ぱすてるチャイム
Another Season One More Time
菊と刀


16
a BloodStained Blue Week-Part Four




作:ティースプン





「痛!!」
頭頂部を襲った衝撃にカイトは呻きを漏らす。
涙目になって振り返ると五メートル離れた所から、竜園寺 菊が凄い目付きでこちらを睨んでいた(ようにカイトには思われた)。
そして気を取られた隙に足元を払われ、カイトは床に転がされた。

ただいま月曜二限目、竜園寺 菊の徒手武術実習の最中。場所は当然武術場である。
徹夜での張り込みからは解放されたが、来客の応対に追われて、カイトは昨夜ほとんど寝ていなかった。
カイトの元を訪れた客は四名。
生活指導が熱心なことで知られる女性教諭補助と彼の担任代行。
それに最近授業をサボりがちなことを心配した(と言い張ってる)ハーフエルフの魔術の女教諭補助に、エルフのスカウト女教諭補助である。


昨日ナージャ・アントノーヴァがあの後、手を尽くし、継ぎはぎだらけのジャージ上下を手に入れてくれた。
だからカイトは面目を保って部屋まで辿りつくことができた。
しかし屋外で服を着替えるというのは、それも女装から普通の服に戻るというのは、多感な時期にあるカイトの精神にそれなりに深い傷を負わせることになった。
願わくば、コイツがおかしな趣味に目覚めたりしないことを祈るばかりだ。

服はどうにかできた。
化粧もナージャが手に入れてくれたメイク落しで何とかなった。
これで今日、自分達がどこで誰と会ってきたのかを示す証拠(どんな風にかな)は全て消し去れたかに思えた。
が、甘かった。
カイトは言うまでもなく、ナージャ・アントノーヴァも。
女性の観察力、いや、嗅覚を完全に忘れていたのである。

カイトの部屋を訪れた四人は何れも自分達の生徒に女の匂いを嗅ぎ付けた。

今も昔もカイトはお洒落やら自分の見栄えを良くすることには注意を払わない性格だ。
周りの男子生徒が脂取り紙を使っていても石けんで顔を洗う方を選ぶし、シャンプー後のリンスは、準学二年のとき同級生に言われてからするようになった程だ。
整髪料も使わないし、香水も付けない。
髪の毛を染色したり脱色したりする気持ちに至っては、灼熱地獄の雪だるま程度にしかコイツのなかには存在しない。
また、鼻でも耳でも、ピアスをするというのも苦手だった。
刺青等もダメ。好きになれない。痛いのは嫌いなのだ。

まあ、コイツの趣味やら嗜好やらは如何でも良い。
とにかく相羽カイトは化粧っ気というものが全く見られない少年なのだ。
コイツとは付き合いの深いこの四人は皆そのことをよ〜く知っていた。

化粧慣れしていない者が化粧を落とすと、目の届かない部分に、落とし忘れが必ずできる。
今回カイトが化粧を落とした場所には三面鏡も姿見も無かったし、落とし忘れを確認する時間的余裕も無かった。
しかもカイトは香水まで吹き付けられていた。
香水にしろ化粧品の臭いにしろ、そう簡単には落としようが無いものだ。
それで女っ気のない自分の部屋に戻ってきたのである。
ミュウ達がこう結論付けるのも無理はない。

このガキ、本当に女に会ってきやがった、と。

しかもカイトが付けていた香水は、ゴージャス系やらグラマラス系に分類される女性が好んで使う系統。
今日コイツと一緒に出かけていたナージャは使わない系統である。
ナージャを指導したこともある(今もしている)四人は、そのこともまた非常によく知っていた。

キョウコさんは実在する?!

ミュウ達も昨日学園中を駆け巡ったカイトの婚約者「キョウコさん」の噂は耳にしている。
と言うか、親切(お節介)で優しい(揉めるの大好き)ピンク色の髪をした或る先生から聞かされていた。
その「キョウコさん」がどの様な女性かも。
以下はミュウ達四人が某冒険課主任から聞かされた「キョウコさん」の人物像とカイトとの馴れ初めである。


ベルビア行方不明者遺族連絡会議。
ベルビア国内で行方不明になった人々の家族を支えるNPOやNGO団体であり、キョウコさんはここに所属しているボランティアの女性だ。
この団体は遺族の精神的ストレスを和らげて徐々に精神的再建を促し、社会復帰を果たさせることを目的としており、やはり行方不明者の家族達で構成運営されている。

キョウコさんは若くして幼馴染の男性と結婚し、男子を一児授かった女性である。
だが夫が息子を公園で遊ばせていた時に、その子が突然行方不明になってしまったのだ。
近所を捜索し、警察にも届けを出して付近一帯を隈なく探して貰ったが息子は見つからなかった。
夫は、息子が消えたのは自分が目を離した所為だと思い詰め、自殺。
キョウコさん一人が遺されることになる。

このとき傷心のキョウコさんを救ってくれたのがこの連絡会議である。
彼女は会議に救われて以来、この会議のメンバーになった。
主に息子や娘を失った両親やその家族の精神的ケアーを実際に行う相談員が彼女の仕事だ。

一人でも多くの家族を救いたい。立ち直らせて上げたい。
せめてそれぐらいだけでもして上げたい。
居なくなってしまった息子や夫の代わりに、と思い詰めている女性である。

カイトの両親は五年前にキョウコさんと出会い、彼女の存在に大いに助けられた。
またキョウコさん自身もカイトの両親によって励まされたという経緯がある。
そしてキョウコさんが最近相羽家を訪問した際、たまたま自宅に戻っていたカイトを見て錯覚してしまったのだ。

これは自分の息子だと……。

思い余ったキョウコさんはカイトを一時誘拐してしまうのである。
だが本当は自分の息子ではない少年を、他の夫婦の子どもを連れての逃避行の途中、彼女は自らが犯した罪に気付いてしまう。
追いかけてきた両親にカイトを返し、彼女は言ったのだ。

家族を喪うということがどんなに悲しく、そしてどれだけ辛く、寂しいことか。
私は誰よりも良くそのことを知っているはずなのに、その辛さを他の人に与えようとしました。
その悲しみを味あわせてしまいました。
それも、帰ってきた家族を再び奪うという一番むごいやり方で。
私はそんな事をしてしまった自分が自分で許せません。
罪を、償います。

寂しげに微笑み、警察署の中に消えていこうとするキョウコさんの手をカイトが掴んで叫んだ。

「俺と結婚して下さい! 夫婦、いや家族なら誘拐にはなりません! これまで貴女が父さんと母さんを支えてくれたように、今度は俺に、貴女を支えさせてください!」

因みに、キョウコさんのフルネームは双柳・キョウコ・シルヴァーナ。
イースタンとウェスタン人種とのハーフである。
(ボン・キュッ・ボーン)という音が聞こえてきそうなぐらいグラマーである。
髪は、ベネット先生を髣髴とさせる、輝くばかりの金髪である。
今年で三十三歳だが二十代に間違われるスゴイ美人である。

普段から喪服を身に纏っているのである!!

つまり未だに独身であり、未亡人ということである。
以上である。


妄想具現化能力の鬼、相羽カイト。
そのカイトをも凌ぐ、神の域に達している妄想具現化能力を持った生徒(教師かも知れないがな)がこの世界には存在しているらしい。
カイトがナージャとミハイルの前で吐露したように、同じ魂(ってか病気な)を持つ者同士が惹かれ合い、この学園に集まってきてるのは確かなようだ。
実に恐ろしいことである。
だが真に恐ろしいのは、こんなデマをミュウ達に信じ込ませた(少なくとも半信半疑にはさせた)話術の達者(多分、髪の色はピンクだろう)がいるという事実である……。

ミュウ達も最初は有りえないと考えていた。
と言うより――ミュウとコレットは二年間カイトの両親と一緒に暮らしていた。
その間そんな美人のソーシャルワーカーなど、影すらお目に掛かった記憶が無い。
だが、段々不安になってきたのだ、あまりにも真剣な話し手の表情に。
そこに来てカイトの身体から立ち上る女の臭い(本当に純粋に化粧品の匂いな)。
フラストレーションが溜まっていたミュウ達は、最近のカイトの出席状況や生活態度に対する注意にかこつけた厭らしい、ネチネチとした心理攻撃を始めたのである。

元から感情の生き物である女が更に感情的になったときの怒り方というのは始末に負えない。
今のことだけ怒れば良いのに、古傷を抉る(前科をあげつらう)行為にまで及んでくる。
それも『今こんなことをしているから、あの時もあんなことをした』と、トンでもない怒り方までしてくる。

昔にやらかした悪事はその当時にしっかりと怒られており、償いは済ませた筈である。
結審した事案をもち出して糾弾の材料にするのは反則、禁じ手だ。
叱る者は、時系列や因果関係をしっかり頭のなかに叩き込んで、絶対に叱責の二度払い等という愚行を犯してはならない。
それは反省を促すどころか、恨まれることにしかならない。
なによりそれは教育活動を逸脱し、相手の尊厳を傷付ける行為以外の何物でもないのだ。

ミュウ達はそれをやってしまった。
だがこれは教師の資質に関ってくる様なことではない。
教師の資質なら彼女達には十二分に具わっている。
これは彼女達の中に大人になりきれていない部分があることの現れであり、それだけカイトを深く思っている証拠でもあった。
生憎なことに、カイトにはそういう事情を理解するのは不可能だったが。


夜八時から二時間ずつ、カイトはミュウ達一人一人と面談をすることになった。
静かな話し合いは凄まじい感情の水掛け論へと発展し、最後はお互い掴みかからんばかりの古傷の弄り合いになったのである。
何れの場合も、

「自分は何も悪くない。悪いのはあのバカ女ども/年増女に誑かされてるエロガキだ!」

と双方主張を変えず、物別れに終わる。

最後の面談相手セレスが引き揚げた午前四時過ぎ、カイトはベッドで横になったが、気が立って眠れなかった。
またミュウ達も腹が立って一晩中起きていた。
五人とも東の空が白みかけてきた頃になって一寸の間ウトウトした程度である。

そんな状態で徒手武術の演習に出てきたのだから、今日のカイトにはキレが無く、隙だらけだった。
他の生徒が一回指導を受けるのに対して、カイトの場合最低三回以上は竜園寺先生から教育的指導が飛ぶ。

今日の竜園寺先生のやり方は今までの授業とは違っていた。
普段は直接攻撃で生徒の矯正を行うのだが、今日は飛び道具を使っての指導に徹している。
おまけにカイトがダンジョン実習で使ってるようなマスクにサングラスを着用し、全く喋らずにいた。
その格好で武術場のぐるりをゆっくりと経巡り、弛んでたりふざけたりしてる生徒に黒いゴム弾をぶつけてくるのだ。

この一時間でカイトは何発もこのゴム弾を食らわされた。
授業中何度も竜園寺 菊からゴム弾をぶつけられ、またきつい視線が絶えず自分に付き纏っているのも感じた。
カイトは昨夜のミュウ達四人の言動に始まり、竜園寺 菊のこの態度に至る女のやり方と思われるものに苛立たしいモノを覚えた。

この間こちらがやらかした事は決着が着いたはずでは無かったのか。
懲罰は完了したとみなしますというメモは嘘だったのか。
なんで女って生き物は、ここまでしつこく、陰険で、執念深いのだろう。
言いたいことがあるのなら、まどろっこしい当て擦りやら中傷やら白眼視じゃなく、はっきりと口に出し、直接行動に移せば良いだろう。

カイトはそう思い、またこうも考えた。
ミュウ達四人の、そして竜園寺 菊のやってるのが大人のやり方なのかと。
自分の中で何とも判別出来ないドロドロしたイヤな想いが渦を巻き、それがゆっくりと体積を増していくのを感じた。


とにかくカイトは嫌な気分で徒手武術実習を終えた。
そしてその嫌な気分は授業を経るに従って、益々増大していくのである。
この後に続くのはミュウの授業だった。

昨日の今日で物別れに終わった口論の相手と顔を合わせるのだから、殺伐とした空気が噴き出してくるのは避けられない。
教室中に張り詰めたイヤ〜な空気が流れ出す。

ミュウはカイトには解けないだろう、判らないだろう問題を当てようとした。
こんな問題も出来ないのですか、出来ないのに授業をサボっていたのですか、本当に卒業する気はあるのですか、同期の者として先生は恥ずかしいですとあざ笑い、せせら笑ってやる為に。

しかし年度始めで、教科書も最初の方なのでそんな難しい問題は出てこない。
教科書を見ながらやれば解ける応用問題しか出せる課題がない。
当然、カイトもスラスラ答えてみせる。
当然、ミュウは面白くない。

では教科書を見ても答えられない問題はどうだ。
今まで授業をサボっていた生徒には、否。
真面目に授業に出ている優秀な生徒でも解ける者の少ない、引掛け問題はどうだとミュウは考えた。
ミュウの記憶にあるカイトは理論や座学を苦手にしていたから、解ける筈が無いと思っていたのだ。

だがカイトはそれにも易々と答えてみせた。
これにはミュウもびっくりした。
無論、生徒らもびっくりする。
生徒らもカイトは実技だけで、理論の方はダメダメだと思い込んでいたのだ。

無論、これには訳がある。
王国では数年前に教科書が改変されていた。
ゆとり教育だの、生涯学習だの、自ら学ぶ力を育成するだのと言ったお題目で教育省が行わせたのだが、実際の中身は改悪である。
今の教科書はカイトの頃に比べてページ数が大幅に減らされ、内容も格段に易しく、と言うよりバカになってるのである。
そしてそのことをミュウはすっかり忘れていたのだ。
災難なのはカイトと同じ講座を履修していた他の生徒達だ。

教師の個人的な感情で、理解度や習熟度、現行の教育内容を完全に無視した内容を出題されたのである。
今のカリキュラムにしか浸かったことのない生徒達が着いていける訳が無い。
だが「サボっていた相羽君でさえ解けたのだから、授業に出ていた貴方達に解けないはずない」とミュウは言う。
と言うか、そう言い張るしか引っ込みが着かない状況に陥っている。
その論法でカイトが解いた水準の問題を振り分けられ、解くことを求められる。
教わってもいない、それどころか見たことさえ無い公式を基にしなければ解けない応用問題が、今の生徒達に解けるはずがない。
呆然と立ち尽くす者、何とか解こうと必死になる者、中には泣き出す者まで出る始末。

予想外の、そしてこの仕事に就いて初めての事態にミュウは焦り、苛立ち、狼狽し、最後に逆ギレと言うか、生徒達に八つ当たりしてしまう。
サボってた相羽君に出来て、何故、貴方達は出来ないのかと。
涙ながらに叫んだのだ。

ミュウがそんなことを叫んだのは、カイトをやり込められないのが悔しかったからではない。
彼女達の誰一人としてそんな了見の狭い、馬鹿なことは考えてすらいなかった。
ミュウが涙声で叫んだのは不安、恐怖の為だ。
だが……

「『誰某ちゃんの家にはあんな物やこんな物がある』とねだられた時には『じゃあ、誰某ちゃんの家の子になりなさい。他所は他所、ウチはウチ』という理屈で黙らせるのに、勉強や自分達の都合の良い時だけ『何故、あの子の様に出来ないの。どうして、ウチの子は他の家の子の様に賢くないの』と理論をすり替えるのが大人のやり方ですか? 同じ口型に押し込んで個性や独自性を削ぎ落とし、部品か歯車みたいな人間を増産して行くのが教師の務めなんですか、 クラスマイン先生(、、、、、、、、) ?!!!!」

カイトの口から飛び出した憎憎しげな言葉にミュウは凍りついた。

ミュウが襲われた恐怖。
それはこれまでに積み重ねてきた物、築き上げてきた物がカイトに拠って否定された様に感じられた所為だ。
教諭補助としてだけで無く、自分自身がカイトにとって要らない存在、無価値な存在である様に思われた為だ。

カイトの一言でミュウは、表面上平静さを取り戻し、本来の授業内容に戻った。
だが彼女の心は不安と恐怖で一杯だった。
カイトに言われた後、自分がどうやってその後授業を進めていったのか、その記憶が彼女には無かった。

そんなミュウを見て。
冷徹に授業を進めていける幼馴染を見て、何とも判別出来ないドロドロしたイヤな感情が渦を巻き、ゆっくりと体積を増していくのをカイトは感じた。

この日、ミハイル・ベイリュールからは何の連絡も無かった。


翌日も重苦しく鬱陶しい雰囲気の中、ミュウ達の授業は進められた。
雰囲気はさておき、問題や衝突の類は起らず授業は淡々と進む。
だが射撃実習の時間……

「如何した、アイバァ。面構えだけはこの前と同じ、いや、それ以上に凄まじいことになってるが、成績はこの前とは逆の方向に凄いことになってるぞ。努力してるのか? 努力して漸くこの点数なのか? 努力もパパとママの愛情も足りなくてこの点数なのか?」
カイトのターゲットを見て、ワーブ教官の嬉しそうな声が飛んだ。

今日カイトは苛立ちを鎮めることができずに、ろくすっぽ狙いも定めず、腹立ち紛れに立て続けに引き金を引いていた。
手や腕の痛みはほとんど消えており、銃を撃つのに支障は無かったのだが、結果は惨憺たるものだった。
有効得点圏への着弾は一つも無かった。
カイトも何故なのか理由を考えるのに忙しく、それ以外のことには気が回らなかった。

「返事無し。呪い師の婆か!」
ワーブ教官の苛立たしげな罵声が飛び、ようやくカイトは意識を現実へと戻す。
「やっぱり臆病マラがこの授業を受ける前には、お呪いやお祭りが必要なんじゃないのか、んん? カエルのションベンとネズミのクソをこね合わしてできたクソ人形程の価値もない腐れマラが一人遊びをするには?」
相手の罵詈雑言にカイトは慣れつつあった。

「それとも、アレか。この前の休みに街で引っ掛けられた色情狂の大年増にシリの毛をムシり取られたか? ムシられたケツが凍えて風邪をひいたか? それで調子が悪いのか?」
この言葉に生徒のあちこちから笑いが漏れる。

だが昨日カイトと共にミュウの授業を受けた生徒達は笑わなかった。
カイトがミュウにぶつけた言葉に共感し、その態度に尊敬の念を抱いていたからだ。
またこの教官の態度に、いささか以上、食傷気味になっていた。
あから様にカイトだけを敵視し、誹謗中傷を浴びせかける、いい歳こいた職業軍人に、反感を覚えつつあったのだ。


「気合だ、根性だと叫ぶだけで物事が上手くいく、矢弾がマトに命中してくれるってんなら世話ぁねぇや」
黙って耐え続けてきたカイトだったが、遂に反抗の声を上げた。
この声に振り返った教官の顔にはまるで舌舐めずりしてるような笑みが浮かんでいたが、
「万州戦争を潜り抜けてきた英雄だってんなら、少しは英雄らしい言葉で技術指導をしてみろってんだ」
その後カイトの口から出てきた言葉に、その笑みは消えた。

「それとも人の殺し過ぎで真っ当な人間の言葉ってモンが、大好きなクソになってそのドタマから垂れ流されていっちまったのか? クソにして垂れられる程の良識なんか、はなっから存在してなかったのか? 善人は早死にし、本当のクソ野郎ばかりが蔓延ってる世の中だと判ってりゃ、もう少し竜宮城で乙姫様と乳繰り合ってりゃ良かっ!」
さえずり続けるカイトのどてっ腹にライオット・ワーブの右のつま先がめり込み、直後、鉄鎚の如き右拳がその顔面に叩き込まれた。
吐瀉物をまき散らしながらカイトは吹っ飛ぶ。


「わしが、何時、自分を、英雄だ、などと、言った」
聞く者の背筋を凍り付かせるような冷たさと激しい怒気を含んだ声が、職業軍人の口から漏れた。


「わしが何時自分のことを万州の英雄だなどとほざいたんだ?! 言ってみろ!!」
その場に居た生徒全員を竦み上がらせる、雷鳴の如き怒声が演習場に響き渡った。

「憶えておけ。この世に英雄なんかは存在しない。少なくとも、わしが今まで経験してきた戦場に英雄など居なかった。戦場に居るのは豚とクソだけだ! 豚はくたばった奴! クソは生きてる奴だ! 豚のなかには英雄が居る! くたばった英雄がな! だがくたばった奴らは豚として扱われることを望む。英雄として持てはやされたい等と思ったりはせん! 絶対にだ! 戦場から帰ってきた中にも英雄は居ない。居るのは敗残兵と人でなしだけだ!」
万州帰りの古参兵は鼻の穴を大きく広げて息を継ぐと、一言一言、まるで吐き捨てる様に言葉を続けた。

「わしは敗残兵だ! 英雄ではない! 勇者でもない! この世の地獄で死に損なった惨めなクソだ! 良いか?! これから先、一度でもわしを英雄だなどとほざいてみろ! そして、万州戦争に関った奴や、あそこで死んだ連中を、それがベルビア国籍であれ、それ以外の奴らであれ、少しでも持ち上げる様なクソを垂れてみろ! この世に産まれたことを後悔させてやるぞ! 貴様にも、貴様の家族にもだ!!」
そう言ってライオット・ワーブは床に蹲ってるひよっ子に凄まじい表情を向けた。
地獄の悪鬼その物と言った怖ろしい表情を、まだ成人にもなっていない子どもに向けた。

この時このサザン人の目には凄まじい悪念と殺意、そして怒りが宿っていた。
そして、それらと同じ割合で、激しい自己嫌悪と哀しみがその瞳には存在していたが、生徒でそれに気付いた者は一人も居なかった。
この短躯の叩き上げ軍人から放射されている凄まじい殺気で、生徒達は気死していたのだ。
たった一人を除いては。


床に反吐をぶちまけるのを止めて、カイトは面を上げる。
聞き捨てならない言葉に腹の痛みも顔の痛みも消え失せ、視界が真っ赤に染まっていた。
ゆっくり立ち上がりながら、象でも睨み殺せそうな眼差しを相手に向ける。
低く押し殺した声がその口から漏れた。

「両親に手ぇ出してみろ、こっちこそてめえを殺すぞ。こっちこそ、てめぇの家族を一人残らず探し出して、てめえの好きなクソ地獄に送ってやる。絶対にだ!!」

カイトもまた凄まじい顔をしていた。
怒れる魔神とも言うべき憤怒の相を浮かべ、全身から激しい怒気を吹き出させていた。


相羽カイトから相手に叩きつけられたのは、真っ赤に灼けた鉄を思わせるような熱く激しい闘気。
ライオット・ワーブから吹き出したのは、触れた者を凍てつかせる氷の様に冷たく怖ろしい殺気。
二つの意志の力が激しくぶつかり合って渦を巻き、演習場を埋め尽くす。
授業終了を知らせる鐘の音が響き、開け放たれた扉の向うからは、風に乗って生徒たちの明るい声も聞こえてくるのに、射撃演習場の中は殺気の為にあらゆる生命が死に絶えたみたいだった。

このときライオット・ワーブはカイトを本気で殺す気でいた。
カイトの方でもこのサザン人を本当に叩きつぶす積りだった。

放っておけばこの二人は本当に戦い始める。
演習場にいた全員それだけは解った。
どちらが勝つかは判らないが、血みどろの凄惨な殺し合いになるのだけは解った。
助命も請わず、降伏も認めず、相手の息の根を止めるまでお互いその手を止めないことも。
その場に居た全員それだけは確信した。
そして絶対にこの二人を止めなければならないことも。

だが二人の間に渦巻く凄まじい殺気の為に、生徒達はこの場に居るだけで、心臓を鷲掴みにされるような恐怖と圧力を感じ、身動きはおろか、呻き声一つ上げられなかった。
その間にも二人の殺気は密度を増していき、遂に臨界を突破し、互いに動こうとしたまさにその瞬間、


「ワーブ二等!!!!」


凄まじい声が轟く。
その声にライオット・ワーブから放射されていた殺気が僅かに揺らぎ、生徒達の呪縛が解けた。
即座に数名の生徒が二人の間に割って入ったことで、最悪の事態を免れることができた。

「閣下」
演習場の入り口に伍長さんが立っていた。
光線の加減で目許は判らなかったが、口元に穏やかな微笑みが浮かんでいるのは見えた。

「次の授業でここをお使いになる生徒さん達が見えられてます。そろそろ解散して上げなければ、ここに居られる生徒さんは次の授業に間に合わなくなります」
穏やかだが否とは言わせぬ力がその声には込められている。
「アントノーヴァさん、全員の的を回収し、教官室まで持っていって下さい。念の為、相羽君は保健室で診察を受けられた方が良いでしょう」
生徒達を引き剥がすと、伍長さんはカイトの手を掴んで演習場から引きずり出していった。
二人を見送って一息か二息後、ワーブ教官が苦虫を噛み潰したような表情で一言も口を利かずその場を後にした。

嵐の中心である二人が消え、射撃演習場には平和な空気が戻ってくる。
しかし、ワーブ二等と叫んだのが本当に伍長さんだったのかどうか、誰も確信を持てなかった。
伍長さんが怒鳴った所など、生徒達は誰も見たことが無かったし、想像も出来なかったからだ。

先刻までここで起きていたのは錯覚ではないか、悪戯な春の妖精が自分達に見せた白昼夢ではなかったのか。
残っていた生徒達の誰もがそう思った。


「閣下の前蹴りを食らって立ち上がれたことからも予想はしてましたが、矢張り、生半可な鍛えではありませんね、相羽君」
カイトのシャツを捲り上げ、ワーブ教官のつま先を食らった場所を触診しながら伍長さんはそう言った。
あいにく養護教諭は不在で、伍長さんがカイトの診断にあたっていた。
「ロートルに足でちょっぴり撫でられた位でへばってたんじゃ、ダンジョンで一人遊びなんかできないんでね」
カイトは憎憎しげに吐き捨てる。

今のカイトにとって、軍から派遣されてきた連中はみな敵だった。
竜園寺 菊も、ライオット・ワーブも、この老伍長も。
そもそも先週この老兵が、他の生徒達からの頼みを引き受けてる様に自分の頼みも聞いてくれてれば、散財したり、女装したり、ミュウ達に噛み付かれたりすることも無かったのだ。
カイトのなかで目の前の相手に対する本当の怒りが込みあがってくる。

伍長さんはカイトの言葉に目を丸くしていたが、いきなり喉を晒して哄笑した。
「その言い草、若い頃の閣下に生き写しですよ、相羽君」
その言葉にカイトは何とも言えない表情を浮かべる。


伍長さんは打ち身用の軟膏を腹に塗ろうとしたが、臭いがキツ過ぎ、頭が痛くなるからとカイトは断る。
「自分と閣下は、万州戦争で竜園寺准将の下で戦ってた頃からの付き合いでしてね。あちらに来た頃の閣下は今の相羽君より年上でしたが、相羽君ほど勉強は得意ではありませんでした。その代わり、頭はキミよりも回ってましたがね」
伍長さんは薬をしまうと、保冷庫から出した氷を袋に詰め、カイトに手渡した。
ライオット・ワーブの右拳はカイトの右目を捉え、目の周りが青くぷっくりと腫れ上がりつつあった。

「回り過ぎで火花も飛び散ってたんだろうね、頭から。そん時に良識やら、思い遣りやら、羞恥心やら、人として大事な何もかもがクソになって、あの口から垂れ出ていっちまったんだろう、きっと」
受け取った氷をカイトは目の周りに押し当てながら吐き捨てる。
熱を帯び始めていた患部に冷たさが心地よかった。

「……君は決して馬鹿ではないのに、血の巡りや察しが悪過ぎる所がある。その癖、口だけは良く回る。と言うか回り過ぎだと言われませんか? 口を開くよりも前に、考えを行動に移すよりも前に、人の話をちゃんと聞くようにとお父さんやお母さん、それに先生から注意されませんでしたか?」
カイトの言葉に伍長は嘆かわしげに首を左右に振り振りそう言った。

この言葉はカイトの耳に痛かった。
これまでに両親や担任になった全ての教師、そして甲斐那と刹那の二人からも指導の度ごとに繰り返し言われたことだった。

「君のご両親を引き合いに出した閣下の無礼は、私が代りに謝罪します。あれは閣下が悪いし、これまで君一人だけをマトに掛けて来たことにも問題が有り過ぎた」
伍長さんはそう言ってきっちりと頭を下げる。
しかし次に上げてきた目には静かだが、紛れもない怒りがあった。

「だが、君の言葉は万州戦争を戦った全員の尊厳を傷つけた。あの戦争を戦った中に英雄と呼ばれることを望む者は、勇者と崇められたがる者は一人もいないというのは閣下だけではない、帰還兵全員の胸にある想いだ」
やはり静かだが、隠しきれない怒りがその言葉からは感じられた。

「これだけは絶対に許せないという大事な部分は、君の心の中にもあるでしょう。触れたが最後、後は命のやり取りしか残らないという心の傷みが。君が口にした『万州戦争の英雄』という言葉は、閣下の古傷を抉る行為。決して他人が触れてはならない、心の聖域を侵すことに他ならない」
やや語調を和らげ、伍長さんは静かにカイトを諭す。
その言葉にカイトも小さく顎を引いて応えた。
しかし……

「ロクでもない戦争だったってことは判った。どうしてその戦争を生き抜いた人達が英雄と呼ばれたがらないのかは解らないけど、二度とその言葉は口にしない。それに付いて伍長さんには謝ります。だけど伍長さんの謝罪は受け容れられないし、俺もあの教官に謝る気は無い」
カイトは厳しい表情でそう言った。

「上官を庇って部下が代りに謝るのが軍のやり方や大人の知恵なのかも知れないけど、ここは軍隊じゃなく学園。そして伍長さん達も今は予備役とかなんとかで軍人じゃないんだろう、よく知らないけど。悪いことをしたんなら、本人がその悪いことをした相手に謝るのが一般社会の鉄則だ。最近はその辺りがおかしくなって来てるけど、本当はそうなんだ」
カイトはそう言って立ち上がる。

「俺はあの教官に謝る気はないし、許しを請う積りもない。口先だけの謝罪やパフォーマンスはもうウンザリだ。俺が相手の大事な部分に触れたって言うのなら、向うだってそれは同じだ。先に手を上げたのは向うで、こっちはまだ殴ってないなんて幼稚な事実関係を口にする気は無い。周りの連中が止めたから、ダメージが抜けてなかったから殴りにいけなかったってだけで、俺の中では既に何度となく相手を殴りつけていた。その辺では同罪だ、控訴も上告もしない。って言うか、もう、行き着く所まで行くしかないんだと思う。伍長さんの言葉、良く判る。本当にそうだ。命のやり取りしか残らない、触れてはいけない心の傷みって」

カイトは相手の言葉に対し、深甚な怒りを覚えると同時に、途轍もない恐怖を感じていた。
五年間の時間跳躍の結果、自分には他に帰れる場所が無い。
家族の元、両親の所にしか安らげる場所が無い。
この時カイトはそう思い込んでいた。
自分に残されたたった一つの安住の地を脅かそうとする者を。
両親を殺す、傷つけると言った敵を、カイトは絶対に許せないと思った。

だから殺す。

あの言葉は、脅しでもなんでもない、純粋な決意の表明だった。

「俺は、家族を殺すと言った相手を、いや。本来の闘争には無関係の者まで闘争の場に引きずり出して害そうとする、そんな吐き気のする、クソ以下の考えを許す気にはなれない。言葉だけであっても、絶対に!!」
カイトの言葉には深甚な怒りがこもっていた。

「手当てしてくれて有難う御座いました。授業は今まで通りのやり方で続けて行ってくれて構いません。俺は授業中の事故やら暴発には充分注意しますから、教官の方も用心する様に。そう、伝えておいて下さい」
カイトはにっこりと笑ってそう言うと、保健室を後にする。
保健室には呆気にとられた表情を浮かべている老兵だけが残された。


この日、自室でカイトが洗濯の終わったジャージを丁寧に畳んでいる時、渡されていた携帯にミハイル・ベイリュールからの連絡が入った。


今日は、王国暦五六八年四月二十七日。
軍人のなかには英雄と呼ばれるのを嫌う者も居ることを少年が知った日。
老兵が上官と少年との間に驚くほどの共通点、魂の相似を見出した日。
時計の針は午後十時を指そうとしていた。






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