緋色の記憶13












人斬り犯の捕り物劇から一夜が明けて。

輝は身支度を済ませると、蒼紫に与えられた部屋の前に来ていた。
あれから一晩、誰に指南を請うべきかを考えた。
だが、おそらく最初から答えは決まっていたのだと思う。


「四乃森さん」


まだ、夜が明けて間もない。
季節は少しずつ暖かくなってきたとはいえ、朝晩はまだまだ冷える。
冷やりとする廊下に両膝をつけ、輝は蒼紫の返事を待った。

輝は、蒼紫がこのくらいの時間帯には活動を始めているのを知っていた。
だから、てっきり起きているものと思っていたのだが。


「四乃森さん?」


もう一度呼びかけるが、返事はない。
それどころか、人の気配さえしない。
不審に思って、いけないとは思いつつも、戸をそっと引いて中を覗き見る。

部屋はもぬけの殻だった。
布団は仕舞われ、部屋は冷え切っていた。
一体いつ起床してこの部屋を後にしたのか。

昨晩はかなり遅くまで部屋に灯りが付いていたのを、輝自身が確認していたのだが。


「……どこい……きゃっ!……っぅ」


振り向いた瞬間、誰かの足が目に飛び込んできて、思わず叫び声をあげてしまいそうになった。
あわてて口を押さえて恐るおそる視線を上にあげる。


「……ここで、何をしている?」


膝の下の床板より冷たい声。
さすがに、部屋を覗かれて怒っているのだろうか、と輝は恐ろしくなった。


「す、すみません……そ、その、四乃森さん……いえ、四乃森様にお話があって……」

「……手短に済ませろ」

「はい!あ、あの……私に剣を指南していただきたいのです……っ」

「…………なんだと?」


心なしか、ではない。
確かに、蒼紫の眉間に皺がよった。
まるで害虫でも見るような、輝を疎ましく思う心の内がそっくりそのまま表情に表れていた。


「一晩、考えてみました……四乃森様が仰る通り、私は今まで人の力に頼るばかりでした。
 ……いいえ、今も、四乃森様のお力を借りようとしている……ですが、私は力が欲しいんです」

「…………」

「この力を、御することさえできればいいんです。そのためなら、どんなに厳しい修行でも、私……」

「ならば、死ぬ覚悟はできているのだろうな?」

「!」

「『御することさえできればいい』?その程度の覚悟で俺に指南を請おうなど笑止」

「それでもっ!……死ぬ覚悟なんてできません!私は生きなければならないんです。
 しなくてはならないことが、あるから……それが何かはわからないけれど……
 だから……お願いしますっ!!」


その言葉に、蒼紫は軽く目を見開く。
てっきり輝は、死ぬ覚悟などできている、と答えるだろうと思っていたのだ。
そして、その言葉を発していれば、彼は即座に断る気でいた。
だが彼女は、そうは答えなかった。


「…………」

「……お願い、します……っ!」


長い沈黙の後、蒼紫はようやくその口を開いた。


「最初に言っておくが、貴様は力の使い方を忘れているだけで、その力は元来、持ちえていたものだ。
 御するために剣を振るう稽古など無意味だ。」

「……あの、それはどうすれば……」

「簡単なこと。これから俺は貴様の命を狙う。本気で、な」

「……っ……」

「油断すれば死ぬこともあるかもしれん。だが、ただ闇雲に刀を振るより、力の使い方を思い出す訓練にはなるだろう」


『油断すれば死ぬ』その言葉に、輝が戸惑わなかったわけではない。
それが、冗談でも誇張でもないと知っていたからだ。
だが、迷っている暇も、他に選択肢があるわけでもなかった。
今はとにかく、この力を使いこなすことに専念しなくては、と輝は強く思うのだ。

世話になっている薫たちの恩に報いたいから?
罪の無い人々が苦しめられているから?

それもあるが、むしろ。
自分の力を思い出すことが、失った記憶へと通じている気がしたからだ。


「お願い、します!」

「……いいだろう。今から俺は、無条件で貴様を狙う。努々忘れぬことだな」


蒼紫がそう言い終わった瞬間。


「……っぅ……!」


風の唸る音がして、彼の足が耳元にあった。
手甲も何もつけていない輝の腕は、その衝撃で折れたのではないかと思うほどに痛む。
その痛みで、彼に攻撃されたことを初めて悟った。
そう、彼女は確かに気付いていなかった。
だがその身体は、危険を察知し即座に反応したのだ。


「……ほう……?」


輝の記憶の中では初めて、蒼紫が薄く笑った。


こうして、蒼紫と輝の秘密の特訓が始まった。






------------------------------




蒼紫が攻撃をしてくるのは、彼の姿がなく、輝が油断している時が多い。
輝にとっては、一日中、それこそ就寝中ですら気が抜けない日が続いた。
手加減してもらえている、とはさすがに思えなかったが。
今のところ、他の者を巻き込むようなこともない。


「……輝さん?」


おかげで、二人の特訓は誰にも知られることなく、既に4日が経過していた。


「…………ぇ?ぁ、はい!」


この4日間、ほとんど睡眠らしい睡眠をとっていない輝の心身の疲労は、既に限界に達していたのだろう。
薫に呼びかけられるまで、どうやら軽く意識を失っていたらしい。
もしも蒼紫に気付かれていたなら、意識どころか命を失っていたかもしれないのに、と輝は自分を叱咤する。


「大丈夫?顔色が悪いわ……」


輝の額に触れた薫の手はひんやりとしていて、まだ朦朧とする頭に心地よい刺激を与えてくれた。


「最近、少し眠りが浅くて……」


嘘ではなかった。
ただ、蒼紫と特訓していることは、誰にも話していない。
話せば、薫達に無用な心配をかけてしまうのは目に見えていたから。


「……そう。もし、気分が優れないようだったら、恵さんに来てもらう?」

「ありがとうございます。少し休めば、きっと大丈夫ですから」


これも、嘘ではなかった。
今の輝に必要なのは、睡眠だ。
誰にも邪魔されることのない休養。


「でも、それじゃあ、霊山には私達だけで行くことにしましょうか」

「……え……」

「だって、そんな状態の輝さんを連れてはいけないわ」


三浦の渓谷にあった穴山達のアジトを輝達が壊滅させてから、まもなく二週間が経とうとしていた。
その間、街では目立った騒動は起こらず、嵐の前の静けさのような、不気味な平穏が続いていた。
騒動がないからといって、あの集団がこのままおとなしく引き下がった、とは誰も考えていない。
だからこそ、未探索の怪しげな場所がある以上、このまま放っておくことはできないのだ。


「出立はいつですか?それまでに、体調を整えます。だから……どうか私も連れて行ってください!」

「でも……」

「お願いです、一人で皆さんの無事を祈るだけなんて、耐えられません……!!」

「……輝さん……」


無意識のうちに己の両手で握り締めていた薫の手。
薫が、弥彦が、左之助が戦いの地に赴くのに、どうして自分が一人この地で待つことができようか、と輝は思う。
そうして、彼女達が帰ってこなかったら。


「(帰って……こなかったら……)」


それは輝にとって、途方もない恐怖だった。


「二日下さい。それまでに支度を整えます」

「……わかったわ……でも、無理はしないでね」


彼女達を守りたい。
言い聞かせるかのように、輝は繰り返し思う。

『もう誰も失いたくない』

その『思い』の由縁は、一体誰なのか。
今の輝には、思い出せないけれど。










[12へ]         [14へ]          [戻る]


2009.07.18