コンピュータコミュニケーションは、新たな選択肢という顔に加え、それ以上の顔も見せる。コンピュータのネットワークは、パーソナルメディアとマスメディアという従来のコミュニケーション形態を再現するだけでなく、両者の中間的なコミュニケーション形態を活性化させた。個人紙や同人誌、コミュニティペーパーなど、ともすれば軽視されがちだった分野に、より多くの人が気軽に参加できるようになったと言えばわかっていただけるだろうか。つまり、もう一つのコミュニケーション世界が生まれたと言えるほどのインパクトを持っている。
コンピュータネットワークに限らず、なんらかのメディアを介したコミュニケーション(メディアコミュニケーション)のありようは、ハードやソフトといったメディアがもつインターフェイスに規定される。以下では、そのあたりの事情を中心に、コンピュータコミュニケーションの現状(筆者注:1994年当時)と課題を考えてみよう。
ふだんは穏やかでやさしいのに、ハンドルを手にした途端、まるで人が変わったようにふるまう。前を横切る歩行者に対して「さっさと渡れよ」と口走ったかと思えば、今度は無理な追い越しを繰り返す。吸いがらや空き缶を車外に放り投げる。歩行者がふりかえるほどの大音量で音楽を流す。こうした光景はめずらしくないはずである。
パソコン通信の電子会議室で、「ハンドルを握ると、なぜ人格が変わるのか」が話題になったことがある。図1は、そのときのようすを整理したものだ。
確かにクルマとパソコン通信との間には、共通点がある。リアルライフにあって、人は自動車に乗ったままあちらこちらへ移動できる。車内にいる限り、身の安全は確保される。雨が降っても、濡れることはないし、はたまた、携帯電話を片手に運転しようが、それを咎める声も届かない。ガラス越しでは自分の顔もよく見えないはずとばかりに、アクセルを踏み込む。自動車ナンバーなど覚えられる訳ないから、大丈夫……。
かたやパソコン通信。ドライバーにとってのクルマは、ネットワーカーにとってのIDに相当する。アルファベットや数字から構成されるコードネームだ。IDさえ持っていれば、誰でもサイバー空間を自在に泳ぎ回れる(ネットワーク上でのブラウジングは、しばしばサーフィン、波乗りにたとえられる)。画面は空間をのぞく窓と化し、キーボードはあたかも操縦桿のごとく機能する。
パソコン通信では、ことばだけの行動になるが、たとえば、罵詈雑言のかぎりを尽くしても、そのまま逃げ去ることはできる。抗議を無視し続けても、名前も住所も知られていないから押しかけられることもまずない。たとえ追及されたとしても、IDを無断借用されたと居直れなくもない。
クルマとIDは、いわばカプセルのようなものだ。身を守ってくれるからである。しかし、だからといって機能さえ満たされれば、なんでもいいという訳ではない。一ドライバー、一ネットワーカーという匿名のままではなく、中にいる人の「個性」が多少なりとも反映されなければならない。
クルマの購入時、顧客は価格のみならず、あるいはそれ以上に色やスタイルを重視する。「いかにも自分らしい」クルマ、「ひとあじ違う自分に合った」クルマを求めてである。あれこれと悩むのは外見にとどまらない。関心は装備や内装にまで及び、個室としての快適さが同時に追求される。もはやクルマは移動するための手段ではなく、ドライバーの個性や社会的属性を表現する手段と化す。
パソコン通信はどうだろうか。システムの都合で決められる記号の羅列だけでは、個性を表現しようがない。IDという無味乾燥なカプセルを個性色で染め直す手段が、ハンドル(ニックネーム)である。システムに影響を与えないので、どんなハンドルにするか、ネットワーカーは自由に選べる。
ハンドルは、いかにもニックネーム然としたものから、実名と区別がつかないものまで千差万別である。近ごろ調査した結果でも、さまざまなタイプが見出されている(川浦,1994b)。そのようすをつぎに紹介しよう。回答者は、商用ネットワーク(ニフティサーブ)の利用者589名である。
本当に匿名状態を維持したい人は調査に応じないだろうから、その分を差し引くにしても、ハンドルは、顔を隠し自分を偽ったり、変身するためのレッテルではなく、むしろ自己の一側面を拡大あるいは強調したラベルとの印象を覚える。単純に名前をもじっただけのものでも、それが記号として持つイメージや響きに注意が払われる。
いわば自分に合ったクルマを探すのと同様の心理が、ハンドル選択にもはたらく。さらに、田中や鈴木のように同姓者が数多く存在する名前の持ち主は、実名のまま発言してもなかなか区別してもらえない。そこで、ユニークな個人として覚えてもらいたいとき、ハンドルが用いられる(図2のように、署名に凝る人は少なくない)。
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Russell A. Holmes __|〜_)_ __)_|〜_ Learning and Teaching
Department of Psychology )_ __)_|_)__ __) Development Office
St. Thomas University | )____) | EMAIL:holmes@StThomasU.ca
Fredericton, New Brunswick___|____|____|____/ FAX: (xxx) xxx-xxxx
E3B 5G3 CANADA \ / PHONE: (xxx) xxx-xxxx
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(1)帆船好きな人の場合
Paul McInerney o o O O O O O O O
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PAULX@PURCCVM Y__'_!_!_!_! --++++++--
PAULX@VM.CC.PURDUE.EDU !__!_! P ! ! PURDUE !
(xxx) xxx-xxxx {!____!_____!:!________!
(xxx) xxx-xxxx FAX / OO-----OO OO OO
(2)蒸気機関車マニアの場合
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愛は寛容にして慈悲あり、愛はねたまず、愛は誇らず、
高ぶらず、非礼を行なわず、おのれの利を求めず、憤らず、
人の悪を思わず、不義を喜ばすして、まことの喜ぶところを喜び、
おおよそ事忍び、おおよそ事望み、おおよそ事耐うるなり、
愛はいつまでも絶うることなし。
(コリント前書13章)
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横浜市立大学大学院 総合理学研究科 修士課程
システム要素科学専攻 物質物性部門(△△研究室)
○○○○(xxxxxxxx@yokohama-cu.ac.jp) ^!^
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(3)クリスチャンの場合
クルマの日常利用と、パソコン通信や電話などメディアコミュニケーションの普及との間には共通項が存在すると言ったら、強引すぎるだろうか。心理的な側面に注目すると、どちらも匿名性を基盤に高度の自己防衛を可能にする。半面、匿名状態にありながら自己呈示のさまざまなしかけ(電話であれば、声色など)が備わっていて、個体識別も容易である。
ここ十年ぐらいの間に行われた各種の世論調査をながめていると、若年層を中心に、深い人間関係や、そこから派生する深刻なトラブルを避けようとする傾向が強いことに気づく。人間関係の成立と解消、さらには関係の質までもコントロールしやすいメディアコミュニケーションは、そうした人が少なくない現代社会と密接不可分の関係にあると言えよう。
精神科医を前に、16歳の女子高校生はこう語る。
「会って話すのは、そりゃそれで楽しいんだけどォ、電話なら別の話し方ができるからァどっちも必要なのデス。電話の時は、絶対表情読まれることないから、マア、お互い言葉だけ気をつけてれば、傷つけることも傷つけられることもない。先生! 電話で話すのって、それなりにコツがあるんですよ。電話の下手な子っているのネ。そういう子とは絶対電話で話さない。こっちが落ちこんでる時とか、口先だけでも上手になぐさめてくれないと電話代もったいない」(大平, 1990)。
メディアコミュニケーションの世界における相互作用が大きな意味を持てば持つほど、もう一つの現実であるリアルライフにおけるそれとのギャップが大きくなる。後者にあっては、きっかけを問わず全人格的なかかわりあいに発展することが多いし、また、16歳の女子高校生が語ったような別種のコストが要求されるからでもある。
半面、パーティラインで知り合った相手に会うため家出する少年、パソコン通信の仲間が開くオフラインミーティング(アイボールミーティングとも呼ばれる)に参加する老若男女の存在は、何を物語っているのだろう。
さしずめ改札口近くの伝言板に相当する「電子掲示板」、多人数による公開交換日記と呼ぶにふさわしい「電子会議」や「ニュースグループ」「メーリングリスト」、相手の画面をあたかも自分のプリンタごとく用いる「電子メール」あたりが、代表的なコミュニケーション形態だろう(キーボード会話であるチャットを加える人がいるかもしれない)。
これらのメッセージは、基本的に手紙に近い。いわば、その送信先のヴァリエーションがコミュニケーション形態の相違でもある。誰もが自由に読める公共空間への投函が、電子掲示板やニュースグループであり、多少は読み手が限定されているコミュニケーション空間が電子会議やメーリングリストである。それらに対し、電子メールでは相手を直接特定しうる。
いずれのメッセージも投函と同時に登録され、配布される。「国境を越えるテレビ」は衛星と送信設備を必要とするが、コンピュータネットワークは個人レベルでいとも容易に国境や文化を越える(文化摩擦の可能性)。それゆえ、書き手は送信先の性格を見極めたうえで、内容や表現などを使い分けなければならない。一般の投書であれば、寄せられたメッセージに対して、その場に「ふさわしい」かどうか、掲載に値するか否かといった、さまざまな判断過程が介入する。つまりエディターシップである。その結果、拒否されることもあれば、なんらかの編集が加えられたりする。裏を取る作業が進められることもあろう。書く側も読む側も、こうした一連の過程が存在することを前提に接近する。つまり多数の読む側からすれば、ある種の思考が省略でき、それだけ心理的な負担も軽くなる。たとえば自主規制や編集行為によって、ジャンク(屑)メッセージが姿を消すからである。しかし半面、このことは一定のフィルターを通過したメッセージしか読めないことを意味する。そこでは一種の取り引きがはたらいている。
それに対し、コンピュータコミュニケーションでは、公表場所をはじめ、メッセージにかかわるすべての条件を書き手自身がコントロールしうる。ネットワークによっては、「モデレータ」あるいは「システムオペレータ(シスオペ)」と呼ばれる進行役ないし調整役が介在して、メッセージがチェックされることもある。もちろん、これはネットワークそのものから派生する特徴ではなく、ひとえに運営者側の姿勢にかかっている。コメント対象となっているメッセージの引用が多すぎると、その一部をカットされたり、別の場所がふさわしいような場合には、そちらに移動されたり、あるいは重複掲載されたり、といったパターンによく遭遇する。いずれにしても、そうした「編集」の事実は題名や本文中に明記されるのがふつうである。
コンピュータコミュニケーションの世界において、書かれた生メッセージは、基本的に読み手が自らの責任で処理するしかない。書く場合にしても、自らの責任で発信するしかない。ネットワークを流れるメッセージは何の役にも立たない屑ばかりだ、と言い切る人さえ出るほどに、一見したところ玉石混交ではある(個人的には、不平不満をこぼす前に、自ら「役に立つ」情報を書けばいいのに、と思う)。こうした心理的負荷の高さは、ネットワークウォッチング、あるいはなんらかのインデックス情報のようなメタ情報が求められるゆえんでもある。
そもそも屑という判断自体、ある個人のある時点での制約を受けているのだから、人によっては正反対に評価する場合もあろうし、同一個人であっても、時点(関心)が変われば、意味のある情報となる場合もありうる。インターネット経由で、ケンブリッジ大学のロビーに置かれているコーヒーメーカーのようすを1分間隔で観察できる。取りに行く前にコーヒーの残量を確かめるのが目的であるが、その画面を見て、「くだらない」「ネットワークがもったいない」「回線を混雑させるだけだ」と一喝する人がいるかと思えば、日本にいながらイギリスにある大学の日常風景が垣間見られるなんて、とポジティブ(?)に評価する人もいる。
「インタビュー記事の元原稿を公開してくれないだろうか」。パソコン通信を利用している読者から、こんな要望が寄せられると言う。最近まで雑誌の編集をしていた友人の話だ。オフレコの箇所は仕方ないにしても、紙面の制約など、もっぱら物理的な理由で削除された部分をなんとか読めるようにしてほしいという希望である。できるかぎり忠実に再現したインタビュー記事が読みたい。ネットワーク上であれば、そう手間もかからないだろうからとの理由も添えられて。
インタビューにかぎらず、原稿は最初からワープロで打たれているはずだから、そのかぎりでは、コンピュータに載せやすい。具体的な検討に入る前に友人は退職してしまったので、その後の経過は知る由もないが、デジタルテキストに親しんでいる身からすれば、投書主の発想はしごく当然に思える。
雑誌にせよ新聞記事にせよ、はたまた手紙にせよ、それがワープロのようなデジタルテキストの形をとる限り、いったん書かれたメッセージは、その器にとどまっていられない。単なる錯覚かもしれないが、データベースで検索した記事、電子会議に書かれた発言、友人にあてた手紙などを同一画面上で読んだり、カット・アンド・ペーストなど編集作業を繰り返していると、メッセージの出自に対する意識が後退し、どれも同じ平面で、あたかも自分で入力した文章であるかのように見えてくる。さらに、その先には、マスメディアとの距離の無化も位置づけられよう。雑誌編集部へのリクエスト自体もそうした感がなくはないが、要望の内容については確かに同じような感じを覚える。つまりデジタル化された情報には、なにがしら誰もがアクセスでき、換言すれば、自分のための情報が世界のあちこちに分散しているような感覚、雰囲気を感じさせるところがある。
電子会議などの場で発言する際、本文に加え題名を付けなければならない。これは電子メールについても同様で、基本的にネットワーク上で流れるメッセージには、なんらかの題名が付く。題名の付け方は、むろん書き手本人にまかされている。さらに、発信日時(タイムスタンプ)が自動的に添えられる。こうした様式は、これまでのコミュニケーション習慣にはなかった。ビジネス以外の場面で、メッセージに題名を付けることはまずありえなかったし、ましてや書いた時刻の刻印など例外中の例外であろう。ただしタイムスタンプについて、意味を見いだす人もいる。こんな時間に書いてくれたのかという、電話場面で感じられるような時間を共有する感覚である。
送信先の社会的性格に関係なく、一定の様式で書くよう求められる電子メッセージ。このことだけでも、メッセージの平準化が促進すると考えられる。
コンピュータ画面に向かって回答を入力する、コンピュータインタビュー(Computer-Assisted Personal Interviewing: CAPI)が一定の成功を収めているように、他の条件が同じならばコンピュータ画面を介したインタラクションでは「本音」が出やすい。その解釈として、コンピュータの向こう側すなわち相手に対する意識が希薄になり、社会的抑制の後退が考えられる。つまり、メッセージの平準化とは単なる横並びではなく、私的な性格が強い水準でのそれになろう。こうした傾向は、前述したように書く際の「錯覚」にも通ずるものがある。
ディスプレイや紙の上に表示される画一的なフォントやレイアウトも、「錯覚」を促進する。本に相当する内容も新聞記事も、同じ画面に同じ文字であらわれる。そこには、これまでの本のイメージ、新聞のイメージをほうふつとさせるものはなんら存在しない。40字×20行の升目を埋めているのは、自分自身が書いた文章かもしれないし、送られてきた電子メールかもしれない。あるいはニュース記事かもしれない。言い換えると、水準の異なるさまざまな情報が、「錯覚」の水準で平準化することになる。
コンピュータネットワークを流れる各種のメッセージやニュースは、いまや数え切れないほど、カウントする気力さえ萎えるほど膨大な数に達している。これらの情報は基本的に、利用者のリクエストを受けてはじめて届けられる。テレビや新聞といった従来のマスメディアの場合、スイッチさえ入れれば「情報」は飛び込んできたし、一覧性が高いので、こちらの意思はあいまいでも一定の「情報」を入手できた。
しかし、コンピュータコミュニケーションにあっては、情報の標準的な詰め合わせも存在しないし、「主体的な」選択を行わないかぎり、情報は得られない。受け取る情報、入手する情報は、したがって個人差が大きく、誰一人として完全には一致しないだろう。また何を見たいか意思があいまいな場合も少なくなく、情報はたくさんあるにもかかわらず、何ひとつ手にできない事態さえ生じうる。これに拍車をかけるのが、利用者の熟練度であったり、コンピュータやネットワークの整備状況であったりする。もちろん熟練度は本人の問題にとどまらない。ネットワークごとに異なり、かつ日常的な思考に沿わない操作体系、いくつもコマンドを覚えないと使えないものなど、システム側に起因する部分が大きい。さらに、大学や研究機関に所属している人と一般の人との間は言うまでもなく、その内部でもネットワーク環境には格差が見られる。こうしたコンピュータに関する情報環境の格差や、熟練度(リテラシー)の高低などを広く包含する用語として、インフォメーションプアあるいはインフォメーションリッチが用いられる。こうした知りえる者と知らざる者との分化は、どんなメディアにもつきものであり、それを前提に供給体制などを設計すべきだろう。
さて一口に情報と言っても、いろいろな種類がある。なかでもロッキード社が1972年に始めた「ダイアログ」をはしりとする(オンライン)データベースは、代表的な存在だ。データベースは、その後さまざまな分野で、そして非専門家まで使うほどに普及し、いまや目録カード代わりに検索用のコンピュータ端末を置く図書館は珍しくない。
適切な検索システム、そして検索技術の習得、データの正確さの三つが揃ってはじめて、データベースはデータベースとしての機能を発揮する。しかし、現実には次のような障害にぶつかることが多い。
端末を前に、利用者は借りたい本に関する手がかり、たとえば著者名なり書名を入力して、その有無や分類番号を知る。手がかりが適切であれば、文字どおり機械的に見落とすことなく検索してくれる。しかし、手がかりがあいまいだと、所蔵されているはずの本さえ検索できない。
このほか検索対象が全文なのか、それともキーワードに限られるのか、また前方一致など部分一致による検索ができるようになっているのかどうか。こうした条件も、使いやすさに影響する。
いまのところ名人芸に頼る部分は大きいものの、それでも検索方法をめぐる問題は、近いうちに解決する可能性が高い。しかし、それですべて解決かというと、そうでもなさそうだ。肝腎のデータにかかわる問題が残っている。
国立国会図書館にある明治期出版物の索引を収めたデータベースで、あいついでミスが発見されている(東京新聞、1994年5月29日付け)。
たとえば、「埃及」が「ホコリオヨビ」という読みで登録されていたというから、驚きだ。もちろん、「エジプト」と読むのが正しい。もし、すべての埃及がホコリオヨビで登録されていれば、対応のしようもある。しかし実際には「アイオヨ」も見つかるなど、一貫していない。これでは検索方法が改善されても何の意味もない。
研究者の世界に目を移すと、論文などの文献データベースは重要な支援環境となっている。日進月歩の自然科学のみならず、細分化の進む人文社会科学分野でも、欠かせない存在になりつつある。
心理学の文献データベースに、アメリカ心理学会のPsychological Abstracts(PA)がある。単にキーワードを指定した程度だと、ヒット件数が多すぎて、不要な文献が多く含まれている可能性も高い。そのようなとき、追加条件として掲載雑誌名を用いるのがてっとり早い。分野を的確に絞り込めるからだ。
心理学界の基本雑誌である、Journal of Personality and Social Psychology(JPSP)。ヒット論文を絞るべく、追加条件に掲載雑誌を選び、このタイトルを指定すると該当論文が予想以上に減ってしまう。なぜか。その理由を、知人の報告で説明しよう。
「JOURNAL OF PERSONALITY & SOCIAL PSYCHOLOGY で入力されているのが約2/3、JOURNAL OF PERSONALITY + SOCIAL PSYCHOLOGY で入力されているのが約1/3。そのほか1字違いなど1件しかないけど、JPSPだと思われるものが合わせて10件ぐらいあります。はじめ、やけにでてくる件数が少なくて苦労しました」(土田, 1990)。
これでは、絞らない方がまだましだ。本来ひっかかるはずの文献が網の目を素通りしているのだから。さきほどの索引データベースと異なり、おそらく一定のトレーニングを受けたエキスパートが入力し、かつ何重ものチェックがなされているのだろうから、途中で入力ルールが変更になったまま、それ以前との整合が図られていない可能性は高い。もっとも単純な入力ミスとおぼしきエラーもあるようだ。
データベースを使っていて、強迫観念に襲われた記憶はないだろうか。ひょっとして、重要な文献を見逃しているのではないだろうか、大切な記事を取りこぼしてはいないだろうか。これまで見てきたように、こうした気持ちはけっして根拠がないわけではない。むしろ当然すぎるほどである。しかし、よしんばそれらが解決したとしても、程度の差こそあれ、消えることはないのでは、とも思う。入手にともなうコストが低いだけに、肥大することはあっても小さくはならないだろう。大海ゆえ、その全容を直接確認できない「情報の海」。その海を調べるべく船に乗り込んだものの、いくらスピードをあげてもすべてをチェックしきれないだろうなあ、と。
こうした「情報強迫」に対処するには、多少の取りこぼしがあっても、それ以上のメリットがあると考え、つき合っていくか、さもなければ、データベースを使わないぐらいしかないのだろうか。
購読者であり視聴者である、わたしたちの情報欲求は個人差が大きく、また送り手の意図とわたしたちの期待とがずれている場合が少なくない。知らなかった数多くのことがらが報じられる半面、知りたいことが出ていないのも事実である。自ら経験したできごとがどう報じられているかを確認するだけで十分だろう。
それにもかかわらず、マスメディアの果たす役割は大きいとされる。人々の間に一定の共通した社会的現実を構築するからという理由である。
他方で、対人コミュニケーションの重要性も高い。つまり、マスメディアは単独で機能を発揮するのではなく、「インフォーマルコミュニケーションを必要とする」(池田, 1993)メディアなのである。
集合的な状況定義を紡ぎ出すはたらき、およびマスメディアの代替的な情報資源というふたつの役割を対人コミュニケーションがになっていること(Erbring, Goldenberg, & Miller, 1980)、テレビニュースの理解と記憶に際して他者との会話が重要な貢献をはたしていること(Robinson & Davis, 1990)などが、そうした関係を裏付ける(池田, 1993の紹介による)。
このように送り手優位のマスメディアに対して、最終的に情報が届くまでの過程、そしてマスメディア「業界」の体質や構造を心得ている多くの人は、個々のニュースに対し、対抗すべく「受け手優位」の姿勢、たとえば「眉唾」あるいは「建前」という態度をとる。糊塗した「客観」や「公正」を押しつけないスポーツ紙が好まれる由縁でもある。
システムに対抗するこのような気持ちは、いろいろなところで顔を出す。たとえば、インタビューの元原稿に対するリクエストの声は、「マスメディアは変に編集などしないで、素材だけを提供すればいい」という心性のあらわれと言えなくもない。一個人が動ける範囲、会える人には所詮限界があるから、その部分、つまり取材はマスメディアにまかせることにして、そこから先はこちらに委ねてほしい。そのように解読できないだろうか。ここで、またしてもコンピュータネットワークである。そうした気持ちを最も手軽に実現する手段として、これほどふさわしいものはない。
ネットワーク上を流れる情報の多さは、発信の喜びの反映であると同時に、現在のマスメディアに対する不満の指標でもある。ニュースの内容について、もっと詳しく知りたい、教えてほしい、教えたい。こう論評されているが、別の見方はないのだろうか、自分の考えははたして妥当だろうか。報道内容はまちがっている、わたしが実際に目にしたものはそうではない、など。あげればきりはなく、多かれ少なかれ人びとのいだく気持ち(うわさの真実、真実のうわさなども)が、メッセージとなってネットワーク上を飛び交っている。
あらゆる情報を「端末」で受発信することになったとき、それまでのコミュニケーション感覚は変容するかもしれない。新聞、雑誌、放送、電話、手紙、メモといったメディアは、実は入れ物の違いでもあった。そうした違いがデジタル化によって崩れ、同一のシステム、同一の端末で利用するようになることに伴う変化である。コミュニケーションあるいはメディアに対する感覚が変わったという「錯覚」だけかもしれないが。
ところで、なんでもかんでもネットワークで入手したい、発信したいと考える人がいる一方で、現行のメディアでなんとかならないか、その方が楽だからと主張する人もいるはずだ。インタビューの元原稿をリクエストした人にしても、すべての記事にそれを求めているわけでもなかろう。つまりメディアの問題を考えるとき、ともすれば、当該のメディアにのみ注意が集中し、すべてそれでまかなおうとか、反対にまかなわせるのはおかしい、という方向で議論が進みがちだ。しかし、そうではなく、オプションがもうひとつ増えたというように考えることはできないのだろうか。むしろ、それを保証していくべきであると考える。その方が実際的であるし、第一、安心、安全というものだ。
佐藤ゼミの部外者にもかかわらず、人生の先輩として、師弟関係、ある時は研究仲間として付き合ってくださった佐藤毅先生、そして長年コンビを務めてこられた佐藤京子さんに本稿を捧げたい。
池田謙一(1993) 社会のイメージの心理学 サイエンス社.
川浦康至(1992) パソコン通信はどんなメディアか 科学朝日, 11月号, 28-31.
川浦康至(1994a) メディアとしてのコンピュータコミュニケーション 川崎賢一ほか, メディアコミュニケーション 富士通経営研修所. 39-70.
川浦康至(1994b) 匿名社会と人間関係 こころの科学, 58, 2-6.
大平健(1990) 電話と名前と精神科医 へるめす, 24, 153-162.
Robinson,J.P., & Davis,D.K.(1990) Television news and the informed public. Journal of Communication, 40, 106-119.
土田昭司(1990) UTOPIA... NIFTY-Serveホームパーティ"CAPS"での発言#351(10月19日)
付記
最後に私事にふれることをお許し願いたい。月日が経つのは速いもので、佐藤毅先生(一橋大学社会学部名誉教授)が亡くなられて、この10月で2年を迎える。本稿は、佐藤先生が1995年3月に退職されるのを受け、企画された記念論文集のために書いたものである。しかしながら出版元の事情もあって、未だ刊行に至っていない。その間も佐藤先生に読んでいただきたいという思いは変わらず、執筆時点から4年以上も経った本稿を、出版元の許可も得、今回発表することにした(修正は若干の字句にとどめた)。
引用文献
Erbring,L., Goldenberg,E.N., & Miller,A.H.(1980) Front-page news and real-world cues. American Journal of Political Science, 24, 16-49.