家庭にあるパーソナルコンピュータ、企業や大学などに分散するコンピュータが加速度を増しながら、結ばれつつある。また、携帯電話やポケベルといった移動通信メディアの利用者も同様に急増中である。こうしたコミュニケーションの網の目は、国内はもとより海外まで広くのびている。代表的なコンピュータネットワークであるインターネットを介せば、いまでも170か国の人々と直接コミュニケーションが図れるし(名刺などに電話番号とともに書かれるようになった@付きの記号は、ネットワーク上の名前を意味する)。海外にいる人でも携帯電話やポケベルで直接呼び出せるような計画が進行中である。パソコンや電話は、世界規模のコミュニケーションネットワークを利用するための基本手段となっている。
最近、ネットワークの威力を認識させる社会的なできごとが二つあった。阪神大震災とオウム事件である。阪神大震災では通信回線が絶たれ、情報社会のもろさを露呈したものの、被害を免れた周辺地域のコンピュータ、あるいは現地からの携帯電話、さらにマスメディアをも発信基地として、被害状況や被災者名簿、さらにはボランティア活動のようすまでが時々刻々、国内外に伝えられていった。コンピュータネットワークを介して、さまざまな人が試みたこのような情報活動が適切な対応に結びついたのは言うまでもない。
他方、一連の捜査でも明らかになったように、オウム真理教は生物兵器や化学兵器に関する情報をインターネット上のデータベースで集めていた。また効果のほどは不明であるが、布教活動の一環としてパソコン通信が利用されていた。大震災とオウムとで一見対照的な使われ方をしているように見えるが、どちらもコンピュータネットワークの顔であることにちがいはない。
コンピュータネットワークを流れる情報は実に多様である。物理的には、デジタル信号に変換できるもの、つまりコンピュータで扱える形態であれば何でもかまわないので、音や映像も簡単にやりとりできる。加えてデジタル情報には、何回コピーしても質が劣化しない、コピーが容易であるといった特性もある。したがって、コンピュータネットワーク上では、テレビや新聞のようなマスコミはもとより、ミニコミや同人誌のようなグループコミュニケーション、電話や手紙、テレビ会議のような個人間のコミュニケーションに利用することができる。しかも単なる再現にとどまらない。
ふつうにマスメディア的なことを始めようと思ったら、多額の資金と大規模な設備を用意し、煩雑な手続きを踏まなければならない。実際のスタートにこぎつけるまでにかなりの期間がかかる。ところがネットワーク上であれば、同じようなことが、あるいはそれ以上のことが個人レベルで簡単に始められる。それこそ思い立ったその日にスタートできる。読んでもらたいもの、見てもらいたいものを自分で編集したら、それを電子メールで何人もの人に一斉に送ればいいし、掲示板に登録してもよい。あるいは自分のコンピュータ上で公開するだけで即、世界中の人からアクセス可能な状態になる。とりわけ今人気を博しているのが、ワールドワイドウェッブ(世界中に張り巡らされた蜘蛛の巣という意味)というしくみである。
言い換えると、パーソナルコミュニケーションがマスコミ的な世界を侵食する状況が生まれている。境目が曖昧なコミュニケーション状況という意味では、国境などさまざまな境界も無意味化している。それらの現象は、しばしばボーダーレス(越境)と呼ばれる。 コンピュータネットワークで交わすコミュニケーションは、これまで制約でしかなかった制度や規範をいとも簡単に越えていく。いま問題になっている事例としては、ヌードなどのポルノ情報がある。ヘアが見える見えないといったレベルの問題もさることながら、それ以前に水着程度の露出度で問題になっているのである。言わずと知れた中近東の国の話である。これまで税関でストップされてきた情報が、デジタル信号の形でいくらでも入手可能な事態になっている。また言論統制を行っていてもネットワークを使えばいかなるメッセージも流せるため、自国内を流れる情報とりわけ政府批判が含まれていないかどうか監視している国もある(もし徹底するならば、ネットワークとの接続を絶つ情報鎖国しかないが、無線でも使えるため実際には不可能だ)。
このような問題は政治社会レベルにとどまらない。ネットワークでのコミュニケーションは組織や個人レベルの垣根をも低くしつつある。たとえば、筆者のところに読者や他大学の学生から電子メールが届くことがある。本の内容に関する質問であったり卒論など研究上のアドバイスを求めてというものである。電子メールがない時代でもありえたことではあるが、ネットワークによって著者と読者との境界、大学を異にする教員と学生との境界が低くなっている例と言えよう。
このほかにも、管理職と平社員など社会的地位による格差の縮小、さらには性別や年齢にとらわれない平等なコミュニケーションが芽生えつつある。もし発言の内容ではなく、発言主が誰であるかによって決まっていたような会議があるとすれば、ネットワークを介したコミュニケーションは本来の会議を取り戻す絶好の機会と言えよう。それがひいては現実の会議を変えるきっかけともなる。
他方、多くのネットワークでは誰もが自由に書けるため、中傷や事実無根のうわさに類する情報、プライバシーにかかわる情報など書こうと思えば書けなくはない。個人的な名誉棄損に至った事例もあれば、一企業の死活問題にまで至った事例もある。ただ実際にそうする人がネットワーク外の世界とくらべて多いのかどうかは議論の余地があろう。
これまで「可能性」とか「かもしれない」という煮えきらない表現ばかり用いてきたが、コンピュータもネットワークもともにぬえであり、そこでどんなコミュニケーションが行われるかは、運用者そして参加者の考え方にかかっている。
企業の例で考えてみよう。かりに上司は部下にメッセージを流せるものの、その反対はできないような設計にすれば、ネットワークは上意下達の手段にすぎず、平等なコミュニケーションの実現にはほどとおい。また社員同士の電子メールがすべて監視されていたり、電子掲示板での発言が人事考課の対象になったりすれば(あるいは実際にそうでないとしてもそう思われただけで)、ネットワーク上のコミュニケーションから自由闊達な雰囲気は消えてしまうだろうし、企業のありようにもマイナスに作用しよう。
現在、ネットワークは基本的に「なんでもあり」の世界となっている。それはボーダーレスコミュニケーションであったり、コミュニケーションひいては社会的な実験であったりするからである。したがって、ネットワークの利用者が増し、ネットワークが拡大するにつれ、疑似社会の様相を強めている。コンピュータのネットワークにもかかわらず、ヴァーチャルコミュニティ(仮想ではあるが実質的な共同体)とか、サイバーコミュニティ(電脳共同体)と呼ばれるゆえんである。
あらかじめルールが決められていて、それにもとづいて動いているわけではなく、最初にネットワークありきで誰もが試行錯誤あるいは模索しながらコミュニケーションを図っている。ネットワークも利用者もまさにオン・ザ・ジョブ・トレーニングのまっただ中にある。
たとえば、ネットワーク上ではさまざまな情報が流れているが、それらの大半は無料で利用でき、有料情報は例外的な存在である。かなりの情報はボランティアベースの活動によって支えられている。情報が単なる知識の伝達ではなく、その情報を流すこと自体が自己表現であったり、他者の意見を取り入れながら共同で情報を完成させる試みであったり、そもそも「お互いさま」ないし「持ちつ持たれつ」という互恵性の精神、ネットワークを作るのは自分たちだという気概を反映している。だから何かおもしろい情報があるにちがいない、手伝えることはないか、いっしょにやれることはないか、といった動機で参加する人を増やす結果になる。
ネットワーク上での行動原理は、これまでの社会で支配的だった行動原理を変える可能性を秘めている。肩書きなど社会的属性に縛られない個人本位、情報本位のコミュニケーションの魅力は大きいからである。他方、これまでの社会との間で温度差が広がるあまり、このような特徴が引き金になって社会的摩擦やトラブルも同時に生じている。ボーダーレスコミュニケーションの実現は、さまざまな制約を取り払った自由なコミュニケーションという意味で評価すべきものであるが、半面これまでの社会ルールや慣習と対立したり、それらを無効にすることでもあった。
たとえば商業新聞であれば、一定の編集作業が加えられ、読者もそれを前提に読み、一定の信頼をおく。記事のあやまりは発行元の責任として問われる。しかしネットワークで流される情報は、オーソライズされたものとは限らず、真偽の判断やその情報によって生じた損害責任は、受け手たる本人に帰せられる。
数年前からパソコン通信を使った詐欺がマスコミを騒がせるようになった。警察庁による1990年の「生活経済犯罪」のまとめにも初登場している。ネットワーク上では実際、その気になれば悪徳商法の場にもしうる。お金だけ先に振り込ませて品物は後で送る、といった売買がその典型例である。
ネガティブな例としては、このほかボーダーレスコミュニケーション(の魅力)にはまってしまう「ネットワーク中毒」の報告も少しずつ増えているように見受ける。単純に考えてもコンピュータに向かう時間が増えれば増えるほど、ほかの生活時間にしわ寄せがいき、それが睡眠時間であれば当然睡眠不足となる。また、それがつきあいの時間であれば、従来の人間関係に影響が出てもおかしくない。実際にはいろいろな理由がはたらいているにちがいないし、管理社会の進行、自己実現の困難化といった社会要因も一因なのではないだろうか。原理的には、ネットワークよりも居心地がよくおもしろい世界があれば、そうはならないはずだからである。
ネットワーク社会とは本格的な国際社会の到来でもある。原理的にはどんな情報もどんなコミュニケーションも、国語のちがいはあるものの、世界規模でしかも個人レベルで自由に交わすことができる。したがって一国でしか通用しないような閉鎖的なルールは、実質的に空洞化せざるをえない。もし自国のルールを機能させたいのであれば、その必要性や合理性を世界に向かって主張し、オープンな議論を尽くした上で各国に受け入れてもらう努力が求められる。結果として、そうした根拠を持たない不公正なルール、たとえば基本的人権を制限するような法律は淘汰されることになるだろう。
テレビや電話が手放せないように、わたしたちはもはやネットワークを手放すことができない事態まできている。社会そのものがネットワークを前提に動いており、個人の日常生活でも、その恩恵を受けているからである。だとするならば、われわれにとってどんな社会が理想なのか、その理念を前面に押し出しながら、ネットワーク社会のルール作りを進めなければならない。技術的な対策には頼れないのである。具体的には、自由なコミュニケーションを取るのか、それとも規律や秩序を尊重するのかといった選択、それと関連して著作権の抜本的な見直しなどが当面の検討課題だろう。