ぱすてるチャイム
Another Season One More Time
菊と刀


26
ロバ ちょっと 拗ねた 後編



作:ティースプン





軍は国の大事である。
その大事たる軍隊は、自分が住んでいる国を守りたいと願い、そこに暮らす人々の安全に貢献したいと心の底から思える者達によってのみ構成されるべきである。
他者から入隊を強制された者達によって構成される事は、極力避けるべきである。

そう言う信念と心性を具えた若者を育成するのに、教育機関で国歌斉唱や国旗掲揚を押し付けたり、門前の小僧よろしく教師が生徒に愛国心やら国への奉仕等のお題目を吹き込むと言った、今の政府及び軍のやり方は間違っている。

愛国心と呼ばれるものは国民一人一人で異なっているのが自然であり、国を愛するかたちも千差万別である。
実際的な行動を伴わないと言う愛国心もあってよい。

国の一部の人間が『国を愛する』と言う言葉の中身を定義したり、ましてや一部の人間にだけ利益が集中するような活動を法律で国民に義務付けたりすると言うのは、正誤を云々する以前に、人倫の道にもとる行為である。

安寧秩序を妨げず、物心両面に於いて誰にも損害を与えぬ限り、国を愛する愛さないは個人の自由であり、政府は口出ししてはならない。

そもそも、人が先に在ってこそ国は成り立つのであり、その逆は無い。
国民から愛される国作りに政府が本当に心を砕き、政治家が十全の力を注いで成果を上げて行けば、国を本当に想う心と言うものは国民の中に自然と芽生えてくる筈である。

その為には、先ず、政治家や官僚と言った上に立つ者が率先して自ら犠牲を払い、痛みに耐え、清貧に甘んじるといった、公僕ならば果たして当然の務めを果たして、体制作りに勤しまねばならない。

国民に痛みや犠牲を求めるのは、最終手段である。
そして、言うまでも無く、国民が被る犠牲は必要最小限以下に抑えなければならない。
これもまた言うまでも無い事だが、最終手段と言う以上、上に立つ者が通すべき筋を全て通し尽くしている事は絶対である。
それが本来在るべき形であり、通すべき筋と言うものである。

忘れてはならないのは、それらが仮に上手く行き急場を凌げたとしても、国民に犠牲を強いた段階で、政策としては下の下に位置していると言うことである。
政治家や官僚は、その様な下策を採らざるを得なかった自らの無能を深く恥じ、深く反省するべきであり、一日も早くその状況を打開改善し、二度とその様な下策に頼る事態に陥らぬよう、全力を挙げて取り組まなければならない。


絶対に、その下策を先例として更なる犠牲を国民に強いたり、ましてや慣例と化すなどと言った愚劣の極みを犯してはならないのである……。



竜園寺家が代々掲げてきた国や軍のあるべき姿と言うのは、大体上記の様なものであった。
それをマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは、淡々とカイトに語って聞かせた。

カイトは大変驚いた。
自分の意見と似通った内容を含んでいたと言う事もある。
だが、竜園寺 菊と自分との間に共通してる部分がある事に対し、自分が以前程の反発や嫌悪感を感じていないと言う事。
むしろ、あの娘ならそう言う事を言いそうだと納得し、苦笑してる自分に驚いたのだ。
また、カイトは何故、竜園寺 菊が最初の授業で新カリキュラムを批判する意見を口にしたのか、その理由を理解した。
そして、同じ様な考えでいる自分があの娘の立場に置かれていたならどうしていたかについて、思案を巡らせた。

(多分、いや、俺なら間違いなく拒否してるな……)
一秒と掛からず、カイトはその結論に至る。

(拒否不可能なら、ここに送られても不貞腐れたまま適当にお茶を濁すか、自分にそんな仕事を押し付けたクソ上官やクソ上層部とかへの当て付けに手ぇ抜いて、鬱憤晴らしに走ってるな、絶対……)
それぐらいは当然の権利だろうとカイトは考えた。
が……。

(でも、それで迷惑をって言うか、多大な損害を現実に被るのは、軍の人間なんかじゃなく、軍や政府の思惑とは全く無関係な舞園の生徒である俺達だ……)
勃然と、カイトはその事に気付いた。


「先刻、私は人事広報担当の小隊長補佐官って言ったでしょう」
カイトの思考は相手の声で中断させられた。

「本当はこの学園での人事広報、詰り、営業活動をするのはあのお嬢さんに割り当てられていた任務だったの。貴方達冒険者予備軍の中からイキの良い、優秀な子を軍にスカウトするって仕事は」
天井を見上げながら、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは言った。
「だけど、軍と軍人に対する竜園寺家の考えはそう言うのだから、少佐は営業に余り熱心ではないのよ。元々、上層部も少佐にはカリキュラム実施への反対意見を逸らす為の客寄せパンダを果たしてくれていればそれで良いと考えていたし、営業活動は状況が許す限りに於いて、って条件が付いたらしいわ。だから、責任を問うのも難しいでしょうね」

「って言うか、自分の信条やプライド、家訓や論理性倫理観なんかには蓋をし、相手をおだて、拝み倒してノルマを上げる……なぁんて仕事は、真正お嬢様には、絶〜対、無理よ。その辺の事が今度の人選を担当した人間には視えてなかったって事ね。お陰で、今になって私のところに仕事が回ってくる事になった訳だけど、一ヶ月以上も時間をロスしてくれて、本当、良い迷惑だわ」
彼女はそう言って軽く唇を尖らせていたのだが、直ぐに表情を引き締めた。

「軍の人員不足が据え置きには出来ない段階にまで来ている今、今年度の卒業生から入隊希望者が全く出ないと言う実績が出るのは、次年度への影響を考えると極めてまずいの。そして、よっぽどの場合を除いて、軍人に命令拒否権は無い。私は受けた任務を全力で果たすより他に無いってことなの」

「貴方の意見――詰りは、お嬢さんと少佐の家が掲げる国防の責務を担うべき軍人の資質や、心構えに対する考えもって言うことだけど――それが正しい、と言うか理想的であるのは私も認める。だけど、理想ばかりじゃ世の中は回って行かない。やる気や正論だけで物事が上手く運ぶのなら、この世はもっと平和だし、こんなに有り難い事も無いわ。だけど、この世はかなりへそ曲りにできているの。最大多数の最大幸福と言う理屈を退け、僅かな人間しか幸福を手にする事が出来ないって言う風にね。何故か? 理由は簡単、人間の本質が悪だからよ。……いいえ、善悪の観点で論じる様な事象でも無いわね。もっと程度が低いと言うか、異なる次元に於ける単純な事実よね」
そこで一旦言葉を切ると、彼女は何の情感も篭らぬ声で次の様に言った。

「人と言う生き物は、自分と他者とを比べて見て、相手が自分よりも遥かに劣っていれば安心してこれを支配し、少しだけしか劣っていないと見判れば、寝首を掛かれる事を恐れて攻め滅ぼし、敵すべくもない程の力を持った相手には、妬み憎みながらも従順な態度を崩さず、相手の近くに侍って虎視眈々と仕様を盗み、何時の日か必ず相手に取って代ろうとする性癖を持っている。だから、この世は何時まで経っても平和にならないのよ」
背筋をピンと伸ばし、真正面からカイトを見据える。

「私には、貴方達イースタン人の唱える、国破れて山河有り、だとか言う理屈は全く以って理解出来ないわ。国境が破られ、侵略の火の手が上がった後になってから、救国の理想に燃えて立ち上がる人が大勢現れ、早期に国土を回復する事が出来たとするわね。だけど、貴方達の理屈は、貴方達自身がその喪われた人達の中に入ってない時にだけ言える言葉でしょう? その時までに喪われた命はどうやって回復させるの? 貴方、犠牲になった人や、犠牲者の遺族の人達に向って、先刻と同じ言葉を口に出来て?」
マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカの責める様な視線がカイトには痛かった。

「高邁な理想など薬にしたくたって無く、ただただ、その日の糧を得る為だけに軍服の袖に腕を通した様な、低俗な俗物ばかりで構成された軍団であっても、それが結成され、存在していたことに拠って人命が喪われずに済むのなら。国土が戦火に見舞われるのを未然に食い止める事が出来るのなら、その実態や成立理由、構成員の意識がどっちの方角を向いていたって、それは立派な救国の軍隊であり、正義の軍団だわ。私の中ではね」
彼女はそう言って軽く息を継いだ後、次の様に宣言した。


「現実の要求よりも理想や道徳が先に立って、それが為に被害が深刻なレベルにまで拡大する。そんなのは有ってはならない事だわ。絶対にね」


絶対の確信が込められた強く、そして正しい言葉に、カイトは反論する事が出来なかった。



「でも」
暫しの沈黙の後、彼女は優しい声を上げる。
険しかった表情も和らぎ、穏かな雰囲気が漂っていた。
「理想は可及的高く持つべきだわ。棒ほど望んで針の先ほど叶う、って昔の人も言ってるしね。その観点で言えば、貴方とお嬢様が掲げている理想は素晴しいわ。そして、理想と現実とのギャップを埋めるのは、戦争屋でも冒険屋でもなく、政治屋のお仕事。だから、それは一先ず措いて置く事にして、私と貴方、現場レベルでの落とし所を探りましょ」
そう言って、花がほころぶ様に彼女はにっこりと微笑んだ。

彼女の発言の中にカイトは幾つか引っ掛かる物を憶えたが、口には出さなかった。
彼女が披露して見せた鋭敏な観察力や明晰な頭脳、そして、立て板に水を流すが如き、淀み無い口舌の爽やかさを思うと、カイトは自分の考えや感じた事などが非常に軽く、ちっぽけで、大変詰まらない物の様に感じられた為だ。
とは言え、カイトも自分が間違っているとは全然思っていなかったが……。

「日々の糧を得る為の手段としてのみを考えるのなら、平時中の軍隊ってかなり良い所よ。軍の宿舎に入れば、食費や光熱費とかはかなり浮くし、着る物なんかも支給されるから、結構貯金が溜まり易いわ。それと、あと、色々な免許や資格なんかも、学費や受験費用は国や軍持ちで、取得できる。……まあ、プライヴァシーの保護に関しては、まだまだ意識が低くて、杜撰な所だと言う欠点はあるけど……」
彼女はそこで少し困った表情を見せた。

「やる気はあっても素質的に、と言うか気質的に冒険者には向いていない子も貴方の仲間内には居るでしょう? 独立心とか独創性とかが余り旺盛ではなくて、人の後ろをピッタリと付いて回ってる様な子が? そう言う冒険者には不向きな子の方が、型に嵌めた様な集団行動を採る軍隊って職場では重宝がられるのよ。軍の方で欲しがっているのもそんな子達ね。それに、どんなにアレな人材にも有用性を見出し、適材適所を実践するのが軍って場所だから、兎に角、頭数ね。先刻も言った様に、軍隊ってモノはそれなりの頭数を揃えているってだけで、他の国に侵略を躊躇わせる効果があるのよ」
そう言った後、誤解して欲しくないんだけど、と言う前置きをして彼女は言葉を続ける。

「私だって、絶対に冒険者になるんだって気炎を上げてる様な子をたぶらかして、入隊申込書に署名させるなんて言う非道な真似をする気は無いわ。やっぱり、自らの意志で入ってくれるに越した事無いもの。でも、冒険者かそれ以外の道を選ぶかで迷ってる子達とか、本格的な戦闘訓練や野外活動の経験をもう少し実地で積んでから冒険者になろうって、自分の力不足、経験不足を心配してる様な子達に、モラトリアム、猶予期間として軍隊に入って小銭を貯めると言う選択肢もあるって事を、貴方には知っておいて欲しかったの」

「それで、そう言う連中を見付けたらお姉さんの所に行きな、って俺に言わせたいんでしょ?」
憮然たる表情でそんな言葉を口にするカイト。
そんなカイトを見て、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカはカラカラ笑った。

「今の時点で貴方にそんな事を求めたりしないわ。してくれるのなら嬉しいし、大いに歓迎するけど、でも、今は先ず足場固め。私が上から果たすように求められている仕事が如何言うモノなのか。そして、私がどんな人間で、状況や物事をどの様に考えているか、捉まえているのか。その辺りをキチンと理解してくれる人を、少しずつ、この学園の生徒さん達の中に増やしていかなきゃいけないのよ」
そう言った相手の口から、諦念に満ちた溜め息がこぼれる。
明るかった笑顔にも、憂愁の翳りが漂っていた。

「お姉さん、ここでは、招かれざる客なのよ。まあ、学園側から見れば、今回の軍からの出向者は全員が招かれざる客でしょうけど……」
そう言う相手の美貌には、先程までは見られなかった翳りがあった。
陽が傾いて窓から差し込む光量が減少したと言う、単純な外的要因だけではない。
彼女の内面の方にこそ大きな原因が有る事は、カイトの目にも明らかだった。


銃器横流し事件の後始末問題で、ロニィ先生は色々な理由をつけて軍から金を巻き上げて来たが、軍でも毟られ放題で居た訳ではない。
向うも交渉のプロを用意して、対応に当たらせたのである。
ロニィ先生は相応の金を引き出す事には成功したが、引き換えに冒険科では幾つかの交換条件を呑まざるを得なくなった。

徒手武術科教官の授業中の行き過ぎには『ある程度まで』目を瞑れと言う事と、彼らを外部の目に晒される対外業務には就かせるなと言う事の二つは以前にも話したが、あと一つ、学生相手への営業活動に専念出来る軍側の人間の学内常駐。
細々したものは他にもあるが、その三つが(目の玉が飛び出る程の額の)金と引き換えに軍が学園に突きつけた三大要求であった。

専属の営業担当者を学内に常駐させると言う案は、今回のカリキュラム実施当初から軍内部に有ったのだが、穏健派に拠って早々に潰されていた。
体裁を気にしていられない状況だからこそ、逆に体裁には気を使い、余裕が有る風を装わなければ社会不安が更に増大する。
それが穏健派の論拠であった。
また、その辺りの広告塔としても機能するように穏健派から竜園寺 菊を出したのだし、カリキュラムに必要ではない余分な人数を学園に送る事は余計な注目を集めかねないとの意見は急進派内部からも寄せられていた。

しかし、当然とも言うべきだが、受け入れ側である舞弦学園からの反対が非常に強かった。
自分達が苦労して育ててきた人材を、他人に横取りされて嬉しがる奴は居ないだろう。
それに、軍人が冒険者を嫌っているように、ここの冒険科の方でも余り軍人(精確には軍内上層部急進派な)に好意と呼べるモノは持っていなかった。
軍のその辺の息が掛かってる連中は、本当は一人も、学園の敷地には入れたくない。
それが冒険科の本音である。


「先に教官としてここに派遣されて来た人たちには、受け持ち授業が一日平均で四コマぐらい入ってるわ。授業の準備やら何やらで、あの人たちに営業らしい営業活動を行っていられる余裕は無い。肉体的にも精神的にもね。だけど、養護教諭である私にはその時間があるだろう。その為だけに使える時間がうなるほどあるだろう。毎日、授業も無く、保健室でノンビリしていられるだろう。仕事と言えば、たまに来る擦り剥き傷をこしらえた生徒に絆創膏でも貼ってやるのと、授業をサボりに来た連中を叱り付けて教室に追い返すぐらいで、他には仕事らしい仕事も無いだろう。そして、これはと言う獲物が向うから掛かりに来たら、保健室の錠を下ろし、パンフレットを広げ、口説き落とせば良いだろう……。私の仕事、養護教諭補助の仕事を、そう言う風に思ってるでしょう?」

そう指摘された時に浮かべていた表情から見て、カイトが正にそんな印象を養護教諭と言う仕事に抱いていたのは明らかであった。
しかし、それには軽く鼻を鳴らしただけで特に気分を害した風も無く、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは先を続ける。

「でも、本当は生徒が何時来ても大丈夫な様、常にこの場所に待機していないといけないから、担当教科を持ってる先生みたいにはノンビリだらけていられる時間が無いって言うのが本当のところだし、保健室に来る生徒の数の大小と、一人一人のケアの仕方や重要性は丸っきり無関係よ。その子が求めているのは何であるのか、本当に治療すべきは何処なのか。そう言った事って、片手間で見分けられる物では無いわ」

そう告げる相手の顔は非常に真剣で、命の現場に生きるプロとしての意地と誇りで輝いている様にカイトの眼に映った。

「だけど、養護教諭は医者では無いから本格的な医療行為は行えない。だから、医者よりも低く、軽く見られて、尊敬はされない。教諭と言っても受け持ち教科は無いから、成績をネタに生徒達に圧力を掛ける事も出来ない。こちらの言葉は重くは受け止められず、それでいて何か有った時の責任だけは職責以上のモノを押し付けられる。これで、如何やって営業に専念出来て?」

「だけど、上からの命令……いいえ。ここに来た時点で命令云々は如何でも良くなってるわ。そして、この国の現状を絶対変えなければいけないとも、私は感じている。現場の一職員に現状の根本的な解決を図るのは不可能であっても、時間稼ぎは出来る。そして、今回の営業目標を達成して軍の人手不足を少しでも解消すること。そう言う流れを生み出すことが、この国の未来を守ることに繋がる。私はそう確信してるわ。なら、まずは周辺環境の整備に務め、少しずつ足掛かりを見つけ出し、地道な営業活動を続けていく事。それ以外に私に出来ることは無いし、それ以外のことをしようとも思わないの」

「……だけど、私自身の態勢が整っても、足引っ張ってくれる輩が居たんじゃ動くに動けないわ。私がここに派遣されて来たのには、徒手武術科の教官達の何人か……ぶちまけて言うわね、お嬢様を除いた全員の指導方法に問題があるって報告が上層部に届けられたってことも関係してるの。徒手武術科の連中に睨みを利かせ、授業中の『事故』の被害者の『説得』に当たって穏便に事を治められる人員として、私が派遣されてきた。私がここに来たのには、そう言う裏事情もあるの……って言うか、こっちの方が本業になりそうかしら?」
そう言って彼女は肩を竦める。

ロニィ先生が専属営業マン、いや、営業ウーマンの常駐を認めたのには、この点も『割と』大きかった。
生徒や保護者だけではなく、真面目な冒険科の教職員からも、毎日大量の苦情がロニィ先生の許には寄せられていた。
苦情処理に追いまくられるだけの毎日(詰り、遊びに行けないって事な)に、ロニィ先生は爆発寸前だったのだ。

軍内上層部直属と思われるお目付け役が居れば、徒手武術科のクソ軍人どもも少しは大人しくなるだろう。
一長一短のある解決策、妥協案ではあるが、背に腹は代えられない。
ロニィ先生は(少しは)客観的に、(普段より多めに)全体への影響も考え、そう決断したのである……。


「出向組の男どもの貧相でお粗末〜な脳味噌に自分達が軍の広告塔であると言う意識が芽生えて、そう言った立場に相応しい行動や言動をとれるようになってくれれば、私の仕事もやり易くなるわ。だけど、私は、飽くまでも、小隊付き衛生兵の扱い。徒手武術科の男連中への命令権は与えられてない。階級の上でもそう。この小隊の実質的な指揮官はクラスホイ中尉だから、少尉相当官の私には意見を具申することも出来ないのよ」
そう言う彼女の声にも表情にも、非常に悔しそうなモノがあった。

軍での階級では下位に置かれていても、『王国』での序列では自分が一番身分が高い。
何より、能力に於いては先任組の誰にも負けてはいない……。
この人の心の何処かでは、そんな意識が働いているのかも知れない。
カイトはそんな事を思った。

「気付いてないと思うけど、貴方、ワーブ曹長にかなり気に入られたのよ」
その声にカイトが意識を現実に戻すと、彼女からの上目遣いの視線とぶつかった。

「軍の中であの曹長とこれまでに事を構えた相手は、ベッドで最低三日間は絶対安静を言い渡されてるのよ、運が良くてもね。それなのに、貴方は人の助けを借りず自分の足で立って歩ける上に、自前の歯も残っていてお粥よりも硬い物を噛めるでしょう? そんなのこれまで居なかったのよ」

運が良くてもと言ったが、運が良くなかった連中はどうなったのか。
気にはなったが、尋ねるのは止めておいた。
知らなくても良い事が、世の中にはいっぱいある。
自分の気になった事は、間違いなく、否。
絶対に、その部類に入る。
カイトはそう確信していた。

「ワーブ曹長に気に入られたってことは、名目上のこととは言え、正指揮官のあのお嬢さん、竜園寺少佐に対しての間接的影響力も、貴方にはある程度期待できるってことでもあるの。今回派遣されて来た人員の中で、少佐が信頼できる唯一の存在がワーブ曹長なのよ。正規の命令系統に与える影響力に於いても、実際の現場、戦場での権力構造の見地から見ても、この小隊に於けるワーブ曹長の影響力は非常に大きいわ。貴方の利用価値が高いって言うのは、そこら辺りに起因してのことよ。潜在的な可能性は常に視野に入れた上で、戦略は立てないとね」

この言葉にもカイトはかなり引っ掛かりを覚えたのだが、矢張り、それも自分の胸に留めておく事にした。



「三番目の、そして、一番肝心な理由は、私が貴方のことを気に入ったから……とは言っても」
そこでカイトに送られてきたのは、冷たく乾いた眼差しである。

「恋愛感情とは全く違う次元の話だから、痛過ぎる勘違いをして私に付きまとったりしないでね。お姉さん、保育士の資格は取ってないし、ガキには興味ないのよ」

「……俺、お姉さんに気に入られる様な事、本当に、何かしたんスか?」
カイトは不安そうな声を上げる。
そんなカイトに、相手はクスリと笑い声を漏らした。

「“Bis das, si cito das. ”」
本日何度目かの意味不明な言葉に、またしてもカイトの首が傾げられる。

「『あなたは二度与えることになる、もし早く与えるのならば』。直訳だとそうなるわ。今回の場合だと……『速やかに与えれば、信用も相手に与えることになる』……って、感じかしら」
そう解説を加えられても、やはり、カイトには理解出来ない。

「貴方は即座に、そして正直に私への支払いに応じた。アレには本当驚かされたわ。私、貴方が屁理屈を捏ねてタダ聞きしようとするって確信してたんだもの。だから、貴方の潔さに、本っ当に、感じ入ったのよ。例え、行動理念がその場のノリであるとか、露出狂の気があるからだとか、生まれつきの頭の悪さに拠る物であったにせよ、ね」
彼女はそう言って、悪戯っぽいウインクを寄越した。

どうも彼女は誉めてるらしいっぽいのだが、カイトには全然ピンと来ない。
自分のやった事がこの相手にそこまで高く評価されるとは、カイトは思ってもみなかった。
そもそも、先刻の状況では不首尾に終っても現状維持なのだから、値切らずにどうする……ぐらいの事をこの相手なら言ってくると思ってた程だ。
迂闊なコイツにしては鋭い読みだ。

「気風の良さって、何物にも代えがたい資質として評価される時空がこの世の中にはあるのよ……。ま、極たま〜に、だけど、ね」
怪訝そうな表情を崩さぬカイトに、マリア・キャッシロヴァニカがからかう様に肩を竦めてみせる。
そんな相手に深い溜め息を吐いた後、カイトが口を開いた。

「……報酬でも商品の代金でも、先に相手から全額前払いされたら、その依頼は最優先で取り掛かり、完璧に達成しなくちゃならないんです。冒険者を名乗る者なら、それこそ『絶対』に、ね」
まるで、犬が西向けば尾は絶対に東を向く、と言った至極当たり前の事実でも告げるかのようにカイトは言った。

カイトの言葉に嘘は無いが、しかし、そう言うのが流行っていたのは遥か昔の事だ。
今では依頼者側のリスクばかりが高くなる、そんな雇用契約は殆ど行われなくなってしまった(冒険者の方でもプレッシャーを感じて嫌がるしな)。
カイトはその様な風習が有ったと言う事を、何かの折に耳にしていた。
そして、そう言う廃れてしまった風習の中に、男のロマンだとか、プロの誇りだとか、美学だとかを感じ、それに従って行動した。
先程の行動は、本当に、ただそれだけの事に過ぎなかった。

しかし、カイトに行動を採らせた一番の理由は信条や美学等ではなくて……。

「それに、色々周到に段取りして来て、一番大事な代金の取立てをしくじるなんて言うヘマ、『超スゴイ』お姉さんはやらないでしょう、『絶対』」

白けた表情を浮かべ、カイトはバッサリと斬って捨てた。
迂闊なコイツにしては、超スゴイ、鋭い読みだ。

「さあ〜、それはどうかしら。お姉さん、案外、その辺りでヘマをしてたかも知れないわよ〜。言ったでしょ、『絶対』と言い切れる事なんて、この世にはそんなに多くは無いって……」
そう言ってマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは微笑う。
邪気が一切感じられない、澄み切った笑顔だった。

その笑顔はカイトにロニィ先生を思い出させた。
同時に、過去あの先生に舐めさせられた艱難辛苦の数々も連想され、カイトの表情は顰められた。
そんなカイトに、彼女が唇を尖らせる。

「その顔はお姉さんを疑ってる顔ね。けなげな善意を疑われるのは、私としても、超スゴイ、心外だわ。……いいわ。お姉さん、一つだけ、貴方からの質問に何でも答えて上げる。但し、『軍機に関らないことに限らせてもらうけど』……」

「……軍機に関らない事って、逆に言ったらプライベートに関わる事ならどんな事でも答える、って意味に受け取れるんスけど」
顰めた眉に唾でもつけそうな感じでカイトが確認を取ると、相手の顔に大輪のヒマワリを思わせる笑みが広がった。
「あら、良く見てくれたわ。そうよ。お姉さん、ヒヨッコ冒険者さんからのどんな質問にも、正直に、本当のことを答えて上げるわ。それこそ、童貞の貴方が御執心のスリーサイズでも、携帯でも自宅の通話番号でも、初体験は何歳か、好きな体位は何かってことでも。……いわゆる、出血大サービスってアレね」

恥じらうどころか、楽しそうな笑みを湛えてその様な条々を言ってのけられる相手に、カイトの方が赤面した。
いや、この相手の事だから、カイトがその様な反応を示す事を確信した上での言動かも知れない。
そして、そこからカイトがどの様な質問をしてくるのか、そこに興味と関心を置いた行動と捉えるべきかも……。



「……お姉さん、結婚してるの?」
暫しの沈思黙考の後、カイトの口から出た彼女への質問がそれだった。


カイトが知りたい情報は山の様に有った(彼女が挙げた条々も、当然、その中には含まれる……)。
また、是非とも確かめたい事も一つ有った。
だが、それを尋ねるのは止めにした。
止めて、これを聞いたのだ。
今日この場所でこの相手と再会した時から、幾つもの意味で『それ』が気になったからだ。


「……見て、判らないかしら?」

カイトのこの問いに、相手の中でほんのチョッピリぐらいは高くなっていたかも知れないんじゃないだろうかと思われなくも無いような感じのカイトの評価が、超スゴイガクンと下がったのは絶対に確かだ。
顔にも、声にも、雰囲気にも、冷たいモノがあふれ出している。
静かに足を組むと、彼女は膝の上に先ず右掌を、次にゆっくりと――カイトに見せ付けるように、ことさらゆっくりと――左掌を載せた。

「見えてるっス。だから、判らないんス」
物怖じする事無くカイトはチラリと『それ』に視線を向け、そしてまた直ぐ相手の眼に視線を戻す。
「三日前、お姉さん、そんな指輪、嵌めてなかったでしょ?」

カイトが視線を向けた先――相手の左の薬指――には幅広の指輪が銀色の輝きを放っていた。

「あれからウチ帰って、直ぐに誰か適当な相手見繕って、式挙げて、新婚旅行行ってきて、こっち戻って来たって事っスか?」
首を傾げつつ、カイトはそう尋ねた。


「あの日は、お姉さんの胸とか、胸とか、胸とかにしか目が行ってなかったみたいに思ってたんだけど、意外〜。そんな所にも注意を払えてたんだぁ〜」
カイトの言葉にマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカの眼は嬉しそうにきらめく。
そして、ポンと言う音と共に、豊かな胸の前で彼女の両掌が打ち鳴らされた。

「そ、そんだけデカイ指輪が手前に在ったら、誰だって気付くし、記憶にだって残りますよ!!」
顔中真っ赤にして、カイトが反論する。

「……“Cornu bos capitur, voce ligatur homo. ”」
クスクス笑いながら、またしても彼女はカイトには意味不明な言葉を口にした。

「語るに落ちた。そう言ったのよ。貴方の今の言葉だと、貴方の目が私の胸に行ってたって事は否定、出来ないでしょう?」
胸を見られる事など慣れっこになっているのか、怒った風も見せず、笑顔で彼女はそう言ってのける。
カイトはぐうの音も出なかった。


「貴方の目にも留まるぐらいなら、『多分』、大丈夫よね」
邪気の無い笑顔を浮かべ、彼女は超スゴイ失礼な、だけど、超スゴイ妥当な見解を口にする。

彼女が左の薬指にしている指輪は、結婚指輪などに多く見られる丸い棒を環状に繋いだ物ではなく、幅広の板金を繋いだものだった。
カイトの言う様に、どんなに迂闊な奴でも見落とす事などありえないと思われる大きさである…………多分な。

「ほら、貴方位の年頃の子って、男の子でも女の子でも、お姉さんみたいな超スゴイ美人に会ったら、同じ事しか質問してこないでしょう? 生年月日はぁ、血液型はぁ、星座はぁ、趣味はぁ、何処に住んでるんですかぁ、結婚してるんですかぁ……って、そう言った、没個性な質問ばっかり……。答えるのは別に構わないのよ。直ぐにそう言うアレからも解放されるでしょうし、答えないのも不要な反感を買う原因になるでしょうから、色々な面からもそれは避けなくてはならない……。だけど、同じ質問に何度も繰り返し答えさせられるのって、イヤって言うか、煩わしいじゃない? 精神衛生上にも非常に悪い影響があるしね。でも、ここにコレを嵌めてたら、その内の一個からだけでも解放されるでしょ? それで、ね」
そう言ってクスクス笑った。

「超スゴイ注意力散漫な子の目にも映って、それでもって嫌味過ぎず、私の好みにも合うモノって言ったら、コレぐらいしか無かったのよ」
彼女はそう言って、愛しげな視線を指輪に落とした。
非常に深い思い入れを、その指輪に抱いている。
カイトにはそんな風に感じられた。

「ヘビ……ッすか? そこ彫り込んであるの?」
話の接ぎ穂を求めたカイトが、指輪に目を凝らしながら尋ねる。
表面に彫刻が施されているらしいのは見えるのだが、細かい所まで識別するのは無理だった。

「ヘビ、って。ちがう。“Woo-Jaw-Long”!」
心底心外だと言う表情を浮かべた彼女の口から、これまでとは違う響きが飛び出した。
また、こちらを責めている様な雰囲気もその言葉からは感じられる。
イースタン言語の一つと思われるその響きに、カイトは物思いに耽った。
この相手の言葉に首を傾げさせられるのは、今日、これで何度目だろう、と。

「五爪の竜って、イースタンでは王者や皇帝の象徴なんでしょう?」
表情と態度から、自分の言っている言葉がカイトには理解出来ていないと判ったのだろう。
カイトの眼前に指輪を突きつけ(拳でな)、イライラの篭った口調で彼女はそう詰問してきた。

目の前に突き出されて初めてカイトは、指輪に彫刻されているのが蛇でなく竜――頭には鹿の様な角を持ち、蛇の様な長い胴体に四肢を具え、吐く息を雲に変えてその上を飛ぶ様に駆けるとされる、東方風の――である事を確認した。
相手が言う様に、それぞれの四肢には五指が具わっており、左の前肢は如意宝珠を掴んでいる。
その珠の所だけが他の部分よりも若干盛り上がり、色や光沢、質感も他とは違っているところから見ると、宝石でも嵌め込んであるのだろう。
大変に凝った細工の指輪だ。

それに、何か…………。
いや、気のせいだろう。

兎に角、意匠も細工も、まあ、超スゴイ部類に入るのはカイトも認めた。
だが……。

「あのぅ、イースタン人種って一口に言っても、住んでいた地域に拠って、信仰とか風習とか考え方の違いはあるんで、イースタン人種の全てがそのウ、ウ、ウジャウロンって竜を統一王座の地位にあると考えたり、認めたりしてるって訳では……」
相手の眉間に寄せられている皺に、かなり危険なモノを感じ取ったカイトは、恐る恐る慎重に、言葉を選んで回答した。

カイトのこの答えに、彼女は目を見開き、息を呑む。
かなりガッカリ来たらしく、深い溜め息を吐き椅子に身体を沈みこませた。

「……そう。イースタンにも、やっぱり、色々と有るのね……」
落胆振りから察するに、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは、指輪よりも、五爪の竜=王者の図式の方に強い思い入れがある様だ。


「……あ、その」
この様な重苦しい沈黙には耐え切れず、カイトは声を上げる。
「綺麗ってか、カッコいいアレッすね、そのシルバーリング。あの、本当に、お世辞なんかじゃなくてですね」

それは混じり気無しのカイトの本音だ。
コイツの干支と言えば酉(ピッタリだな)と言う事になるのであろうが、干支と値段に折り合いが着いて、もう一つ二つばかしの条件が合えば、同じモノが欲しいと思ったぐらいだ。
それ故の、コイツに思い付く事の出来た精一杯の言葉だったのだが……。

「……ありがとう」
相手からの返答は、素っ気無い、投げ遣りな感謝の言葉だけ。
言葉のキャッチボールにはならず、キャッチ&リリースに終る。

「……あの、竜が好きなんスか?」
脳味噌をフル稼働させても、カイトにはそんな言葉しか思い付けなかった。
こんな時、人が凄く落ち込んでいる時に相手を元気付けられる、気の利いた言葉の一つも考え付くことの出来ない野暮な自分に、カイトは大変なもどかしさと非常な腹立たしさとを憶えた。


しかしながら、こう言う時空で気の利いた言葉やら洒落た台詞を口から垂れられるというのは相羽カイトではない。
そもそも、そんなのはコイツの任ではない。

確かに、相手と意思の疎通を図ろうとする事、解り合おうとする事は人間にとって大切な行為だ。
しかし、それより先に、しかも簡単に――赤い血と温かい心さえ通っていれば、今のカイトみたいに○○○○なアレでも、超スゴイ、簡単に――出来て、しかも非常に大切な事が人の世には在る。
コイツはそれから始めなくてはならない。
巧言令色、仁少なし。
洒落た言葉遣いが出来る様になる為に意識と精力を傾けるのは、人間、一番最後で良い…………多分だけどな。


カイトの内面の悩みと問題は兎も角として、彼女はこの問い掛けに顔を上げた。

「そうね、好き……なのかしら、ね、やっぱり。少なくとも、昔は好きだったわ。今も、別に嫌いでは無いんでしょうね。私の要求に応えてくれそうなのは他にも幾つか有ったのに、これを、この“Woo-Jaw-Long”を選んだって事は、嫌いにはなってないって、多分、そう言う事よ」
そう言って再び視線を下に落とす彼女の全身からは、何者をも拒絶する雰囲気が立ち上っていた。


「あ、あの、それで、先刻の質問なんすけど。結局の所、答えは如何なンでしょう? それとも、竜が好きかどうかを答えたから、それでチャラって事っスか? あ、その。別にそれでも俺の方は構わないってか、良いっスけど……」
先程以上に重苦しく立ち込めて来る沈黙に耐え切れず、カイトが再び声を上げた。
段々と小さくなっていくカイトの声に、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは声を出して笑った。

「子どもが大人に遠慮するモンじゃないわ。竜が好きかって言う質問には、私が好きで、私が勝手に答えただけよ」
そう言ってカイトに向けられて来た顔には、多少ぎこちなさは残るものの、しっとりとした、魅力的な微笑みが浮かんでいた。


「……結婚は『した』……」
この言葉に、何故かカイトはガツンと頭を殴られた様な衝撃を受けた。

「……でも、『ここ』には私一人で赴任して来た……」
そう言って彼女は頭を巡らす。

「……だけど、単身赴任ではないし、離婚も『していない』……」
首をやや傾げ気味にして、下から覗き込む様な視線を困惑しているカイトに送った。

「ここで問題。以上三つの条件を満たす、私の今の状態はどう言った感じ?」


「え? その、別居、中? 旦那が浮気したかなんかで、離婚訴訟してるか何かっすか?」
相手のいきなりの復調に面食らい、しどろもどろになりつつも、カイトはカイトなりに論理的と思われる解答を口にしたのではある、が……。

「不正解。ハズレ。その上、お手つき1。って言うか、私みたいな超スゴイ美人に結婚して貰った超スゴイハッピーな男が、何に不満を持って、浮気なんて言う罰当たりな行為に走るのよ!!? 第一、それだったら、『まだ』離婚はしていない、って言うのが普通でしょう?!! 貴方、私を侮辱してる、ケンカ売ってる訳?!!」
柳眉を逆立て、彼女はカイトに詰め寄った。



「……貴方を気に入った、って言うか、心理学のレクチャーめいたモノを行ったのには、もう一つ理由があったのを忘れてたわ」

こめかみを押えて深い――超スゴイ深い――溜め息を吐いた後、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは静かに語った。
その表情は渋い。
そんな相手を見るカイトの顔にも、疲労の翳りが濃い。
相手の激情を鎮める為に、カイトは三分もの間地道な説得交渉――ご免なさいの叩き売り――に当たらされたのだ。

「貴方が肉体を鍛え込んでいるってことは判ったわ。肉体の鍛え方を熟知してる、或いは、知り合いにその分野の権威がいるのか。兎に角、その辺りで憂慮すべき要素は見当たらない。だけど、頭は、全っ然、鍛えられていない。そして、その辺りに関して貴方を鍛えてくれる、導いてくれそうな人が周りにいる風にも感じられない……」

この言葉はカイトにも思い当たる。
今のカイトの周りには、カンと経験と本能とで物事の分析や判断に当たるのしか居なかった。
コレットと竜胆はその代表。
セレスやミュウにしても、理論よりかは、感性や感覚で物事を判断する事の方が非常に多い。
誰よりコイツ自身が、脊髄反射で物事を決める最右翼だ。
類は友を呼ぶとは、言ったものだ。

コイツの本来の担任であるベネット先生ならその辺で色々的確な助言や指導を行ってくれたであろうが、生憎、あの先生は不在だ。
レパード・ウォルシュ先生やティオ・マーチン先生も、その辺りは畑違いだろう、多分、絶対な。
紛いなりにも、論理性と呼べる物を知っているとするならロニィ先生ぐらいだが、あの先生にその辺りの指導を頼むのは憚られた、と言うか怖い。
(絶対)高く付きそうだし、(絶対)理不尽な苦労をさせられそうな感じがするし、(超スゴイ)気まぐれ過ぎるし、何より、あの先生は結果オーライ主義で生きてる最右翼だ。


「見せて貰った限りから判断すると、素材その物は悪く無さそうに見えるわ、貴方の頭、『そんなには』、ね。使い方、働かせ方が『全く』出来ていないってだけで、基本性能や潜在能力と言った辺りはかなり高い。お姉さん、そう見てる」

これは誉められていると見て良いのだろうか。
カイトは首を捻る。

「今の貴方の年頃だと、鍛えたモノがそのままの形で血となり肉となるわ。それは後々の大きな宝にもなる。なのに、その分野でのトレーナーが居ないのが、超スゴイ勿体無く感じられたのよ。その辺りで私がほんの少しでも力を貸して上げたら、どんな風に、また、どのぐらいの成長を見せてくれるのか。その辺で好奇心が働いたの。言ってしまえばアレね、私自身の指導者としての才能を確かめたい気持ちがフツフツと湧いてきたって言うのが、本当の所ね」
そう言って真っ直ぐカイトを見た。

「心理学や科学捜査術、何よりも論理学。その辺りの事、少しは興味が持てたのでは無くって? 荒野や地下世界での探索では直接の力にはならないかも知れないけど、応用を利かせられれば、生還する確率は増やせると思うし、何よりこの世で一番恐ろしい存在と遣り合う時空では、超スゴイ、役に立ってくれる。私はそう確信してるんだけど」

「一番恐ろしい存在って?」
カイトからのこの質問に、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカはまじまじとカイトを見詰め返した後、おもむろにこう答えた。


「……生きとし生けるもの全てにとって一番怖ろしい存在とは、神でもなければ魔王でもない、私達人間自身。他には無いわ」


「今までそんな事すらも教えて貰った事が無いのなら、今、この場で、その頭に刻み付けておきなさい。長生きしたければね」
声は平坦だが柳眉は逆立てられ、瞳には怒りの炎が燃え盛っていた。

常識以前の事柄を弁えていない事に対して、口では言い表す事が出来ないほど、深甚な怒りを抱いている。
その青い瞳に燃え盛る炎より何より、彼女の全身から立ち上る雰囲気からその事を感得したカイトは、カクカク相手に頷いてみせた。

彼女は暫くの間黙ってカイトを見詰めていたが、やがて左手首に視線を落とした。
時刻はもう五時になろうとしていた。

「今日からは早めに休んで、翌日に疲れを残さないように心掛けた方が良いわ。翌日に射撃術の授業が控えてる場合は特に」
彼女は表情を和らげ、そんな言葉を口にした。
「ここから引き揚げていくワーブ曹長とすれ違ったのよ。超スゴイ、楽しそうだったわ。明日から貴方達の授業、忙しくなるでしょうね、きっと」
彼女はそう言って、含み笑いを漏らす。

「これまでよりもきつい授業内容になる事は絶対確実でしょうけど、その分だけ、大きな成果も期待出来るわ。貴方達冒険科の生徒達が曹長……いいえ、私達軍人のシゴキに音を上げず、最後まで着いて来られればだけど、ね」
数日前、竜園寺 菊がカイトに予言したのと同じ言葉を彼女は口にした。
他人事だからであろう。
話してる内容とは逆に、相手の語調は軽く、明るく、非常に朗らかで楽しそうであった。

確かに話すことも、きっかけに出来そうなネタも無くなった感触を得ていたカイトは立ち上がった。
軽く会釈すると詰襟を肩に引掛けて出入り口に向い、指先が戸の窪みに掛かった時だ。


「相羽君」


その声に後ろを振り返ったカイトが見たのは、椅子から立ち上がってこちらに一歩踏み出し、右手で口許を押え困惑の表情を浮かべているマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカの姿だった。
呼び止める心算は無かったのに、思わず喉を衝いて言葉が出てしまった。
彼女全体から、カイトはそんな印象を受けた。

カイトから送られてくる視線に、相手は目線を床に背ける。
だが、俯いたまま、二、三度軽く頭を揺すると、直ぐに顔を上げた。
真っ直ぐカイトの方を見詰め返してきた青い瞳に、困惑の色は無かった。


「童貞の貴方にクラブの新装開店の状況なんか話したって判らないとは思うけど、ああ言うお店では、これから常連さんになってくれるかも知れない客に記念品を渡す事になってるのよ。大抵は、そうねぇ……」
そう言ってやや上を向き、人差し指をその細い顎に当てる。
「そこのママが選んだ、趣味も使い勝手も悪いペン立てだとか、飾る場所に困る様な小さな額に入れられたタペストリーや七宝焼き、それと後は裸婦画の卓上カレンダーとか……。そう言った物ね」

これが何を意図しての発言なのか、カイトにはさっぱり理解できない。
ただ、どの業種のお店でも開店日には粗品の進呈が行われているのだと言う事を理解するのに、童貞であるか否かは関係無いのでは無いか。
と言うか、何度も童貞童貞と言わないでくれ、とカイトは嘆いた。

「医療もサービス業である以上、そのひそみに倣うべきだって、ふと、そんな事を考えたのよ。誰かから、既に、同じ様な言葉を聞かされた事もあるかも知れないけど、新装開店日のクラブのママが配る記念の粗品代わり。この言葉、憶えて置いて、『猫の皮を剥ぐまで』」


「『皮を剥ぐまでは、猫は死んだかどうか判らない』……古い諺にそう言うのがあるの。そこから採った言葉。非常に困難な仕事に直面した時、そこから逃げずに最後までやり遂げるって言う意志を他人や自分自身に示したい時空にコ……。いいえ、キャッシロヴァニカ家の者達が常に口にして来た言葉であり、家訓でもある言葉」

そう語る彼女の目は何処か遠くを見ていた。

「良いこと、ヒヨッコ冒険者さん。取り掛かった仕事の中で大変詰まらなく思える部分が回ってきても、絶対に、手は抜かない。当たり前だと思い込んでいる、或いは誰かからその様に信じ込まされている情報や事柄であっても、必ず冷静な時の自分自身の目で、最低でも二回は、状況の確認を行う。仕事が完了したと言い切れる最後の瞬間までその二つを徹底出来るのなら、その人に達成不可能なことなんて、この世には一つも無いわ。私の家ではずっとそう信じられてきたし、それはその通りだったの。理解できて、相羽、カイト君?」

視線を現実に戻した養護教諭補助マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカは、今日これまで見せた中で最も厳めしい表情でカイトに尋ねた。

その言葉――猫の皮を剥ぐまで――を口の中で数回繰り返してから胸の奥に仕舞い込むと、カイトも矢張り真剣な表情を相手に返し、静かに頷く。
彼女の白い頬に嫣然たるえくぼが彫られた。

「“Acta est fabula. ”」
カイトには意味不明な今日最後の言葉が、相手の赤い唇から紡がれた。

「今日はもうカンバン。そう言ったのよ。今後とも、キャッシロヴァニカ商会をご贔屓に。それと、貴方に幸運の共に有らん事を」
そう言って彼女はカイトに厄除けの印を切り、祈りの言葉を唱えてくれた。
「さ、もうお行きなさい。暗くなっちゃうと、灯りがあっても大変よ」

両手を腰に当てて、優しく微笑む彼女の姿は、慈母や賢母と言う言葉をカイトに想起させた。
相手に自分の顔が赤くなってるのを気付かれない為にも、普段他の先生にしているよりも深い角度で会釈すると、顔を伏せたままカイトは大急ぎで保健室を後にした。



「……やられた……」

溜め息と共にカイトの口からこぼれたのは、その言葉だった。
相手の最後の言葉に何となく予感を覚えたカイトは、曹長とやり合った、と言うか、一方的にやり負かされた現場に舞い戻ったのだ。

泥の上には、グラウンド整備のトンボを掛けた痕などは一条も無く、カイト達が争った痕跡や足跡がそっくりそのまま残されていた。

「……………………完敗だ」

頭を振りながら、カイトはそう呟く。

悔しいが、それを認めざるを得なかった。
今回、カイトは最初から最後までマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカに主導権を握られっ放しだった。
仮にカイトが取引途中で彼女の言葉を確認しにここに来ようとすれば、相手は取引中止と言う圧力を掛けただろう。
圧力に屈せず、カイトがここまで来れたとしても結果は同じだ。
慣れない現場検証にカイトが手間取っている隙に、相手は新しい足跡を付けて現場を荒らして回るか、或いはその時にこそトンボを持ち出して来て、カイトの目の前で証拠隠滅を行っていただろう。

全ての状況が向う側の有利に働いていた。
今回の取引と言うか心理戦頭脳戦で、カイトが敗北したのは不可抗力だったと言えなくも無い。
しかし、よく考えていれば、彼女のハッタリを見抜く事は出来たはずだ。
彼女に証拠隠滅を図る時間と手段が有ったと言う事に意識を奪われ過ぎ、それをその時に実行しなくてはならない必要が本当に相手に有ったのかどうか。
その辺りを検討する事を考え付く事すら出来なかった自分のヌルさ、迂闊さ、間抜けぶり。
それが問題であった。

(せめて、トンボを使ったって言う言葉がハッタリだって事だけでも先刻の段階で看破出来てれば、あのお姉さんに一矢報いる事が出来たのに………)

あの時、ほんのチョビっとでも頭を働かせていたら(超スゴイ主観的判断だな)、勝てていた星がある、いや、落とさずに済んだ星があった……。
そう思うと、カイトは自分への憤りと情けなさで、目の前が真っ赤になった。
ヌルイ、ユルイ自分の頭を、頭皮が破れて血が垂れ出して来るまで、思い切り掻き毟りたい気分だった。

だが、カイトはそうはしなかった。
八つ当たりや自傷行為に走った所で、一寸の間、多少のイライラ感は治まるかも知れないが、過去の失点は取り返せない。
感情に押し流されるのは楽だし、精神衛生にも良いだろうが、後で自己嫌悪に襲われるのが鬱陶しい。
何とか激情を自制して、深呼吸を行う。

過去の失態を償えるのは、前に進もうとする現在の意志と、その意志より生み出される未来の行動だけである。
それ以外はその場で足踏みする事に過ぎず、漸く辿り着いた今と言う場所から後退する結果にしか繋がらない。
甲斐那と刹那から、カイトはその様に教えられている。

馬鹿で無意味な八つ当たりなどしていられる暇も余裕も、未熟な今の自分には有りはしない。
寧ろ、自分が犯した失敗を受け止め、発奮材料にして、少しでも自分のこれからに役立てなければならない。
カイトはそう考えた、考えるように努力したのだ。

二、三度、軽く頭を揺すって、辛うじて、気持ちを切り替えることに成功すると、カイトは今日教わったやり方で現場検証を開始した。


見方を知らない者や、見方を知っていても見た物が示す中身に興味関心が無い者からすれば、それは泥の上の足跡に過ぎない。
だが、その足跡が如何にして着いたかをその目で目撃し、その意味する物の見方を習って来たカイトにとっては、大変役に立つ教材であった。
科学捜査術の教材としてだけではない。
徒手武術の教材としてもだ。

カイトはワーブ氏がどうやって絶望的体格差のあるスクワイヤ軍曹を制したのか、その秘密を知った。
それだけではなく、目に映ってはいたものの、本当の意味では自分に見えていなかった物が如何に多かったのか。
カイトはそれを理解した。
そして……。

「……何がインチキ技の集大成だ……三味線弾きやがって……」

渋い表情でカイトは毒づく。
ライオット・ワーブは、自身で口にした様な、騙しの手練手管のみで戦場を生き延びてきた訳ではなかった。
氏は真正面からのぶつかり合いでも、他を圧倒出来る力と技を身に付けている。
残されていた数々の痕跡から、改めてカイトはそう確信するに至った。
彼我の隔絶した実力差を、改めて認識したのである。

その時点でカイトの中から、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカとの駆け引きでの、敗北感や自己嫌悪は綺麗さっぱり消え去った。
カイトは純粋な好奇心の結晶と化して現場検証を続け、あの時自らの身に起きた状況の分析と追確認を行う。
相変わらず、羨ましくなる程の切り替えの早さであり、単純さであった。



「……凄い人だな……」
検証を終えたカイトが、首を振りつつ呟いた。
ワーブ氏もだが、それよりも彼女がである。

心理分析や発言内容を予測して見せた手練も凄いが、追跡術や現場検証の技量も並ではなかった。
そして、恐らくは、本業である医療技術も端倪すべからざる域に達している。
彼女が見せた言動や、全身から溢れ出ていた自信の翳、オーラから、カイトはその様に感じ取っていた。
また、今回のこの様な状況で、本業が危ぶまれる様な人材を軍が派遣してくるなど有り得ない。
カイトはそう判断していた。


「……不思議な人だな……」
溜め息混じりに、今度はそう呟く。
言うまでも無く、これもマリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカの事だ。

凛然たる気品を漂わせているかと思えば、爛熟の極みとでも呼ぶしか無い程の妖艶な色気を周囲に振り撒き……。
商売女じみた蓮っ葉さ(実態がどの様なものか、カイトは全然知らないがな)でこちらの無知や幼稚さ、未熟さを嘲っているかと見たら、童女の様に無邪気に微笑んでみせ……。
冷酷非情な事務手続き的物言いをしていると思った矢先に、竜園寺 菊と同じかそれ以上にこの国の現在を憂い、カイトの意見の正当性を認め、尚且つ現実的対応の重要性と必要性を説いてみせる清濁併せ呑める器と度量とを具えている……。

猫の眼の様にコロコロ表情と態度と雰囲気が入れ替わり、一瞬たりとも油断が出来ない。
あそこまで行動が予測できない相手は、ロニィ先生以外では、初めてだ。
そして、あそこまであから様に女の武器(性的魅力って奴な、魔力とか暴力とかじゃなくて)を駆使して、自分の思惑通りに状況を推し進められる人(『人』だけじゃなく、エルフやハーフエルフもな)を、カイトはこれまでに見た記憶が無い。

今までカイトの周囲に居た女性は、みんな、生徒に性を意識させない様に苦心していた。
彼女はそれらの女性達の対極に位置し、しかも、相手を不快にさせない術を心得てもいる。
今日カイトに見せた内のどれが本当の顔で、どれが嘘の皮なのか。
いや、本当の顔が今日見せた中に含まれていたのかどうか。
それさえも、カイトには全く判断が着かなかった。


「……本当に不思議だ……」
再度その言葉を呟き、カイトはまだ相手が残っているであろう保健室の方に視線を向けた。

それは四日前の夕方、初めてあの相手と顔を合わせた時からカイトの内に有った思いだった。
カイトはあの日からずっと、生まれてこの方感じたことの無い、不思議な感覚に襲われていた。


カイトは彼女と、マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカと、何時か何処かで会った様な気がしていた。


彼女の澄んだ声を耳にした時から。
彼女の白皙の美貌を目にした時から。
カイトはマリア・キャッシロヴァニカと会った事が有る様な気がしていた。

無論、それはコイツの勘違いだ。
相手は超スゴイ美人だ。
それも、一度でも目にしていれば、コイツならそれこそ絶対に忘れないと言う域に居る。

今日までの二十年にも満たない短い人生を思い出せる限りまで――自我に目覚めた四歳頃まで――遡ってみても、ごく普通の一般庶民の出であるカイトが貴族と思しきノーザン人種と知り合いになれる様な事件など、一つも無かった。
二人が出会ったのは、絶対、四日前が最初なのだ。

初めてなのに、初めてではない様な。
強いて言うなら、生前、いや、前世で会ったとでも言うのか……そんな感覚だ。

兎に角、カイトは今までに出会った誰にも感じた事の無い不思議な想い――懐かしさや郷愁にも近い、不思議な感覚――に襲われていた。
自分でも初対面だと断言出来る相手なのに、そんな不思議な印象を受けた事、懐かしさにも似た不思議な想いを感じた事に、名状し難いモヤモヤ感に襲われた。
だから、一つだけどんな質問にも答えると言われた時、カイトは思わず尋ねそうになったのだ。

お姉さんと俺、何処かで会った事なかった、と。

だが流石に、ナンパ道路にウジャウジャと棲息してる薄っぺらな外見至上主義者どもだって使わなくなって久しい口説き文句みたいな馬鹿な質問を口から垂れられるだけの勇気は、カイトには無かった(とりわけ、彼女みたいなのを相手にはな)。
だから、先日カイトに傘を差し掛けてくれた手には光ってなかった指輪に話を持って行ったのだ。


「でも、女の人で竜が好きってぇのもアレだよなぁ」
カイトはこちらの無知を責めてきた、彼女の剣幕を思い出す。
「それとも、あの指輪、ってぇかその贈り主に対する想いが先に有って、そっから竜も好きになったって事なのかね」
らしからぬ複雑な表情を浮かべて、カイトは自問した。
「だけど、離婚でもなきゃ、離婚調停中の別居でもなく、単身赴任でもないってのは如何言うアレよ。それらの条件を矛盾せずに満たせる状態って、本当に、何かあんのかね」
彼女に旦那が居るのか否か、結局、明確な解答は貰えずじまいだった。


「しかし……」
カイトは厳しく、険しい表情で呟く。
既に彼女の現状に付いて考える事は諦めていた。
どんなに乏しい智恵を絞ってみても、彼女の出した問いの答えが見付けられない。

と言うより、答えを考えだす以前の段階で、別の事実がカイトの前に、超スゴイ、大きく立ちはだかってくる為だ。
マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカが誰かと結婚していた、誰かの『もの』になっていた時期が在ると言う事実が。

それを考えるだけで、カイトは普段から出来ていない冷静な判断と言う奴が、ますます、出来なくなってしまう。
思考の堂々巡りを数回繰り返した時点でカイトはその件に付いて頭を使うのをやめた。
やめて、可及的速やかに解決すべき、超スゴイ嫌な問題の対処法に付いて考える事にしたのである。

「……あのクソ曹長への借りを、一個、棒引きしなきゃならなくなったって事だよな……」
そう呟く表情には慙愧の念が濃かった。
カイトが頭を痛めている問題と言うのは、今日、カイトと彼女との間で交わされた取引の中身をワーブ曹長に如何やって切り出すか、打ち明けるかであった。

彼女の説明が終るや否や、いそいそと打撲痕を見せに走った様にも見えたが、コイツとしては結構悩んだ上での行動だった。
超スゴイ美人とは言え、不躾な態度を崩さない相手になど従ってやるものかと言う気持ちが、コイツの中では超スゴイ強かった。
また、それと同じかそれ以上に、ワーブ曹長への義理や遠慮と言ったモノも大きかった。

何故、ワーブ氏が自らの武技を秘匿し続けて来たのかはカイトには判らない。
武人としての所作か、人殺しに倦み疲れた軍人の忌避感に拠る行動か、それとも単にへそ曲りなだけなのか……。
何れにせよ、今日のアレが『立会い』なら今の自分は死体な訳だ。
敗者が勝者の意向を無視すると言うのは丸っきりスジが通らないし、何より自分自身の寝覚めが超スゴイ悪い。
そう言う考えが働いたからカイトは、頭の悪い遁辞を弄してまでも、あの場から立ち去ろうとしたのである。

では何故、取引に応じたのか。
何故、初志貫徹しなかったのか。
理由は三つある。

一つ目はワーブ氏にやられた事に対する悔しさや、雪辱の想い。
そう言ったモノが、カイトの中で静かに燃えていた事にある。
カイトは能天気だが、負け犬根性は持ち合わせていないのだ。

受けた借りは、必ず返す。
その為にも情報収集は必要且つ非常に大切だし、第三者からの意見と考察が聞けるのなら、それは最大限有効活用すべきだ。
カイトはそう考えたのである。

また、二番目の動機は持ち前の好奇心だ。
人間関係や貸し借り云々は抜きにして、自分の目の前でワーブ氏が姿を消して見せた技量は見事の一言に尽きた。
どうやって、そんな事が出来たのか。
是が非でも、カイトはそれが知りたかったのだ。

しかし、最大の理由は、矢張り、彼女との付き合いを自分の方からご破算にしたくないと言う想いが、カイトの中では非常に強かったと言う事に尽きる。
コイツがこう言う場合に女の色香を選んだと言うのは、大変珍しい、と言うか、初めての事だ。

とは言え、女の色香に釣られて不義理な行動に走ったと言うのは、男に取って余り見っとも良い事ではない(少なくとも、コイツにとってはな)。
馬鹿でお子ちゃまなカイトには、今回の振る舞いは痛恨の極みだと言えた。
しかも、その義理を欠いた相手が積年の凝塊(と言うほど長い付き合いではないが)があるワーブ曹長であると言うのが、最悪だった。
暗澹たる想いがカイトの胸中に湧き起こる。


「……今日のあのお姉さんとの取引はあのクソ曹長に、絶対、話さなきゃならない。それがスジって事は判ってるんだけどな……」
腕組みし、深刻そうな溜め息混じりに、カイトは非常に嫌そうに呟く。

出来る事なら、この件には頬かむりを決め込みたい。
しかし、自らの意志で事を起こした以上は、その責任は自分自身で取らなくてはならない。
ましてや、それによって何らかの利益を享受した以上は、自分でキチンと落とし前をつけなくてはならない。
式堂兄妹の教えは、カイトの心に深く刻み込まれていた。

また、不義理云々を抜きにしても、ワーブ曹長との決着はお互いに対等の条件、どちらが有利とか不利とか言う事の無い状態でつけたい。
カイトの中にはそんな考えもあった。
……とは言え……。

嫌なモノは、嫌だから、嫌なのだ。


「……いっその事、あのクソ曹長に黙っとくって言うアレも無くは無いんだよな。あのお姉さんに口止めさえしとけば……」

唾棄すべき安易で惰弱な手段を口にした時、妙に気になる何かがカイトの脳裏を過ぎった。
それが何なのか、カイトが心を傾けていくと……。

「……そうか。俺の今の状況って、この前のあの娘と似てるんだ……」

カイトの脳裏を過ぎったのは、サングラス越しに鋭い視線を自分にぶつけて来る竜園寺 菊の姿だった。
有耶無耶にしたい事案をワーブ曹長に切り出すか否かを考えていると、先日のあの娘の鋭い視線をカイトは思い出したのである。

お互いの経緯や立場を考えると、あの娘の謝りたくないと言う気持ちは、今のカイト以上の物が有っただろう。
ナージャ・アントノーヴァが評した通り、カイトの振る舞いにあの娘が怒髪昇天したのも無理からぬ事と言えなくも無い(あの惨状を目の当たりにした男子生徒達からさえも、『あれ』はカイトが悪いとの意見が数多く寄せられていた)。
様々な体調不良と不運な状況とが重なったのであれば、あそこまでの暴力行為に及んだのも不可抗力だと言えなくも無い(こちらに関しては、流石にみんな、カイトに同情的だった)。

ロニィ先生なら、あの娘が未成年である事と普段の真面目で熱心な勤務態度、それに初犯である事(何よりも、被害者がコイツである事)を鑑みて、厳重注意の執行猶予で済ませたかも知れない。
問題続出の他の徒手武術の教官どもに較べれば遥かにマシとの事で、大目に見たかも知れない。
先日のロニィ先生の口ぶりからは、カイトはそんな風に感じていた。

だが、あの娘はそれで良しとはしなかった。
自分から謝罪する事を選んだ。

自らに非が有ると判ってはいても、目上の者が目下の相手に謝るのにどれ程の克己心や忍耐力を必要とするかは、カイトも知っている。
それが教師だった場合、以後の授業の進捗や、職場での人間関係にどれ程の悪影響を及ぼす事に繋がりかねないと言うのも、漠然とだが、カイトにも判る。
軍内部でかなり複雑な立場に立たされているらしい竜園寺 菊にとって、冒険科の生徒に謝ると言う行為は(軍の上層部からも、出向組の他の面々からも)決して良い様には評価されないだろうと言う事も、何となくだが、想像はつく。
セクハラを楯、いや、武器に謝罪を拒否する事だって出来ただろうし、行き過ぎの指導や頻繁な体罰も、軍隊方式のやり方にケチを付けるな、と突っぱねても良かった筈だ(実際、竜園寺 菊を除く他の徒手武術教官は、全員その論法で、自分達に非が無い事を主張している)。

あの娘ならそう言った条々を考え付けた筈だし、それらを使用するか否かも考え抜いた筈だ。
そして、その上であの娘は自らの過失を認め、謝罪する事を選択した。

カイトはその事に絶対の確信を抱いていた。
そして、危うく見失いかけていた、自らが進むべき道と言う物を見出した。


「済んじまった事はアレだ。クソ忌々しいけど、あのクソ曹長には明後日の授業が終った後、ちゃんと状況説明を行って、必要なら、アレだ、謝るか」

カイトはそう言って嘆息した。
諦念めかした溜め息ではあったが、先刻程までコイツの周囲に漂っていた鬱陶しさや、卑しい雰囲気は消えていた。
元々、そう言う振る舞いが出来るほど、コイツは『利口』ではないのだ。
口許に浮かぶ微苦笑にも、何となく、今のこの状況を面白がってる風が感じられた。

「俺の支払能力を越える額の賠償責任を求められた場合は、どうするよ? ……チョッと、いや、かなり情け無いけど、あのお姉さん、ってえか、医療少尉さんだっけ? 少尉さんに半ば以上押し切られる格好になったと言って逃げるか? いや、幾らジェンダーフリーの風潮が広まりつつあるとは言っても、人、いや、男として、それは流石にNGっぽい気が…………」



「だけど、あのお姉さん。ノーザン人種にしてはかなりさばけた人だと思ったんだけど、あんな人でも人種蔑視の意識や、自分達が他の三種族を差蔑してるって言う風に他人種から疑われてるって言う被害妄想からは逃れられないのかな……」
離れた話題に自分から戻ってきてしまったカイトはそう言って、哀しげな溜め息を吐いた。
「俺に語った言葉に嘘がなければ、あの娘もクソ曹長も、協力してくれると思うけどな」

カイトは彼女が口にした、影響力云々については非常に深い疑問を抱いていた。

竜園寺 菊もライオット・ワーブ、それにマリア・キャッシロヴァニカ自身の三人とも、自らを現場の人間だと評していた。
ならば、軍の事情に疎い自分を間に立てたりせず、現場の職員同士直に会って話し合った方が時間の節約になるだろう。
竜園寺 菊の信条が、先程彼女がカイトに語った通りの物であるのなら。
戦いの虚しさや命の尊さ、儚さ、そして掛け替えの無さを心魂に徹して理解している、あのクソ曹長なら。
二人とも彼女の考えに、ある程度の妥当性を見出す筈だ。
何より、自分に語った憂国の想いが嘘偽り無しの本音であるのなら(カイトはそう感じたが)、あの娘もクソ曹長も協力してくれる筈だ。

それに、竜園寺 菊にもライオット・ワーブにも、厭らしい偏見や人種差別の心は無い。
二人とも冒険科の生徒達を、超スゴイ公平且つ平等に、シゴキまくってくれている。
あの二人は、肌や髪、瞳の色で、相手を助けるか否かを決めたりはしないだろう。

その身体に流れる血が、赤色でさえあれば。
その内に熱く、正しいモノが有ると判れば。
面子や拘りは捨て、全知全能を傾けて、可能な限りの支援活動に乗り出すだろう。

何より、あの二人は誰か他人に言われて行動を開始したり、自分で始めた行動を途中で止めたり、迷ったりする様なタマでは無い。
従って、自分が何か耳打ちしたり仄めかしたりしたところで、その内容にあの二人が影響される、感化される事などは絶対に有り得ない。
カイトはそのように確信していた。
上からの命令であっても実行の必要性が皆無であったり、命令の内容が没義道なモノであれば、あの二人は絶対に反抗する、と。


「でも、やっぱり、ここに通ってる連中は軍人には向いてないと思うけどな、絶対……」
首を傾げながらそんな言葉を呟くカイトの表情は、随分と苦しげである。

派遣されてきた職業軍人どもを見た時から、彼らと自分達冒険者の間に相容れない何かがある事を、カイトは感じていた。
自分、いや、自分達舞弦学園の生徒は軍人には向いていない、否。
軍人には、絶対、なれない、と。
飽くまでもそれは勘だが、冒険者を目指している以上、カイトは自分の勘と言うものを信じている。

確かに今日、カイトはライオット・ワーブに対する認識を改めはした。
ワーブ氏は粗暴さとF言葉しか取り柄の無い暴力信奉者ではない。
それらは氏の一面に過ぎず(かなりの面積を持ったな)、氏の精神や思想には尊敬出来る部分もちゃんと具わっている。
マリアンヌ・モーディフィア・キャッシロヴァニカが言っていた通り、軍人の中にも立派な人間や尊敬出来る人間が確かに存在している様である。

だが、氏の経験してきた過酷な状況を理解し、氏が培った理念や信条に敬意と共感は抱けても、カイトは最初の印象を取り払う事は出来なかった。
むしろ、時間が経ち、氏への驚嘆と畏敬の念が深まるにつれて、その確信が深まっていく様であった。

個人が掲げる思想や信条に共感は憶えられるであろうし、その人格を尊敬する事も出来るだろう。
組織を離れ、私人同士として付き合う事には何の問題も無い。
じっくり話し合えば、あのクソ軍曹とも気の合う部分や共感できる所を、あと二つ三つぐらいなら、見つけられるかも知れない。

しかし、それとこれとは話が別だ。

軍人と冒険者は姿形が似ているだけで、中身は丸っきり別物だ。
カイトはその様に確信していた。


「信条とかプライドとかじゃなく、結果が見えているから、あの娘は営業しないんじゃないのかな……。なんてぇのか、軍人を見る目ェとか肥えてそうだし、それで軍人の適性が有るか無いか一目で判るから、営業するだけ無駄って考えてるんじゃないのかな。そうでもなきゃ、あの娘がめーれーされた仕事を放り出すなんて事、あり得ないと思うけどな……」

コイツの他人を見る目、相手の能力や本質を見抜く才は鋭い。
竜園寺 菊が営業活動をサボタージュしているのは、正にコイツの言った通りの理由に拠るものだったりする。
であれば、マリア・キャッシロヴァニカの営業目的が達成される可能性も極めて少ない。
コイツにはそれが懸念されたのである。



「だけど、俺やあのセンセの家が軍、ってか政府に対して求めてるものって、そんなに実現不可能な理想なのかね?」
やや経ってから、それまでとは違う問題についてカイトは首を傾げた。

「政治家が政治をする、国民の暮らしを良くする為に努力するのなんて、当たり前とか言うよりも連中の正規業務じゃないのか? 連中が給料を貰ってるのはその為だと思うんだけど、アレって選挙に勝てた事への配当とか報奨金なのか?」

カイトはそう考えていたのだが、それを理想だと評されて非常に困惑していた。
また、カイトはこの国の現状を次の様にも分析していた。

今、王国が抱えている、と言うか、無能で無責任な政治家達の為に抱え込まされている矛盾や問題点は、国民、いや、自分達一人一人が留意し、自らの意識を変革して行けば解決する問題ではないのか。
いや、それ以外の方法では絶対解決不可能な問題ではないのだろうか、と。


今日は王国暦568年5月9日。
軍から派遣されて来た美しい養護教諭補助から、少年が“Asinus in tegulis”、『屋根の上のロバ』と評された日。
グラウンドの方からは、ちんけプロデュース、モーニング狼。の『0魔神(ラブマジーン)』がやけっぱち気味にがなり立てられているのが聞こえていた。






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