「……あら?」
道場から薫の自室に戻ろうとすると、必ず輝の部屋の前を通る。
先日の茂原の森での一件から、輝は、部屋にこもっていることが多かった。
てっきり、今日も自室にいるのだと思っていたが。
「……輝、さん?」
部屋に、彼女の姿はなかった。
男も女も、老人も子供も、足早に歩いていく。
それはさながら人の洪水だ。
ならば輝は、さしずめ流される小石。
流れのままに流され、あてなどない。
先日の一件から、彼女はずっと思い悩んでいた。
このままでは、そう遠くない将来、薫達を傷つけることになるかもしれない、と。
精神的な意味でも、肉体的な意味でも、それは十分に可能性のあることだった。
だが、もう既に引き返せないほど足を突っ込んでいるのも、また事実。
考えに囚われ、流されるままに、人が集まる場所に辿り着いてみれば、そこは神社の境内。
今日は縁日が開かれており、境内から続く長い階段の下の方は、活気に満ちていた。
何処からか聞こえてくる祭囃子は人の心を浮き立たせ、親が子を叱っているのでさえ、祭りの一興にしてしまう。
かざぐるまや、竹細工、祝いの飾りなどを売る店もあり、子供が水あめを買ってもらっていた。
ふと見上げると、ご神木の枝で羽を休めている鳥たちがしきりに囀っている。
長い冬の間待ち続け、ようやく訪れたこの時を、無駄にするまいと必死でなのだろう。
そう、賑やかな合唱と分け隔てなく注がれる陽光は、まさに今が花咲く季節であることを伝えていた。
だが、輝の心はなかなか晴れない。
ご神木に手をあて、その木の幹に耳を寄せた。
鳥の囀りしか聞こえてこなかったが、とても安らかな、懐かしい気持ちになる。
失われた過去にも、自分はこんなことをしていたのだろうか。
そんなことを考えて、そっと目を閉じようとしたその時。
「うわぁぁああああっ!!」
平穏を引き裂く叫び声や悲鳴が、賑わいの中心方向から聞こえてきた。
「(!……何?)」
「人斬りだぞーーーっ!!」
「逃げろーー!!」
反射的に、輝は走り出していた。
悲鳴のした方へ。
逃げてくる、濁流のような人の流れに逆らって彼女は走った。
肩がぶつかろうとも、邪魔だと罵倒されても。
彼女を止めようとした手さえも振り切って。
ようやく人の波を抜けた。
人が居なくなった道で、男は執拗に刀を振り回していた。
例の、操られた人かとも思ったが、雰囲気が違う。
自ら人を斬るという意思の元、その行為を悦びとして、行っている目。
「っ!?」
足元には、男が切り捨てたのだろう人。
まだ、動いている。
今助ければ、間に合うかもしれない。
だが、早くしなければ、犯人が止めを刺してしまうかもしれない。
それなのに。
身体が金縛りにでもあったかのように動かない。
一体、何をしに自分はここへと来たのか、と自らを叱責しても、指先さえ思うように動かせない。
動きにくい着物で不利だと思ったから?
刀を持っていないから?
飛び散る血に恐れを抱いたから?
……その、どれでもない。
ただ、あの時の感触が。
茂原の森奥の廃屋で男を吹き飛ばしたときの感触が、まざまざと蘇ってきて。
ああ自分は、この腕一つで、人を殺せるのだということに、気付いてしまったから。
「(……どう、しよう……)」
躊躇している時間など、許されないというのに。
こうしている間にも、彼らの命は流れ出しているというのに。
と、そのとき。
輝の足下に、背後から影が落ちた。
人が逃げ去った、こんな場所に、一体誰が?
驚いて振り返ると、そこには、相変わらずの視線で彼女を見下ろす、蒼紫の姿があった。
天の助けだと、彼女は思った。
彼ほどの強さの持ち主であれば、この場を切り抜けるなど容易なことだろう。
「……し、四乃森、さん……たす、けて……彼らを助けてください……っ!」
いくら、普段冷徹な蒼紫であっても、こんな状況を見れば、助けてくれるのではないか。
だが、そんな輝の願いなど、容赦なく切り捨てられる。
「……何故、俺が?」
「あ……あの人たち、死んでしまうっ……殺されてしまうかもしれないんですっ!あのままじゃ……」
「……貴様が助ければよかろう?」
「そん……っ……あの人たちを見捨てるんですか……?」
「聞こえなかったのか?……俺は、貴様が、助ければよかろう、と言ったのだ」
「……なっ…………酷、い……っ」
何故、そんなことが平気で言えるのか、輝には理解不能だった。
目の前で苦しんでいる人がいるというのに、蒼紫の心は痛まないのだろうか。
だが、彼から返ってきた答えは、彼女の心を深く抉るものだった。
そして同時に、自らを見つめなおさせるきっかけともなった。
「酷いのはどちらだ?己に力があることを知りながら、他人の手を汚させようとする貴様が、そんなことを言えた立場か?」
「……っ!?」
「それだけの力がありながら、自分可愛さに奴らを助けない貴様は、一体なんなのだ?」
「……ぁ…………わた、し……」
「貴様は一体、何をしにこの場へと来たのだ?」
輝は一言も言い返せなかった。
まさに、その通りだったから。
不意に、その場の空気が変わった。
人斬り犯が、こちらに気付いたのだ。
獲物を見つけた愉悦の表情を浮かべながら、犯人はゆっくりとこちらへ近づいてくる。
それに焦ることもなく、がちゃり、と輝の足元に、蒼紫は一振りの刀を置いた。
よく見れば、見慣れた彼女自身の小太刀ではないか。
彼は、こうなることを、見越していたのだろうか?
だがもう、彼は何も言わなかった。
きっと彼は、彼自身に刃が向かわなければ、暴漢を排除しようとはしないだろうし、彼らを助けたりもしないだろう。
「……くっ……!」
輝は左手に鞘を持つと、人斬り犯に相対する。
手足が震えたが、それが、何に因るものなのか、もう考えなかった。
―――……
結局輝は、人斬りから一太刀も浴びせられることなく、犯人を殺すこともなく、その場を収めた。
その後すぐに警察がやって来て、犯人を連行し、負傷者の搬送を手配した。
そして、その騒ぎの中に、蒼紫の姿はなかった。
彼が、何を考え行動しているのか、輝には理解できなかったし、これからも出来はしないだろうと思う。
ただ、彼は一つの道を示してくれた、と輝は感じていた。
力を持て余してしまうのは、自分にそれを制御するだけの力が無いから。
持てる力より、それを駆使する力が圧倒的に劣っているから。
ならば、その力を得ればいいということ。
自分の失われた過去に何があったのか、もしかしたら強くなることで、その手がかりが見出せるかもしれない。
なぜなら、過去の自分は、少なくとも今より格段に強かったであろうから。
過去の自分が、たとえどんな人間だったにせよ、今は今なのだ。
今の生活を、自分を信じ、支えてくれる仲間を護るために強くなりたいと、輝は強く決意したのだった。
[11へ] [13へ] [戻る]
2009.02.01