ぱすてるチャイム Another Season One More Time 菊と刀 20 地固まりて…… 作:ティースプン |
「朝からもそうだけど、いったいなにスネてんだよ、気ぃ悪いねぇ。こんな美人とドライブできて、嬉しくないのかい?」 こちらに口を開くどころか、目すら向けようとしない同乗者に竜胆沙耶は不機嫌そうな声を発した。 場所は彼女の運転する軽の魔法自動車。 時は大型連休最終日、もうすぐ昼になろうかという頃である。 連休にも関わらず、竜胆はクラブやら剣術科やら生活指導の仕事やらで学園内外を飛び回されていた。 知人からの頼みを片付けるのは、絶対この日にするぞ! とばかりに、普段以上に張り切って仕事をかたづけてきてたのだが……昨夜、ま〜た一件、予定外の仕事が飛び込んできちまいやがったのである。 タガの外れた 竜胆の頼まれた仕事とは、助手席に座る人物をその知人の許に連れていくことだ。 出先から拾いに戻ってくるのはタイムロスになる。燃料代もバカにならない。 なにより相手に逃亡の怖れがあるというのが大変懸念された。 だから、仕方なく、仕事先にも連れていくことにしたのである。 「…… 竜胆沙耶の同乗者、相羽カイトがぼそりと呟く。 口調だけでなく、その表情もかなり拗ね気味だった。 「ああ。良く働いてくれたってミュウも言ってたな。でも、こき使われたって表現はどんなもんかねぇ」 そのときの様子を楽しそうに話していた同僚の笑顔を思い出し、竜胆も口許を綻ばせている。 「あれをこき使うって言わなきゃ、どんなのをこき使うって言うんだ?!」 カイトがやや憤慨気味の声を上げた。 「自分んちの花壇の手入れは、家人の仕事だろう。まさか、病弱な母親や徹夜明けで疲れている父親に、そんな力仕事させる気かい?」 少々呆れたという感じの竜胆の声。 常識で考えれば理は竜胆の側にある。 カイトはそっぽを向いて話題を変えた。 「一昨日は、セレスに引っ張りまわされて、美術館のはしごだ」 芸術作品を鑑賞する趣味も眼も頭も無いカイトにとって、抽象絵画の鑑賞は拷問だと言える(『画題』にも選るけどな)。 「美術部員の義務だろう」 かなり呆れたという感じの竜胆の答え。 「俺は名前を貸すだけで良いって話だったんだ!」 「ああ。毎年そういうのでセレスに引っ掛かって美術部にヤラれるのが居るらしいんだ。去年はヌードデッサンをエサに男子生徒が百人近く被害に遭ってたな」 憤慨する生徒に、しかし竜胆はエゲつない現実を返して寄こす。 カイトはギョッとした表情でマジマジと相手を見つめた。 「フタを開けたら、あらビックリ。デッサンするのは女子部員の仕事で、モデルをするのはその新しく入った男子部員どもの役。 ヌードって言葉に脂下がってた顔は一気に真っ青。ヌーっと伸ばしてた鼻の下にダラーって鼻水垂らしながら泣くわ、ワメくわ、ツバ飛ばすわの大騒ぎでさぁ」 そんなカイトの様子も知らずに竜胆は心底愉快そうな口調で先を続ける。 「学園側に訴えたけど、 竜胆はかなり羨ましそうだった。 「まあ、入ったザッカのうち、半分はロニィ先生への上納金になったけど、美術部はかなり潤ったみたいでね。最高級の画材や絵の具を手に入れて、本職のモデルに指導員まで雇うことができて、コンクールでも上位入選者を出せたら……」 「 真っ青な顔でガタガタ震えているカイトに気付いて竜胆は道路わきに車を停めた。 そして心底心配そうな表情でマジマジと生徒を見詰める。 「気をつけた方が良いよ。上手い儲け話があるとか言ってサギ持ち掛けてくんのは、大抵の場合、疎遠になってた親友ってのが相場らしいからね」 「昨日、俺は、もう少しのところで、絶叫マシーンマニアをこの手に掛けてしまうところだった」 そう言ってカイトはじっと自らの両手を見詰めた。 「逆だろ、相羽の方が死ぬとこだったんだろう? それに、元はと言えば自業自得。逃げようとした相羽が悪い。 っていうか、あたしらに手ぇ上げるってーか、あたしらの機嫌を損ねたらどうなるか……忘れちゃいないよねぇ?」 そう言って竜胆はニヤニヤ笑いを浮かべる。 「そこまで判ってて俺がにこやかな笑顔を浮かべられると本気で思ってんのかよ?!!!」 カイトの悲憤が狭い車内に響き渡った。 大型連休をカイトは忙しく過ごす、いや、過ごさせられることになった。 一日たりとも自分の好きなようには使えなかった。 いや。一日目、二十九日だけはそうでもない。 この日だけはコイツの好きに使うことができた。 よって、コイツは仕事を片付けることにした。 沢山のかぎ裂きをこしらえてしまった借り物のジャージを修繕することにしたのだ。 洗濯してタバコの臭いや汚れなどを洗い流すと、施されていたチャチな繕い仕事を全部ほどき、穴や裂けてしまった部分、これからヘタっていきそうな箇所に裏から黒い丈夫な布を当てて、やはり丈夫な黒い糸で綺麗に修繕し、持ち主である相庭マイトに返した。 「ここまでボロボロにしといて、新しいのを買って返すって発想はなかったのかよ。ったく、常識ってモンを知らねぇアホウだ」 そう言いながらジャージを受け取る相庭マイトの表情は何処と無く嬉しそうだった。 手先は不器用でも、物を大事にするタイプらしい。 「新品だったってんならまだしも、はじめから穴だらけのボロキレにカネなんか掛けられるか、このヴォケ」 礼を言わねばならぬところを、コイツも憎まれ口を叩いて返す。 「けっ。それだけ無礼なこと抜かすんなら、利子付けて返せ、利子」 マイトのこれは買い言葉の類ではあったが、本音も、かなりの量、混じっていた。 奨学金特待生というのは能力に経済力が反比例している場合が多い。 ナージャもそうだし、この相庭マイトもそうだった。 このあとチョッとしたやり取りが行われたのだが、その辺の説明はまたの機会に廻させて頂く。 まあ、この日はこれで良かった。 二日挟んだ五月二日の日曜早朝、カイトはミュウに叩き起こされ、何の説明もされないまま部屋から引きずり出された。 クラブの遠征やら遠出やらで学園前バス停で 家庭訪問と三者面談の前倒しだと。 朝食はミュウがおにぎりを用意してくれていた。 交通機関はどれも行楽地にむかう家族連れや観光客であふれ返っていたが、カイトに気付いた者は誰も居なかった。 いま社会は舞弦学園の浦島太郎やそこで試験的に導入された新型カリキュラムへの興味をうしない、梧桐組壊滅に寄与したおとり捜査の合法化と、その是非について関心を寄せていたのだ。 そして、少年法の適用年齢を現行の一八歳から一二歳にまで引き下げるべきか否かに注目は移っていた。 あの朝でチーターとフレデリク・クーグバーンの事件はカイトの手を離れた。 フレッドが元締めを勤めていたという違法ドラッグの密売組織は、彼が観念して全て自供したためにメンバー全員が昼までに逮捕され、その日の内に少年院送致の判決が下された。 フレッドは仲間の実名リストにそれぞれの売り上げ成績。そして何月何日の何時ごろ、どの辺りで、どんな客に売れたのかを克明に記録していた。 この記録と警察が集めていた証拠と付き合せた結果、彼等の量刑がそれだけの早さで決められたのである。 彼ら(全員が未成年だった)は実名報道だけは避けられ、さらに製造から販売まで、すべて梧桐組の指示で行われていたことにされた。 しかし―― 真相を知る麻薬課からは非難の声が上がる。 それまでこの件になんの興味も関心もなく、梧桐組の一斉検挙に執念を燃やしていた○○警視がいきなり麻薬課に現れたのだ。 そしてこの件の捜査は本庁が引き継ぐとして、それまで捜査に当たってきた署の職員を追い出したのである。 これまで自分たちが地道な捜査活動を行い、全容もほぼ解明し終え、後は捜索令状と逮捕令状が下りるのを待つばかりと言うところまできて、手柄をすべて横取りしたのだ。 怒りだってするだろう。 だがその怒りは、専横その物に対してよりも、密売グループへの温情的に過ぎる扱いへの方がはるかに勝っていた。 アレは子ども達だけで行われてきた犯罪であり、大人というか、梧桐組は一切関与などしていない。 それでいてやり口は巧妙且つ大胆、さらに非常に悪質。 被害者はかなりの数にのぼり、既に少年法で裁ける域を超えている。 刑事法の適用、成人犯罪者としての扱い以外はありえないと。 ところが、である! この本庁キャリア組の専横を支持する声が山際西署に寄せられた。 なんと内閣からである。 梧桐組にドラッグ密売の罪がなすり付けられたのは――なにより、そんな無茶が通ったのは――少年らの人生や将来を守るためなどでは無い。 そんなものを考慮対象に入れてたのは現場でも極々一部だ(青山刑事にしても懐疑的な部分があった)。 検察では「この罪を代わりに被るのなら、余罪は一切追及しない」と梧桐組に持ちかけた。 未成年者らを使ってドラッグを密売していたとなれば社会の風当たりは厳しくなるが、彼らにとってコレはかなり減刑になる。 それにこれだと上から口封じに消されるという心配がない。 この点も勘案したうえで彼らはこの取引に応じたのだ。 なんの理由も見返りもなしに、人は自分から他人の罪を被ったりはしない。 検察の腹のうちはこうだ。 梧桐組の証言から上の組織にまで捜査の手を伸ばせたとしても、すでに事件には風化したものもある。 それらを仮に立件、起訴できたとしても、結審するまでにはたいへん時間が掛るし、有罪に持ち込めるかは極めて微妙だ。 世間の注目を集める裁判になる以上、誰も分の悪すぎる目になど張りたくない(負けたらモロ検察の威信に関わるし、出世にまで響く)。 それにそんな状況になれば、被告側からの妨害も生半可なモノではなくなるだろうし、警察の仕事だって増える(新たな犯罪の犠牲者も……)。 なにより―― 国内外の情勢悪化について何ら有効な対策をうち出せていない内閣が、即時発動の分りやすい成果、明るい話題をたいへん必要としていた。 全員の利害が概ね一致し、現場の警察官も――本当にたいへん不本意だが――口をつぐむことに渋々同意したのである。 これらの処置はカイトの望む正義や理想とはかなり違っていたが、それで騒ぎ立てることは無かった。 あの二人は現場で充分すぎるほど怖い目にも遭ったし、反省できただろうという思いがあった。 これも結果の内として受け容れねばならないとも。 また、自分はまだまだ子どもでしかなく、決して大人の全てが悪辣なわけではないと気付かされたことも理由として挙げられる。 ウラでどんな取引や政治的判断とかいうモノが働いたのか自分には判らぬが、そういったコトにもそれなりの事情と利点はあるのだろうし、「対案なき反対は子どもの泣き言も同じ」と甲斐那達から教えられている。 それらの善し悪しをこれから学んでいこう。 ミュウに買ってもらった新聞を読みながらカイトはそう考えていた。 「昔はテレビ欄と『コボ君』しか読まなかったのにねぇ」 向かいの席に座るミュウがそう言って微笑う。 「う、うるさいな。そう何時までも子どもじゃないんだよ、こっちも!」 照れながらカイトは新聞で顔を隠す。 「まあ、今日は『ザサエさん』ぐらいしか、視れる番組も無いもんねぇ」 ミュウの声には揶揄よりも、カイトの成長を喜んでる成分のほうが多かった。 連絡は入れてなかったが両親はカイトの帰省と、カイトの担任としてではない、幼馴染のミュウの訪問を大変喜んだ。 女同士でいろいろ話したいことがあるからと、母はミュウを引っ張っていく。 「今日は機嫌が良いみたいだな、ミュウちゃん」 深々とした溜息を吐いて父は息子に尋ねた。 「お前、本当に悪いことはしなかったんだろうな、五年前? 法的にどうこうじゃない。ミュウちゃんや他の女の子たちにだ」 胡乱げな眼差しがカイトには向けられている。 「先週の日曜、いきなりミュウちゃんから映話が掛かってきて、凄まじい形相で訊かれたぞ。キョウコさんの住所と連絡先を教えろって。誰なんだ、キョウコさんってのは?」 何と説明すれば良いのか、カイトは大いに悩んだ。 「まあ、お子ちゃまのお前にそんな年上の女性と知り合いになれる甲斐性がないってことに、ミュウちゃんもようやく気付いたってことなんだろう」 そう笑いながら言うと父は食事の用意をしに台所に向う。 微妙に納得がいかないカイトが独りその場には残された。 しばらくして遅朝になった。 父が用意してくれたのは、パンにオムレツにサラダ、それにコーヒーとオレンジジュース。 まだ腹にはおにぎりが残っていたが、カイトは全部平らげた。 父の皿にも母の皿にも何も残っていなかったが、ミュウはオムレツをかなり残していた。 「ああ、うっかりしてた。母さんの分は覚えてたんだが、ミュウちゃんのオムレツは自分達と同じにしてたよ。ゴメンね」 父がミュウに謝っていた。 「また生クリームを使ったんですか? 不経済ってこともですけど、それよりもカロリーやコレステロールの摂り過ぎです」 コーヒーのコッテリ感から夫が材料に何を使ったのか思い当たり、母が少し苦言を呈する。 「いや、まあ、その。すまん」 後頭部を掻きながら父はもう一度ミュウに頭を下げた。ミュウはそんなカイトの父に笑って「私のほうこそ全部食べ切れなくて済みません」と謝っていた。 その光景を横目にカイトはオレンジジュースを飲み終わり、父のオムレツに付いて少し考えていた。 男のカイトにとって量に問題は無かった。 ただ、母が作ってくれていたオムレツに比べると、やはり塩味控えめな感じがした。 だが何も感想めいた事は口にせず、手を合わせて「ご馳走さまでした」と言った。 食後しばらくしてから、カイトは花壇の手入れをさせられることになった。 両親は湯のみ茶碗を手に縁側に腰掛け、子どもたちの庭仕事を微笑ましそうに眺めている。 二人とも手伝おうという気は全く無いみたいだった。 カイトは両親とミュウから散々コキ使われた。 外泊届けは出してなかったので、夕方のやや早い時刻に両親に別れを告げ、二人は学園に戻った。 翌三日の月曜である。 カイトはセレス達と美術館巡りをさせられることになった。 カイトはセレスが副顧問を務める美術部に所属している。いや、させられていた。 部員不足で同好会へ格下げになるのを回避するため、名前を貸して欲しいと四月の始めにセレスから頼まれたのである。 一通り部則を確かめた後、カイトは入部届けに署名した。 後で思い返してみても、その時のセレスの笑顔と普段の笑顔との違いはカイトには判らなかった。 やはりカイトは朝一番で襲撃を受けた。 忙しなく、ノ〜ン〜ビ〜リ〜、叩かれる扉を開けるとそこにセレスが立っていた。 彼女の格好はバスガイド。 手に持つ旗には舞弦学園美術部様ご一行の文字が金糸で刺繍され、肩からななめに掛けられたタスキには王都内美術館ツアーの文字があった。 「お早う御座います〜、カイトさん〜。今日は王都中の〜美術館を〜見て回る日です〜」 いつもと変わらぬポワワワ〜ンとした笑顔でセレスは言った。 「あの、センセー。俺、もう少し、寝てたいんですけど」 あくびをかみ殺しながらカイトが言った。 「ここに〜、入部届けが〜、あります〜」 いつもと変わらぬポワワワ〜ンとした笑顔でセレスは言った。 「名義だけで良いって言ってたじゃないか」 寝起きで痒みを憶えだした胸板をボリボリ掻きながらカイトは答える。 入部届けは隅々まで眼を通して、自分の不利になる条項が無いのを確認していた。 更に、写しまで取ってから署名し、セレスに渡したのである。 本当にコイツは馬鹿なのか賢いのかよく判らない。 「そして〜誰かの〜写真も有ります〜」 眼鏡をブキミに光らせながらも、矢張り、それまでと変わらぬポワワワ〜ンとした笑顔でセレスは言った。 「……直ぐに着替えます」 馬鹿では無いにしろ、どこか抜けてるのだけは間違いない。 セレスのガイド姿は単なるコスプレではなく意味があった(ビミョ〜なモンだけどな)。 移動は学園の魔法マイクロバスで行われたからである。 運転手は剣術科副主任、ティオ・マーチェン先生だ。 マーチェン先生は美術部の正顧問だ。 だが技術指導はできない。 また書類仕事やらスケジュール管理等の仕事もできない。 その辺りは全てセレスの担当だ。 マーチェン先生の顧問としての仕事の八割までは園外での引率と運転手兼ボディーガードである。 残りの二割はモデル(オールヌードな、もちろん)だ。 事実鍛え抜かれたこの先生の肉体は完璧で、去年度この学園の美術部からコンクール入選者を出せたのは、無論生徒の腕と画材が良かったこともあるが、モデルの良さも相まってのことだというのが一般的な評価である。 とにかく、マーチェン先生の運転するバスで美術部一同は美術館ツアーに出発した。 参加した部員は男子十一名、女子十名である。 一人を除いて、美術部の部員は全員カップル同士だ。 除け者の一人は無論カイトだ。 美術館を回っていく内に、一組また一組とバスに戻ってくるカップルが減っていき、五つ目の美術館にやって来たのはカイトとセレス、それに運転手のマーチェン先生だけだった。 「じゃあ〜、私達は〜ここで〜」 マイクロ魔法バスから下りる際、セレスはマーチェン先生に明るい声を掛けた。 「おう」 先生はいつも通りの表情でガイド姿のセレスに応える。 「先生は〜、次の美術館に〜行かれるんですよねぇ〜」 虚空を見上げ、何かを思い出すような表情でセレスは言った。 「おう」 「世界の裸夫像、裸婦図展示でしたわね〜」 セレスは先生に視線を戻す。 「おう」 いつも通りの表情(だけど、いつもよりもう少しばかり嬉しそう)でマーチェン先生がガイド姿のセレスに答えた。 「良い出会いがあられると〜宜しいですね〜」 セレスはにっこりと微笑む。 「おう。……だが、セレス・ルーブランよ。解っているとは思うが……」 先生はその表情を引き締めていた。 「大丈夫です〜。解ってます〜」 セレスはにっこりと微笑んで答えた。 「おう! じゃあ、スケジュール通りに戻ってくる。相羽、忘れるなよ、五時半だ。五時半には彼女を連れてこの場所まで戻っていろ、解ったな?」 マーチェン先生はそう言い残して、魔法マイクロバスを発進させた。 舞弦学園にも部活動があり、運動系文科系どちらも一通りのものが揃っている。 対外イベントでは兎も角、学内では課ごとにその活動を分けたりはしない。 冒険課、普通課、商業課。それぞれの生徒が同じ一つの部に所属して、同じ活動を行っている。 運動がしたければ授業で単位を稼ぐのが効率的なので、冒険課生の多くは文科系のクラブを選択する。 冒険課における部活動とは、学園が幾ばくかの資金援助もしている、異性と交流する場でもある(もちろん、ちゃんとした技術指導もしている)。 押しの弱い生徒に異性との出会いの場を用意してやったり、他コースの生徒と交流する機会を設けてやるところである(少なくとも、そういった側面が確かにある)。 随分と進んだ考え、若しくは不純異性交遊を助長させる不届きな行為に思われるかも知れないが、冒険課では生徒同士の交際に関しては大らかな物の見方をしている。 と言うか、せざるを得ないのだ。 この件についてもいずれ説明するので、その時まで待って頂きたい。 とにかく美術部員らは、決められた時間に集合場所に戻ってさえいれば、それまでどこでナニをしていても自由なのである。 この美術館に来るまでに、他の十組はバラけていった。 まあ、そうなる様にセレスが根回しをしていたということもある。 「さぁ〜、参りましょう〜」 そう言ってカイトの手を掴んだセレスは、いつの間にか、目立たない服に着替え終えていた。 手を引かれるままカイトは、良く判らない巨大な絵の前まで連れて行かれ、そこに置かれてたベンチに座って半日過ごすことを強制された。 カイトには良く判らなかったが、セレスはずっとニコニコしていた。 で、昨日四日、火曜日はコレットに引き摺り回された。 遊園地で絶叫マシーン巡りである。 まあそれは良い。 遊園地の雰囲気はコイツも好きだし、絶叫マシーンも嫌いではない。 だが、させられた格好が問題だった。 そう。またしても女装を余儀なくされたのである。 変装用の衣装は全てコレットがロニィ先生の所から借りてきた。 カイトは色気ムンムンのエルフの若奥様(若後家?)の格好をさせられた。 それこそ「ボン・キュッ・ボーン」なプロポーションに、清純そうな白いワンピースを纏い、鍔広の白い帽子を被らされたのである。 当然、籐で編んだトランクのオプションも持たされている。 当然、なかに入っているのは、『お弁当』ではなく、『お昼ご飯』だ。 お皿にグラスにナイフにフォークにスプーンといった食器類に、クラブハウスサンドイッチだの、鶏の腿肉のローストだの、ココットだの、リンゴだの、バナナだの、カスタードプディングだの、広口のガラス 当然、この家では『ゴールデンレトリバー』や『グレートピレネーズ』だのいった大型屋外犬が飼われているって感じだ。 で、コレットだが、彼女は逆に男装、というか男の子の格好をした。 ツインテールを解いて野球帽に押し込み、穿いてるのは半ズボンにスニーカー。 母子で遊園地に来ましたという設定だ。 また「お母さん」は聾唖者という設定も組み込んでいる(この辺のネタはロニィ先生が出したな)。 「お母さん」は 王国共通語の話せる「息子」が「エルフ手話」で通訳しないと、「お母さん」は他人とのコミュニケーションが取れないのである。 「お母さん」が逃亡を図ったとしても、ミョーな人だかりのできてる場所を探していけば追跡は容易いと「息子」は考えていた。 ヘンな虫が寄ってきても、「母」の『身持ち』は、まあ、固かろうと確信もしていた。 事実、「息子」の企画は見事図に乗った。 少々不便な思いやうざったい気分にはさせられたものの、それを除けば「息子」にとっては十分満足の行く『お出掛け』だった。 問題はフラストレーションの溜まった「お母さん」だ。 「お母さん」は逃亡を図ったのである。 もちろん、真っ正直に逃げるのは、あらゆる意味で、不可能だと「お母さん」にも解っている。 偶然はぐれたという風を装わなくてはならない。 そしてそれが可能だと思われる場所が、一箇所だけ、いま居る遊園地には存在した。 そこで「お母さん」は徐々に「息子」をそちらへと誘導していったのである。 「お母さん」が「息子」を連れて向った先。 それは、立体構造のミラーハウスだった。 全面鏡張りで、床はガラス敷きになっている……。 ところでロニィ先生はムラはあるものの、完璧主義者である。 今回の衣装やアイデア提供(格安なな)に関してもそれは現れている。 先生はカイトを、頭から足の先まで、『内外完璧』に女性用の衣装で装わせた。 立体交差のミラーハウス。 そこで、女性用の下着(勝負ぱんつってヤツな)を穿かされていた「お母さん」は上の道を採り……、 半ズボンを穿いていた「息子」は下の道を採った。 そこで「お母さん」を見失った「息子」は、何の気なしに、ふと頭上を見上げて…… 次にあるのは王国歴五六八年五月四日、七時のニュースで流された報道である。 「大型連休の今日、家族連れで賑わう王都郊外のテーマパーク、ネズミーランドで、悪党冒険者の仕業と思われる破壊活動が行われました。 事件があったのは園内のミラーハウスで、ここで高位魔術の一つであるナパームが使用され、園内は一時大変な騒ぎとなりました。 魔法の射線上に居たと見られる男子学生が一名、全身にひどい火傷を負ったほかは怪我人などはいないとのことです。 事件直前ミラーハウスに入ったのが目撃されているエルフ母子の姿が無いことから、警察ではこの母子が事件と何らかの関わりがあると見て、付近での聞き込みを行っている模様です。 今の所、これ以上事件に関する詳しい情報は判ってはおりません」 文句を言いながらもカイトが四人に振り回されてやっているのは、例の『おめかし途中』の画像や動画データをネタにロニィ先生が強請ってきた為だ。 この連休はミュウ達四人に付き合い、彼女達の言う事には全面的に従うようにと。 一応、今日が終わればデータは消去されるそうなのだが……。 連休最終日である本日五日、朝早くからカイトは竜胆の襲撃に遭い、彼女の運転する魔法軽自動車でどこかへ連行されている途中である。 昨日コレットに負わされた火傷はロニィ先生の怪しげな塗り薬のお陰で完全に治ったが、精神に受けた深い傷がそう簡単に癒えるはずはない。 どんな無理難題を突き付けられるのか不安でもある。 なにより、一言も相談せずに、自分だけでチーターの件を解決しようとしたことを、彼女がどう思っているのか不明な点が懸念された。 「心配しなくても、無理難題は押し付けたりはしないよ……今日の所はね」 「今日の所は?」 カイトの不安がいや増す。 「そ。野暮用なんかも飛び込んできたから、あたしの分はまた今度ってことにして貰ったんだ。これから行く所はあたしとは関係が無い。従って、データの処分も先に延びる。ま、昨日、逃げようとしたペナルティってことだね」 この言葉にカイトは詐欺だの未成年者略取だのと大騒ぎするが、続く竜胆の一言で大人しくなった。 「こないだの事件で相羽がした選択のもたらした結果の一つなんだよ、今日のことはね」 「先ずは腹ごしらえ。相羽はあたしんちに来たこと無かっただろう?」 竜胆がカイトを連れてきた先は、彼女の実家兼店舗である、蕎麦処竜胆庵であった。 店先に立て看板は出ておらず、入り口にも暖簾は掛けられてはおらず、ガラス戸には「誠に勝手ながら 暫くの間 休業させて頂きます」との張り紙までしてあった。 そのガラス戸も一部割れており、商品サンプルを陳列しているケースも破壊されていることがいたくカイトの注意を惹いた。 竜胆はその辺りを一切気にせず、戸を開けて威勢の良い声を上げる。 「父ちゃん、ただいま〜。あんた自慢の美人な娘が帰ってきたよ〜」 「この馬鹿娘! そっちはお客様用だ! 裏から入れって何時も言ってるだろうが!!」 無残にも穴のあいてしまっている干葉ちゃんポスターが貼られた衝立の向うから、やや怒気を含んだ、威勢の良い声が返ってくる。 面識は無く、声を聞くのも初めてだが、竜胆のお父さんだろうとカイトは見た。 「残念でした〜。今日はそのお客様の付き添いだよ〜」 からかうような口調で返すと竜胆はカイトを店内に入れ、戸を閉める。 店内にも極めて最近のものと思われる破壊の爪痕がくっきりと残っていた。 内装のあちこちに穴やひび割れができ、天井も破られ、梁が見えた。 「遅ぇじゃ無ぇか。鍋の火ぃ落そうかと思ってた所だぞ」 青い作務衣に鉢巻を締めたごま塩頭の男が店の奥から現れる。 竜胆とは血の繋がりがある様には見えない容貌の持ち主だった。 「仕方無かったんだよ。突然仕事が飛びこんできたんだ」 「まあ良い。爺さんに挨拶してきな」 そう言って竜胆に顎をしゃくる。 しゃくられた方も素直に店の奥へと歩いていく。 カイトは不機嫌そうな雰囲気の竜胆父と二人きりでその場に残されることになった。 「座んなよ。今、とびっきりの蕎麦が来るからよ」 竜胆父はそう言って綺麗なテーブルの方に顎をしゃくった。 「え?」 「いっけねえ。自己紹介がまだだった。わしは沙耶の父親で竜胆 そう言って竜胆の父はカイトの手を掴んだ。 その目には深い感謝の光があった。 一目で竜胆の母親だと判る女性が永衛氏とカイトの座っているテーブルにお盆を抱えてやってきた。 カイトの前には黒塗りの丼、そして永衛氏の前にはお銚子とお猪口を置くと、その隣に腰を下ろす。 そしてニッコリとカイトに微笑みかけた。 「初めまして、相羽カイトさん。沙耶の母の那美江です。今回はカイト君に随分と助けられたって娘からも、警察の方からも聞きました。本当に有難う御座いました」 この言葉にカイトは椅子から立ち上がる。 「舞弦学園冒険課三年の相羽カイトです。何時も竜胆には、いえ、竜胆先生には優しくご指導頂いております」 竜胆夫妻に挨拶しながらカイトは思った。 (……何て言うのか、その、お見合いみたいだな……) 鈍感なコイツにしては良い所を突いている。 どう転がるかは不明だが、竜胆はカイトがどの様な人物か両親に見せようとして今回の行動に打って出たのだ(ミュウ達に差をつける為にもな)。 理由はどうあれ、竜胆の両親は五年ものあいだ娘を悲嘆にくれさせた相手に良い印象を持ってはいなかった。 それと―― コイツ自身は不安がっていたが、竜胆はカイトの独断を不快になど思ってはいなかった。 むしろ非常に嬉しく思っていた。 男前な竜胆にも多少のお姫様願望ぐらいはあるのだ(この話ではな)。 挨拶の後、夫妻はにっこりと笑って言った。 娘には遠慮せず、冷めない内にお上がりなさいと。 カイトはその言葉に甘え、先ずはお蕎麦をご馳走になる事にした。 食べている間、一言も口を利かなかった。 夫妻も黙ったまま、娘の教え子が豪快に自分達の作った蕎麦を食べる様を見詰めていた。 空腹だったこともあり、鉢の中身はあっと言う間にカイトの腹の中に消える。 手を合わせ、ご馳走様でしたとカイトは言った。 夫妻も揃ってお粗末さまでしたと答える。 そこに竜胆が戻ってきた。 「はー。相変わらず、あっと言う間だねぇ」 ドンブリがすでに空になっていることに竜胆は目を丸くしている。 確かにコイツのメシを食うスピードは自慢できる域にある。 「飯の食い方の指導も受けたからな。早く済ませる方法や、ゆっくり食べる方法。そんなのや腹が減ってるっての抜きにしても、ガツガツ食っちまうぐらい美味しかったって事もあるけど」 カイトはそう言って笑った。 カイトが笑ったのは本当に振舞われた蕎麦が美味しかったからだ。 一言たりとも冗談は言ってない。 事実、弐堂流には飯の食い方の指導まである。 いや、飯の食い方だけにとどまらない。 起きる所から始まって眠りに就くまで、いや。就寝中も含めた一日二十四時間全ての日常生活。 そこに於けるあらゆる場面での肉体の動かし方、呼吸法、思考様式。全てを網羅したうえで弐堂流は成立している。 行住坐臥、行屎送尿の悉くが真正の修行且つ実践、実戦の場なのだ。 そこまで徹底できねば功は成らず、弐堂流として本当の自在を得ることはできない。 故にカイトは習ったことを思い出し、少しずつそれらを実践しようと心掛けている途上にあった。 「へー。まあ良いや。それより、あたしの方からちゃんと礼を言ってなかったよね。有難うよ、相羽。本当に感謝してる」 隣のテーブルから引っ張り出した椅子に腰掛けて、竜胆はキチンと頭を下げる。 彼女の前に置かれていたのは湯飲みだけで、ドンブリは出ていなかった。 竜胆のほうは出先で食事を出されていた。そのことは両親にも告げてある。 休日出勤を先方に 日ごろ同じ面倒に振り回されている現場の職員として、 「たまにはこんなチョッとした役得もなきゃ、この仕事はやってらんないよ。そう思うだろ、アンタも?」 という相手のチョッとトリーズナーな言葉には彼女も頷かされる部分があったのである。 「え? あ。いや、そんな大した事はしてない、偶然さ。冒険者は窮地にある他の冒険者を見捨てちゃいけないんだし、立場が逆だった場合、竜胆、あ、いや。竜胆先生だって俺や他の奴らを助けてくれてただろう? それに俺が何もしなくたって、先生ならチーターぐらい、楽にヒネれただろうしさ」 「いや」 竜胆父が重々しく言葉を漏らした。 「あの銃って道具相手には 永衛氏の表情は非常に厳しく、また大変憎々しげだった。 「父ちゃん! チーターは、あの子の場合は仕方が無かったんだって、教えられただろう。あの子は精神に障害があったんだって。それも正しい治療を受けさせれば治るって」 呆れ顔で竜胆は父親を嗜める。 「しかし、お前、オレとしちゃあ、昔っからこの辺で悪さばかりしてたあのクソチーターには、今度こそ、徹底的なヤキを入れて貰えると思ったんだぜ」 「訴えても無駄になるってことも言われただろう。それに、被害に遭うはずだったのはこのあたしだ。そのあたしが良いって言ってるんだ。相羽が言った通り、冒険者はほかの冒険者を見捨てちゃいけないんだし、何より教師が、教諭補助であるあたしが、生徒を見捨てる訳にはいかないだろう」 竜胆は毅然とした態度で断言した。 チーター達三人は飽くまでも園内への不法侵入として扱われることになった。 今回の事件の報道に青山刑事の名前は一切出なかった。 彼は梧桐組逮捕や少年ドラッグ密売組織壊滅の手柄全てを、○○警視に譲ったのだ。 それだけではない。 現在この国では認められていないおとり捜査の合法化、潜入捜査専門の部署を警察内部に発足させようと躍起になっていた○○警視を、既成事実のかたちで後押ししてやった格好になる。 その見返りとして青山刑事が求めたのは麻薬密売に手を染めていた少年たち、及びチーターらの実名報道を避けること。 そして全員に更生のチャンスを与えてやることだけだった。 青山ヒロスミは自分の言葉に背かなかったのである。 実行の指揮を執ったチーターだが、どうも精神に障害が在るらしいことが監察医の調べで判り、少年院ではなく精神病院への入院が決められた。 御厨七郎太は、これまで何度も警察のお世話になっていたが、こちらも少年院送致は見送られた。 これまで彼がチーターに唆されてきてたのは馴染みの警察署員全てが知っており、そのチーターにそのような疾患のあることが判明した結果、今回が初犯という扱いにして、大目に見ようと三年の執行猶予が付いた。 ニコライ・ヴァシリ・ミューシキンに付いては知能程度に問題があるのと、正真正銘今回が初犯であること。 そして事件解決に大いに協力したことが現場にいた警察官全員から証言が寄せられたこともあり、保護観察処分で済むことになった。 舞弦学園では、カイトの意志も汲んだ上で、彼ら三人を、刑事でも民事でも、告訴する積りは無かった。 だが…… この件で治まりの着かない者がいた。 チーターの両親である。 警察からも事情説明は受け、訴訟を起しても勝てる見込みは一切無く、それどころか息子が完全に真っ黒であるのは理解できたが、感情的には納得できなかった。 そこで彼らは今回の大本がどこにあるのかを考えた。 そして、今回の件は竜胆に半殺しにされた事件に端を発していると結論付けたのである。 彼らは竜胆夫妻に抗議(威力業務妨害とも言うな)するため、この竜胆庵にやって来た。 自分達でも逆恨みだと判っていても、そうすることでしかチーターの両親は精神のバランスを保てなかったのである。 当然、夫妻は警察にこれの被害届けを出した。 しかし、届けを受けた係官は夫妻と加害者の名を耳にした途端、夫妻の見てる前で書類を破り捨てた。 そして「これは警察が扱うには不相応に軽い問題なので、当事者同士でなんとか解決してください」と追い出してしまったのだ。 警察に追い返された日の夕方、夫妻は「弁護士にでも相談するか」とシティページをめくっていたのだが、そこに青山刑事がやって来て、彼から事件の全容を知らされたのだ。 その上で今回のチーターの両親が騒いだ件は無かったことにして欲しい、いや、して貰わなければ面倒になると言われたのだ。 竜胆の家にとってもだが竜胆宗家、ひいては竜園寺家にとっても。 舞園生の手に拠って銃器が盗まれようとしていたことが表沙汰になれば、マスコミの目は再び舞弦学園に向けられ、カリキュラム導入の是非を問う論議がまた活発になってしまう。 そうなるのを軍内急進派は大いに嫌っているから、銃器保管庫への侵入は無かったとの警察の発表を受けて、一切の件を闇に葬りさる決心を固めた。 軍の方も警察に圧力を掛けてきたのだ。 だからマスコミの目が舞弦学園に向けられるようなことは、どんな些細なものであれ、実力で封じようとするだろう。 仮にそれが不首尾に終わったとしても、竜園寺家への医療手当てを滞らせる等の嫌がらせにでないとも限らない。 宗家と絶縁状態にあるとは言え、竜胆の家でもそれは寝覚めが良くないだろう。 だが何より、それまで言葉も交わしたことのない同期生の為に、自らの危険も顧みず、事件解決に協力してくれた少年たちの健気に免じて、今回は涙を呑んで堪えて欲しい、と青山刑事に深々と頭を下げられたのだ。 そう言うことも有って、竜胆夫妻はチーターの両親への怒りを堪えることにしたのである。 「心配すんな」 話を聞いて神妙になっているカイトに竜胆父が明るい声を掛けた。 「この程度の破れ具合なんざ、ウチの売り上げにゃあ何の影響も無えよ。それよか親としちゃ、娘の顔や身体に傷一つ無く、無事でいてくれたってことの方がよっぽど大事だ」 「相羽君はこの娘がダンジョン実習で蛇に噛まれた時も助けてくれたんでしたよね。その事も含めまして、改めてお礼を申し上げます。本当に有難う御座いました」 竜胆母もそう言って深々と頭を下げる。 カイトはくすぐったさを覚えると同時に、自分の非力さも感じていた。 もっと上手く、誰も傷付かず、悲しませずに解決する方法は本当に無かったのか自問した。 だが…… 「相羽はできる限りのことをやったよ。後は、あの子達自身の問題だ。それを邪魔する資格は相羽にも、あたし達にも無いよ」 竜胆が真剣な表情でそう言った、のであるが…… 「はっ。母さんや、聞きましたかい?」 そう言って竜胆父はお猪口の酒を喉の奥に放り込んでニヤニヤ笑う。 ――その笑顔を見たときカイトは、竜胆と竜胆父との間には、間違いなく、濃い血の繋がりがあるのを確信する。 「ええ、この耳でしかと」 ニコニコと楽しそう、愉快そうな笑顔を浮かべて竜胆母が夫に応える。 「ウチのこの惨状を見るや、やっとうを引っ張り出してきて、そこの銅鋳物職人の店にお礼参りに行こうとしてらした若い娘さんが居た様な気がするんだが、はて? あれは何処の何方さんでしたかな、母さんや? 母さんの若い頃そっくりの姿、顔貌をしてらしたあの娘さんは?」 と言って、額に指を当てて何かを思い出そうとしてますというポーズを取る竜胆父。 両親のこの言葉に竜胆は、顔面朱泥を塗り固めたようになって、騒ぎ立てる。 「はいはいはい。騒ぐのも恥ずかしがるのもその位にして、そろそろじゃないの、沙耶?」 破壊を免れた柱時計をちらりと見やって竜胆母が言った。 「おう。そうだ、そうだ。本当の所、今日はあっちに呼ばれた『ついでに』ウチの方に寄ったんだろう?」 そう言って竜胆父は再びお猪口に注いだ酒を喉の奥に放り込む。 「そうだけど、今日、五日だよ。毎年今の時間は大忙しじゃ?」 竜胆は怪訝そうな表情を浮かべている。 「今日は臨時休業にするって言ってたわよ、三栗屋さん」 三栗屋という名前にカイトは緊張する。 「ああ。今回はかなり来てるみたいだったぞ。心して掛かれよ、沙耶、それにカイト君」 真剣な表情で竜胆父がそう妻に続けた。 カイトは竜胆に連れられ、竜胆庵の三軒下向いにある芋豆菓子司・三栗屋、いや、御厨家にお邪魔することになった。 店に下りているシャッターを竜胆が軽く叩くと、ギギッとシャッターが持ち上がる。 「待ってたわよ、沙耶ちゃん。悪いけど、ここから腰を屈めて入ってくれる?」 シャッターの下から年配の女性が顔を覗かせて二人を中に招き入れた。 二人が案内された先は御厨家の客間。 御厨七郎太をそのまま大人にした様な男が一人、険しい表情でカイトたちを待ち構えていた。 「らっしゃい、沙耶ちゃん。それに……相羽、カイト君」 男はカイトたちにじろりと一瞥を寄越してきた。 なにやら機嫌が非常に悪そうだった。 案内してきた女性(年齢から見ても恐らく七郎太の母)は二人に座布団を勧めると、そのまま客間を後にする。 カイトは自分の左側に座ろうとする竜胆の腕を掴んで無理矢理自分の右側に座らせた。 そして自分の座る座布団の裏に何も無い事を確かめた後、背筋をピンと伸ばしてカイトは胡坐をかく。 竜胆よりもやや後ろの位置だ。 何かあった場合、右手で床に倒して覆い被さり、彼女を守る為である。 まさかそこまではとカイトも思うのだが、チーターの両親の振る舞いを聞くと油断するのは危険だと考えてしまうのだ。 どんな事が起きても大丈夫な様にカイトは全身に神経を張り巡らせた。 そのまま沈黙が十分ぐらい続いた。 その間に先ほどの女性が三人にお茶を運んできたが、誰も口を開かず、お茶の蓋も開けずにいた。 とてもそんな事のできる雰囲気ではなかった。 「あの、小父さん。連れて来てくれって言われたウチの相羽を連れて来たんだけど」 竜胆が一番にしびれを切らした。 「沙耶ちゃん。それ、どう思う」 七郎太父が重苦しい声を出して顎をしゃくる。 しゃくった先は卓上。そこに置かれた籠には芋(我々の世界で言う金時種のさつまいも)が山盛り積まれていた。 「どうって、芋じゃない。焼いても、蒸かしてもない」 怪訝そうな声を竜胆は返す。 「芋、か……そっちの、相羽君は如何だ? それ、どう思う?」 「……芋に見えますけど、何であるかは良く判りません。でも、そう言う聞き方をされる以上、見た目通りの芋でない別の何か。商品サンプルか何かの類かなとも思えます」 カイトは凝らした目を籠の上の芋に注ぎながらも、七郎太父を視界に捉えている。 「ほう。鋭いのか、疑り深いのか、根性がヒネくれてるのか。どれかは判らないが、沙耶ちゃんよりアレなのはその言葉から良く判るよ」 そう言って七郎太父はニヤリと笑った。 「小父さん!!」 「まあ、聞いてくれ、沙耶ちゃん。わしも親父の後を継いでヘタクソながらも、この道で食うようになって五十年近くになる。五十年だぞ五十年。その五十年を七菓子なんか食ったことも無いってガキがたったの五日で追い着きやがった。それがその証拠さ、手に取って見て、いや、食ってみなよ」 七郎太父が嘆くが如くにそう言った。 その言葉を受けて沙耶もカイトも積み上げられた芋に手を伸ばす。 見た目よりも、手に伝わる重さは遥かに軽かった。 割ったときの感触も、中から覗いたのも生芋ではない、芋のお菓子だった。 「ウチの新しい看板、いや、決め球商品。カーブでもスライダーでも無い。フォークでもナックルでもパームボールでも無い。もちろん、消えも増えもしやがらない。ただの真っ直ぐ。正真正銘のど真ん中。時速は百、いや、五十二キロのストレート。『十三里』だ」 七郎太父はそう言って不敵な笑みを浮かべた。 この店で売り出そうとしていた『 中身を詰めて作るのは簡単、と言うか作る側としては是非ともそうしたかった。 だが売る側としては採算を度外視する訳にいかず、中味をカラッポにでもしない事には材料費が嵩みすぎて、完全に赤字になってしまう為の苦肉の策であった。 そして形を変えても問題は変わらない。 裏漉しに掛けた芋を元の形に再現するには、一本に付き三倍から四倍の芋が必要になるうえ、たいへんな手間と時間。なによりも卓越した技術が一番に求められる。 これが無ければ材料をムダにしただけで終わるのだ。 七郎太父のおういとの呼び声で客間に入ってきたのは、真新しい白い作業着を着て頭を丸坊主にされたニコライ・ヴァシリ・ミューシキンだった。 ニコは七郎太父の横に大きい身体をちぢ込め、正座する。 「警察にバカ息子を貰い受けに行った時だ。コイツ、親が迎えに来やがらず、泣いてやがるんで、ウチで預かる事にしたんだよ」 七郎太父はそう言ってグビリとお茶を飲んだ。 「オツムが弱いのは直ぐに判ったが、善良そうな目をしてたんで気になったんだ。側に居た福祉の役人とウチの和尚さんの息子さんがどうしたもんかと困った顔を見合わせてるのもあって、話を聞いてみたんだ。そしたら、コイツ、こんなだから家でも虐待を受けてるんだって。で、ウチで預かろうかって言ったんだよ。その時は完全なボランティアの積りだったんだが……」 七郎太父の話に拠ると、ニコライ・ミューシキンは家庭で虐待(ネグレクト、育児放棄って奴な)に遭ってるそうで、青山刑事もその辺りの事情を鑑みて、御厨家が彼を預かれるように手を打ったのだそうだ。 「確かに頭はチョッと弱いし、要領が良いたぁ口が裂けたって言えないが、繊細な指の感覚と手先の器用さ、重量を正確に見極める感の良さはウチで働くどの職人よりも遥かに上だ。だがそんなことより何より、最近の馬鹿な親どもが子どもに持たせ忘れてきてる義侠心と責任感を、ちゃんと、腹の中に呑んでるのが気に入った。それに、コイツも、ニコも七菓子職人になりたいって言ってくれたんでな」 『ウチの和尚さん』と言うのはあの青山刑事の父親だ。 青山刑事の実家、青山院は、クープランとラヴェル双方の属神ヂゾーを本尊とする無宗派の寺で、この三栗屋のお得意さんであり、また菩提寺でもある。 その縁もあって青山刑事は御厨家が信頼の置ける家だと見込み、また実家のコネも使ったのだ。 本尊があるのに無宗派ってどないなアレやねん、と突っ込まれる向きも多かろう。 だがその辺の特殊な事情(道理も引っ込めさせる、ムリな理屈ってヤツな)も、折を見て話させてもらう積りではいるので、期待せずに、ノ〜ンビリと待って頂けると有り難い。 「あの『虚栗』は馴染みのお客さんからは不人気でな。みんな同じこと、そこの沙耶ちゃんの恩人と同じ様なことを言ってきたよ。ペテンだとか、食う者をあざ笑うタチの悪さばかりが鼻に付くとか、素材が泣いてるとかな」 そう言って七郎太父は湯飲みを口に運ぶ。 「大体、芋も栗も食われるために有るんじゃない。生物非生物を問わず、この世にある全ての物は、何よりもまず自らを存続させつづけるために存在してるのであって、誰かを喜ばせようなんて全然考えちゃいない。それをどっちが上だ下だと考えるのは、ヒトの身勝手だ。何よりも芋にも栗にも失礼だって、青山院の今の和尚さんにも窘められたよ。だから、言いたい奴には好きな様に言わせとくことにしたさ。新しい従業員を一人前に鍛えるので忙しくなるんでな」 そう自嘲した後、七郎太父は居ずまいを正す。 身体を少し後ろにずりさげると、きっちりと三つ指着いた。 「相羽カイト君。ウチの馬鹿息子を信じてくれて、また、命を救ってくれて本当にありがとう!」 そうして頭を上げてこう言った。 「本当は金物屋の、チーターの親父とお袋もここに来て君に謝罪するべきなんだが、許してやって欲しい。君のお陰で息子の命も社会的生命も救われたって事は本当は解ってはいるんだ。それどころか、チーターは君を殺そうとした、訴えられても仕方がない立場だ。だが、親なんてモンは自分の子どもだけが可愛い、助かってくれれば良いと願う身勝手な生き物なんだ。子どもである君に何もかもおんぶに抱っこして貰って、同じ親としても、大変恥ずかしい限りだ。だが、理を敢えて枉げて、君に頼む。チーターの両親を責めないでやって貰いたい!」 チーターは子宝に恵まれなかった夫婦がやっと授かった一粒種の息子である。 故に、チーターを度を越して甘やかす事に繋がったのだが、ここの商店街に店を構えている家はどこもそんな不運には見舞われずに済んだ。 ゆえにチーターの両親に負い目と言うか、不憫さを感じていた。 本来、そんな所で他人が誰かに負い目感じる必要は無いし、そう言うのは失礼だと作者は思っているのだが、まあ、こう言う風に考える人間が出て来てもおかしくは無いだろうとも思っている。 それは兎も角。 「あの」 カイトが声を上げた。 「何の事を話されてるのか良く判らないんですけど」 この言葉に竜胆と七郎太父はギョッという顔でカイトを見つめた。 「『事件なんて何も無かった』んだし、無かった事に付いて許すとか許さないとかも無いし、被害が生じてない、被害が生じたとは思ってない出来事に付いて訴えたりはできないと思うんですけど」 ゆっくりとカイトは語った。 「冒険者は生きて帰ってくることが一番の報酬だと学園では教わってます。あの夜。その、あの夜が何時なのかも知らないけど、あの夜は何も無かった。いや、何かあったかも知れないけど、誰も死ななかった。それだけで俺は十分満足してます。先生に今日ここに連れて来られたのは、就職が決まった友だちにお祝いを言う為です。本物の七菓子職人が友達の才能を認めて弟子入りを許してくれたと聞いてお祝いに来ただけです。他には有りません」 そう言ってカイトは穏やかな笑顔を見せた。 事実、カイトは死ななければ勝ちだと思っている。少なくとも負けではないと。 もちろん、勝たなければ意味がない状況がある事も理解しているが、今回の場合はそう言うアレではなかろうと考えたのだ。 それに、その辺りの事情をヘタに暴き立てるとコイツとしても少々不都合や面倒が生じる為、渡りに船だと考えてもいたのだが、そこまでは竜胆達に判るはずも無かった。 一方ならぬ歓迎を受けた後、カイト達は御厨家を後にする。 新しい看板商品の『十三里』に定番商品の芋羊羹、さらにウォルシュ先生の好物である豆菓子も沢山お土産に持たせて貰った。 また竜胆の実家からも持ち帰り用の『鯡』蕎麦と、蕎麦寿司(シャリの代りに蕎麦を用いたのり巻き。醤油ではなく、蕎麦ツユに付けて食べる)もお土産に貰って学園に戻ることになった。 「最近の子どもには見られない、割としっかりとした子だったな。正直、どんな悪童かと心配してたんだが」 娘とその教え子が帰った後、竜胆永衛が妻に言った。 「……しっかりしてて、いい子なのは私も認めますけど、沙耶と一緒になると言うのは反対です」 そう夫に応える妻の表情には憂愁の翳りが濃い。 夫は声も無く、黙って妻を見詰めた。 妻が他の人を非難したり厭うような発言をするのは、長年連れ添ってきた夫にとって大変珍しい事だった。 「ウチの沙耶は立派な娘ですよ。自慢の娘です。誰にも違うなんて言わせやしません。ミュウちゃんやセレスちゃん、コレットちゃんにだって、決して劣ってるなんて私は少しも思ってません。母親の欲目と言われればそれまででしょうけど……」 最初の方は意気盛んであったが、流石に終わりの方は、少々照れくさそう、恥ずかしそうだった(親バカだがバカ親ではないのだ)。 「だけど、あの子は沙耶の中には納まりきらなくなる。と言うよりも、何か今ですら沙耶達とは異なる種、違う形をした生き物みたいな感じがして……。今の内はまだ大丈夫。あの子はまだ小さく、受け容れる沙耶たちの方が今はまだ大きいから、形が違っていてもあの娘たちの中に納まっていられる。でも、あの子にはそんな積りは無いでしょうけど、何時かは、沙耶を。沙耶だけじゃなくミュウちゃん達を傷付けてしまう事になる。そんな気がします」 そう言って竜胆母は溜息を吐いた。 竜胆那美江には霊感や未来予知などの能力は具わっていない。 むしろ、そういうカン働きやらクジ運、勝負所を嗅ぎ分ける嗅覚の類は弱い部類に入る。 それがこの様な事を口にしたのは母親の勘と言う物であろう。 カイトとそれに並んで座る娘の姿から、彼女はこんな印象を受けた。 相羽カイトは善い子ではあるが、沙耶と一緒になれば、娘を業苦と悪夢に苛ませて死なせる事になるだろう。 あの子の目指すモノは正しいのだろうし、道行きを共にする事は娘の方から望むであろう。 だが、母親としてそんな事は受け容れられる事ではない。 竜胆那美江は一切の思索を経ずに、それだけの事実を掴んだ。 そして、自分が娘に何もしてやれない事も。 自分の子であっても、親が口出ししてはいけない問題、介入できない領域が有ること。 彼女はそれを知っていた。 親であっても子どもを自分と同一視してはいけないことを、別個の人格を備えた独立した存在として扱わなければならないことを竜胆那美江は理解していた。 色恋沙汰に関する限り、周りが首を突っ込んでも状況は悪化するだけで、好転する可能性は一切無いということも。 夫の手からお猪口を奪い取ると、飲みなれない酒を喉の奥に放り込む。 「ウチの沙耶に、あの娘にピッタリ納まるのは、もっと別の産、別伝の刀である気がします。そうあって欲しいです」 嘆息混じりに竜胆那美江は呟いた。 妻のその言葉には答えず、夫は黙然と妻のお猪口にお代りを注いだ。 両親がそんな酒を続けていた頃、車を運転していた竜胆の携帯が鳴った。 道路脇に車を止めて携帯に出ると、聞きなれた怒鳴り声が竜胆の耳に飛び込んでくる。 声の勢いや調子以前にこの相手が連絡してきた時点で、竜胆は何が進行中かを理解した。 「判った。何時もの所だね? あんがとよ。これから直ぐ行くよ。しっかし、あんたン所もアレだね。連休最終日だってぇのに、大変みたいだね」 苦笑混じりにそう言って竜胆は携帯を切る。 「悪い、相羽。仕事が入っちまって、そっちに急行しなきゃならなくなっちまった。一番近くのバス停で下ろすから、そこから学園に戻っておくれよ」 車を発進させながら竜胆がそう謝ってきた。 「シチロータはアホガキどもを一応抑え込んではくれてたんだけど、それが居なくなった所為で自分こそは舞園の番だって言い張りたいアホどもが早速バカを始めやがった。暫くの間、そう言うのであたしの仕事も増えそな雰囲気だよ」 竜胆はそう言って嘆息する。 御厨七郎太は舞弦学園を退園する事になった。 両親がこれ以上学園や、そこで学ぶほかの生徒たちに迷惑を掛けられないと判断したのである。 ニコを引き受けた交換条件という訳でもないが、七郎太は青山刑事の縁故を頼って山奥の武術道場に放り込まれることになった。 カイトは七郎太父と母からそう聞かされた。 「バス賃はあるね? 剣術科教官室に土産を廻しといとくれ。独り占めしようなんて不届きな考えは起こさないように。って言うか、菊お嬢様に連絡を入れとけば大丈夫か。菊お嬢様はウチの『鯡』蕎麦と蕎麦寿司。それと、何かもう一コあった気がすんだけど何だったかな、まあ良いや。とにかく、絶対にその二つはお嬢様に廻すように、良いね?」 舞弦学園冒険課生活指導部の教諭補助、竜胆沙耶はそう言ってカイトをバス停の前で下ろした。 「くそ!! カサを忘れてくるとは何たる不覚!」 降りしきる雨のなか、舞弦学園につづく坂道を駆けあがりながらカイトは自らをののしる。 竜胆に連れ出された朝の時間帯は快晴だったが、バスを待っている頃から雲行きがおかしくなりだした。 最初に来た舞弦学園行きのバスに乗り込んで、学園の建つ丘が見える地域に入ったときには本降りになっていた。 学園の前まで行ってくれたなら大した問題にはならなかったのだが、コイツが乗り込んだのは学園のある丘の麓で車庫に入る便だった。 コイツは、祝日ダイヤではなく、平日ダイヤを見ていたのである。 バス停には雨を凌げる待合所はなく、雨のほうもしばらく止む気配が無かった。 故に両手にお土産の詰まった袋を抱えて、丘の頂に建つ学園までの道のりを雨に打たれながら駆けあがる羽目になったのである。 「うわっ!!!」 いきなり大量の水がカイトの眼に飛び込んできた。 急に雨足が強くなったのではない。 コイツの脇を車が通り掛り、思い切り泥はねをあげたのだ。 区が歳末調整でいい加減な舗装工事をしているお陰で、舞弦学園に通じるこの坂道は水溜りができやすくなっている。 口の中にも少し泥水が入った。 不快な味に顔を顰めながらぺっぺと地面に唾を吐くカイトの耳にブレーキ音が届いた。 顔を上げて、泥はねを浴びせてたのはタクシーであったことが判った。 やや有って後部座席が開き、一人の人物が車外に降りる。 降りた人物は、ゆっくりとした足取りで、カイトの方に近づいてきた。 視界はまだ滲んでいたが、近づいてくる相手が赤いカサを差しているのは見えた。 そして、肩や腰から、黒いトレンチコートを着ていることも。 両手が塞がっている為に瞬きするしか視力を取り戻せないでいるカイトの顔に、アイロンの利いたハンカチが押し当てられる。 強すぎも弱すぎもしない力加減で、ハンカチはカイトの顔を拭っていく。 元通りの視界を取り戻したカイトの目に最初に飛び込んできたのは、形の良い赤い唇と美しい銀色の髪だった。 「完全な濡れ鼠にしてしまったようね」 金の鈴を転がすような美しい、澄んだ声だった。 その声を耳にした刹那、これまで感じたことのなかった何かがカイトの背中を貫く。 「今更だけど、カサを差し掛けて歩いて欲しい? それとも、わたしも濡れながら一緒に歩いた方が嬉しい?」 相手はサングラスを掛けていた。 その奥にある瞳が何色かは判らぬが、面白がっているのは雰囲気で判った。 「できればカサを差し掛ける方で」 「……どうぞ、お入りなさい」 カイトの答えに相手はニコリと微笑む。 その笑顔にカイトは少し頬を赤らめた。 そのことを気付かれぬ様、顔をやや伏せ気味、背け気味にして相手のカサに入る。 上手くいったかどうか、カイトには自信が無かった。 「舞弦学園の生徒さん? 先生の補助をされてる最近の卒業生? それとも、実は若作りで、本当は結構なお年を召された、本採用の先生でいらっしゃるのかしら?」 前を向いたまま相手が尋ねてきた。 「生徒です」 相手の顔を見上げカイトは答える。 履いている靴の所為もあるか知らんが、相手の方がカイトよりもやや背があるみたいだった。 「それで、雨の日にこんなに荷物を抱えて生徒さんが歩いてたのはどうして? カサを差しかけてくれる親切で、美人なお姉さんでも通り掛るのを待ってたのかしら?」 相手はからかいを含んだ調子で続けてきた。 「朝は運転手付きの車で寮を出たけど、帰り際になって運転手の方に急用が入ったからバス停で下ろされたんです。で、平日ダイヤの積りで乗り込んだバスは丘の麓で車庫行きで」 そう正直に答えるカイトの目は相手の胸元をチラチラと盗み見ている。 コートを着ているのではっきり断言はできぬが、「ボン・キュッ・ボーン」なアレだ。 少なくとも胸は、ぐぐぐぐっと、前に突き出ているのはコイツも視認できている。 「成る程ね」 そんなやり取りをしている内に、学園の正門の前までやってきた。 「こちらに着任されている竜園寺少佐にお会いしたいのだけれど、取り次いで貰えるかしら?」 相手は正門前で足を止めてカイトにそう尋ねた。 「少佐? 竜園寺先生なら俺もこれから会いに行きますんで、一緒について来れば直ぐに会えると思いますよ」 何の気もなしにカイトはそう答える。 すると…… 「……全然、駄目ね」 深々と溜息を吐いた途端、相手の周りに漂っていた空気が一変する。 穏やかで温かい雰囲気は完全に消えうせ、硬質で冷たいモノが相手の身体からは漏れ出していた。 サングラスの向うからカイトに向けてくる視線にも底冷えのするモノが篭っている。 「『式堂事件』以降、部外者は外来者専用の出入り口からしか学園の敷地内には入ってはいけないという法律が定められたのよ」 何の感情も交えず、相手は淡々と講義する。 「大型連休最終日は午後から天気が下り坂になるって予報が、先月末にもニュースで流れていたし、朝の番組でも言ってたわ。それを見ていれば、たとえ車で出掛ける場合でも、カサを持って行こうって思ったでしょう……普通程度の脳味噌の持ち主であればだけど」 相手の唇には冷ややかな笑みが浮かんでいた。 「それに、見ず知らずの相手に問われるまま訊かれるまま、自らの情報をベラベラしゃべり渡すなんて、貴方、自殺願望でもあるの? それとも、精神分裂症か何かなワケ?」 そう言うと相手は、鈍痛でも覚えた頭を支えるような感じで手を額にやり、溜息を吐く。 「情報収集とその分析。なにより情報漏洩に気を配るのは、軍人にとっても冒険者にとっても、最優先事項よ」 そう言いながら相手はサングラスを外した。 美しいブルーの瞳が現れた。 カイトも薄々気付いてはいたが、涼しげな目元をした物凄い美人であることが、これではっきりと確認された。 「気を付けなさい、ヒヨッコ冒険者さん。でないと貴方、また、地下迷宮で迷子になったり、大事な宝を盗まれたり、大切な人を奪われることになるわよ」 たいへん厳しい表情をカイトに向ける。 そして何かに呼ばれた様に空を仰ぎ見た。 喉の白さが黒いタートルネックに実によく映えていた。 いつの間にか五月雨と呼ぶには激しすぎる雨が止んでいた。 相手は横を向き、軽くカサを振って雨粒を飛ばす。 撥水加工が施されたばかりらしく、水滴が弾ける様は見ていて面白いほどだった。 「……上げるわ、このカサ、お近づきの印にね」 そう言って相手は手早く畳んだカサの柄をカイトが持つ袋の縁に引っ掛ける。 サングラスを掛け直すと、コートの中に仕舞い込んでいた髪を外に出した。 癖のない豊かな銀髪が湿気の多い大気に舞い、雲間から漏れだしてきた陽射しを浴びで輝く。 白い頬に嫣然たるえくぼが彫られ、彼女は最後こう言い残した。 「また会いましょう、相羽、カイト君」 「え? あんた、最初から俺の事を知……!!」 嫣然たる笑顔に心を奪われかけるが、自分の名前は一度も口にしていない事を思い出したカイトは思わず声を上げた。 そして、相手に詰め寄ろうと前に足を一歩ふみ出す。 しかし…… そのとき雲間から太陽が完全に顔を覗かせ、雨水に濡れた路面と乱反射を起こした。 あまりの眩しさにカイトは目を開けていられなかった。 目を開けられる様になった時には、黒いトレンチコートに身を包んだ銀髪青眼の美人の姿はもう何処にもなかった。 しばらくカイトは呆然とその場に立ち尽くしていたが、やがて寒気を憶えだす。 仕方なく荷物を届けようと校舎のほうに向き直った時、空に虹が掛かっているのに気付いた。 だが、先ほどの乱反射がまだ眼に焼き付いていたのか、それとも先刻の白い美貌が目蓋から離れないのか、カイトにはその虹が、七色ではなく、白一色に映って見えた。 今日は、王国暦五六八年五月五日。 大型連休最終日。 少年に不思議な想いを抱かせる美人が初めてその姿を彼の前に現した日。 五月雨の上がった空に綺麗な虹が掛かる、午後四時ごろのことだった。 |
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