ぱすてるチャイム Another Season One More Time 菊と刀 23 the squealing squirrel will be squeezed 作:ティースプン |
それは、日曜の昼過ぎのことだった。 この日、まだ朝靄煙る内からカイトは墓を建てに出かけていた。 甲斐那の墓、刹那の墓、戦いに散っていった戦友たちの墓、そして…… これまでに自分が屠りさってきたモンスター達の墓である。 カイトが墓を作ろうと思いたったのは昨晩のこと。 式堂兄妹に巡り会ってから、自分の中では、一年が経過していたことにカレンダーを眺めていて気が付いた。 と同時に、ふとカイトの脳裏に蘇ってくる言葉があった。 「生者は死者を忘却の彼方に追い遣ってはならない」 修行場である空き地に来たとき、二人がこちらに背を向けて跪き、何かを拝んでいたことがあった。 二人のかたち全体から侵してはならない厳粛なものを感じ、すべて終わるまでカイトは音を立てず、息も殺していた。 やがて甲斐那が立ち上がって、カイトの気遣いに礼を述べた。 カイトは「いえ、別に」としか応えられなかった。 多少野次馬根性はあるが、覗きや出歯亀趣味はコイツには具わってはいない。 誰にでも訊いてはいけない領域があることぐらいコイツだって弁えてる(ケッコー忘れたりすることもあるけどな)。 相手の触れられたくない過去の傷みを、根掘り葉掘り問い質し、暴き立てるのはコイツの趣味ではない。 甲斐那も弟子がそういう性格であるのは理解していた。 だが武人として、また人が生きていくうえで理解しておくべき大切な所作として、次の様な言葉を口にした。 人は今は亡き家族の来し方や友人の行跡、有難味を完全に忘れ去ってはならない。 それは現世に残された者の義務である。 武人たるを志す者は、永遠に相寄る術も無き相手の恩を忘れることも、また怨を恐れることも許されない。 それは闘いに生き残った者が絶対負わなくてはならない唯一の義務であり礼儀である。 自らの功罪を較べみることに拠ってのみ、武人は己が所業の深淵を垣間見ることができる。 宿業に想いを馳せぬ武人は武道に自在を得ることなく、また絶対なる一を手にすることもない。 宿業を思い知らずして武の道を行くは、悪鬼羅刹の屯する冥府魔道を歩むことに外ならない。 己の心を闇の辺土へと沈め、其の魂を畜生以下のモノに堕さしめる愚行以外の何物でもない。 そして先ほどの言葉に至る。 「生者は死者を忘却の彼方に追い遣ってはならない。時に今は亡き人達の在りし姿を偲び、折に触れ自らが命を奪ってきた敵に想いを傾ける。それは、過去の栄光に浸って脂下がれということではない。自省や自戒とも、やや、色合いが異なる。上手く説明できないが、とにかく自分と縁のあった他者の死を悼んでやろうとする気持ちは、命尽きる最後のときまで大事に保ち続けろ。とまあ、そういうことだ」 何事も言い切りや断定口調で結ぶ甲斐那には珍しいことだが、このときは非常にもどかしそうに自分の言葉を締めくくっていた。 珍しいと言えば刹那も兄のこの言葉にだけは注釈を加えなかった。 彼女は非常に厳しい表情、大変恭しい手付きで、今まで自分達が拝んでいた物を袱紗に仕舞い込んでいた。 カイトはそのときのことを思い出し、墓を建てようと決意した。 と言っても、二人の死体は今も時空間を隔てた魔王殿にある。 納めるべき遺骨も遺髪も着衣の切れ端なども自分の手許には無い。 代わりに御神刀富嶽が形見として存在し、朝晩欠かさずカイトはそれに手を合わせ、拝んでもいる。 墓がなくとも何ら差し支えはない。ないが、有っても別に困らないだろう。 カイトはそう考えた。 『仏』壇があるから、墓も菩提寺も不要だとの結論にはなるまい。 丁度良い時間の活用方法ができた、と。 ダンジョン実習後、コイツは「街に繰り出そう」とナージャとマイトを誘ったのだが、「忙しいから」と両方から断られていた。 ――このときナージャ・アントノーヴァが、かなり、不機嫌であったことを明記しておく。 ミュウ達もそれぞれの仕事やら研究やらで忙しくしており、コイツの相手をしていられなかった。 カイトが墓所に選んだのは、学園に程近い、周囲を木々に覆われてる空き地である。 かつてコイツが弐堂流の指導を受けていた場所だ。 ここは一年前、いや、五年前と少しも変っていなかった。 変ってないというか、元の状態に戻り、下生えが生い茂っていた。 学園の用具入れから(無断で)持ちだしてきた軍手をはめ、鎌を取ると一帯の草を刈り取って、ゴミ袋に集めていく。 墓地としてだけではなく弐堂流の、そして射撃術等の修練の場としても使えるようにする為の整地作業でもあった。 青草の臭いに息を詰まらせそうになりながらカイトは思った。 用具入れに使われていた物置(百人乗っても大丈夫って、アレな)にあった除草剤か、その脇に置いてあった除雪にも使えるバーナーを借りてきた方が良かったかな、と。 限界に達した腰を伸ばし、進捗状況を確かめる。 少しなら息抜きをしても良さそうだったので、カイトは水筒に手を伸ばした。 空き地全体を眺めつつ感慨に耽る。 これまで積み重ねてきた練功、それでもなお未熟な自分、そして甲斐那達との隔絶した実力差に付いてだ。 かつてカイトの師は一瞬で生い茂っている草を切り払ってみせた。 武器も法術も使わず、腕の一振りだけで、甲斐那は一帯の下生えを刈り取った。 切り払われた下生えは、刹那の呼び起こした風が林の奥へと運び去っていった。 驚愕の面持ちでいるカイトに甲斐那は言った。 「虚刃。弐堂流絶招の一つだ。絶招のなかでは初歩の小技ではあるが……」 そこで彼は言い淀み、それ以上口にするのを止める。 ――正式に入門式も執り行っていない者に、流派の極意や秘奥を明かすことが憚られたのである。 弐堂流遣いで一人前とは、制式兵器である太刀への運用も可能な体術の套路三種をみっちりと修めた後に、絶招を『一手』伝授された者を指す。 カイトはその様に聞かされた。 それで言えば虚刃を伝授されたコイツは既に一人前の弐堂流遣いのはずである。 だがあの二人には遠く及ばない。 今日ここに来た時、カイトは師を真似て虚刃の一閃で辺りの下生えを切り払おうと試み、そして情けない結果に終わったのである。 カイトは虚刃を上手く発動させることすらできなかったのだ。 自分と師とを隔てているモノは何なのか、カイトは思い悩んだ。 教わったことを実践して日々を送ってるはずなのに、なぜ上手く絶招を使えないのか。 自分に足りないものは何なのか。 素質か、修練か、実戦経験か、その全てか。 丸っきり判らない。 逆にその内のどれなら足りているのか。 それさえ不明だ。 正誤の判定すら着かぬ状態で修行を続けて、本当にあの二人のいる高みにまで辿り着くことができるのか。 それを思うと前途が暗い霧に閉ざされている心地がした。 不安の暗雲が湧き起こり、胸中を覆い尽くそうとした。 その時 数羽の小鳥がカイトのいる空き地の上を囀りながら通過した。 スズメかヒバリか。分らないが、とにかくその声で沈み込んでいくばかりの心を救われた。 二、三度、軽く頭を揺すってカイトは気持ちを切り替える。 弐堂流遣いが最初に征すべき鬼は自らの心中に生じる疑心だ。 迷ってばかりいたって意味が無い、カイトはそう思った。 水を片付けると、再び草むしりに戻っていった。 本当に羨ましくなるほどの切り替えの早さだ。 昼前には草刈も終わった。 手頃かどうかの判断が難しい石をカイトは四つ探し出し、それぞれの墓に定める。 作ってきた蕎麦寿司(霊前ということもあり、中はカッパと御新香)を供え、手を合わせた。 遅ればせながらカイトは二人に自分を現世に戻してくれたことへの感謝を捧げる。 次に廃棄せざるを得なくなったダーツ類の墓に体の向きを変える。 そして盾となってくれた戦友達の冥福を祈った。 最後に……ダンジョン実習で屠ってきたモンスターの墓の前に屈み込み、ハタと固まってしまう。 何と祈れば良いのか。いや、そもそも命を奪った者が奪われた相手に祈るなどということが許されるのかどうかさえ、カイトには判らなかった。 だが、それでも。 カイトは合掌し、瞑目した。 快か不快かも定かではない、情としか呼び表すことのできないモノ。 自身の内に忽然と湧き起こった、名状不可能な情念に衝き動かされるまま、カイトは黙って目を閉じ、手を合わせた。 そして…… 何とも言えない重く、イヤな気分を味わうことになった。 今までに斃してきたモンスター、それらを自分がどのように屠り去ってきたのか、その悉くをカイトは想い出していた。 学園の鐘の音が風に乗って流れてきた。 その音にカイトは瞑っていた眼を開く。 その表情は暗く、たいへん険しかった。 モンスターを屠り去ってきたことに、罪悪感はあるが、後悔はない。 自らが必要だと信じ、何らかの行動を現実に移した以上は、 自らが採った行動に拠って、求めた利益を受けた限りは、 その利益に付随する罪も背負わなければならない。 罪と呼ばれるモノも行動の結果、負債という名の利益として腹中に呑まなければならない。 それは孤剣に拠って立たんとする者、冒険を住処とせんとする者が果たすべき、当然の責務だとカイトは思うようになっている。 辛くともそれが現実であると腹に呑んでいる。 それが嫌ならば別の道を行くしかない、とも。 だから、カイトには、罪悪感はあるが、後悔はない。 少なくともカイトはそう思わねばならぬことを理解しているし、実践しようともしている。 しかしその罪悪感が多いに問題だった。 前年度にカイトがダンジョンで行ってきたことは、卒業がフイになったため全くの徒労、無意味に終わったのである。 要らざる殺生、というよりも無用の大量虐殺を行ったという罪悪感、遣る瀬無さ、慙愧の念、虚脱感に襲われても無理はない。 そして問題はそれだけではない。 徒労感や虚脱感、虚無感とは別の種類の虚しさがカイトの中には芽生えていた。 生命は何と簡単に喪われ行くのだろうか。 その想いがカイトの胸に、深く、刻み込まれた。 やがて、頭を揺すりながらカイトは立ち上がる。 気持ちの切り替えはできていない。 心中に芽生えた哀感は消えてない。 今もなおカイトの胸中に昏く立ち込め、全身を重たく包み込んでいる。 流石にカイトもそこまで能天気にはできてはいないし、命を奪うことに対して不感症でもない。 正直、何もかもを投げ捨ててしまいたくなる位、気分は重かった。 だが、……そう。 だが、それでも。 カイトはこの道を行きたいと思った。 自らの行為が忌まわしいとは理解しつつも、カイトは強くそう思った。 自分をここまで強く衝き動かすモノは何であるのか。 この時のカイトには判らなかった。 荷物を纏め、カイトは学園に戻った。 用具入れの戸を開けようとしたカイトは、自分が用具の無断持ち出した後で、誰かがここを開けたことに気付いた。 目立たないよう戸の間に挟んでいた目印(食パンの袋の口を止めておくモールを適度に丸めた奴な)が無くなっていたからだ。 カギの掛かっている扉をこじ開けたりするとコイツは無意識の内に、安全対策というかイタズラというか、とにかくこの様な遊びをするのである。 カイトは目印が消えてることに疑問を覚えた。 今日は用務員の小父さんは休みで、それにつられてあの伍長さんも休業日になる。 この道具入れに用のある者など居ない筈だ。 自分みたいなヒマ人が一日に二人、いや、複数組も現れるというのは少し考え難い。 それに…… (見張ってる……いや、観てやがる、この感じは……) カイトは複数の視線が自分と、この用具入れに注がれているのを感じ取っていた。 その視線にはコイツの気分を悪くさせるモノが混じっている。 ありきたりな表現を使えば、藪に潜んでいる蛇がぬぅ〜っと鎌首をもたげた様な、と言うか、捕まえたネズミを猫がいたぶろうとしてる様な。 そういう感じのアレだ。 カイトの全身に緊張が走る。 視線だけが原因ではない。 この用具入れの中からは人の気配がしていた。 そして、そのくぐもった呼吸音もカイトの耳は捉えていた。 この中には誰かが居る。 それもコイツの勘が正しければ、その誰かは閉じ込められているのだ。 朝カイトが見たとき、この物置には限界近くまで物が収納されていた。 それらの道具類が持ち出された痕跡は辺りには見られない。 であれば人がゆったりしていられる様な空間はこの中には無い。 かなり不自然な姿勢、と言うよりも体位をとらなければ、収まっていることは不可能だ。 ここを開けたのは朝七時ごろだ。 その人物は、最長で六時間も、この中に入ってる計算になる。 光も差さず、身動きも取れないような狭い場所にそれだけ長いあいだ不自然な体勢のまま閉じ込められて、平気でいられる奴はそうは居ない。 精神的にもだが肉体的にもだ。 最近話題の、所謂、エコノミークラス症候群という言葉が、カイトの脳裏を過ぎる。 耳にしている呼吸音にも切迫した物が混じっている様に感じられた。 だが、待てよ。 カイトは思った。 もしかすると、これは人を担ごうとする冗談かも知れない。 こちらの慌てふためく様を眺めて、嘲笑ってやろうという趣向かも知れないぞ、と。 師の教えを忠実に守るのなら、ここでカイトが採るべきは逃げることだ。 君子危うきには近寄らず、とは竜園寺 菊だけが唱えた言葉ではない。 式堂兄妹も不肖の弟子に――口が酸っぱくなる程――説いて聞かせ続けてきた言葉である。 また冒険課でも、避けうる危険に敢えて挑むような行動は採らないように、と厳に戒めてもいた。 最近は政府の方でもこの考えを支持する方向にある。 カイトは馬鹿だが、無謀と勇気の違いは判っている。 そもそもコイツは自分から燃えて苦難を追う男ではない。 意味も理由も無しに、未知の危険に飛び込むほど愚かではない。 生来ノンキな極楽トンボだ。 もの凄く火着きが悪く、自分のケツに火が着くまでは、手ぶらの横着を決め込んでいる。 いや、火の粉が降りかかっても、多少の熱い目ぐらいなら、目を瞑っているかも知れない。 カイトもこれには肩透かしを食わせるべきだと考えた。 このまま素通りしても大した問題は無い。 中にいる人物がどうなったとしても、自分がその責任を求められることは無い。 その人物が自らの意思でこの中に入ったにせよ、何者かの恣意で入らされたにせよ、その結果と責任は自分が負うべき物ではない。 他所の誰かの問題だ。 タチの悪い馬鹿どもの仕掛けに乗ってやることは、自分が相手よりも馬鹿だと示す行為だ。 馬鹿を喜ばせても詰まらない。 カイトも最初そう考えた。 だが…… そう。またしても『だが、それでも』だ。 このままにはしておけない。 カイトは強くそう思った。 確かにカイトは馬鹿で、無精者だ。 多少の苦難に遭ってるときでも、手ぶらの横着を決め込んでいる。 しかしそれは、コイツが独りでいるときだ。 周りから熱いという声が上がれば、寒いとの訴えが出れば、話は違う。 ぶらつかせていたカイトの手は、耳を塞ぐ為にではなく、状況を打開する為にある。 重かった腰を上げ、塞いでいた眼も開けて、気は抜かず、全能を振り絞ってコイツは事態の収拾に当たる。 もとよりそれで恩を売ろう、見返りを得ようなどとは考えつきもしない。 助けられる相手を助けないのは寝覚めが悪い。だから助ける。 カイトはこれだけの、本当にこれだけの理由で動く男だ。 そして助ける相手が自分の仲間かどうかは関係ない。 その相手が本当に困っているかどうか、助けを必要としているか否かが問題なのだ。 それで本当に相手が救われることが重要なのだ。 まわりが口を揃えて言っている様に、本当に御人好しな馬鹿なのである。 夜の五月雨に凍える人影を見つけて、傘を渡しに雨の中に飛び出して行ったのも。 わざわざロイドの様子を確認するために、ダンジョンの入り口で引き返したのも。 甲斐那から差し出された御神刀を受け取ったのも。 先日の銃器横流し事件でニコたちを助けるため動いたのも。 そして今回の『これ』も。 全てはそういうことだ。 そして選択を迫られたとき、カイトの決断の根幹を成したのは、勘定ではなく、常に感情。 利害得失を計算し尽くしたうえで妥当と判断された理知的な解答ではなく、自分の心中に湧き起こる情念。 相当な損害を被ることになるが、それでも、あの道を行きたい。 莫大な利が得られることは判っているが、それでも、この手段は採りたくない。 人が持つ感情の中でもっともシンプルな好悪の情や、それまでに培われてきた良心、ガキっぽい正義感を基に、コイツは行動の是非を決めてきたのである。 カイトは、独りでは、長生きできないタイプである。 冒険者稼業に限った話ではない。 武侠商売やそれ以外のどの職種に進んだとしてもだ。 余程コイツの舵取りに長けた相棒か、世話好きな彼女か、世知と世古に長けた女房でも居てくれなければ、自分から危険に飛び込んで、すぐにお陀仏昇天を決め込むだろう。 それは兎も角として、覚悟を決めた後のカイトの行動は迅速だった。 鍵穴に問題はなく、朝同様、すぐ開錠できた。 引き戸の窪みに手を掛けたが、一気に広げたりはしない。 そろ〜っと静かに五センチほど戸を開く。 そして手鏡と懐中魔灯を取り出すと、床の高さに目線を合わせ、中を覗き込んだ。 「……うわっ!!」 カイトは尻餅を着いた。 二つの怯えている青い眼とまともに視線が合った為だ。 深呼吸二回で心気を鎮め、カイトはもう一度中を覗き込む。 男が一人、猿ぐつわを咬まされ、狭い空間内でL字倒立の様な姿勢をとらされているのが見えた。 射撃術科一の巨漢、スクワイア・マジョルニコフである。 しかしカイトは相手の名前は知らなかった。 射撃術科の教官であることは流石に知っていたが。 「……一人遊びか何かで楽しんでるのか? それとも、誰かに弄ばれてるのか? 一人遊びならゆっくりと瞬き一回、弄ばれてるのなら瞬き二回」 カイトのこの問いに、相手の瞳に苦悩が走った。 「質問を変える。助けは要るか? 要るならゆっくり瞬き一回、要らないなら素早く瞬き二回」 相手はゆっくりと瞬きをした。 「この扉に連動した変な仕掛けがある?」 相手はゆっくりと瞬きをした。 「判った。もう暫くの間、辛抱してくれ」 罠の解除は五分ほど掛かった。 用具入れから助け出されたマジョルニコフは地面にへたり込む。 長いこと不自然な姿勢をとらされていた為に全身が痺れていたのである。 カイトは何度かこの教官を遠くから見かけたことは有ったが、間近で眺めるのはこれが初めてだった。 スキンヘッドに巨大な身体。 ティオ・マーチェン先生には遠く及ばぬものの、規則正しい生活を義務付けられてる軍人だけあって、かなりの筋肉が着いていた。 見掛けの半分ほどの機能しか具わってないとしても、これだけの重量を誇る相手に真正面からぶつかられたら、自分には対処しようがない。 そのようにカイトは判断した。 素手で、真正面からこの人物に立ち向かい、勝利を収めるだけの実力は、カイトには未だ無かった。 カイトとマジョルニコフとの体格にはそれ程の開きが有り、その絶望的格差を埋められるだけの技は、未だカイトの身には具わってはいない。 素手での対人戦闘の経験がカイトには丸っきり不足していたのだ。 とは言え、この人物とやり合うことは有るまい。 カイトはそうも思った。 真面目で実直なのはその巨体からにじみ出している雰囲気で判った。 優しく穏やかな性格であるのも、眼に宿る光から看て取れた。 だがその表情からは、やや魯鈍そうな印象を受けた。 「大男、総身に知恵が回りかね」という言葉があるが、正にそんな感じである。 先日、和菓子職人の道に進んだ、ニコライ・ミューシキンを髣髴とさせる人物だった。 ただしニコの様な先天性の知恵遅れではなく、他人よりやや要領が悪いというレベルだ。 しかし、ニコは確かに知恵遅れではあるが、好戦性というか、競争心は旺盛だった。 学校の美術や工芸の時間では存分に負けん気を発揮していたし、模型作りに関しては強烈な自負心を抱いていた。 三栗屋の親方も弟子のその辺りに注目し、有望視しているのである。 だが、この人物からはそう言ったモノは欠片も感じられなかった。 好戦性や闘争心、覇気と言ったものが、本当に全然感じられなかった。 この人物から誰か他者にケンカを吹っかけることなど有り得そうにないし、並大抵のことでは、怒っても、拳を振り上げるまでは行かないだろう。 振り上げたとて、その拳を振り下ろすことなど、到底できそうにもない。 またカイトの方でもこの人物を怒らせる積りはないし、怒らせねばならぬ予定もなかった。 故にこの人物とやり合うことはあるまいと思ったのである。 カイトの差し出した水を一気に飲み干すと、相手は深々とした溜息を吐いた。 「……ありがとう。相羽生徒、じゃない、相羽君」 カイトは相手の名前を知らなかったが、相手の方はコイツのことを知っていた。コイツだけでなく、冒険課三年のほぼ全員の顔と名前をこのスキンヘッドは入れていた。 「借りた道具を返しにきたついでだよ。でも、随分キレたアレだけど、せんせい、何したワケ?」 不快感に顔をしかめながらカイトが尋ねたが、相手は固く口を閉ざす。 引き戸の内側には丈夫で細い紐が結わえられ、その反対の端には三キロの鉄アレイが括りつけてあった。 普通に戸を開いていれば、鉄アレイが頭の上に落ちる仕掛けだ。 マジョルニコフは猿ぐつわだけでなく、手足も縛られており、ほとんど身動きが取れない状態だった。 首を捩れるぐらいの余裕はあったが、落ちてくる鉄アレイを避けられたかどうかは大いに疑問だ。 これは悪戯や冗談の域を越えている。 何よりもカイトの趣味に合わなかった。 『悪戯』その物もだが、それに至るまでの流れがである。 「逃げてたって、イジメは解決しないよ。踏み止まって、相手と戦わなきゃ」 渋い表情でカイトが呟く。 この言葉にマジョルニコフがカイトに眼を向けた。 怯えた草食動物を思わせる様な眼だ。 「腕っ節やら何やらで相手に敵う、敵わないじゃなくて、ちょっかい出すと自分達も痛い目に遭う。屈服させるには高く着く相手だって意識を相手に植え付けられれば、大抵イジメは解決するよ」 カイトがこれまでに見聞きしてきた生存戦略だった。 「軍の仕来たりやら、指揮系統やら、権力構造やらで、上官に手を上げることができない、口答えできないって、せんせいがそう考えてんのなら、俺が竜園寺先生、いや、竜園寺少佐に言うよ。徒手武術科の教官が射撃術科のせんせいをイジメル、っていうか、可愛がり過ぎてる。授業に支障が出るのも時間の問題だって」 カイトは更に言葉を続ける。 「せんせいは自分一人が我慢してればそれで済む問題だと思ってるみたいけど、それは大間違い。前例を作ったら後はなし崩し的に、どんどん同じことが繰り返される。集団の一人が弱腰だと見れば、残りの集団も同じだと人は思う。せんせいが倒れたら、憂さ晴らしの対象として、ほかの誰か、せんせいの次に弱い奴が槍玉に挙げられるだけだ。そうなったら、俺達の受けてる授業の進行に悪影響が出る。せんせいは、俺達の授業を受ける権利を侵害しようとしてるんだよ」 向学心ならぬ、向教心だけなら、派遣されてきた軍人中上位三位には入るスクワイヤ・マジョルニコフにとって、生徒のこの言葉はショックだった。 カイトが断定口調で話せたのは、自身の経験則に加えて、昨日のバース教官の駄弁りから情報を得ていたからだ。 用具入れの中に閉じ込められていたのが、このマジョルニコフせんせいであったこと。 そして自分と用具入れに注がれていた視線の元が徒手武術科教官棟だった時点で大よその見当が着いた。 徒手武術科の教官は全員尉官級の軍人たちであり、同性相手への博愛精神や仲間意識やらは全く見付からない様な連中である。 そこに来て、このマジョルニコフせんせいの全身から典型的な虐められっ子のオーラが放射されて、連中よりも階級が下とくれば、イジメが起きないハズがない。 しかしカイトは弱い者虐めが嫌いだ。 具体的に言うと、『諸君、私は虐めが嫌いだ』と長い長い演説をぶちそうな位、相羽カイトは虐めや差蔑、迫害といった行為が大っ嫌いなのだ。 生れ、育ち、出生地、人種、職業、両親が健在か否か、親族に犯罪者が居るか否かなどなど。 どれだけ本人が努力を重ね、どれほど金銭を費やしても変改不可能な物を理由に人を差蔑し、迫害するなど、在ってはいけない行為だとカイトは考えている。 衆の力を恃んで人を責め苛んでおきながら、自らの愚かさを省みることなく、恬として恥じず、また、人を集団内に取り込んで置きながらも、その人を完全に無視して孤立させるなどという、愚劣極まりない行動に走る輩は、それこそ、カエルのクソをかき集めた程の値打すらない腐れマラだ、と。 コイツにこの性格が在ったからこそ、甲斐那達は師弟関係を結んでやろうと考えたのである。 何にせよ、虐めを受けてる人間が、大人の応援や権力者の介入を求めることは当然の権利であって、恥ずかしい行為等では無い。 独力では解決不可能な問題の解決を求められた場合、解決能力を持った他人に応援を求めるのは知恵だ。 自らの生存を泰山の安きに置き、その上で幸福を追求することは、この世に暮らすもの全てが有する権利且つ義務だ。 虐めをするような恥知らずで低脳な奴輩が自らの振る舞いを省みず、命の瀬戸際に立たされた弱者の生存戦略をチクリだ、卑怯だと言うのは不見識の極みだ。 ストレスがどうだの、組織の円滑運営に必要な犠牲だの、社会不安を消す為の生贄だのと言うのは、腐り切った言い訳に過ぎない。 ストレス発散なら、他人を犠牲にせずに済ませられる、健全で合法なやり方が他に幾らでも有るのだから、そちらを活用すれば良いだけの話だ。 それよりも、ストレスを溜め込まない生き方を考える方が、更に言えば、軋轢の生じない組織や健全な社会の実現を考える方が重要であり、建設的だ。 それは国家の生成にも繋がる行為である。 カイトはそう考えている。 いや、本当にそんなに理路整然とムツカシイ言葉をコイツが想い連ねていたかは不明だが、兎に角、カイトはこの件は捨て置けぬと判断した。 また既視感というか、郷愁に襲われた様な気分にもなっていた。 カイトの脳裏には、セレスと出会った時のことが浮かんでいた。 時期も丁度この季節だった。 あの時カイトはグロリアと光代の二人に虐められてる彼女を助けようと考えた。 ならば今回も同じだ。 老若男女美醜貴賎はコイツの問う所ではない(たまに問いたいときもあるけどな)。 美人で巨乳のメガネっ娘は助けて、不細工でごっついスキンヘッドはダメというのはコイツの理屈ではない。 相手と自分との人間関係が良好か否かも、さほど問題とはならない(この辺の公正さは、コイツの数少ない美点の一つな)。 虐められているから、相手を助ける。 それだけのことだ。 それにこの状況は、この前、コイツが定めた条件(自分の所に問題の一端が転がり込む)に合致すると言えた。 何より自分を含めた(ココ一番重要な)舞弦学園の生徒全員の授業を受ける権利を守るという目的もあった。 学生の本分は学業だ。 ちゃんと筋は通っている。 さて、生徒からのこの提案をスクワイヤ・マジョルニコフがどう受け止め、どの様な解答を出そうとしていたかだが、それは不明だ。 彼がなにか言葉を口にしようとしたとき、新たな人物が舞台に登場したからである。 「朝から姿が見えないと思ったら、こんな所で病気持ちの臆病マラと駄弁ってやがったか、『白アスパラ』」 憎憎しげなF言葉がカイト達二人に投げかけられた。 声の方に二人が目を向けると、思っていた相手が立っていた。 カイトとの因縁浅からぬ射撃術科主任、ライオット・ワーブである。 カイトがこの仁と顔を合わせるのは、実に十二日振りのことだ。 互いの関係はどうであれ、コイツのなかに久しぶりだとの感想が湧き起こる。 大型連休の前日から、ずっと風邪で寝込んでいることになっていたが、そんなことを示す形跡は、その表情にも身体の動きにも、何一つ見当たらなかった。 手にはタブロイド紙らしい薄っぺらで、ケバい色彩が目立つ、新聞が握られている。 それを見たときカイトの脳裏に疑問が湧き起こった。 随分おかしな所を通ってきたな、と。 特別な理由や目的がなければ、人は、無意識の内に、目的地まで最短距離を進もうとするものだ。 園外まで買いに行った帰りにせよ、おキクさんの店からの戻りにせよ、射撃術科の宿舎へ行くのに、この校舎裏を通るのは、ほんのちょっとだが、遠回りになるのだ。 いや、学園のどの施設からどの施設へ行くにしても、この校舎裏を通るのが近道になる例は一つも無い。 何故、この道を通ったのか。 カイトは首を傾げる。 ここには本当になにもない。 見る者を楽しませてくれる草花や景色も、聞く者の心を癒してくれる小鳥の囀りも、風の歌も、水のせせらぎも。 取り柄といえば涼しいことぐらいだが、爽やかな空気とか清々しい雰囲気などは望むべくもない。 校舎が陰になって日当たりが悪く、加えて水捌けも悪いのか、一年中ジメジメしており、ここを通ると妙に薄気味悪い気分にさせられる。 それも在って、日中でもここに近づきたがる学園関係者は皆無であり、変わり者のカイトですらその例外ではないのだ。 どうして、ここを通る必要が在ったのか。 カイトは首を傾げた。 「フニャチンな貴様のことだ、どうせ、あのクソ鉦官殿どもらの賭けに使われたんだろう。用具入れから自力で出られるか、出られないか。どうせその辺だろう。貴様みたいなフニャチンを使ってできる遊びなど、所詮、その程度だ。あのテーノーな連中のクソノーミソで思い付けれる高尚なお遊戯も、その辺りが精々だ」 ライオット・ワーブはそう吐き捨てる。 二人の背後にある用具入れと、へたり込んでいる部下の姿とを打ち眺め、大よその見当を着けたのだろう。 マジョルニコフは、苦痛に顔を顰めながらも上官の前である以上、大慌てで立ち上がった。 「穢れマラとはいえ、向うは、一応、上級者だ。そもそも鈴長が鉦官に手を上げることは許されん。だから、それは百万億歩譲って許してやる。だが、仮にも鈴長の階級章をぶら下げてる分際でありながら、鈴卒にもなれない、半端なゴロツキ予備軍に助けられるとはどういう了見だ?」 算数が必須でないのは下士官の方かそれとも射撃術科なのか、カイトは首をひねる。 「どの面下げてまだ生きていやがるのかと聞いてるんだ! わしが貴様の立場なら、恥ずかしさの余り、タマを噛み千切っておっ死んでる所だぞ、ああ?」 傍で聞いているカイトは思った。 相変わらず、凄まじい言葉の暴力だ、と。 だが――この仁の本領が発揮されたのはここからだった。 「いや、貴様の場合、タマもぶら下げずに生れて来たんだろう」 「貴様のその、近代美術以上に醜い顔を見ていればよく判る。貴様の母親はアバズレの淫売であることがな。貴様のママは、三度のメシを欠かすことはあっても、日に三度、男のマラを股や口やケツの穴に銜えるのを欠かすことは無い、筋金入りのインランだ。早漏の客の薄い精液がシーツの染みになり、色狂いのママの割れ目に残ったカスが貴様だ」 「クソどもにマスのかき方を仕込むぐらいは、貴様みたいなカスにもできるとタカを括っていたが、所詮、フニャチンはフニャチンだ。できることと言えば、あばずれママのオカズにされるか、愚かマラどものオモチャにされることぐらいだ。それ以外の役には立たん」 「汚れスキンは荷物をまとめて、あばずれママの所に帰れ。貴様の様なグズを、ナメずに、舐めて可愛がってくれるのは。それも上から下、ケツの穴に至るまで舐めてクソの始末してくれるのは、お前のあばずれな淫売母ちゃんだけだ」 「ママの悪口を言うなぁぁぁぁぁぁっ!!!!」 耳を聾する程の怒声を上げて、スクワイヤ・マジョルニコフが相手に飛び掛った。 恐るべき速さであった。 相手の舌鋒が、本人ではなく、その母親に向けられた時から、マジョルニコフせんせいから怒気が漏れ出してることにはカイトも気付いていた。 だから、こうなることは予想はしてたが、この速さは予想外だった。 思わず後ろに跳び退っていた。 自分に飛び掛ってこられたように見えたからだ。 余りにも速い動きに対して人々が起こす錯覚である。 だがカイトにとっての予想外はここからが本番だった。 マジョルニコフの打ちかましを、ライオット・ワーブは、小揺るぎもせず、片手で受け止めたのである。 「何だ、これは? 努力してこの程度か? ふざけるな! 二十年間、墓に入ったまま、一歩も外に出てこない婆さんでも、もう少し、早く歩けるぞ!!」 そう怒鳴ると、相手の両のこめかみを右手で鷲掴みにし、思い切り地面に叩きつけた。 背中から地面に叩きつけられた衝撃で、マジョルニコフは肺の空気を搾りだす。 そこへ更に追い討ちが掛かった。 「どうした? それで終わりか? 牡と名が付けば、恐水病に罹った牡豚の腐れマラでも股座に銜え込む、見境無しのインランの淫売がケツの穴からひり出した、タマ無しの父無し臆病マラが見せる根性など、所詮、その程度のモノだ」 この言葉に発狂したような雄叫びを上げ、スクワイア・マジョルニコフは再び攻撃を敢行する。 地面から跳ね起きると同時に突進し、固めた右の拳を相手の顔面に叩き込んだ。 グジャッと音がして、鮮血が地面に零れる。 相手は、なぜか、この拳をかわさずに顔の正面で受け止め、鼻骨が砕けたのだ。 一瞬だが、ライオット・ワーブの顔がひしゃげたのが、カイトには見えた。 だがこの仁は、その様なことなど全く意にも介さぬといった様子で、顔に突き刺さった相手の右手首を無造作に左手で掴んだ。 カイトの眼にはさして力が入っている様には見えなかったが、マジョルニコフはそれだけ簡単にねじ伏せられ、地面に両膝を着かされる。 膝を着き、やや前屈みにさせられているマジョルニコフの顔は、ワーブの視線よりも、少しだけ、低い位置にあった。 ライオット・ワーブの上体はゆっくりと後ろに反って、マジョルニコフの影に入り…… グジュラッとの音と共に、ライオット・ワーブの頭突きが部下の顔面に炸裂した。 頭突き一つでマジョルニコフは轟沈し、仰向けに倒れる。 白目をむき、潰れた鼻からドクドク血が溢れだしていた。 意識を失った部下に向かって、ライオット・ワーブは怒鳴った。 「じじいのファックの方がまだ気合が入ってる!!」 鼻血の所為か、その声にはゴポゴポいう音が混じっている様にカイトには聞こえた。 ワーブは、折れ曲がった鼻を両手で挟み込むと、パキパキ、二、三度、捻った。 そのあと鼻の穴に人差し指を根元まで突っ込み、ゴソゴソやってから引き抜く。 折れた軟骨が正常な位置に戻り、塞がれていた鼻腔が開かれると、溜まっていた血が一気に溢れ出て、直ぐに止まった。 鼻が元の形状を取り戻していた。 手当てと言うより、修理と呼んだ方がしっくり来る治療法に対して、カイトは驚嘆とともに胃液が逆流しそうな不快感を覚えた。 「ウチの者が世話を焼かせたらしいな。礼の代わりに一つだけ忠告しておく。それをどう受け止めようと自由だ。良いか、今日ここであったことは他人には話すな。わしがこいつに何を言い、どう扱ったかを口止めする積りは全く無いが、こいつがムジガネどもに物置に閉じ込められてたことは余所には漏らすな」 仁はしかめっ面ながらも真剣な表情を浮かべていた。 「判ってるさ。俺も餓鬼じゃない。軍って所の複雑な事情も、少しぐらいは、知ってる」 嘆息し、カイトはそう嘯き返す。 「なに?」 カイトのその言葉に、ライオット・ワーブは部下の傍らにしゃがみ掛けようとしていた身体を止めた。 聞き捨てならない言葉を耳にしたという剣呑なモノがその浅黒い顔には浮かんでいる。 「軍って所は、無理と理不尽が通り相場。道理に面子に政治に金。人の世は何事も複雑に絡まりあい、怪奇にでき上がっているって、そういうことだろ」 カイトはそう言って軽く肩を竦めてみせる。 「なかなか洒落た口叩くじゃないか。気に入ったぞ、家に来て妹をファックして良いぞ」 そう言って不気味な笑顔を見せた後、男は更にこう続けた。 「と言いたい所だが、生憎、わしに妹はおらん。代りに、コイツを呉れてやる!」 ズボンの後ろのポケットから畳んであったタブロイド紙を引き出し、下手投げでカイトに放って寄越す。 次の刹那、カイトの視界から射撃術科主任の姿は消えた。 意外の状況に衝撃を覚えるよりも前に、カイトは顔面になにか固いものを食らって、後ろに吹き飛ばされていた。 吹き飛ばされ、背後に在った用具入れに叩き付けられても、その勢いは収まらなかった。 プロレスのお約束宜しく、カイトはもと居た場所まで、よろめきながらも、戻ってくる。 そこにはカイトの視界から消えていた相手が拳を固めて待ち構えていた。 充分な態勢から繰り出された相手の拳がカイトの顎へと吸い込まれる。 人体の急所を知り尽くし、戦場で磨き上げてきた技は、対象の脳を揺さぶり、手足への伝達系のみならず、全知覚をも寸断する。 自らに何が起きたのかも解らぬまま、カイトの意識は霧散し、その身体は垂直に崩落する。 ピクリとも動かなかった。 意識を失い、地面に腰を落したカイトを見る古参兵の表情には苦く、遣る瀬無いモノが浮かんでいた。 その右手が欠けてる左耳を弄る。 「わしがこの世でただ一つ我慢できんのは、黄色いクチバシで賢しい小理屈をさえずる、ケツッペタの青いヒヨッコだ!!!」 ライオット・ワーブが怒鳴った。 苛立ちと遣る瀬無さの混じった声だった。 相手の笑顔に漂ってる剣呑さにはカイトも気が付いていた。 だが険悪な状態にあるのは今日に始まったことではない。 十二日前、いや、授業開始早々から続いてきたことだ。 今更慌てても意味が無い。 その時カイトはそう考えた。 見たところ、相手は武器の類を(特に銃を)持ってない。 それだけでカイトは安全だと早合点し、自分が危険な状況にあるとの認識は持たなかった。 左腋には装填済みの銃が吊るされていたし、素手で遣り合うにしても、見通しの良いこの場所、この距離では、不意さえ衝かれなければ何とかなる。 チーターからは眼潰しを喰らわされ醜態を曝したが、あれは夜間でのこと。 今は中天に太陽があるから、その辺りは心配しなくても大丈夫だ。 カイトはそう誤断し、油断した。 油断はそれだけでは無い。 相手を『射撃術の教官』だと誤認していたことだ。 射撃術を指導するのだから、得物は銃しかないと決め付けていたことだ。 カイトが相手にしていたのはただの民間人でも、冒険者でもない。 教官の文字だけはあってはいたが、射撃術の教官ではない。 ライオット・ワーブは それもカイトが自分でも評した通り、筋金入りの戦争の犬、叩き上げの職業軍人。 今のカイトと然程変わらぬ若年の昔から幾多の死線を潜り抜けてきた猛者、万州帰還兵だ。 徹底した現実主義者であり、兵器には信頼性を、確実な作動性を一番に求める生物であり、手管に長けた人殺しであるということだ。 この、ライオット・ワーブという男は。 この仁は如何にしてカイトをKOしてのけたのか。 地形的要因だけを考えれば、カイトの情勢判断に誤りはない。 常識的に考えれば不意打ちが成功する条件は一つもなかった。 如何にして、ライオット・ワーブはカイトの視界から消え、再び現れたのか…… 気付いてる向きも有ると思うが、この男は放り投げた新聞を遮蔽物に隠密接敵を行い、奇襲を成功させたのだ。 カイトの視界を塞いでいる新聞に自らの身体を完全に隠すという離れ業を演じて、跳び蹴りを食らわせたのである。 そして跳ね返ってきたカイトに、首を支点にして脳味噌を揺らす拳打を見舞った。 ライオット・ワーブは、頑丈さと持久力しか取柄のない、猪武者その物な風貌をしているが、中身は違う。 碁盤のような短躯はゴム鞠のようによく弾む人外の軽捷さを秘め、 一見穴だらけにも映る技の連携は、戦場での豊富な殺人経験に裏打ちされた、野生と精妙を兼ね備え、 戦場全域をつぶさに観察し、冷静且つ正確に戦況を分析して把握できる知能を持った古強者。叩き合い、潰し合いのエキスパートである。 今の、素の精神状態にあるカイトでは逆立ちしようが、完全武装しようが、その上で束になって掛かろうが、地力が違いすぎる相手だ。 これ以外の結果になる訳がなかった。 今日は、王国暦五六八年五月九日。 大型連休の弛緩した空気が未だそこかしこに漂っていた日曜日。 敗残兵を名乗る古強者が、万州戦争終結以後、自らの貪ってきた惰眠のツケを目の当たりにさせられた日。 明るい五月の気層の底を、つがいと思われる二羽のヒバリが飛び回り、うるさく囀りつづけていた。 |
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