月姫 Side Story

羽金色の向日側へ
夢十七夜






「………無様だな。少年」
「…っく!」
 漆黒の渦から飛び出すケダモノに突き飛ばされ、漆黒の空を眩う。
 折り紙を切り貼りしたような。
 子供の描いた絵本のような。
 影絵の街を俺は眩う。
「いい加減、あがらうのは止めぬか? 我が『命』のひとつとなれ」
 『思考苦悩』という表情の皮を、頭蓋骨に貼り付けた男が問い掛ける。
 寂びた羽金のような声色に飽きれたような響きを感じ、志貴は弾き飛ばされた胸の痛みも忘れるほどに怒鳴った。
「それはこっちの台詞だ!」
 キリキリとナイフを握り締めた指が軋む。
 キリキリと胸の傷痕が痛む。
 キリキリと目の奥が痛む―――血を流しているように零れる黒い糸に。
 睨み付ける。
 死のイメージを相手に刻み込む為に。
「貴様が望むから我が此所に居る。貴様の望みを叶える為に我が此所に呼ばれる」
「戯言を」
「笑止―――偽れぬ、己の影は」
 甲殻を有つ巨大な猛禽類の爪が、再び志貴を吹き飛ばす。
 混沌数の無限から濫れた、幻想種の腕。
「が、あ!」
「境界に在る己に堪えられぬならば、我と供に堕ちるが必定―――」
 黒い踵を一歩踏み出し―――崩れた。

 チリン―、と。

 微かな鈴の音がひとつ。
 滝のように、張り巡らされた蜘蛛の巣のように。
 いっぱいに零れた滅びのホツレが影絵の街を崩していく。
「茶番だ、な」
 記憶に無い。
 妙に人間臭い、即ち苦笑のようなものを浮かべたネロ・カオスが立ち止まった。
 コートに両手を納め、ゆっくりと地面に没む我が身にも慌てず。
 呆然とした志貴を、ただ見詰めた。
「己を喚ぶ者が在るならば………我を喚ぶのは止めよ、少年」
「何を、言ってる…?」
 崩れる街並みに比例して、淡れていく意識に呟く。
 呼ばれている?
 誰に?
 何の為に………。
「無様な事だ」
 その台詞は誰に向けての嘲笑だったのか。
 夜の街は、破片となって崩れ落ちた。
 引っくり返した砂時計のように。



「………さま」
「…」
 返事は無い。
「志貴…さま」
「…」
「志貴様」
 カーテン越しの柔らかい朝日の中で、決して苛立たず、しかし明確な意思を込めた呼びかけが繰り返される。
「志貴様。朝で御座います。お起きになられて下さい」
「…」
「志貴様………朝です」
 正確なテープのように繰り返す呼びかけが、ずれた。
 ベッドの側に立ち尽くした翡翠は、じぃ…と部屋の主人の寝姿を見詰める。
 メガネを外した志貴の寝顔は、石膏の彫像のように整っており、同様に精気が感じられない。
 それが毎朝の通りとはいえ、翡翠は毎朝同じように動揺した。
 口元に手を翳して呼吸をしているか、確かめてみたりもする。
 そして、その自分の行為を、メイドにあるまじき不遜な行いだったと反省する、深く。
 ―――毎朝同じように。
「志貴様。朝で御座います。お起きになられて下さい」
 そして呼びかけが再開される。
「志貴様。朝ご飯の準備ができております」
「…」
「志貴様………」
「…は…ぁ…」
 再び、不安に駆られた翡翠が妙な行動を起こそうとした頃。
 浮かび上がる泡が弾けるように、小さな呼吸が漏れた。
 翡翠は安堵すると同時に少しだけ残念して指を引く。
「志貴様…お起きになられて下さい」
「………ん」
「………」
 雪のように真っ白だった頬が、少しずつ血色を取り戻していく。
 翡翠は呼びかけを止め、じぃ…とその様に見惚れた。
 志貴の手がベッドボードに伸び、手探りでメガネを探っている。
 思わず手を出しかけた自分の腕を押さえ、姿勢を立たしてその時を待つ。
「………ふ、あ」
 メガネをかけた志貴が、伸びをするようにベッドの上で身体を起こした。
「おはよう御座います。志貴様」
「わ、翡翠!」
「………そのような反応は、失礼かと思います」
 ちょっぴり傷ついたような翡翠の顔に、志貴は慌てて頭を振った。
「違うんだよ、翡翠。だた、少しビックリしただけで」
「昨日も同じ反応をされてました」
「いや、だからさ…」
 一見、同じ表情。
 だが、明らかに拗ねていると解る眼差しに言葉に詰まってしまう。
 確かに、毎朝同じように翡翠に起こしてもらう。
 それは全然問題が無い。
 金髪のお姫様や、黒髪のお嬢様などにモーニングコールされるのに比べれば、極上の目覚めといえるだろう。
「もしかして、私に起こされるのがイヤなのでしょうか?」
「そうじゃないけど」
 志貴はシーツを引き寄せるようにして、ベッドの上で心なし後退った。
 ベッド脇に立った翡翠との距離は、にらめっこするような間隔しかなかったのである。
 気のせいだろうか。
 毎朝、極少しずつ接近しているような気がするのは。
「翡翠から起こして貰えて嬉しいよ、本当に」
「は…はい」
「ああ、そうだ………おはよう、翡翠」
「ぉ、おはよう…御座います。志貴様」
 ぺこり、と頭を下げた翡翠は、ぱたぱたと慌てた感じで部屋を出て行った。
 またもや珍しいモノを見た気がした志貴は、しばしその後姿を見送る。
「また………?」
 軽い頭痛。
 それは日常の事だったが。
 悪くは無い、朝の始まり。

 チリン―、と。

 鈴が鳴る。
 ベッドボードに乗せられた置物のような、黒い塊。
 丸くふわふわとしたヌイグルミ。
 そんな一匹の少女。
「………レン」
 鳴声もさせず、顔もあげず、尻尾の前を小さく持ち上げる真っ黒色の子猫。
 主人に対して、そんな無愛想な仕草にも、志貴は苦笑しただけだった。
 猫とはそう云った生き物だろう。
 無愛想で人に媚ず。
 しかし、一匹で生きて行けるほど強い生物ではない。
 ああ、そうかもしれない。
 そういう所は酷く似ているのだろう。
 ―――人という生き物に。
「レン。有難うな」
 チリン、と小さく鈴が鳴らされる。
 差し込む陽だまりに丸くなったまま、動かない。
 志貴はもう一度小さく頬笑んだ。
 何やら、下が騒がしい。
 不機嫌な怒鳴り声や、能天気な笑い声、慌てたような制止の訴え。
「早く着替えないといけないな、これは」
 言葉とは裏腹にのんびりと呟いた志貴は、翡翠の準備してくれた制服を手に取った。

 ―――今日が始まる。
 何でもない、昨日と同じ。
 ありふれた、そんな一日の始まりを保証してくれるような朝だった。





「まったく、もうっ。兄さんときたら飽きもせずに毎朝毎朝」
「あは。逃げるようにして行っちゃいましたねー」
「遠野家の長男ともあろう者が、泣けてきますわ!」
 庶民住宅にはありえない、無闇に広いリビングに嵐が吹き荒れていた。
「今日は遅刻せずにたどり着けると宜しいんですけどね」
 割烹着姿の琥珀が、開け放たれたままの扉の向こうを、手翳しをして見送っている。
 黒い濡れたような長髪を逆立たせた秋葉は、取り逃がした獲物に勘弁がならないようだ。
 青と白の色調でクールなイメージの浅上女学院の制服が、クールに燃え盛る炎を演出している。
「遅刻などしたら、お仕置きですっ」
 どんなお仕置きが待っているのやら。
 秋葉の側に控えた翡翠は、目を瞑って志貴の為に祈りを捧げた。
「そうよ、お仕置きよ、お仕置き。兄さんが悪いんだから当然の事です………そう、悪いのは兄さんなんだから。夜は無断外出するし、あまつさえ無断外泊まで。許せませんわね、絶対許せませんわ。そう…閉じ込めて、ゆっくり自分の身の程というものを教えて差し上げねば、ね」
「………………姉さん」
 妖しげな宣誓を嬉々として呟く秋葉の背後に、猫背の琥珀がボソボソと吹き込んでいた。
「―――今日も又、随分と賑やかな朝ですね?」
「シオン様。おはよう御座います」
 初めからそこに居たように。
 菫色の女性がリビングの入り口に立っていた。
「おはよう、翡翠。朝食は?」
「申し訳ありません―――朝食の時間は終了しています」
 最近は随分と優しげな微笑を浮かべるようになったシオンの頬が引きつった。
「あらあら♪ 翡翠ちゃんヤキモチ?」
「…姉さん、止めて下さい」
 何故か赤面した翡翠の背中を、チェシャ猫のような笑みを浮かべて突く琥珀。
「でも、翡翠ちゃんの気持ちも解りますわ♪ シオンさん近頃、こう…腰の辺りがすっかり女性っぽくなっちゃって。私でもムラムラきちゃいそうです。志貴さんも堪え性がないですからね〜♪」
「ねっ、姉さん?」
「こ、琥珀…!」
 同時に、似たような反応したお方がもうひとり。
「あら? どういう意味かしら………シオン?」
「な、何でもありませんよ、秋葉」
「そう………貴女ともゆっくり話をする必要があるみたいね?」
「誤解があるようですね、秋葉」
「こっちを見なさい、シオン」
 クールな態度を装いながら、決して目を合わせようとしないシオン。
「…」
「…おはよう御座います。レン様」
 微妙に荒んだ空気の漂い始めたリビングの隅で、真っ黒い毛玉がてぺてぺ…と入って来た。
「ミルクで宜しいですか?」
「…」
「温めますので少々お待ち下さい」
「…」
 猫皿とミルク瓶を手にした翡翠が、いそいそとキッチンに向かった。
 黒猫は心配げに後姿を見送ったが、ぷるぷると頭を振った。
 『ミルクを温める』というのは"料理"ではなく"作業"だ。
 ミルクが劇薬に化学変化する余地は無い―――筈だ。
「そもそも兄さんが、あちこちの女に誤解されるような素振りを」
「その志貴さんなんですがー…」
「どうしたと言うのですか、琥珀!」
 頬に人差し指を当てた琥珀の呟きに、シオンは食いつくように縋った。
 其れが最善の回答なのだろうか。
 思考の小部屋の費い方を、間違っているんじゃないだろうかと秘かに思う黒猫。
「いえ、コレ………志貴さんのお弁当なんですよねー。ひょっとして忘れていっちゃいましたか」
「ひょっとして、ではなくて忘れたのでしょう。あの人は」
 志貴に命の危機を抱かせたうえ、追い出した人物がヤレヤレと首を振った。
 小さなポシェットに入れられた、サンドイッチのお弁当だった。
 黒猫はテーブルの端から覗くお弁当を、じぃ…と見詰めた。
「ホント、志貴さんも勘が良くなって………じゃなくて、うっかり屋さんで」
「一部不当な発言は聞き流して差し上げますが………仕方ありませんね。まだ学校には着いていないでしょうから」
 ちなみに遠野家の住人に、携帯電話などの近代的で一般的な便利道具を持っている人間は存在しない。
 だが然し、プッシュホン電話の使い方も知らないのはどうだろう、と再び思う黒猫。
「秋葉。使ってみてはいかがですか?」
「成程………そうでしたわね」
 シオンの勧めに、秋葉の顔に笑みが浮かぶ。
 恐い、と黒猫は尻尾を丸めて踞る。
 右手を掲げ、ピアノの鍵盤を弾くように指の反応を確かめる。
 ぎこちなくも的確な操作法に、シオンが教師の顔で満足げに頷く。
 公にできる技術でも、誰でも扱える技法でも、まして賛美される系統でもない。
 だが、才を宿した『生徒』を、快く感じない『教師』はいない。
 ―――が。
「ふん………見つけましたわ」
「あ、秋葉…?」
 手応えを感じた秋葉は、ヒットしたフィッシャーマンのように思い切り腕を引いた。
「くっ! 抵抗するのですか!? ………兄さん!!」
「イヤ………フツー抵抗するでしょう」
 まさか、力ずくで引っ張ってくる計算だったのだろうか。
 エーテライトの使用法が根本的に間違っている。
 シオンはコメカミを押えて溜息を吐いた。
 秋葉の腕がガクガクと震え、突然、支えを失ったようによろけた。
「ちィ………エーテライトを斬ったのですね! まったく、もう、あの人は。学校にまで刃物を持ち込むなんて、非常識な」
「「非常識なのは誰?」」
 と皆考えたが、口に出せる勇者は居なかった。
「シオン! このモノフィラメントは脆過ぎますわ」
「私は逆に、丈夫さに驚いていますが…」
「レン様。お待たせ致しました………あら、レン様?」
「どうしたの? 翡翠ちゃん」
「レン様の朝ご飯をお持ちしたのですが。―――秋葉様」
「何かしら、翡翠」
「お時間、宜しいのでしょうか?」
 浅上女学院は遠い。
 本来ならば、通学できるような距離ではない。
 それ以前に全寮制なのだが、誰もその事実を指摘できない。
 そんな命知らずはこの世に存在していても、直に居なくなる。
 秋葉の顔がみるみる青くなった。
「琥珀!」
「はいはい。お車なら先ほどから玄関に」
「なら、何で教えてくれないのっ、貴女は」
 淑女にあるまじき仕草でリビングを飛び出す秋葉に、琥珀はくすくすと頬笑んだ。
「だって、楽しそうでしたから」
「―――秋葉も苦労しますね」
「いえいえ、こんな思いやりのあるメイドさんは他に居ませんよー」
「レン様…レン様?」
「まあ、良いのですけどね。それでは私は研究がありますので………お昼ご飯には呼んで頂けると助かります」
 シオンは空腹にシクシクと痛む小腹を抱え、食堂を後にした。
「ところで翡翠ちゃん?」
「何でしょう? 姉さん」
 琥珀はテーブルの上から消えたお弁当に頬笑みながら、翡翠が捧げ持った猫皿を覗き込んだ。
「その赤と青と白色の、マーブル模様のミルクはどうやって作ったの?」



 てぺてぺ…と一匹の黒い猫が、住宅街を通り過ぎていく。
 小さな身体に不釣合いなほど大きなリボン。
 口にポシェットを啣えて、迷わずに道を歩いていく。
 ちょっと撫でてみたくなるような光景だったが、誰の注意も引かずに繁華街まで到達する。
 志貴の学校まであと少しという所で。
 ―――ひょい。
 と、抱き上げられた。
「やっほー♪ やっぱ、レンじゃない。久しぶりー」
 問答無用で抱き上げたアルクェイドは、ガードレールに腰掛けたまま胸に抱きしめる。
 フカフカするクッションに挟まれ、パタパタともがく。
 黒猫はポシェットを啣えたまま、旧マスターを恨みがましい目で見上げる。
「…」
「どうしたの、レン。お散歩?」
 聞いてない。
 ―――というか、人の都合など考えていない。
「いーお天気だもんね。こんな日は公園でゴロゴロしてたいよねー、ホント」
 とても吸血鬼の台詞とは思えない、と思いつつ無駄と知りながら抵抗を続ける黒猫。
「うん、決めた! 今から志貴を誘って、公園でお昼寝パーティーしよう」
「…」
 拉致って、とも曰う、それは。
 朝っぱらからアルクェイドが起きて街をうろついていたのは、そもそも志貴が学校から下校してくるのを待ち受けていたからだ。
 ある意味一途、といえない事も無いが、自分の堪え性の無さ、というモノを全く考慮していない。
 黒猫が通りかからなくても、待ち切れず学校に乗り込んでいったのは明白だった。
「レンも一緒に寝っ転がろ」
 完結した真祖の姫君は、黒猫を抱っこしたまま通い慣れた学校への道をたどり始める。
 黒猫は暴れるのを止め、だらーん…と脚を伸ばして連れ去られるにまかせた。
 行き先が一緒ならば、抵抗するだけ損というものだ。
 それに―――アルクェイドのお誘いが魅力的だった、というのも確かな理由だ。
 もっとも、当の真っ白い吸血鬼が邪魔だったが。
「? 何よ、レン。………あ、それお弁当?」
「…、…」
 黒猫はふるふると首を振って否定する。
「奪りゃしないわよ。私は志貴にラーメン奢って貰うんだー♪」
 恐喝とも曰う、それは。
 学校が近づき、校門が近づき、迷わずアルクェイドは校内に足を踏み入れた。
 一瞬も躇わなかった。
 ある意味凄い、と感心する黒猫。
「志貴の教室は、確かあそこだったよね」
 授業中につき無人の校庭から、三階の窓を見上げる。
 跳躍する心算なのだろうか。
 人間の限界を遥かに超えた高みへと。
 微かに重心が沈むのを感じた黒猫は、全てを諦めて目を瞑った。
 絶対、志貴に怒られるんだろうけど、自分に矛先が回って来ないだろう、との計算もある。
 逆らってもどうせ聞かないし。
「せ〜のォ〜〜…」
 ズド、ド、ド、ド!
 と足元に直剣が杭のように突き刺さった。
「止めなさい!! このアーパー吸血鬼っ」
「む。邪魔しに来たわね。ニセ女学生」
「だ・れ・がっ、ニセ女学生です! エセ吸血鬼の分際でっ」
 胸抱っこされたままの黒猫の下半身が、アルクェイドが振り返るのに合わせてぶらん…と揺れる。
 成程、そこに居るメガネの女子生徒はどことなくパチモノ臭かった、と黒猫が考えた矢先に黒鍵が吹っ飛んできた。
「誰がパチモノですか、この化けにゃんこ」
「あっぶないわねー」
 アルクェイドは黒猫の目の前で、黒鍵を指に挟んで止めていた。
 一応、宿敵の登場にアルクェイドは黒猫を降ろして腕を組んだ。
「あのままだったら、私の心臓にズブリ、よ。私ごと串刺しにするつもり?」
「狙ったんですから当然です。豚のような悲鳴をあげてチリに還りなさい。フリークス」
「何よ、本当の事じゃない。この皮被り女子高生」
「な、なにを下品な台詞を口走ってるんですか、貴女は!」
「むぅ………シエルまで、妹と同じ風に逆切れして」
「貴女に妹は居ないでしょう。変な事を考えると殺しますよ、直に。………大体、何で秋葉さんにまで怒られてるんですか」
「原因は良く解んないんだけど、口喧嘩になってねー。頭にきたんで『女子高生の皮を被った鬼女』って言ってやったのよ」
「それは怒るでしょう………」
「そこまではね、まだ髪も黒くて冷静だったんだ。頬っぺたは引きつってたみたいだけど。その後、妹が『化け物姫にそんな事を言われる筋合いはありませんわ。大体、羊の皮を被っているのは兄さんの方でしょう?』ってね」
「居たんですね………遠野君も、そこに」
「それで私が、『志貴は皮なんか被ってないよー。もう、元気元気』って教えてあげたらブチ切れちゃって………きゃッ! 危ないじゃない!」
「あ、あ、あ、貴女って人は!!」
「最近、シエルってば怒りっぽくなったんじゃない? そんなだから志貴に『おばさんはシツコイ』とか『おばさんは用済みだ』とか『おばさんはお尻の方が好き♪』、だとか言われるんだよー」
「絶対、殺ス」
 制服姿のシエルは、どこから取り出したのか両手に数本ずつ黒鍵を握り締める。
 高まる緊張に、空気がビリビリと震える。
 だが、黒猫は我関せずで三階の窓を眺めていた。
「…」
 居ない。
 あそこに自分の主人は居ない。
 黒猫は追跡するための痕跡を探すために、周囲を見回す。
 側で超常のバトルが開始されそうだったが、志貴が居なかった事に比べれば些細な問題だ。
 ふと。
 シエルの背後に妙なモノを見かけて首を傾げる。
 あきらかに人でもない、魔でもない、妙な気配を宿した―――精霊だろうか。
 ぽやや〜んとした雰囲気を纏ったソレが、黒猫の視線に気づいたのか嬉しそうに手を振ってくる。
 うざかった。
『ひ、酷いです』
 何か泣き言が聞こえた気がしたが、黒猫は踵を返して学校を後にした。



 てぺてぺてぺ…と歩道を歩いていく。
 途中、歓声をあげて駆け寄ってくる子供達などをかわしながら、住宅街を彷徨う。
 交差点に差し掛かると暫し歩みを止め、左右にすんすん…と鼻を嗅がせてから歩き始める。
 同じような家並みが続く道の途中で、黒猫の顔が上がった。
「お。―――猫」
 タバコを咥えた女性と目が合った。
 丁度玄関を開けたまま、突っかけに足を突っ込んでいる所だった。
 美女、の部類に入るのかもしれないが、無造作に結い上げられた赤髪、立っているだけで醸し出す横柄な空気は、パチンコ屋に棲息するおやぢのようだった。
「それも黒猫か………今日は出んな、こりゃ」
 本当に行く心算だったのか、と多少むっ…として睨む。
「イヤ、待てよ? これはあれか………『CR猫物語』にしろと言う、神のお告げか」
「…」
「サンキューだ、猫」
 一子はポケットから取り出したミルキーキャンディーを、黒猫の前に置いて立ち去った。
 何だったんだろう、あれは。
 と考えながら口をモゴモゴさせながら歩き始めた。



 てぺてぺてぺてぺ…と少し寂しくなった住宅地を歩き続ける。
 大分近づいてきた、と思う。
 好きな匂い。
 志貴の匂いが近い。
 距離ではなく、場所に「残念」した時が近しい。
 真っ白く、それでも煤けた清潔感のある建物に行き着く。
 住宅にしては大きく、邸宅にしては小さい。
 門に打ち付けられた看板を無言で見上げてみる。
「あら。猫ちゃん」
「…?」
 ふわり、と背後から抱きかかえられた黒猫は、怪訝な顔をして振り返る。
 余りに自然な流れに乗せられて、胸に抱き上げられる。
「どうしたの? うちに何か御用?」
「…」
「怪我でもしたの…?」
 見知らぬ女性だというのに覚えがある、匂いが同じ。
 ―――割烹着の女と。
 黒猫は必死で拘束を振り切った。
「あいたた」
「何をしておる、朱鷺恵」
「あらら、お帰りなさい。お父さん」
 同じだ、同じ。
 白髪の爺からも、危険な匂いがいっぱいした。
「何じゃ、コイツは。『猫の出戻り』か?」
「う〜ん。確かにここら辺では見た事無い子なんだけど。………そう云えば、随分と早かったわね」
「詰まらん。何が老人会の寄り合いじゃ。ワシはまだ若い」
 曖昧な笑顔で苦笑する娘に、宗玄が眉を寄せる。
「だいたい、今日は小僧が検診に来る日じゃろう」
「ああ、うん。…志貴くんならワタシが診た」
「…」
「うむ。そうだったか」
 黒猫は胡乱な眼差しで朱鷺恵を睨んだ。
 気配を感じられなかったのは、詰まりはそう云う事だったのだ。
 匂いが、余りにも主人と交じり合っていたから。
「で、小僧は?」
「んー…帰った。ちょっと疲れてるみたいだったから」
「っ…なんですってぇ!?」
 突然、背後から上がった叫び声に、黒猫の毛が逆立った。
「ここでお兄ちゃんをひそかに待ちぶせていたあたしの立場はどうなるの!」
「あら、都古ちゃん。いらっしゃい、お久しぶりね」
 垣根から頭を突き出したちびっ娘に、慌てず騒がず頬笑み返す。
 何時から隠れていたんだろう、とか考えながら腰が脱けている黒猫。
「いんぼーだわ、いんぼーなの。お兄ちゃんをいぢめようとするれいけつアキハが、いんけんコハクとこうてつヒスイに命じて悪だくみしてるに違いないわ」
「………知っとったのか? おぬし」
「う〜ん。診療所の窓から、ちっちゃなお尻が見えてたから」
「せめて声をかけてやるとかだな」
「でも、何だか楽しそうだったしね」
 同じだ。
 やっぱり同じだった。
「大体、小僧に逢いたければ遠野の屋敷に行けば良かろうが」
「あそこは鬼門だからだめなの」
 怖いのか、要するに。
 黒猫は早々に踵を返して逃げ出した。
「あらら………志貴くんに宜しくねー。レンちゃん」
 ひょっとしたら、一番油断ならない人物なのかもしれなかった。



 てぺてぺてぺてぺてぺ…と大分疲れてきた足取りで街を歩いていく。
 方向は遠野邸の方へと向けられていた。
 どうやら、黒猫の主人も帰路を辿っているようだ。
 街を走り回る。
 それは黒猫にとって慣れ親しんだ行為に過ぎなかった。
 気落ちしている理由は、どうやら自分が役に立てなかった、という事実だった。
 俯いたまま行き着いた場所は、自分にとって酷く思い出深い場所だった。
 昼を過ぎた公園は、穏やかな風が流れていた。
 子供を連れた母親。
 顔に新聞紙を広げてうたた寝ているサラリーマン。
「そこの美しいお姉さん!」
 そして―――学校をサボってナンパに勤しむ弾け飛んだ学生。
「………ん? それって私の事?」
「勿論ですっ、美しいお姉さん」
 美しい女性という呼称で振り返るなんて、余程歪んだ自意識を持ってる女だ。
 何てコトをチラリと考えたら―――目が合った。
 ゾクリ、とした戦慄に尻尾の前まで毛が逆立つ。
「ナンパなんて久し振りだわ」
「なんという侮辱でしょう! お姉さんのような美しい女性に声をかけないなんてっ。そんな奴は男の風上にも置けないぜっ」
 胸に手を置いて明後日の方向に視線を向けながら、声高々に訴える有彦。
「まあ、君みたいなタイプも嫌いじゃないんだけど…」
「解って頂けましたか! それではワタクシめと午後のティータイムなどに、ぶっ飛んでレッツゴー」
「………取り合えず、ひとりでぶっ飛んでって」
 不意に風が鳴った。
 小鳥の囀り。
 柔らかな日差し。
 噴水の水音が閑かな公園に響いている。
「やれやれ―――お茶ぐらい付き合ってやっても良かったんだけど」
「…」
「こんにちわ。猫くん」
 古びたボストンバックに寄りかかるように、黒猫の前にしゃがみ込む。
 赤い頭髪は地面にくっ付いてしまいそうなほど長い。
「ちょっと珍しくてね。ロンドンやプラハじゃあるまいし、日本のこんな片田舎で君みたいな子を見かけるなんて」
「…」
 黒猫はぽぉ…として赤毛の美女の顔を見詰める。
 どこか、酷く、懐かしい。
 遠い記憶の中に嗅ぎ取っていた、匂い。
「お使いの途中なのかな? 猫くんの名前、教えてくれる?」


 『先ず最初に名前を―――』


「だけど、君みたいな夢魔にお弁当運ばせるなんて、相当変わったマスターね」


 『次に在り方を教えよう―――』


「…」
 黒猫の身体が震え始める。
 何故なら。
 自分は。
 今、何故ここに居るのか。
 何の為に、誰から命じられて?
 黒猫の口から、ポシェットがこぼれ落ちた。
 何故?
 何故?
 何故?


 『使い魔とは―――』


「うん。―――君は良い子だね」
「…」
 氷り付いたように小さく震え続ける子猫の頭を、細い指が優しく撫でていた。
「マスターの事がそんなに好きなんだ」
「…」
「本当は拾って帰ろうか、とも思ったんだけど」
「…」
「仕方無いからひとりで帰りましょうか」
「…?」
「ん、別に用事があってこの街に来た訳じゃないから。仕事で近くに寄ったんで、久し振りに昔の『生徒』の顔でも拝んでやろうか、ってね」
 背伸びをするようにして立ち上がると、毛先に付いた砂を払い落とす。
「ま、良いか。―――あの子も元気でやってるみたいだし」
「…」
「じゃあね、猫くん。大事にして貰いなさい。………いじめられたら、『先生』に言いつけても良いからね♪」
 颯爽と、風のように去っていく後姿を、黒猫は影絵の街に消えるまで見送っていた。



 てぺてぺてぺ…と足音が響いてきた。
 門の前に直立していた翡翠は、小首を傾げるように視線を下ろす。
 てぺてぺて―――
 真っ黒色の猫は、翡翠の隣に並ぶようにして座り込む。
「お帰りなさいませ。レン様」
「…」
 ポシェットを咥えたままの黒猫は、尻尾の先を小さく振って答えた。
 それから、どちらからもコミュニケーションする事無く、ゆっくりとした時間の中で立ち尽くしていた。
 待ち人を、ただ待つ時間はそれなりに苦痛では無い。
 それはずっと相手の事を考える時間になる。
 陽が没み。
 周りの景色から色彩が抜け落ちていく。
 明かりが灯り、モノクロームの世界へと変わる。
 始めにレンが、続いて翡翠がそちらの方向に顔を向けた。
 目を瞑ってゆっくりとした足音を確認して、もう一度正面に向かって姿勢を正す。
「あれ? 翡翠………と、レン」
「…」
「お帰りなさいませ。志貴様」
 暮明のスクリーンの向こうから抜け出してきたような志貴は、仲良く出迎える一人と一匹に驚いていた。
「外で待っててくれるなんて、何かあったの?」
 最初、志貴が遠野家に戻った当時は兎も角、今は志貴の説得によってエントランスで出迎えてくれている。
 翡翠の行動が、時間にルーズな志貴の枷になる。
 遠野家の当主はそのように考えていたし、それは事実だった。
「いえ」
 翡翠は頭を振った。
「過去形では御座いません。今、屋敷には秋葉様の御級友方がいらしております」
「うわ。秋葉の奴、怒ってるんだろ?」
「………はい」
 志貴が事前に聞いていた事ではないが、遠野家領地内での法律を形成しているのは秋葉だ。
「早めに着替えて、リビングにおいで下さる事をお奨めします」
「うん。有難う、翡翠」
 イエ、と視線を外した翡翠が、そのままペコリ…と小さく頭を下げて屋敷に戻って行った。
 微かに染まった頬に、「風邪かな…悪いコトしたな」などと呟く志貴は、爪を思い切り立ててやりたくなるぐらいナチュラルだった。
「ただいま。レン」
「…」
 志貴は両足を抱えるようにしてレンを抱き上げる。
 ぶらん…と尻尾を振り子のように揺らす黒猫は、先程からずっと志貴の顔を見詰めたままだ。
「あっ、お弁当………忘れていったんだよな」
「…」
「さんきゅ、レン。ちょうど小腹が空いてたトコでさ」
 肩に黒猫を乗せた志貴は、ポシェットの中身を開いて、多少パサパサになったサンドイッチを摘んだ。
「うん。美味しい」
 優しく抱えられたレンは、脱力するようにして志貴の首元に顔を埋めていた。
 それが、朝から思い描いていた―――黒猫のひとつの望みだったから。





「―――大体、兄さんは身勝手が過ぎます」
「はいはい」
 椅子に深く腰掛けた志貴の前に、腕を組んだ秋葉が仁王立ちになっていた。
 秋葉の右手に握られているのは、真っ赤な液体が満たされたグラス。
 その顔も、ワインに照らされているように赤い。
 未成年の飲酒について。
 遠野家の領地内は治外法権がまかり通っている。
「―――良いのか。本当に」
「ま〜ま〜良いじゃないの。お客様が口出すことじゃないよー。蒼ちゃん」
「良いじゃないですか先輩方♪ 奢りなら全然問題ありませんよ」
 乾したグラスを両手で握った晶が、幸せそうな顔で高そうな赤ワインを注ぎ足す。
 珍しく校外でも髪を下ろした蒼香が、目を細めて自分のグラスを睨む。
「それが問題なんだ。―――あいつは『奢りだ』とは一言も言っていないぞ?」
「やはは。うがち過ぎですよー、月姫先輩」
「「若い………」」
 と蒼香と志貴が視線を外らして心の中で呟く。
「よそ見しないで下さい。兄さん」
「…は、はい」
 がしり、と両手で志貴の顔を掴んだ秋葉が、自分の方を向かせる。
「それとも何ですか、私の顔を見るのが、そんなに嫌なんですか、兄さん」
「そんな事は無いです、ハイ」
「じゃあどうして、あの『蚊』と『メガネ』に付きまとってるんですか、やっぱり乳が大きくないと駄目なんですか、兄さん」
「ちょ、ちょっと待て! 実は大分酔ってるだろう、秋葉」
「私はシラフです!」
 大声で言い切った後に、足元をふら付かせる。
 ついでに晶の手からワインボトルを奪い取って、直接口を付けて呷った。
「ああう…もったい無いです」
「ほらっ………何とも無いでしょう? ―――むにゃ…」
「あらあら。秋葉様が二脱けですねー」
「ったく、はしゃぎ過ぎだ。翡翠、毛布を持ってきてくれるかな?」
「かしこまりました」
 糸が切れたように、くてり…となった秋葉を、志貴は抱えるようにしてソファーに寄りかからせた。
 先客として、シオンが宴会開始早々そこでダウンし続けていたが。
「はー、意外な感じですね」
「そうだな。遠野の奴が酔いつぶれるのは珍しいだろうな」
「いえいえ、そういうんじゃ無くてですね。―――こう、遠野先輩のイメージと違うというか、可愛いというか」
「………そうかもな。どんな奴にだって一人は、心を開きたくなる相手ってのが居るもんだ」
 それはえてして、本当の本心では在り得ないのだが。
「解るような気がします」
「まあ、死ぬ覚悟があるのなら、遠野の奴をからかうネタにしても良いだろうよ」
「? 秋葉ちゃんは秋葉ちゃんでしょう?」
「イヤ、それはそうなんだが」
 テーブルで料理を物色していた羽居が、小首を傾げて問いかけた。
「秋葉ちゃんは秋葉ちゃんなんだからー、今日の秋葉ちゃんは秋葉ちゃんっぽいよー。すっごく」
「ふむ。おまえさんの目から見れば、学校の秋葉も、今日の秋葉も同じように見えてるんだろうな」
「私にしてみれば、志貴さんの『優しいお兄さん』って感じのイメージが、適度に崩れてイイ感じでした」
「………アキラちゃん、本人の前でそういった会話は止めて」
「き、聞こえてましたか」
 志貴はウイスキーの烏龍茶割りを片手に、浅上女学院メンバーの方へ向き直った。
 膝に真っ黒い猫を乗せたまま。
 というより、猫が重力の法則を無視してくっ付いたままなのだったが。
 立ち上がって移動しても垂直面に寝そべって寛いだりしているので、いかにも体面が悪いので座ったままになっているのだ。
「御免ね。主催者が真っ先に潰れちゃって」
「ああ、お構いなく。こちらも気を使わずに楽しませて貰っているしな。遠野兄」
「………なるべくなら名前で呼んでくれると嬉しいかな」
「それは正直、キツイ要望だな。自殺教唆だ。あたしの人生設計にはルームメイトに撲殺される、なんて予定は無い」
「そ、それは考え過ぎじゃあ…」
 既に、その一線を越えている晶が引きつった笑いを浮かべる。
「まあ、百歩譲ったとしても、安眠できなくなるのは確実だ」
「だとしても、もう少し寛いで欲しいな」
 蒼香は苦笑する志貴の台詞に、僅かに目を細めた。
 ぴり、とした空気の張りに晶が身震いした。
 小柄で大人しい外見をしている蒼香だったが、浅上女学院で晶がゼッタイに敵にしないようにしよう、と肝に銘じているふたりの内のひとりなのだ。
「………この口調があたしの『素』なんだけどね」
「そうだろうね。でも、ちょっと緊張してるでしょ? 結構、無害な男なんだけどね、俺」
 テラスで日向ぼっこしてるようなのどかさで返す志貴に、蒼香は瞬きをして呆れた。
「なる程ね。こういう男だったか、遠野兄。………遠野妹もアキラも苦労するだろうな」
「?」
「ああ、やっぱり気づいてないか。流石だ」
 キョトンとした顔の志貴に、同じく首を傾げている晶。
 蒼香はひとり納得して頷く。
 解らないから踏み込めるのだろう、この後輩は。
 自分に出来る事は、そう―――せいぜい祈ってやるぐらいだ。
「頑張れ」
「な、なんでこっちを見てくれないんですか、月姫先輩?」
「―――仲が良いのは確かなのかな?」
「あれー? お兄さんは蒼ちゃんと晶ちゃんのコト知ってたんですか?」
「うん、前に一度ね。こっちの方の公園で会っただけなんだけど………ええと」
「三澤羽居ですー、羽ピンでいーですよ。それにしてもですねー、随分と親しげな感じみたいでしたから。特に蒼ちゃんと」
「こら…羽居、誤解されるような言い方は止めろ」
「………蒼香ぁ?」
「と、遠野、復活したのか?」
「貴女もなの………? そう、ゆっくり話を聞かせて貰う必要がありそうね」
「ご、誤解だ」
「皆そう言うのよ」
 山姥のような秋葉に連行される蒼香を、羽居が拗ねたように見送る。
「良いなー、面白そう」
「そ、そう思うなら替われ。というか助けて」
「でも、ご飯食べてるから〜」
「心配しなくても良いわ、蒼香。明日になれば何も覚えてないから」
「するわ!」
「遠野邸地下王国へご案内〜♪ 本日ふたり目のお客様でーす」
 琥珀はどこから取り出したのか、ラッパと電々太鼓を打ち鳴らした。
 ソファーで潰れている『ひとり目』のお客様が、ラッパ電々の音にびくっびくっ…と身体を引きつらせていた。
 ―――余程辛い目に合ったのだろう。
 遠い目で妹とそのルームメイトを見守っていた志貴だったが、頭を振って自分に言い聞かせた。
「まあ、秋葉もそんな無茶はしないだろ、その筈だ」
「………ああ、そんなっ! 酷いッ…そんなコトまで」
「何も言わなくて良いよ。………ていうか言わないで」
 何が『視えた』のか、顔を真っ赤にしてイヤイヤする晶に釘を刺す。
 問題は無いだろう。
 志貴は限り無く薄めたウイスキーをちびちびと舐める。
 遠野邸での宴会ではいつの間にか人が消えたり、いつの間にか増えてたりするのは珍しくないのだ。
「兄として秋葉と仲良くしてくれるのは嬉しいんだが」
「そう見えるんですか? 志貴さんには、本当に?」
「何も涙目で訴えなくても」
 明日は我が身、と思っているのか、晶は本気で泣き出しそうだった。
 こういう時。
 アルコールに強いというのは不幸である。
 カクテル用のウォッカを素で呷る晶がったが、呼吸が酒臭くなるだけで全然白面だった。
「イヤーっ、三人目はきっとわたしなんですぅー!」
 逃れようの無い未来予知などというものは、拷問以外の何物でもない。
 特にそれが済いようの無いモノだったならば。
「………逃げれば良いんじゃ?」
「隣の県までタクシーで帰れとゆーんですね。らいたい、浅上の中で遠野せんぱいと顔を合わせにゃいで生きていける訳がにゃいのです」
「アキラちゃん、飲み過ぎっ」
「どうせ傷モノにされるのにゃら、志貴さんと先にキセージジツを」
「何でそうなるの? 俺にはわからないよっ、アキラちゃん」
「殺られるぐらいだったら、先に犯っちゃ………はうあ!」
「お屋敷の中での不祥事は困りますからね〜♪ 翡翠ちゃん、もう一名お客様追加ー」
 お尻に突き刺した注射器を引っこ抜いた琥珀が、出入り口で待機していた翡翠を手招いた。
「翡翠? あんまり手荒な真似は」
「………アキラ様には随分とおやさしいのですね、志貴様は」
「そ、そんな事は無い。と思います」
「まさかとは思いますが、志貴様のお部屋で介抱なさるお積もりなのでしょうか?」
 翡翠の目がいつになく冷たい。
「滅相も無い、ケド………本当に『アソコ』に閉じ込めるつもりじゃないよね?」
 自分も何度か落とされた経験のある志貴が、額に汗を浮かべる。
「…当然です。来客用の空き部屋にお連れします」
「その間はナニ?」
「問題ありません。遠野邸の来客室には、外側から鍵がかかりますので」
 とんでもない屋敷もあったものである。
 亡き義父の嗜好に、志貴は頭を抱えた。
「あれれ? いつの間にか皆、居なくなってる」
「ああ、えーと…羽居さん」
「羽ピンでいーですよ? お兄さん」
「いや、それは勘弁して」
 志貴は黒猫を胸に抱えなおして、すっかり静かになったテーブルに着いた。
 羽居はアルコールを後回しにして、今までずっと琥珀の力作を味わっていたらしい。
「今日は宴会だって聞いたのに、お酒飲む前に終わっちゃうなんて非道いですー」
「それも、そうだね」
「…」
 黒猫がとたん…とテーブルの上に飛び降りた。
「あ、レン。琥珀さんに怒られ…」
「…」
 じぃ…と羽居と同じような目で、志貴を見上げる黒猫。
 志貴は苦笑すると、猫皿と新しいグラスを二つ持参した。



「いい加減、我慢の限界です!」
 薄暗い、廊下を真っ赤な鬼女が闊歩していく。
 恨み言を呟きながら目的もなくうろつく姿は、子供が見てしまったら一生のトラウマになりそうなぐらい恐ろしかった。
「誰が悪いの? 誰が? 私をこんなに苛立たせるのは誰!?」
 外から窓を見上げると、メデューサが獲物を求めて放浪っているようにしか見えない。
「兄さん………そう、兄さんが悪いのね?」
 その瞬間。
 雷光が鳴り響いた―――ような気がした。
「私の気持ちを知っておきながら、ふらふら、ふらふらと………私を試しているんですか、兄さん!」
 が、自分の台詞にショックを受けたように立ち止まる。
「そう………そうなのね、兄さん? 自分が欲しいなら、私に誠意を見せろというのね?」
 その瞬間。
 雲の隙間から、神々しい光が地上にあふれ出た―――ような気がした。
「自分から私を求めるような、あさましい姿を見せたくないと。私の方から兄さんの足元に跪け、と! ………なんて意地っ張りなんですか、兄さん!!」
 混沌の中から答えを引っ張り出した秋葉の行動は素早かった。
 確認するまでも無いが、廊下には秋葉ひとりだけしか居ない。
 確認するまでも無いが………未だ酷く酔っていた。



「………あのー」
 コンコン、と小さく扉を叩く音。
 抜足。
 差足。
 忍足。
 扉の前にパジャマ姿の小さな影がしゃがみ込んでいる。
 同じような扉が連なる屋敷の中で、どうしてその場所が解ったのか、自分でも不思議だ。
 ―――不思議だったが、このチャンスを逃すほどお人好しではないのだ、自分は。
 晶の口元が猫口になっている。
「志貴さ〜ん…起きてらっしゃいますか…?」
 手にしているのはジンビーム。
 グラスはふたつ。
 ノブを握って捻って見る。
 なんと施錠はされていない。
「駄目じゃないですか、無用心です。………わたしが戸締りしてあげますね」
「………気が利くのね。瀬尾?」
 扉を半ば押し開けたまま、晶の身体が硬直した。
 というより凍りついた。
 本能が激しく危険を告げていた。
「あらあら、小ウサギのように震えて、可愛そうに。………ウチの屋敷も無駄に広いですからね? 廊下まで暖房する余裕が無くて御免なさい」
「………と、と、と」
 いっそ優しげな秋葉の声色に、周囲の気温がみるみる低下していく。
 青を通り越して白い顔をした晶は、背後の鬼気に振り向くことさえ出来ない。
「いつも貴方は私の想像の上を行くわ。まだ私、見くびっていたのね。褒めてあげるわ、瀬尾」
「…あうあうあう」
「うふふ、御免なさい。貴方が何を言いたいのか解らないわ、瀬尾」
 どんどんな優しくなっていく声色に比例して、周囲の空気が凍っていく。
「………何故、霜が降りてるんだ? この一角だけ」
「月姫せんぱいっ!」
 トレーナー姿の蒼香は、結わえた髪を気だるげに引っ張って欠伸をしていた。
 文字通り脱兎の勢いで、晶は蒼香の後方に逃げ込む。
「どうした、アキラ? ………きゃ!」
 めずらしく乙女チックな悲鳴をあげた蒼香が、アキラを押し潰すように壁に張り付いた。
 そこに一匹の『鬼』が居た。
「貴方もなのね? 蒼香」
「なっ、何を言ってる…?」
 俯いて髪に隠れていた顔の奥で、氷のような瞳が光っていた。
「そう………貴方も、やっぱり、そうなのね」
「何を言いたいのか解らないぞ! 遠野っ」
「うふ、うふふ…どうやって地下から抜け出したのか知りませんが、貴方が今ここに居る事が答えなのではなくって?」
 蒼香は反論しかけて、言葉を失った。
 何か、酷く妖しすぎて現実味の無い、地下の採石場のような場所に居た記憶がある。
 そこからどうやって、帰ってきたのか。
 何処か、アンティーク調のホテルのような部屋で休んでいた記憶がある。
 そこから何故、ここへ来たのか。
 矛盾した、記憶像。
 自己意識にマインドセットを施す。
「ちょっと待て、遠野。何か間違ってるぞ、これ」
「もう少し、静かにして貰えませんか………あ、秋葉?」
 蒼香は天井を見上げて顔に手を当てた。
「来たわね………シオン」
「なな、何なのですか?」
「うふふ、うふふふふ………役者が揃った、という所かしらね?」
「あは。凄いわね、今夜の秋葉様」
「…姉さん。何故ここに居るの?」
「それを言ったら翡翠ちゃんも、でしょう」
 緊張にひび割れそうな空気の中で、なんとも気の抜けた声が聞こえた。
 ―――致命的な場所から。
「ふぁ〜…皆ぁ、うるさいよー」
 志貴の部屋のベッドから身体を起こしたのは、キャミソール姿の羽居だった。



「決して逃げる訳じゃないんだぞ。レン」
「…」
「そう、逃げてる訳じゃないんだ」
 一人と一匹は、穏やかに降り注ぐ月の光。
 立待月の、曖昧に優しい灯りが小さな林の中を照らしている。
「俺はただ、心安らかに眠りたいだけなんだ」
「…」
 自分に言い聞かせるように呟く志貴の影を踏むように、てぺてぺてぺ…とレンが歩いていく。
 敷地の外れにある別邸は、繰り返し取り壊しの話が出るも、そこに残されたままだった。
 布団は置いてあったし、ちょっとした食料も常備している。
 迷ってしまいそうな、小さな木々の迷宮。
 降り注ぐ月の光に、ステージのように開けた広場。
 その真ん中に。
 ひとりの男が待っていた。
 志貴は月光を透かすように目を細めた。
「よお」
 片手をあげるのが見え、気安い挨拶が聞こえた。
 そこに立ち尽くしている。
 違和感も無く。
 始めからそこで志貴を待っていたかのように。
「やあ」
「遅かったじゃねぇか、今夜は?」
 その台詞に違和感を感じない自分に気づいた。
「ああ、悪い。秋葉の学校のさ、友達が来てるんだ」
「へへぇ、秋葉が、屋敷に、友人を?」
 余程意外な事だったのか、わざわざ単語に区切って繰り返した。
「大したもんだ。そりゃ進歩だぜ、シキ」
「そうだよな、俺も、そう思うよ」
「それに比べりゃ、オマエは進歩がねぇな」
 月を見上げるように仰け反って、ゲラゲラと笑う。
 志貴はむっとして腕を組む。
「どうやっても酒の肴にしかならないってのに、俺には逃げる自由も無いってのか?」
「イヤイヤ、悪かったな。自覚してる分だけ、マシになってやがるぜ」
 ガラにも無く飲んだせいなのか、そんな言われ方をしても腹が立たない。
 それどころか―――嗚呼、今夜は何時になく楽しい。
 それでも、これから始まる刻を想えば、それは極めた悪夢なのか。
 いつの間にか手にしていたナイフを、正眼に構える。
「………それじゃ、始めようか?」
「やめろやめろやめろ。今夜はせっかく良い月夜なんだ。そんな不粋なモンは、ケツのポケットにでもしまっておけ」
「なんだよそれ」
 手にしたナイフを見詰める。
 だが、まあ、確かに不粋だ。
「何で、俺はこんな物を持ってるんだ?」
「オマエはそれを俺に突き刺して、切り刻んで、バラバラにしちまおうとしてんだろ?」
「そうだよな、そうしなきゃいけないような気がしてた」
 男は腹を抱えて、ゲラゲラゲラと笑った。
「俺は俺で、オマエの身体を引き裂いて、バラバラにしちまわなけりゃならないってのか?」
「そうだよ。そういう約束じゃないか」
 なんなんだ、それは。
 志貴は自分の台詞に呆れた。
「なんだ、それは。まるで殺人鬼じゃないか、俺たち」
「何言ってんだ、シキ。オマエが作った舞台だろ?」
「………」
「オマエもずいぶんと浮気性な奴だぜ。今夜は俺。今朝はネロの旦那。その前はロアの気障ヤロウに、逝っちまってるワラ夫と来た!」
 何がそんなに可笑しいのか。
 子供のように手足をばたつかせてはしゃぐ。
「可愛い女の子でも呼びだしゃイイってのに、よりにもよってイッちまってる野郎どものオンパレードかよ、シキ?」
「………確かに不毛ーだね、それは」
「俺は、まあ…配役だから、どーでもいーんだけどヨ? 殺るかい、今から?」
 目の前に爪を突き立てる。
 だが―――その目は、ああ、そうだよな。
「レン…?」
 とん、と志貴の前に立ち塞がった小さな人影。
 黒い衣装を着た。
 小さな小さな少女。
 その瞳が氷のような鋭い意思を宿して、この世界の絶対の壁となっていた。
「おめーから殺っちまうぜ? 子猫ちゃん」
「いい加減にしろ」
 ゴツ、と拳をそのザンバラに伸ばした白髪に落とす。
「手加減しろ! 目から火花が出たぞ」
「………要するに、アレか。夢なんだ、これ」
「当たり」
 いつもと違う展開に、きょとんとしたレンの頭を、ぐりぐりと四季が撫でる。
 四季の口元には、いっぱいの人の悪い笑みが浮かんでいた。
「俺が見てる夢。………というか、俺が今まで見続けた夢か」
「それも当たりだ」
 にィ、と犬歯を剥き出して笑う笑顔は怖かったが、その目は酷く優しい。
「………………………これが俺の望みなのかよ」
 永遠と、月が昇る度に繰り返される。
 無限殺戮の宴。
 殺して殺されて、刺して刺されて、バラバラにしてバラバラにされる。
「当たり当たり………っても、オマエが考えてる『夢』とは、ちょっと違うだろ」
「何だよ、また説教か」
「おいおい、その俺はこの俺じゃないぜ? 拗ねるなよ、シキ」
「わからないよ、そんな台詞じゃ」
「それは外れだ。俺が知ってることはオマエも知ってる。イヤイヤ、逆だな。オマエが知ってるから俺も知ってるんだ」
 くるり、と振り返ったレンが瞳で肯定していた。
「ソフトなんだよ、俺たちは。OSはオマエ。但し、領域にはアクセス権限が規定されてる。昼のオマエに俺は見えない。夜になると強制的にロードされてオマエと殺り合う」
 レンの瞳が戸惑い始めた。
「………つまり、これは」
「『練習』、なんだろーな。戦闘訓練。オマエが知ってる適当に最悪な奴をセレクトして戦わせる………オマエの意思に関わらず」
 レンがおどおどしてふたりの顔を交互に見上げる。
「七夜の血に受け継がれてるプログラム。ジーンのメモリーだ」
「………驚いた。そんなに饒舌だとは思わなかった」
「馬鹿ヅラだぞ、シキ」
「自分に喧られてるってコトか、それ?」
「オマエが普通の人間で、このゲームマスターの癖に何も解ってないって目ぇした猫が居なけりゃな」
 話の流れに置いてきぼりにされたレンは、黒いスカートを握り締めて瞳を潤ませている。
 四季は気まずそうに頬を掻き、もう一度その小さな頭を撫でた。
「ありがとよ。………俺たちもいい加減、うんざりしてたからよ」
「四季! 待てよ」
「バーカ。夜中に男と逢い引きなんざキモチワルイだろ? 俺なんかと話し込んでる暇があんなら、オマエを待ってる奴を思い出してやれ」
「何だよ………わかんないよ」
「解んないのか? オマエ、無意識に拾っちまってんだぞ。識界の底に残念しちまってる存在を」
 月光の広場の真ん中に戻った四季は、何故か嬉しそうに腰に手を当てて天を仰いだ。
「滅びの概念視てんだよ、オマエ。俺は、ホレ………残念したイシキなんだからさ」
「解らない、よ。シキ…どこからが俺のイシキで、君のイシなのか」
「馬鹿」
 それこそ、本当に楽しそうにシキが笑った。
「それがコミュニケーションってモンだろーが」
「…」
「都合のイイ事だけ信じてみろよ。―――叶っちまったら現実。叶わないんだったら、それこそ夢ってもんだ」
「そんな逆説、強引過ぎるだろ…」
 大体、『夢』の定義が違う。
 四季の姿がブレて見えた。
「ああ、すっきりした。今夜はもう逝くぜ?」
「また、会えるのかい?」
「ホント、馬鹿だな。シキ………でも、まあ」
 こんなに月が綺麗な夜には、いつかのように酒を酌み交わすのも楽しいだろう。
「じゃあなー………秋葉を泣かしたら、殺すぞー?」
「冗談じゃない………泣かされてんのは俺だよ」
 そこはとても閑かな夜で。
 曖昧に欠けた十七夜の月が、キシキシと音がするほどに綺麗だった。
「………レン」
「?」
「ありがとう」
 繋がれた手をきゅ…と握り返して、小さな少女はそっと頷いた。



 要するに、アレだ。
 どこまでが夢で、どこまでが現実かなんて、実はつまらないこだわりなのかも知れない。
 大事なのは。
 『どこまでが良い夢で、どこまでが悪夢なのか?』
 その程度の事だろう―――シキ?
「………何故、貴方がここに居るのかしら? 瀬尾」
「何でと聞かれても、非常に困っちゃうんですが」
「ああ、困るな。………というより、命の危険を感じるな」
「あうぅー…頭、痛いー」
 ああ、今朝は冷えるね。
 寒気がする位。
「私たちは夢を見ていた、イヤ………見させられていた、という事ですか」
「そうね、シオン。話を逸らかそうとしても駄目です。―――貴方の部屋は」
 拳から突き立てた親指を、ゆっくりと真下に向ける秋葉。
 それは一階という意味なのか、さらにその下に『何か』が在るのか。
「秋葉、誤解があるようですね」
「そうです! 誤解なんです」
「そう云うことだ。遠野」
「あたま痛いィ…」
 仁王立ちになった秋葉から逃れるように、ベッドの上に固まった数人が、本来の部屋の主人の背後に隠れる。
 当人は、天井を見上げて現実逃避の最中だ。
「おっはよー志貴♪ うわぁ、今朝はハーレムだね〜。メイドには飽きたの?」
「突然現われて、聞き捨てならない台詞を吐くんじゃありません! この泥棒猫!」
「貴方もです! 先輩っ」
 ああ、もう、何が何だか。
 これが本当に夢だというのなら。

 ―――誰が望んだ夢なんだ?

 要するに。
 これは俺が望んで夢ではなくて。
「………なあ、レン?」
「?」
 むくり、とベッドボードに丸くなっていた黒猫が起きる。
「………これはレンの夢なのか?」
 否定しかけたレンが、しばし考え―――頷いた。
 これはレンの夢。
 ここはレンの夢。
 時の果てに夢見た、穂々に波打つ羽金色の向日に夢見ていた、夢のカタチ。
「ところで―――覚悟は、宜しいですね? 兄さん」
「うむ、秋葉」
 しばし考え。
「………誤解があるようだ」
「琥珀!」
「はいはぁ〜い♪ 団体様ご案内〜」
 悲鳴が聞こえた。
 黒猫は呆然として、底の抜けたベッドの穴を見下ろす。
 冗談なのか、何の為に仕掛けたのか。
 ―――何処に通じているのか。
 チリン、と鈴の鳴る音を残し―――
 迷わず、その中に飛び込んでいった。



 扉をノックする、規則正しい音が響いた。
 静まり返った部屋の中に、小さな寝息がふたつ。
 扉が、開けられる。
「志貴様」
 カーテン越しの柔らかい朝日の中で、決して苛立たず、しかし明確な意思を込めた呼びかけが繰り返された。
「志貴様。朝で御座います。お起きになられて………」
 呼びかけが、止まる。
 腕に抱いた黒猫と一緒に眠る主人の顔は。
 それはそれは―――とても楽しそうだったから。






[Central]