竜園

Original Novel

Times New Romance




第T章  終幕から序幕へ










 虚空を貫く魔力の閃光が脇腹を掠めた。
 凶悪な程の力場と濃度が圧縮された、鮮血色の無数の魔弾。
 四方に放たれた残光を曳く光弾が、刀を正眼に構えた彼に収束する。
 ロックオンされたレーザーは、彼の残像を貫く。
 彼は空間干渉法を使い、瞬間移動で奴の懐へ飛び込んだ。
「がああああああぁつ!!」
 獣じみた気合いと共に薙ぎ払われた聖剣が、金剛石のような外皮を抉った。
 濃緑色の体液が聖堂の湿った空気に飛び散る。
 大気どころか聖堂そのものを震わせる悲鳴、それに乗せられた死気が、避けられない衝撃波となって肉体を痛打する。
 体勢が崩れた一瞬、狙い澄まされたかのような打ち下ろしに鎖骨が砕かれた。
 幸い利き腕ではない。
 戦闘能力に著しい損傷はない。
 痛みならば、同じような傷は全身に負っていた。
 とはいえ、精神力による出血の制御も限界に達していた。
 その時、不意に聖剣・狭霧の刀身が発していた白光が薄らいだ。
「狭霧! 集中を乱すな。治癒に回すフィールドは必要ない!」
『ですが、マスター。既に生命維持の負傷限界レベルを超えておられます。これ以上の戦闘は自殺行為です』
 聖剣に宿りし狭霧の名を持つ精霊が、冷静な現状判断を述べる。
 自殺行為か………
 それでも構いはしない。
 彼奴を屠る代償がこの命ならば、相討ちは望むところだ。
『ここはお引き下さい。聖堂はもはや陥落いたしました。マスターは最後の護法騎士なのです。一度引いて再起を………』
「この世界の事など、糞食らえだ! 殺す、俺はこいつを殺す為だけに生きてきた!!」
 身を焦がす憎悪、殺気が波動となって大気を引き裂く。
 他のどんな感情よりも強い意志、総てが復讐の為だけに。
 目の前の獣魔は、涎塗れの牙を剥出しにして吠える。
 異界より降臨した、凶悪な獣魔。
『お願いです、マスター。私は、貴方を死なせたくない………!』
 氷のような狭霧の声に、初めて縋るような響きが混じった。
 たとえ今逃げのびたとしても、総ては遅すぎた。
 現世界の中枢を司る聖堂は、瓦礫となって崩壊しようとしている。
 もはや他次元からの獣魔たちの、侵攻を食い止める結界はないのだ。
 世界中のあらゆる種族から選ばれた守護聖戦士は、皆死に絶えた。
 聖堂のあちらこちらに散らばる仲間たちの死体を、数えきれない侵略者たちが踏み躙っている。
 彼は残り総ての力を狭霧に集中させた。
「出でよケルベロスよ! 冥界より来たりて我が肉体に宿り給え」
『いけません! マスター、その身体で獣降臨は………マスターッ!!!』
 狭霧の悲鳴に重なるように、彼の背後に狼が実体化した。
 彼と同じ程の体長の、銀光をまとった黒銀の毛皮が、神々しいほどに美しい。
 今は無き神威流剣術の、冥位を司る最強の聖獣。
 不図、走馬灯のように懐かしく、あの頃の思い出が脳裏に浮かんだ。
 雲が流れる穏やかな風。
 森の木漏れ日に映し出される、穏やかな午後。
 木造の道場から聞こえる稽古の声に、懐かしい声が重なる。
『こらっ、飛鳥。なーにさぼっているのかな?』
 優しいその笑い声も、笑顔ももう二度と見れることはないのだ。
 最後に彼女を見たのは、苦痛に歪んだ血だらけの顔。
『あ…すかぁ………助け…て』
 伸ばされる腕が不意に軽くなり、肩から千切れた細いそれが手の中に残される。
 目の前で四散する彼女の身体。
 鮮やかに弾ける鮮血の中、ぶぢぶぢと千切れていく肉体。
 まるで人形のように転がる彼女の頭。
 そして、鮮血を滴らせながら腸を食らう獣魔。
 愛した女も守ることの出来なかった自分。
 夢の中でさえも忘れることの無かった、あの日の場面。
 身を焦がす復讐の相手が、今、目の前にいる。
 其れは死を前にした走馬灯のような光景だったろう。
 彼は右目に手をかざし、あの日に獣魔に刻まれた醜い傷跡をなぞった。
 復讐のために修羅となり、幾多の年月が流れた。
 この世界を護るための守護聖戦士となっても、過去を繰り返すように自分を残してすべての仲間は死に絶えても。
「…ケリを…つけようか………」
『マスターッ! いけませんッ、お願いです…から」
 痛い程に透明な主人の呟きに、狭霧は玉砕の覚悟を悟った。
 聖剣の使い手が死亡すれば、狭霧もまた消滅する。
 狭霧は自らの死を恐れてはいなかった。
 彼と共に幾多の敵を葬ってきたが、彼と一緒に過ごした時間が彼女にひとつの思いを抱かせていた。
『……愛しているんです。アスカ様……』
 縋るような思念に、彼は微かに肩を震わせた。
「………すまん」
 狭霧を握る手に思いを込めて彼は呟き、命と引き替えに得る最後の力を身に宿した。
「我が身と共に歩みし聖獣ケルベロスよ。立ち塞がる御敵討ち滅ぼさんが為、我に宿り給え。獣降臨!!」
『ゴアァアア!!!』
 白銀のたてがみを逆立たせ、野獣のごとく雄叫びを上げるケルベロス。
 深紅の瞳を燃え上がらせ、牙の突き出した口から煙が立ち上る。
 呼び掛ける彼に向かい駆け出す足元で、地面が爪でえぐられていく。
 彼に襲いかかるかに見えた瞬間、目を覆う輝きの中で、ふたつの影が染み込むように融合した。
 白光の中、苦痛に顔を歪ませる彼の姿が変わっていく。
 白銀に染まった髪が、たてがみのように背中まで伸び広がり、八重歯が牙のごとくせり出す。
 骨格が軋み、背筋が人間の限界を超えて膨れあがる。
 千切れ飛んだ服から覗く筋肉は、鋼のワイヤーを撚り合わせた強靭さが宿る。
 聖剣を握る指も獣のように節くれ立ち、爪が伸びて短剣のようだ。
 一瞬のプロセスが終了した後、紅の瞳を開いた彼は獣魔を見つめる。
 獣魔は本能的に、彼が強大な別の存在に変化した事を感じた。
 怯えるように放つ咆哮が、彼のしなやかに伸びた鬣と尻尾をなびかせた。
 其の姿は、神話に伝えられる半神半獣の亜神そのものだった。
「ぐォあァあァぁアアーっッ!!」
 弾けるような雄叫びを上げたのは、彼か、獣魔か。
 彼は呪文も儀式もなしに、冥界より獄炎を呼び出す。
 地を走る青白い火炎の爪痕が、獣魔に収束した。
 とっさに魔力障壁を張って防いだ獣魔は、黒いオーラを吹き出す狭霧の刀身を背後に感じた。
 瞬間移動にも似た彼の打ち込みは、獣魔の肩口から腹をかっさばいた。
「再生の時間はヤラヌッ!」
 苦痛に藻掻く獣魔の腹腔に狭霧を突き立てた飛鳥は、己れの力の全てを使って必殺の呪撃を打ち込んだ。
「餓ッ爪ッ裂ッ牙ッ!!」
 聖刀を媒介して増幅された冥獣の力、数多の見えない牙爪が獣魔の体内で炸裂した。
 絶叫する獣魔の身体に、無数の裂傷が刻まれていく。
 其れは見えない獣達のあぎとで喰われていく、悪夢の光景だった。
 断末魔を上げる獣魔は、最後の足掻きに彼を道連れにすべく、背中より無茶苦茶に魔弾を撃ち撒いた。
 聖獣合身で肉体の限界を越していた彼にも、天井の瓦礫が崩れ落ちる。
 精髄からケルベロスの融合が解けると、筋肉の筋が断絶し、破れた血管から鮮血が吹き出した。
 致命傷を負わせた事に最後の満足を得た彼は、死を前に微笑みを浮かべた。
 全てが灰燼になる其の瞬間に、一発の魔弾が聖堂の中心部を貫いた。
 開放された原始の混沌の力が、周囲を包み忘却の彼方へと押し流していった。
 聖も邪も入り交じった優しい閃光に身体を焼かれながら、彼はあの日以来、感じることの無かった安らぎの中に居た。
 あれは何時の日だったのか………。
 温かい木漏れ日と、側に腰掛けた少女のかけがえのない温もり。
 忘れない、忘れられない、黄金のような日々。
 世界の終わりを感じながら、彼はつぶやいた。
「………………沙羅……終わった、よ」
 その言葉を待っていたように、聖堂のエネルギーが臨界を超えて爆発した。
 聖堂に攻め込んでいた獣魔たちが、白光に焼かれ絶叫を上げていく。
 不意に息絶えようとしていた飛鳥の周りに、聖堂の暴走する力が渦巻いていく。
 全てを圧する閃光と爆音が鳴り響いた。
『………最後の護法騎士……アスカ。今一度、貴方にすべてを賭けましょう……』
 時空間が崩壊していく中、飛鳥が消滅した空間に朧に浮かび上がった人影があった。
 世界の礎たる女神アイメル=ララ。
 彼女が消えることは、すなわち世界の消滅を意味する。
 足先から崩れていく女神は、飛鳥を思い最後の祈りを捧げた。
『アスカ。貴方の強い思いがあれば………』
 消えゆく彼女は、何故か微笑んだ。
 初めて顔を合わせたとき、世界そのものの女神である自分に対して、彼は敬い崇めるどころか、他の人間に話すように悪態を吐いたのだった。
 まるで人間のように。
 まるで友人のように。
 まるで恋人のように………。
『………私によろしくね………。アスカ』
 彼女が塵に帰った瞬間。
 世界セフィーロは消滅した。










「あれ………?」
「どうしたの? 飛鳥」
 王都ファクナシオを望める丘の上で、飛鳥は誰かに呼ばれた気がして振り返った。
 癖の無い黒髪が短く切り揃えられ、木漏れ日に優しく風にそよぐ。
 優しげな造作の童顔は、時折女の子に間違われる。
 体付きもまだ少年のそれで、同門の門下生からのいじめに一役買っていた。
「えと、誰かが僕を呼んだ気がして………。沙羅は聞こえなかった?」
「ううん、全然。気のせい………あ、でも飛鳥、勘いいもんね」
 飛鳥の隣で倒木に腰掛けている少女が、悪戯っぽい微笑を浮かべた。
 少女の笑みに眩しさを感じた飛鳥は、慌てて顔を逸らす。
 心臓が高鳴りがばれそうな気がする。
 押さえようとすればするほどに、頬が熱くなっていくのが自分でも分かった。
 少女はそんな飛鳥の内心を知らず、小首を傾げて空を見上げる。
 少年のように好奇心を湛えた鳶色の瞳に、木漏れ日に優しく流れる栗毛の長髪は、腰帯の辺りまで三つ編みに結わえている。
 沙羅は街の同年代の女の子のように着飾る事は、滅多にない。
 動きやすい男の子が着る服を好み、童話の中のお転婆姫みたいだ。
 飛鳥は駄目だと思いつつも、魅入られるように沙羅の横顔に見惚れた。
「ん? どうかしたの、飛鳥?」
「あっ、後免。な、何でもない」
 さらに顔を真っ赤にしてどもる飛鳥に、お姉さんぶるような顔をしてみせる。
 くるくると良く変わる表情に、飛鳥は見惚れつつも感心する。
「もう、今日はどうしちゃったの? 変な飛鳥」
「何でもないってば!」
 気持ちに反して無理遣り視線を外し、意味もなく空を眺めた。
 雲雀の鳴き声に、蒼天に漂う白雲。
 温かい木漏れ日と、隣に座る少女の温もり。
 飛鳥は今日のこの時を、一生忘れないようにしようと心の奥に刻み込んだ。
 その瞬間。
 飛鳥は激しく胸が脈打つのを感じて呻いた。
 今さっきまで感じていたときめきとは違う、恐怖にも似た激しい悪寒だった。
「飛鳥? どうしたの…飛鳥っ、飛鳥!」
 突然うずくまった飛鳥に気付いた沙羅が、慌てて肩を抱く。
「飛鳥っ、大丈夫? 平気?」
「あッ…くぁあッ…あッ。何かが………来るッ!?」
「えっ…?」
 顔を上げた飛鳥は、何もない虚空を凝視した。
 一緒に同じ方向を見た沙羅が、泣きそうな気持ちで幼なじみの正気を疑う。
「ええっ…ああっ?」
 瞬間、激しい轟音に少女は飛鳥に抱きついた。
 数百本の刀を、纏めて叩き折ったような酷く硬質な怪音。
 限界まで歪んだ何かが、たわんだ悲鳴。
 遠くに見える城の風景が、螺旋を描くように、無秩序に歪んでいる。
 鼓膜が破れる程の大音響と共に、落雷のような衝撃が飛鳥と沙羅のま直に落ちた。
 新芽が吹き飛ばされる程の衝撃の中で、飛鳥は反射的に沙羅を強く抱き締め守る。
 舞い上がるつちぼこりに、何とか転ばずに持ち堪えた。
「なっ、何? なにっ、何なのぉ! 飛鳥っ、飛鳥ぁ」
 吃驚して譫言に自分の名を呼ばれ、より一層強く沙羅の身体を抱き締める。
 こんな状況でなければ、初めて身体を密着させた事実に卒倒していたかもしれない。
 異常な嵐は、起こった時と同様に唐突に消滅した。
「今のは………」
 飛鳥は呆然として辺りを見回す。
 遠くでさえずる小鳥の鳴声。
 柔らかく射し込む木漏れ日に、泡沫の微風が流れ込む。
 何時もと変わらない、先程までの風景。
 舞い散ったはずの葉っぱでさえ、萎れもせずに陽の光を享受していた。
「そんな…夢?」
「ぁ…すか、痛いよ」
 悪寒の抜け切らぬ飛鳥に抱かれた沙羅が、顔を真っ赤にして呟く。
 優しい香のする栗色の髪の毛が、鼻先を霞め舞う。
 小さく悲鳴にも似た声を上げ、反射的に身体を放す飛鳥。
 その様が余りにも仰々しく、沙羅は可愛らしく口元を押さえて笑った。
「ち、違うんだ。その…へ、変な気持ちとかじゃ、なくって…。ほ、本当だよ。ぁ…あ、言い訳じゃなくって、その、あ…あの」
 飛鳥は裏返った声で言い訳を繰り返した。
 額には汗が浮かび、必死に手を振り訴える。
 余りにも不器用過ぎる申し開きは、誰もが少年の身の潔白を疑いそうな代物だった。
 沙羅は無論、誰よりも飛鳥の事を知っている。
 奥手過ぎる恋人に、ちょっとした茶目っ気を思いつく。
「本当かな? ………ボクの事、押し倒そうとか思ってなかった?」
 悪戯っぽい鳶色の瞳が、上目遣いで飛鳥の顔を覗き込む。
 ちらりと唇を割る舌先に、飛鳥は気づかない。
「ボクとしては、初体験はちゃんとした布団の中がいいなぁ…なんて、ねっ?」
 流石に赤面して片目を瞑ってみせる沙羅に、飛鳥は頭を真っ白にして硬直した。
「嘘、嘘っ! やだなぁ、本気にならないでよ。飛鳥のエッチ」
「ッて、何言ってるんだよ。沙羅の馬鹿………ぁ?」
「でもね。飛鳥になら、そろそろいいかな…とか思ってるんだよ。あはっ」
 クスクス笑いの止まらない沙羅は、身動ぎした飛鳥に気づかない。
 しかし、直ぐにその大きく見開かれた瞳に、怪訝げに小首を傾げる。
「どうしたの? ………怒った?」
「誰か居る………。誰っ!?」
「えっ…きゃ!」
 自分を通り越した背後に問い掛ける飛鳥に、もう一度抱きついてしまう沙羅。
 ふたりが逢瀬に使用する大樹の根元に、何者かが蹲っていた。
 半刻前には、確かに誰も居なかったはずである。
 沙羅は鼻に付く異臭に眉をひそめる。
 丈の長い下草に隠れ、誰かが横たわっている。
 近付いて覗き込んだ飛鳥は、血だらけで倒れ伏した男に悲鳴をあげる。
「うわ…ッ! し、死んでる?」
 引き裂かれた戦闘服は鮮血で染め上げられ、肉をえぐる鋭い傷跡を露にしていた。
 背中まで伸びた銀髪も、赤黒い出血に浸されている。
 抜き身の酷く美しい戦刀が、その右手に固く握り締められていた。
「落ち着いて、飛鳥! 今、少し動いた。まだ生きてるよ! この人ッ」
「だ、誰か…よっ、呼んでこなくっちゃ!」
「ボクが応急手当してみるから、飛鳥は道場から人を呼んできて」
 頷いた沙羅は、飛鳥よりも少しだけ冷静に考えた。
 飛鳥の慌てぶりに、自分が確りしなくてはと自戒してしまうのだ。
「わ、解った。沙羅も気をつけてね。獣とかに襲われたんだよ! きっとッ」
「大丈夫だよ。其処等の野獣なら、ボクの剣であしらえる」
 太股に吊っていた小剣を抜いた沙羅は、着物の袖を破った。
 皆伝を授けられた時に授与された精刀が無くとも、沙羅の腕前はマスタークラスだ。
 天才と称賛を受ける剣の腕は、王宮騎士にも匹敵する。
「酷い…肋骨が砕けて、肺まで貫通してる。この爪痕、竜とでも戦ってたの………?」
 飛鳥が走り去ってすぐ。
 両手を血だらけにした沙羅が、額の汗を拭う。
 道場の必須訓練である応急手当を施すが、生死に係わる程の実技は初めてだ。
 素人目に見ても、手遅れである事が解る。
 特に胸の傷は、目を覆う程だった。
 戦鎚で抉られたような溝が、幾筋か深く刻まれている。
 何者かの爪痕なのだろうが、見知った獣でない事は確かだ。
「………ぁ……ら…」
「えっ? 何、意識が…?」
 男の震える手が、沙羅の腕を弱々しく掴む。
 熱に浮かされた強い眼差しで、手を握り返した沙羅を射竦める。
「さ…サラ………生き…て………」
「!?…ど、どうして、ボクの名前?」
 不思議な程安らかな微笑みを浮かべた男は、深い昏睡に身を委ねていった。










 彼は穏やかに目覚める。
 古ぼけた見知らぬ、だが、微かに覚えのある天井を眺める。
 青草の優しい匂いが、忘れていた記憶に囁きかける。
 障子越しに聞こえるのは、素振りの掛け声、池に跳ねる鯉の水音。
 身に染み付いた、遠き日の思い出。
「ここ…は………?」
 彼はゆっくりと身を起こす。
 洗い晒しの掛け布団が捲れ、自分が着ている寝巻を見下ろす。
 長く眠りに浸っていたのか、身体の節々が軋む。
 身に付けた習性が、周囲の状況判断を済ませていた。
 六帖程の子部屋に敷かれた布団。
 箪笥に卓袱台、普段は物置か何かなのだろう。
 障子を照らす光が、真昼時を教えていた。
 無意識の癖で左目の傷を撫でる。
 色素を失った銀髪が、意図通りに顔の半分に掛かる。
 心が、酷く穏やかだった。
 胸を焼けただらせていた疼きが、畳の匂いで癒されている。
 感じたことの無かった安らぎ。
「死んだのか………俺は」
 死んだのだろう、と穏やかに思った。
 何時も、どこかに感じていた痛みがない。
 自分にとって苦痛が無いという事は、生が終わったという事なのだから。
 悪くない。
 求めていた死の眠りが安らぎならば、何故、俺は目覚める愚挙を犯したのだろう?
「マスター………」
 聞き慣れた呼び掛けに振り返ると、実体化した狭霧が立ち尽くしていた。
 黄金色の髪に一対の翼、優美な曲線を描く身体に、半透明のショールを纏っている。
 一般に天使、御使いと呼ばれている聖霊だ。
 聖剣『狭霧』と融合しているため、本来の霊力には制限を受ける。
 枕元に置かれた聖剣の上に浮かんだ狭霧は、滅多に無い、酷く困惑した表情で俺を見詰めている。
「ふふ………済まなかったな。冥府にまで付き合わせる羽目になるとは」
「本当にそうならば、決して後悔は致しません。貴方のお側に居る事が、私の望みなのですから………ですが、ここは」
 言い澱んだ狭霧は、怯えたように翼を震わせる。
 彼はただならぬ事態に気を引き締める。
 狭霧を相方としてからあらゆる敵と相対してきたが、恐怖におののく表情を見たのは初めてだ。
 ふたりは同時に、廊下に面した障子に視線を向ける。
「アスカさま、気を確かにお持ち下さい。それから………ご自分のお名前は、明かさない方が宜しいかと………」
「何故だ? 狭霧………」
 板床を軋ませる複数の足音が近づき、狭霧は霧のように実体化を解く。
 彼は布団の中でくつろいだ様を装い、瞬時に抜刀出来る位置に狭霧を置く。
 身に処せられた待遇からして敵ではなかろうが、常に戦いが念頭に浮かぶ。
 死合うにしても、たかが人間なら何程でもない。
「だっからサ。嫌な感じするんだ、なんとなくだけど………」
 その声。
 心臓の鼓動が止まる。
 頭の中が真っ白に染まる。
 夢に聞いた、幾度も。
 総ての安らぎと、苦痛の記憶。
 唐突に障子戸が開け放たれ、差し込む閃光に目が眩んだ。
「あ、起きたんだ。って、ひょっとして聞こえた? 後免ね、悪気はないんだ」
「何、馬鹿言ってるの。許してやってね、一応、命の恩人なんだからサ。この子達」
「いた…叩かないでよ。ミィ姉」
 親しげに少年を小突いた女性は、冴えた美貌に優しい微笑みを乗せていた。
 長身の体躯は、野性獣のようなしなやかさがあった。
 日々の鍛練で引き締められた躯が独特の気配となり、人を寄せ付けない孤高の狼を連想させた。
 道場の師範代の着物は、男性物であったが彼女の魅力を損なう事はない。
 日焼けしてくすんだ金髪が、うなじを流れ背中に散っている。
 剣を振るう様は激しく、美しく。
 武門当主の娘として、常に完璧な振る舞いを見せてた。
 神威流剣武術師範………神威 美龍。
「ん? どうしたの、君。あたしの顔に何か付いてる?」
「い、いや。貴女は? そして…此処は………?」
 解っている問い。
 上擦る声が、詰まった。
「そうね。一応、事情を説明しておくわ。知ってると思うけど、此処は王都ファクナシオ。そして、神威流道場の母屋よ。本来なら、部外者はご法度なんだけどね。吃驚したかしら?」
「美龍姉。思い切り吃驚してるよ? この人」
「別に構わないんじゃない? 神薙か神狩の関係者じゃなきゃね」
 さり気なく男の反応を盗み見た美龍だったが、どちらの想像とも違っていた。
 男は顔を蒼白にして小刻みに震え、何かを呟いている。
 死、夢、などの単語が聞き取れたが、意味が理解できない。
 取り合えず、間者ではなさそうだと判断する美龍。
「ぁ…あの、大丈夫ですか?」
 気の弱そうな、端正な顔立ちをした少年が此方を覗き込む。
 絵に描いたような人畜無害の少年に、激しい恐怖と嫌悪感が込み上がる。
 気遣いで伸ばされた手が、音高く払い除けられた。
「っ…何するのよ! この恩知らずッ」
 飛鳥の代わりに、柳眉を逆立てた沙羅が腰に手を当てて怒鳴った。
 無礼な言葉遣いに眉間を押さえた美龍だったが、白髪の男の不自然な程の怯えた様子に興味を認めた。
 息は荒く、飛鳥を睨みつけるその態度は、手負いの獣に酷似していた。
 美龍はその瞳の奥に、激しい恐怖が宿っているのを見抜いた。
 その手が枕元の戦刀に伸びるのに、流石に身構えて弟を庇う。
「ぁ…あ………?」
 だが、飛鳥は打たれた手を押さえたまま、電撃が走ったように硬直していた。
 目の前の男に、奇妙な懐かしさを感じたのだ。
 それは、言葉に言い表わせない、不思議な胸の高鳴り。
 部屋に満ちた険悪な空気の中、不意に澄んだ音が響き渡った。
 水晶が弾けるような、美しい鈴の音だった。
 歌うように転がる鈴の音色は、異邦人の戦刀の柄から響いていた。
 鞘と鍔に絡まる銀糸に、小さな鈴が揺れていた。
 飛鳥達は、初めて聞く心地よい音に、一瞬心を和ませる。
「………申し訳ありません。恩人に対しての無礼、お許し下さい」
 彼は頭を跪いて身を正すと、飛鳥達に向かい頭を垂れた。
「あ、いえ。此方こそ、え…と」
「飛鳥! 何、萎縮してんの」
 武人にとって頚部を晒すという事は、殺生与奪件を預ける最大限の謝罪であった。
 照れる飛鳥を、沙羅が軽く叩いた。
 小さく溜息を吐いた沙羅は、自分を見詰める熱い視線に気づく。
 居心地悪げに身動いだ彼女は、逆に異邦人を正面から睨んだ。
 同じく溜息を吐いた美龍は、腰の戦刀から手を外した。
「どうでもいいんだけれどね。あんたはまだ動ける身体じゃないはずだよ? 肋骨はばらばら、胸の縫合何針縫ったと思ってんの? 安静にしてる事を勧めるけれどね」
「心遣い、感謝いたします。美龍殿」
「あは、止めとくれ。敷地内で人死に出しちゃ、家名の沽券に係わるんでね。薬師を呼んだから、暫し休むといい。この空き部屋で良ければ、の話だけれど」
 深く頭を下げたままの男に苦笑し、飛鳥達を促して廊下へ出る。
 不図、振り返った美龍は、ひとつの問いを放った。
「そうだ………貴方、名前は?」
「あ…」
 弾けたように顔を上げた異邦人は、もう一度身動ぐ。
「あ…阿修羅。シュラと呼んで下さい」
「ふん………? では、ご自愛なされよ。修羅殿」










 障子戸が閉まり、元の静けさが戻っても、彼は姿勢を動かす事が出来なかった。
 沈黙の続く中、彼の肩が小さく震える。
「マスター…」
「狭霧、これは夢か………? それとも、真の冥府か? 俺の気が狂ったのか?」
 再び姿を現した狭霧が、苦しむ主人を優しく抱いた。
「やはり…あのお方が、マスターの………」
 狭霧は線の細い、気弱そうな少年の微笑みを思い出す。
 一目、見て感じた。
 自分の主人と、同じ存在であった事実に。
「ありえない! 嘘だ………。沙羅、ミィ姉。死んだんだ、皆」
 震えの激しくなった彼は、畳に爪痕を刻み入れる。
「此処は…俺の………過去、なのか?」










「美龍殿…か。間者の疑いも捨て切れぬか」
 面識のない者から、ファーストネームで呼ばれる事はまず無い。
 あの男は始めから、自分の名前を知っていたのだ。
 美龍は後のふたりに気づかれぬ様、小さく呟いた。
 いざとなれば、内密に事を済ませなければならない。
 当主である父が不在の今、その役目は自分だ。
 だが、出来るならば純真な心を保った二人には悟られたくない。
「気に入らない! 気に入らない! 気に入らない! ボク、やっぱりあの男嫌いだ」
「まぁまぁ、落ち着きなさいって。飛鳥に当たっても、本末転倒でしょ?」
 沙羅の恋愛相談役でもある美龍は、謂われなく飛鳥を虐める沙羅を諭した。
 幼い頃からふたりの保護者として、良き相談役として見守ってきたのだ。
「うぅ…でも、嫌なものは嫌なんだモン」
 プライベートでしか見せない優しい笑みを浮かべた美龍は、うなじに掛かったほつれ毛を梳いた。
 ようやくその時になって、掌にびっしょりと汗をかいている事に気づく。
 あの男が身構えた瞬間。
 彼女の中の戦闘本能が危険を感じたのだ。
 恐らくは、無防備でさえあった男に。
 流派を代表する、師範代である自分がだ。
「確かに………普通の旅人じゃあないわね」
「でしょ? でしょ?」
「でも…悪い人じゃないよ。たぶん…」
 むっとして振り返った沙羅は、叩かれた右手を不思議そうに眺めている飛鳥を叩く。
 すぽんっと景気良い音が縁側で鳴る。
 反射的に後頭部を押さえる飛鳥。
 条件反射になっているのが、何とも悲しい。
「叩かれて喜んでるなんて、飛鳥の変態!」
「そりゃー、貴女に殴られ慣れてるからじゃない? 気を付けないと、飛鳥ったら修道に走っちゃうかも?」
「ミィ姉………言っていい冗談と、悪い冗談あると思う」
 真剣に心配そうな目を向ける沙羅に、じと目の飛鳥が美龍を睨んだ。
「あはは。しっかしねぇ? よく持ち直した事。あの出血で心臓停止まで行って、薬師も匙を投げたってのにさ。たった二日で喋れるまで回復するとは、尊敬に値するね」
 薬師とは、主に薬草を調合する医者の名称である。
 場合によっては、切開や縫合までを熟す。
 武術の発展しているファクナシオでは、薬師の腕も相応に発達してきたのだ。
「それって、人間じゃないとボクは思う」
「もしかして、契印師なんじゃない? 沙羅やミィ姉みたいに」
 得意顔で振り返った飛鳥が、指を立てて発言する。
 人間が人間である限り、魔法を使う事は出来るはずない。
 この世に遍く精霊、天魔、力ある存在のみが魔の力を持つ。
 霊術、魔術、精霊術。
 その他、呼び名は異なろうとも、術を扱うには人ならぬ存在の力を借りる。
 故に彼等は、契印師と呼びならわせられる。
 神威流剣武術の奥義は、其々の守護聖獣と契約を交わし、人外の戦闘力を追い求める一派だった。
 神威流派の後継者である美龍は、地が属の聖獣『麒麟』。
 ふた月前に皆伝を授かった沙羅も、見事契約の儀を成功させて、焔が属の聖獣『鳳凰』を身に纏わせていた。
 聖獣との契約は、生来の素質に左右される。
 属性は兎も角、聖獣を呼ぶには並みならぬ修練を要した。
 契約を結べる聖獣は、ひとりにつき一体。
 未熟な者が契約の儀に及べば、聖獣との精髄融合時に命を落とす事も珍しくない。
 肉体と精神に、受皿となるべき強靭さが必要だった。
「あのねー。飛鳥にはまだ解んないだろうけど、契印師って万能じゃないんだよ? ボクの鳳凰も、ようやく馴染んできてくれたかなって感じだし」
「確かに聖獣の加護を受けていれば、回復能力も結構なレベルになるわよ。神威流派の神祖が降臨させたって話の『天龍』なら、死人でも甦らせたらしいけどね」
 飛鳥は天龍についてのお伽話を思い出して、胸を高鳴らせた。
 古の昔。
 戦乱の続くこの地に、伝説に伝わる勇者達が降り立った。
 神威、神薙、神狩、神宿の四人の兄弟は、其々に宿した聖獣の力に助けられ、戦を平定してこのファクナシオ国を建国したといわれる。
 その力は国士無双とされ、数多の逸話が伝わっている。
 神宿の天龍を筆頭に、竜の名を冠した聖獣だったという。
 長兄の神宿を王に頂き、其々の勇者は己れの武術を流派として後世に伝えた。
 再びその力を、世の中が必要とするその時まで。
 なのに、今は神宿を除いた三流派は、利権を賭けた醜い権力争いをしている。
 王家に伝来されていた神宿流剣武術は、既に絶え技を伝える者はない。
「天龍かぁ。契約を結ぶなら、僕に宿ってくれないかなぁ?」
 思わず呟いた飛鳥の台詞に、沙羅と美龍は申し合わせたように吹き出した。
「なっ、何で笑うの?」
「それはまた、大きく出たものだわね。飛鳥くん」
「くくっ…べっつにぃ? 飛鳥なら出来るよ。ボクは信じてるからね」
「ふたりとも、目が笑ってる………」
 自らの大言壮語を恥じる飛鳥は、赤面して落ち込んだ。
 穏やかな小春日和の、何時もと変わらない午後だった。










 神威流剣武術道場の朝は早い。
 未だ陽の昇り切らぬ内から、冷たい空気を裂く素振りの音が響く。
 連々と乱れぬ吐気の掛け声だけが、何時の四季にも熱い。
 建国時から続く神威流の道場は広く、林や滝なども領地内にあった。
 総桧造りの建物は、重厚な落ち着きと威厳を放っている。
 当主の意向で改築など行なった事が無い為、雨漏りなどが多発し、下の者には頭が痛いところだった。
 下働きの仕娘達は、井戸から水を汲み、釜に火をかける。
 見習い期間を終えた門下生の大半が、道場に寝泊りして技を磨いているのだ。
 飯処に集まり朝食を終えると、其々の位に応じた修練が始まる。
 見習いから、剣士となって正式な門下と認められる。
 腕の立つ者が師範へと進み、導師となった時点で『契印の儀』を執り行う。
 神威流は、古からの風習を色濃く残していた。
 そのためか、時代遅れのママゴト剣術と噂を流され、年々入門者は減る一方だった。
 噂の出所は、他の神狩流と神薙流である事は誰もが知っている。
「はいはい。午前中の修練はここまで」
 見習い部門の監督をしていた美龍が、柏手を打ってだらけた雰囲気に喝を入れる。
 風通しの良い吹き抜けの修練場に、むっとする汗と熱気が立ち上っていた。
「昼飯を食べた後は、何時ものノルマを熟す事。解ったわね?」
 木板床に潰れていた少年達は、一斉に不満の声を漏らす。
 神威流では、入門した者には、始めに徹底した身体造りから始めさせる。
 早くても丸一年は、剣も握る事が出来ずに基礎体力を鍛える。
 半年の時点で、約半数が止めるか、他の道場に流れてしまう。
「嫌な者は辞めてもいいんだよ? 入門金は全部返して上げるからね」
 毎日繰り返すお約束を気っ風よく言い残して、美龍は颯爽と廊下へと歩を進めた。
 とは言え、自然と溜息が漏れる。
 昨日もふたりばかりが、自主破門を要求してきた。
 毎年ごとに、根性と根気の無い生徒が増えているのも事実だ。
 道場自体の経営も、決して楽な訳ではない。
「伝統と共に滅びるか、捨てて食いつなぐか………ふ、浅ましいね。何方にしても」
「あ、ミゥ姉。一緒にご飯食べよ」
 盆に握り飯と漬物を乗せた沙羅が、飛鳥を引き連れて現われた。
「こらっ、今は師範代って呼びな」
「あは。いいじゃん。頭固いよ、ミゥ姉様」
 今は冗談混じりのその台詞が痛い。
「…ミゥ姉。どうかしたの?」
「うん? 裏庭で食べようか?」
 心配げに顔を覗き込む弟に、美龍は話を逸らして柔らかい黒髪を掻き撫でた。
 飛鳥の洞察力は、時として驚く程鋭い。
 又それは、聖獣との融合に必要な、感応能力が極めて高い事を示していた。
 それ故に、美龍は飛鳥が心配でならない。
 深過ぎる聖獣との融合は、逆に死を招く災いとなる。
 未だ飛鳥の昇進を認めないのは、父とて同じ思いでいるからなのだろう。
 反面、聖獣を降ろせる事が出来たなら、それは誰よりも高位な聖獣であろう。
 美龍は呑気に沙羅の後を追う飛鳥を見詰めた。
 案の定、視線に気づいた飛鳥が振り向く。
「?お腹減ったね」
 にぱ…っと可愛く微笑む飛鳥に、美龍は思わず抱き締めたくなった。
 聖獣をねじ伏せる意志力が飛鳥にはない。
 闘争心の欠如。
 優し過ぎる飛鳥が剣術を覚えるのは、決して自分の意志ではない。
 だが、養子とは言え、神威流一門であるかぎりその軛からは抜け出せない。
「そういえばあのお客人、どうしてる?」
 くしゃくしゃと髪を掻き回しながら、視線を逸らした美龍が問う。
 ん…っと気持ち良さげに目を細める飛鳥は、今朝がた仕娘から聞いた話を教える。
「ん…んーっと。ご飯はちゃんと食べてるみたい」
「ただ飯食いってのだよね。それって」
 未だ修羅に好感を持てない沙羅が、冷たく切り捨てる。
 素足の覗く闊達的な道着が、よく似合っている。
 胴甲も兼ねる帯留は、朱色の師範クラスである事を示している。
 神威流剣術の中には、四つの形態の型がある。
 其々に千鳥、蒼狼、麒麟、瑞亀と色分けされているのだ。
 個人の守護獣の属性を見極め、師範となる時に選考する武術を選ぶ。
「それで、様子はどう?」
「縁側に座り込んで、ぼけらぁーっとしてるって話し」
「それだけ?」
 何等かの行動を予想していた美龍は、いささか拍子抜けする。
 頭の後で腕を組んだ沙羅は、鼻を鳴らして肯定する。
「そ! ひがな一日、座禅組んで妄想してるんだって」
「沙羅、それって瞑想だと思う」
 突っ込みを入れる飛鳥にむっとした沙羅は、すぽん…っと後頭部を叩く。
「一言多いよ。飛鳥」










「この樹………覚えている」
 樹皮をそっと撫でる。
 ちょうど人目につかない裏側に、たわいも無い落書きが彫られていた。
 相合傘に、アスカ・サラと刻んである。
 母屋と道場に挟まれた空き庭に、背の低い楓の木が生えていた。
 彼は木漏れ日に銀髪を透かさせ、幹に手をあてたまま目を閉じる。
 記憶の底に沈めていた、思い出が脳裏に甦る。
 何処か怒ったように顔を真っ赤に染め、震えながら瞳を閉じる沙羅。
 初めての口づけ。
 その時に刻んだのだ、ふたりの思い出の証に。
 ずっと…昔の話だ。
「………奇妙な感じだ」
 彫られたばかりの白木の跡を、もう一度なぞる。
 彼は自嘲し、根元に座り込んだ。
 幹に立て掛けた優美な剣から、半透明の人影が浮かび上がる。
「マスター…」
「顕現するのは止せ。今はまだ、人目を引きたくはない」
 冷たい修羅の言葉に、狭霧は素直に頷いて半実体化に止める。
 アストラルボディ時の狭霧は、主人である修羅か、それ以上の感応力を持つ者にしか見えない。
「………何を、お考えですか?」
 目を瞑り、黙して語らぬ主人に、狭霧は言葉を続けた。
「飛鳥様…時間は戻りませぬ。如何なる因果が働いたのかは解りませぬが、本来私達は在ってはならぬ存在」
「何が言いたい」
 苛立ちが混じった主人の声に、狭霧は意を決して意向を述べる。
「これ以上、あの方達とお関わりになるのは危険です。早々にお暇した方が宜しいと判断します。歴史に干渉する事は、未来にどのような悪影響を及ぼすか………」
「くっ…くくっ! あの未来像に未練があるのか? 狭霧」
 寒気すら感じさせる酷薄な笑みに、狭霧は身動ぎして主人を見た。
 修羅は顔を上げて空を仰ぎ、後頭部を幹に押しつける。
 無数の傷跡に関節の硬化した指で、顔の右半分に掛かった銀髪を掻き上げる。
 頬骨にまで貫通した爪痕は、癒える事なく醜く。
 潰れたはずの眼球の奥で、殺戮に飢えた深紅の輝きが漏れる。
「変えられるならば、総てを書き替えてやる」
「マスターッ! それは!」
 深紅の光が、狭霧を射竦める。
「過去の変革は可能か? 答えろ、狭霧」
「………我等にとっては過去の事象でも、この時空に生きている総ての者達にとっては確たる現実。いえ、不確定な揺らぎの積み重ねです」
 狭霧は瞳を閉じ、静かに言葉を続ける。
 今まで熟考し、悩みぬいた末の仮定であった。
「この世界にとっての異邦人が我々です。飛鳥様の存在が、二重として有るのがその可能性を確固にしています。つまりこの時空では、マスターと私は、飛鳥と狭霧とは似て非なる別人。全く別の存在でありましょう」
「可能なんだな? 沙羅を救う事は可能なんだな!?」
「それは…因果律の連続性が、崩壊する可能性が………」
「狭霧ッ」
 荒げた修羅の声には、怒りではなく縋るような切望があった。
 故に、狭霧は嘘を吐く事が出来なかった。
「そ、それは………」
「あれ?」
「あ、修羅さん」
 周囲に対する気配を失念していた狭霧は、逃げるように姿を消す。
 飛鳥と沙羅、美龍の三人は、秘密の陽なたぼっこ場に人が居て驚いていた。
 吃驚したのは修羅も同様だったが、考えればおかしい話ではない。
 胡散臭そうに目を細める沙羅に唇を歪めた修羅は、飛鳥達に頭を下げる。
 自分にとっての馴染みの居場所は、飛鳥にとっての其れなのだから。
「ご機嫌よう。御三方」
 前髪で半ば隠されているとはいえ、無邪気な微笑みと挨拶に毒気を抜かれた。
「あ、そうですねー…った」
「飛鳥の馬鹿ッ。無闇に愛想振り撒くんじゃないよ」
 にぱ…っと微笑み返した飛鳥を、問答無用で叩く沙羅。
 何処か、懐かしい顔を見せる修羅は、くすくす…っと含み笑いをした。
「お弁当、ですか?」
 飛鳥の抱えたお盆に目を留め、美龍に問い掛ける。
 無意識に気配を探ろうと気を集中させていた美龍は、間を外されて皮肉げに頷く。
 偶然ではなかろうと、美龍は直感していた。
 修羅は樹に寄り掛かり、無造作な姿をしている。
 適度に弛んだ気配に、沙羅は警戒心を解いていた。
 だが、逆に美龍は戦慄にも似た不安が沸き起こる。
 あくまで勘だが、この男は自分の気配すら装っているに違いない。
 不自然すぎるほどに、不自然さを感じさせず、だ。
「いいですね。お弁当ですか。………お弁当かぁ」
「食べたいなら、食べたいって、はっきり言いなさいよね」
「宜しいんですか?」
 てらいもなく頷く修羅に、沙羅は自分の提案を後悔する。
 ニコニコと微笑む修羅の前に、弁当が広げられた。
「やぁ、美味しそうなお握りだ」
 修羅は三角海苔付きの握り飯を、何の遠慮もなしにほうばる。
 その子供のような仕草に、美龍は警戒心が霧散するのを覚えて苦笑した。
「まったく、遠慮という言葉、知らないのかしらねー」
 ヤカンから急須にお茶を注ぐ沙羅は、聞こえよがしに嫌味を言う。
 ごく自然に胡坐をかいて座った美龍が、またクスリと笑んだ。
 沙羅がなぜ不機嫌なのか理解できない飛鳥は、とりあえず握り飯を取って食べる。
 心なし歪な形をした握り飯だったが、飛鳥はそれに気づかない。
 餅のように強く締められた飯を頬張っていると、じっと見詰めている沙羅の視線に気づいた。
「なっ、何?」
「ふんっ。美味しいの?」
 挑戦的な問いに、飛鳥は正直に答えかけた。
「ぇ…えーっと、何時もより………」
「固いですね、物凄く。強く握り過ぎだと思うんですけど」
 二つ目の握り飯を食っている修羅が、にこにこ微笑みながら評論する。
 思わず頷きかけた飛鳥だったが、俯いて肩を震わせる沙羅に怯える。
「梅干しも、何か端によって入ってるんですけど」
「あんたに食ってくれとは言ってないわよ!」
 耐え切れなくなった美龍は、吹き出して沙羅を宥めた。
 飛鳥はようやく、歪な握り飯は沙羅が握ったものであることに思い至った。
「あ、僕は凄く美味しいと思うよ」
「ぇ…ほ、本当?」
 飛鳥の誉め言葉に、沙羅は頬を染めて聞き返した。
「う、うん。ひょっとして沙羅が握ったの?」
「まぁ、ね」
 微笑ましい会話に頬を弛ませる美龍だったが、同じような眼差しで二人を見詰める修羅に気づいた。
 前髪で隠された顔の左側が、風になびいて覗いた。
 深く抉られた傷跡は、端正とも言える顔立ちを無惨に裏切っていた。
 だが、何故だろうか。
 美龍はその顔に、奇妙な親しみを感じて驚いた。
 美龍の視線に気づいた修羅は、苦い笑みを頬に乗せ、手で傷跡をおおう。
「いや、無礼をした」
「………あまり見れる面ではないでしょう?」
 内心の動揺を抑え、冗談めかした台詞を言う。
 肌を優しく撫でる午後の微風が、軽い沈黙を吹き流した。
「ところで修羅さん。傷の具合はもういいの?」
「えぇ。もう塞がりました」
 にこやかな飛鳥の問いに、幾らか引きつった修羅が頷く。
「嘘でしょ? あれから、まだ一週間もたってないんだよ?」
「本当ですよ。見せましょうか?」
「脱がなくてもいいわよ!」
 おもむろに襟を開く修羅に、慌てた沙羅が視線を逸らした。
「じゃ、やっぱり修羅さんも契印師なんだね」
 瞳を輝かせた飛鳥の台詞に、ええ、と修羅は頷いた。
 気取られぬように修羅を観察していた美龍も、予想していた事だがやはり驚く。
 契印師同士は、一種の気配というようなもので同調し合う。
 修練を積んだものなら、向かい合っただけで属性や力量を察知できる。
 だが、修羅には聖獣を宿したものの匂いがない。
 それは、聖獣そのものの力が弱いか、完璧に制御できているかのどちらかだ。
 恐らく後者であろうと美龍は思った。
「ほぉんとぉー? さば読んでるんじゃないのぉ?」
 こちら、あからさまに気配を探った沙羅は、胡散臭げに修羅を眺める。
 もっとも、同門ならまだしも、他人に聖獣を見せるのは禁忌とされる。
 手の内が知られれば、対抗策は幾らでもあるのだから。
「見せましょうか?」
「何で着物を脱ぎだすの! あんたはッ」
 顔を背ける沙羅は、クスクス笑ってしまった飛鳥を理不尽に苛めてしまう。
「そんな事はどうでもいいわよ。治ったんなら丁度いいじゃない。旅かなんか続けてる途中だったんでしょ?」
 要するに出ていけ、という事である。
 この大事を控えた今の時期、胡散臭い余所者は居ない方がいいというのが本音だ。
 師範の中でも、修羅の事を警戒しているものが多い。
 内心では同じ事を考えていた美龍だが、かすかに首を傾げた。
 明朗闊達を絵に描いたような沙羅が、ここまで他人を嫌うというのは珍しい。
 逆に、人一倍人見知りのする飛鳥が、妙に心を許しているようにも見える。
「その事ですが」
 修羅は居住まいを正してこちらを見る。
「実は文無しです」
 心構えをした美龍だったが、余りにストレートな物言いに腰砕ける。
「見りゃ解るよ。恩返しを期待して、あんたを助けた訳じゃないんでね。正直、素直に消えてくれた方が有り難いよ」
「ミィ姉!?」
 無情な物言いに、飛鳥が驚いたように義姉を見る。
 義弟の眼差しを無視した美龍は、推し量るように修羅を見入った。
「………ついでに言えば、路銀もありませんし、伝手もないんです。天涯孤独の身の上で、当てのない放浪中なんです」
「………で?」
 指折り数える修羅が、にこりと微笑んだ。
「用心棒、雇う心算ありませんか?」
 りん!っと風もないのに鈴が鳴る。
 予想通りの言葉に、美龍は長く重い溜息を吐いた。
「生憎だけど、お断わりだね。看板に賭けてる面子もあるし、第一、家の懐も余裕がある訳じゃあないんだ」
 警戒心が働くのは当然だが、言葉にも偽りはない。
 端金を握らせてでも追い出すべきだと、勘が訴えている。
 その旨を強気に出てでも伝えようとした時、背後から袖を引かれた。
「ミィ姉………」
 瞳を潤ませた飛鳥に、言うべき言葉は露と消えた。
 自分の境遇に重ねあわせ、修羅に同情してしまったのだろう。
 この瞳、自分を呼ぶ震える声に、どうしてもあがらえない。
 くすんだボブの金髪を掻いた美龍は、微かに頬を染めて飛鳥の肩を抱く。
「………わぁーかったわよ」
「美龍姉さん!?」
 慌てた沙羅の声を聞き流し、忌々しげに修羅を睨む。
「私が直接アンタを雇うという形にするわ。肩書きは、研修に来た流れの武芸者。言っとくけど、ひと月だけよ」
 懐から取り出した銀貨数枚を、即金で修羅に投げ渡した。
 金額からすれば、宿に住み込みで働くより少ないだろう。
 空に舞う銀貨を緩やかな手つきで捕獲した修羅は、黙って懐に収める。
「飯が出れば構いません」
「ちょっと待って!」
 丸く収まり掛けたところで、沙羅が間に割って入る。
 飛鳥は慌てず、皆の分のお茶を注いでいる。
 幼馴染み兼、恋人役の飛鳥は、沙羅の瞳に宿った茶目っ気を見抜いていた。
「仮にもファクナシオ国御三家、神威流派に籍を置くんだよ? それなりに腕に覚えはあるんでしょうねぇ? 修羅さん」
 美龍も興味を引かれたのか、面白そうにやり取りを見守る。
 沙羅は修羅の背後に立て掛けてある、使い古されてはいるが優美な戦刀を見る。
 剣の目利きが出来るわけではないが、並みの刀でない事は解った。
「その刀は飾りじゃないんでしょ?」
「大した品ではありませんが………」
 気のせいだろうか。
 飛鳥には刀の鈴が、不満げに鳴った気がした。
「腕を見せろという事ですね?」
「言っとくけど。腕まくりなんかしたら、斬るわよ。マジで」
 実際、その通りの事をしようとしていた修羅は、困った表情で天を仰いだ。
 が、不意に。
「ぁ…鼠」
「えっ、嫌ッ!」
 死ぬほど鼠が嫌いな沙羅は、可愛らしい悲鳴を上げて飛鳥に抱きついた。
 だがすぐにからかわれた事に思い至って、修羅を怒鳴り掛けた。
 しかし、奇妙な格好をする修羅に呆気に取られる。
 修羅は両手を広げ、柏手を打つ仕草をしていた。
 美龍だけが、その手に微かな『気』が宿っている事に気づく。
 固唾を飲んで見守る皆に微笑んだ修羅は、無造作に手を打合せた。
 不思議な事に、打撃音は一切しなかったが、離れた場所の梢の辺りで物音がした。
 反射的に反応した美龍は、振り向きざまに腰帯に仕込んでいる鋲を投擲している。
 飛鳥と沙羅は身動ぎも出来ないまま、呼吸を止めている。
「逃げました」
 微塵も緊張感を感じさせない修羅は、呟いてお茶をすする。
 おそらくは他道場が放った、忍びの者だったのだろう。
 間者が紛れ込んでいるのは解っていた事だが。
「何故、解った」
 殺気さえ滲んだ冷たい声だった。
 飛鳥と沙羅も、息を飲んで美龍を見詰める。
 忍びの穏形を見抜けなかった自分が未熟なのだが、剣士としての誇りが胸を突く。
 飛鳥と沙羅が居なければ、この男に命を賭けた試合を持ち掛けたかもしれない。
 だが、修羅の顔に浮かんだ表情を見た途端、怒りが霧散し、その事実に驚く。
 悪戯を咎められたような、傷ついて泣きだしそうなそんな表情。
「済みません………」
 顔を伏せた修羅は、素直に頭を下げて謝罪する。
 美龍は何故か酷い罪悪感に駆られた。
「ぁ…いや、そういう訳ではないんだが」
「もぉ。美龍姉が謝ってどーすんの?」
 ようやく硬直が解けた沙羅が、明るく突っ込んで場を和ませる。
 今度は修羅に向かって、お姉さんぶるように説教する。
「アンタも! 男の癖にペコペコしないでよね!」
「ご、御免なさい」
「だからッ! ああ、もうっ。イライラするわねっ」
「さ、沙羅。少し落ち着いて」
 飛鳥に袖を引かれた沙羅は、自分がとんでもなく不作法な振る舞いをしている事に気づいた。
「ぁ…あれ?」
「あれじゃいないよぉ。もぅ………御免なさい、修羅さん」
 沙羅に代わって謝罪する飛鳥に、修羅は気まずそうに顔を背ける。
「な…何か」
「変な感じ、しない?」
 沙羅と美龍は顔を見合わせる。
 言葉に出来ない奇妙な違和感に、不思議な沈黙が場を覆った。
 ちょうど、その時。
 昼休みの終わりを報せる鐘の音が、敷地内に鳴り響いた。


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"竜園"



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