ひやりとした嫌な風が、小さな村を駆け抜けていった。



緋色の記憶8






「弥彦ぉっ!」

薫の悲痛な叫びが小さな村中に響き渡る。

月灯りしかない真夜中の急襲。
それは、鬼婆の谷から戻ってきた夜のこと。
助けを求めてきた村人を、弥彦は助けようとしたのだが。
その村人こそが奴らの兵器。
斬りつけられた弥彦の小さな体は崩れ落ちるように地面に沈み、傍にいた輝の顔や服には彼の血が飛び散った。

「弥彦っ……弥彦……!!」

弥彦の体はびくびくと軽い痙攣を起こし。
薫の痛いほどの呼びかけに、返事はない。



                                赤い血



泣き叫ぶ女



     赤い血



獣の咆哮にも似た、低いしかし空気を揺するような笑い声が。
薫の泣き声と混じり、ひやりとする風に乗って村中に恐怖を振りまく。

「チクショウ……なんてことしやがるっ!!」





                     笑い声




                赤い血……


                      赤い血!!






その瞬間、輝の頭の中で何かが弾けた。
飛び出しかけた左之介より一瞬だけ、輝の踏み出しが早かった。
彼が加勢する間もなく、操られていただけの男は思いきり蹴飛ばされていた。
さらに大男達に向かっていこうとする輝を、左之介はようやく抑え込んだ。

「落ちつけ、輝。今は弥彦の手当ての方が先だろうが!?」

左之介の腕の中で、輝の意識は大男達の笑い声と共に薄れていった。









記憶が




揺すられる





緋が『また』






飲みこんでしまう





平穏を幸せを愛を










次に目を覚ました時、輝は見覚えのある部屋にいた。
そこは新座村の村長が輝達の為に用意してくれた部屋だった。
薫達の姿はない。弥彦の姿もない。
だんだん意識がはっきりしてくるとともに、自分の服に付いているまだ赤みを残した黒っぽい染みが弥彦の血だということを思い出した。
弥彦が斬られたところまでは思い出せるのに、その後のことがよく思い出せなかった。
何故自分がここに一人で寝かされているのか。そして。

弥彦は無事だろうか。

そう思ったらいてもたってもいられなくなり、輝は布団から抜け出し立ち上がった。
しかし酷い立ちくらみがして思わず両膝をついてしまう。

「……こんな……」

頭痛が酷い。何かを思い出そうとする時のあの痛み。
きっと過去にも似たような場面があったのかもしれない。
誰かが傷つけられる場面が。
しかし、それを知る術は輝にはない。
朦朧とする意識を抱えたまま輝が動けないでいると、隣の部屋から薫の声と左之介の怒鳴り声が聞こえてきた。

「冗談じゃねぇ!このままじゃコイツは死んじまうんだぞ!!」
「左之介、落ちついて!弥彦の体に障るわ」
「危険がなんだってんだ!俺達が今までどんだけの修羅場を潜って来てると思ってやがる!?」

何かが起こっている。
自分が気を失っている間に何が起こったというのだろう。

思い通りにならない足を、ぱぁんと勢いよく叩き、自分を奮い立たせる。



「待ってください……!」



戸を引くと同時に、搾るようにして精一杯の声を出した。

「輝さん!……大丈夫?」
「輝!気付いたか」

自分の出した声に輝は再び眩暈を覚えたが、もう構ってはいられなかった。
輝の姿を見とめた二人は、一瞬だけ安堵の表情を浮かべたが、それも長くは続かない。

「弥彦君、どうしたんですか?」

二人の傍に敷かれた布団の上で苦しそうに呻き声をあげる弥彦の状態は尋常ではない。
唇は紫色に変化し、顔が浮腫んでしまっている。
額には玉のような汗が滲み、それでも彼の体はぶるぶると小刻みに震えていた。
布団から見える右肩には包帯が巻かれているが、それほど出血したような痕がない。
ただ斬られたにしては様子がおかしい。
輝の心を読んだかのように薫が辛そうに漏らす。
一つ一つ確認するように、ゆっくりと、区切りながら。

「毒が……塗ってあったの。弥彦が斬られた刃に。なんの毒かはわかったんだけど、薬がなくて……」

そこまで言って、薫は俯いてしまった。
それを付け足すように左之介が口を開く。

「こっから南にまっすぐ行った所に沼があるらしい。そこに薬の材料になる藻があるらしいんだが調合方法がわからねぇ」
「しかも、最近沼の近くに不審な人物が住みついたらしいの……もし穴山達の仲間だったら……」

しかしここで言い合いを続けたところで、弥彦の体は今この間にも毒に冒され続けている。
一秒を争う事態なのだ。無駄に出来る時間などない。
そして、そこの小屋で待っている人物を輝は知っていた。
確かに、何者かはわからない。味方ではないことはたしかだ。
もしかしたら薫の言うように穴山達の仲間かもしれない。
しかし、退いた先に待つのは弥彦の確実な死、だ。

「行きましょう、薫さん、左之さん。村長さんに恵さんを呼んでもらえば、きっと間に合います……きっと!」

静かに閉じた瞼の裏側に、弥彦と練習をサボった時の光景が浮かんできた。
出会ってまだ数日しか経っていないとはいえ、弥彦と過ごす時間は多かったはずなのに。
その光景だけがちらちらと浮かんでいつまでも消えなかった。
涙が、輝の目からあとからあとから溢れる。


『また』大切な人が、『あいつらのせい』で。


「弥彦君が……死んでしまう……っ!!」





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昨日も一昨日も歩いた道を、輝は今日も歩いていた。
昨日までと違うのは、今日は一人ではないということ。
心強い仲間が二人もいてくれる。
しかし、彼らに残されている時間は残り僅か。
たとえ自分達が間に合っても、恵が間に合わなければ。
また、恵が間に合っても、自分達が間に合わなければ、材料を間違えてしまったら。
不安はいくらでもある。拭っても拭っても拭いきれない。
弥彦の生死がかかっている。

「こう暗くっちゃ……!!」

左之介が毒づくのも無理はない。
昼でさえ薄暗い森、月の光は地面まで照らしてはくれない。
これからその暗い中で、見たこともない薬の材料を探さなければならないのだ。
いくらなんでも無謀というものだった。

「ねぇ、輝さんが言ってたの、あの小屋かしら?」

言われてみれば、ぼんやりとそれらしき影が見え、徐々に輪郭がはっきりとしてきた。

「そうです!……ただ……」

その後の言葉は続かなかった。
あの冷たい刃と声を思い出して、輝の体はぶるりと震えた。
結局あの男は何者なのか。
しかし、その答えがすぐそこに用意されているということに輝はまだ気付いていない。

そうしているうちに、小屋の前まで着いてしまった。
三人はそこで一度足を止める。


「気味が……悪いわね」


薫の声が上擦る。
入る必要はないはずだった。
時間もない。
それでも、何故か三人はその小屋に足を踏み入れてしまった。



見えない何かに呼ばれるように。






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