ぱすてるチャイム Another Season One More Time 菊と刀 09 雨と蛇の目と白い菊 作:ティースプン |
夕食後、カイトは図書室から借りてきた格闘技関係の本をパラパラと捲りながら、徒手武術を専攻することを決意する。 そして第二技能には射撃術を選び、剣術、盗術、神術、魔術の四技能も満遍なく履修することにした。 それなりの考えがあってのことだ。 ミュウ達四人が担当する講座ばかりを選択し、そこそこ頑張っていれば、卒業に必要な単位はもらえるだろう。 成績は白紙に戻されたとは言え、『前年度』、出席日数以外の卒業に必要な単位はすべて取得してたのである。 学園側もそれ程きついことは言ってこないだろう。 それはカイトも薄々判っていた。 だがそれでは駄目なのだ。 自身の中に生まれた劣等感を克服するには、自他共に認められるだけの強さを手に入れなければならない。 それには誰かの援助があっては駄目だ。 誰かに頼ろうとする心が自分の中にあっても駄目だ。 一切の援助から切り離された場所に、自らを追い込まなければならない。 カイトはそう考えた。 そこで軍から派遣されてくる軍人が指導採点を行うという、徒手武術と射撃術を主に選択したのである。 ……本当はその二教科に全振りするべきなのだろうが、履修届けに記入する段になって不安が過ぎった。 カイト自身も評価していたように、銃はまだまだ発展途上の武器である。 いや、そもそも魔法銃自体がなんの為、どの技能者の為にあったのかすら判らない武器なのだ。 それが誰にでも使える武器になったのは確からしい。 大化けしないと断言はできないが、元となった魔法銃に対するカイトの悪印象、疑念が待ったを掛けた。 これまでにカイトは魔法銃を何度か撃たせてもらったことがある。 確かに威力は高く、ある程度の連射もできたが、消耗は魔術より激しかった。 取り回しや携行に際して不利には働かない大きさだが、魔法銃は重い武器だ。 そしてコイツは先輩からこんな話を聞かされたことがあった。 カイトより十代以上前、この舞弦学園に『賢者』を目指している学生がいた。 まだ炎属性の術しか習得できない力量時、その学生は『ダイヤモンドダスト』と『ライトニングボルト』を購入したらしい。 火に耐性を持つモンスターに備えるためだ。 しかし三キロ以上の重量がある魔法銃は、術士であるその生徒には、余りにも重過ぎた。 結局その学生は氷属性、雷属性の魔法を習得するまで火に強いモンスターに遭遇することはなく、二丁の魔法銃はお飾りで終わった。 だが魔法銃を二丁も持ち歩きつづけたお陰で筋肉が鍛えられ、足腰まで丈夫になったこの学生は戦士に転向したのだと言う。 ――まあ、七不思議とかに見られる様な、与太の類だろうけどな―― カイトとは親交の深かったその先輩は笑いながらそう話していた。 この話が頭から離れないのだろう、カイトは銃という物に信頼を置けないでいた。 また甲斐那から富嶽を、『刀』を託されたとの思いがあったことも無関係ではなかろう。 甲斐那と手合わせした際に言われた言葉もカイトは思い出していた。 戦術性や戦略的思想も何も無く、ただただその場で思い付いただけの技を、いや。 攻撃と呼ぶことさえ憚られるような、夢遊病者の発作の如き振る舞いを甲斐那に対してぶつけようとしたことがあった。 甲斐那の姿がぶれた、そう思った次の瞬間、カイトの意識は闇に閉ざされた。 何をどうされたのかは判らない。 ただ一瞬の内に複数の急所を立て続けに攻撃されたらしいことだけは、意識を取り戻してから何となく解った。 何がいけなかったのかと首を傾げている弟子に、師はこう述べた。 「勝利を得るのに大穴を狙おうとする心は必要ない。そういう意識。いや、そのような邪念は害悪だ」 両手をポケットに入れたまま、式堂甲斐那はそう言った。 「戦いで生き残るのに必要なのは、革新性や破壊力等ではない」 その言葉にカイトは師を見上げる。 「私が闘技に求めているのは純粋な信頼性。ただそれだけだ」 甲斐那は次のようにも言い添えた。 「『純粋』と言ったが、それは『単純』という言葉に置き換えてくれても構わない」 単純という響きに顔をしかめている弟子に、師は身の毛もよだつ、恐ろしい言葉を投げ掛ける。 これ以降も私から弐堂流を学ぶ気でいるのなら、それだけは忘れるな。 そう告げたときの式堂甲斐那の顔には何の感情も浮かんではいなかった。 静謐な口調ではあったが、師が自分の行動に腹を立てているのはカイトにも判った。 覚えている限り、甲斐那が声を荒げたのはこの時だけだ。 この事があったから、カイトは武器や技に対して心や魂といったモノを強く感じるようになったのかも知れない。 そして不確実な物には極力頼るまいと心掛けるようにも。 だから、射撃術を第二専攻にしつつも、四技能を同程度履修することにしたのである。 時間割表を確かめながら一枠ずつ登録用紙を埋めていくのに手間取り、ベッドに入ったときには午前二時を過ぎていた。 その時はまだ晴れていたが、それからポツリポツリと雨が降り始め、朝カイトが目を覚ましたときには窓の外はバケツをひっくり返したような土砂降りになっていた。 「ヤバいっ!! すっかり寝過ごした!!」 ベッドから壁の時計を見ると八時十五分だった。 授業には悠々間に合う時間帯だが、その前にミュウに履修登録用紙を届けなければならない。 朝一で来てねと言われ、自分でも目覚ましを二つも掛けていたのに、意識は眠ったまま、両方とも止めに行ったらしい。 カイトは睡眠を貪ろうとする自分の本能に恐怖した。 一つは枕元に置いてあったのだからなんでもないのだが、もう一つは部屋の隅に置かれた二十一インチのテレビ(昨日、実家の父が留年祝いだと言って送ってきてくれた。)のウラに置いてあったのだ。 どうやったのか本当に自分でもその時の様子を見てみたいとカイトは思った。 大急ぎで冷蔵庫(これも父からの留年祝い。序でに言うとビデオデッキも送ってきてくれた。矢張り、持つべきは気前の良いパトロン(両親)だ。)からエネルギーフレンドのゼリーを取り出すと、一息で啜り上げて朝食終了。 部屋の奥に拵えた刀架に掛けてある富嶽にしばらく手を合わせると、昨夜、いや、今朝の内に用意しておいたカバンと登録届けを手に取って、カイトは怒涛の如き勢いで部屋から飛び出していった。 カイトが乱暴に叩きつけた扉にオートロックが掛かっても暫くの間、扉の隅からはキイキイという小さな音が無人の廊下にこだましていた。 カサを忘れてきたことに気付いたのは、寮から一歩外に踏み出したあとだった。 部屋まで取りに戻っている時間はない。 カイトは登録用紙を詰襟の胸元にしまうと、折れ曲がらないようにそうっと手で押さえ、カバンを傘代わりに頭上にかざしながら、校舎までの道のりを全速力で駆け出した。 ゆっくり歩く色取り取りのカサの群れの隙間を縫うように、舞うように、カイトは駆ける。 避けたさきに障害物や他の生徒が居てもぶつかったり、ましてや失速したりつんのめったりすることも無く、鮮やかな回避運動を示して雨除けの付いている渡り廊下に辿り着いた。 そこでようやく一息吐く。 身体を見回し、予想してた程濡れていないのを確認してから、職員室に向かった。 扉の向こうからはミュウが誰かと言い争っている声が聞こえていた。 ミュウはかなり狼狽し、恐慌をきたしている様子だった。 『あの』ミュウが誰かと口論するなど、カイトには信じられなかった。 もしかして自分の遅刻が原因か。 カイトは慌てて職員室の扉を開けた。 「お早う御座います。ミュ、いや、クラスマイン先生は居られ……」 部屋に入った途端、自分に向けられてきた二つの視線にカイトの言葉は途中で消える。 一つはホッとしたという感じのミュウの眼差し。 もう一つはダンジョン実習初日で出会った、あのクソ生意気な(だけど、ハァハァ、な)銀髪をした魔術士の少年の敵意、いや、殺意にも近い感情が込められた鋭い視線だった。 「あ。カイト君。ごめんなさい。少し待っていてくれる? 今、彼とお話してる最中だから」 ミュウは大急ぎでそれだけ言うと、再び少年に視線を戻す。 「いえ。もうお話しすること事はなにもありません。これで失礼します。変更手続きの方、宜しく、お願いします」 だが、そんなミュウに対して少年はにべも無い、すげない態度で応えた。 「ちょっと待って、ベイリュール君!! 先生にもっと詳しく、判るように説明して!! お願い!!」 ミュウが必死になって少年を引き止めようとするが、ここまで必死なミュウの姿を見るのはカイトにとって初めての事だった。 「一年間頑張ってきたんじゃない! それをどうしてダンジョン実習が始まった今になって、商業課に戻ろうとするの? ちゃんとした理由も説明も無しじゃ、ロニィ先生に報告できないわ!!」 ミュウが悲痛な声で叫ぶ。 その声には、自分の不手際を責められるなどと言った厭らしい色は無く、純粋に相手の事のみを心配している姿勢が感じられた。 そんなミュウの言葉に、少年も一瞬心を動かされた。 しかし教師としても、女性としても経験の浅いミュウには、少年の変化には気が付かなかった。 「それは……こちらの人に聞いて下さい。僕からはこれ以上お話しする事はありません。それから、今日までご指導下さったクラスマイン先生やコレット先生には感謝してますが、もしご了解頂けない場合、父がこちらに伺うことになるでしょう」 暫くの間少年は何か言いたそうにしていたが、直ぐに止めてその様に言い放った。 「カイト君に? いえ、ちょっと待って! いま言ったのはどういう事?! 貴方、学園を脅迫する積り? 幾ら、貴方のお父様が」 少年の最後通牒にミュウは目を見開く。 「脅迫する意図なんかありません。ただ、自分の知る父であればそういう行動に出る、いえ、先生がお考えになられているのと同じ行動にしか出ないと確信しているだけです。では」 少年はそれだけ言ってミュウに一礼すると、カイトの脇を通り抜けて職員室から出て行った。 後には、今朝まで夢想だにしなかった状況に呆然とするばかりの女性教諭補助一名と、やはり状況に取り残されて呆然とする以外ない男子学生一名とが残される。 時計の針は八時二十五分を指そうとしていた。 「カイト君、ベイリュール君とは知り合いだったの?」 暗く沈み込んだ口調でミュウが尋ねてきた。 「ベイリュールってのが、いま出てった奴の名前なのか?」 「ええ。ミハ……ミハイル・ベイリュール君。去年、商業課から冒険課へ転課してきた子で、神術、魔術では学年五位の成績。今年度の冒険課でホープの一人と目されている子よ」 ミュウが言い淀んだのは少年の名前だ。 ミハイル・ベイリュールの後ろには、教師と一部の生徒しか知らない、もう一つの名前がある。 王国に住む者、いや、二つの大陸で暮らしてる大部分の者が知っている、とんでもない名前が。 しかしそれはカイトや、あの少年と学び舎を共にする、他の生徒には関係のない、知る必要もないことだ。 彼を教えている教師にとっても、彼の家族は然程の意味を持たない事象だった。 だからミュウはカイトにその名を告げなかった。 「名前はいま知った。一昨日の実習で初めて顔を合わせた。それまでは見たことないよ」 カイトにとってはそうだが、向こうは違う。 ミハイル・ベイリュールはカイトを良く知っていた。 『弓矢』とはまた別の次元で彼はカイトを競争相手、否、打倒すべき敵と見なしていた。 しかしこのことはカイトはもちろん、ミュウも知らない事だった。 「じゃあ、その、貴方たちが出会ったときのことを手短に、なるべく詳しく話して頂戴」 今までカイトが見たことがないぐらい厳しく、真剣な表情で幼馴染が命じてきた。 その言葉にカイトは何と表現したら良いのか解らない、妙な気分を味わった。 話せと言われても、それ程話せることがカイトにあった訳ではない。 悲鳴が聞こえたので現場に駆けつけた。 かなり消耗している風な少年が二人、結構な数のモンスターに追い詰められていた。 その二人の内の片方が。今ミハイル・ベイリュールと紹介された子が足を負傷して逃走不可能だと判断したので、助太刀に入った。 現場で生命の危機に瀕している者に会えば、できる限り援助の手を差し伸べなければならない。 何があっても、見て見ぬふりだけは絶対にしてはならない。 これは冒険者の不文律。国際常識と言っても良いぐらい、当り前のことだ。 だからカイトもそれに従った。 また他にも考えていたことがあった。 本当は独りで殲滅することもできたのだが、カイトはそうしなかった。 もし彼らが一年前、いや、五年前の自分を見るような怠惰な連中だったのなら、躊躇わずにそうしていただろう。 だが、消耗してたとは言え、あの二人からは修練を積んできた者だけが身に付けられる気概と誇りが感じられた。 自分だけで戦うのが一番簡単で安全だったが、それで彼ら二人がこれまでに培ってきた自信や誇り、何よりお互いの友情や信頼関係を傷付けることになりはしないか。 カイトにはそれが懸念された。 自分のときは自らの怠惰と不幸な偶然とが重なり、ミュウを危険な目に遭わせ、ロイドに助けて貰うことしかできなかった。 他にどうすることも出来なかったし、ロイドに感謝こそすれ、責めたり恨んだりできる立場ではなかった。 自業自得だが、それでも他人に助けられた、何もできなかったという事実は、以後何か月にも渡って、カイトの心をチクチクと苛みつづけた。 あの時のことを夢見て、悔しさと不甲斐なさに何度ベッドから跳ね起きたことか。 プライドが害に繋がる場合もあるが、プライドが打ち砕かれることで駄目になる奴も居る。 特に今の子どもにはそんなのが多いとカイトは聞いていたし、周りを見てもそれは感じられた。 故に――カイトは二人のプライドを守ってやろうと考えたのである。 また、恩に着せるという言い方は悪いが、あの二人とパーティーを組みたいと思った。 今のダンジョン実習は最大三人まで組むことが認められているからだ。 公式な声明文ではないが、政府からはダンジョン実習には極力三人一組で臨ませる様にとのお達しが、三年前から冒険課に届けられる様になっていた。 指導力を持った人材を育てると同時に、協調性や自制心、判断力を養わせるのが目的だそうだ。 しかし本当の指導力を持った人材、リーダーシップを発揮できる人材を育成したいのなら、このやり方では駄目なように思う。 成功してもメリットがなにも無いのに、失敗したペナルティーだけは払わせられるのでは、ウマだってヤネだって張り切る意欲が湧くわけない。 一部の者が取り決めた枠組み内での競争『ゴッコ』では、そいつらだけに都合の良い道具ばかりが増産されるか、大過無く済ませるだけを以て好しとする小物が蔓延るだけだ。 やるのなら、リスクだけでなくリターンも現実に存在させた上で、互いを競わせなければ駄目だろう……。 それは兎も角として、カイトが考えていたのはそんな事だ。 理由は不明だが二人とも後衛向きで、武装があそこまで貧弱なら、前衛をこなせる自分と組むことをしばらくは受け容れるだろう。 信頼関係はそれから築いていけば良い。 それに――初日に組んだ相手と卒業試験を迎えさせてやれれば。 カイトはそんなお節介なことを考えていたりもした。 年齢は同じでも、自分は周りよりも五歳年長だという意識がコイツにはある。 ある種の先輩意識や仲人趣味が出たとしても、それを責めてやるのは酷だろう。 とにかくそういう意識が有ったこともミュウに話し、戦闘後の言い争いへと話は進んでいった。 「……何て馬鹿なことを……」 カイトの言葉にミュウは大きく目を見開き、呆れ果てたという風情で呟き、そして叫んだ。 「今のダンジョン実習では、他のパーティーと接触することは原則として禁じられているのよ! あなた、実習前に渡した栞に目を通さなかったの?!」 この言葉にカイトは心底から仰天してたのだが、余裕のないミュウはそれには気付かず、さらに言葉を続けた。 「ベイリュール君たちを気遣ったのは良い! 私も助けたことについては怒ったりしない! だけど、それなら何故そこに見返りを求めようとしたの?! どうして黒子に、助けることにだけ徹さなかったの?!」 激昂するミュウの瞳からは涙が溢れていることに気付き、またしてもカイトは仰天する。 「誉められたいって気持ちが消せないのなら、余計なお節介はしないで! それに!!」 そこで急に唇を噛みしめて、ミュウはその先を飲み込んだ。 いつの間にかロニィ先生が後ろにやってきて、ミュウの肩に手を置いていた。 それで少し落ち着きを取り戻せたようだった。 「クラスマイン先生、そこまでよ。相羽君、履修届けを貰えるかしら?」 カイトは持っていた書類をロニィ先生に提出する。 先生はそれにちらと目をやると即座に口を開いた。 「相羽君。今日一時限目と二時限目に入れている徒手武術実習だけど、担当される先生が今日は遅れるっていう連絡が、先刻、学園の方に届いたの。今日だけ七、八時限に変更になります。一限目はその下の魔法物理講義が繰り上がるわ。以後もそのまま繰上がりで進むから、間違えないで」 カイトはロニィ先生の言葉を聞きながらも、ちらちらとミュウを気にしている。 「カイト君。幼馴染が心配なのは判るけど、彼女のことは先生に任せてくれないかしら?」 学年主任ではない、普段の顔に戻ってロニィ・スタインハートが言った。 「それに学生の本分は学業でしょう? 早くお行きなさい。コレット先生は普段厳しいけど、遅刻してくる子には、情け容赦なく、もっと厳しいのよ」 そう言われて、カイトは職員室から追い出された。 魔術講義室へと階段を駆け上がりながら、カイトには気になることが二つあった。 一つはあの(ハァハァな美)少年、ミハイル・ベイリュールの目だ。 自分の方で見覚えは無かった(有れば忘れたりできないぐらい、ハァハァ、なアレだ)が、向こうも同じとは限らない。 その可能性に気付いたのである、ようやく。 最初は自分が有名人だからかとも思ったが、即座に否定した。 カイトはあんな親の仇でも見る様な目で見られるようなことは、学園の内でも外でも、した覚えが無かった。 そしてもう一つの気になること。 それはミュウの態度だ。 カイトの知る限り、ミュウはあそこまで感情的に他人を糾弾したことは無かった。 何よりカイトはミュウからあんな風に責められたことが一度も無かった。 そしてその感情的なモノにも、何か……。 カイトもどう表現したら良いか解らないが、ミュウが感情的になった原因やら、ベクトルやら、その質やら……。 兎に角、そう言ったもの全てをひっくるめた何かを、これまで見たことがないというのが気になっていた。 その未知なるものに対して恐怖のような感覚すら覚えていた。 見知っている、慣れ親しんだ場所の筈なのに、なにか自分が余所者のような、侵入者であるかの様な違和感、不安のようなモノを……。 不意にカイトは踊り場で足を止める。 そして二、三度、軽く頭を揺すって気持ちを切り替えると、残っている階段を三段飛ばしで駆け上がっていった。 (成る程、こいつは……) 魔術講義室は生徒達でぎゅうぎゅうにあふれ返っていた。 生徒の数が多いと聞かされてはいたが、聞くのと見るのとでは理解度が違う。 ミュウ達の会話の端々に滲み出ていた苦労がカイトにも、何となくではあるが、感得された。 既にコレットは出欠を取り始めており、名簿の三分の二まで読み上げが終わっていた。 同じ様に遅刻してきた生徒数名と一緒に、こそ〜っと、後ろの扉から入っていくと、コレットと目が合ってしまう。 かなり不機嫌そうなのが判った。 カイトは通路側の一番後ろのテーブルに空いてる席を見つけ、腰を下ろす。 席に着いたとき、同じテーブルに座っていた連中が自分の方を見、何やらひそひそと喋っているのが癇に障った。 きっと、『浦島太郎』だ何だと、珍獣でも見るような感覚で、こちらを品評してるのだろう。 カイトはそう解釈すると、コレットの進める授業に集中した。 コレットの授業は意外に判り易く、また面白かった。 教科書の公式をそのまま黒板に書き出した後、生徒達にも解り易い、卑近な例を幾つも用いて、理解を促す。 副教材の使用も的確で、確認問題のプリントもそれぞれの理解度、習熟度に合わせて複数種用意されていた。 ツインポニーをぶるんぶるん回転させながら、コレットは黒板前を行き来する。 キャスター付きのハシゴをちょこまかと昇り降りし、色取り取りのチョークで黒板に教科書の内容を書き記していく。 どこが何故どんな風に重要なのか、各項目ごとの繋がりはどうだったか。 後でノートを一目見るだけで判るように、生徒の自宅学習も考えた作りになっている。 後になってカイトがセレスから聞いた話だが―― 教諭補助になって初めて教室に向かおうとしたとき、学園に備え付けられている色とりどりのチョークに――学生の時分には見たことがなかった様々なチョークに――コレットは目を輝かせたらしい。 嬉しくなって(子どもの様に)チョークケースに全色詰めて、初めての授業に臨んだ。 そして気分や持ち易さだけでチョークのハシゴ書きをやらかし、その日の放課後、生徒から相談を受けたベネット先生に大目玉を喰らったそうである。 普通そんな目に遭えば、白以外は二、三色ぐらいで板書を済ませようと考えそうなものだが、コレットは違った。 全てのチョークを(彼女自身が)使いたいから、生徒に判りやすい授業、板書を工夫しだしたのだ。 しかも、全色使えなかったら一回の授業に付き一点、定期試験の点数にプレゼントしてやると豪語している。 その代わり、それで合格点に届かなくても、救済措置は一切取らないとまで宣言しているのだ。 これ以上無いほど解りやすい授業と板書指導してるのだから当たり前だと、大いに気炎を上げている。 生徒達もこの意見には成る程と頷き、試合成立。 以来コレットと生徒らの間では、熱い(頭がな)バトル(ギャンブルな)が繰り広げられている。 発想が丸っきり子どもだが、その子どもらしさが教える側にも教わる側にも良い方に作用している。 生徒達も楽しそうだし、コレットはそれ以上に楽しそうに授業を進めていた。 そんなコレットを見ていて、カイトは昔のことを思い出す。 彼女に魔法物理を教えてもらったときのことだ。 (それなりに)丁寧に、(それ程は)言葉を荒げることもなく教えてくれているコレットだが、(結構、早い段階で)眉間にしわが寄り、こめかみに(何本も)血管が浮かび上がるのに、さして時間は掛からなかった。 カイトは(決して)理解の早い生徒ではなかったし、コレットも我慢強い性格とは(絶対に)言えなかったので、取っ組み合いになるのもザラだった。 しかし今のコレットにはそのときの姿は微塵も感じられなかった。 よそ見やおしゃべりしている生徒を軽くはたいたり、柔らかく嗜めたりはしても、爆炎が巻き起こることはないし、飛び蹴りが炸裂することもなかった。 見かけは変わっていないし、中身や言葉遣いだってカイトが知ってるコレットと殆ど同じだ。 だがカイトは変わっていないはずのコレットの姿に、何と表現したら良いのか判らない、妙な感覚を憶えた。 そして階段の踊り場で押さえ込めたはずの違和感が、またゾロリと、蘇ってきた。 思わずカイトは自分自身を掻き抱いて、きつく頭を振り、内なる不安を押さえ込もうとする。 「ちょっと、こら、そこ!! 何よ、今の説明の何処が判んないってのよ?! この程度、あんたなら解ってるでしょ?」 コレットの声が飛んできた。 首を振ってるカイトを、自分への挑戦と受け取ったらしい。 「あれ? バカイト? チョッと! なんで、あんたがミックの席座ってんのよ?!」 このバカイト発言はマズかった。 それは、ここ数週間、生徒らの間でずっと燻りつづけてきた話題に燃料を注入する行為以外の何物でもなかった。 ミュウ達四人は生徒から人気がある。 彼らと年も近く、美人で優秀。 何より全員巨乳だ(コレットがガンバって平均をグーンと押し下げてるが、それでもな)。 ベルビア中の冒険課関係者からは、舞弦学園の花鳥風月と称されている程で、彼女達の存在が舞園の入園希望者増加に一役買っていると噂されてるぐらいだ。 どうでも良いことだが、誰がどの尊称を冠しているのか、そしてその経緯も説明しておこうと思う。 物語の本筋にはあまり関わってこないから、ここから下の線に挟まれてる部分は飛ばしてもらって構わない。 先ず『花』。 これはミュウだ。 花の様な清楚な印象を与える美人だから、というのが学外からの評価。 しかし学内版はちょと違う。 職員室のミュウの机の上には小さなサボテンの鉢植え。 神術教官室の机にはシクラメンの花。 息抜きに訪れるコレットの魔術準備室の窓際には、黄色いチューリップの鉢植えが飾られている。 他にも職員室入り口にある机に飾られてる花瓶の水を換えたり、花を活け換えるのもミュウが率先してこなしてるし、ガーデニングやフラワーアレンジメントを趣味にしていることもある。 そこから『花』だ。 二番目でも『トリ』。 これはコレット(駄洒落た積りは無いけどな)。 忙しなく飛び回っているから鳥だとか、ピーチクパーチク囀りまくっているから鳥だとか色々と言われている。 どれも間違いではないが彼女の場合、『鳥』ではなく、『酉』の字が正しい。 或いは『鶏』だ。 何かあると(いや、べつに無くてもだけどな)直ぐに突っかかってくる。 小さい身体をいからせて、肩で風を斬るようにのし歩いてくる。 嫌なことがあっても失敗しても、三歩進むかお菓子でも食べれば、即座に忘れられる羨ましい性能、いや、性格。 だから『トリ』だ。 『風』。 セレス嬢がこの名を頂戴遊ばしている。 茫洋とした(いや、ボーっとした、か)雰囲気から『風』か。 確かにそれも理由の一つだが、裏ではこう囁く者たちが居る。 セレス先生の頭には穴があいていて、そこを風が吹き抜けてく度に、有ったことを忘れていくんだよ、と。 あいにく見かけはあんなで言動もそんなだが、セレスはズバ抜けて優れた記憶力の持ち主である。 事実、彼女はそんな悪口雑言を囁いている生徒が何組の何番かを、ちゃ〜んと、心のメモに付けている(付けてどうする積りでいるのかは謎だがな)。 そしてこのことを知ってる一部の生徒や関係者たちは逆な言葉を囁いている。 セレス先生の頭に穴があいてるのは事実だが、それは風が吹き抜ける穴ではなく、気に入らない連中を吸い込んでしまう風穴だ。 その穴に吸い込まれた連中は、別の宇宙に放り出され、自らの愚かさと罪を後悔しながら永遠にそこを漂流することになるんだよ、と。 多分、少年ホリデーの『猫修羅』に登場する浮気性な女修験者から来たネタだろう。 或いは怪談の『めし食わぬ女房』からか……。 何れにしても、セレスの頭に穴があいてるのかどうか、ましてやそれが通風孔なのか、風穴なのかはたれも知らない。 残った竜胆が、『月』の名を冠する、最後を飾る四美人だ。 夜空に浮かぶ月輪の如く、凛として冴えたる雰囲気を彼女が醸し出してるから。 と言えれば風情があって大変宜しいのだが、学内版の評価には血塗られた命名秘話がある。 女性なら誰でも月に一度はやって来るアレの時、竜胆は思いきり荒れるのだ(コレも駄洒落た積りでは無いけどな)。 そのとき他人が莫迦な真似やふざけた振る舞いに走ろうものならそいつらに、口では言い表せない様な、きっつい教育をしてくれる。 『月』の時期に入った竜胆には、剣術科主任のレパード・ウォルシュ先生はおろか、ロニィ先生ですら教育的指導を言い渡すのを嫌がる。 如何にもの凄まじいかが判って頂けよう。 だから『月』なのだ。 無論、この血塗られた理由の方は彼女の耳には入っていない。 最初の美しい理由だけだ、竜胆が知ってるのはな。 以上、与太なアレだが、舞弦学園花鳥風月とはこのような経緯からミュウ達に与えられた敬称である。 覚えていたい人だけ覚えていれば良い。 本筋に戻ろう。 ミュウ達が人気者で、しかも付き合ってる相手も居ないとくれば、生徒達の興味がその方面に向けられるのは解って貰えるだろう。 生徒のなかには五年前の事件を覚えている者が居て、しかも行方不明になったその生徒とミュウ達四人を結びつけて考えてた連中も居たりすれば、ヘンな噂(この場合は、大いに真実を含んでいる)が舞園生の間で囁かれるのが無理ないことも。 そこへ行方不明になっていた渦中の生徒が、当時の姿のままで帰ってきて、しかも四人がすがり付いて大声で泣いてる姿が目撃されたとなれば、下世話な想像が加速していくのも……。 男女を問わず生徒から人気のある四人ではあるが、一部の生徒(特に女子)からは面憎く思われてもいた。 彼女たちは完璧過ぎて、しかも全員非常に仲が良い。 しかし……それらは取り繕われた仮面ではないのか、その下に醜い本性が隠されてはいないのかと。 要するに嫉妬だ。 ミュウたち四人が女の本性をさらけ出し、醜く激しい血みどろの男の分捕り合戦でも始めたりすれば、どんなに楽しいだろう。 この際、相手の男なんかはどんなのだって構わない。 下らない味噌っかすであればある程、見ているこちらは楽しい。 そう考えてきた生徒数名が、コレット先生と相羽君はデキているんだぁ、と囃しだす。 ゴシップ好きな連中もそれに呼応して騒ぎだす。 教室は生徒達のわめき声で一杯になった。 何とか授業を続けようとコレットは生徒達を黙らせようとするが、どうやっても静かにならない。 コレットはかなり(客観的に見てもな)我慢してたのだが、結局はキレた。 「黙れって言ってんのが判んないの、あんた達は!!!!」 との叫びと共に、黒板を叩いたコレットの手から魔法の炎弾が飛びだした。 炎弾の飛んだ先は窓際で、そこには書類や生徒の提出したレポートなどの置かれた背の低い戸棚があり、そのすぐ後にはカーテンが下がっていた。 あっと言う間もなく周辺は炎に包まれ、熱気が教室中に広がった。 生徒だけでなくコレットまでもがうろたえる中、カイトは一人冷静にこの状況を打破する術を思い付く。 袋から飛燕を取り出しながらカイトは大声で叫んだ。 「コレット!! 二−三−十!!」 この一言で狼狽していたコレットにも昔の感覚が蘇る。 二はカイトが氷牙(氷属性攻撃)を放ち、三はその三秒後、十はコレットがアイスストーム(氷嵐)を打ちかますことを意味する。 五年前、ダンジョン実習で使っていた連携の符丁だ。 冷静さを取り戻せたコレットは即座に詠唱に入った。 大教室の後ろ端からその対角にある窓際まで、カイトは僅か二回机を踏み台にするだけで到達した。 やや赤色に染まって映る大教室を翔けるカイトの姿は、その場に居た生徒全員、特に女子の心に深く焼き付く。 カイトの腰間から抜き放たれた飛燕は冷気を纏い、窓辺を埋め尽くしていた炎を切り裂いた! しかし――その程度の冷気量で鎮火は不可能だった。 実はカイトもこうなることは予測していた。 これだけの炎になれば自分の手には負えず、コレットに頼るしか手が無いことは。 符丁を叫ぶだけでも本当は充分だったのに、不必要な連携に自らを置いたのは、彼女を確実に落ち着かせるためだ。 カイトの氷牙には呼び水、いや、コレットの目を覚まさせるため背中に浴びせる冷水以上の意味はなかった。 戸棚の前で片膝をつき、寂びた鍔鳴りの音を響かせてカイトが飛燕を鞘に蔵めたときには、炎はコレットの手で完全に消し止められていた。 この後、授業は中止。本当に火が消えたかどうか、ほかに飛び火した可能性はないか念入りに確かめられた。 コレットはロニィ先生から厳重注意を受け、最初に騒ぎ始めた生徒と、真っ先に同調した生徒らにも厳しい処分が言い渡される。 カイトの行動は褒められも貶されもしなかった。 ロニィ先生からは「ご苦労様」とだけ、コレットの方からは「今日のは昔のアレとかアレとかでチャラよねチャラ」と誤魔化されただけだ。 コイツとしても褒められたくてやったわけではないので、どうという感慨も持たなかった。 ただ、自分に向けられてくる珍獣でも見るような視線が、一層、激しくなった感じなのが気になった。 廊下などを歩いていても、ヒソヒソ言われている様なのが癇に障った。 この時までカイトはミュウ達のオマケとしか見られていなかった。 過去の生徒会の記録や、文化祭“裏”実行委員会なる秘密結社に代々受け継がれてきたという怪しい資料などから、カイトの大よその実力や人となりが生徒達の間に広まっていたからである。 それらを信ずるのであれば、到底『花鳥風月』と並べるのに相応しい能力、人格の持ち主ではないとされてきた。 それが、火災現場で見せたワイルドだがクールな対応に拠って、打ち払われたのである。 また一部の生徒たちにあった『花鳥風月』に対する、仮面を被ってる良い子ちゃん、との評価も訂正されることになる。 あれだけの実力の持ち主なら取り合う気持も判ると、概ね好意的な方向に修正されたのだ。 そして…… 女生徒からは、早くも、カイト獲得に向けて様々な謀略を巡らせる向きも現れ始めた。 カイトが気になっている視線や囁きはこの辺りに属する物なのである(もちろん、コイツにそんなこと判るハズ無かったけどな)。 少し遅れて出席することになった二時間目のセレスの授業。 カイトが遅刻してきた理由は知ってるらしく、彼女はニッコリ微笑んで生徒を席に着かせる。 セレスの授業も生徒に解り易くするための様々な工夫が為されていたが、周りからの視線と囁きの為に、カイトは授業に身が入らなかった。 また朝からの違和感、不安感が身体全体を包んでおり、それを押さえ込むのに必死だった。 結局、ノートは授業の最初の辺りを書き込んだだけで、あとはほとんど白紙の状態だった。 その後、授業を受ける気が起きず、カイトは人の来ない静かな所で少しのんびりしたいと思った。 普段なら屋上に上がる所だが、外は生憎の雨模様。 貸しきり状態間違い無しとは言え、雨に濡れるのは願い下げだった。 そこでカイトは図書館に向かった。 少し調べたい事もあったのである。 「…………」 モニターに映し出される内容に、カイトは不快な気分がいや増すのを抑えられなかった。 ミュウに言われた言葉、ダンジョン実習中に於ける生徒同士の接触を禁じる云々。 それがどこから出てきた考えなのか知りたくて、ネットで検索したのだ。 すると、ここ五年間で職業冒険者の怪我や死亡理由の第五位に、同じ冒険者からの騙まし討ちが入ってきてることが示されたのである。 これではカイトが助けたあの(ハァハァな)ベイリュール君ともう一人の(クソ生意気な)『弓矢』の二人が無礼な対応を見せてきたのも、決して、咎められるようなことでは無いなぁとカイトも思った。 そしてそれ以上に、冒険者を目指すということが何か虚しいことの様にも思われてきた。 特にこれと言った検索対象も無いまま、冒険者関連の情報をモニターに表示させていく内に午前の授業も終り、昼休みも過ぎ、やがて六時間目終了の時刻が近づいてきた。 精神的疲労を覚えていたカイトは今日はもう寮に引き揚げることにした。 徒手武術実習とショートホームルームが残っていたが、出席する気にはなれなかった。 人目につかないよう、寮に一番近い渡り廊下の入り口に来たときである。 視界の端に動く赤い物に気付き、カイトは雨の中に飛び出そうとしていた足を止めた。 何故その赤い色が気になったかは判らない。 だが、妙に惹かれるモノをその赤い色に感じたのだ。 カイトの心を惹いた赤。 それは傘だった。 それも最近の魔法ビニールやアルロンなどの安物のカサではない『和傘』。 一般に蛇の目と呼ばれる赤い傘である。 今度は傘自体の珍しさに好奇心が刺激され、近づいてくる傘を見詰めていた。 その時になって漸くカイトは、カランコロンと下駄の音がしているのに気付いた。 「……!!」 カイトに気付くと、傘の持ち主は驚愕で表情を強張らせた。 そのことにカイトは首を傾げる。 「何をしているのです?!」 それが相手の第一声だった。 「へ? 何って……」 「一、二限の徒手武術実習が七、八限に変更になったのを聞いて無いのですか?!」 「へ? あ、いや、聞いてる、けど……」 「では、何故、ここに居るのです!? ここが貴方の徒手武術演習場ですか?!」 「へ? あ、いや、違う、けど……」 「では、演習場がどこにあるのかを知らないのですか!?」 「へ? あ、いや、知ってる、けど?」 「では、何故、そこに行かないのです?! 誰かから、今日の徒手武術実習は休講になったとのデマでも聞かされたましたか?!」 「へ? あ、いや、そんなこと無い、けど?」 「ならば今すぐに行きなさい!! 最大戦速! 駆け足!!」 「は、はい!!」 命令するのに慣れている相手の態度や口調に、カイトは思わず反論や抗議の言葉を飲み込んで駆け出そうとした。 しかし…… 「お待ちなさい!!」 「は、はい?!」 「……これをお使いなさい」 蛇の目がカイトに差し出された。 「実習前に身体を濡らすものではありません。軍人でも、冒険者でも、健康管理は最優先課題です」 「へ?」 「早くお取りなさい! そして急ぎなさい! 相羽カイト君!」 「は、はい!!」 (一体、なんであんなのがココに居るんだ?) 自問しながらも手渡された蛇の目を差し、降りしきる雨のなかカイトは武術場へと急いだ。 全速力で走りながらもポケットから取り出したブロックタイプのエネルギーフレンドを、器用に片手で剥き、大急ぎで咀嚼する。 何となく、長丁場になりそうな予感がしていた。 カイトも含め武術場に集まっていた生徒達は、軍から来るという武術教官を今や遅しと待ち侘びていた。 どんな教官が軍からは派遣されてくるのか、皆の興味はそこにあった。 近年世間を騒がせている悪党冒険者は、冒険者を目指す舞園生にとっても嫌悪の対象だ。 自分達はそうなるまいとは思うものの、ではどんな冒険者になりたいのか、具体的な答えは出ていない。 だから鉄の男とか、歴戦の勇士といった言葉が付いて回ってるイメージのある軍人には、みな関心を抱いていた。 軍人と冒険者がお互い対極に位置するような職種であるが故に、逆に一層耐え難い魅力の様なモノを、軍人という言葉に感じている生徒らも居た。 若いのか、それとも年寄りか。 強いのか、それとも弱いのか。 イケメンか、ウーロン茶か、はたまた、ハゲで、デブで、脂ギッシュな親父なのか。 その辺りに関する皆の意見はバラバラだったが、しかし一つの項目についてだけは全員期せずして一致した見解を持っていた。 だが生憎……でも無いか、この場合。 兎に角、彼らのその予想は見事なまでに完璧に裏切られた。 「授業時間が入れ替わりになったことに付いてだけは謝罪します。次からは時間割通りです。間違えない様にすること、良いですね?」 これがカイトたちのクラスを受け持つことになった教官の第一声だった。 生徒達はみな教官は男だと思っていた。 だが彼らの前に現れたのは女性、いや。 まだ少女と呼ぶのが相応しい女の子であった。 それも非常に可愛い。 少女は赤い振袖に、藤色の袴を身に纏って一同の前に姿を現した。 身長は一六〇センチ位、ほっそりとした印象を与える体つきをしている。 髪は、烏の濡れ羽色という響きが似合いそうな感じの、黒。 そして髪型はポニーテール……。 と言うよりも、時代劇などで仇討ちに出た女性や女剣士のような若衆髷とでも言うのか、兎に角、そんな感じに結い上げていた。 顔はこれまで日に焼けたことなど一度もありませんと言わんばかりに真っ白で、肌理細かい肌をしている。 黒くて円らな瞳には強固そうな意志の光が宿り、武術場に集まっていた舞園生を真正面から見据えていた。 気負いも、衒いも、怯えも無く。 ただ真っ直ぐ、生徒達を見詰めていた。 カイトはこの少女から菊の花をイメージしていた。 彼女から名前を告げられるよりも前。 目に飛び込んできたその白いかんばせに、真っ白な菊の花を思い浮かべていた。 強い日差しや降り頻る雨、吹き付けてくる強い風に負けることなく、 大地にどっしりと根を張り、葉を広げ、茎を伸ばし、 何者かに誇ることも、ましてや誰かに愛でて貰おうと媚びることもなく、 庭の片隅で静かに、ひっそりと佇んでいる白い菊の花。 カイトは、そんな印象をこの少女全体から感じ取っていた。 そう。 先刻程、彼女から赤い蛇の目を手渡された時から……。 「貴方達に徒手格闘の手解きをしてやるよう言われ舞弦学園に着任した、名は竜園寺 菊と言います。年齢は貴方達と然程変わりませんが、わたくしのことは竜園寺先生と呼ぶこと。良いですね?」 少女は凛とした声で自分から名告った。 しかし予想外の事態に生徒達は誰も諾否の声を上げられない。 「良いですね?!」 命令することに慣れている口調と態度で、少女は同じ言葉を繰り返す。 少女の柳眉が逆立っていることに気付いて全員速やかに大声で、はい、と答えた。 これからの学園生活に於いて、深く密接な関りを持つことになる二人の女性の内の一人。 竜園寺 菊とカイトが初めて出会った時の、これが一幕である。 今日は、王国暦五六八年四月五日。 舞弦学園冒険課で徒手格闘の授業が開始された日。 未明から降りしきる雨のために、王国中の桜の樹がその花びらを全部散らせた日のことだった。 |
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