ぱすてるチャイム
Another Season One More Time
菊と刀


25
ロバ ちょっと 拗ねた 前編



作:ティースプン





「じゃあ、上を脱いで、ここに座ってくれる?」
引っ張り出した背もたれ無しの回転椅子にカイトを招きながら、銀髪青眼の美人は言った。
机の上にノート型のコンピューターを広げると、自身はキャスター付きの回転椅子に腰を下ろす。
膝頭同士を合わせて行儀良く揃えられた両足のつま先は、身体の中心線からやや左に流れ、椅子の下に仕舞い込まれた。
背筋がしゃんと伸ばされると、自然とそのおっきな胸も張られ、またしても、ぶるんぶるんと揺れた。

カイトの見る限り、相手の横顔からは面白がっている雰囲気やふざけている空気は消えていた。
全身からも真剣さが溢れ出している。
それはカイトにも判った。
だが……。

「あの、何で脱ぐ必要があるんでしょうか?」
カイトはまだベッドの上で胡坐をかいたままだ。
何故、自分がこの相手から衣服を脱ぐ事を求められるているのかカイトには判らなかった。

「着衣の上からだと、精確な観察が出来ないでしょう」
養護教諭補助を名乗る軍からの出向職員、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカはそう言った。
何を判りきった事を、と言わんばかりの語調である。

「……俺、怪我した、って言うか、怪我させられたの、顔なんスけど……」
そう言ってカイトは、そろそろと、鼻の辺りに指を伸ばした。
ワーブ曹長の話を聞いている内は気にならなかったが、鼻の辺りがやや熱く、疼く感じなのである。

「……そっちの痣はお嬢さんの投薬で消えてるわ。「観る」だけ、時間の無駄よ」
カイトの言葉に、相手はモニターに表示されてる情報を確認してそう言った。
だが、その後で何かに呼ばれた様に天井を仰ぎ見る。
そして、カイトの方に椅子ごと身体を向けた。

「貴方、勘違いしてない? 私が「観たい」って言ってるのは、約二週間前に貴方が曹長から受けた傷よ、射撃術演習の時間にね。今日、ここに担ぎ込まれて来る原因になった、打撲傷じゃないわ」

「それに顔の打ち身は、貴方が寝てる間にワーブ曹長が手当てして行ったわ。……今の流行とは異なる手技ではあるけれど、同業者が完了させた仕事に勝手な手を加えるのは仁義にもとるわ。そっちは、私じゃなく、ワーブ曹長に言って頂戴」
彼女はそう言って足を組んだ。
それだけなのに、全身から成熟した女性の色香が匂い立つ。

「……殆ど治った怪我を「診て」どうする、いや、何故、「診る」必要があるんです?」
相手の優雅な姿態に崩れてしまいそうになる相好を引き締めつつ、カイトは尋ねた。
実際、彼女の言葉にかなり胡乱なモノを感じつつもあったのだ。
腹の辺りに僅かに鈍痛を感じる時もあるが、普段の生活や授業を受けるのに支障が出る程ではない。
あの時の打ち身はもう殆ど治っている。
カイトはそう考えていた。

そんなカイトの問い掛けに返されて来たのは、好奇心、と言う答えだった。
医療関係者が、搬送されてきた患者に向って口にすべき言葉とは思われない。

「今、話した様に、ワーブ曹長は軍関係者の間では生きてる伝説なのよ。そして、彼の独創による徒手武術の実態は謎に包まれてもいるわ。曹長は自身で編み出した技の体系を誰にも伝えていないから……。まあ、技術の秘匿は万洲戦争を経験した王国軍人にはよくある事だけど、でも、だからこそ、その中身を知りたがってる人間は軍関係者に限らず、国の内外を問わず、彼方此方に居るわ。私も興味を持った者の一人。果たして、この業界で囁かれている通りの本物の殺人芸術なのか、それとも、噂話に尾ひれ、羽ひれが付いただけのアレなのか。この眼で確かめたいのよ。如何言う事情にせよ、『あの』ワーブ曹長と遣り合ってもまだ息が有り、口も聞ける人なんて、これまで居なかったから」
そう言って、相手は薄らと笑みを浮かべた。

僥倖に恵まれていたから、或いは、その価値さえ無い雑魚だから見逃して貰えた。
相手が口許に浮かべた笑みと、『如何言う事情にせよ』と言う言葉には、そう言う含みが有る様にカイトには感じられた。

「じゃあ、診察とか、生徒の身体の具合が心配だとか、そう言う職業上の倫理観とかプロ意識とか、そう言うアレじゃ無く、完全に個人的なモノなんスか?」
嘆くが如くと言うか、完全に嘆き口調のカイト。

「最初に言ったでしょう? 精確な観察がしたい、って。それに、私がこの学園の養護教諭に着任するのは明日の○八○○時なのよ。それまでにどれだけ良い仕事をしたって、勤務評価に影響して来ないんじゃ、仕事するだけ損じゃない。ましてや、それで医療ミスでも犯して責任を追及されたりしたら、目も当てられないわ」
養護教諭補助……着任十六時間程前らしい、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは顔を顰め、やだやだと言う風に首を振る。
この学園でここまで商業主義的な発言をする大人を見るのは、カイトには初めての事だった。


「……一つ気になったんだけど、貴方の言うプロって、如何言うのがプロなの?」
と、カイトに冷たい目線が送られてきた。

「良い人ですねぇ、って周りから誉めて貰いたいが為だけに、働く必要が無い時空に貴重な技術と才能、それに限りある情熱を出血大サービスして、本当にそれが必要とされる時空には、燃え尽きて真っ白い灰になってる様な、詰り、義務と自己満足を取り違えている様な、低脳な似非博愛主義者が「医療のプロ」って言葉の定義なの、貴方の頭の中では?」
金の鈴を打ち震わす様な澄んだ声にも、白皙の美貌に浮かんでいる表情にも、非常に冷たい物が含まれている。

「今の私は、休め、と言う命令を受けている状態。着任後はどんな過酷な状況からお見舞いを受けても最高の仕事が出来る様に、体調と態勢を整え、足場固めをしておけと言う事。だから、私は現地の情報を集め、分析把握して、少しでも今後の活動に役立てられる様にしているの。明朝、○八○○時を一秒でも過ぎたら、どんな過酷な状況、例えそれが、不眠不休で一週間、野戦病院で大勢の傷病者の看護に当たらなければならないとしても、救える命は一つの取りこぼしも無く絶対に救う。一切の手抜きはしない。そして、どうしても手の施しようの無い命は、患者の苦痛を少しでも取り除く。たとえ、それがこの手を赤い血に染める事であっても、患者が安らかな最後を迎えられるのであれば、私は『それ』を厭わないわ。命を扱うプロとは、そう言ったものだと私は認識している。そこに青臭い感傷やら、下らない自己満足と言った、命が失われゆく現場では何の役にも立たない要素が入れる余地なんかは全く無いの。……Do you understand?」
そう言って彼女は、虫でも追い払う様に、鋭く左手を振った。

「理解出来たのなら、これ以上私の時間を無駄にせず、さっさとこっち来て、上脱いで、座ってくれるかしら?」
冷たい口調でそう言うと組んだ足を換え、右の人差し指で机の縁辺りをコツコツ叩く。


「……話は判ったけど、結局の所、俺から見てお姉さんは、明日の朝八時までは養護教諭補助じゃなく、ただの通りすがり。美人なだけの、ただのお姉さんって事だよね?」
不機嫌さ全開と言った表情でカイトは言った。

相手の言い分には素直に頷けない所もあったが、それはカイトも措くことにした。
言葉はもちろん、その佇まいからも、深く重いものを感じ取ったからだ。
命の現場で多くの生と死を見つめ続けた結果、彼女が悟り得た哲理であり言葉なのだろう。
カイトはそう考えた。

だから、その主義主張に異を唱えはしない。
だが、それとこちらを実験用のハツカネズミの様に扱おうとするのとは別問題だ。
どれ程の美人であろうとも、他人の人格を重んぜん相手に好意的になれる程、カイトは御人好しな馬鹿では無いのである。
それ故に放たれた言葉であったのだが……。

「いいえ、それは違うわ」

メイド服を身に纏った白衣の天使は、疑念や羞恥心と言った物を一切排した、邪気の無い笑顔を浮かべると、豊かな胸をドーンと張り、こう言い放った。


「私は、『美人なだけの、ただの』お姉さんじゃなくて、『超スゴイ美人で、中身だって超スゴイ』お姉さんだもの。状況分析と現状報告は正確にね」


白い頬に嫣然たるえくぼが彫られる。
中身がどのように超スゴイのかは判らぬが、度胸と神経が超スゴイ事だけはハッキリした。


(綺麗なのは認めるけど、自分からその様に公言するのは人間として如何よ)
カイトは心中嗟嘆した。

実際、相手は美人である。

自ら光を放っているのではないかと疑う程の豪奢な銀髪に、肌理細かく、シミ一つ無い真っ白な肌。
涼しげな印象を与える切れ長の青い瞳に、すっと通った高い鼻梁。
ドキリとするほど赤いルージュがひかれた唇と、そこから顔を覗かせる真珠の様に美しい白い歯。
スーパーモデルも務められる高身長、大きく突き出した豊かな胸、胸とは反対に大きくくびれた細い腰、優美な丸みを成す臀部……。

枝から落ちそうなぐらいにまで爛熟した南国の果実を連想させる豊艶な肉体でありながら、退廃的な空気や男に媚びる様な雰囲気はまるで無く、不思議なまでの清潔感と凛として典雅な雰囲気をその全身から放射している。

ランクを付けるとするなら、ヘップバーン級を遥かに超えた、ジャック・ハンマー級。
平均的嗜好の健康な男が百人いれば、その内の三百人を振り向かせると言う超スゴイ矛盾だって成立させられるってぇ感じだ。

しかし、人間は見た目『だけ』でない。
中身だって重要だ。
それに、教職、否、養護教諭の地位に在る、或いはこれからその地位に着くと言うだけで、生徒の意志や人格が自家薬籠中の物だと思われては迷惑千万だ。

自分の欠点は理解していても、それを他人から面白おかしく指摘されるのは気分の良いものではない。
カイトの中には憤懣やる方無い想いが渦を巻き、沸々と煮え滾っていた。
実際、カイトはその思いの丈をぶちまけたい誘惑に身を焦がしていた。
だが……。


「知らない美人の人に声を掛けられても、話を聞いたり、ついて行ったりしないように、ってパパやママに言われてるんで、済みませんが、ボクはこれで……」
カイトの口からやや舌足らず、かなり脳足らずな言葉が出た。

超スゴイ珍しい事に、カイトは自制心を最大限発揮し、戦略的撤退を選んだのである。
軽く会釈して、EQシューズ・カイト・リミティッド・モデルにつま先を入れた。
眉間に寄せられた皺にも、固く噛み締められた唇にも、これ以上そちらと話をする心算はこれっぽっちも無い、と言う断固たる決意が溢れかえっていた。

さて、カイトのこの対応に、養護教諭補助約十六時間前であるマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカが慌てたり、怒ったり、はたまた泣き出したりしたかと言うと、無論違う。
切れ長の青い瞳を僅かに丸く見開きはしたから、少しぐらいは驚いたのかも知れない。
だが、それだけだ。

「ふ〜ん。その手に出る、か。全く予想していなかったって訳では無いけれど、割と意外の手ではあるわね。……ギリギリ合格、って所かしら?」
細いラインを描く顎に右の人差し指を当て、何やら彼女はそんな言葉を呟いた。
口許には微笑が浮かんでおり、カイトの対応を面白がっていると言った風である。
怒りや焦燥と言ったものは皆無であり、声にも語調にも余裕が感じられた。

「ねぇ、ヒヨッコ冒険者さん? 貴方、仕事をする仲間や取引相手を選ぶのに、自分に見せている態度や趣味で組むかどうかを決める訳? 相手の実力や支払能力、そして商品の確かさとかじゃなくて? そう言うのが冒険者の流儀なの?」
右の靴紐を結び終えて既に左に取り掛かっているカイトに、笑いを含んだ声が掛けられる。
「二週間前の状況を話して、ワーブ曹長の打撃を受けた所をこの超スゴイ美人のお姉さんに見せてくれるのなら、私の方でも、多分、貴方が今一番知りたがってるであろう、超スゴイ情報、教えてあげられるんだけどなぁ……」

「俺の知りたい情報? お姉さんのスリーサイズ? 携帯の番号?」
浮かしかけていた腰をベッドに下ろし、カイトは不機嫌そうに相手を睨み付ける。

「え? それが知りたいって言うのなら、そっちを教えてあげても良いけど、でも、良いの? そんな何の役にも立たない様な情報で?」
心底怪訝そうな表情を浮かべて彼女は言った。
「貴方に番号を教えた後で、私が携帯を買い換える……。とは考えたりしないの?」

この言葉にカイトは、うっと詰まった。
迂闊にも、コイツはその可能性を全く考えていなかったらしい。
そんなアホな相手に額を押えながら軽く溜息を吐くと、彼女はこう忠告した。

「自分の経済力と、相手の、特に大人の経済力を一緒にしない方が良いわ。戦う時、未知の敵を相手にする時は、相手の戦力を過大評価するぐらいで丁度良いのよ。嘴の黄色いヒヨッコ冒険者や、尻っぺたが……青い、だったかしら? 兎に角、そんな新兵君が、まだ、この世に未練を残している時にはね」

「それと、スリーサイズにしても、引き換えにしたいって言うのなら構わないわよ、私はね。でも、私が申告した数値が正しいか如何かを検証出来る機会も、手段も無い貴方には、手に入れた所で余り意味が無いと思うんだけど……」
そう言って、心底不思議そうに首を傾げる。

情報管理を徹底しろと言ってた割には、自身のその辺の個人情報の最たる物の管理に付いては随分と杜撰、いや、鷹揚な態度であり考え方である。
胸がでかくなると、人間、度量もでかくなると言う事だろうか。
カイトは内心首を傾げる。

「それとも、貴方、それらしい数字や、刺激的、煽情的な字や単語を見ただけで絶頂できる位、妄想力が豊かなの? 安上がりで良いわねぇ、童貞君は」
と、メイド服のナイチンゲールは軽く笑った。
彼女にしてみれば深い考え無しに発した一言だったのだろうが、カイトには超スゴイダメージを与えた。

「え? ……貴方、まさか、本当に童貞なの?!」
予想外の反応が返って来たことに驚き、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカはまん丸に見開いた目を相羽カイトに注ぐ。
相手からの視線に窮屈さを感じたかの様にカイトは身体を揺すり、表情を一層強ばらせて黙り込んだ。

僅かな沈黙の後、けたたましい笑い声がマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカの口から飛び出した。
両手でお腹を抱えてメイド服に包まれた身体を仰け反らし、軍靴に包まれた両の踵で床をガツガツ蹴りながら、ケラケラと狂った様に笑い出したのである。



相手が現実世界に戻って来るまで、三分掛かった。
その間、相手の笑い声に何とも言えない居心地の悪さを感じつつも、カイトの目は、ぶるんぶるん揺れまくる、おっきな胸に惹き付けられていた……。

「ば……馬鹿にしたんじゃ無いわ。カビンに入ったのよ」
笑い過ぎでよじれた腹筋が痛いのかお腹を擦り、ヒーヒー耳障りな呼吸音をさせながら、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは奇妙と言うか、意味不明な言葉を口にする。
カイトの首が傾げられたの見て、彼女は僅かな怪訝さを面に浮かべた。
「え? イースタン人はそう言うんでしょ? 笑いのカビンに入るって」

「……ツボです。笑いのツボ」
ドツボに叩き込まれているカイトは憮然とした顔と声で、正しい東方語の知識を伝授する。
教えられた言葉を脳裏に刻み込む為か、笑いのツボ、笑いのツボと、相手は口の中で数回繰り返した。


「“Asinus in tegulis.”」
しゃんと背筋を伸ばして椅子に座り直した相手の口からカイトには意味不明な言葉が紡がれ、再びカイトの首が傾げられる事となった。
だが、これは予想していたのか、彼女は眉一つ動かさずにその言葉の意味を説明する。

「スゴイ珍しい。そう言ったの。政府の調査に拠ると、王国に於ける成人前の性交体験率は約四十八パーセント。信頼できる民間の調査機関からの報告に拠れば、冒険科生の場合、その数字は八割以上九割近くにまで膨れ上がるわ。それを見れば、残りの二ないし一割の症例に出会うなんて、良い悪いとかを抜きにして珍しいでしょう? まあ、私が笑ったのは良い意味で珍しい、好ましいって思ったからだけど」

声にも笑顔にも、カイトを侮辱したり馬鹿にしてる様子は無かった。
悪名高き冒険者予備軍の中に、意外な、好ましい症例が発見された事に驚き、素直に喜んでいる……。
確かに、カイトにもそんな風に思われた。
とは言え、カイトとしてはあまり触れられていて欲しくない話題である。
故に、話題を変え、と言うか戻して、相手の注意を逸らす事にした。

「俺が知りたい、俺の今後とやらに役立つ、どんな情報をお姉さんが持ってる心算でいるンすか? その二つ以外で?」

カイトからの不貞腐れた、不機嫌そうな声を耳にしても、大人の貫禄からか柔らかな微笑は崩さず、彼女は静かにこう答えた。


「何故、ワーブ曹長が貴方の目の前から姿を消し、真正面から貴方の顔面に跳び蹴りを喰らわせる事が出来たのか。その謎に付いてよ」


相手のその言葉にカイトの身体には緊張が走り、僅かながら身じろぎをした。
それを看て取った彼女の笑顔からは温かみと穏やかさが消え、冷たくこわいものが取って代る。
そんな相手にちらりと一瞥されただけで、カイトが口にしようとしていた言葉は喉元で張り付いた。
直後、相手の冷たく侮蔑的な声が、怒涛の如き衝撃力を以って、カイトの耳朶を殴り付けた。

「カエルの小便を掻き集めた程の値打すら無い、知能の浅いクソ出任せを口から垂れ流して、残り少ない私の命の時間を無駄にしないでくれるかしら? 能天気な貴方と違って、生憎、私には一瞬たりとも無駄に使って良い時間は無いのよ。貴方が私と時空を同じくする……なぁんて、そんなことがこの先もまだ在るかどうか判らないけど、そう言う状況に置かれた場合、他のどんな事を貴方のそのユルユルな脳味噌からダダ漏れに垂れ流しまくってくれたって構わないけど、私の状況だけは思い出すようにして頂戴。宜しくて、相羽、カイト君?」

大型連休最終日の校門前での出来事が、カイトの脳裏に蘇る。
陳腐な表現ではあるが、氷の刃と評するのが相応しい声であり佇まいであった。
ほんの一瞬前まで、目の前で柔らかい笑顔を湛えていたのと同じ相手とは思われない。
今も見る者の心を暗く冷たくする様な、こちらを莫迦にしきっている冷笑を口許に浮かべていた。
その変貌振りも然る事ながら、典雅さとか優美さと言った物が形を採って現れた様な姿形をしているこの美人が、あのワーブ氏ばりのF言葉を使った事こそが、カイトには仰天に値する椿事と言えた。

だが、驚いてばかりもいられない。
確かに、そんな話題には興味が無い、みたいな事を口にしようとは考えた。
相手にこちらの足元を見せないのは、取引や交渉事の基本だ。
こう言う状況での駆け引きが不得手なカイトではあるが、しかし、口を開くよりも前に知能が浅いと断じられては浮かぶ瀬が無い。
その辺りを反論しようとしたカイトの声は、またしても、相手の舌鋒に封じられる事となった。

「“何も言ってないのに、そちらの主観的判断や思い込み、被害妄想から、言い掛かりを付けられるのは心外だ、名誉毀損だ”……と言った辺りかしら、今、貴方が口から垂れようとしてたのは?」

侮蔑的態度を崩す事無く、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは冷ややかに言った。
そして、カイトの表情から自分の言葉が大きく的を外したのでは無いと看て取るや、ふふんと鼻を鳴らし先を続ける。

「生憎だけど、今私が言ってる事は勝手な思い込みじゃ無いのよ。知能の浅い貴方が私にブラフの出来損ないを掛けようとしてたことに関しては、ちゃんとした根拠……。いいえ、貴方自身が身を以って教えてくれてるのよ、言葉にする前にね。だから、思い込みでは無いし、言い掛かりでもないわ。それに、妄想云々は童貞の貴方の方がお得意でしょ?」
そう言って、物憂げに髪を掻きあげる。
窓から差し込む夕刻の日差しを浴びて、サラサラの銀髪がキラキラと輝き、とても神秘的な光景が現出した。
どれ一つ取っても、反論しようが無い程に正鵠を射た言葉に、カイトは言い返したくても言葉が無い……。

「時が移るわ。話を戻しましょう。貴方はワーブ曹長から受けた打撲痕と、思い出せる限りのその時の状況を教える。その代わりに、私は今日ワーブ曹長の使ったトリックを教える……で、良いのかしら? それとも、私の携帯の番号や、スリーサイズが知りたい? あ〜、それとも、アレかしら? 女に言い負かされたことに腹を立てて、不貞腐れて、部屋に戻って、妄想の中の私を相手に童貞切って、溜飲を下げる心算かしら?」
テンポ良くそう言ってのけると、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカはその量感たっぷりな胸を持ち上げる様な感じで腕を組んだ。
彼女の赤い唇には、嘲弄的、挑発的薄ら笑いが浮かんでいる。
口にした内容は非常にアレではあったが、彼女の唇が小気味良く運動する様はカイトには超スゴイ官能的で、超スゴイ刺激的に映った……。

「……品物が確かだと言う証拠は? それこそ、そっちがクソ出任せを口から垂れ流しているんじゃないって言う保証は?」
心気を鎮める為に数回深呼吸した後、カイトは相手にその様に問う。
声にも顔にも、やり込められっぱなしでいる事への隠し切れない苛立ちが溢れていた。

「貴方、国語の成績は中の下、って言うより、絶対、下の上程度でしょう? 良い事、ヒヨッコ冒険者さん。人に何か尋ねる時には、主題が何であるのかをハッキリ明確に示すこと。でないと、相手も正確な返答が出来ないでしょう。私の持っている情報の内の、ど、れ、と、引き換えにする気でいるの、貴方?」
白く綺麗な指先が、苛立たしげにトントンと左の二の腕を叩く。

「……あのクソ曹長が使ったって言うクソトリックだ」
カイトが憎憎しげに吐き棄てる。

「あら、それにするの? 良いのかしら〜、それで〜?」

相手から送り付けられて来る嘲る様な視線と、問い掛けと、ニヤニヤ笑いに対し、カイトは渋面と、沈黙と、白眼視で応えた。



互いの沈黙は一分以上も続いた。
席を立とうとする気配も見せず、瞬き一つせず、黙ったまま睨みつけて来るカイトを取引に相応しい相手と認めたのか、切れ長の瞳を僅かに伏せ、遂にマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカが口を開いた。

「品物が確かかどうか。それはそちらで判断して貰うしか無いわ。無論、百に一つの間違いも無いって言う自信ぐらい有ってよ。だけど、『絶対』なんて言い切れる事は、世の中にそう多くは無いし。当事者二人からの証言が無かったって事もあるから」

熱さも冷たさも感じられない、無感動な声だった。
背もたれをきしませながら左斜め上を見上げると、彼女は腕組みを解いて肘掛に預ける。
その時、おっきな胸がぶるんぶるん揺れて、カイトの視線を釘付けにした……。

「一三○○から一三一五時に掛けての時間帯、貴方は校舎裏近くの物置に誰かが閉じ込められているのを発見した。閉じ込められていたのは射撃術科の教官、スクワイヤ・マジョルニコフ軍曹ね。誰が、何の目的で軍曹を物置に閉じ込めたのか、大よその見当は着くけど、その辺りの事については省かせて貰うわ。貴方との取引には関係無いし、今日の内は、私もあの軍曹に興味も関心も無いから」

カイトの背後、天井に程近い辺りにぼんやり視線を彷徨わせながら、彼女は子供の頃に何度も読み聞かされた絵本でも暗唱するかの様にスラスラと、今日の昼、現実のカイトの身に起きた出来事を話し始めた。
カイトの驚きが一通りではない事は、馬鹿の様に大きく開かれた口を見ても明らかだ。

「貴方がその事に付いて、何を、如何考えたのかまでは判らないわ。だけど、貴方は閉じ込められていた軍曹を助け出す事にして、これに成功した。軍曹を助け出した後余り時を置かずに、ワーブ曹長が校舎裏を通って貴方達の前にやってきたみたいね。……経緯は丸っきり不明だけど、マジョルニコフ軍曹の方からワーブ曹長に飛び掛って行った。だけど、曹長は相手の突進を受け止め、地面に叩き着けた。叩き付けられた衝撃で肺の空気を絞り出した筈だけど、マジョルニコフ軍曹は殆ど間を置かずに起き上がり、再度、曹長に攻撃を加えた。渾身の右よ」

そう言って、彼女は右の拳を突き出す。
椅子に座ったままではあるが、手打ちではない。
腰の入った、キレのあるパンチだ。
徒手武術の心得も有るらしい。

「そして、これもまた経緯は不明だけど、今度のこの攻撃をワーブ曹長は避けずに顔で受け止めた……かなりの血が零れた痕があったから鼻骨が砕けた筈だけど、曹長の鼻は曲ってた様には見えなかったわね。如何言う事なのかしら……」

彼女は暫し首を傾げていた。
曹長が自身に施した様な治療法を知識として知ってはいても、実行出来る人間がいるとは普通は想像出来ないだろう。
だが、直ぐに相手はそこから意識を切り離し、先を続けた。

「兎に角、曹長はその痛みに怯む事無く、顔に刺さったマジョルニコフ軍曹の手を左手で掴んで捩じ伏せた。地に膝を着かされた軍曹の顔は、丁度、ワーブ曹長の肩から顎にかけての高さになるわ。そこで、ワーブ曹長は上半身を後ろに反らせて渾身の頭突きを見舞った、軍曹の顔面にね……」

そこまで言って肩を竦め、彼女は背筋を震わせる。
あの巨漢の軍曹の身に起きた状況が自身に降り掛かった場合を想像し、怖気に襲われたのだろう。
心なしかカイトの眼には、その白皙の美貌が一層の白さを増し、引き攣っている様に映った。
彼女は気持ちを切り替えるかの様に二、三度、軽く頭を揺すって、先を続ける。

「私の観た限りでは、軍曹の方も鼻骨を折られ返されたわね。もしかすると、眼の周りの骨も砕けたかも知れないわ。兎に角、マジョルニコフ軍曹は完全に意識を失い、白目を剥いてダウン。ワーブ曹長のKO……。いいえ、如何考えても、貫録勝ち、井目勝ちと言った所ね。どう? ここまでの分析におかしな点、訂正を加えるべき箇所は……」

カイトが驚愕の表情を浮かべているのを見た途端、白皙の美貌に大輪のヒマワリを思わせる明るい笑顔が広がった。
両掌でそっと胸元を押え、やや俯き加減にほうっと安堵の吐息を漏らす。

「その表情からすると、満点に近い答えを導き出せたみたいね。良かった。こう言うことに頭を使うのって随分と久しぶりだから、錆び付いてるんじゃ無いかって、本当は、ビクビクしてたんだけど……。まだ、そんなには脳の老化は進んではいないみたいね」

カイトの前で邪気の無い笑顔を浮かべて喜ぶその姿は、まだ年端も行かぬ少女の様であった。



「あんた、物陰から見てたのか?!」
カイトにはそうとしか思えなかった。
このクレームに対し、彼女からやや不機嫌な声が上がる。

「まさか。信じる信じないは貴方の勝手だけど、貴方達が遊んでたと思われる間中、私はずっとここに居たわ。荷物整理やら、この部屋の何処に何が有るかといった確認作業に追われて、それどころじゃなかったのよ。何よりも、気配が感じ取れる距離に私が、誰か目撃者が居たのなら、ワーブ曹長は誰かに拳を振り上げるなんて真似しなかったでしょう。たぶん、絶対にね」

相手のこの言葉は全面的に正しい。
カイトもそれは認める。
しかし……。

「じゃあ、一体、どうやって……」
リアルタイムで覗いていたのでないなら、何故、そこまで詳細な状況が判るのか。
一体如何なる呪術を用いたのか。
カイトには判らなかった。

「曹長にここから閉め出された後で、貴方達がじゃれ合ってた場所を『観て』きた。それだけの事よ」
彼女は詰まらなさそうに肩を竦めてそう言ったのだが、何の事だかカイトには判らない。
怪訝そうな表情のままのカイトに軽く嘆息した後、彼女は詳しい説明を開始した。

「ここに担ぎ込まれて来た時、貴方達から臭いがしたのよ。泥と言うか、かなりの湿り気を含んだ土の臭いが。それに曹長の靴にも、貴方の靴やズボンにも、泥と、それに混じって、緑色の物が付着しているのが見えた。それで、部屋の入り口に敷かれている泥拭きマットの裏を覗いてみたの。日当たりの悪い、多量の湿り気を帯びた土の表面に生えるコケみたいだった。だから、この辺りでそれが靴や衣服に付着しそうな場所に行ってみたのよ。学園の敷地内にそう言うコケの生える場所が、一、二箇所ぐらいしか無いことは知ってたわ。この学園に着いて直ぐの時間、学園長と冒険科の主任に挨拶を済ませるよりも前に、敷地内を色々歩き回って置いたから」

「校舎裏の泥土の上に人が争った痕跡が色々と残っていたわ。足跡は無論の事、かなり大きな人間の倒れた、いいえ、倒された跡。それに、血痕もね。残されていた靴跡の大きさ、靴裏の模様、深さ、抉れ方。それらから推定される人物像と、渡されていた小隊各員の身体計測の数値と照らし合わせて、貴方達二人の他に誰が、あの時、あの場に居たのか。そして、泥の乾き具合、足跡のブレ方、圧力分布、それぞれの位置や爪先の向いていた方向。他にも様々なものを加味し、何が如何言う順序であの場所で行われたのか。推理したのよ」
他愛の無い事だと言わんばかりの表情で論拠を説明した後、彼女は次の様に結んだ。

「絶対確実な事実のみを集めて精確に観察する。そして観察した結果から、冷静に、詰り感情を挟まずに、考察を重ねて行く。そうすれば、誰でも真実に、正解に辿り着ける。少なくとも、間違った答えに至る事だけは無いわ……たぶん、絶対にね」
そう言ってこの美しい名探偵(てかCSIな)は小さく、だが非常に誇らしげに、満足そうに微笑んだ。



「……“じゃあ、これ以上、このいけ好かない美女のおしゃべりに付き合うまでも無く、今吹聴された通りのやり方でその痕跡とやらを調べさえすれば、俺でもあのクソ曹長の使ったクソトリックが解明出来る”……」

この言葉にカイトは表情を強ばらせた。
正に相手の言った通りの事を考えていたからだ(『美女』のくだりは抜きにしてだけどな)。

「って考えている顔だわ」
カイトの様子から自分の洞察が正しいと判断したマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカが、悪戯っぽく笑って続ける。

「考え方自体は正しいわ。ほんの一寸推理力と想像……貴方の場合は妄想力かしら? まあ、兎に角、そう言った物を働かせれば、正解を導き出せるわ……。『今から痕跡を調べられさえすれば』だ・け・ど」

「こんな事も有ろうかと、校庭からグラウンド整備用のトンボを借りてきて、あの辺り一帯をならして帰ってきたの。貴方達の争った痕跡、ワーブ曹長の使ったトリックを貴方が自力で解き明かす為の材料は、最早、一切、この世には残ってないのよ」
そう言って彼女は、にまぁ〜〜っと言う擬音が聞こえて来そうなぐらい、底意地の悪〜〜い笑顔を浮かべた。

「こう言う取引に際して、相手のやり逃げを許す……なぁんて、間が抜けた無様な振る舞いを私がするとでも思ったの? 中身も、超スゴイ、この私が? それって絶対、超スゴイ、甘い考えよ、ヒヨッコ冒険者さん?」
そう言うと右斜め四十五度を向いて左手の甲で口許を隠し、オーホッホッホと、いわゆる、高飛車なお嬢様笑いを披露してくれた。

知り合いの女性の誰がやっても香ばしい匂いしか漂ってこないアホな振る舞いであるにも関らず、この相手だと何故かサマになって見えるのがカイトには不思議だった。


「ここまではデモンストレーション。私の中身が、本当に、超スゴイって事を証明する為のね。本番はこれから。どうするの? 私との取引、続ける?」
高飛車なバカ笑いを止めて、そう問い掛けてくる相手の顔には何の感情も浮かんではいなかった。
凍り付いた湖を連想させる相手の青い瞳が、瞬きもせずに、カイトの表情を観察していた。


カイトは無言のまま苦虫を噛み潰した様な顔で相手に顎をしゃくり、続きを促した。


「攻撃に移る前、曹長は貴方に何かを放り投げた。私はそう観ているわ……」

相手は説明を再開した。
矢張り熱さも冷たさも感じない、無感動な声でだ。
先程と同様、目線は左斜め上を向き、腕は肘掛に預けている。

「縦横30センチ程度以上の面積を持った軽い物。到底、武器や矢弾の様な危険物だと言う認識を持たれない、ごく有りふれた物ね。油断を誘ったりとか、貴方の注意をそれに振り向けさせると言う目的もあったんでしょう。或いは、他に使える物が手元に無かっただけかもしれないけど……。その投げた物体の後ろに曹長は自分の身体を隠して、貴方に跳び蹴りを喰らわせた。それ以外、あの状況下で曹長が真正面から貴方に跳び蹴りを命中させるのは不可能だと私は見たわ……」

「もっとも、その隠密接敵の方法自体が既に不可能と言うか、神業に近いアレだとは思うけど……」

「跳び蹴りを喰らい、物置にぶつかって跳ね返って来た貴方に、首を支点にして脳を揺さぶる拳打をワーブ曹長は見舞った。足跡から観てスマッシュかショベルフック辺りかしら? 何にせよ、カウンター気味に、顎先をかすめる形で拳打を入れられ、貴方は意識を刈り取られた。膝から垂直に崩落して、地面に手の甲が着いたわね。微かだけど、その跡も残ってたわ。私が見落とした証拠が他に無ければ、あの時、あの場所で起きた状況はそう言う事になる。で……」
「で?」
意識を喪っていた間にも、何か瞠目すべき事が行われていたのかと、カイトは先を促したのであるが……。

「で? で、Q.E.D.。“Quod Erat Demonstrandum.”」
キョトンとした彼女の唇から、またしても、カイトには意味不明な言葉が紡がれた。

「証明終了。そう言ったのよ」
そう言って、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは軽く肩をすくめる。
粗忽なカイトにとっては超スゴイ困難な作業でも、自称“中身だって超スゴイ”この美人にとっては、『ほんの少し骨が折れる』程度の仕事をこなしただけと言った風であった。



説明を聞き終わったカイトはやや俯き加減、厳しい表情を浮かべて沈思黙考の態であった。
しかし、それもほんの数秒程度の事。
何かを吹っ切る様に大きく息を吐いた後、二、三度、軽く頭を揺すって気持ちを切り替え、カイトはベッドから腰を上げる。

「……上を脱いでって言ってたけど、シャツの裾を捲くり上げるだけでも、お姉さんの目的は果たせるんじゃないんスか?」
見下ろす角度で真っ直ぐ相手の眼を見ながら、カイトはそんな言葉を口にした。

「……え?」
カイトの言葉にマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカはキョトンとした顔を向ける。
何の話をされているのか良く判らないと言った感じであった。

「だから、腹を診察するってか観察するのに、上着とかシャツとか全部脱ぐ必要がホントにあるかどうか聞いてるんス」
「え? ……あ、あぁ〜あ。その事。うん。そうね。え〜っと、うん。良いわよ、それで。脱がずに、裾を捲くるだけで」
「それと、思い出せる限りの情報って言われても、一瞬の出来事だったから、超スゴイ、痛かったって事しか憶えてないんスけど」
その様に吐露するカイトは、大変不安そうな表情を浮かべていた。
勿体をつける心算では無かったのだが、大した情報を持っていない事を切り出すヒマが無かったのだ。
状況の進展具合が、余りに急過ぎた為である。

「あ〜。まあ、そんなモンでしょうねぇ〜。良いわ。最初っから、それ程期待してた訳じゃ無いしね」
左手で頭の後ろを掻きながら、彼女は随分と投げ遣りな答えを返す。
ワーブ氏に関する情報ならどんな些細な事柄であっても見逃すまいとしていた最初の勢いが、まるで嘘の様であった。


どっこいしょ、とカイトは相手の正面に置かれた丸椅子に腰を下ろす。
詰襟の前は既に全開で、カッターとタンクトップ、両方の裾を一纏めに無造作に捲り上げて腹部を晒した。
関心無さげな感じで触診の手を伸ばした養護教諭補助着任十六時間前マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカではあったが、その指先がカイトの腹筋に触れた瞬間、物臭な雰囲気は霧散した。
表情を改め、目にも真剣な光を宿し、カイトの腹に顔を近づける。
触診する領域も大幅に上方修正された。

「ちょ、ちょっと! お姉さん!!」
緊迫した声がカイトの口から上がる。
無遠慮にも相手の指先が、まだ誰も触れた事の無いカイトの清らかな乳首に触れたのだ(_| ̄|○∠ウボボボボァ…)。
それも、そこから甘酸っぱくも背徳的退廃的課外授業だとか、ライトエロゲーチックシチュエーションとでも言った雰囲気に発展しそうな気配は薬にしたくても無い様な触り方でだ。
幾らコイツが童貞でも、相手が触っている意図がどの方向を向いてるかぐらいは判る。
抗議の声だって上げたくもなるだろう(ナニ、いや、何に付いてかは謎だがな)。

「……御免なさい、やっぱり、上、脱いでくれる?」
全身から真剣な空気を漂わせ、彼女は言った。
絶対に否とは言わせない執念の光が、その青い瞳には宿っていた。
それらの事を肌で感じ取ったカイトは観念したという溜め息を一つ吐いて、詰襟を脱いだ。
が……。

「え〜!? え〜?! え〜!?! なに? なに? なに? これ?! お姉さんに見せて!!」

詰襟を脱いだカイトの腋に銃の鞘を発見するや否や、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは嬌声を上げた。
と同時に、それまで周りに漂わせていた侵し難い厳粛な雰囲気も霧消する。

はしゃぎながらカイトが腋に吊り下げた鞘をグイグイと引っ張るその姿は、珍しいオモチャを見つけた三歳児を髣髴とさせたが、相手を落ち着かせ自分から引き剥がす時のカイトの脳裏には、デパートのバーゲン会場に並べられたワゴンに群がるオバサン達の姿が浮かんでいた。

「へ〜。良い仕事してるじゃない。何処? 何処で売ってたの、これ?」
銃には興味が無いらしく、鞘から引き抜いてカイトに押し付けると、相手は革鞘のあっちを引っ張り、こっちを覗いたりしながら、先程よりかは幾分落ち着いた声で尋ねて来た。

「買ったんじゃないス。作ったんっス」
そんな答えを返すカイトの声には疲労が漂っている。
「作った!? これを?! あんたが?!! 独りで?!!!」
カイトと……と言うよりも、男の子と針仕事のイメージが上手く重ならないらしく、切れ長の瞳をカレー皿程にも見開いてマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは頓狂な声を上げた。

即座にカイトへの質問が飛んだ。
銃の鞘と言えば金属製と言うのが一般的な中、一体誰が、どの様な理由で革の鞘を――それも肩から腋の下に吊るす形状のものを――思いついたのか。
そう言った問いだ。

「自分で鞘を作ろうと思ったのは、市販されてるのがベラボーに高くて手が出なかったからで……そうっスか、金属製だったんスか、銃の鞘って。道理で高い訳だ」
カイトは、合点が行ったと言う感じで、しきりに頷いてみせる。
「知らなかったの、貴方?」
心底呆れ果てたと言う表情を、向うは浮かべていた。

「おキクさんから値段聞いて直ぐに購入を取り止めにしたんで、素材とか、形状とか、性能とかの細かい事は何も」
後頭部を掻きつつ、カイトはヘラヘラ笑う。
「最初は木を使いたいなぁとか思ったんっスけど、木彫とかは苦手なんで革に。裁縫やら編み物とかを母さ、いや、母からすこし教わってたんで。肩から腋の下に吊るす形にしたのは、その、アレっス。アウトドアで使うナタとか、サバイバルナイフとかが印象に残ってるモンで……。何となく、サイズとか形状とかが同じ感じでしょ、銃と? だから行けるだろと思って。って言うか、腰周りにはもう他の物を容れる余裕が無いってのが一番ってか、二番目に大きかった理由ってか、動機っスね」


「……よく……解らないわね」
カイトの説明に首を傾げて、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは呟く。
その表情は大変渋く、非常に険しい。
先程まで子どもみたいに大ハシャギしてたのと同じ人物とは、とても思えない。

「へ?」
相手の言葉と表情にカイトは面食らう。
カイトとしてはこの上なく論理的に順序だてて説明した心算である。
彼女の明晰な頭脳を以ってすれば、判らないなどと言う事は有り得ない筈だ。

「話の主旨は理解出来たわ。経済的且つ技術的な問題が発生した為に、市販されている鞘を購入するのを諦め、自作する事を選択した。それは判った。私が解らないって言ったのは、貴方自身の事よ」

自分自身の事と言われても、今度はカイトの方が判らない。
怪訝な表情を浮かべて、首を傾げるばかりだ。

「独り言よ、気にしないで。それと、余分な手間を掛けさせた私が言うのは心苦しいんだけど、残りも早く脱いで頂戴」



冒険科の学生なら当然とも言うべきだが、シャツの下から現れたカイトの身体には大小様々な傷があった。
無論、その殆どは既に癒えてはいたが、何かが少しでも違っていれば死んでいたと思われる様な傷も幾つか見られた。
彼女の真剣さも度合いを増す。
美しい青い瞳にまだ僅かながらも残っていた好奇心とプラスアルファは消え、冷徹な光が完全に取って代った。

「御免なさい、何度も。下、ズボンも脱いで貰えるかしら?」

マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカが言った。
今まさにカイトが椅子に腰掛けようとしていた瞬間にだ。
この人物にしては迂闊な事に思えるが、服を脱がせてみて初めて、カイトがかなり鍛えこんだ肉体をしている事に気付いたのである。
相手からの注文に少しは顔を顰めたものの、カイトは黙ってズボンを脱いだ。

……ついでに書いておくが、ここのカイトはトランクス派だ。
気にしている向きは『絶対』無いとは思うのだが、一応、明記しておく。

「……そこでターン、って言うか、背中も見せて」

諦めたような吐息一つ吐いただけで、カイトはこの注文にも応えてやった。



優秀な指導者の下でそれなりに密度の高い練功を積み、一応は修羅場と呼べる状況も幾つか潜り抜けて来たと言う事だろう。
頭の中身は全然だが、相羽カイトの肉体は違った。
他の男子生徒に較べれば細身の体躯ゆえに気付かれ難いが、カイトの全身は筋肉で覆われていた。
と言っても、筋肉質とか筋骨隆々と呼ばれる感じの肉の付き方ではない。
関節の可動域や速度、持久力を損なう恐れのある余分な脂肪は無論の事、不必要な筋肉も削ぎ落としたと言った感じの、実用性のみを追求した肉体であった。

この年頃の少年としても、また冒険科の生徒としても、カイトは鍛えられている部類に入るだろう。
しかし、カイトはまだ完成には至っていない。

身体からも、まだあどけない相貌からも、少年期特有の危うさや頼りなさと言ったものが時々顔を覗かせる。
心身双方に於いて彼が鍛えるべき所、学ぶべき物、修正しなければならない点を、彼女は幾らでも数え上げる事が出来た。

しかし、言い換えれば、それはどの方向にでも何処まででも伸びていける、未知の可能性がカイトの中には残されてると言う事。
未完成であるとはそう言う事だ。

無論、肉体的な素質はこの上なく魅力的だが、それより本当の意味での挫折と言う物をまだ味わった事がないであろう素直でひた向きなカイトの眼差しに、軍からの出向職員、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは未来の大器を見出していた。

若さの持つ無限の可能性。
その様に呼ばれる物が、この世には確かに存在していると言う事。
それをマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは、相羽カイトの伸びやかな背中から思い出していた。
無意識の内に、彼女の赤い唇からは溜め息がこぼれていた。

そこに込められていたのは郷愁と羨望。

若さとその若さが持つ情熱。
他人からのチョッとした言葉にも真っ赤になれる純情さ。
自分は何処までも高く、何処までも遠く羽ばたいて行けると信じることが出来た純真さ。
友情は尊く、愛情は永遠であり、この世には絶対の正義が存在しているのだと思い込んでいられた純粋さ。

かつては自分もこの身の何処かに有していた筈なのに、或る時を境に喪われ、二度と自分の許には戻って来ない数多くのもの達。
若い頃、幼い頃にだけ、人が具えていられる健やかな無知さの結晶とでも言ったもの。
それらが何一つ損なわれる事無く、この少年の内には存在している。
そして、それが少年の原動力にもなっている。

それら全てに対する郷愁と、嫉妬にも近い羨望に満ちた吐息だった。



彼女の膝に置かれた手は、何時の間にかきつく握られ、関節が白くなっていた。
気が付くと、彼女の豊かな胸の一番奥に仕舞い込まれていた、幾つもの出来事が頭をもたげ出していた。
もう克服出来た、既に乗り越えられたと思っていた辛い過去が痛みを伴い、次々と脳裏に蘇る。
心臓の鼓動が早くなり、何時の間にか呼吸も荒くなっていた。

しかし、何時の間にか心の何処かに棲み付く様になった冷静なもう一人の彼女がそれに気付いて、危険信号を送る。

マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは自分からの信号を受け取ると、二、三度軽く頭を揺すって気持ちを切り替えた。


「もう良いわ。ありがとう。ズボンは履いてくれて構わないわ。履き終わったら、改めてここに座って貰えるかしら?」


その声に振り返ったカイトが見た彼女の赤い唇には、不思議な、そして幽かな笑みが浮かんでいた。

ニコッとかニパァと言った感じの笑いではない。
無論、ニヤリやニタリと言ったタチのモノとも違う。
非常に不思議な、そして、とても曖昧な微笑み。

鈍感なカイトにしてよく気付けた物だ。
そんな風に誉めてやりたくなるほど、それは幽かな笑いであった。
生まれて初めてカイトが目にした、陰とも陽とも着かぬ、それは本当に不思議な微笑であった。



「私が想像してたより、ずっと鍛え込んでいるのね、貴方」
そんな言葉を口にしながら、彼女は前に座ったカイトの腹筋を確かめた。

相手の口から初めて出た、恐らくは、純正良性誉め言葉に、カイトも気分を良くして鼻の穴を広げる。

見た目は非常に固そうなカイトの筋肉だが、本当は柔軟な張りとバネとを秘めている。
引き締めれば硬くなり、そうでない時はしなやかさを保つ。
頑強さと頑丈さ、そして強靭な持久力と俊敏性も兼ね備えた筋肉だ。

「そして、私が思ってたよりも、ずぅぅぅっと馬鹿……。と言うか、と〜〜んでもない、のん気者、極楽トンボであり……」
その後に続けられた言葉に、カイトは顔を顰めて肩を落とす。
落ち込むカイトには構わず、相手はデータに修正を加えていた。

「私が夢にも見なかったような特技や才能、発想や閃きの才も兼ね備えている、と」
誉めている様にも、馬鹿にしている様にも受け取れる言葉にカイトが首を傾げていると、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは深遠な命題にぶつかった哲学者の様な表情を浮かべ、呟いた。

「……少しは、冒険者や冒険科の学生達に対する評価を改めた方が良いって事かしら? それとも、貴方一人だけが特殊な症例、純正な規格外品って事なのかしら……」

「何にせよ、ワーブ曹長の評価を元に戻しておかなければいけないって事だけは確かなようね」
カイトを評価するのは別の機会に回す事にした様だ。



「前蹴りを受けた時のことで、憶えている、思い出せること、本当に何か無い? どんな些細なことでも構わないわ。何でも良いから思い出してくれると、お姉さん、超スゴイ、嬉しいんだけど」
不安そうな、神妙そうな顔で彼女はカイトに尋ねた。
「そう言われても、あの時、俺、攻撃が来るなんて思ってもなかったんで、よそ見してたんス」
美女からの縋り付くような視線にドギマギしながらも、カイトはそれだけは答えた。

「まぁ、軍って場所を知らない学生さん達なら、普通はそんなモンでしょうね」
「気付いた時はクソ曹長の前蹴りを喰らった後で、その後直ぐに顔を殴られ、床に叩き付けられてたんで、憶えてる事って言うか、奇妙だって思ったのは、蹴られた腹よりも、背中が痛かったって事だけっス」
カイトが口にした最後の言葉に、マリア・キャッシロヴァニカは勃然と顔を上げた。
真剣な表情を浮かべ、食い入るような目でカイトを覗き込む。

「……熊は冬眠しても、惰眠は貪らない……。そう言うこと……」

そう呟くと相手は切れ長の目を閉じて、深い溜め息を吐いた。
物問いたげなカイトの視線に気付いたのか、こう告げた。

「万洲戦争当時、ワーブ曹長――戦時中はまだ伍長で、軍曹への昇進は終戦後だったんだけど――曹長は、何時しか“南部の人喰い熊”とか“怖ろしい熊”と呼ばれる様になったのよ。敵兵からは無論の事、『王国』軍の中でもね。前線勤務から訓練教官に異動して随分経つし、その間、戦闘らしいものには一切出てなかったって資料には書かれてたんだけど……」

「打撃を受けたのと反対側の箇所が痛みを覚える、打撃技の威力が打突点の反対側まで衝き抜けるって言うのは私も聞いた事があるわ。でも、私が知ってるのは、その道一筋の達人が放った必殺技クラスの打撃でと言うのが殆どよ。軍人の揮った技で、しかも、それが右右一呼吸の連携で出した、いわば牽制目的の前蹴りでそれが出来たなんて話、聞いたこと無いわ」

「……ワーブ曹長の武勇伝が、正真正銘、掛け値なしに本物である可能性が出てきた、と……そう言うことね」
そう呟いて、クスクス笑う。
「楽しくなって来たわ」

マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカの白い頬には、嫣然たるえくぼが彫られていた。



「……貴方、身体を竦めたでしょう。貴方の目の前でワーブ曹長が姿を消した、って私が仄めかした時に」
ややあってから好ましそうに細めた目をカイトに向けて、彼女はそんな事をしゃべりだした。
「その時、貴方は足をベッドの下に引っ込めた、私から足を遠ざけようとした。そして、一瞬だけど右側を。私から見たら右、貴方にとっては左の方に目を向けた。憶えてるかしら?」

そう言われると足をベッドの下に潜り込ませた様な気もしないではないが、自分が右を見たのか、それとも左の方に目を向けたのかなど、当然カイトは憶えていない。
仮に相手の言った通りだとして、それが如何したと言うのか。
カイトは相手の意図を計りかねた。

「貴方ぐらいの年齢だと、心の動きが足に――貴方の場合、それ以前に顔にみ〜〜んな出ちゃってるけど――足に出やすいのよ。相手を警戒してたり、嘘を吐こうとかしている時なんかだと、相手から足を遠ざけようとする。その時、椅子に座ってたりすると、足を椅子の脚にからめたりとか、ぐっと下げてつま先で支えるとか言った辺りになるわね。逆に嬉しかったり照れてる場合とかだと、かかとを立てたりするし、相手が自分に同意してくれてると感じたり本心を判って欲しい時には、足を相手に向けるって場合が多いわ」
細い顎先に右の人差し指を当て、天井を見上げて、彼女はそんな事を口にした。

「次に、黒目が右を見たか左を見たかは、脳の働きや機能と結び付いてるの。左脳は論理性を、右脳は芸術性を司ると言われているわ。それぐらい貴方でも聞いたことあるでしょう? 嘘を吐く時に人が右を見てしまうのは、判らない事や知らない事を右脳が思い浮かべようとしているから、連動して目が動いてしまう。逆に、知ってる事や判っている事を考えたり、過去の出来事を思い出そうとする場合は左脳が働き、それにつられて目が左の方を見てしまうの。左利きの人だと今言ったのと逆になる場合もあるから、絶対確実とは言い切れないけど、相手が話している事が本当か嘘かを判断する際には、かなり参考になる。実際、私はそれで幾つもの虚偽の申告を見抜いて来られたわ」

誇らしそうに相手は胸を張り、おっきな胸が……以下省略。

「貴方とワーブ曹長しか知らない筈の出来事を私が言い当てて見せた事で、貴方は動転した。私にはそれが見えたのよ、はっきりとね。私と初めて会った時のおしゃべりしていた貴方と、雰囲気とか、表情とか、周りに漂ってる空気の色とか全然違ってたんだもの。状況は不明でも事態の把握に努めるのが最優先だとして、話の主導権を握ろうと考え、その時貴方の目は右に動いた。それで確信が持てたの、「あ〜、これはアレね。絶〜〜っ対、知能の浅い嘘を吐いてトボけようとするハラね」って」
と、彼女はカイトに無邪気に笑ってみせた。



「“何で、自分の手の内を明かすなんて馬鹿な真似をするのか?”……と言った辺りかしら。今、貴方が口から垂れようとしてたのは?」
首はやや傾げ気味に、下から覗き込む様な感じで、彼女はカイトに悪戯っぽい視線を送ってきた。

「教えたと言っても、そんなのは心理分析の中でも極々初歩的な知識やテクニック。心理学なんかの本を繰れば、三ページか四ページ目ぐらいに記載されている様な内容よ。それも、最近では、一般常識のレベルにまで浸透したと言えるまでに知れ渡って来ている。隠す程の価値は無いわ。逆にそれらを知った事によって、今度は別の所に不審な挙動が出る様になる。そして、それらの挙動一つ一つの意味を読み解くタネは明かしてない。だから、私に関する限り、何の問題も無いの」
と言って肘掛に両肘を預け、胸の前で両掌を組む。
身に着けているのがメイド服(カチューシャ付きな)である事を除けば、本物の精神分析医(超スゴイ有能なな)の如き佇まいである。

「もっとも、問題が無いってだけで、自らの優位を損なう様な真似はしないわ。よく憶えておきなさい、ヒヨッコ冒険者さん。軍人はね、弱い者いじめと、強者の足を引っ張って、その地位から引きずりおろす事が仕事なのよ。クソの役にも立たないフェアプレー精神を満足させる為だけに、自分が持ってる優位性を弱者に譲り渡す……なぁんて、馬鹿な振る舞いはしないのよ。絶対にね」
そう言って、彼女はクスクス楽しそうに笑った。

「じゃあ、一体、何で?」
困惑を顔一面に浮かべてカイトが口にした疑問に、彼女はこう答えた。

「命を遣り取りする時空であるなら兎も角、金品やら何やらを遣り取りする商談の席に在る時には公平を旨とするのが私の流儀、と言うか趣味ね。私と貴方の取引は公平ではなくなってしまったわ。それを公平なモノにしたいと思った。それが一番目の理由」

「最初の取り決めでは、私はワーブ曹長のトリックを貴方に教え、代わりに貴方は曹長から受けた打撃の痕を私に見せるって事だった。だけど、図らずも、貴方は大いに有益な情報を沢山私に提供してくれた」
と言う説明を聞かされても、まだカイトには相手が何を話しているのかさっぱりだった。

「銃の鞘は金属製である必要は無いってことも判ったし……。鞘を吊り下げる場所は、腰じゃなく、腋の下でも問題無いとか……。超スゴ〜イ遊び人に見えるけど、貴方が本当は童貞だ・と・か……」
この言葉に酸欠の金魚の様に口をパクパクさせながら両腕をばたつかせるカイトを見て、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは声を上げて、とても楽しそうに笑う。

「まあ、そう言った大変貴重で、有益な情報を教えて貰ったんだから、私も差額の埋め合わせをしておくべきだと思ったのよ」



「……に、二番目の理由は?」
二、三回深呼吸してから、カイトはそう尋ねた。

「私のここでの仕事に於ける貴方の利用価値が、最初に想定されていたよりも、様々な面でずっと高いことが判明したから、友好的と言えるレベルの信頼関係を醸成しておくべきだと言う政治的判断が働いた、ってところね」
「お姉さんの仕事? それに利用価値?」
またしても、商業主義丸出しな発言にカイトは眉をひそめる。
本格的な医療スキル(いや、スキル『も』な)の持ち合わせが少ないのに、彼女の手伝いが出来るとは思えない。
カイトはそう考えた。

「貴方達冒険科の生徒が怪我人としてここに担ぎ込まれて来た時の私は、慈愛と献身とプロ意識に満ち溢れた、見目麗しい白衣の天使よ、言うまでも無くね」
怪訝そうなカイトに、彼女は明るく答える。
「だけど、それ以外の時空にある私は、人事広報担当の小隊長補佐官」

軍事用語、政界用語っぽい語の響きに、カイトの首が傾げられる。

「あ〜、詰り、貴方にも判る言葉で言うと、お姉さん、営業ウーマンなのよ、軍のね。ここの生徒さん達に、軍は良い職場ですよ〜、特殊車両の運転や危険物取り扱いと言った資格がタダで取れますよ〜、福利厚生も充実してますよ〜、老後保障や年金制度もしっかり完備されていますよ〜……と言った辺りの軍の良い所『だけ』を宣伝して入隊希望者を増やすと共に、ここに派遣されて来た他の教官達の、余り、芳しくない評判や噂とかを学外には広がらないよう取り計らう為の、ね」


「上の方では、今回割と求心力の有りそうな人員。『兵隊さんって強くて格好良い〜』とか、『僕も、私も、軍に入ろう』とかって思わせられるだけの実力とカリスマを具えた人員を、この学園に送った心算になってたんだけど……」
そこで、軽い諦念めいた溜め息がこぼれた。
「現場では、どーも、今回の自分達の任務に対して、その辺の共通認識が得られてなかったみたいなのよねぇ。だから、テコ入れ人事で、私が調整役や監視官として派遣されて来たのよ」

そう言った時のマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカの表情には、何かしらのユーモアが漂っている様にカイトの眼には映った。

「軍隊を構成する人達の中にも色々な人が居る訳で、今回派遣されて来たので軍の大勢は占められてると思われるのは、軍としても不本意なのよ。……とは言っても、あの人達だって本来の業務内容に関しては非の打ち所の無い、優秀な人材ではあるのよ。それは、判って貰えていると思いたいんだけど……。まあ、軍人としても、人としても、教師をやらせても立派な人間は軍の中には当然居るし、職場環境や労働条件が良いとはお世辞にも言えない仕事ではあるけれど、その代わりに冒険者や一般企業とかに勤めた時には無い、国家の安全とそこに暮らす人々の暮らしに貢献できたって言う満足感や達成感が得られる仕事だと言うのもまた事実。そういった部分をアピールするのが私に下された任務なの。判った?」

「……主旨は理解出来たっスけど、お姉さんの営業活動を手伝える様な力やスキルが、俺にあるとは思えないんスが……」
カイトは当惑した表情を浮かべていた。
「それに、お姉さんを手伝おう、って俺が考えるって風にお姉さんは思ってるみたいっスけど、その辺の根拠も、俺には今一……」
そう言いながらカイトはしきりに首を傾げた後、恐る恐る、こう告げた。

「軍からやって来たお姉さんの前でこんな事言うのはアレなんスけど、それこそ絶対に俺は冒険者になるって決めてるし、それは俺以外の冒険科に在籍してる奴らにしてもそうだって信じてるから、軍隊に入ろうとは……」
カイトのこの言葉に、人事広報担当小隊長補佐官を名乗る彼女の笑顔に哀しみの翳が差した。
「そうね。貴方の言う通り、確かに、職業選択の自由は王国に暮らす国民の基本的人権に含まれてはいるわね。だけど、これは貴方達冒険科生に、と言うより、王国に暮らす者全員にとっても、非常に深く、極めて密接に関ってくる重要な問題なのよ」



軍の人員不足はかなり深刻なレベルにまで来ていた。

新兵を一人前にまで育て上げるのに必要な時間と、高齢者の多い前線勤務者、つまり新兵の教育に携わる人員の中から、この先、大量退役者が出始めるまでの時間的猶予。
そして訓練等に掛かる諸経費と、国が平時の軍隊に振り分け可能な一年間の国防予算。

これらを重ね合わせて計算すると、時間的な余裕は殆ど無い。
ここ二、三年の内に入隊者を確保して古参兵達に新兵の訓練教育を行わせなければ、彼等の退役と共に軍隊内部で蓄積されてきた様々な知的財産全てがふいになってしまう。
それは国防上の大きな損失となり、他国の侵入を許す事にも繋がりかねない。
少なくとも、使う使わないは別として、外交で使えるカードが減るのは確実だ。

しかも、国際情勢がこの先如何変化しても、冒険者が新大陸へと流出していくのは間違いの無い未来予想図だ。
そうなれば、冒険者を志す若者がますます増え、軍に入る若者人口が減少の一途を辿る事は火を見るよりも明らかだ。
軍の人手不足解消、後継者問題に歯止めを掛けられるとすれば今しかない。

今後数年に亘って、誤差の範囲内で防衛費の増額を行い、毎年一定の入隊者を掻き集めて人員の入れ替えと再編とを行う。

この国の権力機構の中枢付近にいる何者かがその様な判断を下した。
いきなり多額の予算が王国の防衛費や軍事費に回されたりすれば、国家間の緊張がますます高まり、最悪の事態にまで発展する恐れが懸念される為の窮余の策である。

マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは、そう言った事情を切々とカイトに語って聞かせた。
国民一人一人がこの深刻な現状を直視し、自分達の手で国を守ろうと言う意識に目覚め、積極的な行動に拠って国への愛と忠誠を示すべき時が来ているのだ、と。

だが……。



「……国への愛、忠誠、奉仕。そんなのは人さまざまで、それをどう受け止めて、どんな風に行動しようと個人の自由だけど、俺は好きじゃないな、そう言うの。特に政治家とか一部の人間だけが口先だけで唱えてる愛国心を人に、特に子どもに強いるって言うのは」

その時のカイトは大変険しく、非常に苦々しげな表情を浮かべていた。
楽天的且つ非常にお人好しな馬鹿であるコイツが、これほどの嫌悪感、不快感を露わにするのも珍しい。

「国民から愛される体制ってモノを政府が樹立しさえすれば、人って自然と集まって来るモンだと思うんだけど……」

「そこの基礎って言うのか、愛される国作りって言う根本的な企業努力を放り出して、お客様である国民に出費と犠牲ばかりを求める今の政府のやり方とか小池のおっさんの唱えてる構造改革って、ズレてるぽいってか、間違ってるよ、絶対に」
非常に不愉快そうな口調でカイトは断言した。


カイトがこの様に断言したのは、感情からでは無い。
カイトなりの考え、論理的根拠が有ってのことだ。

カイトの根拠と言うのは、この学園の先生達である。

舞弦学園は公立、いや、王立だから、勤務する先生達の給与額は一定だ。
残業したって手当ては付かないし、優秀な冒険者を育てたからと言って給料が増える訳でもない。
労働環境だって、絶対、良好とは言えない。

校舎はどれも築ン〜十年以上であり政府から予算が下りない事もあって、一般教室には、冷房機器を初めとする、魔法文明の利器は一切設置されていない。
クーラーが無いのだから、当然、セントラルヒーティングなる横文字も存在しない。
冬になると、舞弦学園では石炭使用のダルマストーブが登場するのである。

オプションと言うか、必需品である煤ぼけた大きなヤカンに水を補給するのを日直が忘れるなどして、ストーブ周辺に座っている生徒や先生が酸欠や軽度の一酸化炭素中毒に陥り保健室に担ぎ込まれるのが、舞弦学園の冬の風物詩になってる程である。

そんな劣悪な労働条件がてんこ盛りであるにも関らず、プライベートの時間を削って教材研究に勤しみ、生徒一人一人の習熟度合いを出来る限り把握して、それぞれに合せた教案作りを心がけ、機材の点検やら何やらについても一切グチをこぼさず、真剣にこなしている先生達をカイトは見て来た。

先生達の根底にあるのは、生徒への愛情だ。

漠然とだが、カイトにはそれが判ってきた。
卒業した生徒が冒険に出ても五体満足で家族の許に帰って来られる事を心の底から願い、その可能性を少しでも高める為、舞弦学園の先生達は営々と企業努力を重ね続けている。
羽目を外したり、だらけたりする時もたまにはあるが、生徒自身の命に関る重大事に手抜きをしたり、生徒の不真面目を許す様な先生は一人も居ない。
タチが悪過ぎぢゃねーか、とマジ切れしそうになる先生(ピン髪の先生とか、ピン髪の先生とか、ピン髪の先生とか、金髪ツインテのテロテロした教諭補助とか)も居るが、究極的には冒険科生全員から、それこそ、絶対の信頼と尊敬を勝ち得ている。

けじめと言う物、そして生徒への愛情をしっかりと腹の中に呑んだ大人、否、教育のプロであるからだ。

だが、新聞や魔法ヴィジョンの報道をみる限り、カイトには今の王国の政治家連中が、この学園の先生達と同程度かそれ以上の、熱意と愛情と責任感とプロ意識を持って現状改善に繋がる行動を採っている風には全く思えないし、自分達の無為無策無能に対して罪の意識に苦しんだりとか、責任を感じていたりとか、ましてや危機感を強めているなどとは、全然、見えない。
ましてや、そんな政治家が国民全体の奉仕者であるなどとは、それこそ絶対、思えない。

確かに、学園で冒険者を目指している子ども達だけを一教室単位ずつで相手にするのと、人種も信仰も思想も職業も年齢もバラバラな国民全体をフルタイムで相手にするのとでは、かなり勝手が違ってはくるだろう。

しかし、選挙期間中に政治家が口から垂れ流してる言葉に嘘偽りが一切無いのなら。
詰り、有権者の皆様の幸福な暮らしの為に不惜身命の覚悟云々とか言う言葉が政治家達の、混じり気無し、純粋真率の本音だと言うのなら。
国民から愛される体制作りぐらいは、ムツカシクもなんとも無い、極めて簡単な仕事だろう。
仮にムツカシクたって、冒険科の先生達よりも高額の給料に、交通費に、運転手代に、秘書給与に、資料集め代に、議員年金に、その他にも現代の実情と国庫事情にそぐわない名目で様々な手当てまでをも税金から支給させているのなら、それぐらいの仕事は三倍以上のスピードで軽〜〜くこなし、子どもに尻拭いさせるなんて言う、大の大人がする事とは思えない、情けない、見っとも無い、腐れマラの所業なんぞはしないでくれ……。

と言った辺りが、カイトが開陳した意見であった。



「……驚いたこと……」

そう言って、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカはカレー皿の様に見開いた目をカイトに注ぐ。

「冒険科生の貴方からあのお嬢さ、いいえ、竜園寺少佐と同じ考えを聞かされることになるなんて、夢にも思わなかったわ」

保健室の時計は、四時三十分を示していた。






[Central]