ぱすてるチャイム
Another Season One More Time
菊と刀


13
a BloodStained Blue Week-Part One



作:ティースプン





(こんな姿を見られたら、アノ噂は本当だってことにされちまうぜ……)
長机の下、分厚い新聞の縮刷版を胸に抱えてカイトは一人そうごちる。

カイトが居るのは図書室だ。
授業をサボって居眠りしていたのだが、人の気配を感じるや否や半分眠ったまま音も立てず、横になっていた椅子から転がり降り、長机の下に潜り込んだ。
そうして、ようやく、完全に意識が覚醒したという訳だ。

(ったく。なんで近ごろのガキはちゃんと授業を受けないのかね。俺だって、三年になってからは、真面目に授業を受けるようになったってのによ)
頭を軽く振って三半規管の変調を治しつつ、胸の中でそうぼやく。
机の下を覗いてきそうな気がしたので、服が汚れるのも構わずに連続後回りで机の端まで転がっていき、隣の机に移ってのことだ。

(あれ? あいつら普通、いや、商業課の連中か。って言うか、何で、俺は隠れてるんだ?)
物陰から確かめると、自分が隠れた相手が教師ではなく生徒だと判った。
制服の微妙な違いから商業課の生徒、それも三年生であることも見えた。

その数四人。
リーダー格らしいバンダナ鼻ピアスのこすっからしそうな生徒と眼鏡を掛けた白い顔の生徒の二人が、気の弱そうなデカいのと粗暴そうなデブに、あれこれ指図している。
命令されてる二人が机の下を覗いて回っている間に、カイトは四人の死角へと移動していた。

冒険課とは違って商業課の三年は座学ばかりで移動教室は無いはずだ。
それにまだ授業中なのに、何故こんな所で油を売っているのか、カイトは不審に感じた。
しかしそれを言うなら、今年の冒険課には商業課よりも多く授業が残っている。

主人公のはずなのに、お前こそ一体何をやっているのか。
二度目となるダンジョン実習初日、更衣室で立ててた誓いは何処へ行った。
そんな風に詰め寄りたい向きもあるかも知れないが、カイトのサボタージュにもそれなりの理由がある。
落ち込んだり、気が滅入ったりして授業にも出たくなくなる事情が。
肉体的なモノではなく、精神的ブルーデイに襲われることは男にだって、いや、男の方にこそ多いのだ。
コイツのその辺の事情を話したいと思う。


例の小火騒ぎがあってから、ミュウだけでなく他の三人のカイトへの態度もやや余所余所しいモノになった。
ミュウ達はカイトに普通の学園生活を送らせて上げたいと考え、馴れ馴れしい態度や接し方はするまいと自らを律したのだが、少々行き過ぎたみたいなのである。

どれだけ優れた教師であっても、自分の子を公正に指導、評価することはできない。
なぜなら、そこに必ず親の色目や欲目が出て、『生徒』に必要以上に甘くしたり、厳しくし過ぎたりするからである。

といった話をたまに耳にしたりするが、ミュウ達の態度にもそんな法則や感情が働いていた。
そこに乙女心(この話ではカイトもミュウ達四人も未経験だ)や恋心が働いて、さらに四人が互いに気を使いあったり、牽制し合ったりしようものなら、少なからず状況がややこしくなること、少なくともカイトが混乱するのは解って貰えるだろう。

カイトはミュウ達が大人になったと思っていたし、ミュウ達もその積りでいたが、それは一面的、表面的なものに過ぎない。
教師であるとの意識や、大人として扱おうとする周囲への対応でカイトにもミュウ達自身にも判り難くなっているが、それは五年間変わらず彼女達の中にあった。
昇華も消化もされていない大切な気持ちが。
いま彼女らが教えている生徒たちと同じ制服を着てた頃と少しも変わらない、カイトへの純粋で大切な想いが。

とにかくミュウ達の変化はコイツを混乱させた。
カイトの中に生まれた不安や違和感は、両親の元に戻った時に僅かながら治まったかに思えた。
だが現実に授業などでミュウ達の変化を見せられてるとぶり返してくるのだ。

カイトは弱い男ではないが、決して強くも無い。
素質には有り余る物が具わっているとは言え、様々な面で発展途上の段階だ。
それは精神面、情緒面で顕著である。

ミュウ達と自分との間に五年間の時間的、空間的隔たりを感じる。
また自分が五年前に取った行動が両親に、そしてミュウやこの学園の先生達にどれだけ迷惑を掛けたかと思うと、罪悪感や情けない気分にも襲われる。
しかし、不安に押し潰されそうになりながらもカイトは耐える。
その支えになっているのは、自分を救う為に命を投げ出してくれた甲斐那と刹那の記憶だった。
本当にカイトはよく耐えていた。

本人に自覚がないとは言え、コイツは悲劇のヒーローだ。
内部で不安と罪悪感とあの二人に報いたいと言う想いが鬩ぎ合っているコイツの横顔は憂愁に満ちている。
その儚げな姿は多感な時期に有る同学年の少女達の庇護欲、母性本能を刺激するのに充分だった。
彼女達の会話にカイトの名前がのぼる機会も、当然、増える。
何とか傷付いた心を癒してあげたい、支えになってあげたいと言い出す娘も、チラホラ、現れてくる。
そしてその娘達は――情報収集と敵情視察を兼ねて――恋愛相談に行くのである。
ミュウ達四人の所に。

これまでにミュウ達は「勉強だけじゃなく恋の悩みも相談に乗るからね」と冗談混じりで話していた。
だから少女たちを邪険に扱うこともできず、真剣に、正直に、質問に答えてやる。
適当に虚偽の情報を混じえて追い払えば良いのにとも思うのだが、根本的に四人とも根が真面目だからそういった対応ができないのである。

だが真面目に答えた後でイライラが溜まる。
そのイライラがカイトへの怒りに転じる。
ますますカイトへの態度に冷淡さや余所余所しさが増える結果につながる。
後はそれの繰り返しだ。

カイトはよく耐えていたが、限界という物があった。
周囲の女子生徒達のひそひそ話や視線、男子生徒のやっかみや敵意に満ちた視線にいい加減うんざりしていた。
この問題に対して、ミュウ達に相談しても解決に乗り出してくれるどころか、冷たくあしらわれるだけなのにも腹が立っていた。
以前に受けたのと代わり映えのしない内容ということもあって、コイツはサボれる授業はサボるようになったのである。

以前のサボり先は校舎の屋上だったが、今そこには徒手武術科の教官室兼宿舎が存在している。
そこで図書室で新聞の縮刷版や参考書を読んだりして時間を潰すようになった。
ホップコミックスなどに食指を動かされはするものの、サボりで来ているときに(つまり授業時間中)カイトが漫画を読んだことは一度も無い。
精々、居眠りするだけに留めている。
そんな中、繋げた椅子の上で横になっていた所に、イヤな空気を感じて避難行動に出たと言う訳だ。


本棚の陰から四人の様子を伺いつつも、カイトは自分の行動に疑問を感じている。
どうして彼らから隠れようとしたのか。
眠っていながらも感じた、イヤな気配が気になっていた。

(商業課にしちゃ随分ツッパった感じの生徒だな、雰囲気とかも……!……まだ、あのアマにやられた鼻が疼きやがるぜ……)
『バンダナ』の鼻に光ってるピアスにつられ、カイトは自分の鼻に指を持っていった。
鼻に走った痛みと共に徒手武術の授業で起きたことが脳裏に浮かんだ。


数日前、授業で約束組手を行っていたときだ。
教えられた技を交互に掛け合うなか、竜園寺先生は生徒たちの間を巡回し、それぞれの悪い癖を修正したり、弱い部分を指摘していく。
また、実戦を想定しての練習だから、攻撃を加えたりもする。
横合いから新手が現れたとか、足元が崩れたとか、味方からの援護射撃といった設定だ。
攻撃された生徒はそれに対応しなければならず、相手側はその機を捉えて一本取らないと叱責されるのである。

今の授業のテーマは上下相随。
上半身の動きや筋力強化だけでなく、下半身の鍛錬や動きも重視して二つを協調させるとか言う事らしい。
その理念を生徒たちの身体に解らせることが当面の課題だと先生は言う。
従って彼女の攻撃は下半身、特に足元に集中していた。
また――このときの竜園寺先生は何やら非常に機嫌が悪そうだった。

甲斐那達から弐堂流の稽古を付けてもらう際、ほんの少しだがカイトは徒手格闘の手解きも受けていた。
そのとき全ての武術の要諦は下半身に、特に足先にあると教え込まれていた。
上半身だけを鍛えても意味はない。
上半身を支えられるだけの強さと柔軟性が下半身になければ、強さは半分以下にもなってしまうと。
カイトは足腰の鍛錬もしっかりと積んでいたし、他の生徒達に比べれば上半身との連携も遥かに滑らかだった。
コイツの技、そして肉体には、なんの問題もなかった。

この後に起きた事はカイトの頭と心、それに竜園寺先生の個人的な感情、何より女の事情に起因していた。

竜園寺先生がカイト達のところに来た。
二人の動きを一瞥して何も指摘するべき問題がないことを確認すると、背中を向けて次の組に行きかけた。
ところが!

風切り音と共に竜園寺 菊の身体が軽やかな円舞を見せた。
素晴しい速さと鋭さの上段廻し蹴りがカイトの側頭部に炸裂する。
このとき、故意か偶然かは判らないが、その足先は丸められてはおらず、真っ直ぐ伸ばした親指がカイトのこめかみをエグったのだ……。
四肢を痙攣させてカイトの身体が武術場の床に転がった。

自分の身に何が起きたのか、カイトにはまるで判らなかった。

「無様ですね。周りが足元を掬われているからと言って、自分にも同じ攻撃が来るとの空想が招いた結果です」
カイトの頭側に立ち、その顔を覗きこみながら少女は冷たく言い放つ。
「戦場では一瞬の隙や油断、思い込み、判断間違いが自らの命、ひいては部隊全員の命をも危険に曝すことに繋がるのです。深く反省しなさい」
生徒からの返事がないことに頓着せず続けられた言葉には、妙な苛立ち、イライラがこもっていた。

「下半身の強化を疎かにしがちなことを戒める授業で、それができてる生徒にこんな不意打ちを食らわすのが軍人のやり方かよ!」
ようやく大雑把な情勢が掴めてきたカイトが憎憎しげにやり返す。
しかしその目はまだ虚ろで、本当に正常な判断が着いているのかどうか怪しかった(普段に較べてもって意味な)。

「敵が王手を掛けてきたら、待ったを掛けられるのが冒険者の流儀ですか? 敵に出くわしたら、
「お互い正々堂々とやりましょう。噛み付きや目潰し、急所攻撃はいけません」
なんて、そんな自分に都合の良い交戦規定を押し付けられると妄想してるのですか? 
そういうのを軍では、臆病マラの腐った言い訳と言うのですよ! 
何時まで寝ている積りですか?! さっさと立ちなさい!!」
不機嫌さを隠そうともせず、少女が吐き捨てる。
「臆病マラには今の一撃は効き過ぎで、足腰が言うことを聞いてくれないんですっ!!!」
カイトのこの言葉は嘘ではない。
本当に、手足への伝達系が故障していたのである。
だがそれをどう取ったのか、少女は冷ややかな笑みを浮かべてこう言った。

「軍では起きられない人員は死体と同じです。死体を軍人が如何するか、貴方達に教えてあげましょう」

そう言って竜園寺 菊はその軍の流儀とやらを見せた。
カイトの顔面をその小さい素足で踏みつけたのである。
もう教育委員会がどうだとか、子どもの権利章典がどうしたと言った次元を、ブッチギリで超越したこの教育的指導とやらに、生徒達は言葉もなかった。
が……

「ひゃあっ!!」
と可愛らしい、いや、事実可愛い悲鳴を上げて、竜園寺 菊はカイトの顔から跳び退る。
少女の白いかんばせが赤く、見る見る赤く、憤怒の色に染まっていく……。

四肢の自由が戻ってきたらしいカイトがのそのそ床のうえに上体を起こした。
わざとらしく、ペッぺと唾を吐くふりをしながら……。

そう。
手足は動かず、言葉も出せないが、三寸の舌先は動けた。
カイトは竜園寺 菊の足の裏を舐め上げるという行為に及んだのである。
確かに少女の挙げた交戦規定に抵触こそしてないが、それは花も恥らう十代の乙女(もちろん彼女も未経験だ。安心してくれ)に対し、主人公がすべき行為としては大きくNGだろう。
だが――カイトの暴挙、いや、愚挙はこれだけに留まらなかった。

やりやがったのだ、いわゆるダメ押しというヤツをな。


「質問があります、竜園寺先生」
見ていてムカつくニヤつき笑いを顔に貼り付け、わざわざ手まで挙げてカイトは言った。
まあ、色々あって、コイツもかなりトサカに来てたんだろう。


「タムシとか水虫、経口感染や口腔粘膜への感染が心配されるようなヤバイ、ヘンな病気とかに罹っておられませんか?」


ざわついていた武術場が水を打ったように静まり返る。
そして……

「……り」
サビ付いた金属同士をこすり合わせるような音が竜園寺 菊の口から漏れた。
「り? りから始まるヤバイ病気に罹ってるんですか?! 何て病気ですか!? 薬とか治療法は確立されてるんですか、竜園寺先生?」
ヘラヘラ笑いながらカイトはさらに火に油を注ぐような言葉を口にする。
次の瞬間、竜園寺 菊の怒号が武術場に木霊した。


「カエルのクソ掻き集めたほどの値打ちもない、病気持ちの、腐れマラの分際で、よくも!!!」


白いかんばせを憤怒と羞恥で赤く染め上げて、少女は回避運動の採れないカイトに突進する。
そして、突進の勢いを綺麗に載せた下段蹴りを、情け容赦無く、カイトの鼻っ柱に叩き込んで、こう叫んだのである。

「○○切り取って!! そのグズの家系!!! 絶ち切ってくれます!!!!!」

カイトと同じこの時間に竜園寺先生の授業を選択していた生徒たちは、次の言葉とケタタマシイ笑い声が耳にこびり付いて離れず、しばらく不眠症に悩まされることになった。

「死にますか?! 死にますか?! 死ぬんですか?! 死ぬんですね?! 
わたくしの所為ですか?! わたくしの所為で死ぬ積りですか?! わたくしの所為で死ぬ積りなんですね!! 
構いません!! 死になさい! 今直ぐに死になさい!!! わたくしが手伝ってあげます!! 
手ですか!? 足ですか?! どれでも貸して上げます!! さあ、早く死にそうらえ!!!」

……この後、カイトの身に振りかかった事態は、あまりにも悲惨過ぎて、ここには書けない。



「しばらくここを離れます。そのあいだ自分たちで練習を続けておくように。怠けたりすればどうなるか、そこに転がってるのを見れば判るでしょう。そうなりたいですか?」
そう言って竜園寺先生はしっとりした微笑を浮かべる。
しかしその笑顔が「美しい」とか、「可愛い」とか思えた者は一人も居らず、一様にカクカクと頷くだけだった。
その反応に気を良くしたらしく、先生はにっこり微笑むと、武術場から出て行った。
やがて……生徒達からも一旦は怖気が消え、ぽつりぽつりと組み手を再開する者が現れた。

そんな中、一人だけ黙然と突っ立っている生徒がいた。
『転がってるの』の相方だった少年である。
どうしようかと悩み、これまでに教わった基本を一通りおさらいでもしてみようかと考えだした頃、後から肩を叩かれた。
振り返るとそこにはとびっきりの美少女が立っていた。
その少女は「『転がってるの』を手当てするので、自分の代わりに相方と組んであげて欲しい」と告げたのである。

彼はこの少女とこそ練習をしたがったが、そういう不純な動機による発言を許さぬ気品や雰囲気が彼女にはあった。
故にまた、カクカクと頷き、その相手の少女の許に向かう。
その娘も充分美人の部類に入っていたので、彼としては満足だったのである。
そして少女は件の物体の治療に取りかかった。
周りで見ていた他の女生徒らは先を越されたと悔しがったが、彼女なら仕方がないかとも思い諦めた。
同時に、男子生徒達からは、

「花鳥風月だけでは飽き足らず、今年度の冒険課のマドンナまで毒牙にかける積りか、相羽ぁっ!」

との殺気に満ちた視線が件の物体には注がれたのである。


「……後は自分でやるよ、ありがとう、アントノーヴァさん」
少女の神術治療でどうにか利き腕を動かせるまで回復したカイトがそう礼を述べた。
「そう言えば、相羽くんも神術を使えるんだったわね」
そう言って少女は微笑む。
「な〜んか、アントノーヴァさんに相羽くんって呼ばれんのは、先生に怒られてるような錯覚に襲われるなぁ。そっちさえ良ければ、下の名で呼んでくれた方が、こっちは気持ち的に安らぐんだけどな」
本気にも冗談にも取れるカイトの口調。
「あら。それを言うんなら私だって同じよ。何度も言ってるように、敬称付のファミリーネームじゃなく、ファーストネームを呼び捨てにしてくれた方が、こっちも気持ちが落ち着くんだけど」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、少女は下から覗き込むような目線でカイトを見た。
花も恥らうような笑顔とは今の彼女の笑顔を言うのだと、言いたくなる程の美しい笑顔だった。


カイトが話をしてるのは、大人っぽい風貌と雰囲気を持った、ノーザン人の女生徒である。
今年度の冒険課ナンバーワン美少女、学園のマドンナとも称されている女生徒だ。
そして容姿だけでなく、冒険者としての技量も並々ならぬ物を持っている。

カイトの治療を買って出たことからも判るように法術の素養がある。
ミュウと同じく、神術詠唱コンクールで上位入賞を果たした実力の持ち主であり、その魔力強度にはコレットも注目している。
手先もかなり器用な部類に入るうえ運動神経も抜群なことから、セレスや竜胆もこの少女の引き抜きに躍起になっていた。
性格も気さくで明るく、大変優しいので男女を問わず人気が有り、八年前からこの学園に在職している教職員からはミュウの再来とまで言われていた。

ナージャ・アントノーヴァ。
それが少女の名前だ。
本当はもう少し長い名前なのだが、学園の出席簿にはそう記されている。
ノーザン人種だが、家は平凡な一般市民だ。
何代か前までは貴族の末席に連なっていたが、色々な不運が重なった為にアントノーヴァ家は急速に衰退していったのである。

彼女は普通課への入学を希望していたが、優秀で真面目な生徒なら奨学金のほかにも様々な援助が受けられると聞いて冒険課に入ってきた。
奨学金特待生は各年度一人までと定められていたのだが、彼女の入学した年度は彼女ともう一人の男子生徒、二人の特待生が出たことで一時期冒険課関係者の間で話題になった。

カイトと同じ三−Aでクラス委員長を務めており、専攻もカイトと同じ徒手武術の竜園寺教室。
それ以外の授業も全部、一時間の例外もなく、カイトが履修したのと同じ講座を選択していた。
オリエンテーションでロニィ先生の攻撃を避けた際、カイトが押し倒してしまったのが彼女であり、それが切っ掛けで言葉を交わすようになった。

クラスの殆どは委員長と呼び、教師や他クラスの生徒はナージャさんやアントノーヴァさんと呼ぶ。
ナージャと呼び捨てにする者も居たりするが、そんなのは極稀な例外だ。
何と呼ばれようと彼女はにこやかな受け応えをするが、そこには何かしら憂いの翳が見え隠れする。

類稀な美貌と気品、ノーザン人特有の銀髪青眼と名前から貴族の令嬢だと思われているが、最初に言った通りそれは違う。
彼女はそう勘違いしてくる相手に、「家は大したことのない、皆と同じかそれよりやや下の、一般市民の出だ」と説明するが、信じてもらええたことは殆ど無い。
その辺りに下心を持って近づいてくるような相手からナージャと呼ばれるのは本当は嫌なのだが、優しい彼女は拒絶できない。
逆に本当に友達になって欲しい相手に限って、庶民であるというこちらの言葉を信じず、丁寧だがどこか隔意のある声でアントノーヴァさんとしか呼んでくれない。
彼女が言ったことを本当に信じ、なお且つ、敬意と親愛の情を込めて「アントノーヴァさん」と呼んだのはカイトだけだった。


「家が一般市民だってのは解ったけど、やっぱり、アントノーヴァさんって呼ばせてもらうよ」
互いに自己紹介した後、「ナージャと呼んでね」と言ってきた少女に対し、カイトは真面目な表情でそう応えた。
「家の台所事情がどんなでも、良識あるお父さん、お母さんに大事に育てられて、躾けが行き届いてるってことが判る気品っていうか、風格ってモノがあるし」
そこで少し悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「俺よりずっと大人っぽい印象を受けるから、ナージャって呼び捨てにできる感じじゃないんだよね」
と言ったのだ。

冗談めかしていたが、これはカイトの無二の本心だった。
本来なら自分は周りよりも五つ年上であるという意識から口にした、文字通りの意味に過ぎなかった。
このやり取りがあってから、ナージャは友愛や信頼以上のなにかをカイトに寄せるようになったのだが、カイトの言葉には何か他の意味があるというふうにも捉えていた。
この一寸した言葉の食い違い、取り違いが後に彼女の身に暗い影を落とすことになる。


「いや。やっぱり、その辺はアレだよ、アレ。苦手意識ってのが消えない限り、いや。消えたって、中々、女の子を呼び捨てにはできないよ」
自らに治癒神術を掛けながらカイトが答えた。
「でも、相羽くん、竜園寺先生には、内心タメ口、呼び捨て上等って感じじゃない?」
クスクス笑いながら、ナージャはカイトの癒し損ねに神術を掛けていく。
「ジェンダーフリーの今の世の中、前時代的ホーケン思想、持ちだす気はないけど、ヒトのカオ踏み付けるか、フツー? 今も昔も、逆に男の方が女にそんなマネすりゃ、マタンキ付いてんのか〜って怒鳴られるのに、女は得だよな」
カイトはしみじみそう呟く。
「そんな事なぁいぃ。色々な面から見ても、男の人の方がぜぇ〜ったい得してるわよ。それに女性の足の裏を舐めて水虫が如何のなんて言ったら、竜園寺先生じゃなく私やクラスマイン先生だって、ううん。女の人なら普通の時だって怒るわよ」
少し怒った表情のナージャをカイトは真剣な面持ちで見詰めていたが……

「思い出した。……あいつと同じ目だ」
ポツリとそう呟いた。

「あいつ? 誰? 何の話してるの?」
ナージャが首を傾げながら尋ねる。
「最初の授業で、俺の手当てをしてた時のりゅーえんじせんせーの目。あのいけ好かない、銀髪のガキと同じ目だったんだ」
そう言われても、誰のことだか彼女にはさっぱり判らなかった。
「ミハイル・ベイリュールって奴だけど、アントノーヴァさん知ってる?」

「知ってるわよ。去年、神術と魔術のクラスがいくつか一緒だったから。今年は奨学金が支給されることになったのに、棒に振っちゃって商業課に戻っ……」
そこで何か思い出したらしいニヤニヤ笑いを浮かべ、彼女はカイトに詰め寄ってきた。
「そうそう。ダンジョン実習初日、彼とのコンビ権を賭けた戦いで『相羽くんの方』が勝ったけど、ベイリュール君はソレを嫌がって商業課に戻ったんだって噂があるけど、これって真実?」
周囲で組み手を続けている生徒らも、素知らぬ風を装いながら全身を耳にして、カイトがどのような答えを出すのか興味津々だった。
世間の噂に疎いカイトは知らなかったが、冒険課生のあいだであの事件はちょっとした騒ぎになっていた。

「俺が勝った? 冗談じゃない。あれは俺の負けだよ。一年のキャリアがあったのに、あいつとは数の上では引き分けになった。けど、こっちは奇襲で一匹目を仕留めたんだから、実際の所はあいつの勝ちさ」
カイトは憎憎しげにそう吐き捨てたが、ナージャの訊いていたこと、周りが知りたがってる話題とはズレがある。
故にナージャはその点を指摘した。
「その辺りで相羽くんが知らない事情を色々教えてあげるから、どう? 今週のダンジョン実習、私と……」


「人の足の裏を舐めたあと冒険者は掌を舐めに走るのですか、良い身分ですね。これが軍隊なら首切り落として排泄物を流し込んでる所ですよ、この病気持ちの腐れマラ!」
いつの間にか武術場に戻ってきた竜園寺先生は、鬼女も斯くやと言う形相でカイトと、それにナージャを睨みつけていた。


「ええ。その持ってる病気が脳みそにまで回っちまってて、しかもそこに先生の教育的指導ってか、愛のムチまで決まってくれやがったお陰もあって、普段より多めに暴走気味なんですよ。あいすいやせんねぇっ」
カイトも同じ様に悪意を込めてやり返す。
「口ごたえですか。臆病マラにしては良い度胸です。その度胸に対して御褒美を上げましょう。相羽カイト、ナージャ・アントノーヴァ。両名とも鶏行歩で武術場二十周!」
嘲りの笑みを浮かべ、竜園寺 菊の怒号が炸裂した。
ナージャがこれに何か言い返そうとするより先に、カイトが怒鳴り返していた。

「待てよ! 彼女はただ善意から手当てを買って出てくれたってだけで、俺との問題には無関係だろう!」
カイトの言葉を竜園寺 菊はせせら笑う。
「わたくしの指示。戦場で上官の指示に従わないのは命令不服従で縛り首です。本来なら連帯責任で貴方たちの相方二人にも同じ罰を与えている所です。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはありません」
ここまでくると売り言葉に買い言葉だった。
カイトは勢いから、そして普段からの様々な出来事に鬱積させられてきたモノを噴出させ、怒鳴り返した。

「ああ、そうかよ! だったら、他の三人の分、俺が鶏行歩をやってやるよ!」
カイトの言葉に竜園寺 菊の柳眉が逆立った。
「わたくしに指図する積りですか?!」
「ここは軍隊じゃないし、今は戦時下でもない! 冒険者の養成校で、授業中だ! 連帯責任なんてクソッ食らえな軍人の流儀なんか、端からお呼びじゃねえんだ! 間違ったりムカツクことをしたのなら、その間違ったヤツだけを締め上げれば良いって言ってるだけだ!!」
ふら付く四肢に喝を入れて立ち上がると、真正面からカイトは相手を睨み付ける。
「……良いでしょう。ならそのついでに、脳みそに回っていると言う、腐れマラの病気も断ち切って上げましょう。もう二十周追加で合計百周。鶏行歩でこの武術場回りをやってもらいましょう。異存は、もちろん、無いでしょうね?」
カイトの怒気に圧されながらも、竜園寺 菊はそう言い放った。
「……上等だよ」


鶏行歩というのは、竜園寺 菊の学んだ武術流派における基礎過程である。
片方の膝を地面に着くまで下げた状態を交互に繰り返しながら歩く姿が鶏の歩行する様に似ているところからの命名だ。
この際、背筋は真っ直ぐ伸ばして、踏み出す足と同じ側の腕を伸ばしたまま前に振りつつ、一定のリズムで鼻から腹式呼吸を行う。
大変な重労働であるこの鶏行歩で身体を温めることから竜園寺教室の授業は始まる。

そんな重労働な鶏行歩で体育館より一回り小さいだけの武術場の内周りを百周すると言うのだ。
しかも、普段からカイトは竜胆に貰ったパワーリストを付けており、最近はそこにパワーアンクルまで上乗せしている。
これらを外せばかなり違うのだが、カイトはそれらを着けたままで鶏行歩百周に挑戦したのだ。
無論、この残りの授業時間では百周は不可能である。
だから、そのまま次に行われる他の教官の徒手武術の授業中も外周を使って良いとの許可を貰ってだ。

押し黙ったまま奇妙な歩行運動を淡々と続けるカイトの姿には鬼気迫るものがあった。
それがある種の悲壮美を以って、この後の他の教官の徒手武術実習に出てきた女生徒達の心を打ち、またしてもコイツの人気がいや増すことに繋がる訳なのだが、そんなのコイツに解るハズなかった。


結論から言うと、カイトは鶏行歩での武術場百周を達成することは出来なかった。
六十二周がこの時のコイツの限界だった。
本当はもっと前に限界を迎えていたのだが、カイトはそれを無視して武術場を回り続けた。
そして六十二周を越えた途端、ぷっつり意識が途絶えたのである。

凄まじい筋肉痛でカイトが目を覚ましたのは寮の自室だった。
机の上にはメモ帳と思しき紙が残されており、「懲罰は終了したものと見なします」との一文と、竜園寺 菊の署名があった。
意識を失った後、どんなことがあったのかカイトには判らなかった。
ただ、残された文面を見るまでもなく、百周できなかった事だけはカイトも覚えていた。
筋肉痛ではなく、情けなさや心の痛みでカイトの目から涙が零れた。

だが、コイツが本格的に泣けてくるのは、翌日の射撃術実習からである。

凄い筋肉痛に悲鳴を上げる肉体に鞭打ってまでコイツが出席にこだわったのは、指導教官から目を付けられてるからである。
難癖を付けてくるのはムカつくが、今のところ大した実害はない。
仮に難題を押し付けられたとしても、こなせさえすれば、評定に不可をつけることは出来なくなる。
その為にも授業は無遅刻無欠席でいく必要がある。
コイツはそう考えたのだ。

グラウンド二十周は堪えたが、歯を食いしばり、涙も堪えてカイトは走りきった。
むしろ、周囲の反応のほうが今のカイトには堪えた。
ヒソヒソ話や、何とも言えない視線で非常に居心地が悪かった。

ナージャや徒手武術で一緒になる顔見知りが何名かこの授業を欠席していることに、カイトは気付いた。
不審に思ったが、昨日の無様な自分を思うと顔を合わせたくないという気持ちの方が強かったのでホッとしていた。
そしてカイトの実技担当者も、昨日の竜園寺 菊先生と同様、何やら機嫌が悪そうだったのだが、当然の事ながらカイトに気付く余裕などある訳が無かった。

十五メートル先に置かれた標的に向かって、用意されてる銃を各自適当にぶっ放す。

これがこの時期の舞弦学園で行われていた射撃術実習の全てだ。
教官からの指導や助言などは一切ない。
片手で撃つ者。両手で構える者。ロクに狙いもつけず一気に撃ちきってしまう者。逆に、じっくり狙いを定めて一発ずつ慎重に撃つ者。
色々なスタイルがあった。

どれだけ目標に命中したか、六発ごとにペーパーターゲットを交換して確認する。
このとき気付いたことを全員の前で発表する。
そして週に一度、各自それらを報告書(というか感想に毛が生えた程度のモノ)にまとめて提出するのが、軍と企業が生徒達に求めた義務であった。

ワーブ教官の「気合だ、根性だ」とどなる声が射撃場に響き渡るなか、カイトは、断続的に襲ってくる筋肉痛に震える手を騙し騙し使って、一定の間隔で引き金を絞っていた。
この日、カイトは、ワーブ教室のみならず、今までの他の教官のクラスと比べても最高の成績を叩き出したのである。

「ほう。大したもんだな。一体、どんな呪術を使った?」
ワーブ教官の第一声は純粋な感嘆だけが込められていた。
「簡単ですよ。ムカつくアマの顔を思い浮かべて引き金を絞りゃ、偏平足のガニ股親父にだって、これの半分ぐらいの成績は出せまさぁね」
もの凄く不機嫌な声と表情でカイトが返した言葉がそれだ。
教官はカイトのターゲットだとは知らずにいたのだ。
気付いた途端、ワーブ教官の顔が顰められる。
しかし、即座にこう返してきた。

「ほう、それだけか。安心したぞ。もしもそのムカつくアマとやらの足を舐りまわせとか、小便臭いノーザン人の小娘の手をしゃぶりつくせとか、大ボラこいた後で練習場周りを、ニワトリのマネしてヒィヒィ言いながら走り回れだとか、そんな情けない儀式が必要なのかとビクビクしてたんだが、成る程な。確かに、偏平足でガニマタのワシにでもやれそうだな」

この言葉に演習場がドッと沸いた。
その九割、いやほとんどが男だった。
そしてこの一言から冒頭でカイトが気にしていた噂が流れる事になったのだ。

曰く、相羽カイトは脚フェチであり、脂脚の女性が履いていたハイヒールをコップ代わりにして飲むゼリーを食するのを好む漢(多分、痴の字がその前に省略されてるな)であると。
そして、ゼリーを飲んだ後はそのハイヒールでヒィヒィ泣き声を上げるぐらいに踏まれる事も好むツワモノだと……。


……書けば無茶苦茶長かったが、カイトが鼻の痛みからの連想で始めた上記の回想は、実際の時間に直せば数秒程度の出来事である。
その間も商業課の四人に対するカイトの観察は続けられていた。

鼻ピアスが一番威張っており、イヤ〜な目をしていた。
やや充血気味で、なにか膜でも掛かっているように見えた。
セレスが言ってたようなヘンな薬でもやっているか、作っているのも知れない。
自分の鼻が痛むからかカイトは相手の鼻に注目していたのだが、そのとき相手の鼻に傷があるのを発見した。
ピアスを引っ張られ、引き裂かれたと思われる白い筋が短く走っているのが見えたのである。
サザン人種特有の浅黒い肌に、その鼻の筋はよく目立った。

メガネを掛けている少年はウェスタン系。
白磁の肌に金髪碧眼。
銀縁のメガネが怜悧な印象を与えるが、それを外せば女生徒や大きいお姉さん達がキャーキャー言うこと間違いなしな、愛らしい儚げな容貌をしていた。

白いノッポはかなりアタマの程度が劣っている顔だった。
どこを見ているのかイマイチ判然としない目に、だらーとしまりの無い口元。
ノーザン人種の白い肌に、顔中そばかすが散っているのが見えた。
鼻ピアスや次の粗暴そうなずんぐりむっくりからは、良い様に苛められ、パシリに使われている事がカイトには想像できた。

さて、カイトにはこれらの三人には見覚えがなかったのだが、最後の一人には見覚えがあった。
と言うか、幾つかの授業で一緒になる顔なのである。
そう思ってよく見ると、こいつは冒険課指定の制服を着ていた。
浅黒い肌をしているからサザン系かと思っていたが、実はよく日に焼けているだけで、その顔立ちは紛れも無いイースタン系だった。

確かに思い込みだけで判断してはいけないな、とカイトは自戒する。
振る舞いや言動にはやや問題アリな感じのりゅーえんじ、せんせーではあるが、これまでの所、その発言の内容に誤りらしきものは無い。
不本意ではあるがそれはカイトも認めざるを得なかった。


「確かにここから見る限りでは、警備網や探知網が敷かれている様子はないな。どうだ、パセリ、何かありそうか?」
鼻ピアスの声にカイトは四人に注意を戻す。
彼らは窓辺に移動し、そこから下界の様子を観察していた。

パセリとはトロそうな顔をしたノッポの事らしい。
でっかい図体の持ち主に随分と可愛らしい仇名をつけるものだとカイトは変な感心をする。
そのパセリは口の中だけでもごもごと文句を言っていた様だったが結局何も言わず、窓の外を眺めて首を左右に振った。

「どうだい? やれそうかな?」
メガネが鼻ピアスに問い掛ける。
カイトが想像してたよりも、ずっと乾いた声だった。
ハッとさせられ良く観察すると、メガネ云々ではなく、目に宿る光がとても冷たかった。

「まあ、何とかいけるんじゃないか」
鼻ピアスが鼻をすする。
「それで、本当に実入りになるんだろうな」
ずんぐりむっくりがあくびをかみ殺しながらメガネに尋ねる。
外見通りの(そしてなんとなく聞き覚えのある)低い声だった。
「ああ。そっちの方は心配いらない」
眼鏡の美少年は相手の方も見ずに答えた。

「その辺は俺にはどうでも良い。最初に言った通り、俺の取り分は使い捨てのアレか、なけりゃ故障の少ないの一丁とカートリッジ一ケースだ。それで今度こそ、あのアマに思い知らせてやる!」
鼻ピアスが憎憎しげに吐き捨てた。

言葉の内容とこちらにまで漂ってきた激しい憎悪に、カイトは眉を顰めた。
四人の立っている窓からは射撃演習場と、それに隣接している銃器保管庫が見えたはずだ。

(こいつら、あそこから銃器類を盗みだす気でいるのか?!)

カイトの胸中に虚しさや、遣る瀬無い想いが去来した。


今日は、王国暦五六八年四月二十二日。
窓からは穏やかな春の光が差し込んできてるにも関らず、少年の周囲には哀愁の気運と不穏な気配ばかり立ち込めていた日。
五限目終了を知らせる鐘の音が学園中に鳴り響いていた。






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