り傷に、ごく薄く塗ってやった。
もう随分と森の奥深いところまで来ていた。
雨上がりの森の道は、ぬかるんでいて歩くだけで体力を奪われてしまう。
川沿いの砂利道も水が浸食してきていて、石の頭たちがようやく見えるような状態だ。
普段は清らかな水が光を飲み込みながら美しく流れる川も、今日は濁っていて水量も多かった。
けして深い川ではないのだが、甘く見ると文字通り足元を掬われるだろう。
「……ありがとうございます」
「なに改まってるのよ!さぁ、先を急ぎましょう?」
薫のさりげない笑顔が、輝にとってどれほど心強かったことか。
確かに自身への不信の感は残っていたが、彼女達の足手まといにはなりたくなかった。
「(しっかりしなくては……!)」
手甲をはめた拳をぐっと握り締め、行く先を見据えるのだった。
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手入れされることもなく、その役目を終えようとしている廃屋。
人々に忘れ去られてから、一体どれだけの月日を孤独に過ごしたことだろう。
それなのに、安息すら得られないのか。
こんな森の奥深くの廃屋。
そこには、随分と新しい足跡がいくつもいくつもあった。
「静かだが、人数はいるみてーだな……」
左之介の言葉に、輝は静かに目を閉じた。
そうしていると、中にいる者の息遣いが聞こえてくるような気がしたのだ。
ただの思い込みなのか。
それとも。
血を求める自分の嗅覚が教えてくれているのか。
感覚が導くままに歩みを進めると、いつの間にか、輝が先頭をきって歩いていた。
そうして辿り着いたのは、いくつもの蝋燭の炎が揺れる部屋。
一際大きな影の持ち主が、輝たちの気配に振り向いた。
「……!キサマら、どうしてここが!?……ええい、そんなことはもうどうでもいいわい!!
今ここで、終わりにしてくれるわ!!」
穴山の、地鳴りのような雄叫びを合図に、雑兵が攻撃をけしかけてくる。
一様に、生気を失った虚ろな目をした者達。
彼らもまた、操られているのだ。
だが彼らは、今までに相手をした一般人とは明らかに違った。
「くっ……こいつら……強えぇっ!!」
一人、また一人と着実に刃向かい来る者を地に沈めるものの、
今までのように、でたらめに武器を振り回しての攻撃ではない。
的確に輝達の隙を突き、次から次へと攻撃を繰り出してくる。
速さも、とても一般人とは思えない。
そのため、すぐに水晶玉を使えるような状況ではなかった。
武の心得を持つ者を操っているのか。
操った者を訓練しているのか。
それとも、まさか……
どちらにしろ、今までのように簡単にはいかない。
「!?輝!後ろだっ!!」
振り向いた瞬間、眼前に迫っていた白刃に、輝の思考は止まる。
『死ぬ』その一言だけが脳裏に稲妻のように閃いた。
だが、その途端、左手が勝手に腰から鞘を引き抜き、盾にしてその攻撃を防ぐ。
「(……!?)」
一瞬の攻防に、輝は何が起こったのか判断できなかったが、とにかく難を逃れたことだけは確かだった。
そして反撃の機もまた、今。
瞬時に、相手の喉笛を目掛けて鞘の小尻を構えると、渾身の力で突き上げる。
「がっ……!」
確かに、かなりの手ごたえは感じた。
だが驚いたことに、男の身体はその衝撃で宙にふわりと浮き、背後にいた彼の仲間を巻き添えにして倒れこんだのだ。
輝の体重の二倍は優にありそうな男が、だ。
輝は、その光景に唖然としてしまう。
新座村で弥彦が刺された時や蒼紫と刃を交えた時の記憶は、彼女にはない。
そう、『彼女』が『彼女の意思』を保ちながら、これだけの攻撃を繰り出したことはなかった。
少なくとも、輝の記憶の中では。
「(な……に?今の……)」
「やるじゃねぇか!!」
弥彦の賞賛の声も、今の輝には届かない。
これまで、薫や弥彦のように長く鍛錬を積んでいるわけでもなく、体重も軽い輝では、その場に気絶させるのがやっとだった。
それなのに、男の身体は吹き飛んだ。
渾身の当身を食らわしたわけでもない。
ただ、首に……喉笛に与えた衝撃だけで。
ならば、その首にかかった衝撃は相当なものになっているはずだ。
彼は、生きているのだろうか?
自分は、『また』人を殺めてしまったのだろうか?
しかも、ただ、操られていただけの人を?
ここ最近ずっと、輝の心を脅かしてきたことに、否応なく反応してしまう。
もう、刀は振りたくないと思うのに、危ない場面や、勝機が見えた時には、自分の意思とは無関係に身体が動く。
それが、輝は怖くてたまらなかった。
自分が、怖くてたまらない。
「(いや……!)」
突きの構えで突進してきた男。
その攻撃を、小太刀で受け流す。
そして、相手の懐に飛び込み、切っ先を真っ直ぐ肩口に……
「駄目ぇえっっ!!」
まさに、突きたてようとしたそのとき。
輝は、自らの左手で右手を押さえ込み、あろうことか、敵の懐内で膝をついた。
それを、男が見逃すわけもなく。
「輝さんっっ!!!」
彼女の脳天を目掛け、刀が振り下ろされ……
「ぐげっ」
蛙が潰れたような声が輝の頭の上から降ってきた、次の瞬間。
血しぶきが彼女に降り注ぐ。
「よほど……死にたいと見える」
翻った象牙色の外套が、眼前いっぱいに広がった。
だが、それもすぐに、髪の毛から滴った血が瞼に落ち、やがて輝の眼球を、思考を、緋色が埋め尽くした。
輝……
また、あなたなの?
俺たちは……
誰なの?
「…………」
気がつくとそこは、見慣れた神谷道場の自室だった。
枕元には、盆に載った水差しとコップが置かれていた。
酷く頭が痛む。
身体も鉛のように重い。
あれは、夢だったのだろうか。
それとも、これが夢なのだろうか。
いや、確かに、あの男は目の前で絶命した。
輝が、血を見るのを、傷つけるのを躊躇ったばかりに、あの男は死んだのだ。
自分が殺したようなものだ、と思う。
「(……?)」
ふと降って沸いた疑問。
「(誰が、殺したの……?)」
薫や弥彦、もちろん左之介だってそんなことをするはずがない。
では一体誰が?
痛む頭を抑えながら、輝は寝間着に肩掛けを羽織り、戸を開けた。
曇天の下。
翻るは、象牙色の外套。
それは、緋に視界が染まる前に、確かに見たもの。
長身の彼の、身の丈ほどもある長い鞘を腰に携えて。
彼は、あの小屋で会ったときと同じ、何も変わらぬ様子で、当たり前の様にそこにいた。
「(そうか……彼が……)」
あの光景を思い浮かべれば、軽い眩暈を覚え、輝は柱に手をかける。
そんな様子を見ても、彼は輝を気遣うでもなく、彼女をじっと見つめるだけ。
何故、彼がここにいるのか、経緯はわからなかったが、きっと彼があの男を殺したのだろう。
つまり、彼のおかげで、輝は生きているのだ。
「あの……」
「…………」
「助けて、いただいて……ありがとうございました」
頭を下げようとした輝の顎が、突然強い力で持ち上げられる。
一瞬のことだった。
瞬きすら許さぬ速さで、蒼紫は輝の眼前にいた。
「死にたかったのではないのか?」
目を、反らすことができなかった。
掴まれている顎が、強く握られた右の手首が、痛む。
「これから行動を共にする以上、邪魔になるようであれば、殺す」
ああ、きっと、この男ならばそれをするだろうと、輝は思う。
それは、誰が憎いとか、輝のことが憎いとか、そういうことではなくて。
彼にとってはただ、その存在が、有害か、無害か、ということで。
そして、自分は。
有害なのだ。
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2008.12.19