昭和三十三年、静岡県伊豆半島を直撃した大型の台風(狩野川台風)は、伊豆地方に甚大な被害を与えました。七人家族の内たった一人だけ生き残った少年は、自分を救ってくれた漁師さんから、実は一匹の犬が命の恩人だったことを聞かされます。 |
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絵 ・ 文 ら ん だ な お |
狩野川のシロ ある日、朝の仕事を終えた和男さんが帰り道の公園を歩いていると、茂みの中から「クーン、クーン」とかすかな鳴き声が聞こえました。 見ると、段ボール箱の中に子犬が二匹、体を寄せ合い震えているではありませんか。 でも、住まいの寮では犬は飼えそうにありません。(仕方がない)和男さんは、一度は子犬を箱に戻そうとしました。 いつもなら昼休みにはひと眠りする和男さんも、今日は連れ帰った子犬を見るのが楽しくて眠れません。 「シロ、、、」和男さんはつぶやきました。 シロは昔、突然目の前に現れて、いつの間にか家族の一員となり、やがて消えてしまった犬でした。 二匹の子犬は、その後一匹がもらわれて行き、残された一匹は一層和男さん夫婦になつきました。 和男さんの目にうっすらと涙がにじむのを、奥さんは見逃しませんでした。 和男さんは黙って子犬の頭をなでていましたが、やがてポツリ、ポツリとシロのことをしゃべり始めました。 というのも、和男さんの前から姿を消していたのはシロだけではなく、家族全員だったからです。 * 和男さんの故郷は、今の静岡県伊豆市修善寺。 どこからかフラリとやって来たその犬は、気がつけば新聞を抱えて走る和男さんを、いつも遠くからじっと見つめていたのです。 (この道を下って、あの角を曲がると必ずあの犬が待っている)和男さんがそう思いながら角を曲がると、白い野良犬は本当にそこにいました。 それから毎日、和男さんは野良犬にパンをやり「シロ」と呼んで可愛がりました。 忠実なシロはその後も和男さんと一緒に新聞配達に回り、中学まで付いて行った後はどこかで時間をつぶしながら、和男さんやみんなの帰りを待ちました。 そんな、つつましくも平穏で賑やかな家族七人とシロの暮らし。それが突然終わりを告げようとは誰も思わない事でした。 (昭和三十三年九月二十六日) 「また雨かぁ」和男少年は、このところ降り続く雨にうんざりしていました。おまけに今日は大きな台風がこちらに向かっているというのです。 和男さんの中学校でも、みんな台風の話で持ちきりでした。大きな台風が来ると電車やバスが止まってしまうので、遠くから通っている先生や生徒はとても困ってしまうのです。 今、校舎の窓を打ちつける激しい雨とうなりを上げる風の勢いは、まさにそんな台風を予感させていました。 午前中の授業が終わる頃、「先生方は、お集まりください」と校内放送がかかりました。あわただしく教室を出て行く先生の後ろ姿に、生徒たちから「オー!」と歓声が上がりました。 みんな、学校が早く終わるのを期待してニコニコしています。実は和男さんも無邪気に喜ぶ、そんな生徒の一人だったのです。 その晩、和男さん一家は早めの夕飯を済ませて、いつもより早く床につきました。 シロは普段はまったく吠えないおとなしい犬だったので、和男さんは(何か変だ)と飛び起きました。 見ると、玄関の板戸が異様な音をたててきしみ、隙間から水が土間に噴き出していました。お母さんは、あわてて下のきょうだいたちをゆすり起こしています。 (大変だ!)と思った瞬間、玄関の板戸が壊れて真っ黒い水がドッ!と家の中になだれ込みました。 水の高さはたちまち和男さんの胸まで迫り、家族は夢中で押入れの中に逃げ込みました。 和男さんの家は一瞬で濁流にのみ込まれてしまったのです。 分かるのは、真っ暗な水の中で自分が「グルグル」と回っていることだけ。そして、もがきにもがいている内に、運よく「パカッ」と水面に浮かび上がったのです。 和男さんは、ちょうど腕に当たった柱のような物にしがみつきました。しかし、川の流れは今や大きなうねりとなって襲いかかります。 それでも、混乱する頭の中に浮かんだのは、家族や異変を知らせてくれたシロのことでした。 津波の様に襲いかかる濁流は、木材や、建物や、家畜や、人や、すべての物をのみ込んだまま、ものすごい勢いで川を下り、やがて、目の前に大きな橋がせまって来ました。 その橋にたくさんの漂流物がぶつかり、あたりに飛び散っているのが見えました。 ふと気づくと、いつの間にか雨はやみ、空にはこうこうと輝く月がぽっかりと浮かんでいました。 しかし、「アー」「助けてー」と叫ぶ人々の声に我にかえれば、やはり、それはまぎれもない現実でした。 和男さんは(自分はこのまま死んでしまうのだ)と思いました。 それから、どれくらい時間がたったのでしょう。和男さんは、ほほをなでる温かい感触に目を覚ましました。すると、かたわらにシロが泳いでいるではありませんか。 (シロ、無事だったのか!)和男さんは、シロに聞きたいことがいっぱいありました。(妹や弟たちは無事なのか。お父さんとお母さんはどこにいるのか) でも、くちびるはただ歯がガチガチと鳴るだけで言葉になりません。シロをなでてやりたくても体は動きません。それでも、シロがそこにいるだけで和男さんは安心でした。 もうろうとする意識の中で見たシロは、和男さんに寄り添って懸命に濁流の中を泳いでいました。そんなシロに身をまかせて、和男さんは再び意識を失いました。 次に気づいた時、ぼんやりと見える景色の中に女の人の顔が現れました。 その後、和男さんは沼津近辺の遠い親戚に引き取られました。しかし、顔も知らない人々の暮らすその場所は、和男さんには他人の家のように感じられました。 (早くみんなを探して、元どおりの生活に戻りたい)和男さんはその一心で沼津の病院などを歩き回りましたが家族は見つかりませんでした。 そんな和男さんの元に悲しい知らせが届いたのは、それから数日後のことでした。それは、母親と妹と一番上の弟の遺体が見つかったという知らせでした。 和男さんは悲しくなると海を見つめに行きました。そして、岩壁に立ちながら(このまま死んでしまいたい)と何度も思いました。 ある時、そんな和男さんに優しく声をかける人が現れました。それは、命を救ってくれた漁師さんでした。 漁師さんは「あの時、あの犬がうなり声をあげなかったら。あの時、君が手を上げなかったら、私は君を見つけることはなかっただろう」と言うのでした。 和男さんは「ハッ」としました。あの時、あの濁流の中で見たシロの姿。それが現実だったとは、今の今まで考えもしなかったのです。 「そういえば、あの犬は、あの後どうなったのだろう」と漁師さんはつぶやきました。そして、あの日の出来事を詳しく語り始めたのです。 漁師さんはその日、港にとめていた自分の船が心配になり、真夜中の海岸にたたずんでいました。 そんな、今にも壊れそうにきしむ船を見つめていた時、漁師さんは流木のあたりから、かすかなうめき声を聞いたのです。 じっと目を凝らすと、何か犬の頭のようなものが一つポカリと浮かび、岸に向かって泳いでいるのが見えました。 (この流木の中を、ここまでたどり着けるかどうか)そう思いながら見ていると、突然、人の手が「にゅっ!」と挙がったのです。 「あっ、人だ!」漁師さんは、あわてて流木に飛び移りました。しかし、その人は岸からまだ遠く離れてどうにも手が届きません。 とうとう漁師さんは長いロープを自分の体に巻きつけると、浮き沈みするその人影に向けて泳ぎ始めました。 いいえ、それは泳ぐというよりも流木をかき分け、あらがいながらの苦闘でした。 そして、ついに漁師さんがその人にたどり着いた時には犬の姿はどこにもなく、グッタリとしたイガグリ頭の少年が浮いていました。 それが、漁師さんの語る「あの晩」の一部始終でした。 「そうか。君はあの時、全く意識がなかったからなあ。しかし、だからこそ私は今でも不思議に思うのだよ。あの時、私に手を振ったのは誰だったのかってね」 それから漁師さんは、和男さんが当時犬を飼っていた事を知ると合点がいったように何度もうなずいて、こうも言うのでした。 「あの時は君を助けるのに夢中で犬のことはすっかり忘れていたのだが、今にして思えば本当に君を救ったのは、あの犬だったのかもしれない」と。 その言葉に和男さんの両目から、せきを切ったように涙があふれ出しました。 そこで、たまたま漁師さんに出会うとうなり声を上げて助けを求め、和男さんの腕をくわえて水面に突き上げたのではないか。 そして、ついに和男さんが助けられるのを見届けると、自分は力尽きて本流にのみ込まれて行ったのではないか。 (僕は生きて行くよ。シロ!)和男さんは、ほほに伝う涙をそっとぬぐいました。 それから三年後、故郷を遠く離れた都会へと向かう列車の中に、和男さんの姿がありました。 そして、ある料亭に住み込みで入ると長く厳しい修業を重ねて、板前としての技術を身につけていったのです。 * 奥さんは静かに和男さんの話を聞き終えました。 重苦しい沈黙が二人の間に漂いかけた時、玄関の狭い土間にうずくまっていた子犬が、ふいに「クォン、クォン」と鼻を鳴らしました。 二人はすぐさま子犬に目をやり、それから互いに見つめ合うと、どちらからともなくほほ笑みました。 奥さんは台所で熱いお茶をいれながら、あらためて和男さんも子犬も、どちらも愛おしく思うのでした。 翌日二人は子犬を連れて、奥さんが借りている寮の近くの畑に行きました。そこには青々とした野菜や草花が茂り、そばに今は人の住んでいない古民家がありました。 和男さんは嬉しそうに駆け回る子犬を見つめながら、いつか自分も家を持ち犬を飼いたいと夢見ていたこと思い出しました。 今振り返ってしげしげと古民家を眺めると、その家は十三才まで家族と暮らしていた家にどこか似ていました。 「この家に引っ越そうか」その日の和男さんの一言から、やがて家の修繕が始まり野草が生い茂っていた庭も二人でせっせときれいにしました。 子犬の名前も「ハク」に決まり、庭の片隅にはハクの小屋もできて、近所の子供たちも集まるようになりました。 ハクが来てから身の回りの事が少しずつ変わり始めた、ある晩のこと。 そんな二人に、ある日思いがけないことが起きました。 しかも、その宿泊先は和男さんの故郷である修善寺温泉でした。 和男さんは、そんな子供たちの心遣いに感謝しつつも、一方では故郷に足を踏み入れることへのためらいも感じました。 和男さんの心の中には、いまだに自分が一人だけ生き残ったことや、親戚の家を飛び出してしまったことへのわだかまりがあったからです。 しかし、久しぶりの旅行を心待ちにする奥さんに、和男さんは自分のそんな気持ちは言えませんでした。 およそ五十年ぶりに見る故郷の景色は、あの時の惨状が想像できないほどに復興し、和男さんは自分の中の故郷が十三才の時のまま停止していたことに気づかされたのでした。 あくる日、二人は何かに導かれるように狩野川のほとりに向かいました。和男さんは花屋さんで買い求めた花の束をそっと水面におきました。 そして、今は亡き家族やシロ、さらには沼津の漁師さんや親戚の人々の顔を思い浮かべながら静かに手を合わせるのでした。 旅行から戻った二人を「お化け屋敷」のハクが大喜びで迎えました。 奥さんは、きれいになった台所で鼻歌を歌い始めました。 ハクがあわてて和男さんを追いかけ、すぐに追い抜いて行きました。でも、ハクは必ずどこかで和男さんを待っていました。 何もかもが、あの少年時代の景色と重なって見えました。けれども、和男さんの胸はもう痛みませんでした。 「ハク、いつまでも一緒に暮らそうな」そっと抱き寄せる和男さんの手をすり抜けて、ハクが猛然と家の方角に走り出しました。 その行く手の先には、笑いながら土手を駆けて来る奥さんの姿が見えました。 |
(あとがき) 平成20年(2008年)は狩野川台風後50年ということで、地元では様々な催しが ありました。その一つに「狩野川台風を語る会」(当時)の代表、片山訓三さんが開い た小さな集会がありました。 集会の主役は七人家族の内ただ一人生き残った当時中学生のHさんです。 Hさんを助けたのは沼津の漁師さんで、当時の静岡新聞にはその様子が美談として掲 載されました。 片山さんが提供してくれた、その記事の一部を抜粋します。 「・・・その時流木のあたりからかすかなうめき声が聞こえた。見つめると顔のようなも のが一つぽかりと浮いた。最初は黒犬かと思ったが、片手がニュット水面に飛び出し たのでビックリ、人と気づいた」 片山さんはその記事を読み、漁師さんがHさんを救うきっかけとなった犬の頭に着目し て、これはHさんの飼い犬で命の恩人ではないのか!と力説されておられました。 実際にはHさんに救出された記憶はなく、漁師さんも故人となっており、その真偽のほ どは定かではありません。 しかし、救出された際のHさんの体温は僅かに二度。完全に意識を失っていた彼が、 どうやって漁師さんに手を上げることができたのか。それは、永遠のミステリーなのです。 漁師さんがHさんを見つけるきっかけとなった犬の頭?それが本当にHさんの飼い犬 だったとしたら。きっと誰もが救われる気持ちになるのではないでしょうか。 それはともかく、当日の集会で皆さんから直に聞く狩野川台風の体験談はとても衝撃 的でした。集会の最後に一人の女性から質問がありました。 「今は何かあれば心のケアがなされますが、当時はどうだったのですか」 Hさんは考え込んでおられました。誰かが 「当時はそんな余裕のない時代で、子供といえども自分で何とかするしかなかった」と発 言されました。 親戚や周りの人々に支えられながらも、Hさんの背負った運命は過酷そのものです。 きっと様々な記憶が去来して言葉にならなかったのだろう、と私は想像しました。 同時に(人は、どんなに辛い目にあっても生きてゆかなければならないし、また生きて ゆけるものなのだ)と教わった気がしました。 おりしも地元の新聞には、当時被災された方々の生々しい体験談が連載されていまし た。 それらの記事を読み、集会での皆さんのお話を思い返す内に、この物語が出来上がり ました。 その過程で、伊豆日日新聞に寄稿された方々の体験談を、ひとりHさんに背負わせる 形で所々引用させていただきました。 これは架空の物語ではありますが、狩野川台風を知る一つのきっかけになれるのなら 幸いです。 平成22年(2010年)1月HPに公開 2023年7月1日冊子制作 らんだなお |
この物語はフィクションです
カラー冊子「狩野川のシロ/道草まんが」2023.7.1制作
未公開の挿し絵4枚を加えました
2023.10.16更新
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