陰鬱な森に飲み込まれてしまいそうな、陽光の射さない薄暗い小屋。
そこに、『男』はいた。
背の高いその男は、不自然なほど長い剣を手に携え、薄暗がりに白く浮かび上がる外套を纏い。
まるで、輝達を待っていたかのように佇んでいた。
「……っ?どうして、あなたが……?」
一瞬の静寂の後、誰よりも先に口を開いたのは薫だった。
純粋な戸惑いと疑問。
「てめぇ……四乃森蒼紫!?」
左之助の場合は、呼ぶ、というよりも叫ぶという方が正しかったが。
それでも、薫と同様、恐れや怒りなどではなく、心底驚いたというような反応で。
ただ一人、輝だけは。
『四乃森蒼紫』と呼ばれた男を、前の二人とは全く違う感情を抱いて見ていた。
長い前髪と俯きがちにしているせいで表情はよく読み取れないが、男はとても端正な顔立ちをしていた。
黴と埃の臭いが充満する、この空気の淀んだ空間には似つかわしくない。
容姿だけで判断するならば、どこぞの大店の若旦那といったところか。
ただ、そうは思わせない圧倒的な重圧感と人を寄せ付けない雰囲気が、男にはあった。
華美さはないが、絵草子に描かれていても疑わないだろうその姿に、輝はしばし目を奪われていた。
しかし、それと同時に、自分の手のひらに異常なほどの汗をかいているのにも気づいていた。
あの時は暗くてよくは見えなかったし、真後ろから剣を突きつけられていたのだから。
視覚の情報はないに等しい。
それでも、教えてくれる。
自分の感覚が。
男の気配が。
この男は……
「キサマは抜刀斎の……」
どうやら、三人は顔見知りらしい。
……仲が良いのかそうでないのかは別問題として。
抜刀斎という言葉の意味を、輝は知らなかったが、その事実に驚き困惑する。
なぜなら、輝が本当に驚いたのは、そこではないからだ。
この声。
間違いない。
男は気づいているのだろうか。
自分があの時の……
「根津や穴山のことを嗅ぎまわってたってのはてめぇか……一体なんのつもりでぇ?」
左之助は、とりあえず頭に浮かんだのだろう疑問を口にしたが。
薫に袖を引っ張られ、ようやく本来の目的を思い出す。
「……いや、今はそれどころじゃねぇな。おい、てめえ、解毒薬の作り方知らねえか?」
彼の言葉は人にものを頼むときの態度とは程遠いもので。
いや、もともとそれほど『謙虚さ』のある方でもなかったが。
案の定、蒼紫と呼ばれた男は先程からほんの少しも表情を変えていなかったし。
薫も焦ったように左之助を諌めていた。
ただ、やれやれ、といった雰囲気を出しながらも、この時点まで左之助の蒼紫に対する態度は普通だった。
しかし。
「知っていたとして、何故キサマらに教えねばならぬのだ?」
「あ、あの……左之助の言い方が悪かったのは謝ります。
でも、弥彦が……弥彦が大変なの……お願いします!」
「……それでも、断ると言ったら?」
放たれた、言葉。
救いを求める者を残酷に突き放す。
「…………んだとぉ?」
予想外の蒼紫の言葉に激昂し、そのまま踏み出そうとした左之助だったが。
その前に輝が両手を広げて立ちふさがる。
苛立ち、押し退けようとしたが、輝も頑として譲らない。
「輝、どけっ!こいつにはなぁ……口で言ったってわかんねぇんだよっ!!」
「……どきませんっ!左之さんこそ、退いてください!
ここで争って何になるんですか!?弥彦君は、今も一人で苦しんでいるのにっ!」
一筋の雫が少女の頬を伝い、ぽたりと滴り落ちて。
白い埃にまみれた床に染みをつくる。
その様を見てようやく、左之助もはっとして拳をゆっくりとおろした。
このまま感情のままに行動するのは簡単だ。
しかしそれでは何の解決にもならない。弥彦の命も危ない。
輝は蒼紫に向かって歩み寄り、ちょうど蒼紫と薫たちとの距離の中間で足を止める。
膝をそろえて跪き、指をそろえ、輝は蒼紫に向かって深く頭を下げた。
「お願い……します。どう、しても……必要、なんです」
声が震えて上手く喋れない。
理不尽さへの怒りと、恐怖。
二つの感情が入り混じって、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
それでも、他に手がかりがないのだから。
弥彦の命は今にも尽きてしまいそうなのだから。
言い聞かせて、自分自身を保つ。奮い立たせる。
「お願い、します……」
黴臭さにむせ返りそうだったが、ぐっとこらえ、厚く埃の積もった床に額を擦りつける。
ちゃり、という刀の鍔鳴りの音が、頭の上から聞こえたかと思った、次の瞬間。
輝はあの夜に感じた無機質な冷たさを、再びその首筋に感じていた。
極度の緊張と恐怖で痛みは感じなかったが。
首筋を滴り落ちていくものが、己が汗でないことは、床に落ちる前にわかっていた。
「輝!!」
「輝さんっ!!」
二人は輝の元へ駆け寄ろうとしたが、男のもう一振りの剣がそれを許さない。
「蒼紫っ!てめ、何考えてやがんだっ!?」
「……黙れ……」
冷たい声だった。
あの夜に聞いた声だった。
その声ですら、人を殺めてしまう。
輝はそう思った。
だが、ここで怯むわけにはいかない。
「お願いします……」
「…………」
「お願いします……!」
「…………何故、剣を抜かぬ?」
「……え?」
蒼紫の意図が掴めず、輝は反射的に顔を上げてしまった。
その瞬間、視線がぶつかる。
見上げてみて初めてわかったが、青紫の瞳は不思議と怖くなかった。
冷たい言葉ほどの殺気は感じられなかった。
それよりも何よりも。
どこかで見たことのあるような気がして。
誰かに似ていると思ったが、それが誰なのか輝には思い出せなかった。
剣は未だ突きつけられたままで、血を拭うこともできなかったが。
輝はさきほどまでの恐怖が空気に溶けていくような、そんな気分を味わっていた。
「何故、剣を抜かぬ?」
「……抜く必要がありますか?」
「俺に勝てば教えてやると言ったら?」
「そうすることに意味が見出せませんが?」
随分長いこと、そう、半刻程もそうしていたような気がするが。
実際にはほんの数分しか経っていなかったのだろう。
そうしてようやく沈黙を破った蒼紫が口にしたのはやはり思いがけないことだった。
「…………この沼には、4種類の藻が生えている。
それぞれ、生える場所が決まっていて、沼の中央の島を基点に東西南北。
日の当たり具合が異なるために色が少しずつ違う。持ってくれば調合してやろう」
「……え……?」
薫も左之助も、もちろん輝も。
一瞬耳を疑ったが、蒼紫が同じ台詞を繰り返すはずもない。
そして、何故か輝から剣を離そうとしなかった。
「……行け。時間がないのではないのか?」
「っあ……え、でも……」
「おい、いい加減に輝を……」
近寄ろうとした左之助を、再び小太刀が制する。
「……この女には聞きたいことがある……」
一瞬怯んだが、そう何度も退くわけにもいかなかった。
小太刀の切っ先が、左之助の喉笛に突きつけられる。
触れるかどうかのぎりぎりのところで止められた刃は、気まぐれに力を込めれば左之助の喉をかき切ってしまうだろう。
それでも今度は退かなかった。
「好き勝手抜かすんじゃねぇっ!
はいそうですかと納得するとでも思ってんのか……っ?」
「……左之さん、私は大丈夫です……私も、この人に聞きたいことがあるし……」
「輝……」
「お願い、弥彦君が待ってるんです……一人で、頑張ってるんです……」
「…………」
「お願いしますね?」
返事の代わりに、左之助は小屋を飛び出した。
ちらりと輝を見たが、薫もそれに続いて小屋を出る。
残されたのは、二人。
「何故、剣を抜かなかった?本気ではないとでも思ったのか?」
「……先程も申し上げたはずです。意味がない、と……」
「………………」
「それに……この剣は確かに私のものですが、私は護身術しか心得ておりません……」
「……何?」
今まで表情を変えなかった蒼紫だったが、初めて怪訝そうな表情を輝に向けた。
「俺は、そんな護身術に敗れたと?」
「敗れ……た?」
今度は輝が不思議そうな顔をする。
「私が……?そんなことあるわけが……だって、私は……」
あの時……
……殺される、そう思った瞬間……
……そうだ、誰かの声が聞こえて……
……誰の声……?
そのまま気を失ったのではなかったのか?
あの後、まだ何かがあったのか?
だとしたら、自分は何をしたのか?
……自分は一体、何者なのか……?
「覚えて……いないのか?」
あの夜のことはほとんど思い出せない。
己の内に宿る、得体の知れない力に輝は驚き慄いていた。
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