ぱすてるチャイム Another Season One More Time 菊と刀 30 are you men enough to fight with me, YOU BITCHES?--Round Two 作:ティースプン |
「この学園に来る前のことだ。偶然ある筋から情報が入ったのだが、それによると、本来なら私と貴様との配置は現状とは逆になるはずだったそうだが、これは事実か?」 この問いにサザン人下士官はまじまじと質問者を見つめ返し……、『ある筋』は居心地悪げにその巨体をすくませた(他の連中もあまり景気の良い顔はしていない)。 舞弦学園への移動前夜、“まな板面”オズワルド・グリッペンは昔に面倒を見てやった相手から仕入れた情報を同僚たちに話していた。 その卸元の現在の配置は、カンヌ・フォード新兵訓練基地の武術教官。 本作戦発令前までライオット・ワーブが訓練教官を務めていた場所だ。 仕入れた情報のなかに役に立つモノはなかったが、一つおもしろい話があった。 軍本部にいる彼らの上官がカンヌ・フォードまで直接出向き、この“南部の人喰い熊”を今回の作戦に、徒手武術教導分隊の指揮官に抜擢しようとしたというのだ。 これまでの軍隊生活で誰も聞いたことが無いような条件で……。 互いの実力を知るために行なわれた練習試合は既に指揮官の圧勝(四勝一分)に終わっていたが、これを機に分隊員の中にクラスホイを侮る気持ちが醸成されるようになっていった。 「……要するにこうでありますか? ここの生徒殿らに陸戦隊式の腰の振り方を叩き込み、『もし』配属されてきた部下にアホなチンピラが居たりすれば、軍の評判を落とすような振る舞いに走らぬようキッチリ見張れとのヨーセーが自分に有ったのか……。お聞きになっとられるのはそういうことでありますかな?」 相手の表現に眉を顰めながらクラスホイは頷きを返す。 「肯定であります、中尉殿。ですが、それを受けていた場合、自分のいまの配置に誰が着くことになっていたかは知らされませんでしたし、その情報に接する資格も自分には与えらえれてはおりません」 「……ウソでは無いようだ。しかし……解らん。なぜ、その要請を受けなかった? 貴様に提示されたのは大尉への四階級特進だと耳にした。書類や手続き上は兎も角、実際にはな。その話をなぜ蹴った? 貴様がこの作戦に参加した動機は解ってる。貴様と竜園寺閣下との繋がりは、軍関係者のあいだでは知らぬ者が無いと言っていいぐらい、有名な話だ。軍の広報活動に協力するのを貴様が徹底的に拒みぬいてきたこともな。これまで三十年以上にわたって貫きとおしてきた主義主張を枉げたにも関わらず、実入りの少ないほうを選んだ理由はなんだ? なぜ下士官の階級に留め置かれる実験分隊なぞへの配属を希望した?」 ここ一カ月以上にわたるヤナチェク・キリーロヴィッチの不機嫌は、上官がこのサザン人下士官を彼よりも高く(単純計算で四倍も高く)評価したという事実にあった。 「……出世には興味がないもんで」 怪訝そうな、本当に心底怪訝そうな表情で“南部の人喰い熊”がそう答えたとき、後ろから微かな呟きが漏れた。 「それはそうだろうよ。出世か身の安全かと聞かれれば、誰だって身の安全を採るさ。自分だってそうする。「ベテラン」なら言わずもがなだ」 サザン人下士官が頭を巡らす。 巡らされた側は全員あさっての方角に顔を背けていた。 今のは分隊員どもの期せずして一致した認識らしい。 どの顔にもふてぶてしい嘲りの笑みが浮かんでいた。 全員先ほどの打撃からは回復したみたいだった。 (意外、というよりもむしろ自然か、奴が口を開くのは) クラスホイにもはっきりとは見えなかったが、今のはトレント・“イワガキ小僧”・クフィルだった。 耳に障る甲高さもなければ、腹に響く野太さもなく、どちらかと言えば陰のある(はっきり言うと憎憎しげな)声はこの状況では他に考えられない。 「……お聞きになりたいことが他にないのであれば、退出の許可をいただきたくありますが」 心持ち首を傾げ気味にした“南部の人喰い熊”が向き直ってそう声を上げる。 相手のこの態度に意外の念に駆られた。 分隊員たちも、差こそあれ、眉間に怪訝そうなしわを寄せている。 こちらに向き直った時、“南部の人喰い熊”は非常につかみ所のない表情を浮かべていた。 まるで自分がなにを言われたのか、なぜ連中が嘲笑っているのか全く理解できないと言いたげな風情だった。 (弾力的状況解釈のもと臨時権限を発動させる。少なくとも不快や苛立ちを口に、表情に出すぐらいはすると思ったが……いや) 相手からの視線で自失してたことに気付き、直ちに回答を口にした。 「ああ。いや、まだだ。質問はまだ他にも、と言うより本題はここからだ。もう少し付き合って貰おう、曹長」 「願ってもないことです」 「軍に入って以来、貴様の名は幾度となく耳にしてきた。いや、戦闘兵科を希望しそこに配属される者で、貴様の名前を知らん軍人などいないと断言できるだろう。ライオット・ワーブ。激戦と称して恥じぬ戦いに数多く参加し、その全てから生還してきた不死身の男。大陸中のあらゆる兵器と戦術に精通したヒトの皮をかぶった獣。万洲戦争でビアンキ・アガメン・ナナギ三国の将兵を恐怖に震え上がらせたベルビアの悪夢。ホットドッグリッジの戦いにおいて、名将竜園寺剣次郎を大いに助けたサザン系王国人の誇り。万州戦争当時、ベルビア陸軍将兵から『四侯』と謳われた四人の英雄。それぞれが得意とした武器からジャックの札になぞらえ、『四侯』と讃えられた四人の猛者のうち、いまも軍に在籍しているのは貴様だけだ、“怖るべき熊”。いや、“南部の人喰い熊”と呼ばれるのが好みか? “デューク・オブ・クラブ”は命令に背いた罪で軍を追われ、義勇兵“ソード・オブ・ハート”は、停戦後も現地に残って援助活動を続ける民間団体を助けていたが、いつの間にか姿を消した。『四侯』の一角とはいえ竜園寺中将は番外。そもそもあの方に打ち物を執っての武勇伝があったという話も聞かん。結果、ベルビア王国陸戦隊最強の称号は貴様のものとなり、呼び名も“ランス・オブ・スペード”から“エース・オブ・スペード”へと昇格。現在では“エース・オブ・ベルビア”と呼ばれるまでになった。現在に至るも、その評価は変わってない……往時を知る者の間ではだが」 (まあ、こいつらからすれば当然だが……) 部下の顔には白けた表情しか浮かんではいなかった。 アカの他人が絶賛されるのを見さされる以上にバカらしい事などそうはないし、同じ話に興味を持ち続けるというのも困難だ。 ましてやそのアカの他人が自分たちに煮え湯を飲ませた張本人――どう好意的に見ても自業自得、客観視すれば完全な逆恨みだが――ともなれば、詰らないどころの騒ぎではない。 しかし…… (こちらの反応はどういう事だ?) 自分の偉業が語られることに万洲戦争の英雄は照れるか、すまし顔で謙遜するか、血相変えて否定するかのどれかだろうとクラスホイは思っていた。 だが違った。 “南部の人喰い熊”は照れもしなければ、澄ましもせず(もちろん血相を変えたりもせず)ただ呆気にとられていた。 呆気にとられた顔でクラスホイを見ていた。 今まで予想すらしてこなかった事実を告げられ、心底仰天したという顔だった。 しかしその毒気も抜けたのか、直ぐに蔑みの感情を顕わにし、「くだらん! クソ実にくだらん! ファッキンデマですな!」と苦々しげに吐き捨てた。 「デマかデマでないか、それはこの際もさほど重要ではない。重要なのは、そう口にする者が非常に多いという点だ。そして、それにつられその情報を信じるようになる輩が後を絶たん点だ。悪化は良貨を駆逐する……と言うよりも、『一犬虚に吠えれば、万犬実に吠える』だな、イースタン人の言う。私が思うにこれは、万洲戦争以後、大規模な戦闘が無かったことが原因だろう。本当の実力はともかく、実績において貴様を、“南部の人喰い熊”を越えたと言えるだけ、名乗れるだけの存在が現れなかったという状況がな」 相手から息を呑む気配が伝わってきた。 図星を差したらしい。 “南部の人喰い熊”の顔からは一切の表情が喪われている。 その口から軋んだ声が漏れてきた。 「……いま自分が誰にナニ垂れたか。解ってるか、中尉?」 「 「もちろんであります。要するに猫嫌いのチュ〜イドノはこう泣き言を垂れとられるワケですな。ボクはおろかマラにオカマほられてて、うえのおクチからでしかクソたれれなくされた、ドジでおろかなオクビョーマラでチュ〜、っと」 “南部の人喰い熊”がクソを垂れて寄越した。 分隊員たちは吹き出すのを堪えるのに必死な様子だった。 「よる年波にめげることも、へこたれることもなく、耳も、口も、頭も、まだまだ健在というわけだな。安心したぞ、ライオット・ワーブ」 そこで笑みを消し、鉄のような声で警告を発する。 「だが言葉遣いには気を付けろ。臨時権限が与えられていようとも、軍では貴様が曹長であることに変わりはないのだ」 「では、チュ〜イドノ、退出させて頂かして貰いましてもよろしゅうございますでしょうか?」 “南部の人喰い熊”は軍法会議ものの顔と口調と態度で、改めて退出を願い出る……が…… 「私と立ち会え、曹長。私にはそれが……いや。我々全員にはそれが必要だ。これから先、第二と第一がお互いに煩わされず、任務を遂行していくにはな」 ヤナチェク・クラスホイは本題を切り出した。 「貴様は知らんだろうが、私は毎年開催されている軍の戦技研究競技会白兵戦の部で三年連続で優勝を果たしている。それで軍から特別表彰も受けた」 「そりゃ大したモンですな」 相手の表情は実に白けたモノだった。 この件についてだけは分隊員たちも同意見らしく、ケッ、という顔をしている。 「ちょっとしたモノではある。だが実戦部隊にいる者からすれば、演習での勝ち星など何の価値も無い。一週間の訓練など実戦の一日にも、それ以下にも当たらん。そして元陸戦隊員には、貴様を倒すほうに魅力があるのだ。“南部の人喰い熊”を倒せば引き継げる、陸戦隊最強の肩書きに、大きな意味と価値がな。まさか気付いてなかったのか?」 「ハイ、チュ〜イドノ。ソーデハゴザイマセン。ウスウス気付イテハオリマシタ。コレマデニモソー考エテクル愚カマラハ、数エ切レングライオリマシタノデ。ガ……」 「が? が、なんだ?」 「解りませんな。なぜ立ち会う必要があるのか。立ち会って、自分がどんな煩わしさから解放されるのか」 「脳の一部は究極の段階まで『成長』してしまっているのか? それともそれはポーズか、曹長? 戦えばハッキリするだろう、かつてはそう呼ばれていたにしても、すでに老いが最強の肩書きを貴様から奪い去っていることが。最強の肩書きが外れてしまえば、こいつらが貴様にちょっかいを出す意味はなくなり、貴様は部下とともにオモチャの研究に専念できる、望みどおりにな。それに」 我知らず溜め息がこぼれる。 「貴様まで認識が不足しているのか、曹長。立ち会えと言うのは命令だ。頼みでない。これまで貴様が身につけてきた技術を私に、第二分隊に還元しろと言っているのだ。万州戦争当時に使われていた稚拙な取っ組み合い殴り合いの手管それ自体に価値などないが、古いモノの雰囲気に触れることで新たな閃きが得られる可能性はある。イースタン人が言うところの温「古」知新の教えだ」 そう声に出したクラスホイの口許に有るか無きかの微笑が浮かんだ。 出動と研究とに忙殺されっぱなしだった五年間、思い出しているヒマなどなかった畏友の言葉が今日はやけに想起された。 「認識力が不足してきてるらしい貴様に、もう一つ特別に教えてやろう。私は軍の戦技アドバイザーにも任じられている。戦技の進化と変遷を示す資料として、万洲戦争当時の手技を披露しろと貴様に命じてやってもいい。臨時権限を発動させたところで時間稼ぎにしかならんぞ。命令者が私から戦術研究部研究科室長の大佐に変わるだけのことだ、伝話一つでな」 「……で?」 しばらくして万洲帰還兵が口を開いた。 それはとてもとても静かな口調だった。 「で、とは?」 「……それで、このクソどデカいベッドのうえでやる。そういうことで宜しいんでありますかな?」 “南部の人喰い熊”は顎でかたわらのリングを示す。 その表情には弛緩した、薄ぼんやりとした雰囲気が漂っていた。 (恐怖心を悟られないための虚勢。ポーカーフェイスか) 「そうだ。それも今すぐだ」 リングに上がったクラスホイはその場で軽く跳躍する。 左手で抱え込むようにして右上腕を胸に押し付けて筋を伸ばし、逆の腕にも同じことを行う。 仰け反り、前傾姿勢をとり、そして左右に上体を振って回避機能に異常が無いかどうかを確認した。 二、三度肩を回したあとで左右の拳を軽く、素早く、突き出す。 攻撃にも防御にも不安は見えなかった。 腕肩腰膝、少しもどこにも違和感はない。 気力体力充溢し、戦闘態勢は万全と言って良かった。 「蹴りはない。そう考えているな、曹長。他の下士官上がりの連中とは違って、この士官学校出のボンボンチュ〜イどのは手技しか使えない。だからそんなにビビる必要はない。組み付いてさえしまえば、いまの自分でも何とか倒せる、と」 哀れみのこもった視線を“南部の人喰い熊”に、サザン人下士官に投げかける。 相手はウォーミングアップどころかストレッチすら行わず、逃げ道でも探そうというのか、忙しない視線をこの兵舎のあちこちに彷徨わせていた。 「残念ながら、曹長、その認識は誤りだ。私は手技しか使えないのではない。ありとあらゆる手技を使えるのだ」 リング外に視線を投げかける。 「貴様らが考えてることは解ってる。所詮ボクサーはボクサー、ローキック一発で斃せる。最悪の場合、組み付き、馬乗りから数回顔に打撃を入れれば終わりだ。貴様らは至極気楽に、のん気に、そう思い込んでいる。戦闘という混沌のなか、手技だけで闘うのはあまりに不利、あまりに不自由、あまりにも不自然だ、と」 講義を行なう対象をこの場にいる全員に広げた。 「手と足とでは射程距離の差は明白。そのうえ蹴りは手技の三倍以上の威力がある。拳士に対する格闘士の絶対的な違い、優位はと聞かれたとき、貴様らが真っ先に思いつく差異といえば、そんなところだろう。事実、脚に付く筋肉の量は腕に付く量の約三倍近いから、それは間違ってはいない。が、浅い」 「格闘技を生物学の見地から考えたことのある者はいるか? 人型種族の重心や身体骨格構造、なにより白兵戦が生起する地勢的要因まで視野に入れて検討したことは?」 こちらからの質問に、リング下で雁首並べている分隊員たちは一斉に首を傾げる。 「見て判るとおり、我々の足は二本きりだ。足が二本そろって初めて我々は、辛うじて安定したと呼べる姿勢を保つことができる。足が二本有っても、我々は立ってるだけで手一杯――というのもおかしな表現だが、手一杯なのだ。その足の半分を攻撃に投入することは、ただでさえ心許ない安定性が五割以下に落ちるということであり、軸足の負担、損耗も増大するということであり、速やか且つ自由な移動が不可能になるということだ」 一旦言葉を切り、無知を哀れむがごとき目を部下に向けた。 「人体のつくり、構造を考えた場合、蹴るという行為こそ不自然かつ不自由。拳士対格闘士の戦いにおいて、拳士側が一方的且つ圧倒的絶対的不利であるとは、決して言えないのだ」 少しはこちらの話に耳を傾けようと言う気になったらしい。 分隊員たちの顔には(先程までなかった)真剣さが(微かに)見られた。 「だが、それでも貴様らはこう信じている。たとえそうであっても、蹴りという攻撃手段に不利や不備があったとしても、格闘士の優位は動かない。なぜなら、理論の正誤や技術の巧拙を云々する以前に、拳技には汎用性というものが無いからだ。貴様ら格闘士はそう盲信している。蹴りを回避され、懐までもぐり込まれたとしても、一、二発の被弾覚悟で組みにいけば良いと。密着されれば拳士は全ての武器を失う。そして密着状態は格闘士の領域、投げや関節技の間合いとなる。つまり……」 「拳士がその小賢しい理屈に基づくいじましい力を発揮できるのは、格闘士が装備する強力な蹴りの射程と恐るべき投げ技、関節技の火制域とにはさまれた、きわめて狭小な空間に過ぎないのだ、と。しかし、だ……」 「それは逆に、その狭小な空間に占位する限り、拳士に敗北は無いと言うことでもある。屁理屈だと思うか? だが戦場で敵を屠るのに、激甚なまでの破壊力など必要ない。穂先が四インチ入れば、確実に人は死ぬ。そして勝利者とは、常に己のロジックを守った者の謂いだ。定理から一歩も外れず、常識に少しも背かず、自身の理法を貫き通した者の謂いだ。奇を衒い、策を弄し、才に胡坐をかいた者を表す言葉ではない」 (これだけはハッキリと言っておかねばならん) クラスホイはその責任が自分にはあると決めつけていた。 究極の瞬間、軍人は自らの修めた闘術への信仰が試される。 武器への信頼が少しでもグラつけば、その先に待つモノは死だけだと。 「この五年間、私は手技を主体とする戦闘システムの設計と実用化に取り組んできた。そのために人体の性能と限界を認識するところから始めた。運動生理学についてだけではない、人体の仕組や構造、血管や神経系を把握するため百冊以上の医学書や専門書、それに研究論文に目を通し、解剖学の学位も取得した。ヒトの心理についても、一通りのことは学んだ。戦闘という強いストレス下に置かれた者が一体どういった行動に陥り易いかなどをな」 クラスホイは、予習復習を怠らない成績優等生特有の、謙虚なすまし顔を浮かべている。 「無論、武術知識、その実践や運用についても抜かりは無い。『柔道』や『空手』だけでなく、各国の軍隊で採用されている全ての格闘技を調べ尽くした。それらの遣い手と、一流の遣い手たちと、実際に拳を交えてきた。それぞれ何が出来て何が出来ないのか、長所短所、すべての特徴を洗い出した。戦場で生起しうるあらゆる局面を想定し尽くし、それらへの対抗手段を一つ残らず構築できたと私は確信している。 声に不機嫌さが混じるのは避けられなかった。 “南部の人喰い熊”は講義を最初から、完全に、シカトしていた。 上級者に背中を向け、ケツさえ晒していた。 コーナー付近のマットに手と膝を着いて床に顔を近づけたり、コーナーに張られたクッションを押したり引いたり、ロープを一本ずつゆさゆさ揺さぶってみたりと、何かを探っている、調べている風に見えなくもない。 せめてもの情けと思って用意させたヘッドギアなどは、リング中央で置き去りの憂き目に遭っていた。 何がムカつくかと聞かれて、こちらの善意と親切(と欲求の達成)を無視され、うろちょろとあっちこっち歩き回られるほど不愉快極まることはない。 心気を鎮めるため三回、クラスホイは深呼吸しなければならなかった。 だが万洲帰りの小男の無礼は留まる所を知らなかった。 「この兵舎の掃除は誰がしている? 外部から業者を入れてるのか?」 リングの外へ向けられたサザン人下士官の表情には、なぜか張り詰めたモノが感じられた。 「否定。各員の机と寝台は時間と機会を見つけそれぞれ個別に、部屋は同室相手と交代交代、シャワー室、トイレ、それに談話室は分隊員内での輪番」 「ここもか?」 短い足で(身長に比例して)ドンドンとリングを踏みしめる。 「そこも俺たちの輪番。しかし他の場所とは違って、そこだけは中尉が検査を行いになられる。神聖な場所だ……からな」 最初に質問に答えたのはトレント・“イワガキ小僧”・クフィル、次に答えたのはサイモン・“ほほ笑みカス”・カーチスだ。 「ワナでも仕掛けさせてるとでも思ったのか? 見くびってくれたモノだな、曹長。下らんトリックやペテンなど使わん。そんな手を使って勝ちを得たとしても意味が無い。そもそも私には、いや、全局面対応型撃拳術には、そんな詐術に頼る必要がまったく無いのだ、まったくな」 警告の意味も込めて、少しだけ手の内を見せてやることにした。 右足を深く踏み込んで左アッパーを放つ。 足を刈りにくる敵への対抗手段の一つに想定した、地を這うような軌道のアッパーカット。 その先にはサザン人が置き去りにしたヘッドギアがあった。 ヘッドギアをすくい上げ、さらに追い討ちを掛ける。 アッパーを打った左腕を完全には戻しきらず、肘から先だけでジャブを放つ。 分隊員たちには赤いものが走ったとしか見えなかったろう。 ヘッドギアは一直線に飛び、その先にいた小兵の額を直撃……しなかった。 いつの間にか相手はコーナーに腰を下ろしていた。 本来の目標を失ったヘッドギアはコーナーポストに激突。 はね返って、ようやく目標の前へと辿り着いた。 「……さっさとそれをかぶれ、曹長。私の装備だけでは貴様の安全を保障しきれん」 相手が腰を下ろしていたことにわずかな怪訝さを憶えながらもクラスホイはそう命じた。 その両手には馬鹿でかいグローブがはまっている。 公式戦のものではなく、練習用のグローブだ。 ちなみにクラスホイ自身はヘッドギアを着けていない。 このサザン人相手に、いや、第二分隊の誰が相手であっても、防具を着ける必要性を、ヤナチェク・クラスホイはまったく感じていなかった。 眼前に降ってきたヘッドギアをサザン人は一瞥する。 風に飛ばされ、足もとに纏わりついてきた古新聞でも眺めるがごとき眼差しだった。 そして――深い溜め息を吐くと、気持ちを切り替えようとでもするかのように二、三度、軽く頭を揺する。 おもむろに腰を上げ、無感動な面持ちで口を開いた。 「これまでに三つ。軍隊と戦場で思い知らされてきた現実が三つある。一つ、自分の身は自分でしか守れない。二つ、敵が寄越してくるモン、残してくモンには『大抵』ワナが仕掛けてある」 自棄か、それともまだ若いときと同じ動きができる積もりでいるのか。 相手の認識不足に苛立ちをつのらせながらも、可及的平静な声でクラスホイは「三つ目は何だ」と促す。 「前線にやってくるノーザン人の客は、上からも下からも、クソしか垂れない」 サザン人はそう吐き捨てると、土踏まずでヘッドギアを蹴った。 ヘッドギアはコロコロとリング外に転がり落ちる。 声同様、こちらに向けている顔にも情動と呼べるものは認められない。 だからこそ逆にふてぶてしい態度であるとも言えた。 クラスホイの満腔に敵愾心と憎悪が膨れ上がる。 「実に興味深い意見だ、曹長。礼と言ってはなんだが、私が四つ目の真実を教えてやろう。人の善意を無視する愚か者は一生後悔するという真実をな」 ヤナチェク・クラスホイからは周囲を落ち着かない気分にさせるモノが噴き出していた。 そのことに“まな板面”たちでさえ一瞬瞠目する。 だが……直ぐに気が抜けたようにフッと笑いが起きた。 リング中央で二人の分隊指揮官が対峙する。 至近距離で相対したとき、クラスホイも(流石に)気が重くなった。 相手の余りにも貧弱な体格に、良心や慈悲の心といったものが疼いたのである。 格闘技は筋肉の量と反射神経の速度が勝敗を決める。 クラスホイはそのように結論付けていた。 超スゴイ大雑把に言って、個人の格闘戦能力は体の大きさに比例する。 技術や作戦、それにいわゆる必殺技などで、その差をある程度までは補えても、完全に覆すことは不可能だ、と。 両者には身長で二十センチ、体重では二十キロもの開きがあり、さらに二回り以上もの年齢差まで横たわっていた。 老化による視力体力の低下、反射神経の衰えといったものまで、サザン人側には加わるのだ。 これでは最初から勝負にならない。 (試合運びもクソもない。これから私が行うのは一方的なメッタ打ちだ) クラスホイはそう認識していた。 それ以外の展開などありえないと、暗澹たる想いを抱いていた。 だが手加減する気は微塵もなかった。 愚劣極まりない相手の言行で、その気は完全に消えていた。 (全局面対応型撃拳術の全てを駆使し、私の全身全霊で以って、貴様を現役から引退させてやる) ――老いたりとはいえ、かつてはこの国のために戦ったこともある軍人に払うべき当然の敬意として。 ――軍に生涯を捧げた一下士官に対して、若者が手向けてやれる最後の花として。 ――身の程も弁えず、他者の善意を踏み躙った莫迦者への制裁として。 ――なにより、指揮官の権威と自らの誇りとを回復させ、この小隊を正しく機能させていくためにも。 (力と手管の全てを出し切らせてやる、“南部の人喰い熊”。悔いや未練など残らぬよう、これからの軍隊生活で莫迦な思い上がりなど抱かぬよう、何より下らない『事故』に巻き込まれたりすることなど無いように、貴様には「印籠(薬容れ)」を渡してやる) 彼はそう決意していた…………老いた英雄にそれだけの気概が残っていればの話ではあるが、兎に角、そう考えていた。 この相手から自分が一発でも被弾を許すなど、たとえ夢でも、絶対にあり得ない。 ヤナチェク・クラスホイはそう信じていた。 因みに、「印籠」を渡す、も例の同僚がよく口にしていた言葉である。 これは、自決用毒物をそっと差し入れてやる、と言った辺りに変換(誤解)されていたのではないかと思われる。 もちろん、世間一般で用いられるのは、『引導』を渡す、であり、意味は『死者を葬る前に、迷わず浄土に至る道を示す』から転じ、『最後的宣言をする』である。 チャイカ・“クソソプラノ”・ガラーホフが鐘を鳴らした瞬間、クラスホイは相手の顔目掛け電光の如き左を放っていた。 体重を後に残したままで撃つジャブ。 一流同士でも全弾かわすのは不可能、と人口(特定分野限定)に膾炙してるアレだ。 瞬電の左拳が構えも採らずにぼけぇっと突っ立ってるサザン人下士官の顔面にあ…… たると見た瞬間、周りの景色がもの凄い勢いで下へ、床の方へ、吹き飛んでいった。 ヤナチェク・クラスホイは上方向に、垂直に近い角度で、ふっ飛ばされていた。 その頭は兵舎の天井に擦りそうだった。 ほんの一瞬、クラスホイは脚の付け根から腹筋に掛けて涼しい風が吹いているのを感じた。 足の裏がやけに頼りないことを認識したのち、妙な浮遊感を憶えた。 だが次の瞬間、周囲の風景がそれまでとは逆向き、天井方向に吸い上げられていくのを見た。 そして後頭部と背中と腋の下とケツの穴に、冷たい風が激しくぶつかってくるのに気付いた。 重力に引かれた全局面対応型撃拳術の肉体はすでに落下を開始していた。 そのままならクラスホイはリングに尻と腰を強く打ち付けていただろう。 状況がまったく理解できず、受身を取らねばという考えが起きなかったからだ。 様々な後遺症が残ったはずである。 しかしそうはならなかった。 対戦者がその落下地点、クラスホイ側のコーナーにまで移動していたからである。 そして上空から落下してきた重量八十キロ超、天地無用、壊れ物注意の物体を、ライオット・ワーブは軽々と、小揺るぎもせず、『オシッコのポーズ』で受け止めたのだ。 ゆっくり三つ数えても現実に戻ってこない相手の両腿をブルブル揺すり、バカにしたように耳元で囁く。 「『タカイタカーイ』は好きくないか、チワワ小僧? それとも絶景の余り、上でタマとタマシイとを落っことしちまったのか?」 その言葉でクラスホイは、ようやく、我に返れた。 我に返って、「ガオッ!」とも、「バオッ!」ともつかぬ呻きを漏らしながら上体をひねり、声のした場所目掛けて右肘――全局面対応型撃拳術は肘を攻防の手段に組み込んでいる――を叩き込んだ。 だが肘が届くより早く、相手はクラスホイを宙空へと放り出している。 捕まえてしまった小鳥でも逃がしてやろうとするかのように、軽々と。 放り投げられたとき彼のつま先はトップロープよりも高い所にあった。 空中に投げ出されたクラスホイは下半身をねじり、危なげ有りでリングに着地、即座に後退を開始する。 戦術はおろか体面などを気にしていられる余裕などなかった。 とにかく相手と距離を取る、否、逃げることしか考えられなかった。 あっと言う間もなくその背中はサザン人側のコーナーポストにぶつかる。 ――それ以上後退が不可能であるのをクラスホイが理解するのに、たっぷり十秒は掛かった。 追撃すれば簡単に相手を撃破できたであろうに、ライオット・ワーブはその場から動かなかった。 動こうという素振りすら見せず、とても退屈そう、詰らなさそうな表情で、馬鹿な行動を続けるノーザン人貴族中尉を眺めていた。 まるで道端に転がる石ころでも眺めるがごとき視線を、ヤナチェク・キリーロヴィッチに投げかけていた。 ――そう認識したとき、クラスホイの口から「き、き、き……」とおめきが漏れた。 ヤナチェク・クラスホイが自らの拳打に返し技を入れられるのは初めてではない。 その程度はこれまで幾度となく経験している。 ライトクロスを喰らったのはもちろんのこと、飛び付き腕十字固めを極められたり、背負い投げや巴投げで地面に叩きつけられたことだってある。 しかし、それらはどれもストレートやフックなどの振りの大きい技を仕掛けたときのこと。 それも気力体力充溢した現役の一流現場職員を相手に、クセを見抜かれ、技にキレが無くなり出してからのことだ。 試合開始直後いきなり出した拳に、ジャブにカウンターを合わせた者、合わせようとようとした者など、一人もいない。 ましてや、殴りにきた相手をほぼ真上方向に放り上げる? 弾き飛ばす? 吹き飛ばす? 技? 術? とにかく、そんな話などこれまで一度も聞いたことがない。 当然の疑問がクラスホイの口をついて飛び出す。 「貴様! 一体、何をした?!!!!」 秀麗なクラスホイの顔は未知なるモノへの恐怖できつく強ばり、青ざめ、じっとり脂汗が浮かんでいる。 「んなクソ寝言ほざかれて、バカ親切にも持ちモノ検査に応じてくれる愚かマラに会ったことがある訳か? 本物の死線とやらを越えた先で?」 心底馬鹿にしきった口調、表情、態度で、“南部の人喰い熊”はそうクソを垂れた。 無礼な返答にクラスホイの歯がバリバリ軋んだ。 軍礼則に抵触しっぱなしな言動ではあるが、それが意味するところはマトモだ。 この場を支配しているのは論理の力ではない、力の論理だ。 いまは互いの階級章に刻まれた鉦や鈴が幾つ有るかを数え合う場面ではないし、悠長に能書きを垂れていられる状況でもない。 ヤナチェク・クラスホイはそういった理屈を思い出し、認識し、そして理解した。 怒りで顔を真っ赤にしつつも、口にしかけていた「命令だ! 答えろ!」などというクソ以下のたわ言を呑みこみ、それ以上の体面低下を抑える。 そして少しでも状況の把握に努めんとして記憶を…………ムリだった。 記憶を辿ろうにも、知覚できたモノなどなにも無い。 気が付いたら空中に吹き飛ばされ、落ちてきたところを相手に受け止められた。 声を掛けられるまで完全に茫然自失の態だった。 現役時代、“南部の人喰い熊”は投げ技や関節技をよくする陸戦隊員だったに違いない。 相手の貧弱な体格からクラスホイはそのように断定していた。 それ以外の(つまり複雑精緻な)戦闘技能、徒手格闘技術を有しているなど想像だにしていなかった。 風貌とこれまでの言行からしても、そんなことは有り得ないと信じきってさえいた(←解らないではないが、かなり失礼)。 そもそも彼は自分のジャブにカウンターが入れられるなど、夢でも考えたことがない。 この五年のあいだヒマさえあれば鏡に向かい、何千回、何万回と確認と修正を繰り返して手に入れた――針で突いたほどのキズもない――完璧なフォームから繰り出される、最速最高の技なのだ。 一体どんなトリックを、呪術を使えばジャブを撃ってきた相手――それも自分より重い相手――を上空に放り上げるなどということができるのか、空想すら不可能だった。 そして…… 事ここに至り、ようやく、ヤナチェク・クラスホイの脳裏に疑問が、とっくに思い当たっていて当然の疑問が浮かんだ。 (階段口で“まな板、いや、グリッペン少尉が立哨していたのなら、そして屋上周縁にそこまで念入りな侵入者対策が施されていたのなら、どうやって、一体どこを、どんなふうに通ってこの男はこの兵舎前に辿り着いた? いや、なぜそんな仕掛けがされてる事が、いや、そもそも、なぜ私がこいつらに衛兵任務を命じたことを知っている?!) クラスホイの感じている恐怖が戦術状況に対するものから、戦略状況に対するものに変化した。 指揮官が陥っていた状況は、分隊員たちにもそっくり当てはまる。 みな恐怖と驚愕の表情を浮かべ、凍り付いていた。 軍に入って以来、“南部の人喰い熊”が立ててきたという武功と武名は、彼らもゲップが出るほど聞かされてきた。 しかし誰も信じてなぞいなかった。 士気掲揚のプロパガンダだと捉えて、次のように考えていた。 “南部の人喰い熊”とは逃げまわるのが取り柄の、平均より少し上の白兵戦技能を持った古参兵だ。 死人の軍功を引き継がされるようになった小物に違いないと(話を聞けば聞くほど、その認識は強まっていった)。 そして数年ほど前から南西方面部隊に“荒野の荒鷲”と呼ばれるノーザン人鉦官が現れ、戦技競技会関係者の間で騒がれるようになったことも聞いてはいたが、脅威とは見ていなかった。 これは妄想や希望的観測などではなく、事実に基づいた上での判断だ。 第二分隊員たちは全員、激戦で兵装を失いながらも、徒手格闘で敵を倒した者しか入会を許されない『カニの会』の会員だ。 最前線に投入される陸戦隊員にとって、ここの会員であることは、もっとも信用されうる資格証明だ。 実戦主義、経験主義者は競技会の戦績に高い評価など与えない。 そしてこの会の名簿にヤナチェク・クラスホイとライオット・ワーブの名はなかった。 万州帰還兵など過去の遺物だ。 前の連中が処理し忘れた軍の汚物、便器にこびり付いてるクソに過ぎない。 とうに盛りを過ぎた“南部の老いぼれ熊”ごとき三秒で始末できる。 その代りとして配属されたノーザン人の貴族中尉なぞは十秒もあれば、百回ノしても、まだお釣りがくる。 いままで彼らはそう思い込んでいた。 あいにく現実はそうではなかった。 まず彼らが想像しているほど戦技競技会は生易しいものではない。 次に――彼らはボクシングの無差別級と勘違いしていたが――白兵戦の部とは器械戦闘の部。 つまり出場者の九割以上は槍術士だ(水泳の自由形が実際はクロールなのと同じ理屈)。 そこには石ころだって混じってるだろうが、決勝まで進んでくる駒は玉だけだ。 ヤナチェク・クラスホイはそこをナックルで三連覇を果たした。 並の実力では不可能な話だ。 そして“南部の人喰い熊”と呼ばれながらも軍で、この国で、三十年以上も生き延びてくるというのは絶対に無理なのだ。 二人の分隊指揮官を見くびり過ぎてたことを、勝手に格下だと思い込んでいたことを、第二分隊員たちは初めて認識する。 どちらも本当に役立たずなら、自分たちの束ね役になど選ばれてくる訳がない。 実際問題として彼らはクラスホイが放った初弾を――起動から着弾するまで(正確には着弾しそうになるまで)――認識できなかったのだ。 ヤナチェク・クラスホイは決して弱くない。 そして『このサザン人』は得体が知れない。 一同目を皿のように見開いてリング上を注視した。 背中をイヤな汗が止めどなくしたたり落ちていった。 周りの見る目と空気が変わっても、ライオット・ワーブに表面上の変化は見られなかった。 悠揚迫らぬ態度は変わらず、非常に退屈そうな表情のまま、ゆったり虚空に視線を彷徨わせていた。 一時の感情や場の勢いから引き受けると公言はしたものの、やはり気が乗らない雑用からどうやれば逃げられるか。 そのための遁辞を思案してるとでもいった雰囲気だった。 その様を反対のコーナーから拳を構えて窺っているノーザン人貴族中尉を脅威と捉えている風は――ノミが垂れたクソほども――感じられなかった。 サザン人の口から諦念めいた溜め息がこぼれる。 第二分隊全員ビクッと身体をすくめ……そのことに舌打ちした。 サザン人鈴長は――気持ちを切り替えようとでもするかのように――二、三度、軽く頭を揺すりながらコーナーポストから背中をはがす。 うつむき加減、ベルトをカチャカチャ言わせながら、リング中央へと進み出てきた。 「なんの、マネだ、一体、曹長、それは……」 激昂しそうになるのを必死に堪えて、ヤナチェク・クラスホイは喘ぐように声をしぼり出す。 “南部の人喰い熊”はベルトを外すと頭部に、目の上から巻いたのだ。 それだけでなく両手をズボンのポケットに突っ込んだのだ。 クラスホイのこめかみの血管は切れそうになっている。 「馬や淫売がしてんのを見たことねぇのか、チワワ小僧? 目隠しだ」 「貴様……貴様……私を、全局面対応型撃拳術を……戦いをナメるなっ!!」 「ナメてんなぁどっちだ、このスットコドッコイ。なんなんだ、さっきのは? もしかして、撫でっこの積もりだったのか、アレでも? 余りのすっトロさに寝ちまいかけたぞ、アホンダラ。爺のファック、いや。ウチの“白アスパラ”がヨタついてきやがった時のほうがまだ気合が入ってたぞ、マヌケ」 非常に不機嫌そうに“南部の人喰い熊”は吐き捨てた。 「一応こっちは病み上がりなんだぞ、バカタレ。それに明日から長期にわたっての本格的攻勢も控えてる。クソ見てるだけでクソ本当にクソ風邪をクソこじらせクソかねねぇような、クソお寒いクソ薄らクソバカ犬のクソどーしょーもないクソ芸を、クソ延々とクソ見せられクソ続けるなんてなぁ、クソ本当にクソ溜まったもんじゃねぇ。しばらく内クソやりてぇようにさせといてやるから、クソ何でも好き勝手自由にやってろ、ボケナス。飛んだり、跳ねたり、ケツ振ったり、そういうのをな。わしの方は、口は挟むか知らんが、手や足は出さん。シッポやチンポも動かさずにいてやる。だからビビらず、怖がらず、クソエンリョせず、クソどっからでも、クソどんな風にでもファックしに来い。ああ。もちろん」 そこで辺りを憚るかのように周囲を見まわし、口元に苦笑、と言うよりも…………憐みの笑みが浮かべる。 「逃げるのも選択肢に含めて良いぞ。心配すんな、追っかけたりゃあせん。ヨソで言い触らしたりもな。『本物の死線』とやらを越えた先っちょら辺じゃあ大したモンなのか知らんが、わしら前線豚の間じゃあ、ウジ虫どころかおフェラ豚にすらなれねぇチワワ小僧一匹ツブしたって、自慢にゃならんからな。安心したか、チワワ小僧?」 病弱児童をいたわるような“南部の人喰い熊”の口調と表情と態度に、クラスホイの怒りは限界を越えた。 さっきまで青ざめていた顔が朱泥を塗り固めたようになっていた。 しかし―― ほの昏い激情の命じるまま勇敢な(しかし芸の無い)正面攻撃を仕掛けたかと言うと、意外にも違う。 確かに怒りメーターは完全に振り切れていたが、それと同時に内蔵されている冷酷モードが起動していた。 「パンッ!!」という乾いた破裂音が兵舎中に木霊する。 一瞬、そして微かではあるが、確かに兵舎の窓ガラスが震えた。 第二分隊員たちは思わず顔をしかめ、そして目を丸くした。 クラスホイがはめているグローブが両方とも弾けていた。 状況から判断するに、思い切り両手を打ち合わせて、グローブを破裂させたらしかった。 分厚く、柔らかく、頑丈な、まだいくらも使っていない座布団のようなグローブを……。 ヤナチェク・クラスホイは音を立てずにグローブの残骸から手を引き抜くと、試合を再開……いや。 全局面対応型撃拳術は戦闘を開始した。 音で位置と方角を特定されぬようすり足を使い、非常にゆっくりこの上なく慎重にリングの縁をまわって、『敵』の背後に占位する。 このリングにどんな建材や留め金がどこに、どれだけの数、どういった具合で用いられているかは熟知していた。 軋み音一つ立てることはなかった。 (ベルトにはのぞき穴でも開いてるのだろうが、間違いなく視界は制限される。聴覚に頼る比率が上がっているのは絶対だ) クラスホイはそう確信していた(ヒトは外部情報の八割を視力に頼る)。 ならば相手の探知手段を奪う。 ほんの一時、わずかで良いから、その性能を鈍らせてやる。 その間に移動を完了させ、攻撃態勢を整えた上で待機する。 先刻のはそう判断した上での、そして相手がそうは考えないだろうと踏んでの策だった。 仮に考えたとしても、こちらが即座に仕掛けるとは予想できなかったはずだ。 (現役からではない。人生その物から引退させてやる!) 目標はそう変化していた。 “南部の人喰い熊”の表情、言動、振る舞い、態度に、この五年間で鬱積させられてきた数々の怨念が一気に吹き出していた。 予告もせず、手加減もせず、相手の延髄に鍛え上げてきた拳を、研ぎ澄ませてきた牙を思い切り、ブチ込んでやる積りだった。 これを卑怯と言うのは、槍後で惰眠を貪る、平和ボケした愚民の寝言だ。 平和というものが強大で情け容赦のない暴力によって守られているとの認識すらない、莫迦のたわ言に過ぎない。 そもそも――好きなように掛かって来いとは、こちらではない、向うが提示した交戦規定だ。 自分で自分の墓穴を掘って、自らその穴へハマりにいく愚か者に程度を合わせることは正々堂々とは言わない。 なにより軍の存在意義は戦いに勝利することだ。 戦場で法例遵守を声高に訴えて回ることではない。 そしてヤナチェク・キリーロヴィッチは、貴族であると同時に、現場の軍人なのだ。 ちゃんと筋は通ってる。 態勢が整ってもクラスホイは即座に行動を採らなかった。 相手が疑心暗鬼に囚われ、隙が生まれるまで(研究結果と照らし合わせ、彼自身が充分だと判断するまで)、物音を立てず息も殺して三分以上待った。 そうしてから攻撃に移った。 背後からの不可避必殺の奇襲攻撃。 少なくとも彼はそう認識していたし、その部下もみな同じ見解に立っていた。 だが…… 目標はそれすらも回避した。 滅殺の一念凝らした右打ち下ろしを、着弾寸前、“南部の人喰い熊”は身体を半身に退いてかわす。 かわしただけでなく、一刹那前まで頭が在った空間を貫いていくクラスホイの右拳を顎と肩とでガッチリと捉える。 そして退いていた半身を一気に戻しながら、上体を前に倒す。 勢いのつき過ぎたクラスホイはバランスを失い、引っ張られるまま空中に放り出された。 相手の両足がリングから離れると、挟んだ手はそのまま、“南部の人喰い熊”は上体を起こして体の向きを百八十度変える。 それがブレーキになって、クラスホイは柔らかく――ふわっという感じで――足の裏からリングに着地できた。 「そうそう。チワワ小僧のクソドタマん中じゃ『ここ』は戦場。『本物の死線』とやらを越えた更に先の先とかいった辺りって設定だからな。クソをチビっちまうぐらいまでヘソに力ぁ込めて、大きなラッパを吹き鳴らし、セーセードードーと名乗りを上げて、芸も能も考えもなく、敵主攻正面から単騎吶喊を敢行する。そんな青臭い、アホ臭い、莫迦臭い真似はクソ絶対してはならない。ただ勝つ、殺す、確実に斃す。不意を衝く、寝込みを襲う、エサで誘引して殲滅する、多勢で小勢を蹂躙する。デマを流して敵指揮系統を混乱させる、敵の水源に毒を入れる。つまるとこ、戦争ってなぁ『それ』だ。汚さの較べっこだ」 背中合わせに右手をひねり下ろされ、仰け反り気味の態勢で自失していた耳に笑いを含んだ声が届いた。 ヤナチェク・クラスホイは我に返る。 発狂したような喚き声を上げて、渾身の力を…… 込めて拘束を振り解こうとした刹那、拘束が解かれた。 勢い余ってリングに突っ伏してしまうのを、右足を前に送って踏ん張り――ギリギリ――堪える。 そしてそこから反撃にでた。 図らずも前傾姿勢を採らされたことで撓められた下半身のバネを解放。 ちぎれ飛びそうな勢いで上半身を回転させ、バックブローの『鉄鎚』(全局面対応型撃拳術はコレも攻撃手段の一つに採り入れている)を放つ。 後ろ向きながらも、その拳は精確に敵の首を捉えていた。 が…… 「認識が不足してるのはそっちらしいな、チワワ小僧。わしはホメている、賞賛してやってんだぞ。戦場で『汚い』ってのは『強い』って意味だ。そして『強い』ってのは『良い』ってことだ。音を立てず相手の背後へと回り、三分と十三秒も鼻を鳴らすのもガマンして、相手の延髄に全力を込めてファックしにかかる。ホントに死線を潜り抜けてきた兵にも滅多にいないエゲツナサだ。それをごく自然に、さも当たり前のように遣う。偉いぞ。先刻までお前はチワワ小僧だったが、今からテリヤ小僧に昇進だ。どうだ、嬉しいか、チワワ小僧?」 朗らかそうなサザン人のその声は、裏拳を放ったクラスホイの直ぐ背後――約四十センチ下――でした。 第二分隊員たちにはハッキリ見えた。 手を放した瞬間、サザン人がクラスホイの背中にピッタリ貼りついて追走するのを。 目隠しし、手はポケットに入れ、まっすぐ後ろを向いたまま、接触も気取らせもせずに……。 現実には有り得ない無茶苦茶な機動に、彼らはみな吐き気すら催している。 そしてクラスホイは――今度はクスリのキレたヤク中みたいな金切り声を上げて――この『うしろの悪太郎』を滅消せんともう一度、今度は左のバックナックルを放った。 「そうそう、戦場での滞陣は敗北にしか繋がらん。軍がその行動を停止させても良い条件は一つ。戦いが終わった時だけだ。勝利を掴むまでは、とにかく動くことだ。動きながら周囲の情報を集め、分析しながら戦況に適した戦術を、兵理に合った行動を採り続ける。それが重要だな」 除霊は失敗に終わった。 背後霊は背後霊であることを辞めず、一層調子づいてさえずりまわる。 しかしクラスホイは諦めなかった。 諦めず即座に今度は右! ……と会心のフェイントを掛け、再度左のバックナックルを撃った。 「誉めてやった途端すぐこれだ。陸に打ち揚げられた腹ボテのトドだって、も少し速くヒレをパタつかせれるぞ、チワワ小僧。もっと速く動け……る努力をし……ろと前肢と後肢に伝え……よう、とドタマん中で意識できるようにして下さいと、毎朝毎晩カミサマにでも拝んできとけ、ボンクラが」 追い掛けていた相手が眼前に降って湧き、クラスホイの動きは止まる。 『イーグル怒りの鉄拳』を“南部の人喰い熊”は首を軸にした側方伸身宙返りで軽々とやり過ごしてみせた。 そして空中で身体の向きを百八十度捻って、よろめくことなく足から着地。 風に弄られる綿毛や、宙を舞う蝶のような、重さというものがまったく感じられない動きだった。 二人の分隊指揮官は再び、今度は超々至近距離で、正対するかたちになる。 しかし…… 最初のときとは異なり、クラスホイは攻撃直後で身動きが採れず、しかも完全に正中線をさらしているのに対して、敵側に隙はない。 “南部の人喰い熊”は充分な態勢でヤナチェク・クラスホイを完全に間合いに捉えていた。 (動こうと意識した次の瞬間には、必倒の攻撃がダース単位で降り注ぐ) クラスホイは状況をそのように認識した。 この距離と角度では――たとえ相手が本当に目隠ししてたとしても――避けられない。 “南部の人喰い熊”の攻撃は全弾命中する。 のっぴきならない状況であることを全局面対応型撃拳術は理解した。 通常ならクラスホイの詰みと判断される状況だが、それでも彼は勝利を諦めなかった。 諦めず逆転を狙っていた。 身じろぎはおろか、瞬きすらせずに、深く、激しく、静かに、闘志を燃やし、全神経を集中させて敵が動くのを待ち構えていた。 今度は彼のほうが“南部の人喰い熊”をカウンターに斬って殺る積りだった。 全局面対応型撃拳術は、不本意だが、相撃ちも視野に入れて戦術を組み立てていた。 「クソバテたのか、それともクソお眠のクソお時間か? クソどこでもクソ即座にクソ寝れるのはクソ軍人のクソたしなみだが、クソ交戦中とファックのクソ途中で寝ちまうってなぁ、クソ自殺行為だぞ、チワワ小僧」 “南部の人喰い熊”はそんな言葉を上げた。 非常に真面目くさった表情であり、口調だった。 (これは、心理攻撃だ) クラスホイはカッとなりかけるが、直ぐに冷静さを取りもどす。 敵はこちらを脅威だと捉え、揺さ振りをかけてきている。 神経をかき乱して先に手を出させる作戦だと。 “南部の人喰い熊”の体力は尽きかけているのだ。 そう断定した彼のなかに、試合開始前の余裕と自信とがよみがえった。 「イースタン人には『寝る子は育つ』って格言があるなぁ知ってるか、チワワ小僧? また『カホーは寝て待て』ってぇ言葉も? だがこれらの考えはクソ間違いだ。他が休んでるときでも動くのを当然とできる者だけが、次の日のクソ勝利者になれる。クソ敵をクソ前にしてクソ睡眠をクソ採るのはクソ本物のクソどアホウだけだ。テリヤ小僧は交戦中も寝れる、神経がクソ太いだけでクソ知能がクソ足りないクソ敗北主義者だったのか? そうでないならガッツを出せ! 根性を見せろ!!」 ヘタな挑発だ、とクラスホイは笑殺する。 「あー、もしかすると、テリヤ小僧は「カンテン」の出る血統か? パパ犬かママ犬に「ブドウ病」や「テルプシコレー」の発症畜が居るのか? それとも……」 “南部の人喰い熊”は心配そうな表情と声と態度でそう言ったあと小声で、クラスホイだけしか聞こえない、非常に小さな声で囁いた。 相手がなにを言ったのか、最初クラスホイには解らなかった。 未だ極秘扱いになっている作戦の内容を知ってる者がいるとは、それもこのサザン人が知ってるなどとは想像の範囲外だった。 しかしすぐに言葉の内容が脳髄に浸透する。 クラスホイの視界は真っ赤に染まった。 どこかから獣の哭く声が聞こえてきた。 しばらくの間、第二分隊員たちはそれが人の声だとは解らなかった。 なんとも言えないイヤな唸り声が、不気味な雄たけびが、自分たちの指揮官の口から迸っていた。 全局面対応型撃拳術は、いや、ヤナチェク・クラスホイは喚きながら、サザン人の後頭部目掛けて振り切っていた左腕を振り戻す。 クソを垂れ続けている相手の顎を狙って、手元に残っていた右腕も振り上げる。 理性も、技術も、知性も、戦略も、彼の中からは完全に吹き飛んでいた。 激烈な殺人衝動のみが拳闘家の内部を満たしていた。 憤怒と言ったぐらいではおっつかない、昏く、おどろおどろしいモノが双拳に凄まじい速さと恐るべき力を与え、憎悪が表情を歪めていた。 “まな板面”も、“クソソプラノ”も、“ほほ笑みカス”も、“イワガキ小僧”も、これまで他人には言えないモノを、言いたくないようなモノを数多く目にしてきた。 食事中に思い出したらメシが食えなくなるような、クソロクでもないシロモノをだ。 しかし…… これは、こんなモノは初めてだった。 ヒトにこんな声が出せるとは知らなかった。 ヒトの顔がこれほどまで醜く、そして恐ろしいかたちに歪むのは、夢でも見たことがなかった。 技より、迅さより、ノーザン人の貴族鉦官が浮かべている表情の方が彼らには遥かに恐ろしかった。 指揮官に一体何が起きたのか、あのサザン人は一体何を、どんなことを囁いたのか、彼らはそのことをいぶかしんだ。 「元気が出てきたな。ケッコーケッコー。素早く動こうとする努力も確かに払ってるような気がしなくもないフゼーってモンが感じれる雰囲気がウジのクソ程度はあるぞ、テリヤ小僧。『ゆっくりだけどキレイ』より『マズくても速く』。軍事の鉄則だ。だがな、物事には限度ってぇモンがあるぞ。目ン玉ぁ引ん剥いて、もっとちゃんと周りを見ろ! 速く動くことから正確に狙いを付けることにチョッとだけ意識を向けろ!! 明後日どころか、し明後日の方角に向かってヤワい乳歯をピチャピチャ咬み鳴らす音を出してたところで、敵はビビってすらくれねぇぞ」 鬼気迫る怒涛の連撃を“南部の人喰い熊”は易々と回避していた。 そして悪口雑言垂れまくる。 鼻歌でも歌いそうな相手の雰囲気に、クラスホイの攻撃はさらに激しさを増していった。 届くはずがない超長距離からでも着弾するロングパンチ。 撃てるわけがない超至近距離からでも放てる、切れ味抜群のフック(それからエルボー)。 足首を刈りにいく超低空のスウィングブロー(そしてアッパー、ローブローへの応用変化)。 絶妙のフェイントを織り交ぜて繰り出される神妙のコンビネーション。 近代体育の粋とは決して自惚れなどではない。 第二分隊の面々はそう認めざるを得なかった。 第二分隊指揮官の徒手格闘戦技能、白兵戦能力は確かに超一流の域にまで達している。 中尉殿は自分たちより遥か上の領域におられる、と。 であるにも関わらず―― 全局面対応型撃拳術は延々空を舐め続けた。 凄まじい速さで襲来するクラスホイの拳を、サザン人は余裕で『見』切り、紙一重でかわし、クソ垂れて止まない。 回避行動は滑らかで、危なっかしいところは絶無。 かすっただけでも命取りに繋がる脅威の拳を、いとも容易くかわし続ける。 分隊員たちには二人が踊りでも舞ってるように見えた。 両者の実力に開きが有り過ぎるために起こった錯覚だ。 だからその踊りの相方に――凄まじい形相を浮かべ激しい攻撃を続けるクラスホイの動きに変化が起きていたことに、彼らは全く気付けなかった。 「ドタマの「ワル」い仔犬の「ワル」ツはもう終わりか? それともわしの年齢を気にしてんのか? 敬老精神は娑婆じゃ美徳だが、戦場じゃ命取りだぞ、テリヤ小僧、特にお前にゃあな。慈悲やらマナーやら「スポーツマンボート」とかいったモンは、小型トランクに放り込んでカギでも掛けとけ」 眼前でその動きを停止させたヤナチェク・クラスホイに“南部の人喰い熊”は忠告を寄越す。 それまでと何ら変わらぬ余裕の笑み、綽綽たる態度ではあるが、それまでとは違ってる点が一つあった。 リング中央からほとんど動かずにいたサザン人は今コーナーポストを背負っている。 いや、全局面対応型撃拳術が“南部の人喰い熊”にコーナーを背負わせたのだ。 拳士生命を犠牲にする無理な戦術機動を何度も駆使した戦果だった。 第二分隊員たちは指揮官の巧妙な戦術に素直に驚嘆していた。 だが、面には出してはいないが、クラスホイの全身は悲鳴を上げている。 敵を追い詰めたものの、全局面対応型撃拳術にも余裕は無い。 しかし…… (勝つ方法が無いわけではない、決して) 自惚れや希望的観測ではなく、クラスホイには自信が、そして法があった。 裏をかく方法なら、付け入れる隙なら充分ある、と。 (血の泡吹かせてやる、“南部の人喰い熊”。貴様には後悔する時間も与えん) 全局面対応型撃拳術はその場で二、三度軽く跳躍し、口を開いた。 「いまから私は貴様の顔面に右ストレートを叩き込む。真正面からな」 右掌を顔のまえにかざし、力強く拳を握りこんでみせるこちらに、“南部の人喰い熊”は、「このバカ、ナニ言ってんだ」とでも言いたげに、首を傾げた。 リング外からも戸惑いの声が漏れるのが聞こえる。 「ハッタリだと思うか、曹長? この局面で今さらストレートなどという陳腐な、初歩的な技など使うわけが無い。揺さ振りを掛けにきていると」 拳を下ろすと、右足を退き、背筋を真っ直ぐ伸ばす。 爪先から脳天に向かって激痛が走り、思わず顔が引き攣りそうになった。 (……あと少し、回復を図る必要がある) 全身を包みこんでいる重さとダルさ、熱と痛みをそう診断する。 それに相手を良い気分のままにさせておくのは決して損にはならない。 「貴様を揺さ振りたいという気持ちなら実際あるぞ、曹長、大いにな。我々はみな貴様を侮っていた、いや、侮り過ぎていた。まさかその年齢になっても、まだあれほどの反射と身体能力とを保ち続けてきた男がいるとはな。実際、我が身で以って試したことながらも、まだ信じられん。本当に恐ろしい男だ、“南部の人喰い熊”。陸戦隊最強と謳われ続けてきたのも、今なら頷ける。だが……」 一端そこで言葉を切り、含み笑いを漏らす。 「だが、それでも揺さ振りを掛ける必要は無いのだ、曹長。貴様には、いや、誰であれこの状況でこの技を、本物のストレートをかわす事は出来ん」 笑みを浮かべ、本命の一打を放つ。 「この世には有るのだ。来ると判っていても、起動と軌道が見えても、読めても、絶対に避けられない攻撃がな。今からそれを教えてやる、ライオット・ワーブ」 両の拳を軽く握り、正中線の前に。左の爪先を肉体の内側に向けてやや前傾姿勢、アップライトに構える。 但し…… これまでの様に全身を小刻みに揺する事はしない。 それは不要なだけではなく、こちらの不利になる。 こちらの言葉に(そして恐らくは態勢や状態にも)“南部の人喰い熊”は目を丸くした(様だった)。 そして「フッ」と鼻で笑う。 「一番最初に言っただろう、テリヤ小僧。何でも好き勝手自由にやれ、と。ビョーキがドタマにまで回っちまってて、そんな昔のこたぁ、憶えてねぇか? まあ、良い。もっぺん言ってやる。わしは手も足も出さんし、シッポもマラも動かさん。チワワ小僧の最善とやらを尽くせ、気が済むようにな」 構えた状態からそのまま――フェイントも掛けず、バカ正直に――殴り掛かることは、相手に逃げるタイミングを教えているに等しい。 だから拳闘士(その場合は格闘士もだが)は小刻みに身体を揺すって攻撃の起動をその中に隠す。 通常は有効な、と言うより絶対必須の偽装だが、このサザン人にはまったく通じていない。 “南部の人喰い熊”は本物の起動だけを精確に察知し、必要最小限の機動で攻撃を回避していた。 まったくどうやって察知してるのかは本当に謎だが、攻撃が当たらない理由なら解る。 これまで潜り抜けてきた戦いのなかで、敵の攻撃手段や速さ、そしてその火制域を割り出す能力が常識では考えられないレベルにまで研ぎ澄まされてきたのだ。 それで割り出された予想危険域のギリギリ外に身を置いている……と言うよりも、置けるよう機動を開始している。 たとえ紙一枚分の厚さでも、攻撃が外れてしまえば効果は無い。 それは純然たる、絶対的な事実だ。 (この男は自分の見切りに絶対的自信を抱いている) ここまでの状況からクラスホイはそう断定していた。 ゆえにこう結論付けていた。 わずかなモノで構わないから、その自信にヒビを入れてやれば良いと。 油断しきっている“南部の人喰い熊”にとにかく一発お見舞いしてやれば、後は「火竹」の勢いで攻略できる。 この、「火竹」の勢い、も例の同僚が情報源だ。 これは多分、節抜きされてない竹が火にくべられ、膨張し炸裂する様でも見て、ごっちゃになったのではあるまいかと思われる……恐らく……。 もちろん、正しいのは『破竹』の勢い。 一節分の裂け目を入れられた竹は(僅かな力を入れただけで)あっと言う間に端まで破れる、押し留めることはできない……とまあ、それほどの勢いが付いてることを示す慣用句表現だ。 紙一重の距離を詰めて、巻き返しの一打を当てる。 それを可能にする拳技、いや『体技』がヤナチェク・クラスホイには有った。 ここまで温存してきた『妙技』が。 それを活かすための布石も打ってきた。 最後の瞬間“南部の人喰い熊”は有らん限りの醜態を晒すだろう。 血塗れの顔に一面の恐怖を浮かべ、無様な命乞いをしようとするはずだ……まだ息が有れば。 ――想定外の事態にヒトは脆さを露呈する。―― 五年前、ヤナチェク・クラスホイがその心魂に徹して思い知らされた事実だ。 全局面対応型撃拳術は拳を構え、心を落ち着け、心身のうねりと戦機の波とが同調し交錯する瞬間を、ただ静かに待っていた。 分隊指揮官には相手を必殺する自信と法があったが、分隊員どもは違った。 上官に対する評価を大幅に――ほぼ百八十度近くまで――改めてはいたが、この状況で彼がこの無礼不躾不気味極まりないサザン人に一発を食らわせられるとは考えていなかった。 全員、中尉殿の拳は相手に――僅かだが、絶対に――届かないと見ていた。 今はギリギリ届く距離にいるが、弾着ギリギリ間際になるとこの相手はギリギリの回避運動で着弾を避ける。 この戦いの最中彼らが何度も目撃し、そしてその都度ギリギリと歯噛みさせられてきたことだ。 彼らも徒手格闘のプロだ。 だからここに集められている。 人格と言行に問題はあっても、近接戦での間合いの読み違えなどは絶対にしない。 背後をコーナーに遮られ、左右をロープに阻まれていても、あのサザン人には三方何れにも拳一個分動ける余地が残されている。 それはあの男には無限にも等しい距離のはずだ。 その事は中尉殿も、いや中尉殿ご自身、一番良く理解されておられるはずだ。 しかし全局面対応型撃拳術には間合いを縮めようという意志は見受けられない。 飽くまでも今の位置、今の距離、今の態勢、今の技法で攻撃する、相手を仕留められる積りだ。 これら全てにどんな意図があるのか。 一体如何なる戦術が用いられるのか。 それはあのサザン人に、“南部の人喰い熊”にも通じるモノなのか。 同業者として純然たる興味が募った。 全員が固唾を呑んで見守るなか、リングの上にゆっくりと潮合いが満ちてきた。 機が満ちた。 脳がそう認識したときには、ヤナチェク・クラスホイの肉体は既に弦を切っていた。 ――これまで良くできたロングパンチは目にしていても!―― 軸足が地面を蹴り、送り足がその力を受け止め前へと、拳へと送り出す。 肉体が先刻までより全然軽い。 充分な回復を図れたことがはっきり判った。 ――『その先』は知るまい、“南部の人喰い熊”!!―― 脳内物質が大量に分泌され、知覚が引き延ばされていた。 腰を捩じりながら肩を振った辺りで、敵が(ようやく)回避運動に入ろうとし始めるのが見えた。 だがこちらの拳は既に標的目掛けて弾き出されている! 予想通りに! 相手の動きよりもはやく! ――本物の、本当のストレートは!!!―― 全局面対応型撃拳術は勝利を確信した。 (なんだ? なにが起きた? なぜ『そこに』明かりがある?) 「肩は……」 “南部の人喰い熊”の声が足元から聞こえた。 そちらに目を向けると、相手は極端な前傾姿勢を採っている。 左大腿部は胸元まで引き付けられ、右膝は床にこすりそうだった。 頭頂部から右の踵へと至る線には僅かな乱れも見られない。 非常に不安定な姿勢の筈なのに、サザン人のかたちには巌の如き安定が感じられた。 目隠しをずらし、非常に真面目くさった顔で左肩をグリグリと回しながら、相手はこんなことをほざいてきた! 「前線豚の感覚じゃ手に肩は含まれちゃいねぇんだが、チワワ小僧の中じゃ、それとも『本物の死線』の先じゃ違うのか? 肩も前肢に含まれてんのか?」 幼稚園児並の言葉遊びでクラスホイの思考停止は解除された。 そして、ようやく、自分がリングに転がってることを認識する。 怒りも露わに無礼なド低脳生命体を睨みつけた。 しかし相手はそんなことなど意にも介さず言葉を続ける。 「良いか、チワワ小僧。パパとママの愛情が足りなかったボンクラでも、「いやらしくも」軍人を名乗るなら絶対にしちゃいけねぇって行動が戦場にゃあ三つある。一つは敵が掲げた交戦規定をアホ正直に信じ込んで警戒を怠ること。そして一つはこれから自分が採る積りでいる戦術行動を敵の前で堂々とワメキ散らすことだ。敵を見たら卑怯者のクソ野郎と思え。クソ野郎に勝ちたきゃ、そのクソ野郎をさらに上まわる最低のクズ野郎になれ。それが戦場の常識だ。ケットーショ付きのタネ犬やオギョーギの良いハタケ犬探すのにクソ忙しくて、んなことすらベンキョーしてこなかったのか、ええ?」 サザン人は直立し、莫迦にしきった眼をクラスホイに注ぐ。 そして目隠しを外してズボンに戻した。 最初の時と同じだった。 自分が何をどうされたか、ヤナチェク・クラスホイはまったく解らなかった。 状況は全て想定していた通りに進行していた。 右拳は確かに、一瞬だったが、一度はこの無礼なサザン人の、“南部の人喰い熊”の顔面を真正面で捉えたのだ。 ――幽かだが、確かに手応えと体温を拳に感じたのを覚えている。 陸戦隊最強の男を、大陸でも五本の指に入るであろう徒手格闘家をこの手で、この拳で、打倒したのだという満足感が心のどこかで湧き起こった。 だがその想いは全身を満たすまえに忽然と消滅する。 拳に伝わってきてた手応えが勃然と霧散したのだ。 それがどういうことかを理解するヒマも、驚愕する余裕すら無く、様々な事が一度に勃発した(ように思う)。 ――手応えを失ったためにバランスを失った(これは比較的確かだと考えられる)。 ――足を踏み出すことすらできずにつんのめった(気がする)。 ――そして直後に、胸元辺りに衝撃を覚えた(こちらの方がつんのめるのより早かったかも知れない)。 ――まだ知覚が引き延ばされていたのか、気のせいか、視界に映る天地がひっくり返るのは随分ゆっくりだった(のではなかったろうか。解らない)。 覚えてる……ように思える……………気がするのはそれだけだ。 それ以外のことは全く解らず、相手から声を掛けられるまで(後で部下に確認したところ、(多分)四、五秒ぐらいとのことだった)、ヤナチェク・クラスホイはリングに転がっていた。 リングに転がり、ただ呆然と天井を眺めていた。 「わしは新しい閃きなんざクソこれっぽっちも得られんかったが……」 そろそろと上体を起こしかけたとき、“南部の人喰い熊”がそんなことを呟く。 「クソ一体どこの穴で吹き込まれたヨタだ、チワワ小僧。その温「古」知新とかいうファッキン・デマは?」 (なんだ? 何の話をしている?) 怪訝さが面に出たのだろう、相手は軽く溜め息を吐き、無造作に拳を構えた。 ヤナチェク・クラスホイは自分の目を疑った。 リングの外からも息を呑む声が上がる。 “南部の人喰い熊”が見せた構えは、先ほどクラスホイが採った構えとまったく同じかたちをしていた。 現在最高のストレートを撃つための、ただその為だけにつけた構え。 しかしクラスホイが驚がくしたのは構えそれ自体ではない。 ほんの少しだが相手の視線の角度と間合いにはズレがある。 “南部の人喰い熊”は仮想敵との軸をわずかだがズラしていた。 分隊員たちは気づかなかったが、全局面対応型撃拳術はそれを看て取った。 “南部の人喰い熊”は「実際の現場じゃ、何の役にも立たんクソ手管だが」と前置きして語りだす。 「交戦中に敵との軸を、勘付かれないギリギリの範囲で、斜め後ろにズレた所に陣取り……」 そう言って肘を――これもクラスホイ以外には解らないぐらいに――僅かに曲げて、ビュッと右拳を突き出す。 「ファックする時にも腕をこれまたス、ス、スズメ! そう、スズメの涙ぐらい曲げたまんまで、クソ思い切り、相手をナデ続けてやることでニセの間合いを、クソ二重に、覚えこませる。その間合いを印象付けれたらズラしてた軸を戻し、今度ぁ腕もクソ本当に伸ばしきることで油断してるアホの鼻っぱしらを完璧に、ヒトとしてクソこれ以上のモンは望めねぇってぐらい、クソ完っ璧にファックできる」 相手の講義にヤナチェク・クラスホイは呆気に取られた。 その内容に誤りは一つもない。 全局面対応型撃拳術は“南部の人喰い熊”をコーナーへと追い詰めていく過程で、いま相手が言った通りの手管を使用し、ニセの間合いを印象付けるという作業を行なっていた。 しかし―― (それがなぜ貴様に解った!? 視界は制限され、周囲の状況が完全には確認できんのに! いや。貴様の言う通り、こんな実際の現場では使ってる余裕など、それこそ、ウジのクソほどもない、何の役にも立たん代物を貴様が、貴様のような男が、なぜ、熟知してる?!!) ヤナチェク・クラスホイは心中嗟嘆した。 もともとこれは彼が軍全般で可及的速やかに名を挙げるため、戦技競技会等での使用だけを念頭に置いて学んだ……具体的に言うと、大枚はたいてプロボクシングの世界ランカーから密かに購入した技だ。 今日のような状況を想定し、身に着けていた術ではない。 そもそも、こんな有り得ない状況――リング上で、陸戦隊最強との呼び声高き万州戦争の英雄と、ハンディキャップドマッチを行なう――など想定できる訳がない。 (傾向も解らずに、なぜ対策が立てられる?! 素質や才能だけで乗り切れるほど現代の個人戦闘は、甘いものではないんだぞ!!) ノーザン人拳闘家の心中の嘆きを余所に、サザン人下士官は講義を続ける。 「この本気でナデる場合、上体を限界までヒネることで肩幅分、まあ大体ゲンコツ一個ぐらいの距離だな、ヒネり出せる。そして、センテンセーコーテンセーを問わず、こんな風に……」 「げっ」という声(その低さと野太さからみて、オズワルド・グリッペン以外は考えられない)があがった。 「腰をヒネれる範囲がデカけりゃ、更にゲンコツもう一個分ぐらいの距離を稼げる場合もある。あとは不意打たれて向うがボケてるうちに、トドメ差してやるだけだ」 “南部の人喰い熊”はクニャリと腰を捩じっていた。 顔と爪先は真っ直ぐ正面に向けたまま、上半身を左右に約百六十度ずつ二、三回、捻ってみせた。 平然とした表情でその態勢を維持さえしてみせたのだ。 『それ』は――医学的にみてもかなり稀な症例である――自分にしかできない『体技』のハズだった。 “南部の人喰い熊”に攻撃の起動を先読みされた場合の保険になるハズだった。 土壇場で投入される最後の予備兵力。間一髪先に回避行動に入られても、最後の瞬間、紙一重で追い付ける制圧の切り札になってくれるハズだった。 手応えがいきなり消えた理由をクラスホイは理解した。 自分だけのモノと信じていた優位は完全にツブされた。 「もしかして、近頃のクソどもはこの程度の腰捌きもできねぇのか? ひょっとして、チワワ小僧はこんな腰つきができるって以外にゃ芸らしい芸もねぇってのか? まさかクソ古いだけじゃなく、こんなクソ「きたない」腰つかい一丁で、「ハリガネ入りの」前線豚をイかせれると、クソ本っ気で信じてやがったのか?」 “南部の人喰い熊”は瞑目し、深い溜息を――とてもとても深い溜息を――吐いた。 「ひとつ教えてくれるか、チワワ小僧」 顔を反らせ気味にした相手から送られてきたのは、虫でも見るような眼差しだった。 「ノーザン人って生き物は、一体何時んなりゃ口ゲンカ以外のケンカのクソ手管を真剣に工夫しようって気になるんだ? 千億年先か? 百億万年先か? この世の終りまでそんな日は来ねぇか? この世の終わりは来ても、そんな日が来ることはねぇのか? あ?」 第二分隊員達はリング下で恐怖に身を震わせていた。 瞬き一つせず観察してたにもかかわらず、自分たちでは見抜けなかったことを、このサザン人はいとも容易く看破した。 そればかりか打破してさえのけた。 目も塞いだまま、『手』すら使わずに。 こんな有り得ない、信じられない状況は初めてだった。 戦場では予想外のことが当たり前とは言え、自分たちが培ってきた常識や経験がここまで通用しないなどということは今まで一度も無かった。 なぜこの男が伝説と呼ばれるのか。 優秀な人員なら、彼らが一目も二目も置く非常に優秀な人材は少なからず軍には在籍しているにも関わらず、なぜ盛りの過ぎてるこのサザン人の小男がいまだに陸戦隊最強と呼ばれているのか。 第二分隊はその理由を理解した、いや―― 理解できたと、思っていた……。 時計の針は一八五〇時を指していた。 |
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