ぱすてるチャイム
Another Season One More Time
菊と刀


21
Squalled and Scolded. Stitched and Stinged.




作:ティースプン





「うううっ!!」
吹いてきた風がカイトに現実を思い出させた。
虹に見惚れてたり、脳裏に焼きついてる笑顔に脂下がってる場合ではない。
さっさと温かく乾いた服に着替えないと、明日からの授業に差し障る。
カイトは預かり物を届けに剣術科教官室に向った。

昇降口まで辿り着いてから、この格好で校舎に上がるのは拙いことに思い当たり、カイトは裏口に回る。
校舎裏には木々が植えられていることもあって、ひんやりとした空気が漂っていた。
背中をおぞ気が走り、身体をぶるぶると震わせる。

(寒い。早く寮に戻って風呂に入って温まりたい)
カイトは小走りで駆け出した。

「どうしたんですか!? そこまで濡れ鼠になる程の雨は降らなかった筈ですよ?! 傘の使い方を知らないほどの馬鹿ではないでしょう?!」
ドアを叩くと直ぐに鍵が開き、竜園寺 菊が顔を覗かせる。
ここに居るのはこの先生だけのようだ。

(こっちのこと本当に心配してくれてるらしいってのは判るけど……)
少女の声にも態度にもやや緊迫したものが漂っており、もとから白い顔は青みがかってさえいた。
(先生だからって、なに言っても許されるってワケじゃねぇんだぜ……)
カイトは心中嗟嘆したが、それを口に出したりはしなかった。
流石にそこまでの馬鹿でもない。

「色々、浅くてふかい事情が御座いまして……とりあえず、竜胆せんせーんちとそこのお向かいさん所からのお土産っす。袋と外側は濡れましたけど、中味のほうは大丈夫っす」
そう言って荷物を渡そうとした時……

「っくしょん!」

思いがけずも思い切り竜園寺先生に唾を吹きかけてしまった!

「あっ!! すすす、すみませんっ!!!!」
寒さとは別の理由でカイトは身体を震わせる。
「……気にしてません。それより上がってお行きなさい。宿直室のお風呂の用意が……」
それしきの粗相など何程のこともないという表情で荷物を受け取り、竜園寺先生が生徒にそう答えた時だ。

――ガラリ

カイトの頭上から勢いよく窓を開ける音が聞こえてきた。

「「「「先生、お疲れ様でした〜」」」」
「おう! じゃあ、後片付け、戸締りを忘れんようにな。はっ!」

直後、風を切る落下音がして……

盛大な水音とともに、背中と言わず後頭部と言わず、カイトに泥水が叩きつけられる。
竜園寺 菊は、一瞬早く扉の脇に隠れ、その水弾から逃れていた。
薄情とかでなく、これは武術稽古で培った業だろう。
それはともかくとして……

「……一〇点。どうだぁ、見事な着地だっただろう?!」

大変得意そうな声にカイトは背後を振り返る。
剣術科教官室裏口のちょうど真ん前に在る、いや、在った水溜りで、剣術科副主任ティオ・マーチン先生が高々と右拳を振りあげ、校舎の上の方に向って何事かを叫んでいた。
頭上からは嬌声と歓声が聞こえている。


「ティオ・マーチェン先生!!!」
戸口から顔を覗かせた少女の口から金切り声が上がった。


竜園寺先生はかなりお冠の様子だった。
カイトなど背中にその威を感じただけで、即座に道を譲っていたほどだ。
自分が悪くない事は判っていたのにである。

肩を怒らせ、白い頬を薄ら紅潮させ、 (まなじり) をきゅっと吊り上げた竜園寺 菊の姿には、確かに、そこいらの男どもの肝を拉ぐだけの威が在った。
真正面からこの脅威に立ち向かえるだけの胆力を具えた男はそうは居るまいと思われる程だ。

「どぅおっ?! りりり、竜園寺先生! あ、いや、こここここれは、その何と申しましょうか、イ、イワユル、一つのアレと言う奴でして」
少女の怒気を一身に浴びせられて先生はタジタジになっている。
「昨日、わたくしは申し上げましたね? 君子……」
筋骨隆々な剣術科副主任を睨めあげ、竜園寺家の当主はそう問うた。
「く、君子、危きに近寄らず……」
「そうです。不要な危険を冒すことは慎まれる様にと、わたくしはお願い申し上げた筈です。そして、先生もわたくしの言葉をご理解頂けたと信じて居りました!! それなのに、どうして、わたくしを裏切られるのですか?!!」
「い、いや。それがですね、そのゥ、普通課や商業課の子どもたちに、どうしても見たいとせがまれたものですから……」
頭上から勢いよく窓を閉める「ガラガラピッシャーン!」という音が響いてきた。
「先生が美術部の顧問を務められ、その責務を果たされんと一生懸命なことは、わたくしも承知しております。至らぬ身であるわたくしには、到底、真似できない献身ぶりだと、つくづく感服致しております。ですが! 先生の本道は、冒険課の生徒達に剣術と体力作りの指導することで御座いましょう!? 何故、要らざる危険にその身を晒されるのです?! 何故、後進を指導する立場に居られる先生が不要な行動に走られるのです?! そもそも四階の窓から飛び降りることが、静物画の指導と、どう関係してくるのですか?!」

段々と声が小さく、その大きな肉体も小さく縮こめていく剣術科副主任、ティオ・マーチェン先生。
対照的に徐々に昂ぶり、声も荒げていく竜園寺 菊先生。

どう考えたって配役が逆だ。
二人のその姿はカイトに、犬に乳を与えられて成長した虎と、その不品行を叱り付けている嘗ての乳母犬とを連想させた。


「あの、竜園寺先生。荷物ってか頂いてきたお土産なんですけど、これってどの様にすれば良いんでしょう? 先生の好物の『ニシン』蕎麦と蕎麦寿司なんかも入ってるンすけど、このヘンって早めに冷蔵庫とかに入れた方が良いんじゃないんでしょうか?」
先生の怒られている姿が、どーしても、他人事には思えないカイトが助け舟を出した。
この指摘に少女ははっとする。
「それに風呂がどうのと仰っておられたと思ったんスけど、それってどうなったんでしょうか?」
そう言ってカイトは身体を少し震わせ、歯をカチカチと鳴らした。
実際コイツの体感温度は耐えがたいレベルにまで低下している。
少女が「そうでした」と呟く。

「マーチェン先生。これからは軽率な振る舞いはなさらぬ様にして下さい。一人の不品行、不始末は組織全体の不行跡と取られる場合が。いえ、そのように触れ回る鼠輩が世の中には多う棲息しております。立ち居振る舞いにはくれぐれもお気をつけ遊ばして下さい。それ以上に御身体を傷付けるような真似や、不必要な行動は厳に慎み下さいますように。宜しいですね?」
マーチェン先生は直立不動で了解しましたと答える。
返ってきた言葉に竜園寺先生はにっこりと微笑んだ。


「先生も相羽君も、汚れを落として温まってから来るんですよ」
曇り扉の向うから竜園寺先生が二人に呼びかける。
先生も生徒もそれに「は〜い」と返事した。

二人が居るのは宿直室のお風呂場だ。
洗い場は二人一度に身体を洗える程の広さが無いので、カイトができるだけ泥を落としてから先に湯船に浸かり、そのあいだに先生は身体を洗うことにする。
一昨日の美術館巡りでなにか影響を受けてきた生徒から要望でもあったのか、マーチェン先生の身体は絵の具だらけだった。
それらを石けんとタオル……ではなくて、粗塩と亀の子たわしでゴシゴシ強引に削ぎ落としていく剣術科副主任。
見ているカイトの肌の方があわ立ってくる。

「痛くないの、先生?」
カイトの顔は引き攣り、青ざめていた。
「おう。痛くなんかないぞ。鍛え方と年季が、違うからな」
常と変わらぬ笑顔で先生は答えた。
「それぐらい筋肉の厚みがあれば、銃撃戦とかに巻き込まれても平気だろうねぇ」
コイツの脳裏には先日の取引現場に乗り込んだときの情景が浮かんでいる。
その言葉に愉快そうな哄笑があがり、浴室に木霊した。

「こないだのアレか! あのレパードのヤツが舌巻いとったぞ!! 実際、大したもんだったらしいな」
マーチェン先生は本当になんの含みもない笑顔を生徒に向けている。
「逃げ回ってただけだよ」
そう返すカイトの表情は暗く、渋い。
「……武闘派の暴力団に正面からガチンコ勝負を仕掛けていればと後悔してるのか?」
剣術科の副主任は表情を引き締めている。
「後悔はしてない! しちゃいけないんだ。そう教わった」
「なら、何を浮かない顔をしてるんだ?」
「まだまだ俺は足りない物に満ち満ちてるなぁって」
カイトは俯き、唇を噛み締めた。

「わしらから見れば、お前達の年頃は色々な可能性に満ち満ちていて、これから幾らでも、何にでもなっていけて、羨ましい限りだがな」
先生はそう言って鼻を鳴らす。
その言葉にカイトは視線を上げた。

「思う所があってわしは今のこの肉体を手に入れた。だがその為に犠牲にしてきた物よりも、この肉体に果たしてそれだけの価値が本当にあったのかどうか、疑問に駆られるときがある」
そう語る先生の表情は真剣で、ふざけている様子は一厘たりとも存在しない。
「たしかにこの筋肉のお陰で、多少の武器やら魔法ぐらいはへっちゃらにはなった。しかしその護りを維持するために、毎回の食事に気を使い、毎日一定量の運動をこなさないといけないってのは中々大変なんだぞ」
先生はその利害得失をしみじみと生徒に語ってくれた。
カイトにはコストに対するリターンが全然釣り合っていない様に思われた。
だが……

「周りの連中が色々と口喧しいまでに気を使ってくれて、何より教師になって生徒の目と応援の声があったればこそ続けてこられたが、わし独りでは、とてもじゃないがこの肉体を、この高さにまで維持してくることはできなかったろう。肉体その物よりも、それによって得られたモノとで結局の所は、まあ、全て善しと、言えるかな」
そう言って先生はにっこりと嬉しそうに、誇らしそうに笑った。
それは、普段どこか間が抜けて見えているこの先生とは違う、絵になる笑顔だった。

「筋肉の着く着かんは生まれ持った素質や体格やらが影響する。こうして見た所、お前はわしみたいな肉体にはなれんし、なる必要も無い。他に沢山の物がお前には具わっている。風呂以外はずっとウエイトを付けたままでの生活をこれから一年も続ければ、お前には十分だろう。それでも足りないと思った時はわしの所に来い。みっちりと鍛えてやる」
そう言うと剣術科副主任、ティオ・マーチェン先生は、鼻の穴を膨らまして、胸の筋肉をピクピクと動かした。


風呂から上がると、ずぶ濡れになっていたカイトの服はすべて洗濯されて乾燥機に入れられ、アイロンまで掛けられていた。
竜園寺先生が気を利かせてやってくれたのだろう。
そのお礼を言う為と、自分のお土産を手にする為、カイトは先生と一緒に剣術科教官室に向う。

「マーチェン先生。車を出して頂けますか?」
二人が教官室に入ってくるなり真剣な表情で竜園寺先生はそう言った。
警察から「生徒を引き取りに来い」との連絡が入ったと。

「まんじゅう屋のセガレが抜けた穴に納まろうと争いが本格化してきたか。竜園寺先生、引き取り先は何署、それに何人と言っとりましたかな?」
事も無げに独りで出掛けようとする先生に、竜園寺先生が同行する旨を伝えてくる。
補導された中には徒手武術専攻の生徒も居るからと。
その言葉に剣術科副主任は唖然とした表情を浮かべた。

生徒の引取りには生活指導部一名とその生徒の専攻学科の教官一名の計二名で赴くことが望ましいと、教員服務規程に記載されてはいる。
しかし、一番小さな活字で印字されてる付帯条項など真面目に守ってる教職員など舞弦学園はおろか、王国の他の学園にすら一人も居ない。
しかも捕まった十数名のうち徒手武術を専攻してたのはたったの一人で、それも他の教官の講座である。
わざわざ出向かなくても良いと剣術科副主任は諭した。
また彼女には知らされていなかったが、冒険課主任からも軍から出向してきた連中を対外業務には関らせないようにとのお達しが出ていた。
例の銃器関係のあれやこれやで、舞弦学園は軍部に借り(ばかりでもないが)を作った格好になっていた為だ。

そういう事情もあり、マーチェン先生は自分ひとりで充分だと竜園寺先生に言うのだが、彼女は飽くまで同行すると言い張る。
少女の真剣な表情から察するに、説得は極めて難航しそう、というか不可能なようにカイトには思われたのだが……

「竜胆沙耶の実家から土産があると言っとったな、相羽?」
先生から振られた話題にカイトはコクコク頷く。
「竜園寺先生、まずは腹ごしらえといこう。蕎麦を二人、いや、三人前温めてくれ。長いこと向うで待たされるかも知れん。バカやらかしたアホどもには少しムショの空気を味わわせとくのも良い勉強だろう」
マーチェン先生は手近な椅子を引くと腰を下ろし、う〜んと伸びをしてみせる。
確かにその姿からは腹ごしらえするまでは梃子でも動くまいぞという風情が感じられた。
竜園寺先生も先輩の意見はもっともだという風に頷き、この部屋に置かれている冷蔵庫へ足を向ける。

「先生。腹ごしらえなら、お蕎麦じゃなくて……」
先輩教諭のほうを振り返った少女は「蕎麦寿司ならすぐに食べられますけど」という言葉を呑み込む。
振り向いたさきに剣術科副主任の姿は無く、その座ってた椅子をアホ面下げて眺めてるバカが独り残されていた。

「……マーチェン先生は……如何されました?」
竜園寺 菊は、こわい物をおし隠しているのが丸分りな笑顔(らしき物な)をカイトに向ける。
「出て、行かれました、後のことは任せたと言わんばかりの目配せをした後、音も立てず、一瞬で……」
カイトは呆然たる表情で答える。
「どうして黙って行かせたのです?! 声を上げるなりなんなりできた筈でしょう?!!」
「呆気にとられてたんですよ!! それに、忘れてたんです! あの先生にそういう身軽さやら敏捷さがあるのを!」
カイトは何と表現して良いか判らぬという声を上げ、自分が目撃したことや他人から聞いた話をこの年若い先生に話した。
迷宮の壁に垂直に足を着けて直ぐ脇を駆け抜けていったことや、湿地に隔てられている生徒の危機を救うため水上を爆走していったことを。

副主任は、伊達じゃない。
その図体からは想像も付かない素早さや身軽さをティオ・マーチェン先生は誇っていた。
そしてあの鈍そうな風貌(←スゴイ失礼)からはかけ離れた智謀も兼ね具えていたのだ。
竜園寺 菊の完敗だった。


「そんなに警察に行きたかったんスか?」
カイトは自分には理解できないという表情を浮かべている。
「好悪の問題ではありません! 業務内容や服務規程に関ることです!!」
「……よく分んないんスけど、絶対に守らなきゃいけないアレなんスか、りゅーえんじせんせーの仰ってるその規定ってのは?」
首を傾げながらカイトは呟く。
「そこまで気張って守んなきゃならない程重要なアレでもないから、竜胆もマーチェン先生も、一人で行ったんだと思うんですけど」
そう言った後で別の事にも気付いた。
「或いは、もっと単純な問題かも知れないですけど」
物問いたげな相手の雰囲気に「車に載せられる人数とか」と答える。
バスで帰るのをコイツが余儀無くされたのにそれが含まれていたからだ。

そして理由の残りには、蕎麦がこれ以上傷むのを竜胆家が嫌ったということが含まれている。


先日チーターの両親が威力業務妨害をしにきたのは開店前で、その日の仕込みが全部無駄になったのである。
それから今日まで、竜胆家では一日三食ぜんぶ蕎麦尽くし――ご飯、おかず、お汁、みんな蕎麦! お代り義務!――を余儀なくされてきた。
自他共に認める蕎麦好き一家ではあるが、さすがにこの蕎麦三昧は堪えた(竜胆が出先でダシにされるのを甘受したのは、食傷してたって部分が大きい)。

今回カイトが持たされた土産の大半はその蕎麦なのである(向うで振舞われたのと、菊への土産は今日打った物だが)。
まあ、今日ぐらいまでは日保ちするだろうし、湯がくのだから安全基準は満たされるだろう、多分……。


カイトの話に竜園寺 菊は思い切り鼻を鳴らした。
両足を肩幅に開いて胸を張り、背筋を伸ばして両手は腰にという古典的な、私怒ってます、のポーズでだ。
そうしている少女の姿は、置き去りにされて癇癪おこした童女の様にも、悪戯した後で雲隠れしている我が子に腹を立てている母親の様にもカイトの眼には映った。
よしよしと頭を撫でてやりたくなる様な、ごめんなさいと手を着いて謝りたくなる様な、相反する不思議な印象をカイトは受けたのである。

「なにを締りのない顔でわたくしを見ているのです?」
相好崩して脂下がりかけてるカイトに気付き、竜園寺 菊は冷たい声を上げる。
「へ? ああ。いや、チョッと思い出したことがありまして、それで」
カイトは咄嗟にそう答えたのだが、それに対して先生は奇妙なことを質問してきた。
「いきなり車道に飛び出そうと考えたり、教室の窓から飛び降りたくなったりしたことは?」
少女はかなり胡散臭そうな表情を浮かべている。
質問の意図を図りかね、どういう意味かとカイトは尋ねた。

「思い出し笑いは精神分裂症の兆候の一つだと知り合いの方から聞かされたことがあります。ですから、貴方もそういった病を患っているのでは無いかと」
「失礼なことを言わないで下さい」
ほのぼのとした気分を木端微塵にされてカイトも表情を引き締める。
「失礼ではありません。心配しているのです。預かった部隊からそういう形で死者を出す等、教官としても大変恥ずべきことですから」
この言葉にカイトはげんなりとした表情を浮かべたが、相手にそれを気にした様子は見られなかった。

「それで如何なのです? そういう突発的衝動的な自殺願望に囚われたりしたことは?」
竜園寺先生は質問を繰り返す。
相変わらず表情にはカイトの身(って言うより頭とか、心だな)を心配している雰囲気があった。
「有りません!」
さすがにコイツもムッとしている。
「本当ですか? 念のために一度精神科医の診察を受けてみては如何です? 何か新しい発見があるかも知れません。わたくしにその話をして下さったのは優秀な精神科のお医者様なのです。紹介状を書いて上げられますし、わたくしも秘密は守りますよ」
いくらコイツが相手でも失礼過ぎる気がしないでもないが、まあそれだけ心配してるってことだろう(色んな意味でな)。
「要りません!!」
「そうですか? まあ、無理強いはしませんが、気が変わったなら何時でもお言いなさい。紹介状を書いてあげます」
少女はそう言ってにっこり微笑った。
その表情にカイトは「大型連休前の仕返しか」と思った。


「話は変りますが」
少女の声には真剣なものが漂っていた。
「授業は、今回のカリキュラムで導入された二つの必須科目の授業は如何ですか?」
白いかんばせにもやや緊張したものが垣間見られた。

「わたくしの教え方や教えている内容。その辺りに関する不満な点や不明な箇所を教えて欲しいのです」
そう尋ねてくる少女はやや不安げな様子だった。
しかし、なぜそんなことを聞いてくるのだろうか。それも、よりにもよってこの自分に。
思わずカイトはその疑問を口にしていた。
友好的な関係を醸成してこれたとは言えない相手にそんな質問をしてくる理由がカイトには解らない。

「師範免許があるからと言って、後進を正しく指導できる訳ではありません。知っていることと教えることは丸っきり別次元の問題ですから。
その為にも時々自らの行動を振り返ることは絶対に必要な行為ですし、自身の成長にも繋がる大変有意義な行動でもあります」
生徒の質問に先生はあっさりそう答え、次のように続けた。

「また自省は必要かつ重要な活動ではありますが、それだけでは不十分です。第三者からの客観的意見が絶対必要になってきます。現時点において、貴方はわたくしが受け持つ生徒の中でも上位の成績を修めています。なにより判断が的確で、分析にもっとも優れています」
「実技とかはそうかも知れませんけど、態度面とかは最低ラインを割り込んでるんじゃないですか?」
カイトも我が身を顧みる。
「一人の話だけを絶対視する訳ではありません。ましてや鵜呑みにする訳でも。他からも話は聞きます。寧ろ、その反抗的な態度こそが良い方向に働くとわたくしは考えています」
「余りってか絶対に良いことは口にしないと思いますよ、俺は」
カイトは胡散臭そうな表情を浮かべている。
「当り前です、問題点を挙げろと言ってるのですから。誹謗や中傷、虚偽の申告でさえなければ構いません。言われた内容の全てを真摯に受け止める積りではいますが、構造的な問題や変改できない部分、してはいけない箇所に手を出す積りはありません」
そう答えた少女の顔はやや呆れ気味だった。
暫くの間カイトは黙考に耽る。

この先生は真面目で熱意もあり、好悪の感情と果たすべき義務とをごっちゃにしたりはしない。
誉めるべき所はきちんと誉め、嗜めるべき点は、見かけ上どれだけ上手くできていても、キッチリと嗜める。
具体的根拠に基づく定見が具わっており、指導しているときも目的と手段を取り違えたりしないし、生徒にもそれは徹底させている。
また、集団教授法の中で可能な限りの個別指導を行ってくれてもいる。
偶然(生れ持った病のことな)が重なって、自分との間には個人的諍いめいた物はあったが、彼女の進めている授業その物に不満はなかった。

「俺の方では先生の教えるやり方や内容に不満はないですね、今の所」
非常に不満そうな表情でカイトはそう答える。
すると少女はほっと溜息を吐き、なぜか安堵したらしい微笑みを浮かべた。
だが即座に表情を引き締め、次のように問うてきた。

「射撃術の授業が色々問題になっていると耳にするのですが、実際どうなのか、貴方の意見を聞かせて貰えますか?」
「どうって言われても……」
いきなり話題を変えられてカイトは面食らう。


自分のところがあんな感じだ。
他の講座はどんな風か気になったカイトは、ナージャに頼んでその辺を調べてもらっていた。
するとどの講座も、基本、生徒はほったらかしで、技術指導と呼べそうなものは何一つ行っていないとの結果が返ってきた。
強いて違うところを挙げるとすれば、教官が黙っているか声を上げているか、じっとしているか巡回しているかってとこぐらいカナ( ̄皿 ̄

『撃ちっ放し』の授業形態に付いてはカイトは諦観している。
銃が産声を上げたばかりの武器である以上、使用法の確立にはかなりの試行錯誤が必要だろうと。
逆に、その分だけ採点基準が甘くて緩いものになるだろうと、その辺は楽観している。
教官連中の態度は問題だが、そこに自分がクチバシを突っ込むというのもヘンな話だ。
自分の所に問題の一端でも転がり込んできたならまだしも、そうでないのに生徒が親切の押し売りにいくというのは違うだろうと。
またこういう状況なら好きなように銃の研究ができると、逆に喜んでさえいた。

別にコイツは銃使いの泰斗になりたい訳ではない。
それなら射撃術を第一専攻に選んでいる。
何よりカイトは銃、と言うか飛び道具全般があまり好きではないのだ。
甲斐那に言われた信頼性云々ではなく生理的、感情的理由からである。

自らは絶対に傷付かない不敗の地に置いて、敵だけを必死の窮地に陥れ、遠間から『矢』を射掛けて勝利を掴む。

戦略的に見ればケチの付けようがない、見事としか言いようのない戦法である。
憧れを抱いたりもするし、敵がそういう手段に訴えてきたって文句は言わない。
ましてや弓士を厭ったり莫迦にしたりする積りも無い。
それはそういうものだと理解している。

しかし自分がそんな戦術を採ることについては忌避感がある。
そんな勝ち方を続ける内に、殺戮の悦びに嵌っていきそうな自分が何処かに居る。
そんな気がして怖いのだ。
そんな訳で飛び道具が嫌いなのだ。

にも拘らず銃の研究を喜んでいるのは矛盾している様だが、決してそんなことはない。
カイトが知りたいのは、銃が今後どのような進化を遂げるのか、冒険者や武人の間にどの程度まで浸透し普及していくのかという可能性だ。
研究しようと考えてるのは、今度自分が銃に狙われた場合の対抗手段だ。

チーターとの闘いでは生き残ることができた。
暴力団との抗争では逃げ延びることができた。
だがチーターのときは、運という不確実なモノに頼り、時と場の勢いを駆って圧しただけだ。
暴力団の場合は相手の無知、多勢による心の緩み、子どもだという侮りにつけ込んで、援軍到着まで時間を稼いだに過ぎない。

チーターを負かしたのではなく、ただ勝っただけ。
暴力団の連中に勝てたのではなく、警察が来るまで負けなかっただけ。

運が僅かでも不足していたら自分は死んでいた。

狂熱の冷めてきたカイトは先日の戦いをそう分析している。
式堂兄妹に教えを受けた者としては、僥倖を誇るべきではなく、不確かなモノに助けられた自らの未熟、非力を恥ずべきだと。
そしてまた馬鹿げた好奇心に囚われてもいた。

充分な間合とカートリッジを持った射撃の高手(達人)を、自分が刀槍の技や徒手格闘の術で斃すことは可能か否か。

コイツの興味関心はそこにあった。
今は自分なりの銃の有効活用法を見つけ出し、その上で対抗措置を編み出すべく、銃の短所長所を調べ上げている最中なのである。
「彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず」という師の教えに従っていたのだ。
軍から派遣されてきた教官連中と自分達とで銃に関する技術や知識に然程の開きは無いのだから、授業内容や進め方、態度などは如何でも構わない。
そう思ったカイトは自分の考えを述べた。

「教官の態度と言うのは?」
カイトの言葉に竜園寺先生は怪訝そうな表情を浮かべる。
「覇気無く、能無く、やる気無く、芸はあっても臭くて汚く、目は敏くても愚痴っぽい。他人に集めてもらった話だと大体そんな感じですね、射撃術科のせんせーたちの態度ってか授業の進め方は」
この言葉に少女は息を呑み、さらに詳しい情報を尋ねてきた。
カイトは知己を経て知り得た情報を先生に伝えた。
少女の表情に憂愁の翳りが濃くなっていく。

「授業それ自体は黎明期に付き物の混沌状態から抜け出せないでいるだけです。冒険課生なら各人でこの状況を利用し、何事かを掴もうとする筈です。少なくとも、俺はそうです。その辺は先生が気にすることじゃないです。生徒個人が何とかすべき問題です」
カイトは彼女にそう言った。
特に励まそうという積りはなかった。
冒険者は独立独歩を旨とすべきであるし、それはここの生徒達も当然腹に呑んでいて然るべき心構えと思ってのことだ。

「先生はなんで射撃術科のことを知りたがるんです? 教科が違うのに」
カイトはそのことが気になった。
両科の仲があまり良いものではない(徒手武術科の軍人たちが射撃術科の面々をあからさまに莫迦にしてる、見下している)というのは、調べてもらうまでもなく、コイツもあちこちで耳にしていた。

「わたくしは今回この学園に派遣された人員全てを統括するべき立場に居ます。
たとえその責務を果たすことを上や周りが望んでないとしても、
『客寄せパンダ』としてしか期待されていないとしても、
惰眠を貪り、日々を怠惰に過ごしていても良い理由にはなりません。
少なくとも、わたくしの中では。
ただ、それだけのことです」
少女は至極当たり前の事を口にしているという感じだった。

「少佐さんだったけ。軍人って言うか、軍隊ってのは大変そうだね」
そうカイトは嘆息する。
「何故、わたくしが少佐待遇にあることを知っているのです? 貴方達に話したことは無かった筈ですよ」
少女は怪訝そうな表情を浮かべた。

「へ? 先生んとこ、お客さん行ってないの?」
「いいえ」
先生はそう言ってかぶりを振る。
「銀髪青眼ってか、ノーザン人のもっの凄〜〜〜い美人のおねえさん」
そこでカイトは虚空にひょうたんの様なラインを描こうとしていた手を止めた。
セクハラがどうのと言っておいて、自分がそれを破りにかかるのはマズいことに気付いたのである。
「ですから来てないと言ってるでしょう」
「先生に、竜園寺少佐に会いたいって言ってたんだけど。帰っちゃったのかな?」
腕をあげたことをごまかすため胸元で組み、カイトは首を傾げてみせる。
「幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたりという経験はありませんか? 貴方の場合、幻覚が聞こえ、幻聴が見えたりしてそうですが……」
少女の眼差しは、まるで、虫でも見ているかのようだった。
「無いです。非合法の薬物を使用したこととかもありません」
二人はしばらくの間にらみ合いを続けていたが、やがて竜園寺先生が「たいへん参考になりました」と口にしたことで、お開きという雰囲気になった。


カイトは今日貰ってきたお土産から自分の正当な取り分を選った後、先生に尋ねた。
射撃術の授業というか、射撃術科の教官達への対策について、自分に手伝えることは何かないかと。
その言葉に少女は一瞬目を丸くしたが、直ぐにクスクス笑いながら手を振った。

「軍という場所は、無理と理不尽が通り相場です。
稚気と侠気だけで解決できる問題など存在していません。
道理に面子に政治に金。人の世は、何事も複雑に絡まりあい、怪奇にでき上がっている。
貴方達も、そういう現実を認識し始めても良い頃ですよ。……ですが」
そこで彼女は大きく息を吐く。
「貴方がそういう申し出をしてくれたことは、その志だけは有り難く受け取っておきます」
そう言って竜園寺 菊はやんわりと微笑んだ。

それはこの先生が今までに見せてきた笑顔とは違っていた。
年相応の可愛らしさや明るさに満ちた物とは違う、妙に。
と言うか、イヤな風に大人びて、達観した感じで、それでいて何処かしら悲しげな印象を与える笑顔だった。
カイトはなぜか切なくなった。
二、三度軽く頭を振って遁辞を述べると、そのまま自室に引き揚げることにした。


カイトが入り口の扉に手を掛けたときだった。

「相羽君」

竜園寺先生が声をあげて、カイトを呼びとめる。
「射撃術の授業は、多分大丈夫です。
その内に上手く回りだします。
わたくし、竜園寺 菊が保証します。
内容が今よりも厳しくなることは間違いないでしょうが、その分戦果も大きくなると。
ですから心配せず、学業にお励みなさい」
そう言って先生はにっこりと笑った。
先刻の物とはちがう、この先生の普段通りの、年相応の可愛らしさや明るさに満ちた笑顔だった。

「え? ああ、いや、その、そうですか。判りまし、あ、そうだ。俺の服、洗濯して、アイロンまで掛けてくれたの先生ですか?」
竜園寺 菊はこっくりと首肯する。
「えっと、その、どうも、有難う御座いました」
神妙な面持ちで頭を下げるカイトに、少女は――クスクス笑って――「どういたしまして」と答えた。


教官室を出たところでカイトはため息を漏らした。
先ほどのモノとは違う切なさに襲われていた。

(男が今まで着てた服や下着を洗濯して、それに何の感慨も抱かない、見せないってのはあの年頃の女の子として如何よ?)

カイトはそんな想いに駆られ、またぼんやりこんなことも考えた。
(あの娘に結婚を申し込む場合、よっぽど直截な言葉で言ってやらないと伝わらねだろうな。『君の味噌汁が飲みたいな』とか、『俺のパンツを洗って欲しい』とかだと文字通り、そのまんまの意味に取るだろうな)
とすれば……

「『俺と一緒の墓に入って欲しい』とかか? 色気もへったくれも無えな」

遣る瀬無さを振り払うかのように首を振って、カイトは自室へと引き揚げていった。


翌六日、木曜日である。
カイトは普段より一時間も早く起床した。
洗顔を済ませると朝食を作り始める。
普段の朝食は飲むゼリー等だが、今日は昨日お土産にもらった『ニシン』蕎麦だ。

蕎麦寿司は昨日の夕飯に戴かせてもらった。
不味くはなかったが、飛び上がるほど美味いって訳でもなかった。
何と言うか、気が抜けている感じがした。
茹でたて、出来立てをその場で食べたならもっと違うのかも知れないが……。

「やっぱり、蕎麦は蕎麦だよ。「盛り」や「掛け」で食ってやるべきだよ。発想ってか、着眼点は良いけどさ」
蕎麦を湯がきながら、カイトはそう呟いた。

あらかじめ温めておいたドンブリに蕎麦を容れると、すぐダシを注いだ。
もらって来た蕎麦の包みを一つ残らず開封して、付属の七味唐辛子の小袋を取り出す。
全部一纏めにして口を切ると、中身をドンブリにブチまけ、よ〜くかき混ぜた。
黄金色をしたダシにかなりの赤みが差したが、コイツの好む程ではない。
冷蔵庫から『豆板醤』の小ビンでも引っ張り出すかなと思ったが、そういう混成軍は良くないと判断し、ガマンする。
「おキクさんの店で七味唐辛子を二本ほど仕入れるか」
そう呟いた後はただ黙って、ドンブリの中身に取り掛かった。

鍋やドンブリを洗っている内に適当な時間になった。
コイツが早起きしたのにはもちろん理由がある。
授業開始前に、人と会う予定になっているのだ。
まぁ、なにかの残務整理の様なものだ。
何時もの様に富嶽に手を合わせた後、荷物を手にカイトは自室を後にした。


「どうしてこういうことだって思い付かなかったのかしら、私」
ナージャ・アントノーヴァはぼやいた。
「こういうことって?」
「何でもないわ。相羽君がそういう人だってことを忘れてた自分に腹を立てているだけよ」
ナージャはそう言って溜息を吐いた。
「そういう人ってどういう人? 何とか今日の授業に間に合うよう、色々と手間隙掛けて、骨も折ったのに」
「何て言ったら良いか、もう、解らないかなぁ、相羽君には」
少女は嘆息しながら首を振る。
気持は解るが、しかし、ここのカイトにそういうモノを期待するのは間違いだ。

「どにかく、それ着けてみてよ。微調整やら手直しとかが必要なら、直ぐにやっちまうしさ」
カイトはそうナージャを急かした。
「こういう用件なら昨日の内にそう言ってよね」
小声でぼやきながら、ナージャ・アントノーヴァはカイトからの『贈り物』を試着する。
二人が居るのは、まだ日直も来ていない、三−Aの教室である。


ナージャは昨晩の内にカイトから連絡を受けていた。

明日朝、他の生徒が来ない内に教室で会いたいと。

この言葉を聞いたとき、ナージャは妙な期待を抱いた。
カイトの声にナニか隠し事の雰囲気、人目をはばかる空気が漂っていたからである。
時間帯がアレだとは彼女も思った。
しかし最近彼女が聞いた話に拠れば、男がそうなった場合、時間や場所は障害にはならないのだそうだ。

雨が降ろうと、槍が降ろうと、周囲が火に包まれていようと、今際の際であろうと。
一旦ヤると決めたら男はヤる。
いや、ヤらなければ男ではない。
また、それだけの想いを相手に抱かせられない内は、女とは言えない。
そして、男のその想いに応えてやるのが女としての心意気なのだと。

だから彼女は、期待と不安とが入り混じった、不思議な胸の高鳴りを覚えながら教室にやって来た。
入ったばかりのバイト料を奮発して購入した、ワリと高価な上下揃いの下着を初めて着けたし、ムダ毛の処理にも気を配った。
念の為に、帽子(薬局で売ってるゴム製の小さい奴な、カイトの愚息用の)だって用意してきたのだ(女子寮にもそういう『遺産』はあるな)。
それなのに……

『贈り物』というのは、カイト手製の銃の革鞘だ。
それも肩から腋に吊り下げる形の。
もちろん入れ物だけでない。中身だって一丁、添えられていた(でなければ意味が無い)。

気付いている向きもあるだろうが、コレは先日の銃器盗難事件で青山刑事が警察の押収品課から届けさせた見せ銃の一丁である。
そう、カイトはあの逮捕劇直後のドサクサに紛れ、銃二丁をスリ取ってきたのだ。
と言って、ネコババしてきた訳ではない。

「落ちていたので届けます。拾得者の権利はすでに行使済みですのでお気遣いなく。」

と書いたメモを青山刑事の懐に『スリ入れて』学園に戻ってきたからだ……。

拾得物を届け出た者には――全体の五%以上二〇%未満の――報労金を受け取る権利があると法律では認められている(コレって『遺失者には……義務がある』にすべきだよね)。


確かに最初はフレデリク・クーグバーン以下四名の肉体的社会的生命を守ることが目的だった。
そして、いわゆる誇りの報酬というものも手にすることができた。

しかしコイツとしては巻き込むことになった相庭マイトに報酬を支払わねばならないと考えていた。
タダ働きは絶対に良くないとコイツは思っているのだ。
それに、現世で暮らしてる限り、金銭的な報酬が人には必要だろう。
終わってみて判ったが、自らが選んで冒した危険とは言え、今回は本当に命に関る大事件だった。
自分の手に余ること夥しい程の危険であり、少しぐらいコチラにも余禄がなければ割に合わないとも感じたのだ。

物心両面での報酬がその業務に携わった人に正しく支払われない状態が長く続けば、その人は必ず破綻を来たす。
そして、何時か自分の人生や職業、時には家族までをも棒に振るような行動に絶対に走る(作者はそう信じて疑わない)。

だから、青山刑事があの事件を囮捜査合法化の足掛かりに利用すると漏らしたのを聞いて、ついやっちゃったンだ。

問題はアレが『落ちていた』と解釈できるのかという点と(ねーよ)、担当者への届けを書面で、しかも、こっそりと済ませたことである。

しかしコイツには勝算があった。
取り締まるハズの不良冒険者の手を借りて事件を解決したという事実を、警察は不体裁と考えるに違いない。
また、大勢の警官がいる前で押収品を持ち逃げされたなんて不祥事、十中八九、揉み消すはずだ。
ましてや、おとり捜査や潜入捜査の法案成立に向けて動こうとするなら、汚点や失点は絶対に部外秘にする。
青山刑事とその知己らしき押収品管理課の警官、それに青山刑事とは仲が悪いらしいキャリア。その三人ぐらいでこの件は立ち消えになるだろう。
カイトはそう計算してたのだが誤算が出てきた。

相庭マイトの方でも――似たようなメモを青山刑事のポケットに『スリ入れ』――銃を、やはり二丁、スリ取ってきたのだ。
無論こちらの方にも理由がある(盗人にも三分の理って言うよな)。
冒険課で教え込まれる冒険者の心構えは「状況が許す限りに於いて、自らの命と仲間の命、それに可及的大量の利益と情報を持って帰還せよ」だからであり、ロニィ先生が口やかましく生徒たちに教え込んできた言葉が「転んでもタダでは起きるな」だからだ。

しかしマイトのこの行動はカイトにとっては計算外だった(二〇、いや五%という数字とも食い違ってくるしな)。
もしかすると我が成算ならずして罪の清算求められ、ウェブクロール刑務所やらダンスダンス刑務所にでもぶち込まれるかと、昨日までビクビクしてたのだ。
それが昨日竜胆の実家で警察の話を聞かされ、ホッとしたのだ。
どうやら、当分の間、自分たちがお縄を頂戴することはなさそうだと。

それでコイツはマイトと分配しておいた(ジャージを返しに行った時な)うちの一丁を、後詰に回ってもらったナージャに報酬として渡せると判断し、昨日連絡したのだ。
今日、他の生徒が来ない内に教室で会いたいと。
さすがに違法行為スレスレ(てか完全にアウトだろ)で入手した分捕り品の受け渡しだから自然と声も小さくなるし、背徳感だって漂ってくる。
それを彼女は他のナニかと勘違いした訳だ。
無論、コイツにそんなことを解れと言う方が無理な了見だ。

ナージャとの話が済んで携帯を切った途端、ロニィ先生から連絡が入った。全ては決済済みだと(手段は不明だが、盗聴か盗撮されていることをカイトは確信する)。


何事にも上手と言うか上前をはねる奴と言うのか、ズル賢く立ち回るヤツは居るもので今回もその例外ではない。
大型連休中、ロニィ先生は軍に赴いて話し合いを持ってきた。
生徒が銃器強奪を実行しようとするまで追い詰められていたことに気が付かなかったのには、学園と保護者側に全ての責任がある。
しかし、実態はどうであれ、生徒に侵入しようという気を起こさせるような警戒体制にも問題があるのではないかと。
ロニィ先生はそう言って、射撃術科の敷地周りにちゃんとした防護柵を張り巡らせ、警備会社とも契約を結ぶ為の金を軍に捻出させた。
そのついでに、シックスクールの工事費用と、竜胆の実家の補修費用と、チーターの入院と治療費用と、他にも色々と理由を付けて軍経理部の担当者の目ン玉が飛びでるような多額の金を搾り取ってきたのである。
カイト達の件はおまけだ。

もちろん幾つか交換条件は付いた。
中でも一番念押しされたのは、マスコミの目が軍から派遣された教官達に向かない様にできるだけ配慮することである。
要するに教官どもが多少荒っぽい指導をしても余り文句を言わず、学園内部で処理しろってことだ。
カリキュラム導入の是非を巡る論議が再燃するのを軍側はほんとうに恐れたのだ。


「これでカイト君達の手が後ろに回ることは無くなったから安心して。ああ。お礼は良いわ。もう戴いちゃってるから。じゃあ、ナージャちゃんのお洋服、頑張って仕上げてあげてね」
そう言ってロニィ先生からの伝話は切れた。
イヤな予感に襲われたカイトが冷蔵庫を開けると、三栗屋から貰ってきたお土産が全て(コイツの取り分は)消えていた。
『十三里』も、芋きんとんも、豆菓子も、一かじりしただけで残しておいた芋羊羹までもが、跡形もなく消えていたのだ。

この事で談じ込んでも無駄だとカイトには判っていた。
「落ちてたのを拾った」と言い張られるか……、
図書室登校の形に出席簿を改竄した事への報酬だとかわされるか……、
軍から警察に手を廻させるために膨大な量のカロリーを失ったので、甘い物が大量に必要になったと言い逃れられるか……、
いずれにしても談じ込むだけ時間と、それこそ、カロリーのムダだと。
ただ……

「そういう他人の、ってか恋人でも何でもない男の食いかけや食い残しを、女が食べるってのは止めて欲しいなぁ」
カイトはそう言って嘆息する。
その後、二、三度、軽く頭を揺すって気持ちを切り替えると、カイトは作業を再開した。

ナージャの凡そのスリーサイズは判っていた。
ミハイル・ベイリュールとの会合を持つ際に購入させられた変装用衣装のレシートに、服の号数が記入されていたからだ。
で、先日ミュウに連れられ実家に戻った際に、服の号数が大体どの位の身長、座高、胸囲、肩幅になるのかを母に尋ね、使えそうなファッション雑誌や服の型紙等も数点貰ってきた。
しかも、母は使わなくなったと言う携帯にも便利な小型の魔動ミシン(お昼の国産系TVショッピングで売られてる様なアレな)と針や糸等の小物類、大量の端布、要らなくなった革製品等も付けてくれたのである。
そのお陰でカイトは、僅かな出費と最低限の製作時間で鞘と弾帯、それに使用済みカートリッジを入れる袋を二個ずつ拵えることができたのだ。


「……こんな色気もへったくれもないペアルックをすることになるなんて……」
鼻歌混じりにミシンで仕上げ縫いをしているカイトを見やって、ナージャ・アントノーヴァは遣る瀬無い溜息を吐いた。
だが、すぐ彼女も気分を変え、確認すべきことを口にする。
「でも、本当にこれ貰っても良いの? 私、大した事してないわよ」

ナージャが手にしてるのはヒグチ銃器の新古品(言うなればな)だ。
かなり高額の品である。
罪に問われずとも、受け取るのには躊躇いがあった。
どう考えても、リスクとリターンの釣合いがまったく取れていない。
ちょっと雑用を務めただけの自分が、命の危険を冒してきたカイトたちと同じ報酬を受けて良いとは彼女には思えなかった。

「アントノーヴァさんも、ミハイル・ベイリュールも今回の件には多いに尽力してくれた。あの、ボケナスの直接射撃援護以上にね。だから、それは正当な払い。何よりも俺は戦果や成果は生き残った仲間の間で等しく分配されるべきだと思ってるし、それに」
カイトはそこで少し笑って言った。
「『繋ぎ』と『嘗め役』は高給取りだって、『鬼兵』の昔から決まってるらしいしね」
カイトは仕上がった鞘をナージャに渡し、ミシンの蓋を閉じた。

ナージャはまだしばらく躊躇っていたが、やがて大きく頷くとにっこり笑った。
「判った。遠慮なく受け取らせて貰うわ。ありがとう、相羽君」
そして改めて鞘や弾帯の装着具合を確かめていたのだが……。

「……ね、ねぇ、相羽君。如何して、ここまで測ったみたいに正確なサイズの物が作れたの?」
やや引き攣った笑みをナージャは浮かべている。
カイトはその理由を事も無げに語って聞かせた。
口調は朗らか且つ誇らしげであり、大変ノーテンキで、何より大変無邪気な物だった。
雰囲気や態度もその口調を裏付けるものであり、一瞬たりとも表情や視線等に変化は見られなかった。
話を聞いていく内に、どんどんナージャの表情が険しい物になっていく。
話を聞き終わった彼女は「本当にありがとう、大事にするわ」と無表情無感動に言って教室から出ていった。
彼女が本当は大して嬉しがってもいないし、感謝もしていないことはカイトにも判った。

カイトはナージャがなぜ不機嫌なのか解らなかった。
これまでにもコイツは女の子らから裁縫仕事を請け負ったことがあった。
その全てに於いて少女達に喜ばれ、良い関係を築いてくることができた。
今回も上手くいく。
カイトはそう思っていた。

因みに言うと、これまでコイツに裁縫仕事を頼んだ少女達は、ほとんどが彼氏持ちであり、コイツに特別な感情を寄せている娘は一人も居なかった。
頼んだ仕事というのも彼氏へのプレゼント作りがそのほとんどで、たまに自分たちの着衣の綻びやボタンの付け直し等があったりしたが、その体型をカイトに知らしめるような仕事は一つも無かった。
そして仕事の中身まではコイツは憶えてなかった。
仕上がりを喜んで貰えた、針仕事の腕を絶賛されたことばかりが強く印象付けられてたせいである。


コイツは昨日、竜園寺先生の態度や反応に文句をつけたことを忘れている。
ロニィ先生に取り立てられた『手間賃』にいちゃもん付けたのを忘れてる。

年頃の女の子が同年齢の少年の下着を洗濯し、それに対して全く反応を示さなかったことについて。
単に濡れた衣類を洗濯しましたよ、ただ作業を済ませただけですよと言わんばかりの態度に対して、カイトは非難がましい感想を覚えた。
ロニィ先生が食いさしのイモヨーカンまで持って行ったのは、イタズラやからかいの積り。
或いは、『量』のみを重視してのこととは判っていても、そのことにコイツは切ない想いを抱いた。

両者に共通しているのは、自分があの二人から『男』として見られていないという事実だ。
あの二人と恋愛関係になりたいとかではなく、そういう振る舞いはコイツにはキツイ、キツかったということだ。
そのコイツは、自分が今ナージャに見せた態度が、彼女達から示された振る舞いと同じである事に気付いてない。

仕立て屋や靴屋は採寸した型紙を店の外には出さぬことを鉄則とし、相手が誰だろうと本人以外にはその型紙を絶対に見せない。
採寸された数値が書き込まれている型紙は個人情報の塊だ。
裁判所が閲覧請求権を他者に下ろそうが、国会が開示を要求して強制執行に乗り出そうが、個人にはこれに抵抗する生得の権利がある。

本人の心底からの同意無しに個人であれ団体であれ、直接接触間接視認を問わず、全くの他人がこのテの個人情報に触れることは断じて絶対に許されないのだ!

しかるにカイトは紙の上の数字でとは言え彼女を丸裸も同然の状態にした。
少なくともナージャはカイトの行為をその様に捉えている。
お針子のバイトも経験し、製図から相手の肉体のラインや凹凸を正確に想起できる彼女にとってはそういうことになっている。
そして、そうやって『視たモノ』に対し、カイトは一切の情動を示さなかった。
今も自分を見る目に性的な物が一切含まれていない。


(身に付ける物を手縫いで作れるだけの『眼』と『頭』を持った男の子に、何の劣情も抱かせられない私って、私の肢体って一体なによ!?)

ナージャ・アントノーヴァは心中嗟嘆した。
カイトに想いを寄せている彼女にとってこの態度はショックであり、また自らの容姿やプロポーションに少しは自信を持っていた少女にとって大変な屈辱でもあった。
カイトは自分を恋愛の対象として見てないし、性欲の対象としてすら捉えてない。
彼女はそう思った。

しかし、これは彼女の勘違いだ。
カイトはナージャに少なからぬ好意を寄せていた。

ナージャはミュウの様に優しい風貌を具えながらも、竜胆の様な凛とした空気も身に纏っている。
先日カイトに見せた行動力、それに奇知と閃きはコレットに通じる物があるし、セレスの様な茫洋とした雰囲気。こちらにほっと一息吐かせてくれる様な気楽さ、気安さみたいなものがあった。
こちらが手を貸すまでもなく、独りで何事もこなせる実力が具わっているのは判っているが、その秀麗な美貌に時おり浮かぶ憂愁の翳りがカイトを惹き付け、大いに庇護欲を掻き立てた。

見た目や才能も心惹かれる要素であるが、そんな事よりも彼女の中に自分と響きあう何か――ミュウ達と過ごしていたときには感じられなかった何か――があることをカイトは重視していた。
だから、みっともない細工仕事などを彼女に渡すことはできなかった。
彼女の好意を得んとばかりに必死になっていたのだ。
それは今回の丁寧な仕事ぶりにも表れている。

若しかすると、コイツは女性や恋愛といった物をいささか重く考え過ぎていたのかも知れない。
神聖にして侵すべからざる物だという風にでも捉えてたのかも知れない。
或いは、一般的な男性の脳の活動によく見られる、謂れなき劣等感や過剰な自意識。
そういった心の動きがカイトにこのノーザン人美少女を性欲の対象に認知することを無意識の内に禁じていたのかも知れない。

何れにしても、まだ子どもだったということだ。
コイツだけでなく、ナージャの方も。
互いに互いを過大評価していた部分があり、自分で自分を過小評価していた部分があった。
それだけのことに過ぎない。

しばらくの間、ほんの一、二週間程度、二人の間に誰も他人が入らなければ、互いの誤解やわだかまりも解けただろう。
そして性の違い、意識や考え方の違いに因って生じがちな男女交際に於ける夢と現実とのギャップを、穏やかな早さで認識理解するに至ったはずだ。
そして二人の間に行き交い合う友情は恋愛感情へとその中身を変えていただろう。
少なくとも親密さを深めていったことだけは間違いない。

これだけは言える。

僅かな冷却期間が与えられていれば、ナージャ・アントノーヴァが忌まわしく悲惨な運命を自ら招きいれることは無かったであろうし、悲嘆と後悔に苛まれることも避けられたと。
そしてカイトも自らの無邪気さを幼稚さと断じて自身を呪うこともなかったし、己の純真さを愚かさと評して自らを罵倒したりすることもなかった。
ましてや、少年の貌が憎悪に歪んで純粋さを湛えた眼が鬼涙に溢れかえり、その喉から人とも獣とも着かぬ呻き声、哭き声を絞りだす事態など絶対に起きなかった、と。


今日は、王国暦五六八年五月六日。
大型連休が明けた日。
少年と少女のあいだに些細な、しかし深刻な行き違いが生じた日。
登校してくる生徒達の声が大きくなり始めていた。






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