ぱすてるチャイム
Another Season One More Time
菊と刀


27
お逃げなさい「お嬢さん」、と敗残兵は言った。



作:ティースプン





生まれた年や場所の違いもあって、射撃術科の五人はそれぞれ王国の別方面の部隊に配属されていた。
舞弦学園に来るまで、彼らはお互いの顔を合わせたことどころか、それぞれ名前を聞いたことすらなかった。
彼らのこれまでの経歴や考課表には共通点と呼べるモノは何一つとしてなかったが、今回の異動で一つの共通点が生まれた。

ライオット・ワーブには逆らうな。
理不尽な命令をされても反抗するな。
妙ちきりんな言葉を耳にしても、反応したり異論を唱えるな。

“南部の人喰い熊”の伝説を幾度となく聞かされてきた王国軍人の常として、彼ら五人が所属していた軍団司令は辞令を渡す際に図らずも同じ言葉を忠告として贈ったのである。

上官の命令には絶対服従という声に出して言うのも馬鹿馬鹿しい軍の大前提をわざわざ言葉にして伝えたりするこの軍団司令は頭脳が間抜けか、それとも自分達をそこまで莫迦だと思っているのかと考えてしまう所だが、彼らはそれを大変真面目に、非常に深刻なものとして受け止めた。
上官にふざけてる様子は見られず、全身から立ち上る雰囲気にも悲壮且つ真剣なものが漂っていたからだ。
また、程度に差こそ有れ射撃術科の面々は馬鹿にされたりイジメや迫害に遭い続け、他人から温かい言葉を掛けて貰ったりした経験がなかったこともある。
何より、その言葉に宿る真率の想い――恐怖とか、怒りとか、憐れみとか――が彼らに無視することを許さなかったのだ。

そう言うこともあって、彼らは着任早々にワーブ曹長のところへ挨拶に行き、今後の方針や活動内容に付いてお伺いを立てた。
忠告や命令云々を抜きにしても、独力で新しい教科の教授方法や兵科の運用理論を考え付けるだけの頭脳は彼らには無く、また訓練教官や技術指導の任務に就いた経験も無かった。
前にも書いたが、彼らは銃の扱いに比較的詳しいと言うだけの理由で今回のカリキュラム実施に選ばれた、軍の落ちこぼれ組なのだ。
銃器メーカー四社が特別講習を行ってはくれたが、それとても会社の新人研修に三本毛が生えた程度のものでしかなく、とうてい実務者レベルの役に立つ代物ではなかった。
彼らには具体的な目標や業務の最低基準ライン、心構えと言った物が必要だったのである。

しかし……。

「各員のソーイクフーに任せる。テキトーにやれ」

学期初め、縋ってきた新米下士官どもに向ってライオット・ワーブ先任曹長が突き放すように言った言葉がそれだ。
その時のワーブ氏はムスッとした表情で、語気も鬱陶しそうだった。
それで判っただろうと追い払いかけたが、そんな指示ぐらいで要領よく仕事をこなせられる連中でない事を長年のカンで見抜いたのだろう。
氏はこう続けた。

「自分達が人を殺せるオモチャを使うことだけはガキどもに憶えさせろ。次に、状況開始時と終了時の部隊員の数があまりに違い過ぎるということは出来るだけ無いようにしろ。報告の義務は無いし、罰則も無い。と言うか、わしのところにその日に有った事を一々報告なんかに来るなよ。それ以外は貴様らの好きなようにして構わん。張り切るも、だらけるも、貴様らに任せる」

それだけ言うと氏は今度こそ本当に部下を追い払い、目にも毒々しい色調のタブロイド紙を広げて小説欄に没頭し始めた。

公私共に、ライオット・ワーブと射撃術科の五人が言葉らしきものを交わしたのはこの時だけだった。
向こうから敬礼されれば氏の方でも会釈や目礼ぐらいはするが、氏の方から射撃術科の面々に声を掛けたりすることは無かった。
氏が声を掛ける相手といえば伍長さんと、罵声を浴びせるカイトぐらいのもので、徒手武術科の軍人と親しむこともなければ、冒険科の教師や生徒達と交わることもせず、非生産的な毎日を過ごしていた。

では、氏に見捨てられた射撃術科の面々が自分達だけで親睦を深め、結束を固めて行ったかと言うとそんなことも無い。
ヨワヨワな大男と言語野が溶けてるガンマン、いや“癌マン”はそう言う方向に持っていきたがっていたが、残りの三人は上司の言葉を言質に採ると、自分の世界を築き上げて他人が入ってくることを許さなかった。
大男の方は同僚達の拒絶の意志を感じ取り直ぐに交流を諦めたが、“癌マン”は違った。
どうも言語野だけでなく記憶野や認識力と言ったものも溶けてるらしい。
一ヶ月が経過した今でも“癌マン”は、朝から晩まで、同僚達に能天気な笑顔と明るい声とを振り撒き続けていた。

射撃術科の面々は、平時の軍人としてもそれはチョッとと言いたくなるような、自由で自堕落で奔放な毎日を送ってくることが出来た。
今日、この時までは……。



「起きろ! 起きろ! 起きろ! 起きろ! マスかきやめ!! パンツ上げ!!!」

いきなり射撃術科教官室の入り口を開け放ち、そんなことを怒鳴りながら入ってきた者がいた。
襲撃時、“癌マン”は明日から一週間の教案、いや狂闇作りに取り組み、“フケツ”はクリスタルガラスのコップに魔動グラインダーで細かい透かし模様を入れてる真っ最中であり、“口だけ番長”は中古車情報誌を流し読みし、“白い奴”はコンピューターのモニターをにらみ続けていた。
彼らは椅子から三十センチは飛び上がり、驚愕の眼差しを出入り口に向ける。
獰猛で愉快そうな笑みを満面に浮かべたライオット・ワーブ先任曹長が仁王立ちしていた。
そこに氏の姿を見て彼らは更に驚く。
射撃術科の面々はワーブ氏が寝台の置かれた奥の部屋に引き篭もったままだ、と信じ込んでいたのだ。


実際、ライオット・ワーブは授業中にカイトとやりあった直後からずっと引き篭もり状態であった。
自分の寝台に潜り込んでカーテンを閉めきったまま、伍長さん以外の誰にも顔を見せなくなった。
寝台のある奥の大部屋には直接外へ通じる出入り口は無い。
壁に窓はあるが採光と換気用であり、枠には金網が張り巡らされている。
寝台部屋から外に出るには今射撃術科の面々のいる「教官室」を通らねばならず、自分達の上官がこの部屋を通って宿舎から出て行く姿を見た者は一人もなかった。

白昼堂々と自分達の誰にも気付かれずに外に出るなど有り得ない。
ライオット・ワーブはそれこそ呪術でも使ったのか、寝台部屋には隠し扉でもあるのか。
彼らはそう疑った。

しかしながら、ライオット・ワーブは伍長さんと共に――「あの」ロニィ先生にすらその気配を悟らせず――一ヶ月にも亘って銃器保管庫の警備を勤め上げた潜入潜伏技術の持ち主だ。
射撃術科に配属された彼ら如きグズに気付かれずこの宿舎を出入りするなど、氏にとっては朝飯前の芸当だ。
現に寝台に引き篭もってから今日までの二週間近くの間、氏は日に何度と無く宿舎の出入りを繰り返していた。
その間、彼らに気配を悟らせたことはただの一度も無かった。


「良く聞け、雌豚ども。これまでとは状況が変った。わしを含めた貴様ら……しゃ、しゃ、射撃術科、か? 射撃術科はここのクソガキどもにオモチャの正しい使い方を叩き込み、それと同時に戦場で生き残る術を躾けなければならなくなった。判ったか?」

教官室に足を踏み入れざっと室内を見回しながら、ワーブ氏はそう言った。
氏の言葉に四人は困惑した表情を見交わしあう。
上官が何を言っているのか、何をどうしようと言っているのか彼らには全く理解出来なかった。

「いきなりそんな事を言われても、一体、何をするんスか?」
“口だけ番長”ベルナルド・バースがおもむろに椅子から立ち上がって、その場に居た全員の疑問を口に出してそう尋ね……壁まで吹っ飛んだ。
“口だけ番長”が吹き飛ぶ瞬間を視認できた者はなかったが、それまで入り口付近に居たワーブ氏が“番長”の立っていたところに移動していたことから、氏が跳び蹴りか何かを食らわしたのだろうという予測は付いた。
付いたが、信じるのは不可能だった。

両者の距離は三メートル近くあり、その間には“口だけ番長”の教務机が置かれている。
そして、その上には教材や私物が微妙なバランスを保って積み上げられている。
僅かな振動が加わっただけでもそのバランスが崩れて崩落するのを、ここの人間は何度も目撃してきた。
しかし、ベルナルド・バースの“ジェンガ”はその形を保ったままだ。
そうなると、助走も予備動作も無しで距離3メートル、高さ2メートルの放物線を描いて相手に跳び蹴りを喰らわせたという結論が導きだされる訳だが、それは彼らの常識をはるかに超えていた。

だが、ライオット・ワーブにはそれが出来た。
それだけではなく、他にも様々なことが出来た。
それゆえに、幾多の戦場で生き残る事が出来た。
だからこそ、“恐るべき熊”と呼ばれるのだ。


「カマを掘るだけ掘って、相手のマスかきを手伝う外交儀礼も無い奴め! わしが何時しゃべって良いと言った? わしが良いと言った時以外、口からクソを垂れるな! 口からクソを垂れる前と後には『サー』と言え! 判ったか、ウジ虫!!」
突然の事態に目を回している冒険者崩れにそう怒鳴り付けると、それきり相手への興味を失ったかの様に残る三人――正規軍人(一応な)――に目を向けた、が……。

「さ……Sir, Yes, Sir!」

強烈に過ぎる教育的指導で意識朦朧となりながらも、ベルナルド・バースは出せる限りの大声を上げた。
あるいは、「コレ」がコイツの処世術や世渡りのコツなのかも知れないが、それはそれで大したものだ。
これまでに氏の一撃を喰らった直後に意味のある言葉を発せた者は、正規軍人にさえ、数えるほども居ないのだ。
ワーブ氏もこれには驚き、意外そうな表情を“口だけ番長”に向ける。
軍人たちの大半は冒険者を手癖の悪さしか能の無い根性無しがやる商売だと考えており、ワーブ氏もその例外ではなかったのだが、ここに来て――カイトや、それにコイツを見て――その考えは改めるべきかも知らんと言う気分にさせられた。
だからであろうか、氏は少しだけ口調を和らげ訓示を垂れた。

「今回のクソ新法でいきなり軍に放り込まれたんじゃ、軍のクソ『舌きり』が貴様の貧弱なクソドタマに入っているはずも無いな……。良いか、スキン小僧、二度は言わんから良く憶えておけ。上官からものを尋ねられたり命令された場合、答えは常に「はい」だ。「いいえ」と言う返事は軍人には無い。尋ねられたことについて反対であってもだ。反対や質問は「はい」と答えた後で口にする。口にするだけだ。口に出しても、貴様の意見が通ると思うな。上官が部下に何かを言う場合、先ず間違いなく、それは決定事項だからだ。意見を口に出したことで命令の細かい部分に変更が加えられることはあっても、命令その物がくつがえったり、引っ込められたりすることは絶対に無い。判ったか、ウジ虫!!」
「さ、Sir, Yes, Sir!」
生きていることを確かめる様に首を振りながら立ち上がり、ベルナルド・バースは大声で答えた。

「……よぅし。では状況開始前に射撃術科全体での現状確認を行う。各員、今日までの活動内容を報告しろ」
返されてきた答えに満足げな笑みを浮かべてワーブ氏がそう言った時だ。
寝台部屋と教官室とを隔てているカーテンが開き、ワーブ氏にKOされたスクワイヤ・マジョルニコフとその手当てと看病に当たっていた伍長さんが入ってきた。
ノーザン人の若者の姿を見た途端、ワーブ氏はあから様に表情をしかめる。

「あー、状況が変った。活動内容の報告よりも、先に貴様らの性能を確かめることにする」
歯切れの悪いワーブ氏の言葉に“癌マン”、“フケツ”それに“白い奴”がお互いを見交わしあい、代表する格好で“癌マン”アズサ・パードナー・服部軍曹が「え〜っと、曹長殿、質問が有るのですが……」とおっかなびっくり声を上げた。
「え〜っと、その、僕達の性能を確かめるとは一体如何言うこと、何をするんでありますでしょうか?」
「ああ? 貴様はバカか?! それとも、バカが貴様か?! 小隊付き下士官が配属されて来た兵隊に求めるモノと言ったら、根性にマラ、そして体力に決まってる! 貴様らに本当にそれが有るのかどうか。有るとしたらどれぐらいのモノか、それをこれから実際に確かめる!」
この言葉に“白い奴”アーサー・スコット・クラーク軍曹が不安げと言うか、不満げな声を上げた。

「でも、ボ、いや、自分達がここに配属されたのは生徒達の指導に当たる為で、体力は不要のはずです。それに状況が変ったってのは、一体どの筋から入った情報なんです? 月初めに送られてきた指令書には、射撃術科も徒手武術科も現状維持としか書かれてませんでしたし、そんな頻繁に朝令暮改を繰り返されたんじゃ……」
大変混乱しますし、予定に大幅な乱れが生じますし、非常に迷惑です、とデブオタ軍曹は続けたかったのだが、それが声になることは無かった。
視線は“癌マン”に向けたまま、ワーブ氏はバース伍長の机にあった灰皿(会議室のテーブルとかに置いてある、薄っぺらな金属製の一番安いアレな)を投げ付けたのだ。
目にも留まらぬ早業で放たれた灰皿は、見事人中に突き刺さり、デブオタの演説を強制終了させる。

反射的に傷を押えようとしたデブオタは更に傷口を広げる羽目になった。
落下する灰皿を拾い上げ、そのまま鼻面に押し付ける形になったのだ。
机同様、“口だけ番長”の灰皿は吸殻がてんこ盛り。
図らずも大量の灰や吸殻を飲み込み、吸い込んでしまったデブオタはむせまくる。
何十回も鼻をかみ、唾を吐きして、鼻と喉から異物感が消えるまで一分は掛かった。

落ち着いた頃合を見てライオット・ワーブが口を開いた。

「聞いて驚くな、で○シ□マ×コ。貴様が上層部のお偉方にそのたるんだケツ差し出して勲章を貰おうが、上手な「おしゃぶり」をして貴様の短く、皮をかむった貧相なマラに何層にもなってこびり付いたチ×カ○よりも分厚く、ド熱いラブレターを百億万通貰おうが、そんなものは「ここ」では何の役にも立たん。マスをかく時以外、そんなものは小型トランクにしまって鍵を掛けておけ」
大変静かな口調でそう言うと、ワーブ氏は自分の下に配属されてきた五人に視線を巡らせた。

「良く聞け、雌豚ども。「ここ」ではわしが法だ。それ以外は間違いだ」
一語一語区切るように、ライオット・ワーブ先任曹長は新米下士官どもに言った。
「「「「「「さ、Sir, Yes, Sir!」」」」」」
哀れな犠牲者達の困惑した声が射撃術科教官室に響き渡る。
「親切でかしこい先任曹長サマは、もう一つ、世間知らずでバカなお前たちに大事なことを教えてやる。わしがお前達に言うことは、後から言うことのほうが常に正しい。判ったか?」
「「「「「「Sir, Yes, Sir!」」」」」」
「ふざけるな! 大声出せ!! タマ落としたか!!!」
「「「「「「Sir, Yes, Sir!!!!」」」」」」
哀れな犠牲者達のやけっぱちじみた大声が、射撃術科教官室に響き渡った。


「よ〜し。では、貴様らの能力検査を行う。が……」
後頭部をガシガシ掻きながら氏はそこでしばらく言い淀んでいたが、やがて平板な声でこう言った。
「白アスパラ以外のウジ虫どもは先に出てろ。わしも直ぐに行く。それまでお前達で仲良く「ストッキング」でもしてろ」
「「「「ス、ス、ス、ストッキング?」」」」
反応するべきでは無いと頭では理解していても、マジョルニコフ氏を除いた四人はやはりその言葉を聞きとがめる。
「ストッキングだ。自分達で腕を引っ張り合ったり、背中合わせで持ち挙げっこをしたり、そう言うアレだ。判ったらとっとと行け! 最大戦速!! 駆け足!!」
苛立ちを含んだ氏の罵声に、四人は一目散に逃げ出していった。



――教官室から飛び出した射撃術科の面々は揃って深い溜め息を吐く。
万洲帰還兵とのやり取りは、今まで彼らが経験したことの無い恐怖と重圧とを与えた。
現実には五分にも満たない僅かな時間であったが、彼らの体感時間では五時間にも感じられた。

「二人とも大丈夫かい?」
被害を全く受けなかった“癌マン”アズサ軍曹が、犠牲者の二人に声を掛けた。
本人としては心配している心算なのだろうが、その声は明るく朗らかで、事件事故の犠牲者を労わる時に出す声とは思われない。
不運な目に遭った直後に他人からこんな声を掛けられたら、普通はバカにしているのかと思うだろう。
“白い奴”と“口だけ番長”もそう思ったらしい。
階級が相手と同じである“白い奴”は険悪な表情で一瞥を返したのみだったが、階級が一つ下ではシカトする訳にもいかず、“番長”はつっけんどんな口調で「お陰さまで」と答えた。

これもまた、普通の感性の持ち主なら嫌味か、黙れ、消えろ、放っておいてくれ、といった意味に取りそうなものだが、アズサ・P・服部は違っていた。
彼は普通ではない、不通の感性の持ち主だ。
仏頂面を浮かべた“口だけ番長”の言葉を額面通りに受け取ると、満面の笑みを浮かべ「それなら良かった」と言うクソを口から垂れた。

“口だけ番長”だけでなく“白い奴”の中でも殺意が膨れ上がる。

馬乗りファランクスナックルやらアンドロメダ・ファントムでも喰らわせてやろうかという衝動に駆られ……。
本当に実行しようかとも互いに目線を交し合い……。
直ぐにその殺意も霧散した。
二人同時に深々とした溜め息を吐く。

殺意を抑えたのは、先刻の一撃から回復していなかったということもあるが、この一ヶ月でこのアズサ軍曹には行間を読む力が全く具わっていないことを学習していたということが大きかった。
また、二人はこの“癌マン”には悪意と呼べる物が微塵も存在していないことを思い出してもいた。
アズサ・P・服部は他人の言葉を素直に(そのままの意味で)信じてしまう、信じられないぐらい純真な心(と馬鹿なドタマ)を持った善人なのだ。
事実、この二人は割り振られてきたワーブ氏の受け持ちクラスを“癌マン”に――彼が疲労でダウンするまで――丸投げして来たし(昨日、カイト達の教室に来られなかったのはその所為な)、他にも色々な雑用を押し付けてもきた。
一つ一つは大したものではなかったが、一ヶ月ともなるとその総量はかなりになる。
だから、「この程度」はまあ我慢してやるかと言う気持ちが働いたのだ。


「曹長は目がお悪いのかな?」
腕を組んで首を右に傾げながら“癌マン”は呟いた。
「起きろ〜って繰り返しながら入って来られた時、僕達は起きてただろう。明るい所から暗い所に入ってきたから、良く判らなかったのかな? それに、僕たちは誰一人として、ナニもしてなかったし、上もズボンもちゃんと穿いてたし……」

“癌マン”の語彙に、慣用句やら整調の助詞と言った言葉は存在してないらしい。
“口だけ番長”ベルナルド・バースは「はぁ、そうかも知れませんねぇ」と全然心の篭っていない相鎚を打ちながら、「あのクソサザン人の目が悪くたって、テメェの頭ほどじゃねぇよ」と心中吐き捨てた。


「曹長の仰っておられた『状況』って言うのはどう言う意味なんだろう?」
右手を顎先に当てつつ首を左へと倒し“癌マン”は呟いた。
「教官室に入って来た時に言っておられた「これまでとは状況が変った」の『状況』と、「状況開始前に射撃術科全体での現状認識を行う」の『状況』と、マジョルニコフ軍曹が入って来た時に口にしておられた「状況が変った」の『状況』って何がどう違うんだろう。上官とは言え、そのへんをちゃんと区別して使って貰わないと現場が混乱するし、苦労するんだけどなぁ……」

この“癌マン”にしてこの言葉があるか、と感ぜざるをえない。
自分のことというのは自分ではなかなか見えにくい、とは良く言ったものだ。
“白い奴”アーサー・スコット・クラークは「はぁ、そうだね」と投げやり気味な合いの手を入れつつも、「あんたがそれを言うのか? 普段のあんたの言葉遣いも支離滅裂の無茶苦茶じゃないか!!!」と心中毒づいた。


「マジョルニコフ軍曹は能力検査を受けなくても良いのかなぁ」
両手を腰に当て、心持ちうつむき加減で“癌マン”が呟いた。
「はぁ? ンなワケ無いでしょ。あの曹長は人種に別け隔て無く、性別に区別無く、新兵なら誰でも平等にシゴキ倒すのが趣味だってもっぱらの評判なんだから」
呆れ果てたという感じでバース伍長が言葉を返す。
クラーク軍曹も、それにフケツのミラーも頷いていた。

「え〜っと、でも、曹長は『わしも』としか仰ってなかったけど?」
番長からの異論に“癌マン”が顔を上げ言葉を続けたが、それの意味するところは三人には判らない(この言葉だけに限ったことじゃ無いけどな)。
「え〜っと、だから、曹長は「『わしも』直ぐに行く」と仰って、『わしらも』とは仰ってなかったんだけど……」
“癌マン”にも調子が悪いときがあるらしい。
三人の「状況」を察して、明確で明快な言葉で補足説明を行った。

三人はお互いの顔を見交わしあう。
善人だが抜けてるところばかりなこのイースタン人とウェスタン人とのハーフは、“癌マン”ではなく、意外な所に注意を払えるガンマンなのかも知れない。
そんな想いが三人の胸中には湧き起こっていた。

「それよりも、え〜っと、「ストッキング」って言うのはやっぱりアレかな、「ストレッチング」と間違えてらっしゃるのかなぁ」

一層黙り込んでしまった三人の注意を惹こうと躍起になって両手を振りつつ、アズサ・P・服部はノーテンキな声を上げる。

やっぱり、コイツは“癌マン”だ……。
三人はその思いを新たにしていた。



――邪魔な連中が出ていくと教官室には沈黙が満ちた。
重苦しい空気漂う中、ライオット・ワーブは近くにあったキャスター付きの椅子に腰を下ろす。
表情は険しく、顔色は渋く、全身からは近寄りがたい雰囲気が滲み出ていた。

そんな上官の前に恐る恐る近付き、スクワイヤ・マジョルニコフは「気を付け」の姿勢をとる。
表情は緊張で強ばり、脳裏には昼間の一件が想起されていた。

要領が悪いのは事実だが、スクワイヤ・マジョルニコフは決して馬鹿ではない。
学業に関してのみ言うのなら大変優秀だ。
身長だけでなく学業(コイツは普通科卒業な)においても、舞弦学園に出向させられてきた軍人の中では頭五つ分も六つ分も飛び出た、大変優秀な成績を誇っているのだ。
通っていた高級学校でも将来を有望視されていて、進路相談で軍に入ると言い出した時には担任だけでなく、学年の教員総出で彼の翻意を促そうと躍起になった程だ。
入隊後も彼はヒマを見つけては軍規や軍法などを調べ続け、その辺については平均的な軍人以上の知識を持っている。
抗命罪、反抗罪、上官侮辱罪……。
今のこのノーザン人のスキンヘッドの中にはそう言った軍事裁判用語が浮かんでいた。


ライオット・ワーブは口をへの字につぐんだまま、居心地悪そうに首をすくめたり、肩を回したり、明後日の方に目をやったり、頭を掻いたり、ポケットの中を探ってみたり、貧乏ゆすりしたりしていたのだが、やがて踏ん切りをつける様に大きく溜め息を吐き、正面からスクワイヤ・マジョルニコフに対した。

「状況が変った。もう荷物をまとめろとは言わん。悠長にそんなことをしていられる余裕も無い。臭い足動かして、大急ぎでここから出て行け。そして車を拾え、ウチに帰れ」

そう告げる氏の表情には沈痛なものがあった。
だが、そう言われてもノーザン人の若者はぽかんとしている。
緊張のあまり、脳がちゃんと機能していないのだろう。
それに気付いたワーブ氏は、分り易い直截な言葉で先の内容を言い直した。

「軍を辞めろと言ってるんだ。お前には、軍隊って場所でやって行く素質がかけらも無い。わしも軍には長いが、その長い軍隊生活を振り返ってみても、お前は最低だ。このまま軍人を続けられたら、わしも周りも迷惑するだけだ。必要な手続きは全部こちらでやってやる。心配せず、クニに帰れ」
静かだが、反論を許さぬ、断固たる口調だった。


このサザン人曹長が残れと言ったのが自分を誉めたり励ましたりする為では無いことは、スクワイヤ・マジョルニコフにも判っていた。
改めて「修正」されたり、明文化されてない軍の「仕来たり」をこんこんと垂れられたり、上官に歯向かった事をネタに脅迫したり……。
何かそう言った用件だろうとの腹積もりはしていたのだが、これは予想外だった。
理由を聞かせて貰おう、真意を尋ねた上で弁明や釈明をしようと思うのだがあまりにも衝撃が大きく、彼の口からは意味のある言葉は出てこなかった。


「慌てずに聞け。今わしが言ったことは全部本気だ。ウソでも、脅しでも、冗談でも、ハッタリでも無い。それと、昼間お前がしたことなぞ、わしは気にしとらん。反対にわしがお前にやり返したことは、それ以上に、全く気にも留めてない。意味も理由も無く殴られ、クソを垂れられても、文句を言えないのが軍隊だ。“撫でっこ”ぐらいで大騒ぎする、今時の若い奴らの気が知れん」
氏はそう言って鼻を鳴らしたが、そのとき何かに気付いたように、少し意地悪そうな目を若者に向けた。

「心配しとるようだから、ついでにコレも教えてやる。わしは金に興味は無いし、それほど不自由もしとらん。万洲戦争じゃ年金の付く勲章を山ほど貰ったし、それ以降もいろいろと極秘作戦には駆り出されたからな。口外すれば国のイシンとやらがガタ落ちになる様なのに、数えるのがイヤになるほどな。わしの給料には、そういったアレの口止め料が上乗せされてる。だから、「ツバメのヨダレ」ほども無い軍曹の安月給から毎月幾らかずつをわしに寄越せ、とお前を「ユラす」気も無い。安心したか?」

ここまで言われて、ようやく、スクワイヤ・マジョルニコフに冷静さと思考能力が戻って来た。
そして、自分の前に座っているこの王国軍最古参兵の眼に、何とも言えない、哀しげな光が宿っているのに気が付いた。

「わしがこの世界に入ったのは、ここの餓鬼どもよりも小さかった頃だ。それから今日までの間、本当にウンザリするほどクソ長い軍隊生活の中で、色んな連中を見てきた。地元に居られなくなる様なトンでもない真似しでかしたエロガキ。戦死したように見せかけて人生をやり直そうと考えた組織の元殺し屋。商売を始めるための元手作りや、それに必要な免許や資格だけを取ろうって腹積もりの半端者。中には女に逃げられたショックにトチ狂い、強くなりたい、自分を変えたいというクソ寝言を口から垂れる甘ったれマラもいた」
としゃべり始めたライオット・ワーブは、穏かで、懐かしむような遠い目をしていた。

「強くなりたい。力が欲しい。大事なものを守れる男になりたい。そんな所か、お前が軍に入った本当の、ど、ど、動機? ってヤツは」
ワーブ氏が現実へと視線を移した。

氏の言葉にスクワイヤ・マジョルニコフはギョッとした表情を浮かべる。
氏は彼の軍隊入りの本当の理由を言い当てていた。
しかし、彼が軍に提出した志願書にそれは書かれていない。
志望理由の欄には公徳心や愛国心的臭いがする文言を書き連ねていたし、入隊した本当の理由を他人に話したことも無い(そこまで親しい友人も居ないしな)。
何故と言う疑念が顔に表れるのも当然と言えた。

「言っただろう、今までに色んな連中を見てきた、と。カタギかワケ有りか、そいつを見りゃすぐ分る。何故、そいつが軍に入ろうと考えたのか、その本当のところもな」
そう言って自分を良く見ろとでも言うみたいに、ワーブ氏は相手に顎をしゃくる。

「図体のでかい小心者。ガキの頃からイジメのマトにされ続けてきた。腕っ節やら何やらを鍛えたくても、近所の道場やなんかには学校で自分をイジメてる連中が「ドクロ」を巻いてる。仕方が無いから、ガッコの卒業と同時に軍に入ろう、そこで自分を鍛えよう。そんなことを考えて軍に入ったのはお前が最初じゃない。今までにも大勢居た……そう……大勢な」
氏の口から最後に出た「大勢」という言葉が不吉に響いた。


「お前も、いい加減、気付いてるころだとは思うが、この際だ、はっきり言っておいてやる。「ここ」では、軍隊では、お前の考えている様な「力」や「強さ」は手に入らん。軍隊で手に入る力や強さと言えば、暴力や腕っ節の強さだけだ。それにしたところで、軍でしか手に入らんシロモノじゃない。ヨソでも買えるシロモンだ。むしろ、ヨソで買った方が安くつく。その程度のモンだ」
そう言ってライオット・ワーブは憮然たる表情を浮かべる。
自分で自分の職場批判をして、しかもそれがまったく否定出来ない事実とすれば無理もなかろう。

「軍人としてお前は最低だとわしは言ったがな、それを恥に思うこたぁ無いぞ。軍人の素質や才能が無いことイーコール人間としての値打が無いことではないからな。その二つは全く別の問題だ。大体、自分を優秀な軍人だと周りに呼ばせたがる馬鹿どもに限って、娑婆じゃなんの役にも立たん腐れマラとソーバが決まってる。だから、あの年季の入ったクソ新米将校ドノらに馬鹿にされようが、イジメられようが、そんなことは気にするな。と言うより、忘れろ、許してやれ。あの腐れマラどもがお前ばかりをマトにして来たのは、お前が怖く、そして羨ましいからだ」

氏の言葉にスクワイヤ・マジョルニコフは目を丸くする。
他人が自分を羨ましがるなど有り得ない。
長年周りから馬鹿にされる日々を送ってきたこのノーザン人の若者は、自分をそう評価していた。

「荒っぽさや腕っ節の強さが何より大事って言うあのチンケなクソどもからみれば、お前はセンボーのマトだ。半人前以下の奴らのクソハンパな実力じゃコテンパンにされるような相手でも、お前なら軽く小突いただけでもノすことが出来る。お前と奴らの間には、今でさえ、それだけの差がある」
その様に語るサザン人下士官の表情は極めて真面目で、からかってる様子は微塵もなかった。

「お前は気付いとらんし、そんなモンに値打があるとさえ思っとらんのだろうが、上背や体格の良さってモンはここじゃ才能だ。お前にはそれが山ほど有る。だから、奴らはお前が羨ましく、憎らしく、そして、恐ろしいんだ。自分達の縄張りに入って来られるのがな。お前に本当に自分達の縄張りに入って来られたら、これまで奴らが必死になってデッチ上げてきたささやかな評判や立場が、全部ブチ壊しにされる。それこそ、あっと言う間にな。そして奴らのドタマはお前ほどデキが良くない。他に出来る仕事も無ければ、生きていける場所も無い。だから自分達の縄張りを守ろうと必死になってお前を牽制し、入ってこられても風上に立ってられるようにと、ニガテ感やら恐怖心を植えつけようとしてたんだ、一生懸命な」
ライオット・ワーブは鼻を鳴らす。



「お前は強い。と言うよりも、強くなれる素質がある。わしやあいつらが棲んでるこの世界でのし上がってける素質がな。だが……」
そこで氏はなにやら自嘲めいた笑いを漏らした。

「わしも年を取った。軍に不向きな奴ならこれまでゴマンと見てきたが、そいつらがどうなるかなぞ気にも留めなかった。ガラでもない、こんな節介を焼こうと思ったりもな。向き不向きはあっても、人にはジュンノーセーってモンがある。どんな仕事でも何時かは慣れる。慣れる前にそいつが死んじまうかも知れんが、軍隊での死は「ニチジョーチャハンジ」だ。だから、気にしても始まらんってこともあった。が、まあ、わし自身の方でも色々状況が変った。それに、いくつか思い出したこともある。若い時に抱いてた夢や希望、それに、理想とかいう奴をな」
そう言ってライオット・ワーブは静かに笑った。
それは、知性と漢臭さ漂う静かな、そして、絵になる笑みだった。

「お前は、まともな人間だ。ガッコの成績も優秀だし、根も真面目だ。軍隊以外の場所で、ちゃんと人としてやっていけるタマだ。わしのようにはなるな。わしみたいなクソには、人間専門の屠殺業者にだけは、絶対に、なるな。士官学校を出てない軍人は、たとえノーザン人種であっても、戦場で虫ケラのように死ぬか、戦争で犬コロのようにバラされるかのどちらかしかない。運悪く、あるいは運良くか? とにかく、生き残ることができても、その先に待ってるのは、「ツバメのヨダレ」程もない年金におっかぶさって生きる、後悔と罪悪感に責めたてられるだけのローザンの日々だ。実際、それ以外の余生を送れたという軍人を、わしは見たことが無い。……お前、そんな人生を送りたいか?」
そう相手に問うワーブ氏の顔には何の表情も浮かんではいなかった。
そして、深々と――本当に深々と――溜め息を吐いて言った。

「わしはもうやりたくないんだ。軍隊以外の場所でなら幸福に生きられる善良な馬鹿を、戦死者の列に並ばせるのも、人でなしの仲間入りをさせるのもな。わしは、そんなことをするために軍に入った訳じゃない。生き恥を晒し続けるためにここに残ってるんでもない。もっと他のことを、この国を少しでも平和にする、住み良くするためにここに居るんだ」
そう呟くサザン人下士官の顔は静謐な覚悟に満ちている。

「お前に向いてる善良で真っ当な商売に就け。脅したり、壊したり、キョセーやハッタリをかましたりしない、まともな仕事に。そうして地道に日々を生きろ。お前が求めてる強さは、多分、そう言うところで見付かるはずだ。わしらみたいなクズばかりが集まる、こんなクソの穴じゃなくな」

「今日中にクニに辿り着け、どんなことをしてもだ。後の始末はわしの方でつけてやる。お前の不名誉や不利益にはならんよう、出来るだけのことをすると約束してやる。判ったな? 行け」
氏はそう言って右手を振った。



ライオット・ワーブの話にスクワイヤ・マジョルニコフは困惑していた。
言われた内容が理解出来なかった訳では無論無い。
良く理解出来ていた。

氏の言葉は頷かされることばかりだった。
また、そこに重いものを、真実の響きを感じてもいた。
長年軍に在り続けた王国軍最古参の兵が語る言葉、眼光、佇まい。
それらが語る軍の暗い部分や戦場の現実と呼ばれるものを――極僅かではあるが――すかし見れてもいた。
そんな――ライオット・ワーブが経験してきたような――過酷な状況に置かれれば、自分などは直ぐ命を落とすであろうことも……。

だが、一つだけ解らないことが有った。
何故、自分がこの相手からこれほど親切にして貰えるのか。
スクワイヤ・マジョルニコフには解らなかった。

人種も異なれば、出身地も違う、配属されていた部隊だってそれぞれ遠く離れている。
接点も後ろ盾も無い人間を、何故、軍から逃がそうとしてくれるのか。
自分を助けたところで、氏には何の利益もない。
逆にこれが上にバレたら、氏はかなりの不利益を被ることになる。
指揮系統の混乱や、士気の低下を招くことは重罪だ。
長年軍で暮らしてきたこのサザン人下士官がそういう常識を弁えていないなど、絶対、有り得ない。

スクワイヤ・マジョルニコフにはその点がどうしても解らなかった。

だが、氏が本当のことを話してる、親身になって忠告してくれてることは解っていた。
手段や方向性は不明だが、氏が自分の力になろうとしてくれていることについてだけは絶対の確信があった。

不遇の人生を送ってきたスクワイヤ・マジョルニコフにとって、氏の好意は非常に嬉しいものであった。
他人から温かく優しい言葉を掛けてもらったことは、今までの彼の人生において数えるほども無い。
特に上司や年上の相手から――見返りを期待したり、職場の雰囲気維持といった計算は抜きにして――こちらの将来を案じた忠告や助言の言葉を掛けて貰えたのは、これが初めてのことだった。

そして、氏の好意に報いるには氏の助言に従う以外には無いということも……。



「お気持ちは大変有り難くあります、曹長殿。ですが……」
ややあってから、スクワイヤ・マジョルニコフは上向き加減でそう答えた。
くぐもり、湿った声だった。

「ですが? ですがなんだ?! お前、わしの言うことが信じられんのか?! わしがお前をハメようとしてるとでも思っとるのか!?」
ワーブ氏の声にも表情にも険しいものが表れる。

善意を疑われたり、親切を拒絶されたりするというのはとても辛いものだ。
しかも、今回ワーブ氏がやろうと考えていたことはかなりの危険を伴う上に、あちこちに――借りを作らず退役したいような腐れマラどもに――大きな借りを作ることでもある。
それなのに相手から感謝されないどころか理解すらされないとくれば、気分がささくれ立つのも無理ないだろう。

「ご、ご、誤解であります! 自分は曹長殿のご好意ご慧眼を疑う気持ちは兎の毛で突いた程も抱いてはおりません!!」
「……じゃあ、どういうつもりだ」
相手の雰囲気や表情から嘘は言ってないと判断し、ワーブ氏は語気を少し和らげ尋ねた。
……ゴケイガンという語の意味は、氏には解らなかったが。

「自分は、今回のこの任務を最後まで続けたくあるんであります」
ややあってから、スクワイヤ・マジョルニコフはそう答えた。

「げ、現実には座学実習ともに上手く指導出来ず、生徒殿らの貴重な時間を無為にするばかりで何の役にも立てず、汗顔の至りであるんでありますが……」
険しい表情で自分を睨んでくる上官にビビりながら、スクワイヤ・マジョルニコフは心情を吐露する。

「ですが、そんな自分にも、頑張れ、とこの学園の教官殿らや生徒殿らから励ましの声を何度か掛けて頂いたりしました。それが自分には非常に有り難く、また、嬉しかったんであります」

「それに今、この状況で逃げ出すのは、隊の、いえ、班の他の仲間を置いて自分独りで逃げ出すというのは、自分にはどうしても許容できないんであります、曹長殿」
恐怖と緊張でガタガタ震えながらも、スクワイヤ・マジョルニコフは真っ直ぐ上官の眼を見てはっきりとそう答えた。


善良な若者の弁にライオット・ワーブは顔をしかめる。
非戦闘員からの応援や励ましの声などは偶然の産物――風向きや旗色が少しでも変れば、目まぐるしいまでの変化を見せる――に過ぎず、戦場にある兵士が心の拠り所とするには余りにも危険な代物だ。
氏はそう確信するに足るだけの人生経験を積んできたが、わざわざそんなことについて若者相手にしたり顔で説教を垂れるほどバカでも、ヒマでも、悪趣味でもなかった。
むしろ若い頃とはそういうものだし、他人からの応援を受けてもう少しその場に踏み止まってみよう、あとチョッと頑張ってみようと奮起した経験が一度も無いようなヒネたクソは信頼出来ない。
氏はそのように考えている。

仲間や弱い者――特に子ども――を見捨てて逃げ出すような腐れマラに息をする資格は無い。

ライオット・ワーブはそう信仰している。

とは言え、氏はスクワイヤ・マジョルニコフを試す心算で先刻のようなことを述べたのではない。
ヨワヨワのヘタレでも腰抜けのスキン小僧でも、ライオット・ワーブはこのノーザン人の若者を軍から逃がしてやる心算だった。

スクワイヤ・マジョルニコフのようなタイプが軍では一番危うい。
それもまた、今日まで軍と戦場で生き残ってきたこの不器用なサザン人下士官が信仰していることの一つであった。
氏は戦略を変更することにした。


「人を殺すってことがどういうことか、考えたことはあるか? 殺される側にとってじゃなく、殺す側にとってだ」
ライオット・ワーブの声は平板だった。
「今回のこの任務は確かにお前向きかも知れん。だが、今回の法案や人的配置は一時的なものだ。結果がどうあれ、来年もまたお前がここに配属される保証は何処にも無い。と言うよりも、わしのカンではその可能性はゼロだ。そのことは考えたか? 紛争地域に飛ばされた場合のことは?」

この問いにノーザン人の顔がさっと青ざめた。
そのことに頭が回らなかったわけではない。
前々から気付いていた。
気付いていて、努めてそれを考えないようにしてきたのだ。
雰囲気からそのことを察したのか、ワーブ氏は溜め息を吐き、「どんな馬鹿にでも解るよう教えてやる」と言った。

「今まで生きてきた中で、一番ムカついたこと、気分が悪くなった時のことを思い出せ」
その言葉にやや怪訝そうな表情を浮かべつつも、スクワイヤ・マジョルニコフの脳裏にはサンプルがダース単位で浮かんでいる。

「それを百億万倍しろ。その倍でも構わん」
あっさりとそう言った後、ライオット・ワーブは静かにこう告げた。


「人を殺すと言うのは、そう言うことだ。少なくとも、わしが初めて人を殺した時はそうだった」


俯いているので、ライオット・ワーブがどんな表情を浮かべてるのかは判らない。
だが、平板にも思われた声には色々なものが隠されていたことだけは、スクワイヤ・マジョルニコフにもはっきりと感じられた。


「その嫌なクソ気分をどう処理するのか。割り切るか、背負うか、引きずるか。戦闘中に的確な行動が採れるならどれでも良いが、お前はその内のどれでもない。お前は、殺したことに引きずられるタイプだ。倒した敵を――笑いもすれば泣きもする、恐らくは家族だっているだろう人間を、自分がその手で殺したということを忘れず、夢に見てうなされるタマだ」
氏が静かに語るなか、ノーザン人の若者は何時の間にか口の中に溜まっていた苦い唾を飲み込んだ。

「それが悪いとは言わん。むしろ正常な反応だろう。わしはそう思う。だが、それが許されるのは娑婆での話だ。軍や戦場でそういう考えやカンショーは命取りになる。やがて罪の意識に耐えられなくなり首を吊るか、撤退命令を無視して敵主攻面に吶喊するか、酒やクスリに溺れて廃人になるか。まっとうな人間が戦場で手にできる未来と言えば、大体そんなところだ」
氏の表情はひどく憂鬱で哀しげであり、非常に寂しげなものだった。

「だがな、いま挙げた死に方などまだマシなほうだ。人間として死んでいけるんだからな。軍人を続けるというのなら、お前にはそんなまともな死に方は許されんだろう。お前にはもっと別の、悲惨なクソ未来が待っている」

「いじめられても踏みつけにされても、弱い奴はただじっとそれに耐える……死ぬまでな。だが、お前はそうじゃない。お前は弱いんじゃなく、「ボロい」んだ。「ボロい」奴は耐えたままでいることは出来ん。必ず、耐えられなくなる日が来る。必ず、だ。そうなった時、そいつがどうなるか、お前に判るか?」
そう尋ねられたマジョルニコフ軍曹は呻き声も上げられないほど表情を固く強ばらせ、全身を硬直させていた。


「「ボロい」奴はな、壊れるんだ。壊れて、ギリギリ死ぬ寸前まで行って、こっち側に帰ってくる。死の淵を覗き込んでからな。そうなったそいつは別モンだ。それまでと見た目は同じでも、中身は違う。まったく別のモノに変っちまうんだ」


サザン人下士官が沈うつな声で若者にそう告げた時、壁の時計が鐘を一つ鳴らした。
時計の針は四時三十分を指していた。



「昔、お前に良く似た奴が軍に入ってきたことがあった。肉体がゴツく、気の弱〜い奴だ。いじめられる毎日に耐えられなくなり、軍に入って強くなりたいと抜かして、な。だが、いじめられる奴というのはどこに行ってもいじめられるんだ。あるいは、いじめる奴がいじめて大丈夫な奴のシルシやニオイに敏感で、いじめに掛かるというのが正解かも知らんが……」
やや傾げ気味にしていた首を直して、ライオット・ワーブはこう述べた。

「確かなことは、逃げの一手では勝ち馬にはなれんということだ。負けが込む理由に気付いて、自分からそれに立ち向かっていかん限り、そいつはむしられ続ける。やはり、死ぬまでな」

既に同じ意味内容の言葉を相手が耳にしていたとは知らず、まして同じ忠告を一日に二度も――人種も年齢も異なる相手から――聞かされて驚いているだなどと気付ける筈もなく、サザン人下士官は「それはともかく」と言って続けた。

「そいつが遂にキレた、徒手武術の訓練中にな。一人死に、六人が病院送り、大勢が軽い傷を負った。病院に送られたうちの一人は、自分じゃケツも拭けずマスもかけない身体にされて、今も病院のベッドで丸太のように転がってる」

「全ては訓練中の事故として処理された。軍では良くあることだ。いじめられてた奴がそれで自分の力に気付き、周りとの力関係がそれまでとは逆転したのも、まあ、良くあることだ」
そう言ってワーブ氏は鼻を鳴らした。
「いじめられたことのある奴は、いじめられる辛さを知ってるから、弱い者いじめをしない。そんなクソを垂れる愚かマラが娑婆にはいるらしいが、それがクソ間違いだということは判るだろう。やられてたんだから同じようにやり返す権利がある、相手に復讐する資格があると考える奴の方が絶対にアットー的に多い。歴史もそのことを証明している。戦争の記録でもある、人間の歴史がな。そして、同じく人間の歴史が証明している確かなことが、もう一つある」

「人間は、殺せる。お前が信じてる、思い込まされてるよりもずっと簡単にな」
古参兵の眉間には深いしわが刻まれていた。

「周りからいじめられてた奴が人を殺してそのことでは罰せられず、その際周囲をアットー的に上回る力や技術が自分にはあると気付いたら、そいつはどうするか。アクビ混じりに人を殺し、マスをかきながら空いてる方の手で人をひねり潰せる力が自分にはあると判った時、そいつはどうなるのか……」

「お前はどうだ? それまでと同じでいられるか? そう、断言できるか?」
この問いに対し、スクワイヤ・マジョルニコフは応とも否とも答えられなかった。



「まあ、それはどちらでも良い。戦場で豚のようにくたばろうが、死体の山を幾つもこしらえて「英雄」と呼ばれるようになろうが、お前にとっては同じことだ」
ややあってから、ゆっくりと瞼を閉じつつライオット・ワーブは顔を床に向け、深い溜め息を吐いた。
「お前には、お前の無事な帰りを心から待ち望んでいる家族が居る。それが、お前が軍人に不向きな、一番大きな理由だ。それに較べれば、いままで挙げてきたことなど「粗末な」ジショーに過ぎん」
その言葉にスクワイヤ・マジョルニコフの表情が凍りついた。

「お前たちのことは伍長が調べた。お前の顔にアバタができるに至ったワケもそのなかには含まれてる」
氏は大変いかめしい表情を浮かべていた。


……氏の名誉の為に記しておくが、氏が先程言った言葉(カタギかワケ有りか、そいつを見りゃすぐ分る)は嘘ではない。
そもそも、氏は絶対にハッタリ(実現不可能なこと)を言わない人だ。
射撃術科の面々が挨拶にきた時に、氏は彼らのおおよそのタイプを見抜いていた。
氏が伍長さんからの報告書に目を通したのは、その後のことだ。


「お前の「ゴクドウサマ」は、非常に立派な方だ。母親ならそうあるべきだろう。お前には、人としてこれ以上のものは望めないというぐらいに、素晴しい「ゴクドウサマ」がいる。男親の不在や不甲斐なさを補って余りある素晴しい女性だ、お前の母上殿はな。それは、判ってるな?」
母を絶賛するワーブ氏に驚愕しつつも(“撫でッこ”に至るまでの経緯を考えれば当然な)、スクワイヤ・マジョルニコフはこの問いに頷く。
「なら、これも判るだろう。そんな「ゴクドウサマ」なら。詰り、体を売ってまで病気に苦しむ我が子の薬代を工面されたほどの優しい女性、母親がだ、息子が串刺しにされたり、手や足をもぎ取られたり、戦死したりするのを望むわけがないことも。ましてや、人間を殺す、ほかの母親が産んだ息子や娘の血でその両手を汚し、人でなしに仲間入りしたりすることを、絶っ対に、喜ばんということも」
この言葉にスクワイヤ・マジョルニコフは応接の言葉を失った。
相手の様子に嘆息した後、大変悲痛な面持ちでライオット・ワーブは宣告した。

「お前は、軍人には向いてない。徹底的にな」

射撃術科教官室に重苦しい沈黙が満ちた。



正しいことを口にしているとは思いつつも、ライオット・ワーブは非常に落ち着かない気分を味わっていた。
正しく行動してるはずなのに、何か大きな間違いをやらかしてるような気分だ。
論理を重ねれば重ねるほど、自分は正しいという確信は強まっていくのだが、と同時に自分がどんどん深みに填まり込んでいってるような不安感も膨らんでいった。

ワーブ氏は最初それを後ろめたさだと考えていた。
部隊の一人だけを特別扱いする、えこひいきする罪悪感だと。
これまで東西南北どの産の豚も公平に(全て、平等に価値が無いとしてな)扱ってきた自分が、今になって相手の生い立ちや境遇に同情や憐れみを憶えてえこひいきしようというのだから、多少後ろめたく感じるぐらいは当然だ、と。
そのように考えていた。

しかし、そんな特別待遇を与えてでも、こんな馬鹿は軍から逃がしてやるべきだとライオット・ワーブは思っていた。
自分の命と同じかそれ以上に大切なものを侮辱する相手に激怒しつつも、その相手への哀れみを捨てきれない馬鹿は今のこの世の中には絶対必要だと確信していた。
スクワイヤ・マジョルニコフみたいな善良な馬鹿を戦場に駆り出し死へと追いやるのは、自分を含めたクソども――死んで人々から忘れ去られることでしか世の中の役に立てないクズや、死を悲しんでくれる家族が一人も居ない腐れマラ――が全員二階級特進を遂げた後で良い。
ライオット・ワーブはそう信仰していた。

だが、間違いを犯しているのではという不安感をライオット・ワーブはどうしても拭い去れない。
いや、それは不安感と言うよりも、もどかしさだった。
俳優の顔やら出演してた番組名やらはいくらでも思い出せるのに、肝心の名前が出てこないときのイライラ感、焦燥感だ。

もう少し頭を使えば根本理由に辿り着けそうな予感はあったが、氏は考えるのを止めた。
生来頭脳労働は苦手、嫌いであり、なによりもう本当に時間が無かった。
思い切るような溜め息を吐くと、氏はうつむき加減でいた表情を起し……頭を悩ませていた疑問が氷解した。

若者の顔に、敗残兵は懐かしいものを見た。
今は昔、王国から遠く離れた異国の地で、運命の岐路に立たされていた若きサザン人二等兵が抱えていたのと同じ苦悩があった。
そしてライオット・ワーブの脳裏には、その二等兵の苦悩を打ち払い、選択を促させた言葉がよみがえっていた。

二、三度軽く頭を揺すってワーブ氏は気持ちを切り替える。
背筋を伸ばし、表情を改め、かつてその二等兵だった男が口を開いた。

「迷ったら、突っ込め」

その言葉に、スクワイヤ・マジョルニコフが顔を起した。

「わしがまだ若かった頃、ちょうど、今のお前と同じような状況に立たされてた時にだ、命の恩人から言われた言葉だ……」
ワーブ氏は自分が言われた言葉を若者に伝え始めた。

人は、自分が死ぬ最後の時まで、幾つもの分かれ道にぶち当たる。
重要な時もあれば、どっちに行っても大した違いの無い場合もある。
準備が整ってる時に出くわす場合もあれば、不意打ちでやってくることだってある。

だが、どんな人間でも、どんな場合でも、確実なことが三つある。

一つ、選べる中にいつも正しい道があるとは限らない。
自分が望んだところには通じてない道しか無い時もある。
そこから離れていく道しか無い時もある。
年を重ねれば重ねるほど、偉くなればなるほど、そんな状況に見舞われることが多くなる。

二つ、正解がそれらの中に存在し、なんとかそれを選んで満足のいく結果が得られたとしても、悔いというものは必ず残る。
別のものを選んでいたらどうなっていたかという未練や好奇心は、いつまでも、心に残る。
そして、

「外からの強制や圧力なしに自分の自由意志で選ばなければ、そいつはその後悔に縛られたまま一歩もそこから動けず、灰色の人生を送る羽目になるってことだ。その時の結果が、どれほどまばゆい栄光に包まれたものであったとしてもな」

ライオット・ワーブの眼には、厳しさ以外にも何かがあった。
少なくともスクワイヤ・マジョルニコフにはそう思われた。
そして次に氏の口から語られた言葉は、こだまのように、この若者の胸に響いた。

「人生とは、自分の趣味に合った後悔を選び続けることだ。そして、そいつらと一生付き合い続けていかねばならんということだ。わしは、そう教えられた」
そう語るサザン人の声はどこか誇らしげで、虚空に向けられている目にはその当時を懐かしんでる光があった。
氏は直ぐに表情を改め言った。

「考えても採るべき道が分らん時は考えるのをやめろ。心を落ち着けて、直感と情感が進めと命じる道を行け。それなら裏目が出ても、自分の馬鹿をあざわらうだけで済む。だが、考えに考え抜いて張った目の払い戻し金がそびえたつクソでは、自分の間抜けを呪う羽目になる。どちらの被害が大きいかは、どんな愚かマラにだって一目リョーゼンだ。「迷ったら突っ込め」とは、そういうことだ」



「お前に五分だけ時間をやる。それが限界だ。その五分の間にどうするか決めろ」
厳しく事務的な表情且つ態度で、ライオット・ワーブ先任曹長は若者に命じた。

「五分したら、わしは汚れスキンどものケツを蹴っ飛ばしに表に出て行く。そのときわしの視界が届く範囲に姿がなければ、お前は家族のもとに出発したと判断し、直ぐ除隊手続きに掛かる。この国に総動員体制でも発動されない限り、お前が軍に復帰するということはないだろう。だが、もしも、まだわしの視界が届く範囲でうろちょろしてやがったら――たとえ、そのケツが豆粒ほどにしか見えない距離で、その臭くてでかい大足をえっちらおっちら動かしここから離れようと努力の真似事をしてたとしても――軍に残る意志があるものと判断し、そのように扱う。そうなればお前は任期が切れるまで軍から離れることは出来ん」

氏は数名の軍医や人事係官の弱みを握っていた。
その内の誰かに都合の良い診断書を書かせ、除隊届けを最優先最短時間で受理させる。
それが氏の頭にあったプランだ。

「名誉除隊は無理だが、年金「女給額」にはあまり響かせんようにする。下士官の年金なぞ「ビビる」もんだが、母子二人が「つつましく」生活していく分には何とかなるだろう。だが、それが限界だ。それ以上わしにはどうしてやることも出来ん」
自分の無力を嘆くが如く言った後、氏はこう続ける。
「そしてこの手が使えるのは、わしがお前を軍から逃がしてやれるのは今日の間だけだ。明日になればこの小隊に衛生兵が着任する、少尉相当官のな。そうなったら健康状態を理由にお前を除隊させてやるのは完全に不可能になる。判るな?」
若者はこの言葉に青ざめつつも、真剣な表情でうなずいた。
それを見たライオット・ワーブは、これだけは憶えておけ、と最後の忠告を与えた。

「自分の命と人生は自分しか面倒をみれん。周囲の雑音に気を取られすぎるな。野次馬は本当のことは何も知ろうともしやがらんくせしやがって、安全地帯から勝手なことばかりほざく。そんな卑怯マラが垂れてくるクソにカッカしたり、ウキウキしたりするな。ましてメソメソするなどもってのほかだ。どんな状況に置かれても絶対ヤケにはなるな。冷静さを失わず、自分を保て。情感と直観を研ぎ澄まして責務を果たす。それが、生き残るコツだ。娑婆でも戦場でも、それは変らん。判ったか?」

その言葉にスクワイヤ・マジョルニコフは踵を踏み鳴らし、何時の間にか崩れていた姿勢を正す。
そして眼前のサザン人下士官に向かって将軍クラスの相手に行うべき最敬礼をし、ご指導有り難くあります、と大声で叫んだ。

相手が示した謝意と尊敬の念にライオット・ワーブは面食らう。
畏怖や蔑みの眼で見られることには慣れていたが、こういう態度を示されたのは初めてだった。
どう返してよいのか判らずに氏はうつむき、「もう良い、行け」と言ってスクワイヤ・マジョルニコフを退出させた。



若者が退出してしばらくの間、ワーブ氏は口許を緩めて、頭を掻いたり、首をすくめたり、肩を回したり、明後日の方に目をやったり、ポケットの中を探ってみたり、貧乏ゆすりをしたりしていたが、やがて咳払いをして呟いた。

「すまんな。お前が計画してたことを駄目にした」

氏のこの言葉に、予想はしていました、と答える者がいた。
伍長さんだ。
「それに、自分に人事権があれば、閣下と同じようにしたでしょう。あの軍曹殿は軍人には全く向いてませんからな」
両手を腰に当て、伍長さんは軽く嘆息した。

伍長さんはスクワイヤ・マジョルニコフ以外の面々が追い出された時からこの場に居た。
最初から上官の斜め後ろで二人のやり取りを観察していた。
当然、スクワイヤ・マジョルニコフの眼にも伍長さんの姿は映っていた。
だが、彼の脳はそれを伍長さんであるとは認識せず、伍長さんの形をした肉だと捉えていた。

伍長さんも万洲戦争の生き残りだ。
戦技以外にも様々な数多くの技能に精通している。
気殺はその一つに過ぎない。
何より、伍長さんは長年“恐るべき熊”の副官を勤め上げてきた人物だ。
ただの好々爺などであろうはずが、いられるはずが無かった。

「ですが、あの軍曹が抜けたことでやり難くなったのも事実です。五人ですらギリギリなのに、四人ではどうしたって授業に完全な穴が開く日があります」
溜め息混じりに伍長さんは呟く。
そんな伍長さんに、わしは入っとるのか、とワーブ氏が尋ねた。
「明日からはわしも戦線に復帰する。それでも穴が開くのか?」

「ようやく、あの子に謝罪できたみたいですな」
呆れ顔の伍長さんに向かって、わしがあのガキに謝る必要がどこにある、と氏は怒声を上げた。
「謝罪する必要がないのなら、二週間近くも寝台に引き込もり、分隊の任務遂行能力を大幅に低下させる必要はどこにあったのかを教えて頂きたいですな。戦術的意味や戦略的価値ってやつを」
そう口にする伍長さんの眼は冷たい。
氏がズル休みなど決め込まなければ、伍長さんももう少しノ〜ンビリと過ごせていたのだ。
「自分に非が有ると判っとられたからこそ、あの子とは顔を合わさんよう、ず〜〜〜っと、逃げ回っとられたんでしょうが、まったく。年を取ってもその辺のアレはちっとも成長しませんな」
しばらくの間伍長さんは嘆かわしそうに首を振っていたのだが、やがて、その辺のアレはともかく、と話題を換えた。

「『舌きり』では有りません、閣下。『仕来たり』ですよ」
いきなりの話題変換にワーブ閣下はアホ面を浮かべている。
「それに『ストッキング』も違います。柔軟体操、手足の筋や腱を伸ばしたりする運動は『ストレッチング』です。そして、『ツバメのヨダレ』ではなくて『スズメの涙』。『ユラス』ではなく『ゆする』。脅迫する、と仰りたかったんでしょう? 巻くのは『トグロ』です、『ドクロ』じゃありません。『チャハンジ』ではなく『茶飯事』。『ボロい』ではなく『脆い』ですよ。『粗末なジショー』違います、『瑣末な事象』です。『ゴクドウサマ』ではなくて『ご母堂様』。そして、『ビビル』ではなく『微々たる』……。ですが、下士官給与額の低さを見れば、確かにビビリたくもなりますな。あと、質素に、倹約的に、と言いたいのなら『つましい』です。『つつましい』は、遠慮深い、控えめな、と言う意味です。そして、年金『女給額』ではない、『受給額』ですよ」

「お前の頃はそうか知らんが、わしらの時代はそう言ったんだ」
そんな言葉を口にする氏の額には脂汗が浮かんでいた。
「あたしゃあんたと大体同じ世代ですが、これまでの人生で、同世代の誰からもあんたみたいな言葉を聞いたことは一度もありません」
そう口にする伍長さんの眼は非常に冷たい。

「悪い事は言いません。タブロイド紙のエロ小説欄にうつつを抜かすのは止めて、もう一回、今度は真面目に、初級教育レベルからやり直しなさい」
「エロ小説欄じゃない、ゲージツブンカ面だ! 王国小説界が誇るカンノーデンキ小説の最高峰だ! 以後何百年にも渡って読み継がれていくであろう文学作品だぞ!!」
伍長さんは上司であり数十年来の親友でもある氏の将来を心配し、十年以上も同じ忠告を繰り返し続けているのだが、ワーブ氏から返ってくる答えも、十年一日の如く、以下同文だ。

(バカ女の喘ぎ声やら、スケベ男の嘘八百やら、ウツボとアワビがどーしたこーしたばかりがウリのキワモノ好色三文小説が文学作品として認知されるようになったら、この世は終りだ)
伍長さんは胸の内でそうこぼす。
すると、不機嫌その物といった表情でワーブ氏が副官に言った。
「言いたいことがあるのなら、はっきり言ったらどうだ?」
「……あの軍曹殿が出ていかれてから五分経過しました」
部下からの返事に、ライオット・ワーブの表情が真剣なものに変った。



自分達の上官であるサザン人下士官が宿舎から出てくると、射撃術科の面々は柔軟体操を止めた。
即座に上官の前に飛んでいくと、一列横隊を組んだ。

「……ごきげんよう、「お嬢さん」方。言われた通りにス、ス、ストレッチング! ストレッチングができていたとは驚きだ。貴様らは手と足の区別も着かないド低脳生命体だというわしの評価は違っていたらしい。その辺を区別できる知恵だけはパパやママが忘れず貴様らのケツに突っ込んでくれてたわけだ。わしのツキも、すこしは、戻ってきたらしい」
と言ってライオット・ワーブが獰猛な笑顔を見せる。

「先刻わしが言ったことをすでに忘れてる奴もいるだろうから、もう一度教えてやる。耳の穴からクソ掘り出して良く聞け。状況が変った。わしらはここのクソガキどもに躾けを教え、社会のルールを学ばせ、さらにその生っちろいケツに戦場で生き残るのためのワル智恵に銃の使い方とをセットで突っ込んでやらなくてはならん。それが今わしらの置かれている現状だ」
クソどもの周りをそっくり返って歩きながらワーブ氏は言った。

「だが、カマを掘るには前戯が必要だ。何を突っ込んでやれば良いのか、何を突っ込んだらマズイのか。突っ込んでやる側のドタマには先ずそれが入ってなくてはならん。そして、どうやればケツに沢山のものが入るのか、一度に沢山のケツに突っ込むにはどうケツを並べれば良いのか。それらのケツ、いや、コツもドタマには刻み込んでおく必要がある」

「だが、今言ったうちのどれ一つとして、貴様らのドタマに入ってるものはない。刻みついてるものもない。これは「初々しい」事態だ」

間違いなく「由々しき」と言いたいのだろう、と胸のうちでは思いつつもみな沈黙を保つ。
着任前に受けた忠告の意味がジワジワと彼等のドタマに浸透しつつあった。

「ケツに突っ込む方法は今からわしが貴様らに叩き込んでやる。何故か判るか? いや、答えなくても良い。わしのパンツについたクソ並みの脳ミソしかない貴様らにそんなことが考え付けないことは判っている。ウジ虫にも理解できるようその理由を、今からこのわしがテーネーに教えてやる。黙って静かにセイチョーしろ」

黙って静かに静聴。
いくら強調したいからって同義語多過ぎ。
全員胸の中でそう叫んだ。

「無能なオカマ野郎が、コネに頼って、ガラでもない偉い役職に就くというのは軍でも娑婆でも良くあることだ。しかし、下士官にそれは許されん。何故なら下士官の務めとは、兵を束ね、将校を支えることだからだ。多くの将校を無駄死にから救い、それ以上の数の兵どもの暮らしを守ってやることが下士官の使命だ。パチモンの勝利にラリってるバカどもの中にあっても冷静さは失わず、敵に追い詰められた恐怖で周りのクズどもがブルってる時でも望みは捨てず、天候と地形を読み、敵の強みと弱みを知り、飢えや渇きに耐え、浮き足立った兵どもを見ればそいつらをどやしつけ、臆病風に吹かれた将校がいればそのケツを蹴っ飛ばす。それが本物の下士官だ。下士官の本当の任務だ」
ライオット・ワーブの表情は極めて真剣だった。

「だが、貴様らは下士官ではない! そんなことが出来るガッツはひとかけらも無い!! カエルのクソを掻き集めたほどの値打ちすら貴様らには無い!!! だが!!!!」
氏はそこで一旦言葉を切ると、それまでの声が囁き声に感じられるほどの大声で一気にまくし立てた。

「いまわしの前にいる以上は下士官だ!!! 編制上の都合でも何でも!! 貴様らが下士官の階級章をぶら下げ!! スカンク並みにくさい息をハアハアさせてる限り!! たとえクズでも下士官だ!!! 下士官である以上、下士官としての務めを果たさせる!!! わしがいま言った本物の下士官の任務を果たせるようになるまで!! 選任曹長たるこのわしがジキジキに!! 貴様らクズ五人組を!!! テッテー的に鍛え上げる!!! 頭が死ぬほどファックするまでシゴいて、ケツの穴でミルクを飲むようになるまでシゴきたおす!!! 判ったか、ウジ虫!!!!」

「「「「「Sir, Yes, Sir!!!!!」」」」」
射撃術科に配属された五人の男達があらん限りの大声で上官に応えた。



今日は王国暦568年5月9日。
万洲戦争当時、王国軍最強と謳われた古強者が長い冬眠から目覚め、生涯最後の戦いへと自ら足を踏み入れた日。
このときに気付いた者は居なかったが、射撃術科の男達が兄弟の絆に結ばれた日。
夕陽に照らされた男達の影がプレハブ小屋の前に長く伸びていた。






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