人斬り犯の捕り物劇から一夜が明けて。
輝は身支度を済ませると、蒼紫に与えられた部屋の前に来ていた。
あれから一晩、誰に指南を請うべきかを考えた。
だが、おそらく最初から答えは決まっていたのだと思う。
「四乃森さん」
まだ、夜が明けて間もない。
季節は少しずつ暖かくなってきたとはいえ、朝晩はまだまだ冷える。
冷やりとする廊下に両膝をつけ、輝は蒼紫の返事を待った。
輝は、蒼紫がこのくらいの時間帯には活動を始めているのを知っていた。
だから、てっきり起きているものと思っていたのだが。
「四乃森さん?」
もう一度呼びかけるが、返事はない。
それどころか、人の気配さえしない。
不審に思って、いけないとは思いつつも、戸をそっと引いて中を覗き見る。
部屋はもぬけの殻だった。
布団は仕舞われ、部屋は冷え切っていた。
一体いつ起床してこの部屋を後にしたのか。
昨晩はかなり遅くまで部屋に灯りが付いていたのを、輝自身が確認していたのだが。
「……どこい……きゃっ!……っぅ」
振り向いた瞬間、誰かの足が目に飛び込んできて、思わず叫び声をあげてしまいそうになった。
あわてて口を押さえて恐るおそる視線を上にあげる。
「……ここで、何をしている?」
膝の下の床板より冷たい声。
さすがに、部屋を覗かれて怒っているのだろうか、と輝は恐ろしくなった。
「す、すみません……そ、その、四乃森さん……いえ、四乃森様にお話があって……」
「……手短に済ませろ」
「はい!あ、あの……私に剣を指南していただきたいのです……っ」
「…………なんだと?」
心なしか、ではない。
確かに、蒼紫の眉間に皺がよった。
まるで害虫でも見るような、輝を疎ましく思う心の内がそっくりそのまま表情に表れていた。
「一晩、考えてみました……四乃森様が仰る通り、私は今まで人の力に頼るばかりでした。
……いいえ、今も、四乃森様のお力を借りようとしている……ですが、私は力が欲しいんです」
「…………」
「この力を、御することさえできればいいんです。そのためなら、どんなに厳しい修行でも、私……」
「ならば、死ぬ覚悟はできているのだろうな?」
「!」
「『御することさえできればいい』?その程度の覚悟で俺に指南を請おうなど笑止」
「それでもっ!……死ぬ覚悟なんてできません!私は生きなければならないんです。
しなくてはならないことが、あるから……それが何かはわからないけれど……
だから……お願いしますっ!!」
その言葉に、蒼紫は軽く目を見開く。
てっきり輝は、死ぬ覚悟などできている、と答えるだろうと思っていたのだ。
そして、その言葉を発していれば、彼は即座に断る気でいた。
だが彼女は、そうは答えなかった。
「…………」
「……お願い、します……っ!」
長い沈黙の後、蒼紫はようやくその口を開いた。
「最初に言っておくが、貴様は力の使い方を忘れているだけで、その力は元来、持ちえていたものだ。
御するために剣を振るう稽古など無意味だ。」
「……あの、それはどうすれば……」
「簡単なこと。これから俺は貴様の命を狙う。本気で、な」
「……っ……」
「油断すれば死ぬこともあるかもしれん。だが、ただ闇雲に刀を振るより、力の使い方を思い出す訓練にはなるだろう」
『油断すれば死ぬ』その言葉に、輝が戸惑わなかったわけではない。
それが、冗談でも誇張でもないと知っていたからだ。
だが、迷っている暇も、他に選択肢があるわけでもなかった。
今はとにかく、この力を使いこなすことに専念しなくては、と輝は強く思うのだ。
世話になっている薫たちの恩に報いたいから?
罪の無い人々が苦しめられているから?
それもあるが、むしろ。
自分の力を思い出すことが、失った記憶へと通じている気がしたからだ。
「お願い、します!」
「……いいだろう。今から俺は、無条件で貴様を狙う。努々忘れぬことだな」
蒼紫がそう言い終わった瞬間。
「……っぅ……!」
風の唸る音がして、彼の足が耳元にあった。
手甲も何もつけていない輝の腕は、その衝撃で折れたのではないかと思うほどに痛む。
その痛みで、彼に攻撃されたことを初めて悟った。
そう、彼女は確かに気付いていなかった。
だがその身体は、危険を察知し即座に反応したのだ。
「……ほう……?」
輝の記憶の中では初めて、蒼紫が薄く笑った。
こうして、蒼紫と輝の秘密の特訓が始まった。
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蒼紫が攻撃をしてくるのは、彼の姿がなく、輝が油断している時が多い。
輝にとっては、一日中、それこそ就寝中ですら気が抜けない日が続いた。
手加減してもらえている、とはさすがに思えなかったが。
今のところ、他の者を巻き込むようなこともない。
「……輝さん?」
おかげで、二人の特訓は誰にも知られることなく、既に4日が経過していた。
「…………ぇ?ぁ、はい!」
この4日間、ほとんど睡眠らしい睡眠をとっていない輝の心身の疲労は、既に限界に達していたのだろう。
薫に呼びかけられるまで、どうやら軽く意識を失っていたらしい。
もしも蒼紫に気付かれていたなら、意識どころか命を失っていたかもしれないのに、と輝は自分を叱咤する。
「大丈夫?顔色が悪いわ……」
輝の額に触れた薫の手はひんやりとしていて、まだ朦朧とする頭に心地よい刺激を与えてくれた。
「最近、少し眠りが浅くて……」
嘘ではなかった。
ただ、蒼紫と特訓していることは、誰にも話していない。
話せば、薫達に無用な心配をかけてしまうのは目に見えていたから。
「……そう。もし、気分が優れないようだったら、恵さんに来てもらう?」
「ありがとうございます。少し休めば、きっと大丈夫ですから」
これも、嘘ではなかった。
今の輝に必要なのは、睡眠だ。
誰にも邪魔されることのない休養。
「でも、それじゃあ、霊山には私達だけで行くことにしましょうか」
「……え……」
「だって、そんな状態の輝さんを連れてはいけないわ」
三浦の渓谷にあった穴山達のアジトを輝達が壊滅させてから、まもなく二週間が経とうとしていた。
その間、街では目立った騒動は起こらず、嵐の前の静けさのような、不気味な平穏が続いていた。
騒動がないからといって、あの集団がこのままおとなしく引き下がった、とは誰も考えていない。
だからこそ、未探索の怪しげな場所がある以上、このまま放っておくことはできないのだ。
「出立はいつですか?それまでに、体調を整えます。だから……どうか私も連れて行ってください!」
「でも……」
「お願いです、一人で皆さんの無事を祈るだけなんて、耐えられません……!!」
「……輝さん……」
無意識のうちに己の両手で握り締めていた薫の手。
薫が、弥彦が、左之助が戦いの地に赴くのに、どうして自分が一人この地で待つことができようか、と輝は思う。
そうして、彼女達が帰ってこなかったら。
「(帰って……こなかったら……)」
それは輝にとって、途方もない恐怖だった。
「二日下さい。それまでに支度を整えます」
「……わかったわ……でも、無理はしないでね」
彼女達を守りたい。
言い聞かせるかのように、輝は繰り返し思う。
『もう誰も失いたくない』
その『思い』の由縁は、一体誰なのか。
今の輝には、思い出せないけれど。
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2009.07.18