緋色の記憶2





『おいしい牛鍋はいかが!?
 みんなの牛鍋屋 赤ベこ。』


チラシと、目の前の建物と、そして何より、自分の数少ない持ち物の一つである財布の中身を見て。


「…………」


立ち去ろうとしたが、どうしてもそこから漂ってくるおいしそうな匂いの所為で、足は動かない。
もう一度財布の中身を見てみる。

……20銭。

これからのことを考えると、とても心許ない金額である。
……いや、どう考えても不安すぎた。
とはいえ、空腹に限界がきているのもまた事実で。

暫し考え込んだ後、意を決して輝は赤ベこの中へと足を踏み入れた。





「弥彦ぉっ!コラ、待ちなさい!!!」


店内に入った瞬間、輝の耳に届いたのは、「いらっしゃいませ」といった類のものではなく。
明らかに、若い女性の怒鳴り声。
そして……


どん!!!



「ったぁ……」

「…………っ」


突如視界が反転した。
それが、体当たりを食らわせられて、吹っ飛ばされたという事に気がつくまで数十秒の時間を要してから。
ふと、影が落ち、輝が頭を上げると。


「あのすみません……大丈夫ですか?」


心配そうに見下ろしている女性の姿がそこにあった。
輝は女性が差し出してくれた手をとって、立ち上がる。


「そちらこそ、お怪我は……?」


立ち上がった瞬間に目眩がしたが、女性が目の前にいるという手前、そんなことを表に出す事も出来ず。
そう言いながら、輝は軽く笑った。


「ったく……ドジだなぁ……」


新しい声が聞こえ振り向くと、そこには10歳前後の少年が、腰に手を当て、やれやれといった表情を浮かべて立っていた。


「あ〜ん〜た〜の所為でしょうがぁ!!」


少年の言葉に、女性は怒りに顔を引きつらせたが……


「……っとと、ごめんなさい」


呆然と立ち尽くす輝に気付き、苦笑いを浮かべながら謝ってくる。
ふわりと藍のリボンが揺れた。
藍の色がリボンよりも長く長く尾を引いて……


「……っ……!」


一際大きく視界が揺れた。
そして。


「ちょ、ちょっと大丈……」


そこで輝の意識は途切れた。







                               輝……




―――誰……?





「……気がついた?」


額にひんやりとした感触が気持ちいい。
目の前で笑っているのは先ほどの女性。


「こ……こは……?」



見覚えのない天井。
見覚えのない部屋。



「ここは私の家、安心して」


輝が起き上がろうとしたので、女性が慌てて背中を支える。


「いきなり倒れちゃうんだもの……驚いたわ?」


背中にまわされた手は、思いのほか力強くて。


「…………」


心配の言葉をかけてくる女性に対して、輝は何も言えなかった。
女性はその事を気にした様子もなく、


「これ、私が作ったの。何か食べた方がいいんじゃないかと思って」


輝の傍にお粥と漬物、そして水の入ったコップ、それらののったお盆を置く。
出来たてと見られるお粥は、その熱さを強調するかのように、白い湯気が立ち上っていた。
お腹が鳴りそうになり、輝は慌てて堪える。

何かあったら呼んで、そう最後に言い残して女性は部屋を出ようとした。


「あのっ……!」


一瞬、女性は驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んで。


「どうかした?」

「あ……っと、その……」


女性の微笑みに一瞬躊躇って。
しかし、輝は口を開いた。


「……どうして、そんなに優しくしてくださるんですか……?」


輝は俯いたまま、顔をあげることが出来なかった。


下妻町でチンピラに絡まれ。
東京まで出てきたものの、誰一人として頼る者はなく。
覚えているものといえば名前だけ。
無論、見ず知らず、しかもボロボロの身なりの自分を助けてくれる者などいるはずもなく。


輝にしてみれば、信じろというほうが難しい話なのかもしれない。


もしかしたら、この人は人買いで、自分はどこかに売られるのではないか。
だから、今は優しくしてくれるのではないか。
そして後から酷い目にあわされるのではないか。


そんな考えばかりが浮かんできて。
強く握り締める手にはじっとりと汗が滲んでいた。
出来るなら、今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。
しかし、体のほうは全くいう事を聞いてくれず。


カタカタと震えている輝の肩に、そっと手が置かれた。
驚いて顔をあげると、女性がやはり優しく微笑んでいて。


「あなたが、『助けて』って言ってるような気がしたから」


安心して、そう言って今度こそ女性は部屋を出て行った。



―――『助けて』って言ってるような気が……



女性に助けを求めた事は無かったと思う。
そんな素振りだって、絶対にしなかったはずだ。

なのに、女性は手を差し伸べてくれた。
自身でさえ聞こうとしなかった、体があげている悲鳴を、女性は聞き取ってくれた。


女性のその言葉に、何か、張り詰めていたものが切れたような気がした。
やっと……本当にやっと、一息つけたような気がした。
と、同時に熱いものがこみ上げてくる。


ぱたり


ぱたり



布団に、いくつの小さな染みが出来ていった。
堪えようと思っても、流すまいと思っても、涙は止めどなく溢れてきた。


拭おうとは思わなかった。


ただ流れるままにしておいた。


不思議と気分は悪くなかった。



女性が出て行って2、3分ほどしたとき、遠慮がちに戸が開いた。
そこに立っていたのは先ほどの少年。


「な!?ど、どっか痛むのか!?」


遠慮がちだったのは戸を開けるところまでだったようだ。
輝の涙を認めると、騒々しく輝の傍に駆け寄り、おどおどとした表情で覗き込んでくる。


「いいえ……大丈夫です、ちょっと嬉しくて……」


涙を人差し指で軽く拭い、輝はにこりと笑った。
心なしか、少年の顔が赤くなったようだったが、涙で潤んだ輝の瞳にそれは映らなかった。


「……あ〜っと、それならいいんだっ」


ぱっ、と輝から離れ、布団の傍に腰を下ろす。
それから、しきりに言葉を考えているそぶりを見せて。


「そういや、自己紹介がまだだったよなっ」

「あっ…そうでしたね」


そういえば、さっきの女性の名前も聞いていなかったな、そんな考えが輝の頭を掠めた。


「俺は、東京府士族 明神弥彦!」

「輝…です、弥彦さん。」


弥彦は一瞬変な顔をして。


「『さん』なんていらねぇ。弥彦でいいよ、弥彦で」

「え!?じゃ、じゃあ、弥彦くん……」

「…………」

「…………」

「…………まあ、いいや。それよか、そんな丁寧に喋んなくっていいぞ」

「いや……ですか?」

「いやじゃねぇけど……堅苦しい気がしてさぁ……」


がしがしと頭をかきながら、輝から目線をそらす。
その目に入ったものは……


「えっと、でも……」

「おい」


輝の言葉を半ば遮るような形で。


「はい?」

「『コレ』なんだ……?」


弥彦が指差しているのは先ほどの女性が置いていったお粥だった。


「ええっと、これは先ほどの女性が……」

「薫……が作った、やつ……」


ぶつぶつと何か呟いたようだったが、輝には聞こえなかった。


「温かいうちにいただかないといけないですね」


にっこりと笑って、輝はお椀を取り上げた。
しかし、箸を取ろうとしたその手首を、弥彦にむんずとつかまれる。


「止めた方がいい。ずぇぇったいに!!!!」


弥彦が恐ろしい剣幕で、輝に詰め寄る。
顔には冷や汗と思しきものが浮かんでいた。


「え……でも折角作っていただいたものですし……」

「いいっ!腹減ってんなら、後から俺が作ってやるから、ヤメロ!!!」

「それなら一口……」

「死ぬぞ、絶対っ!!」


弥彦の中に鬼気迫るものがあるような気がしたが、食べ物を前にして『我慢しろ』ではあんまりである。


「そんな……毒じゃあるまいし」


そう言って、一口。


「あっ、馬鹿!!!」


口に入れた。













「…………っ!!!」

「……あ〜あ、言わんこっちゃねぇ……」




さて、お味の程は?







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