ぱすてるチャイム
Another Season One More Time
菊と刀


17
a BloodStained Blue Week-Part Five




作:ティースプン





「四人が自宅から出た」
ミハイル・ベイリュールからの連絡はそれだけだった。

携帯を置くとカイトは洗面所に向う。
排便を済ますと石けんで顔や手の脂気を落とし、下着を厚手の物と取り替えた。
そして黒い顔料を顔や首筋、着衣から露出する部分に塗りたくる。
化粧を終えて部屋に戻ると、眼帯を作っておいた黒い物と交換した。

袋にしまったばかりの借り物のジャージを取り出し、カイトは軽く溜息を吐く。
手持ちの黒系統は洗濯しちまって、着れる物一枚も無しだった。
返す積りで洗濯したのが無駄になってしまうが仕方が無い。
汚したり、カギ裂きを拵えたりしないよう可能な限り気を付けよう。
二、三度、軽く頭を揺すって気分を切り替え、借り物のジャージを身に着けた。

張り込み用に準備した道具一式を詰め込んだ袋を肩に引っ掛けて窓に向う。
ベランダに出てEQシューズ、カイト・リミティッド・モデルの紐をしっかりと結んだ。
本当は靴も黒系統の物を用意したかったのだが、先週末は出費が嵩みすぎたので諦めたのである。
一階ずつ慎重にベランダを伝って下に降りる。
誰にも見られていないのを確かめると、カイトは張り込みポイントまで急いだ。

ポイントに近づくにつれ、カイトは速度を緩める。
周囲に人の気配が無いことを確認しながら少しずつ歩を進め、慎重に何時ものポイントに辿りついた。
今夜も周囲に人の気配は感じられない。
銃器保管庫の周りは静寂そのものだ。
音を立てぬよう注意し、速やかに潜伏準備に取り掛かった。


気候も完全に和らいだとはいえ、野外生活の経験が乏しいカイトには直に地面に寝転がっての張り込みはきつく、一晩で音を上げそうになった。
刑事の対話というのは、地面に奪われていく体温やそれに伴い催してくる尿意をできる限りこらえる為の、逃避行動でもあったのだ(二割ぐらいだけどな)。
環境や条件が劣悪であるのなら可能な限り快適にし、少しでも状況を改善してやる必要があるとカイトは考えた。


張り込みする場合、最低でも二人の人員(現実世界で肉体を具えてる奴がな)が必要とされる。

人は僅かな物音や些細な出来事にも気を取られ、対象から目を離してしまうときがある。
往々にして、目を離したまさにその一瞬に重大な出来事が発生したりするので、油断は絶対禁物だ。
何かを見張る場合は、常に二人以上が同時に見張っているのが望ましいのである。
それを抜きにしても排便、食事、仲間との連絡、付近に現れた不審者を尾行したりといった事態に備えるのも重要だ。

これまでは何事もなかったが、恐らく今夜は違う。
一瞬たりとも気は抜けない。
本来なら二人でこなすべき仕事をたった一人で賄う訳だから、準備は可能な限り万端にしておく必要があった。


環境支援対策としてカイトは敷き布と掛け布団を用意した。
体温低下と発見されるのを防ぐ為である。

今回の仕事は待つことではない。
あの四人が何か良からぬことをしようとしているのならば、やめさせるのが目的だ。
待つのは手段や過程に過ぎない。

また、カイトは暴力に訴えるのは極力避けたいと思っているが、止むを得ずその儀に発展する可能性は高いと考えている。
外気と地面に体温を奪われるのは身体の自由を損ない、集中力や判断力、注意力を低下させる原因にもなる。
そして明日の授業に差し支えることは絶対に避けたい。
カイトは学生であり、その学生の本分は学業だ。
ちゃんと筋は通っている。

代替わりで前の住人が寮に残していったガラクタの中から、カイトは千切れてボロボロになっていたマットレスを数枚見つけた。
それらをバラして中のクッション地を取り出すと、おキクさんの店で購入した一番安い厚手の生地で作った平べったい袋に詰めて、一枚の布団状に仕立て直す。これが敷き布。
掛け布団は打ち棄てられていた毛布を重ね合わせ、縫い合わせて作った。
虫食いや擦り切れが目立ったり、日に焼けまだら模様になっているだけで品質にはまったく問題の無いものが、数多く残されていた。
最近の舞園寮生は、衣類にしても彼女にしても、『お古』を嫌うのだと言う。
贅沢なことだとカイトは嘆息した(どちらに対してかは不明だがな)。

コイツは一人っ子だが、親戚のお兄さんやお姉さんやらの着ていた『お古』や『お下がり』を大事に着てきた経験がある。
使える物や残っている物を大事にしないのは罰が当たると躾けられてきた。
生まれつき手先は器用だし、母親からも裁縫、刺繍、編み物のやり方は教わっている。
やろうと思えば、手編みのセーターを編むことだってできるのだ(やろうと思ったりはしないがな)。

掛け布団の表地には、やはり寮に残されてた習字用の墨汁で黒く染めた毛布を使い、夜間での低視認性を実現させている。
マジックテープの使用により、表地は自由に交換可能。
雪原迷彩、森林迷彩、都市迷彩のパターンまでをも図案化し、型紙まで引いてある。
ないのは光学迷彩と電磁迷彩だけだが、今の所、実現化の目処は立っていない。

この辺りの細工をしながらカイトは感慨にふける。
一つだけでは何の役にも立たない代物を複数組み合わせることで、当座の急を凌ぐどころか、新品として生まれ変わらせる努力と根性の持ち主が俺達の頃には居たものなんだがと。


さて、汚くて思い切り馬鹿馬鹿しいと思われるかも知れないが、結構深刻で重要な話をする。
そう、トイレの問題だ。

笑ってはいけない。
糞を笑う者は糞で泣く。
都市部ではもちろん、野外での集団生活でもその辺の上下を区別しておかないと、伝染性の疾患が広まる恐れがある。
恥ずかしがってばかりはいられない。

古代に栄えた文明都市国家で、下水処理を疎かにしていたところは無い。
日本でも江戸時代に幕府が鎖国体制を敷くことのできた理由に、自給自足経済が構築されていたことが挙げられる。
そしてその自給自足を支えたのは、堆肥技術の普及によって農作物の収穫量が激増したことだと考える研究者も居るのだ。
またこの堆肥技術を発展させ、火薬の原料である硝石精製法が確立されたと考える向きまであるとも聞く。
馬鹿にしてばかりはいられない。

そういう例を抜きにしても、食った以上は出さねばならないのは、老若男女美醜貴賎の別なく、絶対だ。
汚くてあまり話したくない問題だからこそ、きっちりとした決着を付けておかなくてはならない。
排泄物処理と金の貸し借りの問題はな。
さもないと、後でとんでもないツケを払わされることになる。
疎かにしてはいけない問題なのだ。
汚物処理の問題はな。

とにかく複数で張り込むのなら別段そこまで大きな問題とはならないが、一人での張り込みでは排便がネックになってくる。
そして今回の張り込み場所の近くに使用できるトイレは無い。
ニオイや湯気、音で例の四人組や学園職員、射撃術科の連中に気付かれる恐れがあるので、 軽犯罪法違反(立ちション) で乗り切る訳にもいかない。
何らかの解決策を打ち出さなければならなかった。

カイトが最初に思いついたのは使い捨て携帯トイレだ。
だが、おキクさんの店では入荷と同時に冒険課三年の女生徒達が一パック残らず買い占めてしまうので、男どもの手元には回ってこない。
今回も在庫切れだと言われた。

成人用紙オムツという手も考えたが、流石にこれを使うのは憚られた(おキクさんの店にもコレは置いてないしな)。
プライド云々もあるが、着けてるとアレは結構音がする。
人通りというものは人が立てる音を驚くほど消し去ってくれる。
人気の絶えた夜の学園にそういう消音効果は期待できない。
しかも、今回相手は警戒心の強い小心者と、猜疑心の強い冒険者(志望)崩れだ。
気取られる可能性はコンマ一パーセントでも少なくする必要がある。
カイトはさらに智恵を絞る。

目をつけたのはペットボトルだ。
早速個室トイレで使い勝手を試してみた。
明るい場所で立って使用するぐらいならペットボトルでも別に問題は無いのだが、今回は夜間で寝転がった姿勢での使用である。
しかも、こぼさず、音も立てず、目は目標を捉えたまま手早く済ますとなると、かなりの熟練を要するのだ。
短時間での習熟は到底不可能だし、習得できても余り役に立ちそうになく、絶対自慢もできない芸である(したくもないだろうしな)。
よってペットボトルトイレ案は却下された。

次にビニールやアルロン袋、思い切って水筒や保温用マホービンを使うことも考えたが、何れもボツにされる。
ビニールやアルロンは漏れなどの辺りでは及第点を与えられるのだが、保管の難しさ(破れ易さ)で不可が付いた。
寮のガラクタ置き場に水筒類はあったが、手頃なサイズのものが無かったのでこれも廃案となる。

普通この辺で諦めそうなものだが、コイツは違った。
なにか無いか何かないかと部屋中を引っ掻きまわしていくうち、とうとう最適のアイテムを発見したのである。
必要は発明の母とは、よく言ったものだ。

カイトが見つけたアイテム。
それは非常食袋に放り込んであった、シグマドロップの缶である。

我々の世界で言えば「全部、飲んでええで、セ○子」のアレである。

ペットボトルなどと違い、コレは注ぎ口のサイズがカイトの愛息にジャストフィット。
先端部の挿入さえきっちりしておけば、ズボンや布団を汚す心配はほとんど無い。
金属製のフタに加え、魔法透明塩化ビニルのキャップまで付いているので、明かりのない所でも使用済みか否かの確認が容易だ。
実際に試してみて消音性にも問題が無いことをカイトは確認したが、念には念を入れることにした。
ナージャを拝み倒して、余っている生理用ナプキンを分けて貰ったのである(流石に男子寮には女性用生理用品は残されてなかったのだ。彼女がナプキン派で本当良かったな、カイト)。

貰ったブツを底の方に押し込み、実際に試してみた。
三回試して何れの時も、横漏れ、逆流、静音性の三つの基準で合格が出された。
(カイト) (インダストリアル) (スタンダーズ) 規格認定第一号である。

張り込みのために今回カイトが特別に用意した道具は以上の三点である。
他にはストロー付きの水筒(中身は水)。
K&K'sのキャンデーコーティングされた粒状チョコレート二袋(匂いがしないだろうとの判断によるもの)。
眠気対策にミントガムを買い求めた。

眠気覚ましにはコーヒーや紅茶が最適(インスタントコーヒーよりも紅茶の方がカフェイン含有量は多いそうである)だが、利尿作用という問題がある。
唾液の分泌活動を高めることで喉の渇きを誤魔化し、トイレ消費を抑える作戦だ。
またガムを噛むことには心拍数を抑える働きがあるというのも、この選択には盛り込まれている。
他にも『たまたま』手に入れられた道具を流用加工し、 非致死性兵器(ノン・リーサル・ウェポン) も複数点用意できた。
カイトとしてはこれらの道具は持ち出さずに済ませたいのだが、果たしてどうなるか。


カイトは布団を敷き、その上にそれぞれの道具を目的に応じて按配配置した。
水や食料、遠距離兵器はそれぞれ直ぐ手の届く上の方に、それ以外の兵器は身に着けた状態にある。
トイレは腰より下の位置、透明カバーを外してあるのが未使用だ。

配置位置確認完了後、カイトは夜空を見上げる。
痩せ細った月に雲が掛かろうとしていた。
午前零時過ぎには学園の真上に差し掛かるだろう。

(……長い夜になりそうだ……)
月に掛かる群雲が暗雲という言葉をカイトに連想させた。
不安な想いが次々と胸中に湧き起こる。
二、三度、軽く頭を揺すって気持ちを切り替えた。

頭から擬装用掛け布団を引っ被って膝立ちの状態。
掛け布団で敷布全体を覆い隠すよう、静かに寝そべっていく。
カイトは周囲に溶け込んだ。

時計の針は夜十時三十分を指そうとしていた。


虫の声が聞こえる中、視線は保管庫とその周りを漠然と捉え、カイトはぼんやりメガネとパセリの情報を思い返していた。

メガネの美少年、フレデリク・クーグバーン。
舞弦学園商業課三年。
ウェスタン人種。

大変優秀な生徒で、ここの商業課にも満点に近い成績で入ってきた。
二年に上がってからはトップの座を守り続けている。

中堅の運送会社を経営するかなり裕福な家庭に生まれ育った。
両親の他に姉と妹の五人家族。
両親の仲は円満で、家庭内の雰囲気も良好。
笑い声の絶えない明るい家庭そうだ。

父親が経営している会社も順調で、ここ四、五年で大きな上向きの成長を見せている。
六年前に亡くなった先代の後を継いだばかりの頃は、その実力を危ぶむ声が会社の内外でも聞かれたそうだが、今ではそんなことがあった事すら忘れられつつある。
王都の運送業界全体でも、父親の経営手腕が高く評価されてきているという。


パセリこと、ニコライ・ヴァシリ・ミューシキン。
舞弦学園商業課三年。
ウェスタン種とノーザン種のハーフ。

色の白い、それなりに肉付きの良いノッポの少年。
目立つ特徴としては顔中に散らばるソバカスと、ダラーンと締りのない口元。
あと、いまいち焦点が定まってなさそうに見える瞳。

彼は四人家族で、両親と弟が居る。
ウェスタン人の父は警備会社の重役を勤めており、ノーザン人の母は専業主婦、弟は来年から準学校に上がる。
父親は仕事で忙しく、また母親も弟の学園のPTA役員やら何やらで家に居ないことが多いらしい。
弟も塾やら個人学習やらで、家族全員が顔を合わせるのは月に一度有るか無いかだと言う。

商業課で下から二番目か三番目の成績で、趣味は模型作り。
手先がかなり器用らしく、美術や工作の成績だけは五段階評価の五が付いている。

身体はゴツいものの、成績とぼーっとした雰囲気から、入学当初からクラス皆のパシリにされていた。
パシリにする生徒は多いが、親しく付き合っていたのは上のフレデリク・クーグバーンだけだったと言う。
最近そこにチーターと、冒険課の御厨 七郎太が加わったらしい。
パセリと言うのもチーターが呼び出したみたいである。


以上が日曜日の夜ミハイル・ベイリュールから送られてきた資料にあった情報だ。
あいにく客の出入りが激しかった為に、コイツが目を通せたのは翌日になってからのことだ。

これらを見る限りでは、どちらにも銃器類を盗み出さなければならない理由などないように思われた。
経済的に裕福で家庭内も温か。
なんの問題もない、順風満帆な人生を送っているように見える。

カイトはフレデリク・クーグーバーンがこの件の首謀者だと睨んでいたのだが、その判断に揺らぎが生じてきた。
この情報が本当なら、彼が今回コイツが推測した様なことを計画するのはおろか、問題が囁かれている冒険課からの中途編入者と親しい付き合いをするハズがないのだ。

チーターがそそのかした、或いは脅迫するネタでも握っているという可能性もあるが、図書館でのやり取りを見る限り、そんな風でもなかった。
相手の腕っ節を恐れてへりくだってはいたが、フレデリク・クーグバーンとチーターは対等の関係にあるように見えた。
それにチーターが保管庫から銃器を盗み出すことを計画したのなら、かつての仲間を選ぶだろう。
コースは変わっても幼馴染の間柄、御近所さんの縁は切れてない七郎太の 伝手(ツテ) を使い、冒険課の生徒を集める筈だ。
荒事向きではない商業課のボンボンを現場に引きずり出すのは考えられない。

いや、なによりカイトの直感が告げているのだ。
チーターは実行や戦術面でのアドバイザーであって、それ以上の存在ではないと。
今回の件を計画したのは、フレデリク・クーグバーンだ。
しかしそれだと資料の情報と矛盾してくる。
カイトの頭の中は次第にこんがらがっていった。

カイトはミハイル・ベイリュールから送られてきた情報には全幅の信頼を寄せていたが、自分の判断には疑念を抱いていた。
そして送られてきた資料隅々に目を通した積りではあったが、一つ抜け落ちている情報があった。
資料の最後にあった「調査は継続中。何らかの発見があればその都度知らせる」という一文が。

カイトが思考の堂々巡りを続けて約三時間あまりが過ぎた頃、見張っている保管庫の向こうから、カチャンという金属音が風に乗って聞こえてきた。


情報を送ったミハイル・ベイリュールも、上がってきた報告書の中身がカイトの観察と食い違うことに疑問を抱いた。
彼は調査を専門にしている部下の探索能力よりもカイトの観察眼を信頼し、再調査を命じた。
新しい調査結果が届いたのはカイトが疑心暗鬼に囚われる少し前だ。
大至急それを伝えようと、渡しておいた携帯に連絡を入れたのだが通じなかった。
カイトが携帯を部屋に置いていった為だ。

ミハイル・ベイリュールは止むを得ず、元のルームメイトに残していった携帯に連絡を入れる。
本当は警察か、冒険課の教諭に連絡を入れるべきだったのだが、彼はそうしなかった。
彼は夢見がちにも思えるカイトの行動がどうなるか見てみたいと思ったからである。
なんとなくミハイル・ベイリュールにはカイトの想いに水を差すことが憚られたのだ。
相手は直ぐに出てくれた。

挨拶もそこそこに、ミハイル・ベイリュールは親友に要点を伝える。
間もなく四人の学生が銃器保管庫か銃を盗み出そうとしていること。
あの相羽カイトがその四人の説得を試みようとしていること。
翻意を促すのは恐らく不可能であり、暴力沙汰に発展する可能性が極めて高いこと。
四人の内二人は直ぐ暴力に訴えるタイプ。付き合いも長く連携も慣れているので、あのカイトでも一人では返り討ちに遭うことがほぼ確実であること。
そして最後にこう言った。

いま直ぐ、カイトの助っ人に行って欲しいと。

親友からの頼みに彼はただ一言「判った」と答えると、押っ取り刀で部屋から飛び出していった。

たった一人の住人が消えてがらんとした部屋の時計の針は、間もなく深夜二時を指そうとしていた。


草木も眠る丑三つ時、カイトが待ち構えている舞弦学園射撃演習場に侵入者が現れた。
工事完了なのか、それともまだ途中か。演習場の敷地は建設現場などで見られる波打った金属板で仕切られている。
警備会社の監視システムはここまで届いてなかった。
侵入者はそこから入ってきたのである。

地面を伝ってくる振動から人数は三人と判った。
もたつきは見られるものの、冒険課で最初に習う開けた場所での移動法に則った行進をしている。

腰を低くして三メートル程走り、伏せる。
そして匍匐で移動し、立ち上がって数秒駆ける。
その繰り返しだ。

前衛はチーターだった。
鼻の高さの光でそれが判った。
右手には細長い棒状の物、左手には黒い手提げ鞄を持っているのが見える。
元は剣術専攻だから右手のは恐らく木刀だろう。

おキクさんが冒険課以外の生徒に武器を売るハズはないし、同系統の武器を二つ以上買っている者には学園が、と言うかロニィ先生が抜き打ちで持ち物検査をする。
そのとき申告していた武器や防具が無くなっていると、お仕置きとしてロニィ先生の新薬の被検体にされてしまう。
武器の横流しは良い小遣い稼ぎにはなるのだが、命と引き換えにしてまでやろうという勇者は舞園には一人もいない。
その辺から足が付くのをチーターは絶対に避けるだろう。
また武器の携帯許可は手続きが面倒なうえ、認可も中々されない為、通学生のほとんどが武器を学園に置いている。
現役の冒険課生が混じってるとは言え、殺傷力の高い武器が出てくる可能性はないはずだ。

だからと言って安心はできない。
かなり腕が立つのはその動きを見ても明らかだが、備えがカイトに通じるものがあった。
黒系統の装束で全身を固めており、着衣からはみ出す部分には黒い顔料を塗りつけている。
しかもその用心は木刀(のようなもの)にまで及んでいたのだ。
他にもどんな工夫をしているか、想像するだに怖ろしい。

全体の容姿が見て取れる距離まで相手が近づいたとき、カイトの背筋を別の冷気が走る。

(体調が万全のときでも、剣の勝負ではコイツには勝てない)

一目見てカイトにはそれが判った。
目の動き、腰の座り、足の運び。
コイツは商業課で 算盤(そろばん) を弄くっている青びょうたんでは無い。
コイツは今も肉体を苛めてきている。
今でもその技を磨いてきている。
それも、竜胆憎しの一念からだ。

仲間に前進の合図を送るために振り返った際、月明かりに一瞬だけその右目(不意に備えて左目は固く閉じられている)が光った。
カイトはそこに執念の炎が宿っているのを見た。
最近妙に馴染みのある光が。

ダンジョンでミハイル・ベイリュールと言葉を交わした時、彼の目に在った輝き。
最初の徒手武術実習で、竜園寺 菊が叩きつけてきた目に燃えていた炎。
あの二人にあったのと同じ光が、このチーターと言う少年の目にはあった。

いや、正確に言えば同じではない。
あの二人の目には確かにカイトへの敵意があったが、そこには躊躇いの光も混じっていた。
自らの暴力衝動や破壊欲求がもたらす結果を恐れ、抑制しようとする憐れみや哀しみ、理性といった物が二人からは感じられた。
しかし、チーターの目にそれは無かった。
その目はドロリと濁っていて何をする気なのか見通すことはできないが、何を見据えているのかだけは判った。

竜胆への復讐。
それしか無かった。
竜胆への憎しみだけがこの少年の内には存在し、その肉と心をジリジリ焼いて、どす黒い煙を上げている。
カイトにはそんな風に見えた。
話の通じる様な相手ではないという風にも思えた。
ちゃんとした武器を、飛燕を連れてくるべきだったと。

そんな風に後悔しかけたとき、カイトの脳裏に師の言葉が蘇った。


事に於いて、後悔せず。


弐堂流の修行が始められた最初の朝、甲斐那が言った言葉だ。

人の営みは何事も選択、意思決定が為される事から始まる。
生くるべきか、死ぬべきか。
右せんか、左せんか。
戦うか、戦わないか。

初めに有りきは選択であり、それを為す己の意志である。
正しい選択が為されていれば、自ずから人は正しい結果へと至ることが、否。
誤った結果に辿りつくことなど絶対できない。
甲斐那はそう言い、また先を続けた。

目的達成に至る手段に選んだ行動、その巧拙や遅速等が結果を左右することは殆ど無い。
選択した時点で結果はすでに決まっている。
従って、選択に迷うことはある程度許されても、行動に遅疑躊躇いは許されない。
ましてや行動に未だ結果の見えていない段階で後悔を憶えるなど言語道断である。
行動に移ったならば、疑念雑念迷いの類は一切捨てよ。
私も妹も、君を弟子にすることを選んだ以上、これより粉骨砕身の覚悟、全身全霊の決意で指導にあたる所存である。
君もその覚悟をするように。


師が弟子取りに際して言った言葉は、竜園寺 菊の「戦う時は拳に情けは残さない、情けが拳に残る内は戦わない」という言葉と同じ精神を含んでいた。
カイトは弐堂流に入った最初の日に、その教えに出会っていたのだ。


目的を選び、そこに至らんとするための一歩を踏み出した以上は、結果として生じる全ての事象に対して人は責任を負わなくてはならない。
良い物であれ、悪い物であれ。
目的と手段は選べても、結果を選り好みすることは許されない。
カイトが師事することを選んだ黒尽くめの青年はそう言った。

「でも、間違いたくなくても。いや、間違った選択をしたいと思う人間なんかは居やしない。誰だって良い結果だけを、良い選択だけをしたいと思うに決まってる。けど人は間違うんだ。過ちを犯す生き物なんだ。他の人は如何あれ、俺なんかは今までにだって、いっぱい間違った選択をしてきた。これからだってしていくに決まってる。間違った選択なんてしたくないとは思っているけど、俺って頭が悪いから先を見通すことなんてできないよ」
嘆くが如くそんな異議申し立てを行なうカイトに怒りの声が上がった。


「当たり前です! 人は間違いを犯す、愚かで弱い生き物です! 間違いを犯さないのは死人と神様、それに魔王だけです! 生きていれば必ず、間違いを犯すのです! それでも生きていく以上は何某かの目的を見つけ、それに至る道を探し、行動し、結果を出し続けていかなければいけないのです! でなければ何処へも、到達することなんてできないんです!!」


カイトの嘆きに対して言葉を返したのは、甲斐那ではなく、妹の刹那だった。

それまでの刹那は無口且つ無表情。
目に映っていながらもそこには居ない、どこか異世界、 幽世(かくりよ) に住まう生き物であるかの如き印象をカイトに与えていたのだが、このときの彼女は違った。
白い頬を紅潮させ、柳眉をきっと吊り上げ憤然と怒った刹那の顔を、カイトははっきり思い出せる。
刹那が厳しく険しい表情をカイトに見せたのはこのときだけだったからだ。
兄とその不肖の弟子の頓珍漢なやり取りに微笑んだり、呆れた顔を見せる事はあっても、彼女が怒った表情をカイトに見せたのは、後にも先にも、この一回だけだった。

当時は解らなかったが、今なら解る。
あのときの刹那の声には優しい心が隠されていたのがカイトには解る様になっていた。
思うに任せぬことばかりが起きて苛立ち、怒りや侮蔑、嘲弄の言葉だけをミュウ達にぶつけられてきたから、カイトにはそれが良く解った。

ミュウ達はカイトに怒り、刹那はカイトを叱ったのだ。
誤った考えに凝り固まっている弟のようなカイトに、その無知に気付かせ、蒙を啓くために叱ったのだ。
後進を指導し、正しい方向へ導かんとする強い意志。
厳優の心が刹那の声には込められていたのだ。

しかしその時のカイトは怒鳴られたことにただ吃驚するだけだった。


「君は目的を選び、何らかの行動を採った。結果、君の前にもたらされた物に対して満足できないとしよう。さて、君はどうする?」
やはり妹の様子に驚きながらも、甲斐那が弟子に問いかける。
先程までと違い、なんとなく甲斐那にはカイトをからかってる雰囲気があった。

「どうって、受け容れるしかないって、今、甲斐那さんが言ったんじゃないか」
カイトがやや口を尖らせ気味に答える。
「そうだ。だが首尾がどうであれ、そこには、必ず、或るモノが混じっているんだが、それが何だか君には判るかい?」
甲斐那が改めて問うたが、カイトには見当もつかなかった。
軽く嘆息した後、師は答えを告げる。


「諦めるか、諦めないか。次の新しい目的を探すのか、探さないのか。敗北を認めるか、認めないか。そういった様な選択だ」


「過去の選択がもたらした過ちは、現在の意志と未来の行動でいくらでも償える。そうやって少しずつ軌道修正していけば、最後には望んだ場所に辿りつけるさ。問題は早いか遅いかだけ。そしてそれを本人が気にするか気にしないかだけだ」
そう言って甲斐那は軽く肩を竦める。
「今の俺にとって、早いか遅いかはもンの凄く気になる、切実な問題なんだけどなぁ。少なくとも来年の二月末までには、ここを卒業できるだけの強さがあるかどうかは、すっげぇ重要になってくるんだけど」

「自らの限界を知る者は賢い。『跳ぶ前に見ろ』とは確かに賢者の言だ。しかし……」
甲斐那は「先ほど言ったことに矛盾するようだが」と前置きし、次のように続けた。
「『棺を覆いて初めて定まる』。これも厳然たる事実だ。終わる前から絶対とヒトに断言できる事象など、この世にはなに一つ存在していない。そして困難から逃れるため、やりたくないことをやらずに済ますためであれば、ヒトはいくらでも『賢明な』言い訳をひねり出すことができる。そして……」
甲斐那の表情に厳しいものが浮かぶ。

「反省は非常に重要な行為だ。命短しとはいえ、ヒトは反省だけは常に続けていかなくてはならない。だが、後悔はするな。どんな結果がもたらされても、後悔だけは絶対にするな。後悔がしたければ、君に沢山の時間ができて、周りに迷惑の掛かる相手が一人も居なくなってからにしろ」

「……それって、詰まり」
カイトもやはり真剣な表情を浮かべる。
「後悔は死んでからにしなさいということですわ、もちろん」
刹那がにっこり笑って兄の言葉に注釈をつける。
そして次のように述べた。

「カイト様。カイト様は、今ご自身でも仰った通り、確かにあまり頭がよろしくないご様子。兄様も憶えの悪さを師匠からよく嘆かれておいででしたが、カイト様はその兄様以上とお見受けしました」
真正面からまじまじと見詰められ、厳粛な面持ちでこのように告げられては、カイトも何と答えて良いのか判らない。

「確かに今のカイト様は足りない物で満ち満ちておられます。様々な所で、兄様にすら劣っておられますわ。ええ、それはもう、可哀想になってくるぐらい」
哀しそうな雰囲気を漂わせ、式堂刹那は目を伏せる。
思い切り失礼なこと(何気に兄様に対してもな)を言われてるのにカイトが気付いたのは随分経ってからのことだ。
しかし彼女は直ぐに顔を上げ、とびっきりの笑顔をカイトに向けた。

「ですが、カイト様は兄様よりも、いいえ。私達よりもはるかに優れた素質を、生まれながらにして持っておられます。人の世を生き、そして闘うことを選ぶ者にとって一番大事なモノが。それがある限り大丈夫です。カイト様は必ず強く、今よりはるかに強く、私達兄妹をも超えられる力を手に入れられます。私、式堂刹那が保証致します。その可能性がカイト様にはあるということを」

昼の光に照らされながらも、刹那の笑顔は何処かしら夜の昏さと儚さを感じさせた。
だがその笑顔はたいへん明るく、力強く、この上なく誇らしげなものが込められていた。
自分の指導に当たることを非常に幸運と思い、大変名誉なことだと捉えている……そんな風にもカイトには感じられた。
しかし……

優れた素質とは何かとの問いに返されてきたのは、聞く者によっては血みどろの殴り合いに突入しかねない、とんでもない言葉だった。


「頭の悪さとそれに拠って生じる諦めの悪さ。その二つです」


この答えにはさすがのカイトも一瞬目を丸くする。
怒り出すかと思いきや、カイトは声を上げて笑い出した。
やはり自分は馬鹿にされている、からかわれているのだとカイトは思った。
同時に、成る程な、とも。
だからカイトは笑ったのだ。

カイトは笑ったが式堂兄妹は笑わなかった。
刹那は冗談を言った積りは無く、本当にカイトのこの素質を得がたい、貴重な物だと考えていた。
甲斐那も妹と全くの同意見であった。

この時までにも、またこの後も、そしてこれから先にも、様々な問題や揉め事がカイトを待ち受けていた。
その多くでカイトは過ちを犯したし、間違った選択をしたりもした。
時には、行動の途中で躊躇うという愚を犯すことさえあった。

だが真に重要な選択を求められたときには、カイトは一度も間違わなかったし、その選択に伴う行動の最中に躊躇うことも無かった。
カイトは人の根っこの部分には必ず善なるモノが、より善い状態を志向して自らを変革していける力が存在してるとの想いを捨てることだけは決して無かった。
カイトは自らの信じる理想と正義を追い求め、それらを諦めるという選択だけはどんな場合でも採らなかった。
この諦めの悪さというカイトの美徳が変わることは無く、そしてそれが有るからこそコイツの行動は周囲の人達を惹き付け、動かしていくことにも繋がっていったのである。

式堂兄妹の観察眼、いや、選択は正しかったのである。


カイトは師の言葉を思い出し、自らの弱い心を戒める。
自分はあの四人を説得し、翻意を促すために、今ここにいるのだ。
彼らの本意を確かめ、それがもたらす結果の是非を問うた上で、彼等自らの手によってその行為を正すことを促す選択をしたのだ。
威を以って行為を止めることを選んだのでは無い。
第一、今はまだ行動の途中だ。
最初の選択の結果も見ぬうちから、躊躇ったり後悔したりしてどうする。
そう自らに言い聞かせ、状況の確認を続けた。

チーターの後に続いてきたのはフレデリク・クーグバーンと、ニコライ・ヴァシリ・ミューシキン。
御厨 七郎太は塀の外に残ったようだ。
順当な、そしてカイトの予想していた通りの人員配置だった。
カイトは少しだけホッとする。
戦闘になった場合、最悪のパターンで戦うのだけは避けられたからだ。

(『後悔すること』にならなきゃ良いんだけど……ま、そんときの事はアントノーヴァさんに任せてあるから良いか)

そう胸の内で呟いて自らに微笑みかけると、カイトは立ち上がった。
そして保管庫の扉の前でしゃがみかけてる三人に声を掛ける。


「チーター、フレッド、ニコ。真夜中のお散歩か?」


そのとき雲間に隠れていた月が顔を覗かせ、カイトの黒尽くめの顔の中で白い歯が光った。
カイトのなかに迷いはすでに無かった。


いきなり後ろから声を掛けられ、フレデリク・クーグバーンは飛び上がった。
今夜の事は誰にも気付かれていないはずだった。
また、本人達は綿密だと思っている下調べでは、この時間この場所に人は居ないはずだった。
誰にも出くわさず、誰も傷つかず、誰からも疑われずに作業を終わらせられる。
彼の中ではそうなっていたのだ。

この黒尽くめの人物は何者か。
何時、誰から、自分達のことを聞いたのか。
何処まで知られているのか。
自分達をどうする積りでいるのか。
フレデリク・クーグバーンの懸念はそこに在った。


突然背後からニコと呼ばれ、ニコライ・ヴァシリ・ミューシキンは驚いた。
フレッドから今夜手伝うことを承知させられてはいたが、出来るならニコはここには来たくなかった。
学園はあまり好きな場所ではないし、それ以上にチーターとシチロータが好きではなかったからだ。
シチロータはそれ程でもないが、初めてフレッドから紹介された時からニコはチーターが嫌いだった。

ニコライ・ヴァシリ・ミューシキンは馬鹿だと思われていたし、それはある意味当たってはいたが、決して愚かな少年ではなかった。
計算や読み書きは苦手だが、手先が大変器用であり、今回もそれが為に引きずり出されたのも解っていた。
フレデリク・クーグバーンが陰では自分を馬鹿にしているのも薄々気づいていたが、それでも彼は学園で自分と口を利いてくれる唯一の友達だ。
友達が良くないことをする積りなのは解っていたが、ニコは今夜のことに手を貸すという選択をした。
学園の先生か誰かが、自分達を止めに来てくれれば良いのになぁと思いながら。


商業課の二人が目と顔色を白黒させている中、元冒険課剣術専攻のチーターはじっくりと相手を値踏みしていた。
彼だけは射撃演習場のあるこの敷地に足を踏み入れた時から、何者かの視線、気配を感じとっていた。
殺意や敵意は感じられなかったが、今まで彼が味わったことの無い、纏わり付くような妙な感じがあった。

未知なる物は敵だと思え。
これまで同様、チーターはその解釈の元、既に戦闘態勢に入っている。
攻撃に移らずにいたのは足手纏いが二人も居たこと。
それと、敵が目の前に居るこの一人だけか否かを確認する必要を感じた為だ。

見た所、この相手は自分に脅威を抱かせるだけの得物類は持ってはいない。
そして脅威を憶える程の腕でも無い。
軽く捻り潰せる。
チーターはそう考えていた。


「お前ら、家族には何て言って出てきたんだ? 勉強会? カラオケ? 深夜の映画鑑賞会? 今度の連休中に行く小旅行の打ち合わせの集まり? それとも何も言わずに、こそ〜っと抜け出してきたのか?」
カイトの問い掛けに答える者は誰もいない。
「返事無し。呪い師の婆か、お前ら。ふざけるな! もっと大声を出せ! ただし、近所迷惑にならない程度でだぞ」
カイトのおどけた口調と表情にニコライ・ミューシキンがクスクス笑い声を上げた。
「おう。ニコ。ちゃんと声が出るんじゃねえか。心配したぞ、タマを落としてんじゃないかってな」
カイトもニコニコ笑っている。
「タマは、落として、ない。ちゃんと、ある」
ニコライ・ミューシキンは憤慨した口調でそう言うと、股間を下から持ち上げてみせた。
「おう。解ってるぜ、んな事はよ。この時期は飛び交ってる花粉の所為で、そういうアホな冗談を言ってみたくなるんだよ。それで、お前は何でここに来たんだ? お前も俺と一緒か? 何かのアレルギーで徘徊したくなる時期か?」
「殺されたくないなら黙れ。俺は弱いくせに、馴れ馴れしくふざけた口を叩く野郎を見てると、ぶっ殺してやりたくなるんだ。お前もだ、パセリ。来る時に言ったことをもう忘れやがったのか? ここに入ったら口閉じて、静かにしてろ!」
黙っていたチーターが押し殺した声をあげる。

「『入る』って動詞は目的語を選ぶんだぞ。屋根や天井の付いた建物を目的語に取らない場合に使ったら罰金が取られるって、この前閣議決定されたんだ。知らないのか?」
そう言ってカイトはわざとらしく肩を竦める。
「若しかしたら、アレか、チーター。夜空を天井に見立てて、『入った』って言いてぇのか? そうすると、アレか? 俺も『暁!!! ブライアント高校』みたいに『それは比喩的表現で言ってるのかー』ってツッコまなきゃダメか? それとも」
カイトがおどけていたのはそこまでだ。
一旦言葉を切り、表情を改めると、鋼のような声でその先を続けた。

「ニコに鍵を開けさせた銃器保管庫に入った後は、って積りで言ってたのか?」
フレデリク・クーグバーンの顔色が変わったのが夜目にもはっきりと見えた。


「お前ら、一体ぇ、なに考えてんだ? そん中になんか面白いモンでも入ってると思ったのか? ゴールドのばる切りーやら「敵刺すの攻防」と言ったプレミアが付きそうなプラモだとか、新しい参考書だとか、モザイクが入る前のエロ本だとか、次の定期考査の試験の試し刷り版とか、なんかそう言ったモンとかがよ? あいにく、お前らが押し入ろうとしてる先は、そんな男達の夢とロマンにあふれたエルドラドなんかじゃねぇぞ。人殺しにしか使えない銃ってぇ名の悪夢しか詰まってない場所だ。そこんとこが本当に解ったうえで、こんな夜中にここまで繰り出してきたのか?」
カイトの問いかけにチーターが吐きすてるように言葉を返した。
「だったら? 腕ずくで止めるのか?」
「お望みならそうしてやっても良いが、こんな夜遅くに野郎のヒィヒィ泣き叫ぶ声で寮の連中を起すのは忍びないんでな。少し話がしたくて、待ってたんだ」
余裕は無いにも拘らず、カイトは余裕綽々の態度で答える。
「お前に話すことなど何も無い。引っ込んでろ」
「俺もお前が何か話してくれるとは思ってないし、わざわざ聞き出すまでもない。お前が何をしようとしてるのかは判ってる。解らないのはお前以外の三人だ。フレッド」
カイトは顔を僅かに横に向けてフレデリク・クーグバーンに話題を振ろうとした時だった。

ピシャ!

チーターが用意してきた目潰し用の墨汁をカイトの死角から浴びせかける。
大量に溶かし込まれたカラシとコショウが目に入り、猛烈な痛みがカイトの視界と思考を奪った。
思わず目を覆い、蹲るカイト。
その頭上にチーターの木刀が振り下ろされる!


「どりゃあッ!!!!!!」

威勢の良い掛け声と共に、カイトとチーターの間に得物を振り回しながら割って入る者が居た。
ミハイル・ベイリュールのパートナーだった元『弓矢』だ。
しかし……

掛け声は良かったが、武装があまりに貧弱というかナンというか……。
とにかくコイツが携えてきたのは木刀でも、練習用の剣ですら無かった……。


元『弓矢』が銃を手に寮の前に出たとき、携帯に再び連絡が入った。
「もしかして、銃を持って出て来てたりとかはしてないよね?」
ミハイル・ベイリュールは疑問形で聞いていたが、半ば以上そうではないという確信の響きがある。
「当たり前だろう! 俺の専攻は射撃術だぞ! 他に使える武器は無い。弓はおキクさんとこでカートリッジと交換したしな」
元『弓矢』は低声でがなり立てた。
「音やケガ人出すのはダメ! 銃は禁止!! 不可!!!」
「そ、そんなことを言われてもよぉ……」
「……今、寮の入り口辺り? カサ立てに何かない?」
そう言われて目をやった先には……


「そうかそうか。テメェがチーターだったか。会えて嬉しいぜ」
元『弓矢』はチーターを何か因縁の相手と目しているらしい。
「ナンだ、てめぇは。ドブサライならどっか他所でやれ」
両手でスコップを構えたマヌケにチーターは冷たく吐き捨てる。


奇襲と突撃に拠る勢いには流石のチーターも退かされた。
だが対峙した段階で新手の白兵戦能力が児戯以下であることがチーターには分かった。
この状況では、一撃をカマしたらそのまま通り過ぎ、残りの二人を取り敢えずは殴っておくべきだった。
一人で複数の敵を相手にする場合、囲まれないよう絶えず動き回りながら各個撃破を狙い、最後に一番強い相手と戦うべきだ。
しかしコイツは遠距離攻撃を得意、専門としてきたために、一番近い相手から着実に倒す、近づかれないようにするという戦法が身体に染み付いてしまっていたのだ。
ゆえに足を止めてのガチンコ勝負を挑んだのであるが……


「いいや。ここだ。ここでなきゃいけねえ。お前の言う通りだ、俺はゴミ浚いに来たんだ。チーターって名のゴミをな」
元『弓矢』は獰猛な笑みを浮かべている。
「拙い! チーター! 『アイバ』だ!」
フレデリク・クーグバーンがチーターに警告する。
「ちっ。引き上げだ!」
そう言うとチーターはスルスル相手に近づくと、非常にアッサリ、スコップを弾き飛ばす。
そして、あまりにも鮮やか過ぎる手並みに呆気に取られているアホの頭を、木刀で軽く打ち据えた。

「ぎゃ!!」
目が眩むほどの衝撃に少年は堪らず 後退(あとずさ) り、 (うずくま) っていたカイトにつまずいて、見事なまでにブザマな後方展開をやらかしてしまった。
その時、ズボンの後ろに挟んでいた彼の愛銃がチーターの目に留まる。
行きがけの駄賃とばかりに素早く抜き取り、カートリッジが装填されていることだけ確かめると、チーターは大急ぎで撤退した。

「お前、何しに来たんだよ! あっさりやられやがった上に銃まで奪われて、どの面下げてまだ生きていやがる?!」
水筒の水で目潰しを洗い流し、カイトはあまり役に立たなかった援軍に毒づいた。
だがこれには自分のヘマに対する八つ当たりが多分に含まれていた。
コイツもさっきの 助太刀(、、、) には感謝しているのだ(それなりにだけどな)。

「命の恩人に向って何て言い草だ!」
自分のことは棚に上げ、涙目で元『弓矢』は言い返す。
「元ルームメイトはチーター達を助けるように指示してきたのか?! グズグズすんな! 二人を追え! 商業課の青びょうたんに駆けっこで負けたとあっちゃ冒険課の恥だ! どういう訳か、奴ら校舎の方に逃げやがった!! 警備会社の連中が来ると話がややこしくなる!」
そう言い捨ててカイトはチーターを追って走り出そうとした。
「おい! 奴は銃を持ってったんだぞ!!」
元『弓矢』は血相を変えている。
「だから追うんだろうが!!! 絶対に二人を逃がすな!」
KIS規格認定第二号を相手の前に放り出すと、あとは脇目も振らずにカイトは駆け出した。


もたつかされている間に、チーターにはかなりの差をつけられてしまった。
夜間で光も乏しく、相手は黒装束に身を包んでいるため非常に捕捉しづらい。
距離的にも、装備的にも、捕まえるチャンスは一度しかなかった。

(背中にぶつけても、あの鍛え方じゃ弾かれて終わりだ。狙うとしたら……)

カイトは危険な賭けに打って出た。
射程距離ギリギリで足を止めると、『矢』を番え、逃げていく背中に嘲りの声をぶつける。


「やっぱりあの野郎はタマ無しだ! お前の足音を聞いたら、びびって逃げ出しやがった! 必死こいて逃げる、奴の情けねぇケツを笑ってやれよ、 竜胆(、、) !」


竜胆という言葉にチーターは思わず足を止める。
悪鬼の形相で振り返りながら奪ったばかりの銃をカイトに向けると、ためらわずに引き金を引いた!
しかし……

「ギャー!!!」

銃声は響かず、カイトの矢がチーターの鼻に命中して、濁った悲鳴が上がる。
即座に『弓』を捨てると、カイトは右腰にぶら下げていたKIS規格認定第三号を手に取った。
大きい歩幅で五、六歩間合を詰めてから、思い切り右手を振る。
鼻を押さえているチーターの右手目掛け、シュルシュルという微かな音と共に、カイトの手から何かが飛んだ。

「ギェ!!」

飛来した固い何かに手を弾かれ、その弾かれた手が更に鼻を打ち、チーターは銃を取り落とす。


カイトが竜胆の名を叫んだのは、チーターを振り向かせる為の作戦だった。
暗闇のなか、唯一目標にできる鼻のピアスを狙うため、振り向かせる必要があったのだ。
危険は認識していたがほかに手はなく、また逃がす訳にもいかなかった。
今回の事件を自分達学生のなかだけで処理し、竜胆の安全を確保するには、絶対にここで決着を着けなければならなかった。

パチンコ() で放ったのは、実習で竜園寺 菊にぶつけられていた例のゴム弾である。
大量にぶつけられたうち、四個だけ、ガメておいたのだ。
本当はもう少し欲しかったのだが、それ以上隠し持つことは出来なかった。
その内の一個をパチンコのタマに使ったのである。

その後でチーターを攻撃したKIS規格認定第三号は、鎖分銅に加工したゴム弾だ。
図書室で借りた本に載っていた写真から思いついた物だ。
鎖はジャラジャラ音がするうえ相手を怪我させる危険があったので、丈夫なヒモに変えたからヒモ分銅(ヒモ分ゴム)と言うべきだろうが。
ヒモが絡まって使えないという事態にならないよう、母から編み物を習ったときに憶えたやり方で短くたくし込んでおいた。
シュルシュルいう音は、その『縄編み』が解けていく音だ。


二度の攻撃で竜胆にやられたチーターの古傷が開いた。
鼻から溢れた血はチーターのアゴから胸元までを赤黒く染めている。
それを見てカイトは選択した。

渾身の一撃を、ヤツの鼻っ柱に叩き込む。

カイトの脳裏にあったのはそれだけだった。
相手の手から銃が落ちたと同時に、他の事や先の事などは一切考えず、突進していた。


最初、自分に突進してくる相手をチーターは木刀で迎え撃とうと考えた。
だが彼は一瞬迷った。
迫りくる敵の勢い、その揺ぎ無き信念に圧された。
その瞬間、竜胆にやられたときの恐怖が蘇ったのだ。
そしてこう思ってしまった。

(木刀では駄目だ! もっと強い武器が、誰にも負けないだけの武器が要る!)

チーターは喚き声を上げ、木刀を相手に投げつけるという無駄な、大変愚かな選択を採ってしまった。
ただしゃがんで、銃を拾うだけで本当は良かったのだ。
力み過ぎた為に木刀は明後日の方向に飛んでいきかける。
だが木刀はチーターの手首にヒモでしっかり結わえ付けられていた。
木刀に引っ張られてチーターの動きが一瞬止まる。
そして……


カイトの渾身の一撃がチーターの鼻っ柱に炸裂した。
さらに大量の血が溢れ、チーターは昏倒する。


人気の無い射撃演習場脇の広場に、カイトの吐いた深い安堵の溜息が響いた。


今日は、王国暦五六八年四月二十八日、午前二時十分。
大事な仲間を付け狙う相手との戦いには決着を着けたが、少年にとって夜が明けるのはまだ先のことだった。






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