どこか、ずっと遠くで響いた音なのかと、思った。
それが、自分の刀の音だと。
……どうして、信じられただろう?
からから
からから
刀が、廻る。
気付くと、少女の顔が、目の前にあった。
お互いの鼻が触れ合うくらいの至近距離に。
先ほどの身長差からはありえない距離、という考えが頭を掠めた瞬間。
「っが、ぁっ……!」
喉笛に受けた激しい衝撃に、彼の体は後方に仰け反り、次の瞬間、その体は地に組み敷かれていた。
刀を頚動脈に押し当てながら、少女は男の上に覆い被さってきた。
全てが、非現実的な事に思えた。
まさか、こんな年端もゆかぬ少女に土をつけられるなど、どうして、信じられただろう?
そして、それほどに有利な状況を創り出した本人が。
……何故。
「…………何故、泣いている?」
泣いて、いるのか。
それは男の理解の域を越えたものだった。
小さな口から洩れる、笑い声のような嗚咽が、狭く暗い小屋の中に響き渡る。
男はその姿を、じっと見ていた。哀れむでもなく、蔑するでもなく。
ただ、ただ、見つめていた。
別に、体の自由が利かないわけではなかったのだ。
少女の体は、自分の丈の半分程と感じるまでに小さく、軽かったのだから。
組み敷かれたといえど、男にとってそれを跳ね除けるのは造作もないこと。
しかし、その時、あえてそれをしなかったのは、彼女に実力の差を突きつける為か。
それとも。
「……殺さないのか?」
その答えの代わりであるかのように、生暖かな液体が、彼女の頬を伝い、そして男の頬をも濡らす。
幾筋も、幾筋も。
零れ落ちた涙が、己の頬で弾ける音すら、ずっとずっと遠くから聞こえてくるような気がした。
それからどれほど時が経っただろうか。
いや、実際はほんの数十秒程しか経っていなかったのかもしれないが。
再び、少女の小さな体が揺らぎ、そのまま、その体は無機質な石畳の上に堕ちた。
上体を起こした男の頬を少女の涙が滑り、まるで彼自身が泣いているかのようにも見えた。
男の口の中に、涙の味だけが残った。
輝
誰?
どうか……
何?
パシャ
冷たい水が顔を打つ。
驚いて起きあがると、耳の奥がきーんと鳴った。
喉が、まだ乾いていた。
頭の中に霧がたちこめているようで、上手く思い出すことが出来ない。
どうして、こんなに息が苦しいのだろう?
どうして、こんなに指が冷たいのだろう?
どうして、こんなにも……
頬が熱い。
記憶が、騒ぐ。
「……ようやく、目覚めたな」
それは、聞き覚えのある声。
意識を手放す間際に聞いた、あの、声。
輝は反射的に刀を探った。
……が、彼女の手がそれに触れることはない。
どこにも、ない。
再び、全身から冷たい汗が噴き出してきた。
背後に感じる、男の気配が、痛い。
さらに手で探るが、刀は何処にもない。何処にも、無い。
「……危害を加えるつもりはない……安心しろ」
足音が近づいてくる。勿論、男の声は輝の耳に届いていた。
だが、信じろというには、あまりに初印象が悪すぎた。
足音が、止まった。
首がさびついて、振りかえることができない。
「探しているのは、これか?」
まさか、と輝は思った。しかし、見つからない今、その言葉は恐らく正しい。
振り向いた輝の目に飛び込んできたのは、紛れもない己の刀だった。
「返しておく」
「え、あ……!!」
放り投げられた刀を間髪で受けとめ、輝はじっと男を見つめた。
「気に食わなければ殺せ……返り討ちにするだけだが」
そう言うと男は、夜の闇に消えた。
小屋内に残された輝は、男が去った方を呆然として眺める。
入り口に掛けられた簾の隙間から、闇が押し寄せようとしていた。
時刻は幾つだろう。
夏遠い今の時期では蛙の声すらない。
時折遠くから聞こえる獣の遠吠え以外は、痛いほどの静寂が横たわっていた。
一尺先で、ぼうっと浮かびあがる小さな蝋燭の灯りを見つめながら。
輝は、何故男が自分を殺さなかったのかを考えていた。
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