ぱすてるチャイム Another Season One More Time 菊と刀 19 a BloodStained Blue Week-Part Seven 作:ティースプン |
次にあるのは王国暦五六八年四月二十八日付の朝刊、その一面からの一節である。 本日未明、王都に勢力を伸ばし始めていた十角会系暴力団梧桐組に警察の捜査のメスが入り、大勢の人間が逮捕された。 逮捕理由は未成年者を使っての粗悪な合成ドラッグの密売容疑、未成年者略取並びに不法監禁容疑、そして大量の武器の違法取引の現行犯である。 梧桐組は武闘派の多い十角会系の中でも特に危険人物が集まってることで知られており、組長である梧桐庸容疑者(三十五歳)はこれまで幾多の事件でその主犯と目されながら、一度として逮捕されることは無かった。 梧桐容疑者はビアンキに留学し、経済や法律、更には心理学の学位まで取得した優秀なエリートであったのだが、現地で学生運動や反政府デモに参加するようになり、それが何時しか犯罪者の道へと足を踏み入れていったと見られている。 その頃の足取りはようとして掴めていないが、三年ほど前に当時十角会と交戦状態にあった海鼻組系暴力団の幹部数名を殺害したのは彼であるとの噂が、警察や暴力団関係者の間では囁かれている。 実際に彼がこの事件に関与してたかどうかは不明だが、警察の必死の捜査にも関らずこの犯人は未だ捕まっておらず、またこの事件後海鼻組の勢力が大きく後退し、王都に於ける暴力団の勢力地図が塗り替えられることになったのは事実である。 事件直後、梧桐容疑者は当時は十角会系の一下部組織に過ぎなかった弱小暴力団二木会に幹部として招かれた。 そしてめきめき頭角を現していき、その組を任されるまでになったことは警察や我々新聞社の調査でも明らかになっている。 最近ではこの国に流れ込みつつある外国系組織との抗争を控え、梧桐組は大量の武器を手に入れようとしていたのだと言う。 警察では以前より同組織をマークしていたが、直接逮捕に結びつくだけの決定的な証拠は掴めなかった。 それがこれだけ大掛かりな一斉検挙へと繋がったのは、警察庁本庁内部で密かに結成投入されていた囮捜査員達の気の遠くなるような、地道で命懸けの捜査努力に拠るものであった。 彼らの身の安全と匿名性を守るために取材の席には現れなかったが、潜入捜査員達は梧桐組の一斉検挙に向けて数年前から王都の裏社会に身を投じて、密かに捜査活動を続けてきたという。 今回警察の中から一名の殉職者も出さず、また地元住民からも一人の犠牲者も出さずに逮捕劇を終わらせることができたのは、後方から指揮に当たっていた○○警視以下警察庁本庁の面々、所謂キャリア組と、地元警察とが互いに一致協力して容疑者逮捕に全力を注いだ成果である……。 カイト達四人はあの後、大変刺激的な体験をした。 冒険課ではモンスターとの実戦訓練は行っても、実際にニンゲン相手に命のやり取りをすることは無い。 生徒同士で模擬戦闘は行っても、真剣を用いて誰かと対峙したことは無い。 カイト達が目にしたのはそういった物だ。 同じ人間同士が武器を取って戦う、凄惨な逮捕劇の現場。 ダンジョン実習等とは違う種の命の危険がそこにはあった。 生臭くドロドロとした人間の我利や妄執、邪気悪念というものに四人は直面した。 もしカイトが前日ワーブ教官とのやり取りで、少しでも、耐性を得ていなければ、そして他の三人を叱咤し、励まし、支えてやらなかったら、ニコとフレッドだけでなく、相庭マイトも壊れていたかもしれない。 それほど激しい悪意と殺意がそこでは渦を巻いていた。 このときカイトは色々なモノを目にし、様々な事を考えさせられた。 一番大きかったことは、ヒトの本質が善ではなく、悪ではないのかという思いに囚われかけたことだ。 集まった警官隊と梧桐組の間にはそれほど激しい憎悪がぶつかり合っていた。 いや、憎悪と悪意のみが渦巻いており、理性や慈悲、正義と呼べるようなものは欠片も存在していなかった。 人の根っこの部分には善の心が存在しているのだというカイトの信念は、正直、砕けそうになっていた。 しかし…… 青山刑事が身体や顔のあちこちから血を流しながらも、最後まで戦っていた相手を見事な四方投げで床に叩き伏せた。 叩き付けられた後、その相手は青山刑事に何事かを言ったみたいだった。 その言葉に青山刑事は確かに激怒した。 彼の顔から血の気がサーっと引いた後、一気に紅潮する。 凄まじい、ワーブ教官が激怒したときと同じような、地獄の悪鬼も斯くやと言う形相になった。 彼の身体からは凄まじい勢いで殺意が吹き出していた。 青山刑事はあの相手を殺す。 カイト達はそう思った。 だが…… 「お前の知ったことか!! おれは、おれ達警察官は、悪党をふん縛って更生施設に送り込むことが仕事だ! お前らが改心し、真人間になるって希望を、諦めないのが仕事だ!! おれは! おれ達警官は! 犯罪者に! 犯罪行為その物に! ヒトに罪を犯させる心の悪魔に! 降伏することは許されんのだ!! 上の連中がお前らの殺害許可を堕そうが堕すまいが、そんなことは現場のおれ達には関係ない!! お前がこの先も悪事を重ねると言うのならやるが良い!! その度ごとにおれがお前を捕まえ、またムショにぶち込んでやる!! お前らが悪事を働くのを止めるまで! 犯罪を犯そうという心を捨てるまで! 何度でも、何度でもだ!!! 解ったか?!!」 あの相手が何を言ったのかカイトには分らない。 どれだけの克己心で青山刑事がそう言い返したのかについては想像もつかない。 しかし…… 何事も諦めさえしなければどうにかなるのではないか。 諦めてしまえば、道があったとしてもそれは無いも同じではないのか。 そう気付かされた。 そしてその直後に青山刑事がお約束の台詞をがなりたてた。 「お前達を逮捕する! お前達には黙秘権がある! これ以後の発言は記録され、裁判で証拠として採用される! 自分達の不利に働くことに付いては話さなくても良い! またお前達には弁護士を呼ぶ権利がある! 経済的理由で弁護士を雇えない場合は、地区の公選弁護人を頼む権利が認められる! 判ったかっ?!!」 青山刑事のこの言葉でカイトの長い長い夜がようやく明けた。 東の空が白みかけた頃だった。 カイトと相庭マイトの二人はウォルシュ先生と一緒に舞弦学園に帰っても良いと言われた。 しかしフレデリク・クーグバーンとニコライ・ヴァシリ・ミューシキンの二人は、先に警察に連行されていたチーターと御厨七郎太と一緒に事情聴取を受けることになり、そこで別れた。 連行される際、フレッドは周りの声に何の反応もできないほど憔悴しきっていた。 だがニコは最後カイトを振り返り、股間を持ち上げる仕草をしてみせた。 カイトは、そしてなぜか相庭マイトも、同じ仕草をニコに返してやった。 やや知恵遅れのノーザン人の少年はニッコリ二人に微笑んだ後、大人しく警察の人間に連行されていった。 二人の姿が見えなくなった後、青山刑事が三人の元にやってきた。 「銃器強奪は警察の方では不問。学園自治に委ねるという形で済ませるよう、上には掛け合います。あとドラッグ密売の件も、あの子の名前が表には出ないよう、履歴書にもできる限りシミが付かないよう、全力を尽くします。ですが、ばら撒かれたクスリの所為で大勢が犠牲になった。それは消せません。そのことはあの子にきっちり償って貰います。あの子にその辺のことを判らせるのはおれ達警察の、いや。大人の役目ですから」 「それで構いません。全てお任せします」 舞弦学園を代表してレパード・ウォルシュはそう答えた。 「しっかし……」 それまでの真剣な表情を崩し、青山刑事はいたずらっぽく笑う。 「先生って商売も大変みたいですねぇ。面倒を起すバカな生徒、その面倒に自分から突っ込んでくアホな生徒、それに引き摺られついてくマヌケな生徒。気の休まるヒマも無いでしょう」 「生徒は面倒や問題を起すものです。そうと判って選んだ道です。大変だと思ったことはありません」 ウォルシュ先生はそう胸を張って答えた。が…… 「……大変な思いをさせられるのは生徒じゃなく、もっぱら、先生の方でしてね」 そう言って深々と溜息を吐いた。 「なにやらひどく実感が篭ってるのは判りましたが、まぁ、頑張って下さい。ガキどもも、これからはちゃんと勉学に勤しんで、おれらの仕事を増やさないようにしろよ……ま、今回はそのお陰で助かったけどな」 そう言ってカイトたちに微笑みかけると青山刑事もその場から離れていった。 このときカイトは自分が警察と関り合いになることはこの先はないだろうと思っていた。 少なくとも学生の内は、『自分が警察のお世話になる』ことはないだろう、ないようにしよう、なければ良いなぁと思っていた。 また、仮になにか問題を起こしたにしても、自分が厄介になるのは少年課とか生活安全課と言われる部署の婦警さんやおまわりさんであって、刑事課勤務の青山刑事に会うことだけは無いだろうと考えていた。 だがカイトはこのさき何度も青山刑事と顔を合わせることになる。 もちろん刑事と犯人という関係ではない(もちろん?)。 別の意味でカイトは『警察のお世話になり』、また逆にカイトの方が『青山刑事、警察を、お世話する』ことになるのである。 無論、この時のカイトにそんなことなど判るはずも無かった。 学園に戻るや否や三人は冒険課主任室へ呼び出された。 待ち構えていたのは出張から帰って来た冒険課主任、ロニィ・スタインハート先生だった。 「随分と夜遊びが過ぎたようね、相羽カイト君、相庭マイト君。それにレパード・ウォルシュ君」 自分の座るマホガニーの執務机の前に三人を整列させてロニィ先生はそう言った。 「夜間に於ける無断外出。並びに持ち出しを許可されていない武器の持ち出し。学園外での戦闘行為。それらの行為に至った理由、納得の行く説明をして貰いましょう。内容如何によっては、強制退学や諭旨免職処分も有り得ます。心して答えるように」 「それで? ウォルシュ君?」 冷たい声がロニィ先生の口から漏れる。 「多少、精神的ショックは受けたかと思われますが、生徒達の身体に深刻な外傷は一切有りません。戦果に付いてですが、我々冒険課三名で、梧桐組の構成員を十五人までは仕留められたと思います」 ウォルシュ先生は大声を張り上げ、そのように報告を締めくくった。 「それが警察に侮られないだけの成果だと言えるんですか!?」 ロニィ先生の表情が非常に険しいものとなる。 「そんなことを侮られたところで、我々冒険者はなんら痛痒を感じません。自分たちは誰一人欠けることなくここに帰還し、当初の目的を完璧に達成しました。偉大な勝利だとしかご報告のしようがありません」 この返答にロニィ先生はにっこりと微笑む。 「私もそう思います。ですが、トイレの用意ぐらいは考えておくべきだったとは思いませんか? カイト君はその辺りの備えを怠りませんでしたよ。それにマイト君の駆けつけるのがあと少しでも遅れていたら、どんな結果に繋がっていたことか。それに付いては猛省するように。退室して結構です。生徒達が待っています。直ちに授業に向うように」 ロニィ先生の言葉にウォルシュ先生は顔面蒼白になりながら、失礼します、と叫んで部屋から出ていった。 「スカウト技能の授業で、前衛が戦闘不能に陥った場合に備え、複数種の武器や防具を揃えておくようにとルーブラン先生が口を酸っぱくして教えていたのに、その辺りの備えを怠りましたね」 そこまではロニィ先生は微笑んでいた。 「相庭君の家庭事情や、そこから培われた経済観念は良く判っていますが、ウチの購買にだって命のスペアは置いてないんですよ!! 命とはした金との重さを量り間違えるアホだと判っていれば、奨学金特待生には選びませんでした!! 罰として奨学金の受給資格を取り上げます!!」 凄まじい雷が落ち、相庭マイトの顔から血の気が引いた。 「……と本来なら言うところですが、仲間を見捨てずに危険に飛び込んでいったその義侠心に免じ、受給停止処分は大目に見ましょう。その代り罰として一月間、来賓用トイレを一人で清掃することを相庭マイト君には命じます。深く反省するように」 ロニィ先生は微笑んでそう言い、相庭マイトにも退出するよう命じる。 あとには相羽カイトと冒険課の主任だけが残された。 「さて、君には一体どんな罰を与えれば良いのか」 そう言ってロニィ先生は首を振った。 「最近、授業をサボり気味みたいだけど、本当にやる気はあるの?」 ロニィ先生は下からすくい上げるような感じで、カイトに冷たい視線を投げかけてくる。 「貴方はどうして逃げるの? なぜ、立ち向かおうとしないの、貴方の問題、貴方の現実に?」 授業には出ていないが、勉強をサボっているわけではない。 カイトはそう反論しようとしたが、ロニィ先生に遮られてしまう。 「クラスマイン先生、竜胆先生、ブラウゼ先生、ルーブラン先生。四人の授業に出てないことを言ってるんじゃない。彼女達と向き合うことから逃げてるって言ってるのよ。なぜあの娘たちから逃げるの? あの娘たちが嫌いなの?」 「嫌いなもんか!!」 カイトは思わず叫んでいた。 「でも、好きだとはっきり言い切れるほどでも無い。彼女達は余りにも変わり過ぎてしまった。自分はこの世界で独りぼっち。守ってくれるのは両親だけ。あんた本っ気でそう思ってるの?」 ロニィ先生の表情は今までカイトが見たことが無いぐらいに険しいものだった。 「五年前、地下迷宮に戻ることを、あの二人を助けることをあんたは選んだ! あの娘達のことは、この五年間の消失はその選択の結果でしょう!? 結果から目を背けて逃げ出すことをあんたの師匠であるあの二人は認めてるの?! あんたの言ってた中途半端を極めるってのはそういうことだったの!? 逃げ出すことを、あの四人を諦めるのを選ぶんなら、もっとはっきりとした態度で臨み、ちゃんとした言葉でそう皆に宣言しなさい!!」 ロニィ先生のこの言葉はカイトには堪えた。 「貴方が五年間の消失を気にしているのなら、ミュウちゃん、コレットちゃん、沙耶ちゃん、セレス。あの四人だってそれを気にしてるのよ! 貴方の御両親だけが悲しみ、苦しい思いをした訳じゃない。あの娘達も同じかそれ以上に苦しみ、悲しんだのよ! それ、考えたことあるの?!」 そこでロニィ・スタインハートは目を伏せ、やや表情を和らげた。 「きついことを言って御免なさい。貴方が感じてる不安や違和感は、彼女達にも責任があるわ。そして、その原因を作ったのは私達なのに」 眉間を揉み解しながら、ロニィ先生は深い溜息を吐いた。 「カイト君達の目には、あの娘たち四人が立派な大人に映ってるんでしょうけど、本当は違うわ。あの娘たちはまだ完全な大人にはなりきれていないの。大人になりきれていないあの娘たちを、私はこの学園に引き摺りだしてしまった。あの娘たちに教師であることを、大人になることを押しつけてしまった。あの娘たちはみんなその期待に非常に良く応えてくれた。本職の先生と同じかそれ以上に子どもたちの面倒を見てきてくれたわ。だから大丈夫だと、乗り越えられたと思ってた。いいえ、そう思いたかったのね。だけど、あの娘たちの心は五年前で停まったままだった。それがカイト君が帰ってきたことで、停まっていた時間が動き出した」 ロニィ先生の声には切ない物が込められている。 「ミュウちゃん達がカイト君の前でちぐはぐな行動を採ったりしてしまうのは、歪みが出てきてるからなの。あの娘たちの中では葛藤や相克が起きているのよ。教師としての意識や自覚と五年前に停められてしまった想い。そういう公私二つながらの感情がせめぎ合い、ぶつかり合っているのよ」 「あの娘たちの中にある想いを見つけださない内から逃げ出すのだけは止めて。ちゃんと向かい合ってあげて。私の尻拭いをさせてしまうけど、そうなった原因のいくらかはカイト君にもあるんだから、その分の責任だけはちゃんと取って貰わないとね」 ロニィ先生はそう言って最後に悪戯っぽく笑った。 先生は笑ったが、カイトは笑えなかった。 社会や考え方がこれだけ変わってしまったのに、ミュウ達が変わってないとは到底思えなかった。 そんなカイトの不安を看て取ったか、ロニィ先生はこう続けた。 「ヒトの本質なんて、そんな簡単には変わらないものよ。具体的な例を挙げましょうか? この前の日曜日、ある男子生徒がもの凄くおめかして繁華街にあるヤクドナットルに繰り出しました。彼の中身になにか変化はあったんでしょうか、無かったんでしょうか? ……まあ、多少の変化ぐらいはあったかも知れないわね。だけど、女装して誰かと待ち合わせをしたって、黒尽くめの格好して誰かを待ち伏せしたって、カイト君はカイト君でしょう。ミュウちゃん達だって、先生っていう服を着さされてるだけで、その中にあるのは、五年前とほとんど変わらない、あの娘たち自身よ。五年間で変化した部分は多いけど、変わっていない所もちゃんとあるわ。見つけ出そうという意識を持って、あの娘たちと向かい合って。そしてあの娘たちの想いに正直に応えて上げて」 ロニィ先生のこの言葉で今までの不安は少しだけ解消されたし、新たな心構えや物の見方といった物ができたようにもカイトには思われた。 だが別の不安が出てきた。 彼女達四人から誰か一人を選ぶという選択と、その結果への恐怖だ。 ここのカイトは精神の一部に於いて非常に未熟な所がある。 コイツは、異性との友情と恋愛感情の違いがよく判っていない、お子ちゃまなのだ。 女体への興味は有る(人一倍どころか、通常の三倍はな)。 だがこれまで一線を越えられずにきた。 そういった機会は何度かあったが、あと一歩が踏み出せずにきたのだ。 彼女たちの誰かと結ばれてしまった場合、自分はどうなってしまうのか。 相手と自分との関係や、自分と周囲、自分たちと周囲の関係が、崩れてしまうのではないか。 そんな不安があって、彼女達の誰かとそういう関係になるのを無意識の内に避けてきたのだ。 カイトは、今のぬるま湯の様な関係のなかに、ずっと浸かっていたかったのだ。 だからロニィ先生の言葉に不安を覚えたのだ。 彼女達の誰かを傷つけることに漠然とした恐怖を感じたのだ。 しかし先生はそんなカイトの不安を笑い飛ばす。 「出会った相手全てに対して誠実に応えて、誰からも恨まれず、誰一人悲しませずに付き合ったり、別れたりなんてのは不可能よ。誰かを喜ばせれば、その反対に他の誰かを悲しませる。現に今のカイト君が、五年前に貴方がした選択がそうじゃない」 「ただ、その時の自分の中の本当に正直に耳を傾ける。相手の全身全霊に対して、自分も絶体絶命で応える。それだけで充分だし、それ以上生き身の存在にできることは何も無い。そうは教わらなかった?」 そう言ってロニィ先生は優しい笑顔をカイトに向けた。 意味する所はこれと同じ言葉を、カイトは甲斐那達から授けられていた。 そしてそれを説明する言葉を今朝の逮捕の現場でカイトは思い知らされていたのである。 即ち―― 本質云々は抜きにして、話し合い等では到底解決できない程の激しい怒り、恐怖、そして深い恨みは人の間には存在するということ。 甲斐那からも、そして刹那からも聞かされていたその事実を、今朝カイトは本当の意味で理解してきたのである。 だが今の今までカイトはその言葉を、武を志す者や闘いに身を置く者が心掛けるべき覚悟として受け止めていた。 日常生活における交際関係に応用が利く教えであるとは思い付きもしなかった。 何となく、ロニィ先生は流石だとカイトは思った。 思ったのは一瞬だ。 直後、先生からとんでもない爆弾が投下されたからである。 「それにしてもカイト君って随分太い、っていうか、もンの凄い自信家なのね。自分があの娘達に振られるって可能性は、全っ然考えてないんだもの。呆れるっていうより、感心したくなっちゃうわねぇ」 腕を組んでうんうん頷くロニィ・スタインハート。 「実際の所、カイト君が今一番好きなのは誰なの? ミュウちゃん? コレットちゃん? 沙耶ちゃん? ウチのセレス?」 目をキラキラさせながらロニィ先生はカイトに詰め寄る。 今までここにあった真面目な雰囲気はどこへ行ったと詰め寄りたくなるような変わり振りだ。 「今の所、生徒のあいだで本命の呼び声が高いのはナージャちゃんだけど、彼女とは如何なの? オリエンテーリングの時からの運命の相手だって密かに囁かれてるけど?」 何処からか取り出した手帳には「●サラ3歳以上相羽カイト杯争奪レース」という物騒な文字があった。 「あと、ミハイル・ベイリュール君ともナニかあるっていうか、あって欲しいっていう腐女子の声もあるけど、こっちは大穴ってことで良いのかしら?」 サラの前の●は牝の字を塗り潰した痕らしいと、カイトは呆然とした頭で考える。 「超万馬券なのは、竜園寺 菊先生。あの先生はどう?」 他の質問には怖くて答えられないが、この質問は大丈夫だとカイトは思った。 「あんな折り目が正し過ぎる女の子はムリですよ。女の子ってのは、なんて言うか、こう……優しさとか可愛げとか、それに気安さってのか、とにかくなんかキズ、弱点が無くっちゃ。付き合っててこっちが疲れるばっかりって女の子はチョッとね」 そう言ってカイトは苦笑いを浮かべた。 そんなカイトを先生はしばらく黙って見詰めていた。 その表情には何の感情も浮かんではいない。 やがて、先生は静かにこう言った。 「……カイト君は菊ちゃんを女の子って呼ぶ、あの娘のことを本当に女の子だと思ってるのね」 「男の子も女の子も、生徒はみんな、菊ちゃんのことは竜園寺先生って呼ぶのよ。生徒だけじゃなく、先生でもそう。沙耶ちゃんだけはお嬢様とか菊様って呼んでるけど、それ以外は皆、あの娘のことは『本当に』先生って呼んでるし、思ってるんだけど」 そこでロニィ先生は大きく息を継いだ。 「あの娘を女の子として見て上げられる子がウチに一人でも居てくれて良かったわ」 そう言ってニッコリと微笑った。 それは本当に慈母の如き、優しくて美しい笑顔だった。 カイトが目にしたこの表情こそが、幾つもの顔と異名を持つ女スカウト教師、ロニィ・スタインハートの本当の顔。 普段、彼女が心の一番奥に隠している二つの本当の顔のうちの一つである、慈母の相であった。 カイトはその笑顔に見惚れていたが、先生は急にその顔を消した。 消して次のような質問をしてきた。 「カイト君。貴方、本当に、富嶽の伝承者になりたい?」 ロニィ・スタインハートの表情からはあらゆる感情が消えていた。 「私は貴方に御神刀使用の条件は判らないって言ったけど、アレは、ウソ。富嶽には無いのよ。使用する者に必要な技術や才能、種族やら人種やら先天性獲得形質とか言われるような物は一切ね。そういう類の条件は一切、富嶽には存在してないの」 虚空を見上げ、ロニィ・スタインハートは静かに語った。 そして視線をカイトに下ろして先を続ける。 「富嶽が伝承者に求める条件の幾つかを、カイト君は既に満たしてるわ。でも、もし、カイト君にとってあの刀が重すぎるのなら……」 カイトは我に返り、ロニィ先生に詰め寄った。 伝承者の資格とは何かと。 「最後まで聞きなさい。貴方が思っている以上に『アレ』は『重く』て危険なのよ。伝承者になれば、物凄く重い責任が付いてまわることになるわ。一生を絶えず何かに狙われ、戦いの日々に生涯を送ることになる。いいえ、『貴方の肉体がこの世から喪われたあとも』。それだけの覚悟、貴方に有って?」 ロニィ・スタインハートは何の感情も篭らぬ目線を教え子に向けた。 カイトはその視線に耐えられずに下を向いた。 そしてほんの暫くの間、どうすべきか考えた。 少年は答えを見出し、それを相手に伝えた。 「確かに甲斐那さんには俺に託すより外に採れる選択肢は無かった。でも俺にはあった。あのとき俺はあの刀を受け取らないって選択もできたんです。富嶽をあの場所に置いてくることだってできた。途中で何処かに放り出してくることも。だけど俺はあの刀を受け取り、受け継ぐことを選んだんです。あの刀にどんな呪いや因縁が付いてまわるのか知らないけど、『それ』も含めて受け容れるのが俺の選んだ選択がもたらす責任だと思う」 カイトが導き出した答え。 それは、御神刀伝承者を云々するよりも前に、自分は何者かということだった。 自分は弐堂流正統伝承者である式堂甲斐那と式堂刹那の教えを受けた者だ。 あの二人の教えは、自分で選択した行動の結果には自分で責任を取れ、ということだった。 弐堂流の体技が未だ身につかぬ未熟者であっても、弐堂流の心、あの二人の教えにだけは背くわけにはいかない。 カイトはそう考えた。 そしてこうも言い添えた。 「師匠の遺した正負の遺産の全てを引き受けて処理することも、弟子入りを選んだ結果のうちだと思うし。それにあの場に俺が居たのにも、俺しか居なかったってことにも、人知の及ばぬ何らかの理由と意味があるって思いたいんです」 そう言ってカイトは照れくさそうに笑う。 青年期に差し掛かろうとする少年の頃にだけ存在する純真さや純朴さ、そして力強さとが綺麗に混じり合う可愛い笑顔だった。 教え子の出した答え、否、選択にロニィ・スタインハートは目を見開く。 真っ直ぐこちらを見詰め返してくる幼気な瞳に耐えられず、思わず視線を逸らせた。 彼女は富嶽がどの様な物であるのかを良く知っていた。 先ほどカイトに告げた言葉がそれだ。 ぼかしてはある、が……あの言葉に誇張や嘘、威しは一つも無い。 それどころか、真実を知る者からは誇小表現と責められても仕方がない言い方だった。 彼女はこの学園の生徒、自分の教え子からは、富嶽伝承者を出したくなかった。 特にカイトにだけはその任に就いて欲しくなかったのだ。 ミュウ達四人への負い目も確かにそこには存在していたが、それ以上にこの相羽カイトという少年の素直さや純真さ、そして少年らしい男らしさを、彼女は愛していたのだ。 だが、だからこそ。 その様な少年だからこそ、富嶽は伝承者に選んだのだ。 それにカイトは自らの意志で選択した。 カイトが選択したのは富嶽伝承者になることではない。 師の教えに殉ずることを選んだのであり、弐堂流の遣い手になるのを諦めないことを択んだのだ。 カイトにとって富嶽は目的ではない、手段だ。 富嶽伝承者になることは、式堂甲斐那、式堂刹那の弟子たらんことを第一義に置いた、手段の一つでしか無いのだ。 相羽カイトが個人として富嶽伝承者を目指そうとするのであれば、個人また公人としてロニィ・スタインハートには口出しする権利と資格があった。 しかし舞弦学園の一生徒である相羽カイトが誰かに師事すること、誰かの教え、正しい考えに傾倒し続けることに対しては、彼女は異を唱えることができなかった。 学園で生徒を導く教師という立場にもあるロニィ・スタインハートには、口出しする権利も資格も無かったのだ。 感情を押し殺し、彼女は無表情な顔を少年に向ける。 「相羽カイト君。貴方への罰を言い渡します。『あの』富嶽を抜けるようになりなさい。期限は……今年度の貴方の最終試験の日までとします」 彼女は少年にそう言い放つ。 だがそれはロニィ・スタインハートとして彼に命じたのか、冒険課主任として生徒に告げたのか。 またその言葉を受けたのは、舞園生としての相羽カイトだったのか、富嶽伝承者候補である相羽カイトだったのか。 二人にも判らなかった。 「『抜くことだけ』を考えてるうちは、絶対、伝承者になれないわ。それがヒント。それに、『カイト君が今のまま』でも無理でしょうね」 ロニィ・スタインハートは表情を和らげ、カイトにそう告げる。 そして、もう一つだけヒントと言って続けた。 「今日から教室での授業も受けなさい。学園生活の中、人と人との交わりのなかに富嶽伝承者の鍵はあるわ。それを見つけ出しなさい。それと、今日までのところは私が裏で手を廻して、遡って図書室登園の形にしておいたから。でも今回だけよ、これから先、そういう特別扱いは無いわ」 先生はそう笑って生徒を嗜める。 そしてカイトにも退出が許可された。 カイトが冒険課主任室から出ようとした時だ。 ロニィ先生が呼び止め、こう忠告した。 「五年間の消失を、自分の幼さを気に病むのを止めろとは言わないわ、そういう意識こそが大人になっていくための一歩なんだから。自分の幼稚さや未熟さを噛み締めて、少しずつしかヒトは大人になれないの。ううん、なっちゃいけないの。無理に大人になろうとしないで。一足飛びにそこに至ろうとはしないで。そういうのは、自然自然と移り変わっていかなければならないことなのよ。無理をすれば歪みが生じて、いつか必ず破綻をきたすわ。無理矢理背伸びをして外側だけ大人になるのは、カイト君自身があの栗のお菓子みたいになっちゃうわよ。外側は立派だけど、中身はなくて、作られてる素材もまるで別物。確かに高度な技術が求められる、素晴しい芸術品だと思うわ、あの『文里』、いいえ『虚栗』ってお菓子は。だけど、そんなのは違うとカイト君は感じた。そんなのはペテンでしかないって。そういうペテンが嫌いなら、自分の内外を一致させ、周りの世界も変えていけるような存在にならないと。相羽カイト君。貴方には期待していますよ」 そう言って先生が最後に見せたのは、先ほどと同じ、慈母の相だった。 ロニィ・スタインハートは慈母の相で微笑みながら、授業に向うようカイトに命じた。 生徒を見送ってしばらくの間、ロニィ・スタインハートは迷っていた。 決断はしたが、躊躇いはある。 問題はカイト一人の生き死にだけではない。 カイトの選択を認めたということは、舞弦学園の全員を命の危険に晒すことであった為だ。 それは同時に、彼女の中に存在している、忌まわしいもう一人の自分と対面することでもある。 ロニィ・スタインハートには先ほどカイトに見せたのとは別の、もう一つの本当の顔がある。 慈母の相とは対極に位置する、冷酷無残な大量殺戮者、否。 局地的広範囲大量殺戮機械としての顔。 一国の住民全てを殺害し、その国全土を焦土と化し、その土地の家屋全てを灰燼と帰せしめることができる、破壊の権化とも言うべき無慈悲な闇の女王としての貌だ。 彼女のその貌を知る者は少ない。 見た者はことごとく彼女に殺されてきた為だ。 現在この大陸に、彼女のその闇の顔を見て生きている、いや、存在してるのは二名だけ。 彼女の夫と友人だけだ。 彼女と同じく闇の申し子であり、殺戮の愛し子であり、それと同時に純粋な狂気と恐怖がこの世に誕生させた、忌まわしき恐怖の鬼子達である。 彼女達三体の殺戮兵器はやがてこの学園に集う。 この学園を呑みこもうとする戦火の嵐を食い止めるためである。 全ては御神刀富嶽にある。 富嶽を狙う者がこの学園に大量の軍勢を差し向けるのである。 彼女達三人はその軍勢と戦う為に、子ども達を守る為に凄惨な殺戮の宴を繰り広げるのである。 それは相羽カイトの最終試験が行われる日の深夜から早朝に掛けてのことだ。 その日、霏々と降る雪に白く覆われていた舞弦学園は、戦火の緋と血の赤に染まることになる。 大勢の敵が討ち果たされるが、冒険課からも少なからぬ犠牲者が出ることになるのである。 舞弦学園冒険課主任ロニィ・スタインハートはその可能性を知りつつも、生徒の選択を認めることにした。 夫と友人は強く反対していたが、彼女は生徒を信じる決意をした。 彼女自身本当は迷っていたが、ここにきて生徒を見守っていく覚悟を固めた。 相羽カイトの持つ可能性を信じること、また生徒の意志を尊重することを、ロニィ・スタインハートは選択したのである。 二、三度、軽く頭を揺すって気持ちを切り替えると、彼女は固定伝話に手を伸ばした。 そして、のらりくらりと引き伸ばしを続けてきた、軍側の人事を承認する旨を相手に伝える。 そこまでの彼女は公人、或いは冒険課の主任としての顔を浮かべていた。 しかし携帯でメールを送信するロニィ・スタインハートの顔に浮かんでいたのは私人としての……。 いや、痴人としての顔だった。 タチの悪いイタズラを思い付くと必ず浮かべる、邪気が一切感じられない、澄み切った笑顔だった。 カイトの三限目と四限目の授業は徒手武術実習だった。 授業のテーマはまだ「上下相随」に置かれている。 授業の進行もこれまで通りだ。 生徒たちに約束組手を行わせ、その周りを竜園寺先生が巡回しながら指導というか、不意打ちを食らわせていく。 この間までのサングラスと防塵マスクはやめ、今日は小さくて白い素顔を晒している。 そして例のゴム弾も在庫切れなのか、直接生徒に手や足を出すと言う、最初のスタイルに戻っていた。 竜園寺先生がカイト達の組にまで来たときである。 カイトと相手の動きにおかしな所や、偏りがないかを確かめた後、先生はそのまま次の組に移ろうとした。 だが、またしても彼女の身体が軽やかな円舞を舞い、上段右後ろ回し蹴りがカイトのこめかみを襲う。 技の途中にあったカイトは無理矢理その動きを止めた。 相手の目を軽く指先で弾いて視界を奪い、暫くのあいだ無力化すると、少女の後ろ回し蹴り目掛け、右の上段回し蹴りをぶつけにいった。 技の練度は兎も角として、体格や筋力はカイトの方が上だ。 それに竜園寺 菊は反撃がくるとは思ってもいなかった(軍隊では絶対に有りえない)ために体勢を崩した。 更にカイトはそこへ追い討ちを掛ける。 戻す足をそのまま後掃腿に変化させ、少女の軸足を払ったのである。 竜園寺 菊の身体が武術場の床に転がった。 「現場では……」 呆然と天井を眺めている少女に向かってカイトが口を開いた。 そこで思い入れたっぷりに一旦言葉を区切ってから、同じ言葉を重ねる。 「現場では、降りかかる状況に自分たちの攻撃によって無力化できる肉が備わってるなら、迎撃もアリ。それが俺達冒険者の流儀なんですが、そういう解釈は軍隊ではしないんですか? 悪意的状況は、首をすっこめてやり過ごすだけにしましょう。噛み付きや急所攻撃、髪を引っ張ったりしてはいけません。悪態を突くのだけは承認します。そういう取り決めがあるんですか、軍隊が向う先では?」 「なるほど。一本取られました。ですが、良いんですか? 無力化した相手をそのままにしておいても?」 竜園寺 菊は降参だという自嘲めいた笑みを口許に浮かべていた。 そしてカイトの背後に顎をしゃくる。 カイトはそれに引っ掛かった。 相手の意識が自分から逸れるや否や少女は足を閃かせてカイトの足を払った。 愚かマラの身体が宙を舞い、頭から畳の上に転がった。 足を跳ねる勢いそのままに、少女は一挙動で飛び起き…… ズシンッ! 畳を踏みしめる音が響いた。 立ちなおると同時に竜園寺 菊は武術場の床――カイトの頭をかすめてギリギリ横を、全体重を掛けて踏みつけたのだ。 そして鋭い眼差しを少しも外さず、襟元の乱れを直しながら冷たく吐き捨てる。 「戦場での流儀は殺られる前に殺れ、です。戦場に立つ者は、口を開くよりも先ず、目の前の敵を倒さなければなりません。その敵を前にさえずったり、舌なめずりをしたり。三流以下のすることです。深く反省しなさい」 不意は打たれたが、足払いは二回目。 経験が活きて受身を取るのには成功し、ブザマにも意識を失うことだけは回避できたが…そこまでだった。 勝者を見上げながらカイトは、自らのマヌケと、今回の敗北とを、苦い思いで噛み締めていた。 「……ですが」 やや目元を和らげると竜園寺 菊はカイトの戦術を次のように評価する。 「先ほどの攻撃は見事でした。上段回し蹴りはまだまだですけど、瞬時に応用変化へ移行した判断力と決断力には恐れ入りました。先ほどのは、この竜園寺 菊の負けです」 カイトの掌を掴んで引き起す途中、少女は鼻にシワを寄せて、顔を顰めた。 「その眼帯は一体どうしましたか? それに煙草と酒精類の臭いが貴方の身体からは立ち上っています。それに付いての釈明はありますか?」 「眼帯は意見の食い違いから偏平足のガニマタに踏まれたとき拵えたモノです。酒と煙草の臭いは、チョッと危険な夜の外出先で嗜んできた残り香です」 生徒が仏頂面で返してきた答えにしばらく思案した後、竜園寺先生は武術場全体を見回してこう宣言する。 「しばらくこの場を離れます。自分たちで今までのおさらいをしておくように」 そしてカイトにはこう命じた。 「付いて来るように」と。 彼女がカイトを連れて向った先は男子生徒用のシャワー室だった。 竜園寺先生は髪と身体を洗うよう生徒に命じた。 「あの……」 カイトは躊躇いがちに『目の前の』少女に呼びかける。 「何です? 早くなさい」 竜園寺先生は少々イライラを含んだ声で答える。 生徒が動こうという素振りすら見せないからだ。 「そこでそうしてられると、服を脱げないんですけど」 カイトははっきりと自らの懸念を述べた。 「? これだけ広ければ服ぐらい脱げるでしょう。なぜ、そのような見え透いた嘘を吐くんです?」 呆れたという口調で少女がたずね返す。 「外に出てて下さい!!」 話の通じない相手にカイトは苛立って怒鳴った。 「如何してです?!」 竜園寺 菊も怒って応じる。 「恥ずかしいからです!! そもそも男が、いや、異性が服脱いだり風呂に入ったりするって時に、そのすぐ側で観察しようって考え自体おかしいんです!!」 そう怒鳴るカイトの脳裏には、日曜日のナージャ・アントノーヴァの姿があった。 下着だけの姿にさせられたカイトを見てニヤニヤ笑っているノーザン人美少女が。 「軍では拘禁された者には、排便や入浴する際にも、監視が付きます」 「ここは学園だ!!」 「そしてわたくしは貴方の先生です。口答えは許さないと最初に言った筈です。それに貴方はわたくしに二度も殺されているのですよ。先刻ので最初の借りは返せたとしても、次の瞬間、死体に逆戻りしたんです。解ったら文句を言わず、さっさと行動しなさい!!」 この最後通牒にはカイトも降伏せざるを得なかった。 弱肉強食。 勝者は敗者の自由を奪うことができる。 冒険者でも軍人でも、その規則は変わらないのだ。 カイトが髪を洗っているときだった。 後ろから「この間は……」と、とてもとても小さな声が聞こえてきた。 振り返ると、シャワーブースの直ぐ外、水跳ねの掛からぬ位置に竜園寺 菊の小さな背中が見えた。 この少女なりにプライバシー保護やセクハラ行為をしないよう気遣ってるらしい。 カイトはシャワーの水量をしぼり、耳をすませる。 「この間はやり過ぎました。ご免なさい。わたくしも深く反省しています」 後ろ向きのまま少女は続ける。 「あの頃は身体中に発疹が出ていた時期で……。その、最近の建築物には、シックハウスとかシックスクールとかいうアレルギー症状を引き起こす物質が飛び交っているらしく、それでイライラしやすくなっていたらしくて。そうじゃなくても、わたくしは、月の半ば頃から終わりに掛けては、その……気が、立ってしまうから。あの、兎に角、御免なさい」 どこかで聞いたような言葉だなぁと思っていたら、授業が開始された日にミュウが口にした謝罪の言葉とそっくりであることにカイトは気付いた。 ミュウは月初めで、竜園寺 菊は月の中旬から下旬に掛けてが周期らしい。 それはさておき…… 「へ? あ、ああ。そうですか。判りました、その、謝罪、ですか? それを受け容れます」 随分しおらしく少女が謝ってきたことに面食らいつつも、カイトはそれを受け容れた。 「……それだけ、ですか? なにか賠償請求や被害補償の要求とかは?」 竜園寺 菊は本当に驚いている。 彼女自身やり過ぎたなぁと後悔するぐらい、テッテーテキに、痛めつけたのだから、何事かの要求があるだろうと構えていたのだ。 ゆえに相手が本気かどうかを思わず確かめていた。 「? 別になにも。俺はまだ生きてる、じゃない、生きてますし、稽古や訓練だからって気を抜いたり、油断したりしてケガするのは、誰でもない、本人のマヌケが原因で他人を訴えるのは筋違いだっていうのが冒険課の考えですから」 その辺を盾にタチの悪いイタズラをしてくるピンク色の髪をした先生とかが居るし、とはカイトの口の中だけの呟きで、少女の耳には届かなかった。 「それに、長生きしたければ女性が謝ってきたときは黙って受け容れ、女性が泣いたり怒ったりした場合は、自分に憶えや責任が無くても、取り敢えず謝っておくようにと」 この言葉に竜園寺 菊がカイトの方を振り返る。 思わずカイトは前を隠す。 「師のお二人から言われたんですか?!」 少女は心底からの驚愕を面に浮かべていた。 「はあ。大抵の場合はそれで上手くいくと、あの、何か?」 彼女の顔に微笑みが広がっていくのをカイトはいぶかしむ。 「いえ。素晴しい方々ですね。是非一度お会いして、武術や戦術、戦略談義、それに人としての存り方に就いて等のお話しをお伺いしたいと思っただけです。今、その方々はどちらで、何をされてますか?」 彼女の明るい問い掛けに、カイトはやや表情を暗めて答えた。 「もうこの世には居ません」 「……すみません。不用意に、不躾なことを訊いたりして」 竜園寺 菊も視線を伏せてそう答えた。 「あの、できれば後ろを向いてもらった上で、俺の質問にも答えて頂きたいんですが」 後ろを向きながら可能な内容であればと少女は言った。 「俺は鶏行歩での百周はできなかった筈です。なのにどうして懲罰終了って扱いになったのか。ぶっ倒れたからって、相手を許してやるほど甘かぁないでしょう、りゅーえんじせんせーは?」 カイトはこの間から気になっていたことを尋ねた。 「随分と失礼な物言い且つ語調に気になる点がありましたが……まあ、良いでしょう。相変わらず、正確な分析ですね。そうです。貴方は百周できませんでした。ですが、錘を外していればどうにかなったかも知れません。先ずはその辺りの見込み点を考慮しました」 カイトはそれで納得しかけたが、少女にはまだ続きがあった。 「それでも足りない分については、貴方の仲間、ナージャ・アントノーヴァ他二名が代走を申しでたのです」 「……そ、う、ですか」 少しヘコみながらカイトは、あれから数日、彼女たちが身体中を痛そうにしてたのを思い出す。 「ですが、女性に尻拭いさせるというのは情けないですね。これから先、そういうことが無いよう、ビシビシ、鍛えてあげましょう。異論は有りませんね?」 その言葉に一瞬呆気に取られたものの、ニヤッと悪戯っぽい笑みを浮かべてカイトもこう返した。 「……不束者ですが、よろしくお願いします、『竜園寺先生』」 「バ、馬鹿ですか、貴方は?! それは女性が輿入れの際に使う言葉です!!」 「ジェンダーフリーのこの時代、そう言う発言はセクハラですよ、りゅーえんじせんせー」 「わたくしの授業に於いては、それこそ、強い者こそが正義です。貴方の口にする背苦腹とか言うお題目をわたくしの授業中に広めたければ、このわたくしを倒してから謡いなさい」 「……着替えや、その目の周りの痣をどうにかする薬を取ってきます。貴方は大丈夫だとは思いますが、風邪を引かないように」 馬鹿に散々からかい尽くされて疲れた竜園寺先生は戦術的撤退を選択する。 引き揚げていく竜園寺先生を見てカイトは勝ったと思った。 また意外に竜園寺先生にはガキっぽい所があって可愛い、いや、イジリ甲斐が有るぞ、とも。 そう言うアホで暢気なことをカイトが考えているすきにも、着々と包囲網は狭められつつあった。 シャワーを終えたカイトは脱衣場に足を踏み入れた。 「そ〜れ〜!!」 聞き覚えのある、間延びした声が頭上でした。 はっと見上げるよりさきに視界が闇に閉ざされる。 周囲から伸びてきた手に体中を拘束され、カイトはもみくちゃにされた。 「さて、これで判ったかしら? 『キョウコさん』は存在すれども実在はしないってことが」 ロニィ先生が獲物を四人の前に据えた。 四人とは舞弦学園冒険課、花鳥風月である。 獲物とは『物凄くおめかしさせられた』カイトである。 ミュウ達は唖然とした表情を浮かべ、目の前の『キョウコさん』なる『美女』を見詰めていたが………………そのうち、誰からともなく、腹を抱えて笑いだした。 笑い転げるミュウ達にカイトは呆然とした表情を浮かべている。 そんなカイトにロニィ先生が耳元で囁いた、「竜園寺先生はこの間の事を謝罪したのね?」と。 「菊ちゃん、本当は適当なところでカイト君に鶏行歩を切り上げさせる積りで巡視してたんだけど……聞いたでしょ? 色々と体調不良と心労とが重なって倒れちゃったのよ」 竜園寺先生はかなりの出血に見舞われ、保健室で倒れてたらしい。 念のため彼女は武術場を使う教官連中に申し送りをしたのだが、された側はいい加減にしか聞いておらず、まったく注意を払わなかった。 それで発見が遅れ、対応が後手に回ったのだと。 そう説明を受け、さらにロニィ先生から語られた次の事実にカイトは仰天する。 「カイト君が保健室に運ばれたと聞いた時、この娘達が駆けつけて、それはもう、えらい騒ぎになったのよ」 ミュウは必死でカイトに神術を掛け、コレットはそのバックアップ。 竜胆は相手が自分の主筋に当たる家のお嬢様ということも忘れ(そして自分のことも棚に上げて)、物凄い剣幕で菊に当り散らし、セレスは法律用語を並べたて自分よりも年下の少女を責めたてたのだそうだ(寒気のする薄ら笑いを湛えた上で、メガネ全面を不気味に光らせるというエフェクト付でな)。 そういう事もあり、また自らの非を認めた彼女はカイトに謝ろうとしていたのだが、言い出す機会が見付けられなかったらしい。 ロニィ先生や(脅し過ぎたことに気付いた)竜胆やセレス、それにミュウ達も仲介役を申し出たのだが、竜園寺先生はその申し出を断った。 自分一人で謝るからと、その辺りのことはカイトの耳には入れないで欲しいと、先生たちにもあの場にいた生徒達にも頼み込んでいたのだ。 きつい目で睨んでいたというのはコイツの思い込みで、彼女としては話しかけるタイミングを計っていただけなのだそうだ。 そう説明した後、ロニィ先生は更に驚愕の事実をカイトに告げた。 『キョウコさん』の噂を拡大して学園中に広め、ミュウ達に信じ込ませたのはロニィ先生だったのだ(気付けよ……)。 そしてその理由も説明する。 「面白そうだったっていうのも『少しは』あるけど、菊ちゃんのアレルギーが心配だから学園中に応急処置を施すことにしたのよ。本格的な工事は連休本番中になるけどね。それで子ども達が邪魔だったから、カイト君に連れ出して貰おうと思って」 その言葉に怒りの声を上げかけるカイトを、ロニィ先生はこう言って制した。 女性問題で騒がれてる生徒が銃の強奪を阻止しようとしてるなんて、誰も考えないだろうから、いいカモフラージュになったでしょうと。 「そうそう。張り込みのお礼、あの子達四人の命を救ってくれたお礼を言うの忘れてたわ」 ロニィ先生が何を言ってるのか、最初カイトには良く解らなかった。 「カイト君は気付いてないけど、あの銃器保管庫にはちゃんと そこで一旦言葉を切った後、ロニィ先生は後頭部を掻きながら平坦な声で続けた。 「手を出してたらあの子達はみんな殺されてたわ。今日は全園挙げてお葬式の準備で大忙しになってたでしょう。そういったこと全部含めて、カイト君には感謝してるわ。本当にありがとう」 「で、今のあの娘達を見てどう? 五年前と違ってるように見えるかしら?」 ロニィ先生に促されて改めて見るミュウ達は五年前とどこも、何も変わってない風にカイトには思えた。 でも、やっぱり何かが違ってるようにも感じられた。 「本当は何も違ってない、変わってもいない。そんな風に見えるのは、あの娘たち四人が成長した部分。ミュウちゃん達が成長しよう、成長させようと選択した部分よ」 そう言ってロニィ先生は軽くカイトの頭を叩く。 「『男子三日会わざれば、刮目して見よ』。ジェンダーフリーの今の世の中そんなこと言うのはセクハラだけど、そういう事よ。解った?」 そう言われてカイトが見たミュウ達の笑顔は、五年前と少しも変わらない何の隔意も邪念も無い、明るい清清しさに満ちた笑顔だった。 自分の中で彼女達四人に感じていた不信や違和感が取りはらわれるのをカイトは感じた。 これからさき、彼女達を信じられなくなることは何度でもあるだろう。 それでも人間の根っこには善なる部分があると自分は信じてるのだから。 ミュウ達が自分に見せてくれてる、綺麗な笑顔を生みだすものがそこには存ると、はっきり分かったのだから。 一度や二度の行き違いぐらいで、彼女達を疑ったりはするまい。 人の善性、人の中に存る良い方向へ変わろうとする意志を信じることだけは諦めたりするまい。 カイトはそう思った。 やっぱり、ロニィ先生は流石だと思った。 さて、これで終われば話もそこそこ綺麗なのだがそうは行かない。 ロニィ先生の悪戯はこの先に在ったのだ。 カイトの『おめかしした姿』はキッチリ写真に納められ、学園中にばら撒かれたのである。 超極短期間ではあったが、園内はその美人の写真で持ちきりになった。 その話題が出る度に、カイトが落ち着かない様子になることが話題になった。 またカイト絡みで恋愛相談を持ち掛けられる花鳥風月の四人が、やたらと愉快そうな思い出し笑いをすることも噂になった。 しかし『キョウコさん』の正体に気付いた者は園内の生徒には二人しか居なかった(彼女と、それに「彼女」だ、勿論な)。 そして四人の女教諭補助の思い出し笑いがその『キョウコさん』に起因するのだと気付いた生徒も居なかった。 この後、大きな事件が何もなければ、『キョウコさん』の話題も、もう少し、鮮度を保ちつづけたかもしれない。 また写真がばら撒かれたのが大型連休後であったなら、誰か一人ぐらいは『彼女の正体』に気付けたかもしれない。 そのことが今後のカイトの選択に大きく貢献したかもしれない。 或いは悪い方へ影響したかもしれない。 それは誰にも判らない。 だが相羽カイトの名誉に限って言えば、間違いなく幸いなことに、この『キョウコさんフィーバー』はこの後直ぐに終焉を迎えるのである。 まもなく『キョウコさん』以上の美人がこの学園に降臨するからである。 その人物の出現を以って『キョウコさん熱』は一気に鎮静化を迎えるのである。 今日は、王国暦五六八年四月二十八日。 大型連休を明日に控えて落ち着かない生徒らを相手に教師達が悪戦苦闘していた日。 そのお昼前、男子シャワー室に繋がる男子更衣室でのことだった。 |
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