が来る!
-Another of the Night-

Specification
Act.T
Nemesis of the Night.


 第T章  反転都市









 ―――キン、と音が響く。
 むせ返るような熱さの中で、繰り返し響く鎚の音。
 キン、キン。
 キン、キン。
 キン、キン。
 薄暗い高殿には、鼻を刺すような刺激臭が漂っている。
 カン、という音ともにパッと火花が散る。
 夜空に舞う蛍のように。
 真赤に熱されたヒが繰り返し叩かれ、鍛え上げられていく。
 真赤な塊に、小さなタタラ鉄の欠片が乗せられ、炉に突き入れられる。
 そして、再び鎚の音が響く。
 キン、キン。
 キン、キン。
 キン、キン。
「彼奴らは強力だ」
 返答は鎚を振るう音。
「彼奴らには現世の刀は通じぬ、槍も通じぬ、矢も通じぬ」
 この世のモノではない存在には、この世の武器は通用しない。
 ならば。
「私が鍛えましょう。夜を狩る、火の刀を」






 目を開いて天井を見る。
 身体を起こして、ベッドから床に足を乗せる。
「ふあ、ぁ………まだ、眠ィ」
 首の関節を鳴らすように、部屋の中を見回す。
 八畳ほどの自室。
 モノトーンの色調で染められた部屋に、ブラインドの隙間から射し込んだ朝日が、レーザー光線のように走っていた。
 丸いアナクロ式の目覚し時計を見る。
 文字盤上の短針と長針は、ベルの設定時刻より10分前を指していた。
 参考書と模試の過去問題集が広げられた机。
 椅子に腰掛けると同時に、一番下の引出しを開ける。
 広辞苑や和英・英和辞典の間に指を滑らせ、小さな箱を引っ張り出す。
 その中の一本を咥え、一緒に入れておいた100円ライターで火を点ける。
「…フーゥ………」
 口の中だけで弄ぶように吸い込んだ煙を、ゆっくりと吐き出した。
 紫煙が空気に拡散し、朝日のラインが鮮明に浮かび上がる。
 時計の歯車が鳴る音が響く。
 チク、タク。
 チク、タク。
 チク、タク。
 その音に意識を重ねていくと、次第に世界が目を覚まし始める。
 小鳥の声。
 窓の下を学生が通り過ぎていく、微かなざわめき。
 遠くに走る車のエンジン音。
 机の下に、コレクションのように並べてある様々な種類の缶コーヒーの空きカンから、適当な一本を取り出した。
 半分ほど灰になったそれを落とす。
 まだ、僅かに残っていたのか、ジュ…と音がした。
 次の瞬間。
 疾風のように伸びた亮の手が、目覚し時計を鷲掴みにした。
 ブルブルと不満そうに打金を震わせる目覚し時計にニヤリと笑う。
「甘い」
 意地になって暴れる目覚し時計の、背中に指を回して息の根を止めた。
「………亮! 起きなさい、遅刻しますよ!」
「解ってる! 今降りてく」
 階下から聞こえた母親の声に、亮はTシャツを脱ぎ捨てた。
 頭から新しいシャツを被って、制服に伸ばした手が止まる。
 ハンガーには学生服と一緒に、鎖のアクセサリーが掛けられていた。
 ゴミ箱に伸ばした手を、思い返して首に当てた。
 冷やりとした、固い感触。
「もう一個、売りつけられちゃ堪らない…だろ?」
「亮、本当に遅刻しますよ!」
「解ってるよ!」
 亮は煙草を引出しの奥に封印すると、ショルダーバックを掴んで部屋を出た。



 羽村家は桜水台学園から、徒歩で通える位置に建っている。
 バスや電車で通学している生徒から見れば、羨ましい事なのかもしれない。
 だが、それは。
『代わりたい奴がいれば、代わってやる』
 亮は眉間を押さえたまま歩を進めた。
 黙って、その場所を通り過ぎる。
「つれないな、親友」
「………無視してるのが解らないのか?」
 桜水学園への通学路にある商店街で、可笑しな河原が佇んでいた。
 可笑しいのはいつもの事だが、今日はまた殊更に暴走していた。
「ケロヨンの奥に隠れて、俺を拝むのを止めて貰おうか」
「拝んでるんじゃない」
 薬局とコンビニの奥に身を潜めた河原は、亮に向けた両掌をクネクネと揺らす。
「念力だ」
「じゃあな、達者で暮らせ」
「どこへ行く。友よ」
 180度方向転換した亮に、ケロヨンの頭を撫でる河原が聞いた。
「お前の居ない場所だ」
「それは不可能だな。俺から逃げる事は出来ないよ、亮」
「薄気味悪い冗談は止めろ」
 冗談ではないが、冗談で学校をサボる訳にもいかない。
 いつも通りひとりで学園に向かう事にする。
「ひとりって………俺が隣に居るだろ?」
「モノローグに口出しするな」
「おはよう。亮…と河原くん」
 桜水台学園が見えてきた頃。
 大分周りにも学生服姿の生徒達が増えてくる。
 校風がリベラルな桜水台の生徒は、既定の制服でも様々に着こなしていた。
 既に半袖の生徒も多い。
 まったく、今日も良い天気だ。
「無視されてる気がして不愉快だわ」
 後で鞄を振りかぶる気配を感じた亮は、慌てて振り返った。
「暴力に訴えるのは止めて貰おう」
「暴力じゃない。………躾よ」
「じゃあな、仲良く暮らせ」
 180度方向転換した亮に、鞄を下ろしたミコトが問い掛けた。
「どこに行くの? 遅刻するわよ」
「理不尽の無い世界だ」
「………馬鹿? そっちの方向には無いわよ」
「じゃあ、何処に在る?」
 疲れるだけだと理解しながら、半分以上本気で聞いた。
 ミコトは溜息を吐いて、肩をすくめて見せた。
 出来の悪い生徒を哀れむ、教師のような仕草。
「東よ」
 亮が縋るような眼差しで東に目を向けると、いつも通りの桜水台学園が待っている。
 校舎の影から覗く、ジオフロント計画都市の高層ビルが、須弥山のようにそびえていた。



 亮は袋を破って、アンパンに噛り付いた。
 昼休み開始直後の購買は戦争地帯だ。
 物資に選択の贅沢は許されない。
 アンパンと苺ジャムパンが購入できただけでも行幸だ。
 亮は紙パック豆乳のストローを咥え、ベンチの背もたれに深く寄りかかった。
 桜水台学園の中庭は綺麗に手入れが施されており、ちょっとした公園になっている。
 こんなにも良い天気だというのに、生徒の姿は見えない。
 まるで、学園に通っているのは俺ひとり。
 世界に居るのは、俺ひとりだけのような。
 そんな孤独感を感じた。
「俺が側に居る。親友よ」
「………お前、俺を尾行してんじゃないか?」
「それは自意識過剰というものだ」
 購買で購入した昼飯セットを持参していた河原は、同じベンチに腰掛けて紙袋を開いた。
 丁寧にラップを外す河原を見て、亮は眉をしかめた。
「おい」
「何だ? やらないぞ」
「………おかしいだろう。何でコロッケパンなんだ」
 コロッケパンは、ヤキソバパンと並ぶ購買部の人気メニューだ。
 昼休みのチャイムと同時に売切れてしまうらしく、入学してこれまで亮が入手に成功した試しは無い。
 二年も過ぎた今では、存在すら疑っていた代物だ。
 それを、自分よりも後に教室を出た河原が持っているのは、まったく理屈に合わない。
「コイツをゲットするには、少しばかりコツが必要だ」
「是非、教えてくれ」
「念力で引き寄せる」
 俺は何を期待していたんだろうな。
 凄く胸が切なくなった亮は、雲ひとつ無い空を眺めた。
 毎日、位置を変えることなく天空に浮かぶ、蒼い月。
 真の月、と呼ばれる未証明天体。
 四年前に何の前触れも無く天空に出現し、一時は世界中を騒がせた。
 生れ落ちたモノが成長するように、近づいても遠ざかりはしない蜃気楼のように。
 第二の月は、そこに昔から存在していたように、空に居座っていた。
 現代技術によるあらゆる観測。
 レーダー、光学計測にも存在が確定されていない、不確かな月。
 四年前から新たに組み込まれた、『当たり前』の一般常識。
 たとえ学者や、政府の正式発表が『無い』と告げても、見上げればそこに『在って』、皆がそれを認めていた。
「………そんなに真月が好きなのか?」
 コロッケパンを幸せそうに頬張っていた河原が、空を見上げたままの亮に問い掛けた。
「好き、って訳じゃない」
「そうか? 魅入られるみたいだぜ」
 からかい半分、真面目半分の河原の口調に、亮は不機嫌に睨み返す。
「凶悪犯罪者みたいだってのか、俺が」
「Lunacy(ルナシィ)」
 それは、真月と同時に発生した、社会現象とも呼べる言葉の定義。
 明らかに過去の統計より増加した凶悪犯罪。
 殺人、強盗、レイプ―――それらが発生する夜に、蒼く輝きを増す真月。
 いつからか、真月の輝く夜に生じる罪人の宴は、月の狂気=ルナシィと名付けられた。
 月の光は狂気を呼ぶ。
 そんな、昔からの言い伝えが、現代の夜に具現化していた。
「亮くんは夜な夜な街を彷徨い、美しい女性を狩るハンター…」
「それ、ナンパって言わないか?」
 大体、そんな行いをした覚えは、無い。
「獲物を追い詰め、怯えきった身体を押さえ込み、問答無用でそのさらけ出された首筋に牙を…」
「それじゃ吸血鬼だ………ていうか、お前ら本当に俺のコト見張ってないか?」
「そのニセ商人と一緒にしないで」
 背後から聞こえた声に振り返ると、茂み越しの一階校舎の窓から、ミコトが窓枠に肘をつくように顔を出していた。
「犯罪計画は、もう少し小さな声で」
「練ってねェよ、そんな物騒なモノ」
「なんだ………つまんない」
 本当に面白くなさそうな顔をするミコトに呆れる。
 コイツらは自分に、一体何を期待してるんだろう。
 ミコトは興味を失ったように去っていく。
 亮は切なげな眼差しで誰も居なくなった窓枠を眺めていたが、そのままの姿勢で後ろに腕を回して指先に力を入れた。
「窃盗行為は止めろ」
「誤解だ。俺はただ満腹になっていないだけで」
 亮の背中から伸ばした手でジャムパンを掴んだ河原は、真摯な声で訴えた。
 亮は背中越しに握った河原の手首を、満身の力を込めて握り潰す。
「痛い痛い痛い」
「コロッケパンを平らげた人間が、贅沢を言うんじゃない」
「解ったよ、浅ましい奴め。………大体、力が有り余ってるんじゃないのか、お前?」
 河原は赤くなった右手首に息を吹きながら睨んだ。
「部活にでも入ったらどうなんだ?」
「今更だな。帰宅部で通してきたんだ。三年になって部活なんか始めてどうする」
「帰宅部の癖に、良い身体してるって、言ってるんだけどな?」
 据わりが悪そうにケツの位置をずらす亮に、同じ距離だけ河原が近づく。
「何か、スポーツでもやってるのかい?」
「や、止めろ。近づくな」
「前から思ってたんだが、妙に動きに隙が無いっていうか、空手とか、武道者みたいな」
「言いながら胸を撫でるのを止めろ!」
 ぺたぺたと拝むように触れる河原の手を、亮は振り払うようにして立ち上がった。
 鳥肌が立った手で、乱れた胸元を払う。
「妙な趣味でも持ってるのか、貴様は。………言っとくが、武道の心得なんか無い。喧嘩した事も無いぜ」
「そうか? ま、良いんだけどな。………そういや、付けてるじゃないか。お守り」
 首元から覗く鎖に、河原が笑った。
「もう一個、売り付けてやろうと思ったのに」
「お前の考えは、お見通しだ」
 安堵と共に決心する。
 コイツがブツをさばき切るまで、火の護章とやらを外すのは危険だ。
「せいぜい、大事にしてくれ。サービスで俺の念力を込めてあるからな」
「気持ち悪いコトを言うなっつーのに」
 亮は眉間を押さえて頭を振る。
 首に提げたペンダントが急に禍々しいモノに感じる。
「念力だか、超能力だかが宿ってるんなら、コロッケパンのゲット方法でも教えてくれ」
「何言ってる」
 河原はジャムパンの袋を破り、ひと口齧り付いた。
「知ってるクセに」



 ひたひた。
 ひたひた。
 蒼い月が星空の天蓋に浮かんでいた。
 何もかも―――真っ蒼に塗り潰された静かな夜。
 ひたひた。
 ひたひた。
 喉の奥が焼けるようだ。
 手と足が、鉛を括り付けられたかのように重い。
 ひたひた。
 ひたひた、と。
 背後から影絵のように憑いてくる足音を、どうしても引き離せない。
 心臓が混乱したように、どくどくと乱れる。
 逃走の駆け足は、もはや歩いている速度と変わりはしない。
 はあはあ。
 はあはあ。
 口から漏れる喘ぎ声が、酷く耳障りだった。
 顎が上がる。
 喉から吐き出しそうになる悲鳴を飲み込む。
 一度悲鳴を漏らせば、金切り声のような叫びをあげ続けると、自分が良く解っていた。
 はあ、はあ。
 はあ、はあ、と。
 ただ、呼吸と心臓と足音が五月蝿い。
 怖い。
 恐怖の塊が、自分を追いかけて来る。
 怖い、怖い。
 怖い、怖い、怖い。
 ―――逃げて下さい。
 そうだ、逃げなければ、ならない。
 ―――貴方だけは、どうか、平穏な夜を。
 足がもつれて転ぶ。
 それでも、逃げた。
 犬のように、四つん這いで。
 自分を無様だと思った。
 自分を惨めだと思った。
 目の奥が刺されたように、痛い。
「………亮」
 痛い。
 目に焼き箸を刺されたように。
「……亮、起きなさい」
 とても痛い。
 目と胸の奥が痛くて、呼吸さえできない。
「…亮っ」
「―――っッ!!」
 ビクン、とバネ仕掛けの玩具のように、机から上体を跳ね上げた。
 状況が認識できない。
 頭の中が真っ白で、自分が夢を見ていたという事だけが理解できた。
「…ハぁ、ハぁ、ハぁ」
「亮、悪い夢でも見たの? 大丈夫?」
 自分の顔を覗き込む、心配そうな顔をした女性。
 この人は、誰だ。
 ―――母親。
「う、うん。ああ………何でもない、母さん」
「…そう。良かった」
 サンドイッチと紅茶が乗せられたお盆を置いて、胸を撫で下ろした。
「机に突っ伏したまま震えているから、何事かと思ったわ。勉強のし過ぎで、疲れているんじゃないの?」
「そんなじゃ、無いんだ」
 亮は参考書と一緒に広げていたグラビア誌を、肘で奥に押しやった。
「そうかしら…」
「ああっ、と。目覚ましに、ちょっと散歩に行ってくるよ。だから、母さんも出てって」
「折角、お夜食を作ってきたのに」
「帰ってから喰うって」
 亮は母親の背中を押すようにして、部屋から追い出した。
 ついでに、財布とジャンパーを取って、電気を消した。
 真っ暗になった部屋を、妙に明るい真月光が照らした。



 小銭を自動販売機に食わせ、ボタンを押す。
 赤い円が刻印された、小さな箱が吐き出される。
 亮はビニールを破って口を開けさせると、一本を指で押し出して咥えた。
 カチン、という音と。
 ジュ、ボ、という音が同時に響く。
 ワンクイックで火を灯したジッポを、顔の前に持ってくる。
「………ふー…」
 亮は人通りも少ない路地で、夜空を見上げた。
 家から大分離れた、繁華街に足を伸ばしてしまった。
 ある種の自動販売機は、夜の11時を過ぎた時点で、総て売切れのランプが点灯してしまう。
 たまに、意図的にだろうが、旧式の自動販売機が人通りの少ない場所に据えられてある。
 ここは、そういった『穴場』のひとつだった。
「怖いぐらい、綺麗な………真月」
 魅入られている、と河原が言ったが、それは亮も自覚していた。
 気づくと、真月を見上げている自分が居た。
 惹かれているのか。
 畏れているのか。
 何かを待っているのか。
 置いてきぼりにされた子供のように、ただ真月を見上げている。
 指に挟んでいたフィルターが焼ける。
 一度しか吸っていないそれが、灰となって落ちる。
 再び箱を手に取りかけて、止めた。
 喫煙が好きな訳ではない。
 ふと、風が吹き抜ける。
 ジャンパーのポケットに入れかけた小箱が、アスファルトに落ちた。
 路地の果てに、ひとりの人影が立っていた。
 町の街灯に照らし出されるように、夜のスクリーンに浮かび上がる人影。
 写し絵は女性、その纏ったコートで体つきも解らないのに、そう思った。
 何故、解ったのか。
 切り抜かれた人影が、真っ黒い影にしか。見えないのに
 ただ、顔の中で紅く、とても紅く光る目が。
 宝石のように紅く光るひとつの目が、自分を見ていると解ったからだ。
 その、赤い目が問い掛けていた。
 貴方は誰?と。
 ―――知っている。
 ―――知っているぞ。
 俺は、あの瞳を、覚えている。
 何時からだったか、多分ずっと昔の記憶、そして多分ずっと近くの思い出に。
 ―――嗚呼。
 だけど、俺は思い出せない。
「………キミ、は」
 一歩、踏み出した。
 操られるように、頼りない足取りで歩く。
 胸の中で心臓の鼓動が乱れる。
 いけないと。
 近づいてはいけないと。
 アレは怖いモノなのだと、警鐘を鳴らしている。
「………キミは、誰だ」
 四角い路地の先で、人影が笑った、ような気がした。
 流されるように、人込みの中に埋没していく。
 日常の記憶に塗り潰されてしまう、夢の記憶と同じように。
 指の間から零れ落ちる、水のように通り抜けてしまう。


 分岐点があったとしたら。
 今。
 その一線を、踏み越えていた。


「…待って」
 アスファルトを踏み込み、駆け出す。
「待ってくれ」
 砂利が跳ねる。
 走った。
 路地を抜けると、マネキンのように左右に行き来する人込みから、彼女の背中を探した。
 左。
 駅からの仕事帰りの流れに逆らうように、黒くて細い背中が見える。
「待ってくれ」
 時間が時間だけに、疎らな人の流れを、それでも掻き分けるように走った。
 背広を着た酔っ払いの集団。
 化粧を濃く塗りたくった、夜の街に働く女性達。
 携帯を握り締め、一杯の小物で誇らしげに飾り立てた学生。
「待ってくれ」
 信号を無視するように、左の歩道へ。
 歩いているとしか見えないその背中が、ギリギリで捕えているのがやっとだった。
 足を懸命に動かす。
 心臓の鼓動が、耳の奥でドクドクと木霊する。
 わき腹が捻られたように痛い。
「待ってくれ」
 右へ左へ。
 例え姿を見失おうと、路地の影に消えようと。
 見失う事は無い。
 その姿を、重ねている限り。



 深夜のビジネス街は耳鳴りがするほどに静寂だった。
 墓標のように建ちならんだビルの影が、青い陰影をアスファルトに貼り付けている。
 猫の声、鳥の声、虫の声。
 人の姿が消え、影絵だけが蠢いているような。
 音だけが欠落した、奇妙に完璧な世界。
「…ハぁ…ハぁ…ハぁ」
 喉の奥に絡みつくように溜まった唾を飲み下した。
 どれだけの間、追いかけっこを続けているのか、亮は自分でも判断が出来なくなっていた。
 誰も居ない無人のビル街に、けして捕まえられない影を追いかけている自分。
「…ハぁ、…ハハハハっ」
 笑う膝を押さえる。
 腰と膝に手を当てた亮は、急に自分が滑稽に思えて、笑った。
 現実味を欠いた、狂気じみた自分の行動が、とても可笑しく感じられた。
「何だよ? どうかしちまったのか、よ………俺は」
 それでも足は止まらなかった。
 視界から離れない黒い人影も、亮を待っているように立ち止まっている。
 視界の色調が、次第に青一色に塗り潰されていく。
 凍るような耳鳴りに、亮は身体が震えるのを自覚した。
 総ての色が青に染まった、凍りついた世界。
 ―――凍夜、と呼ばれる世界。
 総てが動きを凍りつかせた世界で、自分と彼女だけが存在していた。
 そんな、これは妄想。
「ハハッ、これじゃ…河原の言った通りじゃないか」
 ルナシィ。
 真月の輝く夜に、狂気に導かれし凶者。
 だとすれば、自分が追っている幻覚は、どんな悪夢に誘っているというのだろう。
 影絵の彼女は足を止め、じっと赤い瞳で亮を見詰めている。
「………いいさ。何処まででも、行ってやる」
 だが、追いかけっこは終わっていた。
 ビルの路地裏に溶けるように、彼女の気配が消えていった。
 視界からロストしただけではなく、重ねていた気配すら空気に散っていた。
 だけど、それは。
「何だよ………気配って?」
 そんな、漫画みたいな『力』を頼りに、俺は何をしていたっていうんだ。
 そんな、能力を、俺は知らない。
 知らない、筈だ。
 亮は頭を抱えたまま、よろけるように歩いた。
 影絵の彼女が消えた、路地の角に手をつく。
 凍りついた夜の、裏側の世界が、そこに待っていた。
 はだけた胸元、その鎖の下で、微かな灯火が滲み始めていた。



「…ふ…んぁ、ああ」
 粘りつくような声が、路地裏の空気に絡みつく。
 ねっとりと湿り、腐りかけて澱んだ空気。
 コンクリートで区切られた密閉空間で、積み重なるように濃度を増していく。
 鼻につく程に甘い、腐臭。
「や………あっ、あっ、あっ、あっ」
 真っ黒のスクリーンに浮かび上がるように、白い姿態が蠢いていた。
 ゆで卵のように剥き出された尻が、ゆるゆると上下に揺すられる。
 背中を向けた女性は、逆T字に股間を開かされ、受動的に身体を弄ばれている。
 演劇の舞台のように。
 天井から吊るされた俳優のように。
 肌を晒した下半身が、蒼い月の光に照らし出されている。
「あっ、あっ、あっ………ああ! あひィ」
 尻の下に蠢くのは、腐れた内臓のような色をした、イソギンチャクのような『何か』だった。
 幾本もの触手を伸ばし、震わせ、ドロリとした粘液を滴らせながら女性の肉の内側に埋め込んでいく。
 性器、肛門、そして尿道ですら軟性のある触手に貪られていた。
 どれだけの間、非現実的な陵辱を受けていたのか。
 恐らくは近くの会社のOLであろう彼女は、人間としての言葉を喋りはしなかった。
 髪を振り乱し、犬のような喘ぎ声を漏らしている。
「あひ、あひいィ…イクっ………また、イクぅ!いィ」
 吊り下げられた脚がバタつき、尻肉が痙攣した。
 ピクピク、と触手が蠕動し、ブクブクと管の表面が膨らむ。
 断末魔を迎えるように痙攣した触手の先端から、霧吹きのような液体が吐き出された。
 触手の表面が膨らむ度に、粘塊が繰り返し吐き出される。
 空気を腐らせるような、生臭い匂いを漂わせて。
 彼女の胎内から、何本もの触手が引き抜かれる。
 股間からコップから零したように、ゼリーのような液体が押し出されてきた。
 蒼い世界に、浮かび上がる白濁した精液。
「………いィ…イイ、の」
「ゲ、ヒヒヒ…メス豚がぁ」
 酷く聞き辛い、潰れた嘲笑が聞こえた。
 影の中から浮かび上がるように、紫色をした頭が突き出された。
 続いて、首、生まれ出るように肩が。
 そして胸には幾何学的で鋭角的なデザインのタトゥーが刻印されていた。
 女の腹を踏み潰すように、一歩を踏み出す。
 股間から噴水のように射精された己の精液に、狂ったように笑った。
「ギャハ、ゲヒい…ヒヒひィイイ!!」
「な、んだ………コレ、は」
 その紫の髪をした『モノ』は、人間と呼ばれる姿から、あまりにも逸脱していた。
 亮は路地の入り口で、金縛りになったまま奥を凝視した。
 人間の造型をしているのは、その上体のみ。
 本来の人間としての脚は、退化したように折り曲がり、タコやイソギンチャクのような軟体生物のようにうねっていた。
 鱗が生え、奇形の触手を生やし、狂った嘲笑をあげている。
 左右のコンクリートに撃ち込まれた、鎖で手足を繋がれたまま。
「………何なんだよ? コノ、化け物…は」
「―――あアァ?」
 首を九〇度捻って、ソレが亮の姿を捉えた。
 嘲笑が止まり、能面のような狂気を宿した瞳が亮を凝視する。
 どっと、体中から冷たい汗が吹き出す。
 恐怖。
 絶望に直結した、絶対の恐怖。
 足が震え。
 腕が震え。
 歯がガチガチと打ち合った。
 ―――逃げて下さい。
 ―――逃げて下さい。
 ―――逃げて下さい。
 頭の中で警鐘のように繰り返す、懇願するような声。
 逃げなければ、ならない。
「………ヒ」
 喉の奥から、悲鳴が漏れかける。
 恐怖に頭の中が、真っ白に染まりかける。
「ウあ…」
「―――テメエを、知ってるぞ?」
 首を傾げた化け物が、不思議そうに繰り返した。
「その姿を知ってるぞ」
 後退りが、停止する。
 呼吸も出来ないように、四肢が凍りつく。
 心臓がドクンドクンと脈動する。
「そのツラを知ってるぞ」
 痛い。
 目の奥が、心臓の奥が。
 ズキンズキンと針を刺されたように、痛い。
 亮は自分の顔を、鷲掴みにするように右掌で押さえた。
「―――その目を、オレ様は、知ってやがるぞ!!」
 潰れた絶叫から、憎悪が滲み出すようだった。
 指の間から、蒼い、火のような瞳孔を睨んだ。
 ぐにゃり、と周囲の風景が歪んだ。
 一杯の絵の具を混じり合わせたように、酷く曖昧な色に空間が侵蝕される。
「ヒ…ヒ」
 目が痛い。
 心臓が痛い。
 頭の中で、針が突き刺されたように痛い。
 悲鳴が喉の奥からほとばしった。
「ひ………ヒイいいいいィィ!!」
 全力で駆け出していた。
 真っ直ぐに。
 闇の奥に向かって。



「………始まった」
「元気の良い子だね♪」
「まあね。それだけは俺が保証する」
 ビルの屋上で、下を見下ろす影が四つ。
 真っ蒼な月光に映し出されている。
「今の彼で、勝てるの?」
「さあね」
「自分の『力』を、自覚しているのか?」
「さあね」
 ふたつの人影が、顔を見合わせた。
「俺は、鍵を渡しただけ。扉を開けたのは、彼」
「はぁ………無責任じゃないの?」
「忘れ物を返してやったんだ。感謝されこそすれ、恨まれる覚えは無いね」
 溜息を吐いて腕を組み、呆れたように振り返った。
 黒い影のような外套を羽織った、下を凝視している人影に問い掛ける。
「………手出しは、無用」
「良いのか? 『狭間』とは違う。負ければ、死ぬぞ」
「………死んだら、そこまでの者だったという事」
 何も言わず、溜息を吐いて頭を振り、壁に寄りかかる。
「………ただ、それだけの事」
 呟くように繰り返し、振り返りもしない。
 総ての表情を削り落とした、赤い瞳が下界を見詰めていた。



 ―――アレは怖いモノ。
 ―――アレは夜のケダモノ。
 ―――アレは欲望の捕食者。
 ―――アレは希望の光を狩る者。
 ―――貴方とは別の世界に存在する、悪夢の中の怪物。
「………違う」
 脚の筋肉がギリギリと張り詰める。
「……違う」
 悪夢の景色の中を、弾けるように疾走する。
「…違う」
 握り締めた拳の関節が、ギチギチと軋む。
「違う、違う、違う、違うッ!!」
「破壊のギグを聞かせてやるぜ!」
 路地の最奥で繋がれた異形の獣人が吠えた。
 転がったポリバケツ。
 タイヤの盗まれた、錆びたスクーター。
 左右のコンクリートの壁。
 様々な場所で奇怪な変貌が生じた。
 表面が軟らかい砂か水のように、如雨露のような窪みを生み出す。
 それは、まるでスピーカーのように。
「くたばりやがれッッ!!」
 無機物が射精するように、ビクンと痙攣した。
 体中に、押さえつけられるような幻の触感が生まれる。
 幻の神経絡に突き刺さる、幻の痛み。
 鋭敏に研ぎ澄まされていく全身の神経に、波紋のように生じる破壊の幻覚。
「…アレはアレはアレはアレは…」
 理性と意思と無意識が混濁し、真っ白に塗り潰される。
 亮の内部で、代わりに剥き出しにされたのは、純粋な戦闘思考と殺戮能力。
「お前は『敵』だ」
「解りきった事をぬかすんじゃねェェ!!」
 大気を空間ごと破壊するような大音響が叩きつけられた。
 物体を共振で破壊できるほどに収束された『音』が、回避不可能な速度で亮を襲った。
 頭部を左から右へ、右肩を15度揺らし、踏み込みを20cm先へ。
 空間に張り巡らされた糸を潜り抜けるように、亮の身体は踊るように弾けていた。
「…なッッ!?」
 亮の背後でコンクリートが抉られるように弾け跳び、アスファルトが銃撃を受けたように砕け散った。
 あ然とした表情で硬直した獣人の目前に、跳躍して右腕を弓のように振りかぶった亮の姿があった。
 ゴキン、と硬い物が激突する音。
 飛び散る、赤い雫と白い破片。
「ァガ、あ! ………てめェ、あ、がふッ…ゲガ!」
「ゥ、うあァああああァァァ!!」
 ガツン、ガツン、ガツン、と亮は振り子のように左右の拳を撃ち込んだ。
 闇雲に振り回される獣人の左腕を脇に挟み、力を重ね合わせたまま内側にへし折る。
 螺旋のように絡みつく流れから右足を引き上げ、目標を失った触手を靴底で踏み潰した。
 紫色の頭髪を鷲掴みにし、抱え込むようにして顔面に拳を叩き込む。
 背中に感じる波紋の収束に、獣人の首を腕でロックしたまま背後に回り込んだ。
「ゥぎゃああ、嗚呼アア!」
 身体越しにビスビスビス、と響く衝撃を感じた。
 三角にロックした左腕を首に極めたまま、搾るように締め上げていく。
 ぎぢぎぢぎぢ…と気管と頚椎が軋む音が、肉を通して聞こえる。
 後、数ミリの角度を加えれば、この煩わしいほどに忌々しい化け物のイキノネが止まる。
 凍り付いたような冷い焔を宿した亮の瞳に。
 機械のように無機質な光を宿した瞳に。
 ―――悲しそうに自分を見詰める、ひとりの少女姿が映し出された。
 短いショートの髪がなびき、赤い、悲しいほどに優しい瞳が自分を見詰めていた。
 ―――駄目。
「………ッ、ァッ!」
 電流を流されたように、亮の身体がビクンと震える。
 弛んだ腕から、崩れるように倒れる獣人。
 胸を窪ませた幾つもの穴から、潮を吹くように赤い液体が流れ出していた。
 自分の手も、上着にも。
 桜のような斑点が、ぽつぽつと浮かんでいた。
「う、うわ、うわアア」
「ぢぐ、ジョ…ゴノ、バゲモノ…ガ」
 よろけるように後退る亮の足元で、完全に喉を潰された獣人がうめく。
 端正と表現できた顔は、砕けたように歪んでいた。
 鼻は潰れ、折れた歯は赤く濡れていた。
「ば…化け物は、お前だろ!」
「バゲモノ、を…ごんな姿にした、デメェは…もっと酷ェ、バゲモノじゃ無ェかヨ」
「ち、違う!」
 足元がぐらぐらと揺れる。
 頭の中に指を突っ込まれて、掻き回されているような、悪寒に吐き気が込みあがる。
「違う、違うッ………俺は、俺は普通の人間だ!」
 沈黙。
 だが直ぐに、奇妙な音で咳き込む。
 潰された声での、それが嘲笑だった。
「………そうガヨ、コイツァ…傑作だゼ。コイツ、頭ァ弄られてヤがる」
「な、に…?」
「俺様ガ、ゴンナ臭ェ場所で繋がれてヤガルのも…ゴンナ化物見てェな身体にザレタってのも…全部キサマ等の所為ダッテノニヨ。………最高ダゼ、傑作ダゼ」
「ナニ、何言ってんだよ?」
 小刻みに震えながら、亮は一歩二歩と後退っていく。
 全身から流れる冷たい汗が、シャツを背中に張り付かせる。
 その尻に突き当たった行き止まりに、ビクリとして振り返る。
 路地の最奥に鎮座されていたのは、小さな朽ち掛けた社だった。
 ゴミに埋まるような。
 賽銭箱も無い、道端に忘れられた小さな社。
「…開ゲテ見ろヨ? 俺様をブチノメシタ、てめェにソイツを好きにスル権利がアルぜ。ソイツを隔離する為に、俺様ハ…ゴゴに繋がれてたんだからヨォ」
「五月蝿い! それより、何でお前が、お前みたいな奴が、俺を知ってるんだ?」
「ゲヒヒヒ、ヒ………誰が教えて、ヤルかョ」
 その目が、次第に焦点を失う。
 胸に空いた穴から流れる血液も、舐めるように漏れるだけだ。
「く、ククッ………せいぜい、苦しんで、足掻いて…絶望シテ踊れ…」
「お、おい!」
 手を伸ばしかけた亮の目の前で、その人外の身体が発火した。
 青白い、不吉な火が一瞬に男の身体を包み込む。
 焔の中で崩れていく人影は、ただ笑い声を漏らし続ける。
「…ククク…ゲハハ、踊レ踊レ…いィヒヒ、ヒ………」
 指先が崩れる。
 腕が脚が、灰のように崩れ去っていく。
 両側のビルのコンクリートに打ち込まれていた鎖が、同時にガラスのように砕けて散った。
「何だよ………」
 見上げれば空に、四角く切り取られたような夜空が歌っていた。
 砕け散ったように崩壊する、蒼の世界。
「何だってんだよ………コレは」
 生臭い、ネズミと生ゴミの汚臭が路地裏に漂っていた。
 化物の骸も。
 陵辱されていた女も。
 破壊された建築物の傷痕さえも、総てが消え失せた、当たり前の世界。
 犬の遠吠えが微かに木霊する、無機質の静寂を宿した夜のビジネス街。
「コレは、一体ッ、何だってんだよ!!」
 腫れて疼く拳が。
 赤の斑に染まった服が。
 脳裏にこびりついた憎しみに満ちた怨嗟が。
 亮の現実を書き換えてしまっていたから。



 現実と交差した悪夢だったとしたら、幾らかでも心が安らいだだろうか。
 ただひとつ残された入り口があるのだとしたら。
 朽ちた社がひとつ。
 ―――探し物は、その中に。
 藁の腐れたしめ縄を、千切るように破り捨てる。
 玩具のような扉を開けた。
 ―――探し物は、其れ。
「アハ………ハ、はは」
 御神体として祭られていたのは、恐らくは儀礼用の模造刀だった。
 元の形が解らないほどに、赤錆で食い尽くされた金属の塊。
 それが、社の小さな玄室に、地面に突き刺さるように埋め込んであった。
「はは、ハハハっ」
 亮はひとしきり笑った後、もう一度夜空を見上げた。
 黒いスクリーンに、スモッグで瞬く星空。
 白い月と、蒼い真月。
 いつも通りの、当たり前の夜空。
 憑き物が落ちた、と自分でも自覚できるほどさっぱりした気持ち。
 コレが当たり前の世界だ。
 コレが当たり前の夜だ。
 ―――コレが俺が生きている、当たり前の夜なのだ。
 手を伸ばす。
 確信を求めて。
 指先に赤茶けた鉄の塊が触れた瞬間。
 それは、当たり前の時の侵蝕を思い出して、崩れ折れた。
 剣の形をした錆びは、当たり前のように崩れた。
 これで正しい。
「そうだよな………これが俺の当たり前だ。夢を見るのは、止めようぜ?」
 置いて行かれた子供みたいに、真月を眺めるのもこれでお終いにしよう。
 面白くは無いけれど、当たり前で平凡な日常が俺を待っている。
 しゃがみ込んで、形ばかり合掌した亮の胸元から、月の光に蒼く輝くペンダントが零れた。
 時価300円以下の、ある男の念力が込められたお守り。
「ご神体の替わり、という事で………如何だろうか?」
 俺は誰に問い掛けているんだ。
 ていうか、正直に言えば、自分でも解っているんだ。
 酷く、罰当たりな事だってくらいは。
「呪うなら、河原の奴を」
 首から『火の護章』と命名されたインゴットを外し、社の中に入れて扉を閉じた。
 自分自身の、開きかけた狂気への扉と一緒に。



「………酷い。親友に呪詛をかけるのか」
「聡明な男だ」
「見かけによらず、賢い子だね」
 ひとり傷を負っている男に、頷き合うふたつの影。
 ビルの屋上から眺める景色は、再び始まった時の流れに身を委ねていた。
 凍夜が解除され、命を吹き込まれた街の明かりを、ただ遠くに見詰める瞳。
「………先ずは、ひとつ」
「だが余り、ゆっくりとしては居られないのだろう?」
「………いいえ。ここに時の意味は無いのだから」
「くす…夢幻の中の無間。凄い皮肉ね」
 風が吹く。
 様々な季節の匂いが混じった、都市の風が。
 糸のような髪を振り払った。
「行くよ………ミコト」
「………ええ、直ぐに行くわ」
 深淵のように穿たれた、赤い右の瞳が下界を見詰めていた。

 









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