竜園
Original Novel
Times New Romance
第U章 陽だまりの日常
神威流道場の朝は早い。
朝日が昇る前から、剣の風斬る音が響く。
それと同時に、奉公人も動き始める。
竃に火が入れられ、井戸から冷たい冷水が汲み上げられる。
古くから流派御三家には、専属に仕える者達がいる。
儀礼や儀式を身につけるのは勿論の事、それ以上に掟を刻み込まれる。
他派に術を盛らす事は、即―――致命傷となるからだ。
幼い頃に人里離れた隠れ里に引き取られ、生涯道場に仕えるための教育を受ける。
主に孤児などの境遇のその者達は、十五になると仕えに出された。
道場に派遣されるのは女子のみで、男子は里に残される。
仕娘は夜伽等の役目も熟し、子を妊めば姿を消して隠れ里に戻る。
産まれた子は、里で奉公者として育てられた。
奉公者は影者とも呼ばれる。
財政難の神威流道場の場合、その数は最盛期の半分にも満たなかったが。
城壁から差し込む朝日に、白い湯気が立ち篭める。
井戸の底から汲み上げた冷水を被ると、体温で蒸発した水蒸気が昇る。
普通の人間ならば悲鳴を上げるどころか、心臓麻痺で昇天しても可笑しくはない。
借り物の着物を脱いで半裸となった修羅は、マゾヒスティックな行為を黙々と熟す。
「もしや、恍惚としてたりして………」
呆れた声が背後から掛かる。
桶を井戸底に投げ落とした修羅は、濡れた髪を縛りながら振り返った。
「誰がです。誰が?」
「やは、おはよ」
「お早よう御座います。沙羅殿」
気安く挨拶をかましたのは、丈を短くした稽古着姿の沙羅であった。
隣に同じ年頃の側娘がいた。
「えぇ…っと」
「飛鳥ならば、裏の三本松に」
苦笑した修羅は、身体を拭いながら教える。
「あ、そ。んじゃね」
言葉先を読まれた沙羅は、微かに赤面して踵を返した。
が、不意に振り返って口を開く。
「………ぁ」
「はい?」
「あ、ぇ…っと、何でもないッ」
怪訝げに首を傾げる修羅は、逃げるように姿を消した沙羅を見送った。
唇を皮肉の形に歪め、自虐的に頭を振る。
着物に肩を通した時、沙羅に付いていた側娘がじっとたたずんでいる事に気づく。
「何用か?」
先程に比べ、冷たい声色をしていた。
深遠な深みを含んだ緋の瞳に、娘は怯えるように身を引いた。
だが、自分の役目を思い出し、踏み止まって口を開く。
「美龍様からの命で、貴方様のお世話をさせて頂く、羽月と申します」
「………羽月?」
何故か動揺したように聞き返す修羅は、改めて仕娘を見詰めた。
三つ編みにした栗毛は、洗いざらされた質素な着物の肩口で揺れる。
表情に乏しい顔は、典型的な東方人種のものだ。
影者は喜怒哀楽を抑え、必要があれば主人のために命すら惜しまない。
「羽月…か」
「はい。…以前、お会いした事がありましたか?」
「いや。………何でもない」
胸の古い痛みを抑え、修羅は不躾な視線を外した。
井戸の縁に腰掛け、再び戻した視線は何処か優しげだった。
「美龍殿は何と?」
「はい。修羅様には御自由になさるように、と」
修羅は声を出さずに吹いた。
他流派の間者として疑われているのは感じていたが、好きに行動させるとは。
「朝飯は辰の刻、夕飯は酉の刻になります。昼飯をお食べになる時は、午の刻に食堂へいらして下さい。遅れれば其れまでですので、留意ください」
義務的に喋っていく羽月を伴い、食堂へと向かう。
「基本的に出入りは自由ですが、私がご案内します」
お目付け役というわけだ。
外履きを脱ぎ、素足で馴らされた渡り廊下を歩く。
今まで西方の風習に浸かっていたせいか、酷く懐かしい気がする。
着物を着ること自体、久方ぶりだった。
案の定、食堂に足を踏み入れると、敵意に満ちた視線が修羅に集まった。
白髪に朱眼という人離れした風貌に、奇異な眼差しを向けるものもいた。
大概の者を見知っていた。
忘れているかとも思ったが、記憶は今尚鮮明であった。
ほとんど者は、あからさまに面白くない顔をして、そそくさと席を立った。
総師範である美龍の客分であるとはいえ、部外者を歓迎する気風はないのだ。
だが、それすらも。
―――懐かしくも嬉しい、と感じる自分が居た。
貸切となった板間で飯を食い、正式に宛がわれた自室へと戻る。
母屋の端にある部屋は、普段使わぬ雑貨などが仕舞ってある。
母屋には美龍や飛鳥などの身内が住まっており、沙羅などの習徒は別棟に寝泊りしている。
ちなみに見習いは大部屋に雑魚寝が習わしであり、師範となって個室が与えられる。
障子戸を開けると、半実体化した狭霧が正座して待ち構えていて度胆を抜かれた。
後には背後霊のように羽月が控えているが、気配も姿も見えまい。
狭霧は羽月に気づいても姿を消そうとはしなかった。
何処か拗ねた態度で、責めるように俺を見詰める。
昨夜は此処に留まるか否かで、深夜まで言い争った。
結局強引に納得させ、朝など返事もしなかったのだが。
「先程、私を盗みにきた人が現われました」
無視していると、当て付けのようにそんな事を言う。
「加重して指を折ってやりました。随分と無礼な人達が、ここには居るのですね」
昨日、美龍より貰った銀貨を手に出ようとすると、慌てて宣言した。
「マスター以外の人が私に触れたら、容赦なく殺します!」
「………連れてって欲しいなら、そうゆえ」
俺は羽月に聞こえないように愚痴った。
溜息を吐きつつも聖刀『狭霧』を腰に挿した。
心なし嬉しそうな顔をした狭霧は、鳥に姿を変えて肩に止まる。
黄金の羽毛に、長い冠毛と尾羽をした鷲程の大きさの鳥は、金兎鳥と呼び倣わされる聖が属の幻獣だ。
女神の使いとされ、宗教画などにも描かれている。
万が一、見える程強い霊力を持つ者が居ても、天使より金兎鳥の方が目立たない。
「どこかにお出かけですか?」
戸口で羽月が待っていた。
「少し買物に。何分、刀以外は皆借り物ですから。付き合いますか?」
「はい」
「邪魔です」
聞こえないのをいい事に、狭霧が耳元で囀る。
気のせいだろうか。
此処にきてから、狭霧が口喧しくなった。
重厚な正門を潜り、ファクナシオの城下町へと出掛けた。
小路地をしばし歩くと、城下町のメインストリートに出た。
降魔に破壊された市街地の記憶ばかり鮮明で、まるで始めて来た街にも見えた。
思えば、数十年ぶりの故郷なのだ。
自然に足が早まり、露天の出た大路へ向かう。
羽月が慌てて後を追ってきた。
「やは、おっはよー! 飛鳥」
「はぁ…はぁ………ぁ、お早よぉ。沙羅」
背後からの元気のよい朝の挨拶に、飛鳥は素振りを止めて振り返った。
三本の赤松に囲まれた場所は、飛鳥の朝練習の場所だった。
日課の千本素振りで汗だくの飛鳥に、タオルを放る。
「有難」
「ん…も、ご飯の時間だよ。食いっぱぐれちゃうぞ?」
「うん。でも、水浴びしてから行く」
それも何時もの習慣だったが、沙羅は何か妙な顔をしていた。
修羅が行水していた井戸に着くと、同じように飛鳥が水をかぶった。
火照った身体に、冷たい水滴が飛ぶ。
一見少女のような色白の飛鳥の裸を、沙羅はじぃ…っと観察する。
「ぁ…あのサ。恥ずかしいんだけど」
「いいじゃん。別に、照れる仲じゃないでしょ?」
ニコニコした沙羅の言葉に、一層赤面してしまう飛鳥。
「飛鳥ってさー。結構、筋肉付いてるんだよね? 着痩せして、線細く見えるけど」
「そ、そっかな。普通だと思うけど………」
「自信持っていいと思うけどな」
陰険な虐めにあっている飛鳥だが、本気を出せば師範クラスの強さだと沙羅は確信している。
試合では連戦連敗で、自分との稽古でも勝った例しはない。
だが沙羅は、飛鳥が加減しているのを感じていた。
ま、そういう性格なんだし。
そゆところ好きなんだけど。
「そーいえば、修羅さんて物凄い身体してたよね」
「あーあー、傷跡だらけだったよね」
応急手当した時を思い出す沙羅。
「んじゃなくって、筋肉。………なんて言うか、獣みたい」
「そーかなぁ」
「あれ位の身体があればなぁ」
恋する乙女のような飛鳥の態度に、沙羅は眉間を押さえた。
もしや、本気で修道に目覚めたのかと心配になってしまう。
「………そーいえば。修羅さんに三本松の事話した?」
「ううん。どうかしたの?」
「ん。何でもないんだけど、サ」
着物を着直した飛鳥と食堂に向かいながら、沙羅は曖昧に言葉を濁した。
あの場所は松林の中にあり、三本松で話が通じるのは飛鳥だけのはずだった。
「まったく………変な奴」
「歯ブラシと下着は買いましたから………大体、揃いました」
「………」
大路を歩く修羅の肩で、金兎鳥が満足気に頷く。
狭霧とはいい加減長い付き合いだが、意外にまめな性格だと気づかされた。
言い方を変えれば、口喧しい。
思えば戦いにつぐ戦いで、こんなほのぼのとした時間はなかった。
手元に残った銀貨は、半分に減っている。
美龍姉も意外にせこい。
もう少し、色を付けてくれてもいいものを。
ふと振り向くと、無言で背後についている羽月と目が合う。
「何か、欲しい物がありますか?」
「…ぇ?」
突然の提案に、羽月は明らかに怯む。
「新しい鞘が欲しいです」
「では、お茶でも飲みましょう」
狭霧の言葉をさりげに無視し、戸惑ったままの羽月を連れて適当な茶店に入る。
赤い長椅子に腰掛け、お団子と煎茶を頼む。
「君は?」
「ぁ…お、同じ物を」
「私はおはぎとお茶」
肩から膝に移った狭霧が、無謀な注文を重ねる。
ようやく気づいたが、嫉妬しているらしい。
金兎鳥の喉を撫でながら、大日傘越しの日差しに身を委ねた。
買い歩きの時にも感じたが、通行人や周囲の者が奇異の視線を向けてくるのが解る。
白銀の髪が珍しいのだろう。
東方の地ではほとんどが黒か茶毛で、金髪は珍しい。
美龍姉がブロンドなのは、聖獣『麒麟』の加護による。
元々は栗毛だったはずだ。
大体、長髪というのも、男では皆無といってよい。
聖獣降臨の副作用で伸びたままだが、正体を隠蔽するのに丁度よい。
「ご注文をお持ちしました。六銅貨になりまぁーす」
「ぁ…出します」
慌てて袖を探る羽月を制し、妙に明るい女給に硬貨を渡す。
「私、払います」
「俺の誘いだ」
記憶に違わず律儀な羽月に、笑みが浮かんでしまう。
羽月は俯いて、微かに頬を染めた。
が、盆に乗った湯呑みの数に、不審な顔を見せる。
急須はみっつあった。
おはぎもある。
「………言霊を使ったな」
膝上を見詰めると、金兎鳥は外方を向いていた。
夜風に風鈴がなっている。
「やっぱり鞘が欲しかったです………ん」
金兎鳥のままの狭霧が、胡坐の真ん中で身悶えている。
俺は和紙をくわえたまま、抜き身の『狭霧』を手入れしていた。
聖感応鋼製の刀身は、一遍の曇りもなく三日月を映す。
昼に買い込んだ綿綿で刀身を撫でると、狭霧がぴくぴくと喘ぐ。
魂を聖剣に宿している狭霧は、常に刀と一体だ。
感覚も同調する。
切り離すことも可能だが、狭霧は手入れの感覚を好んだ。
傷と血糊で汚れた黒金の鞘に収める。
同じく市で買った濁酒を掴み、お猪口に酒を注ぎ足す。
雲一つない夜空に、月が美しかった。
不図、淡い螢火が部屋を照らし、翼の影がふすまに落ちる。
人型に戻った狭霧は、猪口を口に運ぶ修羅の着物をはだけさす。
右肩から胸を裂いた、巨大な傷を指先でなぞる。
真新しい傷跡は、完全に癒着している。
「………痛みますか?」
言ってから気づく。
例え、身を苛む激痛でも、其れを口に出す主人ではない。
傷を塞いだとは言え、見掛け上だけだ。
治癒の術でも、降魔から受けた傷は癒す事が出来ない。
「ご養生なさいませ。マスター…」
酒を注ごうとする修羅の手を取り、胸に抱く。
「少し…口喧しくなったな」
「黙れ、と御命令ですか…?」
果なく微笑んだ狭霧は、着物に似せた装束を脱ぎ落とした。
血の宿らぬ陶器のように、純白の肌が顕になる。
雛型から造られたかのように、完璧な美しさだった。
修羅は冷たい表情に、薄い笑みを乗せる。
「養生の件はどうした?」
「………すべて、私が…して差し上げます」
色落ちしたロシアングレーの着物の裾を、白魚のような狭霧の手が押し開いた。
寝覚めの濃く煎れた茶をすする美龍が、報告書から顔を上げて聞き返した。
「………これだけか?」
「はい」
部屋に隅に座している羽月が、平服したまま答える。
美龍が手にしている和紙には、修羅に関するここ数日の素行調査が書かれていた。
無論、したためたのは羽月である。
神威流に仕える影者は、忍びとしての訓練も受ける。
その事実を知る者は、一握りの者だ。
美龍直属の影者は、敵方の間者の暗殺や、裏切り者の粛清を闇で行なう。
羽月はその中のひとりだった。
初日に街へふらりと出掛けたのを除いて、日がな道場内を彷徨している。
他門から技を盗みにきた間者にしては、行動があからさま過ぎる。
「誰かの暗殺か………」
呟いたが、すぐに否定する。
だが、何か理由のない違和感が、美龍の中で引っ掛かっていた。
飛鳥と沙羅と出会って保護されたのは偶然だろうが、この道場に足を留めたのは必然であろう。
何か、理由があるはずだ。
喉に小骨が刺さっているようで、気分が悪い。
「おまえは、どう思う。忍びか、間者だと思うか?」
美龍には珍しく、困ったような感じで羽月に意見を求めた。
「いえ…。少なくとも忍びが属ではないと思います。身のこなしや、気配の配りは武芸者のものですから………」
影者の隠れ里には、神威流から派系した戦闘術が伝わっている。
主に剣を用いない体術や、暗殺系のものだ。
道場の流派に対し、陰の神威流と呼ばれている。
それらは影者の男衆が修練を積む。
何故、生涯闇に埋もれるような組織があるのかは、美龍ですら知らない。
言葉に詰まる羽月に気づいた美龍が先を促す。
「………修羅様の身のこなし、神威を学んだ者に酷似しています」
「馬鹿な」
美龍は一笑に伏して手を振った。
神威流に限らず、御三家剣術流派は門外不出だ。
ファクナシオ国では、流派の者が野に下る事を禁じている。
過去にそんな事実もあったが、公に追っ手を差し向けられて処理されている。
だが、可能性が無い訳ではない。
羽月は配下の忍びで、最も信用の置けるひとりである。
だとすれば、復讐という線も考えられた。
実父でもあり、神威流総領である安曇に聞くしかない。
だが現在は幾人かの門弟を連れ、神威の隠れ里に出向いている。
美龍は門弟のひとりを思い出し、頭痛が沸き上がるのを覚えた。
もし、口喧しい彼奴が居たら、自分の一存で余所者を囲うなど出来なかっただろう。
「ふむ………他に、何か気づいた事はないか?」
「そういえば、昨日に彷徨する理由を尋ねました」
しばし考えてから、自信が無いように口を開く。
「それで、何と?」
「『修理』と、一言だけ」
美龍は頭痛がぶり返してきたのを覚え、眉間を揉み解す。
まるで修羅は、自分を悩ませるために行動しているとしか思えない。
飛鳥の我が侭を嚥下してしまった事を、深く後悔する。
今のところ、目障りなだけで実害はない。
そろそろ監視の任を解こうかと思っていたのだが、放っておく訳にもいくまい。
「もう少し、深くに探ぐれ」
「…はい」
主人の言葉の意味を察した羽月は、無表情に頷く。
房中での情事は、秘め事を暴く手段にもなる。
快楽を与える手管も、仕娘の必須技術だった。
無論、耐拷問の訓練も受けている。
「ご苦労だったな、下がっていい」
「はい」
廊下に出た羽月は母屋から渡りを通り、鍛堂へ向かう。
鍛堂とは、筋肉トレーニングを行うための、様々な器具の用意された場所だ。
また、最新の修練器具を購入したお陰で、道場がお螻蛄になった裏話もある。
修羅の着物には、自分の髪を織り混ぜてあった。
其れを媒介にして位置を探る事が出来る。
影者に伝わる『尋ね人』の術だ。
鍛堂は第二剣道場と同じ棟にある。
「あれ? 羽月じゃん」
軽薄な呼び声に振り返ると、三人の道場生が屯していた。
肩に布巾を掛けているのは、鍛堂で朝飯前に汗を流しにいく途中なのだろう。
帯の色は白。
属性の定まっていない練習徒だ。
「何だよ。随分と久しいな」
「余所者のお手付きにされたって話だぜ」
鄙猥に嘲笑った少年達は、舐めるように羽月の身体を見回す。
立場上、特定の主人に仕えていない羽月は、練習徒の性欲のはけ口となった。
この少年達にも、幾度となく抱かれた事がある。
次第に目の色が変わる少年達に気づいた羽月は、一礼して場を去ろうとした。
だが、ひとりに背後から抱きつかれてしまう。
「逃げるなよ。たまには、俺達の相手もしてくれよ」
興奮で息を荒くした少年は、顔を背けた羽月の喉を舐め上げる。
淡い膨らみの乳房を乱暴に揉みしだき、着物の上から股間を弄り回す。
押さえ込まれた羽月は、僅かに眉をしかめ、されるがままに身を任せている。
これも、自分の役目なのだから。
「馬鹿っ。ここじゃ人目があるだろ」
「鍛堂で犯ろうぜ。この時間じゃ、誰も居ないさ」
すっかり興奮した二人も、自分で股間を揉みながら、充血した目で頷き合う。
まだ若い、性欲の最も昂進する時期だ。
二度、三度と放精したぐらいでは、萎える事を知らない。
練習徒は厩舎の大部屋に雑魚寝している。
生贄の羊にされる新人の仕娘は、鶏が鳴くまで淫搾される。
肛門も性器も、奉公人としての洗礼を受けさせられるのだ。
最も、夜の淫宴は先輩に優先権があるので、下っ端には肉の弛んで、精液に塗れた頃にしか回ってこない。
「早く、行こうぜ!」
「ああっ」
無抵抗な羽月を抱き上げ、鍛堂への渡り廊下を急ぐ。
羽月が従順なのをいい事に、三人の手が着物の下に潜り込んで弄り回す。
粗暴な愛撫だが、毎晩仕込まれている羽月の身体は、素直に反応して蜜を滲ませた。
股間を指で弄っていた少年は、ぬる…っとした感触に鄙猥に笑う。
無表情な羽月も、流石に赤面して顔を背けた。
これからどうなるかは、容易に想像できた。
欲望を抑えきれない少年達は、揃って身体の中に押し入ってくるだろう。
膣のみならず、体中の穴を犯される。
それも、続け様に二度、三度と。
女の肉に目の眩んだ少年達は、無造作に鍛堂の扉を開け放った。
だから、その異様な気配に気づいたのは、羽月だけであった。
汗の匂いの染みついた木造の鍛堂内は、冷たい朝の空気に満ちている。
其れとは正反対の熱気が、鍛堂の隅にあった。
羽月を貪ろうと詰め寄った少年達も、規則正しい物音に気づいた。
動きの止まった少年達の足元で、床に投げ出された羽月が身を起こす。
そして、少年達が凝視している何かを見た。
胸筋用の座席式修練器材を、半裸の修羅が黙々と熟している。
左右に広がる腕が正面に閉じられる度に、背後の重りが軽く打ち合わされている。
邪魔な白銀の長髪は、町娘のように馬の尻尾に結われている。
どれだけの時間続けていたのか、肌から立ち昇った湯気が熱気となり漂っている。
例えるなら、鋼を束ね合わせた棒を、人の形に捩ったような。
修羅の圧巻的な、異質な肉体の圧力に、少年達は竦み上がった。
彼等を無視して修練をやり終えた修羅が、滝のように流れる汗を拭う。
着物を着直し、入り口まで無造作に歩み寄って、小首を傾げる。
まるで、今気づいたかのように。
「何を…している?」
柔らかい物腰だったが、彼等の緊張は抜けなかった。
理屈を超越したところで、眼前の存在に気圧されている。
草食動物が肉食動物に抱く恐怖と同様、極めて本能的な感情だ。
震えている少年達に気づいた修羅は、不図思い当たって気を抜く。
「あ、あぁあ…あんた」
「鍛堂の使用許可なら、美龍殿に許可されている」
礼儀正しい修羅の態度に、少年達はようやく力が抜けた。
着物を着た修羅は、線が細く見えるのも手伝った。
「な、なら、いいんだけどよ。なぁ?」
「ああ、そう…そうなんだけどよ」
何処かほっとして頷き合う少年達。
冷たく笑んだ修羅は、尻を突いたままの羽月に手を延ばした。
「朝飯の時刻ですか?」
「は…はぃ」
「では、ゆきましょう」
獲物をかっさらわれたと少年達が気づいたのは、扉が閉まって暫らくたっていた。
放心状態から開放され、急速に怒りが込み上げる。
「何だっ、彼奴!」
「余所者のくせに、何だよ。あの態度は!」
恐怖を感じた反動か、仲間を集っての闇討ちにまで話が進んだ。
修羅の存在を疎ましく思っている者は多い。
少年達の口火で、突き上げが起こったかもしれない。
だが、密告はならなかった。
「ありゃ? こいつ、全然動かねぇ」
「こっちもだ!」
朝飯までの暇潰しに修練器具に跨がった練習徒達は、ぴくりともしない器材に悪態を吐く。
「あの余所者がぶっ壊したんだ」
「これで、リンチの件、本決まりだな」
散財した器具を壊されたのだ。
もし美龍が知ったら、集団暴行は兎も角、追放ぐらいはしたに違いない。
「違う、みたい………」
先程まで修羅が使っていた座席式器具に跨がった少年が、真っ青になって抵抗の計測値を見詰めていた。
初心者から巨人族まで、という触れ込みで買った器具だ。
最大抵抗値は三〇〇sを超し、人が扱えるレベルではない。
それを、あの男は、何気なく使いこなしていたのだ。
「リ、リンチはいけないよね。先輩達も駄目だって言ってたし」
「そ…そうだな。許してやるか。あは…あはは」
鈴虫が庭先で囀っている。
煙草の紫煙をたゆたわせ、卓袱台に広げた紙に書き物をしている。
鼻先に小さな丸眼鏡をした風貌は、左目の傷さえなければ若い学者にも見えた。
筆を墨壷に戻した修羅は、大きく伸びをしてから眼鏡を外す。
「お入り」
鈴虫の鳴声が途切れ、静かに障子戸が開く。
淑やかに部屋に脚を踏み入れたのは、白地の薄着を羽織った羽月であった。
ちらり…と狭霧が敷いた布団に目をやり、微かに深く息を吸い込む。
羽月に向き直った修羅は、優しく問い掛ける。
「何か用ですか?」
「………夜伽に参りました」
布団の側に寄った羽月は、三指を突いて旋毛を見せた。
りりりっと不快げに鈴が鳴る。
客観的に考えれば、こんな時間に訪れたのだ、当然といえば当然の展開だ。
だが修羅は、何処か途方に暮れた顔をした。
「あ…っと、だ」
言葉に困って言いよどむ修羅を尻目に、帯を解いた羽月が脱いだ着物を枕元に畳んでいた。
所謂、臨戦体勢だ。
狭霧に助けを求める視線を向けたが、不貞腐れたのか自閉していた。
白の下履一枚になった羽月は、捲った布団の上で鎮座して待つ。
修羅はしばし思案を続けたが、無表情に見詰めたままの羽月に頭を掻き毟った。
ありとあらゆる生死を賭けた修羅場を経験したが、今の沈黙には耐えられない。
リアクションを返さない修羅に、焦れた羽月は布団から降りる。
行灯の淡い光に、日焼けた肌が幻想的に揺らめく。
少女は卒業したが女には成り切れていない、危うい均衡に成り立った身体の美しさだった。
胡坐をかいた修羅の正面に立った羽月は、両手を伸ばして頬に触れた。
剣を握る者の手ではなく、働いて荒れた優しい掌だ。
じっと見詰める羽月の顔が、次第に近づいて唇が重なった。
固まったままの修羅の唇を、羽月の舌先が割る。
羽月の経験からすれば、ここまでリードされて奮い立たない男は居なかった。
内心勝ち誇って顔を上げると、修羅のひどく哀しげな深紅の瞳に気づいて怯んだ。
何処か、何時かに同じ瞳を知っている気がして、戸惑いが浮かぶ。
「美龍殿、か………」
「ぇ…」
呟きに動揺した瞬間。
不図、宙に浮く感覚がして抱き上げられる。
次の瞬間には布団に寝かされていた。
「抱く…」
割れ物を扱うような丁寧すぎる扱いを受け、戸惑いが続く羽月に宣言する。
「約束…が、あったな………」
意味の解らない囁きと共に、修羅の方から口づけを交わす。
修羅の指が羽月の太股をなぞる。
耳を食む。
髪を梳く。
淡く膨らんだ乳房に舌が這い、鴇色に隆起した乳首を吸う。
何かを確かめるように。
ゆっくりと時間を費やして、羽月の肉体の隅々を愛撫していく。
修羅が触れた部分に生じる置き火のような不思議な熱気に、くく…っと羽月が仰け反った。
脚が跳ねるように痙攣し、喉から吐息が漏れた。
快楽に溺れさせて口を割らせる心算が、翻弄されて意識も途切れる。
「嫌ぁ」
反射的に掴んだ修羅の手が、心強く握り返してくる。
潤んで泣きそうな羽月の瞳に、修羅は頷く。
優しい、包み込まれるような安らぎを感じ、羽月の記憶は深い闇に沈んでいった。
小鳥の囀りと、弦楽器の音色で目覚めた。
布団から上体を起こしたが、頭が働かずに寝たままだ。
全身に宿った不思議な充足感に、羽月はぽぉ…として縁側を眺める。
影の位置からすれば、朝仕事の時間は過ぎていた。
時間に遅れて寝過ごすなど、初めての経験であった。
馴染みのない部屋を見回すが、昨夜の記憶が抜け落ちている。
ふわふわしたまま障子戸を開けると、銀の天使が昨夜と同じ姿で庭を眺めていた。
柱に寄り掛かって片膝を立てた修羅は、膝に置いた琵琶を詰ま弾いていた。
曲とも言えない、弦の響きを確かめるように、小鳥の鳴声に合わせて。
振り向いた修羅が微笑む。
その無造作な仕草に、我知らず羽月は呟いた。
「飛鳥…さま?」
吃驚した修羅の手元で、音色が乱れた。
小鳥達も不満げに鳴くのを止め、責めるように羽月を観察した。
「ぁ…す、済みませんでした。あ、あの」
赤面して言い訳する自分を、羽月は信じられない。
動揺を見透かされているようで、さらに慌ててしまう。
唐突に昨夜の睦み事が脳裏に甦り、肩が震えて目が潤んでしまう。
泣きだしそうな羽月に、苦笑した修羅は座らせて茶を勧める。
「出枯しで悪い、が」
「ぃ…いえ」
不思議に甘い茶が、気分を落ち着かせてくれた。
昨夜のように優しい瞳で見詰められ、慌てて顔を背ける。
「な…何ですか?」
「疲れてないか?」
熱っと羽月の頬が染まる。
逆に修羅の方が慌てた程だ。
「疲れてなどいませんっ」
「いや、ならいいんだけど………。何処か、痛みはない?」
「ぃ…痛くなどありませんっ」
最早、羽月は良い様にあしらわれる自分を感じていた。
女性心理など理解できない修羅は、不機嫌な態度に見える羽月に狼狽える。
其の事に気づいた羽月は態度を軟化させた。
あからさまに安堵した感のある修羅に、くすくす…と声に出さず笑った。
素直に感情を顕にする羽月は、年頃の少女に相応しい可憐さを感じた。
遠くで、午前の修練開始の鐘が鳴った。
「厨房にいってみますか? 何か食物でも残っているかも知れない」
「はい」
返事は同じだが、微かに笑みが浮かんでいた。
「隙あり!」
大きく欠伸をかましていた飛鳥の後頭部に、沙羅の手刀がすぽんと入る。
出掛けた欠伸を止められるのは、最高に意地悪だ。
案の定、胸を押さえた飛鳥は、もやもやした顔で沙羅を睨む。
その表情は何とも言えず情けなく、沙羅は吹き出してしまう。
「何て顔してんのよ? それに、ここ二、三日変じゃない? 顔色も悪いしサ」
「んー…ちょっとね。夢見悪いんだ」
言いながら、もう一度欠伸をした。
夢にうなされて夜中に幾度も目を覚まし、満足な睡眠を取れない。
「へぇ? どんな夢、もしかして、エッチなの?」
「ちっ、違うよ。よく…覚えてないんだ」
悪夢のビジョンは鮮明だったが、どうしても内容を思い出せない。
激しい怒りと絶望、身を引裂く悲しみ。
目覚めると指の先が冷たく、全身に冷汗を掻いている。
「じゃ、エッチな夢かもしんないじゃん。……ひょっとして、ボクが出演してない?」
「そ、そんな事、あるわけないよ!」
真っ赤になって言い返した飛鳥だが、まじまじと沙羅を見詰める。
吃驚した表情の沙羅の瞳に、自分の顔が映っている。
「どっ、どうしたの…?」
「沙羅が…夢に出てた」
触れるほど近くに寄られ、胸をときめかせていた沙羅が転ける。
「飛鳥の………馬鹿」
「なに? 何か言った?」
「兎に角! 朝ご飯ぐらい、きちんと食べなよね。飛鳥、まだ成長期なんだから」
「おふたりさん。練習さぼって、あーにやってんの?」
嫌味のない呆れたような声に振り返ると、草履を突っ掛けた美龍が居た。
浅黄色の着物は、私用で着ている普段着だ。
地味な柄の着物は洒落っ気がない。
着飾れば物凄い美人なのにと、沙羅は思う。
「お早よう、ミィ姉。あ、羽月さんもお早よう」
「…お早よう御座います。飛鳥様」
美龍の背に隠れるように控えていた羽月は、視線を合わせずに頭を下げた。
その頬は、桜色に染まっている。
沙羅は女の直感で、羽月が飛鳥に好意を持っているのを知っていた。
羽月に限らず、飛鳥は仕娘の間でアイドル的存在だった。
飛鳥の性格上、それに付け込んで悪事を働くどころか、知ってさえいないだろう。
恋人役の沙羅としては、気が気でないのも確かだ。
だが、羽月とは仕娘とは言え、同じ年頃の気の合う友人でもある。
「こっちにゃ厨房しかないわよ。ははぁーん、逢引きだなぁ? 若いから元気なんだろうけど、程々にしないと身体壊すわよ。後、避妊はする事」
「ちっ、ちっちち違っ…」
義姉の露骨なからかいに、飛鳥は耳の先まで真っ赤に染まる。
うぶ過ぎる恋人に、沙羅は深い溜息を吐く。
こんな調子だから、いまだ清い関係のままなのだ。
しょうがないので、話題を変えてあげる事にする。
「美龍姉こそどうしたの? 幼年部の稽古の時間じゃない」
「んんー、ちと野暮用でね」
沙羅は美龍の腰にささった、精剣に気づく。
神威流宗家に伝わる『鬼散り』だ。
「ミィ姉こそ逢引きじゃないの?」
「あら、当たりだったりして」
やり返したはずの飛鳥が、逆に吃驚した。
「………美龍姉。婚約者にばらしちゃうよぉ?」
「あはは。まぁ、どうでもいいんだけどね。居候の君が、異国の料理を御馳走してくれるって言うからさね」
「え、本当?」
「ふえぇ? あの白髪男がぁ?」
対照的な反応をするふたりに、羽月が珍しく微笑む。
「『かりぃらいす』と言う料理だそうです。昨日、山程の香辛料を買い付けていらしました」
再び市場に付き合わされた羽月だった。
厨房の使用許可が降りなかったので、裏に石を積んだ竃まで造った。
報告を聞いた美龍は、修羅に関する性格調査を諦めた。
皆で裏庭を流れる小川まで来ると、お玉を手にした修羅が鉄鍋を掻き回していた。
この時代、男子厨房に入らずの風習が色濃い。
手慣れた修羅の様子に、一様に呆れた。
「いらっしゃい。沙羅殿達も食べますか?」
飛鳥と沙羅の姿を認め、多少吃驚した修羅だったが、笑顔で向かえ入れる。
「………何者だ、あんたは?」
呆れた沙羅の台詞は、しかし、美龍が最も知りたい事柄であった。
鍋の中身を覗き込んだ美龍は、鼻を刺す強烈な臭気に咳き込んだ。
粘着度の高い黄土色の液体に、無秩序に刻まれた野菜屑が浮いている。
もしや毒物かと、美龍は本気で思った。
香辛料などの刺激の強い汁の中では、毒を混入するなど容易い。
ここは辞退するのが懸命だな、などと熟考して振り返ると、飛鳥達は揃って賞味の最中だった。
顔を真っ赤にして不自然なほど多量の汗をかく二人に、美龍は逆上しかける。
修羅を締め上げて解毒剤を吐かせようとした美龍の目前に、皿に盛られた謎の液体が差し出される。
「毒味は私が………」
皿を捧げ持った羽月が、小さな声で告げた。
ほっとして皿を受け取った美龍だが、しばし中身を見詰めて戸惑う。
少なくとも、ファクナシオで見られる、あらゆる料理と相違している。
「熱い内が、美味しいですよ?」
「あ、あぁ」
自分も食いながら勧める修羅に、我に帰った。
顔を上げると、飛鳥と沙羅と羽月が、興味深げに自分を観察していた。
飛鳥の表情は、渾身の悪戯を仕掛けた時のそれだ。
「な、何だい?」
「んんう、らんでもないよ。美味ひいから食べれみれ」
「そうそう。見掛けによらず、おいひぃひゃん?」
美龍としては語尾の乱れが異様に気になったが、刺激に慣れてみると以外に美味そうな匂いではある。
視線が集中する中、木製のスプーンで一口目を食った。
初めて味わう濃厚なコクに、微かな甘味が何とも美味だ。
が、次の瞬間、脳天まで突き抜ける辛さに硬直した。
くすくす…と微笑む羽月が、用意していたお茶を差し出す。
「一呼吸置いてから来るんだよね、脳味噌にがつんと、サ」
「ボク等だけだけ辛い目にあうのなんて不公平だから、黙ってたんだぁ」
「………うん。美味しいじゃない」
無造作にカレーを掻き込む美龍に、飛鳥と沙羅は吃驚した。
確かに不味いとは言えないが、強烈な辛さに水なしには食べられないのだ。
「………無理してない?」
「なして? マジ美味しいじゃない。うん、飯が何杯でも食えそうだわね。一体、何処の料理なのかな、修羅殿?」
修羅は石に腰掛けて膝を抱え、微笑ましく飛鳥達を見守っていた。
「ずっと…東の国の料理ですよ。発汗と代謝を促進させる効果があります」
「うむ。癖になりそうな味だわね」
「………マジで言ってんのかな?」
「ミィ姉、味音痴だから」
ぼそぼそと陰口を叩くふたりに、美龍はスプーンを射し止める。
「そゆ事ゆう子は、素振り百回だ。あんた達、最近は必須修科もさぼってるんだって聞いたぞ? 身内だからって依怙贔屓はなしだよ」
「うぇ、今? ここで?」
「冗談じゃないよ。正眼、上段から、其々百回始め」
総師範としての美龍の言葉に、飛鳥と沙羅はやむなく木刀を握った。
気の抜けた掛け声と共に、基本中の基本の構えを取るふたり。
食べ終えた食器類を、羽月が小川に運んで洗い始める。
「さて。ちと前振りがあったが、いなかる用件か。修羅殿?」
視線を飛鳥達に向けたまま、冗談を省いた美龍の声がかかる。
修羅からの呼び出しに、何か含みがある事は始めから悟っている。
「そんな大袈裟な用事ではないんですけどね………」
狭霧に肘を突く修羅は、微かに苦笑した。
「目的のひとつは、貴女にカレーを食べさせたかった」
「なっ…?」
聞き様によっては、軟派な口説き文句にも聞こえる台詞に、美龍は呆気に取られた。
「………何故?」
「さぁ? ………別に」
皮肉げに微笑んだ修羅は、風になびく銀髪を掻き上げる。
眉間を押さえた美龍は、この男に関する考察を諦めかける。
「美龍殿なら、こんな味が好きではないかと………ずっと、思ってました」
小さな呟きに、美龍は眉根を寄せた。
まるで昔からの知合いに対する言葉のようだ。
言いようのない苛立ちに、何か言葉を探していると、修羅は何やら懐から髪を取り出していた。
受け取った四折りの和紙を開くと、幾重もの円と複雑な紋章が絵描かれている。
その図柄は、東方の寺院に伝わる曼陀羅に酷似していた。
「これは、何か?」
何気なく顔を上げた美龍だったが、緊張に眦が強ばっている。
不可思議な図柄は、羽月に探らせた事のひとつだった。
「差し上げます。『閻魔破皇陣』は、四方位がずれると意味が無くなりますから」
「………へぇ」
「複製は取ってありますから、ご心配なく」
懇切丁寧に、此処は重要です、と説明などする修羅。
殺気と警戒心が、霧散するのを美龍は感じた。
不意に言い様のない疲れを覚え、大きな溜息を吐く。
「あんたねぇ………なぁに考えてんの?」
投げ遣りな呟きが漏れる。
正体不明な上に、対応に困る不可思議な性格。
美龍に残された手段は、正面から向き合うしかなかった。
「いいでしょ? もう、話しなよ。あんた何者? 何を企んでるの?」
「まだ、話せません」
微笑んだまま、首を振る修羅。
「あんたは…自分で怪しいって事、知っててやってんだね」
「いずれ、解りますよ」
「ああっ、もぅ! 何で家ん所にやってきたのよ!?」
飛鳥と沙羅は素振りをしながら、珍しく悲鳴に似た声を上げるのを聞いていた。
「………頼まれたんです。神威を守ってくれ、と」
はっとした美龍が修羅を見詰めた。
空を降り仰ぐ修羅の瞳は、今ではない何処かの誰かを見据えている。
「…誰に? …何時?」
「………ずっと…昔に」
振り返った修羅は、美龍を見詰めた。
潰れた左目の奥で燃える緋色の炎が、美龍の身体を射竦める。
魅入られたように硬直した美龍は、そ…っと伸ばされた指にほつれ毛を梳かれる。
その酷く綺麗な瞳の中には、澱んだ暗い焔が燃えている。
だが、優しさと悲しさを混同させた瞳は、ずっと昔から知っている気がした。
「約束を守るために………」
「っ…」
罠に捕われた獲物のように、身動きが取れなかった。
「………うわぁ…うわうわ」
「そこだぁ。ゆけぇ、一気に押し倒すんだぁ」
気が付くと、素振りを中止した飛鳥と沙羅が、一見ラブシーンを演じている彼らを見詰めていた。
沙羅などワクワクして、両手を握り締めていた。
狭霧に下がった鈴も、あからさまに不自然な程鳴っている。
「散んなさいっ。あんた等ってば、あったく…しょーもない」
「にゃはは」
「素振り二百本追加」
有無を言わせぬ強制力に、ぶぅたれながら素振りを再開する。
神威流、気魂法で冷静さを取り戻した美龍が振り向くと、銀髪をなびかせる修羅は何時ものとぼけた曖昧な微笑みを浮かべていた。
躱されたか、と安堵と共に舌打ちする。
魅了されていたのは確かだが、得体の知れない心内を覗くチャンスでもあった。
只の居候でない事に、確信が持てた。
少なくとも、神威に敵対するものではないようだ。
冷徹さを瞳に滲ませた美龍に、修羅は哀しげな顔をする。
心の内を覗かれているような不快感に、美龍は舌打ちする。
「言っちゃ何だけど、その賢しげな顔、いらつくね」
「限界まで磨き上げた鋼は、何時か折れます。あなたが砕け散れば、あのふたりは泣くでしょう」
「あんたに何が解る!」
自制の出来ない激情に、立ち上がって怒鳴っていた。
飛鳥と沙羅は、吃驚して動きを止める。
洗い物を手に戻った羽月も、美龍が我を忘れている事に驚く。
「………無理をしている事ぐらいなら」
瞳に込められた労わりに、顔を背けた美龍は足早に去っていった。
翌朝は、久しぶりの雨雲が空を覆っていた。
少なくとも午後には、乾いた畑を潤す恵みの雨が降るだろう。
雷鳴が遠くに鳴った。
「………美龍様が正門に向かいます」
あてがわれた客間に座した修羅の背後で、人型に収束した狭霧が目を開ける。
『遠視の術』で美龍の動向を探っていたのだ。
閻魔破皇陣の曼陀羅図を、知り合いの魔道学者に解読を依頼するためだろう。
修羅には、その魔道学者に心当たりがあった。
「お出かけになられますか?」
「………眷属は喚べるか?」
神剣に括られた狭霧では、行動に支障がある。
神威道場を留守にする間、結界を守護できる式鬼が必要だった。
「第三階梯の者どもならば、恐らくは」
「そうだったな。ここでは我らは天涯孤独か」
「奴等はアルフリーヴァの部下として存在しているのでしょうが………」
織天使アルフリーヴァとは、狭霧の昔の名前だ。
今の段階で、眷属の注目を引くのは望ましくない。
「構わん。力天使達を四方陣の監視に回せ。羽月の相手はお前がしろ」
「はい」
頷いた狭霧の周囲に霊粒子が凝縮し、実体を持った存在へと変身する。
銀の髪、顔の傷まで、修羅と同じ姿へと。
狭霧を身代わりにしたのは初めてではないが、何度見ても奇妙な悪寒がする。
元来、修羅は自分の姿が大嫌いだった。
鏡の嫌悪感を勘違いした狭霧は、内心で傷付いて俯いた。
不図気づき、髪を掻いた修羅は、狭霧の顔を掴んで上向かせた。
潤んでいた狭霧の瞳が見開かれる。
「行ってくる」
「…ぁ……はい。マスター…」
微かに触れた唇を押さえた狭霧が、うっとりした声で呟く。
姿が自分であるから、修羅は背筋を駆け上る悪寒を押さえ込む。
厠から戻る羽月の足音に、気配を消した修羅は影のように姿を消していた。
僅かな違和感に過ぎないが、何か変わった気がした。
修羅の変化が良い兆候なのかは、狭霧には解らなかったけれども。
当主代理が外出するのは誉められた事ではない。
外出用の装束は、裾が足首まである。
其の事が美龍には我慢がならない。
外見は繕ってみせるが、いざという時に足運びが束縛されるからだ。
とは言え、何時もの身軽な衣装で出掛ければ、好ましくない噂が立つ。
登城では御三家に限り帯刀を許されているが、今の美龍は寸鉄も帯びていない。
それは、外出の目的が私用である事を意味している。
美龍は自分がいらついている事を感じていた。
今朝方、米の卸問屋から借金の請求がきたのも、理由のひとつでしかない。
練習生が雨戸を打ち破ったのも、雨漏りの報告もそうだ。
薄味が好みにもかかわらず、味噌汁が濃かったのも。
戸口に小指をぶつけたのも。
駄目押しには、寝癖が酷かった事も。
自分でも良く解っている。
要するに、ストレス性のヒステリーを起こしているのだ。
根本的根源的原因は居候の君、修羅に関係しているのは間違いない。
修羅の仕草が、いちいち癇に触るのだ。
何が不愉快の原因なのか解らず、なおさら苛々する。
あの曖昧な笑みを浮かべる顔を、叩き斬ってやれば幾らかすっきりするだろう。
等と考えている自分に気づいて自己嫌悪する。
余りにも狭量すぎる。
本当に殺傷したとて、無礼討ちの権利を持ってはいる。
だがそんな事をすれば、飛鳥が泣くだろうし、する気もない。
身内にも自分にも晒す事が出来ない義弟への思慕も原因に混じっていると気づき、さらに深いブルーが入った。
「何であたしがこんな事を考えなきゃならないんだ」
大体、後ふた月もすれば、契約は切れるのだ。
堂々巡りの思考に区切りをつけた時、目的の住所に辿り着いていた。
大通りを逸れた入り組んだ路地裏に、『SESTA』の看板が上げられた店がある。
わざわざ西洋の文字を使った洒落た看板だが、何の店か判別できないという欠点があった。
数少ない美龍という友人の忠告も、彼の人のポリシーを曲げる事は出来なかった。
観音開きの扉を開けると、見慣れない西洋色に染まった内装が出迎えた。
つい、靴を脱ぎ掛けてしまう美龍を、薄暗いカウンターに腰掛けた人物が笑った。
「笑うんじゃないよ、朱鷺」
「あは、後免後免。まぁ…いらっしゃい。久しいねぇ」
次第に目が慣れてくるに連れ、店主の姿が見えてくる。
濃紺のブラウスにボディス、タイトなスカートといった装束だが、見世の外に出れば人目を引く事間違いない。
ファクナシオでは、稀に行商人が洋服を着ているだけだ。
黒目黒髪の朱鷺は、ファクナで産まれ育った。
今は亡き両親は、西方からやってきて、ファクナに腰を落ち着けた行商人だった。
幼い頃からファクナ伝来の魔道術に興味を持った朱鷺は、両親が病で死去すると、一切の家財道具を売り払って財を手に入れた。
今では趣味で経営している、魔道具店を開く程になった。
美龍とはその関係で知り合った幼仲間である。
「成る程ね。随分やつれた顔してるじゃない?」
「………解る?」
待ち客用の椅子を引き寄せて座った美龍に、大袈裟に手を振ってみせる。
「そりゃもぉ一目でね。それでなくても、あんたは素っぴんなんだから」
「ほっといてよ。化粧品でも売り付ける心算?」
珈琲サーバーとふたつのコップを手にした朱鷺が、美龍の向かいに腰掛けた。
立ち上る湯気に、一瞬朱鷺の眼鏡が曇った。
「実はちょっちねー、頼み事があるのだわ。これが」
「言わずとも解りますとも。何年、親友やってると思ってるの? 会いにくる時は、厄介事を抱えてる時だけなんだから」
「わーかったわよ。今度、奢ったげるからサ」
練乳をカップに注いだ美龍は、気まずそうに前髪を弄った。
「それで、用件は何? 銀髪の君に関する事かしら?」
「ちょっと、噂でも流れてんの?」
「もっちろん。この天覧試合を控えた大事な時期に、部外者を招き入れた根拠は何か?噂の大部分は、用心棒って話よ」
「勘弁してよぉ…」
商売柄、奇妙な所にコネのある朱鷺は、そこいらの情報屋より鼻が効く。
美龍は天井を仰いで嘆息した。
「私は神威贔屓だから言ってあげるんだけど、神薙と神狩を刺激しない方がいいんじゃないのかしら」
「解ってるわよ! んな事はぁ」
興味津々の朱鷺は、美龍の話に耳を傾ける。
聞き終えた瞬間、堪え切れずに吹き出す。
「………笑い事じゃないんだけど」
「だって、他にどういう反応が出来るの。飛鳥ちゃんに極甘なんだから、もぅ」
「………仕様がないじゃない」
親友の朱鷺は、美龍が飛鳥に、義姉弟以上の思慕を抱いている事は知っていた。
美龍には許婚が決まっているし、飛鳥は沙羅という最愛の恋人がいる。
成就は不可能だ。
「まあね。飛鳥ちゃんなら私も恋人に欲しいくらいだし」
「ここだけの話。うちの子達の好感度ナンバーワンだったりするんだよね」
「うんうん。可愛いもん、飛鳥ちゃん。絶対、本人気づいてないんでしょうけど」
「沙羅がいるから、皆遠慮してるんだけどサ」
しばし飛鳥をネタに盛り上がってから、美龍は本来の目的を思い出した。
懐に折り畳んでいた、曼陀羅図を朱鷺に見せた。
「この絵柄、何だか見当つく? 修羅が描いた物らしいけど」
「居候の君ね?」
くすくす含み笑いしながら受け取った朱鷺だったが、ざっと目を走らせただけで顔色を変えた。
「ったく、やんなっちゃうなぁー。いっその事、刺客であってくれた方が心安まるわよ。 何か企んでるのは確かなんだけど」
契約がある限りは追い出せないし、と言い掛けて朱鷺の真剣な表情に気づいた。
「………朱鷺。何か解ったの?」
「凄い…なんて高度な率で…法陣を組んである。これだけで霊気を収束できる」
「ちょっと、危険な代物!?」
流石の美龍も青ざめた。
道場に危険な細工を施されては黙ってられない。
「ぇ…違う、と思う。人間には無害よ。ただ、韻が特殊で……待って、見覚えある」
深い溜息を吐いた美龍を尻目に、興奮した感じのある朱鷺は奥の書庫に行った。
朱鷺の書庫には、西洋東洋を問わず、皇立図書館に匹敵する蔵書があった。
何かの切っ掛けがあれば一晩でも篭もっている事がある朱鷺だが、美龍の想像よりはるかに早く姿を見せた。
「あったあった。これよ、これっ。対降魔曼陀羅『閻魔破陣』にそっくり」
「その名前! そんな感じだった」
そのページに描かれた曼陀羅図は粗雑な代物だが、修羅の魔法陣とよく似ていた。
美龍は何百冊の中から、よく見つけられたものだと感心する。
「っとすると、こっちの曼陀羅が完全版なんだわ。凄い、大発見よ!」
「ちょっと待って、降魔って何よ?」
「降魔は降魔よ。この店の壁にも、知ってる限りの法陣を刻んでたりするんだよ」
「知らないのね?」
「………実はそう」
本当を言えば知らないわけではない。
ファクナの歴史を紐解けば、必ず降魔という単語が現われる。
時には人間の天敵。
時には絶対悪として記述されてはいるが、詳しい詳細は闇の中だ。
独自に古今東西の文献を研究している朱鷺は、あらゆる地方で似たような伝説が残っている事に気づいていた。
要するに、伝説から生み出された架空の悪魔だと結論つけていた。
「ま、実害はないのね? おまじないみたいな物なんでしょ?」
「まーそーでしょーね。少なくとも、人間にも聖獣にもマイナス効果はないわ」
「………ひょっとして、健康にいいとか?」
何故か嫌そうな顔をする美龍に頷く。
「いいと思うわ。霊気の浄化作用があるから」
「万が一とは思うけど、恩返しの心算なのかしら?」
「でしょう? 私としては何処でこの法陣を知ったのか教えて欲しいんだけれど。………それより、あなた修羅って人の事嫌いなの?」
からかいを交えた突っ込みに、複雑な表情を見せる美龍。
冗談だったのだが、逆に朱鷺の方が興味を引かれた。
「変な奴なのよ。………何が変なのかは言葉に出来ないんだけど」
「ふぅーん? で、腕は立つの?」
「余程のぼんくらか、達人か。どっちかだね」
「一度、会ってみたいな。あなたがそんな風に言う男って初めてね」
曼陀羅の描かれた紙を朱鷺が預かり、近日中に詳細を聞きに来る事になった。
外は薄暗くなっており、土砂降りの雨が降っていた。
朱鷺に唐傘を借りた美龍が道場に戻る。
椅子に座り直した朱鷺は、曼陀羅の描かれた紙を見詰めた。
見れば見る程、完成された法陣だ。
仮に自分が同じような法陣を作ろうとすれば、十人係りで数十年は計算と思考を繰り返さねばならないだろう。
取り合えず、曼陀羅の韻の分解を始めようとした時。
ドアについた鐘が鳴った。
十分に驚くに値する出来事だ。
もしも通りすがりの客だとすれば、一ヵ月ぶりの物好きだという事になる。
「御免なさいね。今日は店仕舞いなんです」
曼陀羅図で頭が一杯だった朱鷺は、振り返りもせずに言い返した。
が、背筋に走る不思議な戦慄に、顔を向けた。
心臓をわしずかみにされたような驚愕。
先程の美龍と同じ装束を纏った人影は、ランプの明かりに紅の瞳を煌めかせている。
腰まで伸ばされた銀髪に水滴が滴り、床に落ちて跳ねた。
「あっ、あの…どういった御用件で?」
物珍しげに店内を見回していた修羅に、朱鷺は無理矢理笑みを浮かべる。
視線が絡んだ瞬間。
不図、強烈なデジャブを感じた。
美龍が説明したところの、言葉にならない違和感が理解できた。
「頼みがあって…来ました」
「美龍の後を尾行したのね」
「はい」
カマを掛けた朱鷺の台詞に、修羅は素直に頷く。
身構えていた朱鷺は、拍子抜けした。
「済みません。傘を持ち忘れたもので」
そう謝罪してから、濡れた外套を傘立てに掛け置く。
「用件は、何?」
張り詰めた詰問口調になった。
修羅の気配は、何か強い存在感を放っていた。
強力な聖獣を宿している訳ではないが、感応力に勝れた朱鷺には感じる事が出来た。
美龍と一緒に冒険の旅に出た経験が、朱鷺の感応力に磨きを掛けた。
「まだ、貴方の名前も伺っていないわ」
「今の私には、ふたつの名前があります」
朱鷺の瞳が緊張の色を見せる。
「………どういう事かしら? 偽名でも名乗っているの?」
「何時からか、私は阿修羅と呼ばれていました。此処では修羅と名乗っています」
阿修羅とは東方の神話に登場する戦神だ。
元は悪霊の類で、改心してからは最強の力を持つ戦神となった。
「何が言いたいのかしら?」
「昔の…本当の名前は………『飛鳥』でした」
勿体ぶった挙げ句の冗談に、朱鷺の肩から力が抜ける。
吹き出し掛けた時、醜い爪痕の奥の修羅の瞳が、この上なく真剣なのに気づく。
「あのね、修羅さん? 何を言いたいのか、私には解らないわ」
「貴女には総てを知って、力を貸して欲しい。………今は信じられなくても構いませんが、時間は余り残されていない」
カウンターの上に放置されていた小瓶を手に取り、コルク栓を抜く。
売り物に手を出されて気色ばむ朱鷺の目前で、修羅は無造作に手首を切った。
「ちょっと、貴方…!」
「終末の始まりを阻止するために………」
派手に吹き出す血糊を瓶に注ぎ、何事もなかったように傷口をなぞる。
血の後を残し、修羅の手首から傷が消えた。
「飛鳥の血液情報と比べて下さい。二年程前に、血を採られた記憶があります」
「…何……何を言っているの?」
朱鷺は混乱する頭を、何とか落ち着けようとした。
朱鷺が発明した血液情報の読取りは、輸血などの際に拒否反応を調べる上で歴史的な発見だった。
研究を進めていった朱鷺は、同じ情報の人間は一人も居ないという結論を出した。
その事は、誰にも話した事がない。
朱鷺は修羅に対して、言い様のない恐怖を抱いた。
「出てって………出ていって!」
「いずれ、また」
扉が閉まるベルの音が響く中。
屋根を打つ雨音を聞きながら、朱鷺は肩を抱いて小さく震えていた。