ぱすてるチャイム
Pastel Chime

アナザーシーズン
Another-Season
〜もうひとつの恋の季節〜







第X章 What is the wish of you?






 ―――望みは?





『そして俺はここで目覚めた』





「………眩し、い」
 ブラインドから差し込む朝日に、散らかった部屋が薄暗く見える。
 床に脱ぎ捨てたままの学生服。
 ホコリを被った教科書の束。
 壁に立て掛けてある数本の剣。
 山のようになっているゴミ箱から溢れ出した紙屑。
「俺の、部屋」
 それを確認するように口から言葉を紡ぐ。
 舞弦学園の男子寮。
 間違いは無い。
 ベッドに腰掛けたまま床に足を着ける。
 何時からだったか。
 ―――この場所に違和感を感じ始めたのは。
 この足元が崩れ落ちそうな不安感は、何時から。
 組み合わせた手を額に当てて、溜息を吐く。
 トントン、と扉がノックされる音。
 リアクションを起こす前に、開けられた扉。
 建前としてのノック。
 わざわざ許可が必要なほど、他人行儀な間柄ではない。
「おはよう」
 それでも、声に錆びた鋼のようなイメージを感じてしまうのは、彼の人柄によっていた。
 振り返ったカイトがブラインドを開ける。
 翳し込んだ朝日に、眩しげに目を細める。
「珍しいな、カイト。一人で起きているとは思わなかった。………雨でも降らなければ良いのだが?」
「酷いよ、その台詞は―――甲斐那さん」
 腕を組んで扉の脇に背中を預けた長身の生徒が、少しだけ苦笑した。
「ならば、明日から以降も、今日と同じように早起きしてくれる事を望むよ」
「別に毎日、甲斐那さんから起こして貰う必要、ないんだって。予鈴ぎりぎりまで粘るのが俺の生活スタイルなんだから」
「『絶対に遅刻させないでくれ』というのが………刹那の願いだからな」
 腕組をしたまま顔を逸らした甲斐那の口元が、珍しくも頬笑んでいた。
 カイトは頭を掻き毟って溜息を吐く。
 式堂甲斐那には刹那という、腹違いの妹が居た。
 それだけでも下衆な想像を抱く人間が多かったが、さらに刹那は兄とは違い、エルフ種族と人間の混血児であった。
 幼少の頃よりイジメの対象となっていた妹を、兄は全身全霊をもって保護して来た。
 『シスコン侍』の二つ名を命名される程に、だ。
「…ったく、甲斐那さんは刹那さんに甘いんだから」
 だがカイトは、甲斐那がその渾名を、むしろ勲章のように受け入れている事を理解していた。
 何故ならその甲斐もあって、今の舞弦学園で刹那を差別するような馬鹿は存在しなくなっていたのだから。
「………兄が妹を心配して何が悪い?」
「何事にも、限度ってのがあるって事」
 諦めてベッドから降りたカイトが、制服に着替え始める。
「刹那さんも呆れてたみたいだよ? 兄様もそろそろ妹離れの時期なんじゃないかってさ」
「…」
「甲斐那さんの事、心配してるんだよ。刹那さんにばっかり気を回して、自分の事を二の次にしているってね? この調子じゃ、彼女のひとりもできないんじゃないかってボヤいてた」
 無表情な甲斐那だが、内心物凄いショックを受けている事に気づいたカイトが、慌ててフォローをいれる。
「彼女など………必要ではない」
 鼻で笑って切り捨てる甲斐那。
 そんな様子だから刹那が兄の行く末を心配するのである。
 カイトは目覚めてから何度目になるか解らない溜息を吐いた。
 自分の目から見ても、甲斐那は女子に絶大な人気がある。
 背が高く、無愛想だが整ったルックス。
 学園で最強の剣士と言われるロイド・グランツと双璧をなすと言われる実力。
 何より、その妹に向けられる一途な思慕が、『もしも自分に向けられたのならば?』と考える女子が多かったのである。
「………自分の事を全然解ってないね、甲斐那さんは」
「君にそれを言われたくは無いな、カイト」
 潰れたカバンと雷電を担いだカイトに、甲斐那は憮然として呟いた。
「………カイトさん…兄様」
 風に乗って届いた控え目な呼びかけに、カイトは窓の外を覗き込んだ。
 ―――そこに。
 カイトの部屋を見上げるように。
 優しい風に吹かれて。
 穏やかな陽射しに照らされて。
 ひとりの女子生徒が。
 男子寮の庭に立っていた。
「おはよう。刹那さん」
「はぃ………おはよう御座います。カイトさん」
 緋い瞳が、ニコリと優しく頬笑んだ。





「結局、朝飯を食いっぱぐれてしまった」
「………何で俺を睨むんだよ。甲斐那さん」
「…くすくす」
 恨みがましい目で見据える甲斐那に、カイトは明後日の方を向いて呆ける。
 そんな二人の三歩後ろを付いて歩く刹那は、子猫のように目を細めて頬笑んだ。
 幼い頃から変わらないやり取り。
 小学校から中学校へ、そしてこの舞弦学園へと繋がる、それは追憶の風景。
「解った。明日からは、カイトも私の早朝鍛錬に付き合って貰う」
「な、何で俺が…!?」
「仮にも、『弐堂式戦闘術道場』に席を置く者が、私の命令を無視して良いと思うのか?」
 刃の部、師範代である甲斐那がニヤリと笑う。
「汚いぜ、甲斐那さん! 大体、俺は正式に道場へ入門した訳じゃ………」
 甲斐那と刹那の実家は、歴史の古い道場だった。
 何やら由緒正しい謂れがあるらしいが、カイトも詳しくは知らない。
 カイトは弐堂式戦闘術道場の正式な門下生ではなかった。
 甲斐那と刹那の友達として、幼い頃から道場へ(遊びに)通っていたのは確かだったが。
「まだそんな事を言っているのか? 遅かれ早かれ、最低でも皆伝を取らなければ分家の者達も納得しないぞ」
 ヤレヤレと頭を振る甲斐那に、カイトが咬みついた。
「何の話をしてるんだよ!」
「君がそんな調子だから、私も腹を据える事ができない。そういう事だ」
「何言ってんだか………あ痛、ッ…せ、刹那さん?」
 二の腕に走った痛みにカイトが振り返ると、刹那は自分の手を不思議そうに見ていた。
「ど…どうかしたの?」
「………いえ。何でもありません」
「そっか」
 あっさりと納得して踵を返したカイトに、誰にも解らないほど僅かに刹那の頬が膨らむ。
 実は兄には解っていたのだが、そ知らぬ顔をして内心慌てふためいていた。
「大体、俺は刃術の方は苦手なんだよな〜…」
「………法術の方も大したコトないです」
「ごほっ…ごほごほっ!」
 膨れた刹那の呟きを、甲斐那が胸を押さえた咳き込みで潰す。
「風邪? ダメだぜ、甲斐那さん。夜更かしは」
「あ、ああ。気を付ける事にしよう」
 呑気なカイトの言葉に、甲斐那のコメカミが引きつる。
「…兄様はさておき」
「ぅ…せ、刹那」
 切り捨てられた甲斐那がこの世の終わりのような顔をする。
「カイトさんも眠そうですが………夜更かしは駄目です」
「いや、そんなんじゃ、無いんだけど」
 桜の花びらが、目眩いをおこしそうなほどに、視界いっぱいに広がった。
「変な夢を…見た気がして…」
 夢現の中で。
 淡紅色の花びらが、鼻先を霞めた。
 サクラの匂い、それは―――
『………ぉ…はよう。カイト君』
「カイト…さん?」
「みゅ………ぁ、セツナ、さん?」
 一瞬の目眩いの後に、青い空が視界いっぱいに冴え渡った。
 夏の空。
 グラウンドの土の匂いと、焼けたような草の、太陽の季節。
「桜の花が、今…」
 桜色をした髪の少女が、見覚えの無いはずの少女が、そこに居た。
 少し寂しそうに頬笑んで。
 緑色の葉を生い茂らせた桜並木の向こうに。
 その髪がまるで、舞い散る桜吹雪のように、そよいで流れた。
「桜? 今は八月だぞ、カイト。本当に寝惚けているのか?」
「ぇ、あ…あれ?」
 セミの鳴声が五月蠅いほどに響いていた。
 降りそそぐ五月雨のように。
 青く繁った桜の葉が、風に乗ってざわめいた。
「………………カイトさん」
 振り返ったその先に、影色の少女が佇んでいた。
 黒い、雫に濡れたような黒髪が、初夏の空に墨を映した。
「刹那…さん」
「…行きましょう?」
 差し出された手を掴む。
 その指先は温かく、そして冷たい。
 何故か解らなかったが―――それがとても嬉しく、そしてとても哀しかった。
「せ、刹那…」
 ふたりが去ったその場所で。
 忘れ去られた甲斐那が、崩れるように膝を落としていた。





「カ〜イ〜ナ〜さんっ!」
 返事は無い。
 ただの屍となった甲斐那に、腰に手を当てたカイトが溜息を吐く。
 3-Aの自分の机に着席した甲斐那は、両肘を突いた状態で顔を俯かせていた。
 その背中から、『世界の終わり』のような黒いオーラを漂わせている。
「………カイト。私は要らない兄なのだろうか?」
 錆びた声で呟く。
 苦悩を感じさせる、酷く真剣な独白だったが………毎日一度は聞かされていれば飽きる。
 というより。
「要らない」
 のであった。
 女子生徒は何故か喜んでいたりするのだったが。
 枯れ木のような甲斐那を放置して、窓際の自分の席に戻る。
 これも放置しっぱなしの教科書を机から取り出し、枕にする為の位置調節をする。
 担任のエルフ教師の出席確認が終わったら、神術の基礎講義時間。
 寝る為の時間である。
「………カイトさん?」
 びくり、とカイトの手が止まる。
 隣に並べられた机。
 そこから聞こえた小さな声に、僅かに咎めるような響きが混じっていた。
「いやっ、これは…その」
「…」
 睨むでも、責めるでもなく、ただその緋い瞳で見詰める。
 鏡のように映るのは、ただ自分の姿だった。
「―――ごめん」
「…」
 こくり、と小さく頷き、頬笑む。
 幼い頃から、記憶に残っていないほどの昔から。
 見守ってくれていた笑顔に安堵する。
 それがとても―――
「…どうか、したのですか?」
「え、何が?」
「…笑っています」
 ぷくり、と微かに頬を膨らませた刹那に、自分でも解るくらい口元が崩れた。
 確かに自分は笑っていたのかもしれない。
 それは、可笑しさから来る笑いではなく。
 嬉しさから来る、頬笑みのつもりだったのだが。
「ああっと、そのサ。………初めてだなと、改めて思ってさ」
「…?」
「だから、刹那さんと、一緒のクラスになれたのってさ」
 そうですね、と刹那は小さく頷く。
 無意識に口走った良い訳だったが、自分でも恥ずかしくなってしまいそうな台詞ではあった。
「小学校…中学校…そして、一年生、二年生と…」
「同じ学校に通ってても、一度も同じクラスにはならなかったからな〜」
「…そうですね」
 その、緋い瞳が空を彷徨う。
「…そうでしたね」
「ま、そんな運命も面白いな、って思ってさ」
「はい!はい! そこの、運命に玩ばれたカップルさん、ウザイ」
 元気の良い罵声。
 というより、からかうような声が耳元で再生された。
「鼓膜が破れたらどうしてくれる、チビッコ」
「チビッコって言わないでよね、ばカイト」
 振り向いた先に、狐の尻尾が二本、戯れつく子犬のように跳ねていた。
「誰が子犬よ! 誰がっ」
「そうだな、子犬に失礼だった…がッ」
「…コレットさん」
 脛を押さえて蹲るカイトの隣で、振り返った刹那が頬笑む。
 腕組をしたハーフエルフの少女は、呻くひとりの男子を無視して刹那に人差し指を突きつける。
「あ、ほらっ、また」
「…ぁ…御免なさい。コレット」
「うん、オッケ♪ 油断すると、すぐ『さん』付けに戻るんだから、刹那は」
 無意味なほどに大げさに頷いて見せたコレットは、恨みがましく見上げるカイトを黙殺した。
「しっかし、刹那も大変よね? 毎朝毎朝、こんなダメ夫クンの面倒見なきゃいけないなんて」
「それはど〜ゆ〜意味…」
「…いえ。カイトさんのお世話をするのは嫌ではありませんので」
 むくりと復活して来たカイトが、刹那の呟きにも似た台詞に硬直する。
 それはコレットも同じであり、滅多に見られない刹那の笑顔に見惚れていたクラスメートも同様であった。
「………参ったわね。ああまではっきり断言してくれちゃうか」
「あ、うん。何か、こっちの方が照れちゃうね」
 教室の後ろの方の席で、ふたりの女子が呟いた。
「でも、羨ましい…かな、私には」
「そういうモノかしらね?」
「うん。陽子ちゃんはどうなの? ロイド君とは、あんな感じ?」
 クラス委員長を務める明るい髪の少女は、自分の髪の毛を指先で弾いて頭を振った。
「冗談。アタシの柄じゃないわよ………そういうクレアはどうなの?」
「わ、私?」
 ソバカスの目立つ、どことなく垢抜けない、それでいて密かに男子から人気のある少女が、慌てて周囲を見回す。
「私は、ほら、あれ、だから、その…ね?」
「………まー良いんだけどね。他人の趣味に口出す趣味は無いし」
 曖昧な苦笑を浮かべるクレアに、陽子は机に肘を突いて顔を乗せた。
「見てる分には面白いんだけどね〜…」
 その視線の先では、爽やかな微笑を顔に貼り付けた男子が、硬直したままのカイトに擦り寄っていっていた。
「君は三国一の果報者だね、カイト」
「て、てめェ、シンゴ」
「ひとり身の僕には羨ましい限りだよ」
「ヤカマシイ」
 押し退けるようにして黙らせようとする。
 もっとも、それぐらいで大人しくなる奴ではなかった。
「こんなに素敵なステディが居るなんて、君は地獄に堕ちてもイイ位に幸せ物だね」
「べっ、別に俺と刹那さんは、ス…ステディって訳じゃ…」
 今更ながらに赤面して戸惑うカイトの首元に、冷たい鋼の感触が這う。
「―――それはつまり、私の妹を玩んでいるだけだと言うのか?」
「ち、違うって!」
 何時の間にかカイトの背後に回った甲斐那が、ギラギラと生々しく光る抜き身の刀身をその首に当てていた。
「見損なったぞ、カイト。引導はせめて私が渡してやる」
「だ〜ッッ! 何だって甲斐那さんは、そう直ぐに零式を抜刀したがるんだよ!?」
「切っちゃえ♪」
「「切っちゃえ切っちゃえ」」
 コレットの素敵な提案を、野太い声が繰り返し唱和する。
 クラス男子一同のシュプレヒコールが、甲斐那の背中を応援していた。
 大方、カイトが消えれば、自分にもチャンスが回ってくると考えているのに違いなかった。
「………まあ、日常の光景よね」
「………あ、あはは」
 コメカミを押さえる陽子に、クレアが苦笑した。
 クラスを代表して叱責を受けるのは、クラス委員長の自分なのである。
「…くす…♪」
 小さく、ほんの微かに。
 みんなの輪の中で、刹那が優しく頬笑んでいた。





「………まったく、皆、毎回々飽きないよな」
「…そうですね」
 心底飽きた、という風に頭を掻くカイトの隣で、頷いた刹那だったが、その顔は頬笑んでいた。
「いやいや、刹那さんも、良い迷惑だと思わない?」
 刹那はひとり愚痴を続けるカイトの机に、唐草模様の風呂敷で包んだ弁当箱を並べていく。
 包みはひとつ、箱はみっつ。
 自分と、カイトと、兄の分である。
「というか、毎朝、他に皆はやる事がないのかっての」
「…そうですね」
「だろ、刹那さんも、そう思うだろ?」
 昼休みのチャイムが鳴ってからも、自分の机で待っている甲斐那に、刹那が頷いてみせる。
 無駄にシリアスを装っている顔が、僅かに崩れる。
 その様をカイトは子犬みたいだ、と評価したが、その台詞を理解できたのは刹那だけであった。
「…ですが、私は嫌ではないですよ?」
「う゛…だけどね、刹那さん」
「刹那を困らせているのか、カイト?」
 笑顔でカイトの肩に置いた指が、良い感じで筋肉に食い込んでいた。
「あいだだ、甲斐那さんには関係な………ぃダダだ」
「兄様? カイトさん」
 笑顔で小首を傾げる刹那の口元に、はっきりと怯んで手を離す甲斐那。
「そ、そうだな。嫌ではないな、私も。そう思うぞ、とてもな」
「俺も嫌いとか、そういうんじゃなくて、ただ、ウザイなと」
「嫌いじゃないのは結構なんですけどね?」
 男ふたりの後ろに、腕組をした陽子が頬を引きつらせて仁王立ちしていた。
「その毎度の馬鹿騒ぎでトバッチリを食らうのは私なんですが?」
「ご馳走様よねェ………本当」
 色とりどりの惣菜が並んだ弁当箱の中から、ひょいひょいと中身が消えていく。
「あ、この鳥唐オイシイ。どうやって下ごしらえしてんの? 刹那」
「…それはですね。前の晩から醤油と生姜に…」
「ああっ、そうだよな。甲斐那さん。醤油だよな、やっぱ!」
「うむっ、それに生姜を忘れてはならんな、秘訣は生姜だ」
「っていうか、何で、毎度毎度、俺の弁当を盗食いすんだろうな、コレット!」
「―――アンタ達、それで誤魔化してるつもり?」
 ザワザワと、陽子のカチューシャで纏められたロングヘアが、蛇のようにざわめく。
 足元から無意識に放射される魔法力が、放射線状にオーラを形成する。
 実際、別の人物から『初対面』で『教室の中』で『魔法で焼き殺され』そうになった経験のあるカイトは逃亡態勢を取る。
「…あ…陽子さん? 廊下でお待ちしている方がいらっしゃるようですよ」
「あっ、えっ?」
 般若の形相だった陽子の角が隠れる。
「………何だろ、珍し。あっちから来るなんて」
「…何やら、廊下が騒がしいみたいでしたので」
 小さく舌打ちした陽子が、ひとりで食べるには大きな弁当包みを持って廊下に向かった。
 窓から、銀色の髪をした男子が、何人かの女子生徒に昼食の誘いを受けているのが見える。
 その、オドオドした男子の姿に、甲斐那は鼻で笑った。
「………惰弱な」
「ロイドも甲斐那さんにだけは、その台詞を言われたくないと思うんだけど」
「………君もな」
 甲斐那はカイト分の弁当を食い尽くしたコレットの手が、自分の弁当に伸びてくるのを必死にガードしながら頷いた。





「本当に、いつもこの調子なんだから…」
 陽子は腹立たしい、というよりは呆れたように呟く。
 昼休みの屋上には疎らな人影が見えた。
 陽射しが眩しい季節に、わざわざ熱い場所で弁当を広げる物好きは少なかった。
「済まなかった、な。別に用事があった訳ではなかったんだが」
 口元に手を当てたロイドが、言い訳するように呟く。
「ああ、ロイの事じゃないよ。ウチのクラスの、名物三人組みの事」
「確か、弐堂式道場の跡取と、息女」
「プラス、おまけ一人」
「………相羽カイト、だったか?」
 膝の上に弁当箱を乗せた陽子が、大きく空に手を伸ばした。
 凝っていたのか、肩が鳴った。
「そー。どっちかって言うと、あれが元凶なのかもね? 知ってるの? 相羽くんの事」
「そうだな。いや、どうだろう?」
「何それ?」
 曖昧な答えに、小さく吹いた。
 ロイドが甲斐那や刹那を知っているというのなら、理解できる。
 弐堂式道場はベルビアにおいても名の知れた流派だったし、舞弦学園の中でも剣士の双璧と噂されている相手だ。
 だが。
 成績も生活態度も平凡。
 特に目立った性格をしているわけでもないカイトの、どこに目が止まったというのだろう。
『あ。周りがアレだから、凡庸なのが目立つのかもね』
 自分の出した結論に満足した陽子が、僅かに相好を崩した。
 ロイドは黙りこんでしまった陽子に、いささか慌てて言葉を足す。
「とにかく済まなかった、何となく、陽子に会わなければならないと。僕の詰まらない思い込みだったんだが…」
「怒ってるんじゃないよ………それに」
 陽子は答える代わりに、アルミの角弁当を押し付ける。
「私と一緒にお弁当を食べる、ってのは、大事な用事でしょ?」





 西の空が緋色に染まっていた。
 まるで、童話に歌われるような茜色に染まった夕陽。
 カラスが鳴いて、虫の声まで聞こえてきては―――型に填まりすぎて風情も感じない。
 いささかウンザリするのは何故だろう。
「…疲れ、ましたか?」
 溜息を吐いたカイトに、隣に影のように歩いていた少女が首を傾げる。
「そんな事は無い、んだけど」
「…」
「本当はちょい、疲れたかな?」
 カバンを背中に背負うように伸びをしたカイトは、空を見上げたまま独り言のように続けた。
「毎朝、起きて学園に向かって、授業は退屈だけど、馬鹿なコトやって笑えるダチも居るし、色恋沙汰もそれなりに賑やかで落ち着いてて―――。四月から何て言うかまるで」
「………夢のような日常」
 ぽつり、と背後で呟かれた言葉に頷く。
「そう、そんな感じだよな」
 けして暇を持て余すような日常ではなく、それなりに刺激が訪れるイベントの毎日。
 それでも、日常という『リング』を壊すほどでもなく、振り返れば許容誤差に日々の思い出となってしまうような。
 そんな毎日。
「でも………ちょっとだけ、贅沢だってのは解ってるんだけど、ほんの少しだけ」
 そこから先は、決して口に出してはならない言葉のような気がした。
 カイトと刹那は、無言のまま人影の無い裏庭の道を歩く。
 寮へ戻るには遠回りになるために、ほとんど使う生徒も居ない、そんな散歩道を。
 足音を揃えて。
 影を重ねたまま。
「…では、カイトさん」
「あ、うん」
 女子寮の壁までたどり着くと、足を止めたカイトを刹那が追い越す。
 向かい合ったまま時が止まった―――ような気がした。
 黒絹のような髪の毛。
 そしてそこから僅かに覗く、とんがり耳。
 髪に結わえたリボンも、真っ直ぐな瞳も余りにも純粋に緋く映っていたから。
 そこに在るか確かめるように、そっと指先を伸ばして頬に触れた。
 そのまま、指先の流れを止められずに髪を梳るように滑らせて、そのまま。
「…ん」
 瞬くほど微かな刻の間に、影が重なって離れた。
「…また、明日です」
「あ、うん」
 影に触れる事が出来ないのと同じように、カイトの腕を通りぬけた影が壁の向こうに消えた。
「お休み………刹那さん」




 そのまま歩く。
 ほんの目と鼻の先にある男子寮へ。
 ゆっくりと、空を仰ぐように。
 眺めて。
 西の空が緋色に染まっていた。
 茜色ではない。
 それよりも、深く、暗く。
 夕暮れと宵闇の狭間。
 闇の帳が降りる、ほんの数舜の隙間。
 その時の空の色を例えるなら、答えは一つしかないに違いない。
「―――血を流し込んだみたいな」
 空の下に。
 待っているのは。
 いつか見た、いつかずっと一緒に過ごした、桜色の髪をした少女。
 でもそれは、脳裏に浮かんだよりも、ずっと深くずっと暗い。
 まるで今の空のような、そんな緋色の瞳をこちらに向けた。

『―――オマエの望みは?』

 まだ、叶えられてはいない。







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