ぱすてるチャイム
Another Season One More Time
菊と刀


29
are you men enough to fight with me, YOU BITCHES?--Round One



作:ティースプン





舞弦学園に赴任して以来、ヤナチェク・クラスホイは常に不機嫌だった。

ベルビア王国陸軍中尉ヤナチェク・クラスホイ。
竜園寺特別教導小隊第二分隊指揮官であり、実際の小隊長であり、徒手武術科の教科主任を務める拳闘家である。
鍛え込まれた肉体からは体育会系の雰囲気が漂ってくるが、怜悧な面差しと静かな物腰からは学者や研究員のような印象を受ける。
机に向かう内に刻まれたのであろう眉間のしわと、服装規程から外れることなく刈り込まれた頭髪からは、真面目で几帳面な性格であることも窺えた。
厳格な国教会派(ラヴェル信仰)の家に生まれ育ったのであれば謹厳というのは驚きではないが、堅物というほどの形式主義者でもない。
いわゆる現場のやり方といったものを(ある程度までなら)容れられる柔軟さも持ち合わせている。
前線に勤務するノーザン人貴族将校としてはまず上等の部類と言えるだろう。

今回『指示された』作戦や配置についても、多分に含むところはあったがクラスホイに不満は無い。
彼は軍人なのだ。
上からの命令はすべて自分たちの今日の勝利と、王国の明日の繁栄に繋がるものと認識し(出来なくてもそうだと自らに、そして周りに言い聞かせ)行動することが軍人たるの使命だと了解している。
――形式上、年端もいかぬ少女を上官として仰がねばならないことも……。
――表面的な態度や言葉遣いはへりくだっているが、司令部にいる上官と定期的に『個人的な』連絡を入れる男が副官であることも……。
――上官への礼儀どころか、将校の何たるかも理解していないゴロツキばかりを部下として回されてきたことも……。
――しつけも常識もなってない甘やかされたクソガキ、もとい学生たち(それも冒険者養成課程の)に徒手武術の指導をしなければならないことも……。
すべては政治的高所からなされた戦略的判断であると解釈し納得してきた。

彼に急進派首脳部への、と言うよりも上官への疑念は無い。
でなければ国境警備隊への転属を命じられた時点で軍を辞めている。
五年ものあいだ辺境で『野盗』や悪党冒険者の追跡捕縛、それに野良モンスターの駆除にあたったりはしない(国防上必要不可欠とはいえ、国境警備は軍では閑職、少なくとも士官学校まで出た伯爵家の長男が配属されるような任務ではないと考えられている)。
上官を信じる気持ち、再起する日は必ず来るとの信念あればこそ、その閑職に、流刑の日々に耐え抜くことができたのだ。

ヤナチェク・クラスホイは上官を信じていた。
そして上官もまた自分を信頼している、期待してくれていると考えていた。
今回の任務――冒険科生への軍隊式徒手格闘技術の指導――は、自分を国境警備から呼び戻すことを第一の目標に置いた便法であるとさえ思っていた。
その措置が温情によるものだと誹られないだけの実績を自分は掲げている。
射撃術教導分隊なるものが組み込まれてるのは予算獲得の妥協の産物だと、彼はこれっぽっちも疑っていなかった。

だが彼はその信仰を根底からくつがえすような話を耳にしてしまった。
舞弦学園に赴任する前の夜の事である。
彼の不機嫌はそこから始まっている。
さすがに軍や自分、何より忠誠を誓った相手に疑念を抱きながら戦えるほどの優秀さまでは持ち合わせていない。
日を重ねるにつれて疑念は膨らみ、課業にも身が入らなくなり、それまでは気にせずにいられた些事一つ一つまでもが気に障るようになり始めて、誰かれ構わず当り散らしたくなる衝動を必死に堪えてきたのだが、いい加減限界に達していた。


ウォーターサンドバッグを叩くのをやめ、ヤナチェク・クラスホイは額から流れてくる汗を拭った。
時計の針が○六二三時を指しているのを見て愕然とする。
オーバーワークに気付かず、終了時刻を過ぎていたことすら判らず、ただただ前動続行していた。
周囲の状況に絶えず目を配るという、前線に立つ軍人ならば当然の手配りさえ怠っていた。
現場で兵の生命を預かる部隊指揮官が絶対に犯してはならない最低の愚行、軍の安危ひいては国家存亡にも関わる最悪の失態だ。

(莫迦め! 実戦ならまた全滅しているところだぞ!!)
そう声に出すのを寸前で踏み止まり、深い溜め息を吐く。
胸中の疑念は許容できる範囲をはるかに越えていた。
(……可及的速やかに、問題を解決せねばならんな)
頭を巡らせ、兵舎内に残っている顔ぶれを確認する。
リングを挟んだ反対側、事務机に居たのはノートを開いてる慇懃無礼な副官と、ヘッドフォンを着けて首を振っている下衆の上がり。
更にその向う、一応応接用として運び込ませたソファでは、本当に生きているのかどうかを時々疑ってしまうほど寡黙な男が(また飽きもせず真剣な表情で)株と金融派生商品のパンフレットとを見比べていた。
話を訊くべき対象は今兵舎の前で衛兵に立っている。

――グリッペン少尉に聞きたいことがある。少尉に出頭するよう命じろ。その間の代わりはカーチス少尉が務めろ。――
彼がそう声に出して部下に命じようとしたときだった。


「第二分隊指揮官殿に、至急、お取次ぎ願います!」

外からいきなり雷鳴のような怒号が聞こえてきた。
誰一人これを異常とは気付かず、何ということもない視線をそちらに向ける。

「自分は、第一分隊指揮官、ライオット・ワーブ曹長であります!!」


他の分隊員たちが(何故か)異様な表情を浮かべてノートの終了作業やパンフの片付けに手間取っているなか、銀髪のクルーカットが独り席を蹴立て出入り口に走った。
ヘッドフォンは着けたままだ。
扉が大きく開け放たれるが、身体が陰になって直接肉眼で相手を確認できない。
しかしその全身に走った緊張と銀髪のクルーカット越しに見える愕然たる表情の疵面とが、そこに問題の男がいることを物語っていた。

(何をしに来た、“南部の人喰い熊”)
クラスホイのなかに疑問が湧いた。
直接指揮下にある分隊員たちがオモチャの兵隊どもを(それも特定の一個人だけを集中して)構いつけてるらしいのは薄々気付いていたが、彼はそれを問題とは捉えていない。
娑婆の常識や現代の風潮がどうであれ、戦場でそれらのことは篩い分けであり、通過儀礼であり、何よりも主力(自分たち)を維持するのに不可欠な犠牲(経費)であるとさえ考えていた。
大っぴらに言えることでも、また決して自慢できるようなことでもないが、それも軍隊だと。
四十年以上も軍に所属し、訓練教官も勤めたほどの男ならそういった事情は弁えてなければおかしい。
それに着任当初部下に垂れていた訓示と、それ以後の他を寄せ付けない勤務態度とを思えば、それらのことで文句を付けに来たとは考えにくかった。

(何よりココ(第二分隊)には……)
そう考えて視線を巡らしたときには全員が衝撃から回復していた。
その背中に漂ってる雰囲気で、また何か下らない(聞くに堪えない)ことを口走ろうとしているのを看じ取る。
「無駄口は叩くな、カーチス少尉。そいつをここに通せ」
「とのご指示だ。通って良いぞ、ワーブ曹長」
ホテルのドアマンのような仕草で道をあけるクルーカットのニヤ付いた笑顔に不快感が増大した。
サザン人下士官は「失礼します」と声を上げ、兵舎に足を踏み入れる。
しかし……

その脇を通るときサザン人はクルーカットに敬礼せず、遅れて周りにやってきた鉦校二人には一瞥も与えず、背中の大僧に至っては意識すら払っていなかった。
少尉たちは全員面食らったような顔をしている。
クラスホイも意外の表情を浮かべそうになった。
相手が軍礼法を無視する振る舞いに出たからではない(それには心中密かに快哉を上げている)。
直接視認したとき、サザン人の短躯が一回りも、二回りも大きく感じられたのだ。

(いや、変化はない。最後に見かけた時と同じだ)
周囲との身長比から即座に感想を訂正する。
完全に冷静さを欠いている自分に腹が立った。
そもそも成人を迎えた人間の身長が伸びるなど――最近この国でも研究が盛んになりだした骨延長手術でも行わない限り――有りえない。
(下らない噂を、いや、有り得ない流言蜚語を気にし過ぎだ)
そう自嘲すると身体の向きを変え、現状を再確認する事にした。

見れば見るほど男は小柄だった。
横幅と厚みはそこそこだが、高さがまるでない。
後ろを、何故か、歩いてくる疵面の大男オズワルド・グリッペンの胸の下辺り、百六十センチ有るか無いかといったところだろう。
入隊したのが今よりも平均身長が低く、入隊規定も(或いは実際の入隊審査が)甘かった頃とは言え、貧弱に過ぎる体格だった。
いまここにいる誰よりも小柄で、誰よりも軽量で、そして誰よりも年寄りの軍人であり、この小隊唯一のサザン系王国人だった。
あんな体格で噂されているような幾多の激戦で生き残り、そして数々の功績を打ち立てられたとは到底思われない。
(ましてや……)

乾いた破裂音が兵舎中に鳴り響き、足下から震動が伝わってくる。
思考に気を取られているうちに、サザン人が目の前まで来ていた。
今度は軍礼法通り、踵を合わせ背筋を伸ばしている。
左手は体側につけ、右肘を大きく外側へ張り出して掌をこちらに晒し、きちんと揃えた指先を耳の後ろに着けた。

「第一分隊分隊指揮官、ライオット・ワーブ曹長。第二分隊分隊指揮官ヤナチェク・クラスホイ中尉殿にご報告しなければならない事案とご相談に預かりたい儀が御座いまして参上致しました!」

敬礼の際に見せた力強い動き、声にこもっていた覇気、見たものを射抜くような鋭い眼光。
何より――身にまとっている独特の雰囲気、対峙した者に緊張を強いる実戦経験者特有の凄み。
確かにこのサザン人下士官は歴戦の勇士と呼ぶに相応しいだけの威をその短躯に具えていた。
いや……
(或いはそう見せかける手管をな)
そう判断したヤナチェク・クラスホイの脳裏に、昔聞かされた言葉が浮かんだ。

麒麟も老いては「ロバ」に劣る。
かつて彼の……まあ同僚と言っていい男で、イースタン趣味の強いのが居たのだが、それが口にしたことのある言葉だ。
もちろん意味は『優れた人間も老衰すると働きが人より劣り、愚鈍な人間にすら勝ちを譲るようになる』であり、「ロバ」ではなく『駑馬(どば)』が正しい。

(それは真実を顕した言葉だと思い知らされ続けてきたのだが、どうやら……)
クラスホイは自らの不明を鼻で笑い、要らぬ考えを止める。
そしてキビキビとした動作でサザン人下士官に答礼した。
「楽にしろ、曹長。しばらく見掛けなかったが、具合はもう良いのか? 風邪をひいて寝込んでいるという報告を受けたが」
「肯定であります、中尉殿。お陰を持ちまして、完全に回復致しました。予定ではもう四年は絶対大丈夫のハズだったんでありますが」
「予定?」
「は。昔から自分は四年に一度感冒に罹患するのが常態となっておりまして」
「七輪大会並だな」
こちらが漏らした言葉にサザン人が、わずかだが、眉をひそめた。
莫迦にしてると見たらしい。
「頑強で羨ましいと言ったんだ」
「有り難く有ります。一度感冒をやらかした後の四年間は、どれだけ周りで感冒が流行っていても、どう言う訳か自分だけはケロリとしております。ですが逆にその四年が過ぎると他はピンピンしてるのに自分だけ感冒にやられ、どうしても身動きが取れない状態が一週間は続きます。この冬にそれを済ませたものですから、次はまた四年先だなとタカを括ってたでありますが……」
首を振りながらサザン人が嘆息した。
「年は取りたくありませんな、若い頃のような踏ん張りは利かなくなりました」
「……誰しも生きてる以上は必ず老い、加齢とともに心身の各機能は確実に衰え、そして最後は絶対に死んでいく。何人たりともその運命から逃れられん」
こちらの言葉にサザン人は怪訝そうな表情を浮かべた。
「医学界の一部には老化を病だと、まさに死に至る先天性進行性の疾患であると捉え、その原因と治療法を探る動きがある。だがその分野で画期的成果が挙がったという話は聞かんし、仮に挙がったとしても、先ず間違いなく、その恩恵に預かれるのは一握りの特権階級だけだろう。その辺の夢物語はさておき、若いころにどれほど肉体を鍛えていても、六十を過ぎれば身体能力は鍛えていなかった者とほとんど同じにまで落ちる。そう研究結果が出ている。そして筋力や反射などとは違って、免疫機能はその衰えが非常に実感し難い。と言うより普段それが働いていること自体認識不可能だ、健康な者は特にな。だが……」
重苦しい口調を軽い、明るいものに変える。
「良くない部分ばかり目立つが、老化とは確かに成長の一部なのだ。免疫機能の衰えを実感し、健康に留意する必要があると貴様が認識を改めたならそれは紛れもない成長だ。私はそう解釈する。それに一病息災という考え方がイースタン人にはあってな。持病が一つくらいあった方が、持病らしい持病が何もない者よりも健康に注意し、かえって長生きできると、そういうことなんだそうだ」

本題に入っても良かったのにクラスホイが雑談を続けたのは、敬老精神というより、老兵の話してる中味が決して他人事ではないという思いが強かったためだ。
他にも慈悲や哀れみの心といったものも働いていた。
分隊員たちと違って、ヤナチェク・クラスホイは士官学校出の生粋の将校だ。
王国軍最強の肩書きに彼らほど執着してないし、“南部の人喰い熊”に付随してくると言われる特典にも、まったく興味はない。
なにより――本作戦開始後に、このサザン人自らがなんらかの行動を起こし、こういう現状が形作られたわけではまったくないのだ。
外に相手がいないというだけの理由で、その相手に恨みをぶつけたりはしない。
どれだけ他に欠点があったにしても、このノーザン人中尉は恥と公平さというものは知っていた。
その点についてだけは疑いはない。
ヤナチェク・キリーロヴィッチは貴族だった。

「ノーザン人が、私が、イースタン人の格言を持ち出したのが意外か、曹長?」
サザン人は(そして部下の分隊員たちも)意外そうな顔を浮かべていた。
「こう申し上げるのは失礼かも判りませんが、肯定であります」
「軍人だ、曹長、私は。これまでに『三毛猫でも斑猫でもネズミを獲る猫は良い猫だ』という言葉も、その意味するところも学んでいる」
この言葉に納得の表情を浮かべたのも一瞬、間を空けずに飛び出してきた言葉にサザン人は目を剥いた。
「だが私はこの言葉が嫌いだ」
奇襲の成功に思わず頬が緩む。
「私は、猫が嫌いだ」
場に居た全員、呆気に取られたような顔をしていた。気にせず先を続ける。
「大体ネズミぐらい犬にも捕れるんだ。知ってるか、『ヨークシャーテリア』が本来そのため産み出された狩猟犬、正確には間接狩猟犬だってことを。全犬種のなかで『チワワ』に次ぐ体格の小ささから、現代では小型愛玩犬の扱いを受けることが多いようだが、しかしアレは本当に賢く、勇敢で、忠実さと義侠心、何より優しさに溢れる生物なのだ」
「……本当に犬がお好きなようですな」
つかみ所のない表情をサザン人は浮かべていたが、この時は気にならなかった。
言葉に勢いがついて、気持ちも弾んでいたということもあった。
「他のどんなものよりもな。馬はヒトの作り出した最高の芸術品だと言う者も多いが、その尊称は犬にこそ与えられるべきだと私は確信している。別に馬を見下しているわけではない、嫌っているわけでもな。事実、馬は美しい動物であるし、走っているときの姿は優美ですらある。なにより馬以上に移動や輸送に適した生物はいない。が馬は大変繊細だ。扱いも非常に難しい。そして『足』以外の役割を果たせるようには決してできてはいない。だが犬は、条件は限られるが、『足』に――それもまさに馬が『足』になれない気候地形下で――『足』になれるし、盲導犬や介助犬、災害救助犬のように我々の『目』や『手』の代りを務めてもくれる。そして、もちろん、狩りの手助けもな。犬を創造したのが神か魔かは知らんが、その血統を絶やさず、育み、訓練し、洗練させてきたのは間違いなく我々ヒトだ。その付き合いは馬よりも長く、密度も高い。ヒトにとって犬は最も身近な友人なのだ」

ヤナチェク・クラスホイの口調は非常に誇らしげだった。
口許にも含みのない笑みが浮かんでいた。
病弱だった少年時代、何より彼の心の支えになってくれたのは――両親でも弟妹でも学友でもなく――屋敷で飼っていた『ヨークシャーテリア』のダニーだった。

「全面的同意はできませんが、確かに全面否定できるだけの根拠も有りませんな」
言葉の中味を吟味するかのように、しばらく虚空に視線を彷徨わせた後、サザン人がそう口を開く。
クラスホイは奇妙な目で相手の顔をじっくりと眺めた。
「……前にこの話をしてやったヤツなどは、まるで先天性の障害を患ってる甥を見るような目付きで、『存外ロマンチックなところがお有りですね』などと言いやがったのだが」
真っ直ぐこちらに視線を返してくるサザン人に自分を莫迦にしたり、呆れたりしている様子は微塵も無かった(周囲との表情と雰囲気の違いからそれは直ぐに解った)。
「意外だな、曹長。貴様の様な男から賛同、いや一定の理解が得られるとは思ってもみなかった」
「自分は猫が好きであります。が、中尉殿、猫よりも犬の方が好きになる状況が二つあります。一つは補給が途絶えた場合」
サザン人はそこで僅かに言葉を切り、視線だけ左右後方に動かす。
「そしてもう一つは『今の我々の様な配置』を割り当てられた時です」
冗談を言ってるのだと理解するのにはしばらくの時間が必要だった。
こちらが喉を晒して哄笑してるのを見て、分隊員たちも自分たちが皮肉られたことに気付いた様だった。
一様に四人とも憮然たる表情を浮かべていた。
「よく考えれば意外でも何でもなかったな、曹長。戦場で生き残るのに必要になってくるのは先ずユーモアだ、それを失念していた。では気分が良くなったところで、貴様の用件から先に片付けよう。異存は無いだろうな?」


(このオレとオレの敷いた網に手抜かりが有ったと疑ってやがるのか、このボケナスどもは! 一体どんなインチキを使った、“南部の人喰い熊”。万州帰りのヨイヨイ如きが、どうやってこのオレの目と耳と網とを掻い潜りやがった?)
自分に白眼視を向けてくる同僚どもに胸の裡で悪罵を飛ばしながら、第二分隊一の巨漢オズワルド・グリッペンは本格的に駄弁りだした二人の分隊指揮官に湿った眼差しを注いでいた。

――この任務を成功させるため、自分達はこの一ヶ月を足場固めに費やしました。
“南部の人喰い熊”は、背中を心持ち反らし気味にして、そんな言葉を口にした。
――軍とも娑婆とも違うここ独特の雰囲気を認識し、自分は分隊各員の性格やクセを把握しました。
――部下たちもそれぞれが受け持つ生徒殿らの顔と名前とを憶え、教員業務のコツの様なモノを掴み、そして銃に武人の蛮用に耐え得る性能があることも確認できました。

(足場固め? たっちも出来ないクズどもが足場の固い緩いを気にしてどうする、莫迦め! ここの環境に馴染んだ? オレらの知った事か、ボケナス! 教官業務のコツだと? コソドロ予備軍のガキどもにゲンコツを食らわせるのにコツもケツも有るか、無駄飯食い! こっちの気が済むまでドツキ回してやれば良いだけだ! 銃の性能? 下士官のクセに自分達が客寄せパンダであることに気付いていないのか、老いぼれ! 貴様の現役時代ならそうだろうが、本当の戦場であんなオモチャがクソの役にでも立つと本気で思っているのか? 王国軍創設以来、救いようのない愚かマラだ!)

『一応』指揮官の目がある手前、オズワルド・グリッペンも相手の言葉に半畳を入れるのは胸の内だけに留めていた。
しかし流石にこれを笑い出さずにいるのは無理だった。
“南部の人喰い熊”が口にした「明日払暁を待って自分たち第一分隊は本格的攻勢に入ります」という誇らしげな言葉には。
周りからも失笑とは呼べないほど大きな笑いが巻き起こる。

「本格的攻勢? これまで聞いた冗談のなかで最高のデキだぞ、曹長。ヨボヨボの婆ぁが独りで店番してる駄菓子屋にその日の稼ぎでもカッパライに行くのか? それでも貴様と貴様の下に回されてきた、あの部下どもでは難しい仕事だろうがな」
この言葉に周りからの笑いが一層大きくなった。
しかし……

「指揮官同士が互いの部隊の作戦行動を策定しあってるあいだは口を開くな、雌豚ども。低脳が歯クソでまっ黄っ黄な歯を上官の眼に晒す前と後には“Sir”と言え。そのたるみにたるんだケツとどてっ腹だけじゃなく、ドタマにまでアブラがまわっちまってて、軍礼則を忘れちまってんのか、ギョートクのまな板面が」

自分たちに向かって“南部の人喰い熊”が叩き付けてきたのは、犬の排泄物に集る寄生虫でも眺めるがごとき眼差しだった。
余りにも予想外の言葉と態度に言葉を失うがそれも一瞬のこと、直ぐ我に返った。
「それが上級者に対する態度か、貴様!! 軍法会議ものだぞ!!」
「上級者? ああ、そうだった、そうだった。貴様と貴様の周りでト、ト、トグロ! トグロぉ巻いてる「お嬢さん」どもの中じゃあ中尉よりも少尉の方が階級は上になるんだったなぁ」
“南部の人喰い熊”の言葉に周りもギクリとしたのが解った。

第二分隊員は全員ヤナチェク・クラスホイを侮っていた。
((((ルールに守られての試合は別段、本番で遣り合えばわたし/自分/俺/オレの方が強い))))
全員がそう認識していた。
そしてクラスホイはそれを知らないと、練習試合のアレが自分たちの全力だと思い込んでると。
((((薄々肌では感じてるかも知れんが、我々がそう確信するに至った経緯、根拠は知らないだろう))))
彼らはそのように思い込んでいた。

「知らないようだから教えてやる。クソバエも裸足で駆け出す臭い息をフゥフゥとわしに吹きつけるのを今すぐ止めろ、ふいごの向うっ面。他の雌豚どもも、溜まりに溜まった耳アカをほじくり出してよく聞け。作戦行動中、つまりこの学園で教官業務に当たってるときと、それの準備に当たっているときは、わしら第一分隊には本来の階級より二つ上の権限が与えられている。数は数えれたかな、“まな板面”? 二階、級、上だ」
第二分隊員たちはげぇっという表情を浮かべた。


……それなんてティターンズと言われそうだが(アッチは確か一階級上)、ライオット・ワーブの言葉はウソではない。
給料は据え置きだが、このサザン人下士官の率いる第一分隊には階級よりも二つ上の権限が与えられている。
色々な事情が重なった為だ。

軍首脳部は銃に期待を寄せていた。
王国軍の現状とこれからを考えると、今まで死蔵されてきた資源をともかく利用できるというのは魅力的だ。
現状を打破する力、他国に脅威と捉えさせる宣伝効果は充分にあると言える。
しかし実績のまったく無い新兵器に軍首脳部がこぞって期待しているという態度を示したりすれば、士気の低下を招きかねない。
ある程度の見通しが立つまでは古株連中、既存兵科に長く携わってきた者たちの誇りを考慮する必要がある。
第二分隊の二階級特進(クラスホイだけは通常昇進)には、そう言う政治的なウラがあった。

対する第一分隊が臨時の下士官に据え置かれたのはこの既存兵科への配慮と王国軍の軍制(原則一度に昇進できるのは二階級までで、ライオット・ワーブ以外は本作戦発令前まで全員兵卒階級)、そして“サエズリ野郎”ベルナルド・バースの存在が影響している。
新法の適用で軍に入ってきた悪党冒険者(それも入隊ホヤホヤ)を、正規の職業軍人とまったく同じに扱ったりすれば士気の低下ぐらいでは済まない(そもそも懲罰にならない)。
さすがに暴動まではいかないだろうが、軍規違反スレスレのサボタージュ活動(実質的なストライキ)を起こす輩が出る恐れだってある。
正規課業そっちのけで、銃研究に励む者も現れるかも知れない。
なによりこの話を聞きつけ、銃犯罪を犯して軍に入ろうと考える者が出たりすれば本末転倒だ(まさかとは思うが、困窮に陥ったヒトはそのまさかに出る)。
軍も政府も絶対にそんな前例を作る訳にはいかなかった。
そんな意味に於いても、ベルナルド・バースという男は本当に『逸材』だったと言える。

かくして第一分隊に集められた連中は下士官の階級に留め置くしかなかったわけだが、彼らをそのまま教壇に立たせるのにも、これまた、軍制上の問題があった。
そもそも第二分隊員たちが二階級特進できたのは少尉にする必要もあったからで(チャイカ・ガラーホフ以下全員が軍曹だった)、少尉にしたのは小・準・正の学園教諭が徴兵された場合は尉官の階級が与えられるとの軍制が論拠にあったからで、それに抵触するのはマズイからでというのが第一点。
二点目はスポンサーからのクレームだ。
組織内での階級や役職と、それに就く個人の能力は必ずしも一致するわけではないのだが、徒手武術科と射撃術科とで階級に開きがあると知られれば、銃はそれほど期待できる武器ではないと世間一般は捉えるだろう。
売上に悪影響がでるようなマネは極力避けてもらわないと、企業として、この先超スゴイ困る。
銃器メーカー四社はこぞってそう文句を付けた。
何よりカリキュラムの受け入れ先である舞弦学園が――と言うよりロニィ先生が――非常に強い異議申し立てを行った。
教師や教科を階級などで区分したりすれば、生徒の学習意欲と態度に深刻な悪影響を及ぼし、しまいには授業が成り立たなくなると。


習う側からの敬意無しに人は自らの持つ知識や技能を相手に伝えることはできない。
学習者側が教わることを――教える側が伝えようとしている情報の受け取りを――拒否するからである。
人は自分が嫌ったり見下したりしている相手の業績に価値があるとは考えないし、その言葉に耳を傾けようとすらしない。
幼稚園児のメンタリティ――アイツが触った物だからキタナイぞ――から完全に解放される者は少ない。

生徒が教師を尊敬しなくなる理由は様々だ。
教師の知識、指導力不足が大きな原因になるのは確かだが、絶対とは言えない(学ぶ側に向学心があれば、これらはある程度無視できる)。
教師のクセ、態度、言行、顔の造作、身体的特徴(身長や体重、男性なら頭髪量と髪型、女性の場合スリーサイズがこれに加わる)、年齢と恋人居ない歴が同じ、そして大勢の前でやらかした馬鹿らしい失敗なども尊敬を失うことに繋がるが、これらもその程度や状況に左右される。
しかし一つだけ、それもほぼ確実に、生徒からの尊敬を完全に喪わせるモノがある。
それは――

権威者、特に他の教師が生徒の前でその教師を馬鹿にする言動を採ったり、見下した態度を採ったりすることだ。

これをやられた教師は、奇跡でも起きない限り、絶対に権威を取り戻すことはできない。
小人の理屈――他のみんながやってるから、自分もやる。それがなにか?――から真に解脱できるのは選ばれた者だけだ。


階級に開きのある軍人どもが二つの学科に分かれて教鞭を執ることは生徒に害悪しかもたらさない。
舞弦学園冒険科主任ロニィ・スタインハートは軍の担当者にそう断言した。
両科の軍人どもを同じ階級にしてこない限り、ウチでは新カリキュラムの受け容れには絶対応じない、と。

かくして射撃術科の人員に二階級上の特別権限が与えられることになる。
軍側にとってこれは限界以上の妥協案であり打開策であったが、現実に両分隊の階級を同じにしなかったことについて、学園側は当然ペナルティー(罰金)を課した。
ロニィ・スタインハートは転んでも絶対に、絶対に、無料では起きない。


第二分隊の最先任、チャイカ・ガラーホフが常に持ち歩いている魔法PDAに分隊員どもが殺到した。
検索の結果、今の言葉がウソでない――番号通りに分隊が編制されたと仮定すると、先任制の適用により第一は全員(伍長二名を除いて)自分たち第二分隊員よりも上級者である――ことが判明する。
彼らの顔がキツく強ばり、額には汗が浮かんでいた。

「さて、グリッペン少尉『ドノ』にお尋ねしましょう。我が王国陸軍に於いて、曹長の二つ上の階級は何でありますかな?」
「……中尉だ」
食いしばった歯の隙間からしぼりだしたような声に、“南部の人喰い熊”はわざとらしく天を仰ぐ。
「『成長』が本格的になりやがったかな。いま小官の耳には少尉『ドノ』が「中尉だ」と仰りやがったふうに聞こえたでありますが、気のせいでありますでしょうか、オズワルド・グリッペン少尉『ドノ』? もう一度、いまよりも大きな声で、はっきり抜かしやがってぇ貰えますでしょうかぁ? 老いぼれサザン人の腐れ下士官のクソ遠くなった耳でも拾えるようにぃ?」
「……中尉であります、曹長殿、Sir!」
言った言葉を大声で訂正する。
自分の顔が熱くなってるのを感じていた。
――外から見たオズワルド・グリッペンの顔は本当にトマト(三個か四個入りのパックに必ず一個は混じってる、キズの走ってるアレに)そっくりだった。
「軍一般において少尉と中尉ではどちらが上級者でありましたかな、少尉『ドノ』?」
「……中尉! であります! 曹長殿! Sir!」
“南部の人喰い熊”が鼻を鳴らした。
莫迦にしたような目を向けて、鼻を鳴らしやがったのだ……。
「上官侮辱罪で軍法会議に掛けられるのが大好きなヘンタイ野郎でないのなら言葉使いには注意しろ、“まな板面”。それとどの国の軍隊でも万州帰りに殿は要らん、二等兵が大将でもな。そんな図体になるまで軍のメシを喰らっときながら、その程度の軍一般常識もわきまえてないと周りに知れたら、ホモだちに元帥がいたって浮かび上がれんぞ、少尉」
「ご指導! ありがたく! あります! Sir!」

軍礼則に従ってオズワルド・グリッペンは謝辞を述べた。
傍にいた者の耳にその声は金属が軋んでる音にしか聞こえなかった。

なにが悔しいといって、格下と信じていた相手が自分よりも上級者であったという事実を突きつけられるほど、腹の立つことはない。
オズワルド・グリッペンの目には抑えようのない怒りと、隠しようのない殺意がギラギラ光っていた。


「格別優秀な人材が揃えられてるようで、頼もしい限りでしょうな、中尉」
サザン人が白けた顔で話を振ってきた。
「軍人に状況は選べん。目的を果たすために最善を尽くす。つまるところ、軍人が心掛けておくべきはそれだけだ。……異見があるのなら聞く用意があるぞ、曹長」
こちらの答えに相手の口角が僅かに上がったのが見えた。
「竜園寺閣下が仰ってたことを思い出しました。勇兵の上に弱将は有れど、弱兵の上に勇将は無し」
「イースタンの格言……いや、聞いたことがあるものとは少し違う。竜園寺閣下独自のお考えか。しかし、それがどうした」
「莫迦にも解るよう言い換えると、部下がウジ虫だとその上官はウジ虫にも劣ったスキン小僧になる。つまり、ここは、カエルのクソをかき集めたほどの値打も無い、汚れスキンの社交場だってことだ!」
一斉に周りから向けられてくる殺気には構わず、サザン人は大音声を張り上げた。

「最善を尽くすなんて言葉はな、中尉、臆病マラの腐った言い訳だ! 自分らの装備・技能・兵力を、はるかに上回る状況に直面したときも、そんな寝言を垂れやがる気か? 達せられた命令は果たせなかったが、自分は自分の最善を尽くした。悔いは無い、満足だ、と? 貴様のなかで命令書は、莫迦のこぼしたマス拭くためのチリ紙か、ボケナス!!」

第二分隊がこの暴言に有り難く耳を傾けていたかというと、もちろん違う。
全員が無礼極まりない雑言をまき散らすこのサザン人の小男を黙らせてやると考えていた、実力で。
それ――上官(怪しい部分は多いが、政治的軍制的には一応)を手に掛ける――がマズイとは考えなかった。
『もし』、『仮に』、『万が一』、『後で』、軍法務部に提訴できたとしても、原告の証言だけでは事件にならないし、戦の庭ならいざ知らず法の庭に立たされた下士官にクロをシロに変える力はない。
なにより――

軍に所属してる者なら誰だって認識している。
事故は起きるものだ。
全員が即座にそう判断していた。
頭が体に「ヤッちまえ!」とGOサインを出していた。

だが――実際に動けた者は居なかった。
分隊員は何れも貧相な“南部の人喰い熊”の背中から迫力を、これまで軍隊でも戦場でも感じたことが無いほどのプレッシャーを感じて動けず、指揮官であるクラスホイは相対したサザン人の眼光の凄まじさに射すくめられていた。

「今日、わしの部下の一人スクワイヤ・マジョルニコフが手足を縛られ、猿ぐつわまでかまされ、窮屈な体勢のままここの用具入れに押し込められるという事態が発生した」
この言葉に分隊員達が微かに身体を震わせる。
「拘束されてた時間は五時間以上にも及ぶ! ウチには何の断りも無く! 奴の安全などはウジのクソほども考慮されておらず! それどころか不用意に戸を開けていれば、奴の頭には二十キロもの重りが落ちてくる細工までしてあった!」
「オレたちが使ったのは三キロの鉄アレイだぞ!!」
そう異議を唱えた疵面に他の分隊員たちからは『莫迦!』という視線が、サザン人下士官からはシャーレで培養中の病原性大腸菌でも眺める様な一瞥が寄せられた。

「確かに現場に遺されていたのは三キロの鉄アレイだった。思い出させてくれて実に大助かりだ、“まな板顔”。ついでにいま貴様が垂れた『俺たち』の内わけも確認してもらえるか? 伍長が現場を調べたところ貴様と、サイモン・“ほほ笑みカス”・カーチス少尉ドノと、トレント・“イワガキ小僧”・クフィル少尉ドノが居られやがった痕跡が出たが、それで良かったか? こんなふざけたマネをしやがった理由は、今日中に自分が用具入れから出れるかどうか。出れるとしたら自力でか、誰か他人に助けられてか。出てきたときの負傷は鼻血程度か、アザを作ったぐらいか、それとも医療兵を呼ばなければならないレベルか。それで賭けをするためだったとウチの“白アスパラ”は証言しているが、それにも間違いはないか? チャイカ・“クソソプラノ”・ガラーホフ少尉サマは、以前から『俺たち』がこんなクソ垂れ続けてきたことを知りながら放置してた、黙認してたフシがあるとも報告してたが、訂正する点はあるか、アバズレども?」
冷たくイヤミったらしい口調で淡々と語られる内容に分隊指揮官は呆れ、完全に尻尾を掴まれた分隊員たちはぐうの音も出せない。

なにが悔しいといって、莫迦だと信じて疑わなかった連中にオツムのデキで上回られるより悔しく、情けないことはない。
第二分隊員たちの眼には隠しようのない驚きと、抑えきることなどできない殺意がメラメラと燃えていた。

予想外の事態に呆然としてるこちらを睨みつけ、サザン人が激昂する。
「『目的を達成するために最善を尽くす』だと!? まったく何て愚かマラだ! 鉦官にもなって、軍事の基礎すら理解していやがらんとは!! 戦場に善悪なぞ有るか、バカモン! 有るのは正誤だけだ! 『正しかった』のか『間違いだった』のかだけだ! 最少の損耗で目的を果たせるのなら、やり方や体裁などカエルのクソをかき集めたほどの値打も無い! 無能マラが絞りだした最善なぞに、犬のクソほどでも価値があると思っていやがるのか?! そもそもこの中に! 『ここ』へ派遣されてきた目的を理解できているヤツが居るのか?! 竜園寺特別教導小隊の戦略目標が何であるのか! いや、それ以前に貴様らは戦術状況を正しく把握していやがるのか!? “まな板面”!!!」
“まな板面”という呼び名にオズワルド・グリッペンの顔が更に険しく歪んだ。
「貴様は『いま』『なぜ』『ここ』に居る?」
「軍人務部から……」
第二分隊への配属を命ずるとの辞令を受け取って、という言葉はサザン人の不機嫌な声に遮られる。
「ベルビア王国陸軍歩哨心得第五条! 歩哨を命じられた者は別命あるまで持ち場を離れてはならない! 同第六条! 歩哨を命じられた者は持ち場を離れる場合必ず後任を立て、自分が最後に受けた命令内容を後任の者に伝えなければならない! また、発令者にその旨を報告しなければならない! 少尉」
巨躯がギクリと震えるのが見えた。
「貴様はいつ、誰からその別命を受けた?! 誰を後任に立ててきた?!! そしてそれらの行動をいつ、誰に報告した?!!!」
オズワルド・グリッペンの顔は――それこそ一晩浸け置き漂白されたまな板のように――真っ白だった。

『異常事態』の発生で“まな板面”は自分が歩哨に立っていたことを忘れていた。
いや、『異常事態』に立ち会わせた歩哨だからこそ、この場に居るのが至当であるとさえ分隊員の誰もが認識していた。
しかし――

本来異常なのは彼らがそんな認識を抱くに至った経緯であり、なにより……

「異なる命令系統に属する貴様らがどんな命令を受け、どんな勘違いをやらかし、どんなヘタ打って、どれだけミジメなクソ地獄に堕ちようがわしらには関係ない。ウジの、クソほどもな。だが『これ』はわしら第一にも累が及ぶ可能性があるぞ、“まな板面”、“イワガキ小僧”、“ほほ笑みカス”、“クソソプラノ”」
サザン人はその場に居た全員をぐるりと見回すと思い掛けない言葉を口にした。
「本来軍の人員が進駐を認められていない区域を整備し、そして歩哨に立つ許可を、貴様らの一体誰が“凶毒”から取り付けてきた?」

第二分隊は誰も気付いていなかったが、この一連の質問がされたということ自体が、なにより本当の異常だった……。


二十四時間、常に誰か一名が『ここ(兵舎)』の衛兵に立て。
この新兵舎に移った際、真っ先にヤナチェク・クラスホイは部下達にそう命じた。
だが先ほどまでオズワルド・グリッペンが立っていたのは、兵舎の入口ではない。
屋上へと通じる校舎の出入り口だった。

歩哨に立つようになって三日目。つまり夜番が一巡した次の日だ。オズワルド・グリッペンは同僚を集めた。
――『ここ』が軍の施設である以上、歩哨を立てておく必要がある。中尉の『意見』は確かに正しい。――
“まな板面”はそう切り出した。
――だが立ちんぼするのは校舎側入り口でも良いんじゃないか? その方がより効果的効率的じゃないのか?――
彼の疵面には抑えきれない憤懣があった。
無理もないと、分隊員の誰もが思った。
時間割通りに授業が進めば必ず五十分か百十分で交代できるのだが、その日はバタバタ時間割変更が飛び込んだ為に、夜勤からそのままコイツは雨の中で七時間連続で張り番を強いられたのだ。
それだけでなく、その後も一切休憩を挟まず四時限ぶっ通しで実技を担当させられる羽目になったのだ。
心身ともに後方勤務に慣れた頃にコレは『チョッとだけ』キツかった。
――この兵舎が設営されてるのは四階建て校舎の屋上で、出入り口はここ一箇所だけだ――
“まな板面”は見取り図を取り出す。
――四階と屋上の間は壁がせり出し、手懸りにできるものは何も無い(これは後で分隊員全員が実際に眼で見て確認している)。そして渡された資料にもあった通り、ここのカスどもは登攀技能の指導や習得にさほど力を入れていない。仮に攀じ登ってこれたとしても、屋上の周りには金網が張り巡らされている。よじ登る時のガシャガシャいう音は扉の内側にまで届く。震動感知器に、対抗措置に、念のため一つ二つ罠でも仕掛けておけば万全以上だろう。『目的』は完璧に果たせる。大体……――
オズワルド・グリッペンはそこで一旦言葉を切り、大きく息を継いで言った。
――オレたちゃもう鈴兵でもなきゃ、鈴長でもない! 歴とした鉦官なんだぞ!――
分隊員たちは、そこまで複雑な気持ちで話に耳を傾けていたのだが、大男が最後に吐き捨てたこの言葉にだけは全員が素直に頷いた。

本来歩哨は兵隊の仕事。
下士官になってからこの間までずっと免除されてきた仕事に、少尉に昇進した今になって再び駆り出される。
変則的に鉦官だけで編成された分隊だから他にどうしようもないのは理解できるが、心情的には納得できない物が在った(クラスホイみたいな相手に命じられた事も無関係ではない)。
結局――
彼らはこのサボタージュへの加担(出資)を決意したワケだが、それはべつに不平不満だけが理由ではない。もっと実際的な問題があった。

平常課業の合間を縫いながらの立哨任務というのは非常にだるく、ストレスが溜まり易かった(決して任務その物が辛いわけではない)。
他の時期ならば兎も角、人生に光明が差し始めた今、こんな『ボゥイスカウト』にも務まる半端仕事でミスをするわけにはいかない。
分隊内で相手の発言力が強くなるのは楽しくないが、今は下らない消耗を最小限に抑える事の方が遥かに重要だった。
“まな板面”はすでに工事全体に掛かる時間と費用を計算し、必要な器材を入手する手筈も調え、後は発注するだけという所まで話を進めていた。
そして器材さえ届けば、時間割にどれだけ変更が加えられても、三日で警備態勢は形にしてみせると静かな自信も覗かせた。
分隊最先任はキンキン声、チャイカ・“クソソプラノ”・ガラーホフだが、最年長はこの疵面だ(周りが二十代後半から三十路に入ったばかりなのに対して、疵面独り四十過ぎ)。
軍歴も一番長く、これまでに魔工二級(魔池工事技士二級)に整備士免許、他にも専門知識や訓練を必要とする器材や薬剤、特殊車両等の取り扱い資格を幾つか取得していた。
決して腕っ節だけが自慢のタフガイ気取りではないのだ。

少しでも自分たちの有利になるよう地形を整備し、見通し易い場所に見張りを立てる。
戦術的には正しい判断だ。
そこだけ見るなら“まな板面”以下第二分隊員は全員優秀な戦術眼の持ち主だと言える。
しかし政治的戦略的に見るなら、彼らの採った『行動』は最初から完全に間違っていた。

軍の中で誰の後ろ盾を得ていようと、舞弦学園での竜園寺特別教導小隊の立場はあくまで単なる教師、タダの『間借り人』に過ぎない。
以前からこの学園で勤務している冒険課の他の教職員達と彼らとの間に、権限や義務面で、異なる部分はほとんど無い(担任業務の免除と、全員校務分掌が進路指導部進学科――仕事と呼べるような仕事があった例がない部――であること程度)。
屋上に兵舎を設営し、そこを宿舎兼教官室として使用する許可は下りても、それが屋上全域の独占使用を認めることになったりはしない。
常識で考えれば解るはずだ。
――『大家』に無断で屋上周縁に接着式の有刺帯を敷設したり……
――金網に震動感知器を取り付けたり……
――トラバサミを埋設したり……
――出入り口でふんぞり返って『他の住人』の屋上への立ち入りを規制(牽制)する権利など、一店子に与えられる訳がない(特に軍と冒険課の友好度レベルでは、絶対、無いと断言できる)。
舞弦学園の『敷地内』で彼らが我が物顔に振る舞える――冒険課の権限が及ばない――のはこの兵舎内だけだ。
それ以外の場で彼らが問題を起こした場合、学園側の捜査対象になる、つまり……。
冒険課主任ロニィ・“凶毒”・スタインハートが乗り出して処罰対象にしてしまうということだ。


「教えてやる、雌豚ども。今回の作戦、わしらの戦略目標は、自らの行動や人となりで以って軍の活動とその重要性を示すことで――その一端でも示すことで――この学園関係者から一人でも多くの入隊志願者を出すことだ。オモチャの楽しい遊び方やステゴロのコツを教えることなど、その為の一クソ手段にも過ぎん」

「無論そんなモンはクソ政治的名目、ただのクソ建前でしかない。それぐらいアホにも解る。だが、それだけにそのクソ名目が達成されなければどうなるか。周りに対して軍上層部がそのような判断を示さなければならない状況に追い込まれたら、わしらにどう言う処遇が言い渡されるか。貴様らは解っていたのか? 今日貴様らがクソを垂れやがったことが世間に公表されでもすれば、わしが愛する軍がどういうクソ窮地に追い込まれ、その結果わしが守ってきたこの国にどんなクソ被害が生じることになるのか、判っていやがったのか、汚れスキンども!!」
いま王国に漂ってる空気と、それらから予想される展開に付いて、“南部の人喰い熊”はトートーとワメいた。


この国で軍に入ろうという若者が少ないのは、仕事がきつくて危険であるからだけではない。
マリア・キャッシロヴァニカも指摘していたが、プライバシーの、超スゴイ、侵害に、上官や同僚たちからの、超エグイ、イジメやシゴキ、セクハラ(パワハラ)が横行しているイメージがまとわりついてることも大きかった。
そしてそれが丸っきり根拠の無いデタラメだとは言い張れないぐらい、多くの自殺者や中途除隊者が出ている。
だからこそ政府と軍首脳部は――王国軍は何よりも規律と秩序を重んじる公正な組織であり、陰湿なイジメや人種の違いによる不当な差蔑などまったくない、極めて健全な職場であると宣伝し――これまでの悪いイメージを払拭しようと躍起になっていた。

そんななか将校が――それも軍を代表する格別優秀な人材との触れ込みで送り出されてきた分別盛りの大僧が、しかも三人がかりで――勤務態度では何の落ち度もない真面目な下士官を一名、せまい用具入れに長時間閉じ込めていたという事実が公表されたら、いや、『噂でも流されれば』どうなるか。
それも自分たちのヒマ潰しのためだなどという、唾棄すべき、アホ過ぎる理由で……。

学校でのイジメを苦に自殺する子どもや凶悪犯罪に走るクソガキ、それに教職員による勤務時間中の飲酒やら児童買春、公務員の汚職や破廉恥行為、薬物らん用といった事件が深刻な社会問題となっている昨今、マスコミはこぞってこの件を取りあげ、叩きまくるに違いない。
いままで軍で起きてきた自殺者や中途除隊者についても、第三者機関による再調査を求める声が高まりを見せるだろう。
軍広報部が地道に行ってきた全ての宣伝活動は土崩瓦解し、法案を通した与党内部からも色々な問題点が指摘されてきた冒険者更正法と、新カリキュラムの是非を問う議論はふたたび活発になり、政府や内閣への不満が噴出し、そして……


「そして、ヘマさえしなけりゃ飼い主から貰えてたはずの肉付きホネは、ケットーショ付きの他の犬どもに回され、ここにいる自分のマラと飼い主のケツの穴をナメる他には芸も脳も無いバカ犬どもは、仲良く一本のおなじ鎖に繋がれて保健所送りだ。それが判っていてヤったのか、それとも判らずにヤっちまったのか? 判ってたなら上官反逆罪では済まん、国家への裏切りだ。判ってなかったってなら、クソどうしようもない、ヘンタイの大莫迦野郎だ」
そこでライオット・ワーブは大きく息を継いだ。

「修学旅行で観光地に来たアホ準学生でも貴様らよりよっぽど上手くイタズラしてのけるぞ! ビョーキ持ちのマラ頭どもめ!! 鉦官が戦略目標どころかそんな言葉があること自体認識していやがらんとは、何処の穴で育ったオカマ野郎だ!! ブッこきすぎでドタマにまで栄養が回らなくなってたのか?! マラのシゴキ方とシャブリ方以外にまだそのロクでもないクソドタマんなかに残ってるクソがあるのか、アホンダラ!! 大陸史に残る最低のアホタレどもだ!! これで軍の名誉と信用が失墜したら貴様らのようなマヌケな下っ端にそのクソ責任がとれる気でいやがったのか!! ええ?!!」
古参兵の怒号が兵舎中に木霊する。

なにが情けないかと訊かれて、兵隊から戦略についての講釈を垂れられる以上に、将校のプライドを傷つけるモノはない。
分隊員たちの眼には隠す気もなくなった殺意と、抑えることなど到底不可能なレベルにまで達してしまった憎悪とが激しく燃え盛っていた。

「幸いなことに、この件が軍外部に漏れることは無い、軍外部には、だ! ここには菊お嬢さんが居られる。下手をすれば竜園寺閣下のお名前にまで疵が付きかねん。貴様ら莫迦犬の垂れたクソはわしらが全部かき集めておいた。だがな!!」
サザン人はそう静かな口調で告げると、莫迦の枢軸を、“まな板面”以下の分隊員たちに顔を向けた。
「わしらは貴様らの垂れたクソを、黙って平らげてやる積りは無い! 貴様らのような軍の害虫を野放しにしておく気は、ウジのクソほども、まったくない!!!!」

「軍のクソ法務部に告訴状を出してやろうか? 証人と証拠はわしらが握ってる。どれだけクソ優秀なクソ弁護士が貴様らクソウジ虫どもに味方しても、有罪は絶対だ。運が良くても不名誉除隊、場合によっては懲役刑やそれ以上の刑罰もありうる。どうだ、嬉しいか、“イワガキ小僧”?」
そのように問い掛けられ、トレント・“イワガキ小僧”・クフィルは目を剥いた。
不名誉除隊になぞされたら、年金も退職金も恩典もまったく付かなくなってしまう。
これまで地道に積みあげてきた努力と、綿密に立ててきた人生設計がすべて水の泡だ。

「急進派の莫迦どもの垂れたクソだ。急進派のなかで始末をつけさせてやっても良い。貴様らクソどものクソご主人サマと仲がクソおよろしくていらしゃっていらしゃられるクソモダチの所に話を持ち込んでやろうか? オトモダチの失敗にさぞかし心をお痛めになられやがって、あちこち忙しなく駆けずり回ってくださられるだろうなぁ。どう思う、“クソソプラノ”?」
サザン人から笑いかけられ、チャイカ・“クソソプラノ”・ガラーホフの顔が真っ青になった。
話題にのぼったのは、急進派で最後まで今回の法案に――と言うか、彼ら第二分隊の本当の上官に――反対していた中佐のことだ。
他者の成功を妬む粘着気質で、素質や人望に欠け、その代わりに根回しや政治的裏工作に長けているという、絵に描いたような典型的小人物と聞いている。
そんな俗物がこのタレこみを受けてどう出るかは考えなくてもすぐ解る。

「穏健派のクソどもに恩を売るってのも、ツマらなくはあるが、悪くはない。閣下への扱いがいまより少しでもマシになるのなら、多少わしらの取り分が減ってもジューブン引き合う。何れにせよ、貴様ら莫迦犬の飼い主が特大家族サイズのクソの盛り合わせを平らげなきゃならん羽目になるのは確実なワケだ。そうなった場合、貴様らウジ虫どもがどんな風な可愛がられ方をするようになるか、想像しただけで心が沸き立ってこねぇか? あ? それはわしらだけだってか? 汚れスキンどもにも意外に賢いところがあるな」
サザン人は超スゴイムカつくニヤケ笑いを浮かべたが、直ぐそれを引っ込めた。

「ビクビクするな、マラ頭ども。その積りならとっくにやってる。貴様らと違って、わしは本物の軍人だからな。最初に言っただろう、相談したいことがあると。梅毒がクソドタマにまで回っちまってて、そんなクソ昔のことは覚えちゃいられんか? とにかく、互いのクソ今後についてのオシャベリはこれからだ。今回、貴様らがウチの“白アスパラ”に食わせやがったクソは、ハラワタが煮えたぎるほどクソ腹立たしいが、黙っててやっても良い。無論、わしの言う通りにすれば、だ」
そう言って全員を見渡す。

「二度とわしらにちょっかいを掛けるな。『上に指示されたクソ任務果たすことだけ』集中してろ。軍人の鑑になれとは言わん。「ハリガネ」入りのおフェラ豚にそんなマネがクソ不可能なことぐらい、ミミズにだって一目瞭然だ。だが、パンツにクソを漏らす回数を、クソ少しでも減らそうとするクソ努力のマネぐらいはできるだろう? 貴様らみたいなそびえ立つクソでも? それと、ここのガキどもをシゴくなとは言わん。だが必要以上に痛めつけるな。あとの課業に差し障りが出ない程度に抑えろ。要求はそれだけ、クソそれだけだ。ウチとしては最大限クソ譲歩してやった積りだが、どうする? 乗るか、それとも蹴るか?」


分隊員たちは無言のまま、どういう態度を示すべきか、お互い目線を交し合った。
流石に選択肢がないのは解ったようだ。
どの顔にも余裕はまったく見られない。
サザン人の言う通り、『非』(マヌケにも証拠を遺してきたこと。ノーザン人のノッポを可愛がってたことではない)は完全にこちら側に、第二分隊側にある。

「おしゃぶり以外の舌の使い方を忘れちまったのか、雌豚。軍礼則を思い出したのは感心だが、バカの一つ覚えだけでは世の中渡っていけんぞ。わしの話に乗るのか、蹴るのか? どっちだ?」

相手の嘲りに一同は表情を更に強ばらせる。
サザン人が譲歩をしたというのは判る。
取引できる材料は無く、大人しく要求を呑み、まじめに任務に勤しむよりほかに道はない。
それは彼らにもよく解っていた。
だが……。

これまで自他共に認める荒くれ者、誰からも一目置かれる切れ者、優秀な現場職員として通ってきた自分たちが他者の良いように鼻面を引っ張り回されるなど、状況に強制されていても、プライドが許さなかった。
それも盛りを過ぎ、交渉能力(政治的恫喝)以外に自慢できるモノもなくなった一老いぼれ下士官から、“南部の人喰い熊”から去勢された小型愛玩犬のようにあしらわれるなど絶対に……。

((((輝かしい未来と引き換えにしても良い。この老いぼれクマ野郎に思いきりゲンコツをブチ込んでやりてぇっっ!!!!!!!!!!))))

彼らの心がそんな一致を見かけたのを見透かしたかのように、サザン人が口を開いた。

「一つだけ教えといてやろう、汚れスキン。コーショーがケツレツした場合、わしがどの穴に突っ込むかだ。梅毒が回りきったクソドタマどもにゃ、その穴の情報を入れといてやったほうが早く結論が出せるだろう」
次に聞かされた言葉に、分隊一同総毛立つ。
サザン人はこう言ったのだ。
「法務部、穏健派、急進派の全部に今回の一件を洗いざらいぶちまける」と。

「どう上手くカタつけられたとしても、貴様らのクソ飼い主のクソ株価がクソ大幅にクソ下落をみせることはクソ確実だ。やらかしたヘマをチャラにできるだけのミリョクが貴様らの笑顔にあると勘違いしてるのなら試したらどうだ、梅毒マラ? 今度はウチがクソ賭けをしてやる、貴様らがミジメなクソ地獄行きになるのかどうかをな。……もっとも、丁半のコマがクソ揃うクソ可能性はミジンコが垂れたクソほどもないだろうから、賭けになるかどうかで賭けをすることになるだろうがな」

そう言って“南部の老いぼれクマ”は笑った。
クソ勝ち誇った顔で、ハッハッハ、とクソ笑い声を上げやがったのだ。

分隊員たちは全員意見の一致をみていた。
“南部の人喰い熊”の値踏みは絶対にクソ正しい、と。
消防士一人のところに三箇所同時に火の手が上がれば、その全てを小火レベルで鎮火させることは極めて困難になり、散布される『消火剤』も膨大な量に膨れ上がり、一人の老下士官によって一敗地に塗れたという評判は自分たちの上官にこのさき一生ついて回る。
人の口に戸は立てられない。
末端のどこかから必ず醜聞は漏れ、そして絶対上層部の権力者たちの耳に入る。
重要なのは上官が――どう言う事情が介在してたとしても――達した命令を果たせなかった部下を優しく扱う人物ではないということ、自分の体面を穢した者は全て敵と見なして殲滅する人物であることだ。
このクマ野郎に宣言通りの行動を起こされれば身の破滅だった。

老いぼれグマのバカ笑いが止んだ。
第二の全員に見えるよう携帯を天井に突きだし、最後通牒を叩きつけた。

「梅毒マラども、三秒やる。三秒だ、マヌケ! それ以上ダンマリを続けるなら、話を蹴ったと断定し、速やかに断固たる対応を採る。一! 二!! ……」


三がカウントされようとした刹那、いまのこの場面にはそぐわぬ笑い声が巻き起こった。
快笑と言うべき笑い声を上げているのは、これまでずっと沈黙を保っていた第二分隊分隊指揮官、ヤナチェク・クラスホイだった。
緊張に耐えられず発狂でもしたのかと分隊員たちは一斉に目を向けたが、指揮官の青い眼にはまだ正気の光が残っていた。
そればかりかこの状況を楽しんでいる、面白がってる風さえ見えた。
――予想外の事態に仰天し、おののき、身動きどころか声すら出せずにいた分隊員に較べ、人としての格や度量は遥かに上だった。


分隊員ばかりか指揮官まで先ほどライオット・ワーブが口にした条々を理解していなかったかと言うと、もちろん違う。
自分たちが間借り人であることや軍の権限が兵舎内にしか及ばないこと、そして本作戦の戦略目標が何であるか、ヤナチェク・クラスホイは充分以上に理解していた。
特に戦略目標に付いては、ライオット・ワーブと意見の一致すら見ていた。

先月まで彼は王国南西方面軍に配属されていた。
小競り合いの多発するそこは国境警備の仕事が最も激しい地区の一つで、若い人員が優先的に回されている国防の最前線だ。
だが――

高齢化と空洞化の波は確実にそこにまで押し寄せていた……。

そのことを彼は肌身を以って実感してきた、人員問題は絶望的状況にあると。

兵舎前での二十四時間態勢の衛兵任務は、決して嫌がらせ目的ではなく(多分)、状況の維持や打開のために彼に考え付けた精一杯の戦術行動だった。
寒暑風雨に不平を言わず、顔色も変えず、持ち場に留まりつづける兵士。
娑婆の者が感じる軍人らしい軍人、昼夜兼行で国の安全を守り続けている兵士の姿を示すことが、自分たちの現状でできる最高の広報活動であると考えたのだ(過密な平常課業の合間を縫いながら一年近くの継続が可能で、しかも実施を即決独断できる策は他に思いつけなかった)。
また分隊員の紀律の乱れにも何とか手を打たなければならない段階に来ていたこともある。
戦略構想を説明せず、部下にも質問を許さなかったのはその為だ。
意志と自由を奪い、改めて服従を学ばせる。
そうすることによって誰が指揮官かを部下に認識させようという狙いがあった。
回りくどいやり方なのは本人も認識していたが、まだその時点では最後の手段(実力行使)に出られない事由もあった。
だが……流石に部下が軍礼則だけでなく軍の鉄則まで失念するほど莫迦だったとは夢にも思っていなかった。

軍の鉄則。
上級者が下級者に出すのは命令、意見ではない。
下された命令を判断する権限は軍人にはない。
そして、原則、命令には絶対服従。


(ここに来る生徒たちが難しい、怯えた表情をしてたわけだ)
笑いながらクラスホイは胸の裡でそう呟く。
雨中でも屋外で衛兵を勤めている軍人の姿には健気さを憶えてくれる可能性もあるが、校舎内で居丈高にそっくり返っている余所者の番兵は反感と反発しか生まない。
ここまで思惑が外れてしまえば、あとはもう笑うしかない。
いや、笑いたくなくても笑いがこみ上げてきた。

「貴様がここまでの手配りを整えてくるとは夢にも思わなかったぞ、ライオット・ワーブ。我々はみな貴様を見くびり過ぎていたらしい」
ヒーヒーと耳障りな呼吸音をさせながら、クラスホイは賞賛の眼差しと含みの無い笑顔をサザン人に向ける。
徐々に発作も治まりつつあった。

(つまり、こういうことだろう)
ヤナチェク・クラスホイは相手の行動理由を推測する。
軍法務部、穏健派、急進派のどこに今回の話を持ち込んでも、このサザン人の希望――このマヌケどもを全員更迭し、空いた穴にはもう少し大人しく真面目な人員を配置して埋める――が通ることはない(『マヌケ』のなかにクラスホイは自らを含めてはいなかった)。
ガスパジン・バルコープニックなら絶対にこの件の握り潰しや懐柔を図るし、訴状が送られてきた部署の誰かがバルコープニックに恩を売りに走るだろう。
二、三人の鐘官連中のあいだで話し合いが持たれ、その席上でパイの切り分けが行われる。
話はそこで終わり、ココ(第二分隊)に異動はない。
しかし……

(表面上何事も無かったように処理されても、こいつらへの待遇はこれまでとは完全に違ったものになる)
今回の作戦が終了するまでは処分保留にされたとしても、これまでに聞かされていたであろう景気の良い話――作戦終了後の昇進や花形部隊への異動、特別な年金の給付など――はすべて白紙になる。
その後閑職に回されるか、戦死するような部隊に転属されるか、事故死しやすい部署に配置換えになるか。
何れにしても今後こいつらの人生に光が差すことは絶対にない。

(このサザン人、いや“南部の人喰い熊”は、今回の情勢をそう分析したのだ)
自分たちには何の利益も配分されないと。
それどころか、竜園寺閣下への待遇が今より悪くなる恐れがある。
そして莫迦どもに至っては、反省するどころか、逆恨みから破れかぶれの行動にでる公算が高い。
それなら……
(現場レベルで話を纏めてしまう方が得策だろう。ここまで弱みを握られれば、流石にこいつらも手が出せん。これからの自分の安全も確保できる……だろう、多分。伊達に年は取ってないな。アイツが口にしてた通りだ、『く……)

「話に乗るか、蹴るか。わしはそれだけを聞いている。他人からどう思われようがわしにはどうでも良い。ましてや能無しマラから莫迦にされていようが、尊敬されていようが、カエルのクソ掻き集めたほどの値打すら無い。どうするんだ、中尉? 乗るのか、それとも蹴るのか? クソ今すぐにクソ決めろ!」
「乗る以外に我々が生き残れる可能性は無い。それこそ貴様の好きな、ウジのクソほどもな。よろこんで提案に乗らせてもらうとも。第二分隊の総意だ。そう言うことで、良いな?」
そう言ってクラスホイは周囲を見回す。
誰の顔にも怒りと安堵とが混じりあった複雑な表情が浮かんでいたが、どの口からも反対の声が漏れることはなかった。
サザン人は携帯の魔源を切ってポケットにしまう。
「マラ頭の中にも、まだ少しは、良識と呼べるかも知れんナニかが、残っとったようですな。で?」
「『で?』 で、とは?」
「自分の用は済みました。中尉殿のご用件ってのは一体何です?」
「……貴様に用があるのは事実だが、なぜそれが貴様に解った?!」
この言葉にサザン人は呆れたように一瞬ポカンと口を開き、そして次のように言い放つ。
「そりゃ中尉殿の方に御用が無きゃ、それもこの自分にその御用が無けりゃ、『貴様の用件から先に片付けよう』などとは仰せにゃあなられんでしょう。それとも、これは脳の『成長』が進んだ年寄り特有の思い込みや記憶の「混雑」、下衆の勘繰りでありますか?」

この言葉に――まだまだ自分が相手を見くびり過ぎていた事、そして自分が自分で認識していた以上に莫迦だった事を教えるこの言葉に、ノーザン人はカレー皿ほどにも目を見開き、そして哄笑する。
腹を抱え、身を捩り、朗らかそうな声すら上げて。
ヤナチェク・クラスホイは笑い続けた。
彼は本当に愉快そうだった。

「『……………イ』か、確かにそうだ、『こちら』もな。ああ、そうだ、ワーブ曹長。私の方にも貴様に是非、いや、絶対に聞きたい事案が出来していた。それで貴様を呼びにやろうしていた所だった。構わんか、曹長、今ここで聞いても?」
「可能な内容であれば、肯定であります、もちろん、中尉殿」
腹を擦りながらまだヒーヒーと耳障りな呼吸音をさせているノーザン人将校にサザン人下士官は直立不動で答える。

時計の針は○六三六時を指していた。


「臭くても」鯛。
先刻ライオット・ワーブが現れた時から幾度もヤナチェク・クラスホイの脳裏を過ぎっていた言葉だ。
矢張りこれも例の同僚から度々聞かされてきた言葉である。
無論、意味は『よいものは、落ちぶれても、それだけの価値は失わない』であり、矢張り、これまた言うまでもなく、『腐っても』が正解だ。
が、しかし……。

ノーザン人には、イースタン人が珍重する、『鯛』を有り難がる習慣は無い。
逆にイースタン人から見れば下魚、大衆魚である『鯡』をノーザン人は高級魚と捉えている。
ノーザン人がイースタン人を見下す(時にサザン人種より低く見る)風潮は、もともと彼らを傭兵や金属加工の技術者として雇い入れてきたという歴史認識よりも、この辺の言語的、民俗文化的差異によって生じている部分が非常に大きい。
もちろん――交流と理解が進んだ現代では、流石にその辺の瑣末な理由から差蔑することはかなり少なくなってはきているが、歴史の重みはそんな簡単に解消しきれるものではない。
故に意味を説明されてはいても、ヤナチェク・クラスホイの中では偏向が掛かって、やや否定的、侮蔑寄りの意味に転化していた可能性はあった。






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