自由律俳人 山頭火(さんとうか) 句碑
 
「あの雲がおとした雨にぬれている」
 行乞(ぎょうこつ)の僧として雨の日も風の日も、ただひたすら歩き続ける山頭火は、
雨とも一体
となり、自然の中に とけ込もうとする禅の境地がうかがえます。
「波音(なみおと)の墓のひそかにも」
 旅日記によると、昭和十四年四月十九日、知多半島の師崎より船にて福江港に
着き港
近くの宿に一泊して、その 翌朝、伊良湖岬に向う途中、潮音寺を訪れ俳人
杜国の墓に
詣でたときに詠んだ句とされています。
 句の選定、揮毫は山頭火無二の親友で松山市在住俳人 大 山 澄 太(当時九十歳)
 
 俳人 種田山頭火(1882〜1940)
 
 明治十五年、山口県防府の大地主の長男として生る、本名、正一。
 少年期に母が自殺。早稲田大学文学科に入学するが病気のため中退、帰郷し父と
 酒
造業を営む。
 大正二年から荻原井泉水に師事し句作を始める。大正十四年、家業が破産し世の
 無
常を感じ熊本にて出家、僧名を耕畝。母の供養の為、ひとり草鞋を履き托鉢僧と
 なり、流れる雲や水の如く諸国行脚し行乞
の俳人、漂白の俳人として膨大の作品を
 残
した。
 昭和十五年十月、松山市「一草庵」にて数奇な一生を終える。大自然を友に、こよ
 なく酒を愛し、句作三昧の 生涯であった。
 
  よく知られる句に
うしろすがたのしぐれてゆくか 飲みたい水が音たててゐた
分け入っても分け入っても青い山 ふたたびここに、雑草供へて
焼捨てて日記の灰のこれだけか 何を求める風の中ゆく
雨ふる故里ははだしであるく 笠も漏りだしたか
鉄鉢の中へも霰 寒い雲がいそぐ
うどん供えて母よわたしもいただきまする 安か安か寒か寒か雪雪
さて、どちらへ行かう風が吹く 生死の中の雪ふりしきる
水に影ある旅人である ちんぽこもおそそも湧いてあふるる湯
まっすぐな道でさみしい ふるさとは遠くして木の芽
あるけばかっこういそげばかっこう ほろほろ酔うて木の葉ふる
あざみあざやかなあさのあめあがり 春風の鉢の子一つ
炎天をいただいて乞ひあるく てふてふひらひらいらかをこえた
     
山頭火の年譜
日付 西暦 年齢 内   容
防府での誕生から母の自殺、そして早稲田大学へ
明治15年12月3日 1882 1 竹治郎を父にフサを母に、「種田正一」(本名)として生まれる。山口県佐波郡西佐波令村第136番屋敷
明治22年 1889 8 松崎尋常小学校に入学。
明治25年3月6日 1892 11 裏庭の井戸で母フサが投身自殺。
明治29年 1896 15 周陽学舎(現:防府高校)に入学。学友と謄写版の文芸誌を発行。
明治32年 1899 18 県立山口中学校4年に編入。
明治34年 1901 20 県立山口中学校卒業。
明治34年 1901 20 東京専門学校高等予科に入学。
明治35年 1902 21 早稲田大学文科に入学。同期に小川未明(のちの童話作家)がいた。
明治37年8月 1904 23 神経衰弱により早稲田大学を中退して故郷へ戻る。
大道での酒造業
明治39年 1906 25 父の竹治郎と山野酒造場を買い取り、種田正一(本名)の名義で酒造業を営む。吉敷郡大道村(現:防府市大道)
明治42年 1909 28 サキノと結婚。
明治43年 1910 29 長男健誕生。
大正2年 1913 32 自由律の俳誌「層雲」に投句をはじめる。回覧雑誌「澪標(みおつくし)」で初めてペンネーム「山頭火」を使用。
大正5年 1916 35 酒造業が失敗。父は女を連れて逃亡。山頭火は妻子を連れて、夜逃げ同様で熊本へ。
熊本から東京そして熊本へ
大正5年 1916 35 古書店・額縁屋「雅楽多(がらくた)」開業。文芸誌「白川及新市街」に作品を投稿。
大正9年11月 1920 39 サキノと離婚。上京して、一ツ橋図書館の臨時雇い。
大正10年 1921 40 東京市役所事務員。
大正11年 1922 41 東京市役所を退職。額縁行商をする。
大正12月9月1日 1923 42 関東大震災に遭遇し、熊本の離婚した妻のもとへ。
大正13年暮 1924 43 泥酔して市内公会堂前で、熊本市電を止める。市内の報恩寺の望月義庵和尚のところに連れて行かれる。参禅の道へ。
大正14年 1925 44 曹洞宗報恩寺で出家得度する。「耕畝(こうほ)」と改名し、味取(みとり)観音堂の堂守になる。
九州路、中国路、四国路を歩く
大正15年 1926 45 一笠一鉢の托鉢の旅へ。九州地方行乞放浪の旅。防府にて改名届。
昭和2年〜
昭和6年
1927-
1931
46-
50
山陽・山陰・四国・九州地方への行乞。熊本でガリ版刷同人俳誌「三八九」(一集〜三集)を発行。自筆ノート「行乞記」。
川棚温泉そして其中庵の結庵
昭和7年6月 1932 51 川棚温泉・山口県豊浦郡川棚村(現豊浦郡川棚)に8月まで滞在。すっかり気に入り、庵を結ぼうとしたが挫折。第一句集「鉢の子」刊行。
昭和7年9月 1932 51 其中庵(ごちゅうあん)を結庵。「三八九」(四集)。自筆ノート「其中日記」。
昭和8年 1933 52 第二句集「草木塔」刊行。「三八九」(五集〜六集)。
昭和9年 1934 53 福岡、広島、神戸、京都、名古屋へ旅に出る。
昭和10年 1935 54 第三句集「山行水行」刊行。
昭和11年 1936 55 第四句集「雑草風景」刊行。自筆ノート「旅日記」。近畿、関東、甲州、信濃、北陸へ旅に出る。
昭和12年 1937 56 第五句集「柿の葉」刊行。自筆ノート「其中日記」。
山口市湯田温泉街に「風来居」結庵
昭和13年11月 1938 57 軒が傾き、壁の崩れ始めた其中庵を去り、山口市湯田温泉街「風来居(ふうらいきょ)」結庵。
昭和14年 1939 58 第六句集「孤寒」刊行。近畿、東海、(潮音寺に立ち寄る)木曽への旅。自筆ノート「旅日記」、「其中日記」。
松山へそして・・・・
昭和14年12月15日 1939 58 句友を頼って松山へ。「一草庵」を結庵。
昭和15年 1940 59 第七句集「鴉」。一代句集「草木塔」刊行。自筆ノート「松山日記」。中国、四国、九州への旅。
昭和15年10月11日
未明
1940 59 松山市一草庵で死亡。