ぱすてるチャイム
Another Season One More Time
菊と刀


31
are you men enough to fight with me, YOU BITCHES?--Round Three



作:ティースプン





戦術を見抜かれ、拳技を破られ、そして特異体質という才能までも無力化され、全局面対応型撃拳術は白旗を揚げたか。
そそくさとリングを降りて次の選手に場所を譲ったかと言うと、もちろん違う。
ヤナチェク・クラスホイは軍人であり、それ以上に復讐的ノーザン人だ。
目的も果たさず現場を放棄することは許されないし、やられっ放しのままスゴスゴと退散するなど有り得ない。
そして彼の中では、このサザン人を断罪せずにはおかぬ、との動機ができあがっていた。
何より――

ヤナチェク・キリーロヴィッチには夢がある。
最高の格闘技を完成させる。
如何なる武装、如何なる人数、如何なる地形条件下でも確実に、そして完璧かつ完全に機能する徒手格闘システムを作り上げる。
それによって自らの優秀さを上層部に示すこと。
それがこのノーザン人鉦官の悲願だ。
ここで退くことはその夢を泥土に委ねるより尚悪い。

(『たかが』陸戦隊最強『ごときも』打倒できずして、何の為の格闘技! 何が全局面対応型撃拳術!)
無謀と罵られようが、引き際の悪さを哂われようが、クラスホイに退く気は微塵も、ウジのクソほども無かった。
手が有り、足が動き、敵を識別でき、心臓まで機能してる以上、撤退など絶対に、絶対に、クソ論外だった。
しかし……

「な……に」
立ち上がって双拳を構えようとしたとき、心臓が激しい異常を訴えてきた。
思わずよろめき、左胸に右手を当てる。
その顔に血の気は無く、酷く歪み、一面に脂汗が滲みだしていた。
まるで……


「『まるでシンゾーをワシ掴みにされてるみたいだ』か?」


“南部の人喰い熊”に思考を看破されてクラスホイはギョッとする。
比喩でなく、本当に誰かに心臓を鷲づかみにでもされてるような感じがずっと続いていた。
軽い小走り程度でも心臓が付いてこれない予感がある。
すぐ息が上がり、足がもつれ、転倒してしまうだろう。
どんなに軽い戦術機動も不可能だと判断せざるを得なかった。


「六五年から三年間、戦技競技会白兵戦部門、全試合一ラウンド一分三十秒以内にレフェリーストップで、ハエある三連覇を果たしたチャンピョン、南西方面戦隊の「ガリョウビンガ」、“荒野のアラ『ワシ』”がシンゾー『ワシ』掴み。ファッキン・ジョークとしちゃマズマズだな」
詰らなさそうな古参兵のつぶやきにハッとなる。
戦技競技会で三連覇したことは教えたが、戦績のことはしゃべってない。
周りからどんなあだ名で呼ばれているかなど、これまで自分では口にした事すらない。
つまり……

(この私相手に「琵琶」を弾いて、ほくそ笑んでやがったということかっ!!)
最初から馬鹿にされていたこと、そしてそれに気付かなかったという屈辱にクラスホイの全身はワナワナ震え、歯がキリキリ軋んだ。


……「琵琶」を弾く、も例の同僚(以下略)。
正しいのは『三味線』、意味は適当に調子を合わせて誤魔化す、だ。


「貴様っ!! 一体、なにをしたぁっ?!」
象も殺せそうなほどの殺気を視線に込めてベルビア王国陸軍南西方面戦隊の『臥竜鳳雛』、“荒野の荒鷲”、全局面対応型撃拳術ヤナチェク・クラスホイは“南部の人喰い熊”を睨みつける。
その煽りを受けて、純粋真率の殺気の余波にあてられて、リング外の分隊員たちは身をすくませた。

「一日に二度もクソ寝言垂れる愚かマラがいやがるとは、世の中がそんだけ平和になったってことか? それとも平和なのは『本物の死線』越えたさきだけか? あ?」
この回答にクラスホイの歯がバキバキと鳴った。


(どういうことなんだ、これは、一体……)
いささか以上に逆上気味ではあったものの、クラスホイは心の片隅に冷静さを(少しは)残せていた。
そして状況確認と自問を行っていた。

確かにこの男からは一発もらった、そのように判断せざるをえない。
互いの身長と位置関係から推測すると、まさに心臓の真上辺りだ。
だが絶対に心臓打ち(ハートブレイクショット)ではない。
体勢が崩れたところにカウンターで『触られた』だけだ(多分)。
それも相手の言うように肩で(恐らく)。
痛みと呼べるものはまったく無いし、無かったし(きっと)、効果も全然違う。

――これはクラスホイも持っているから判るのだが、心臓打ちの効果は相手の動きを一瞬停める、もしくは心臓のリズムを狂わせて不整脈を起こし、結果、死に至らしめるの二つだ。
ここまでの状態異常など起こしたくても起こせないし、これほど持続時間のある技では決してない。
少なくともクラスホイには不可能だし、最新の医学知識ではこんなことは絶対にありえない。

なにをどうされて自分はこの状態にあるのか。
どれだけ頭を捻っても全局面対応型撃拳術には解らなかった。

豪胆な第二分隊員でさえ顔を背けるほどの殺気を照射されても、ライオット・ワーブは平然としていた。
ふてぶてしいまでに余裕の、嘲りの笑みを浮かべ、悠然とコーナーサイドへ足を運ぶ。
ロープに手を載せてからクラスホイを顧みた。

「芸どころか、しつけもクソロクになってねぇチワワ小僧に常識を、それも前線豚のクソ常識を求めるってこと自体クソ不可能だと気付いとくべきだったな、まったく。しょうがねぇ。もうチョッとだけ、『本物の死線』とやらの向こう側ルールに合わせてやる。だからヨダレ繰りの口は閉じて、キャンキャン喚くなぁ止めろ、ボンクラ。年寄りの神経に障る」
嘆くが如き口調でそうほざいた途端、サザン人の姿が掻き消えた!

いや、消えたのではない、ただリングから飛び下りただけだ。
――しかしクラスホイの眼には、本当に相手が瞬間移動したようにしか映らなかった。
キャンバスの擦れる音はおろか、リングのたわみすら足裏は感知してない。
分隊員たちも同じだ。
このサザン人が飛び下りようとする瞬間を視認できた者は一人もいない。
気が付いたら“南部の人喰い熊”は床に立っていた。
軍屈指の、大陸でも有数の格闘スペシャリストが五人も揃っていながら、誰一人相手の動きを補足出来なかった。
先ほどから目を皿のように見開き、全神経を集中させて相手の一挙手一投足を追っていたのに……。

(((((一体どうやってリングから飛び下りた?)))))
彼らはそのことばかりを考えていた。
それ以外のことを、そこから先を考えることはできなかった。
衝撃が大き過ぎたからでも、好奇心を優先させたからでもない。
単純な恐怖からだ。
すでに彼らの直感はその先とそれに続く答えとを見つけ出し、本能が思考を禁じていた。

戦士の本能が探り当てていたその答えは、まったく愉快なものではなかった。


「チョロまかした痛み止めのヤリ過ぎで、ピンクのゾウでも見えてんのか、汚れスキンども?」


その声に意識を現実に戻すと、サザン人はウォーターサンドバッグの前に立ち、彼らのほうに顔を向けていた。
三つあるうちの真中、先ほどまでクラスホイが叩いてたものだ。
そこでバカにした表情を浮かべ、頭の上で人差し指をクルクル回していた。
思わず第二分隊の頭に血がカッと上る。

「クソちゃんと起きてるか、“イワガキ小僧”? さっきから随分とクソ大人しいが、どうした、“ほほ笑みカス”? 普段はクソ休み無くベラベラとクソマワしてるクソベロは、今日はもう店じまいか? 上官のマラをナメるみてぇに、メガネもキレイキレイ舐りまわしてあるか、“クソソプラノ”? 無理ななぁ判ってても、レーギ上、クソ見ようって努力のマネぐらいするモンだぞ、“まな板面”。お前らみてぇなチンピラ崩れじゃ、一生に一度見れりゃクソ御の字ってぇシロモンだ。良いな、行くぞ」
サザン人は向きを変え、ウォーターバッグを叩いた。

構えも何もない。
気合も掛け声も発さず、軽く握った拳で、ただ『ポソッ』と、ウォーターバッグを小突いた。
いや、突くとか撃つとか言うよりも、ノックしたというのが相応しい(彼らの目には本当にそうとしか見えなかった)。
向かいの壁一面に貼られてる鏡にも、サザン人がそれ以外に何か特別なことをしたところは映っていなかった。

そしてサザン人は直ぐ振り返り、リングのほうにスタスタと歩きだす。
ウォーターサンドバッグに異常は、変化は見られない。
ただ呆然と相手の動きを目で追っていた第二分隊のなかに「担がれた」、「一杯食わされた」との認識が湧いたときだった。


『バシャッ!』という水音が部屋中に響き渡る。


音のした方へ目を向けると、サザン人の『ノックした』ウォーターサンドバッグが完全にしぼみきっていた。
所在無さげにフラフラと揺れてるその下には大きな水溜りができている。

ウォーターバッグの底が弾け、中身が全部床に流れ尽くしていた。


「『なぜガンジョーなウォーターサンドバッグが弾ける? 渾身の力を振り絞ったクソ一撃ではなく、目の高さをかるく撫でただけで、なぜ袋の底を抜くことができる!? このサザン人のクソ老いぼれは、クソ一体、どんなクソ呪術を使いやがった?!』……クソカワイソウなぐらいクソ中味のクソ足りねぇクソドタマをクソ痛めてんのはそんな辺りか、スキン小僧ども?」

図星を刺された第二はギョッとした顔を声のした方へ向ける。
サザン人はリングにもたれかかっていた。
リング基部に背中を預け、手はポケット、顔には嘲りのニヤニヤ笑いを浮かべ、分隊員たちを眺めていた。

「昔……」
そこで言葉を切ると、思い入れたっぷりに「フッ」と含み笑いを漏らす。
天井を見上げ、遠い目をした。
「昔、わしが今よりもまだずっと若かった頃だ。少し、憶えたことがあってな。カマした部分にはシミを付けず、防御の厚さ硬さ、薄さヤワさには関わりなく、内側にのみダメージを与える。Eastern-Classical-Arts、FATAL INVITER、“Spoon Crush”。キャンキャンうるさいチワワ小僧にゃ、手じゃなく肩を使ったが」
そう言ってサザン人はグルグル肩を回す。
「基本は同じだ。まずは手。かわされりゃ肘。そいつも避けられたら肩。それまで当たらねぇ時ゃ背中を当てる。敵は死ぬ。まあ、今回はクソ思い切り手加減してやったからな、死んだりゃしねぇ。当分の間、チワワ小僧は庭駆け回れるだけの犬力が出ねぇだけだ」
サザン人はそう言いながら『口にした部位に拠る技を』繰りだしてみせた。

第二分隊はそれを見て(、、、、、)全員ゾッとする。

技が速いだとか、技がキレるだとか、流麗で重厚な動きだとか、付け入る隙が無いとかいう話ではない(それ以前の問題)。
それらは確かに戦術的に脅威だが、戦況としては怖くない(それ程は)。
たまに聞く話だし、見たこともあるし、理解も容易だ。
しかし――

(((((技は見えて、 そこまでの動きがまったく見えない(、、、、、、、、、、、、、、、、) のはどういう事だ?!)))))
第二分隊は心中ワメいた。

拳打、肘斬、肩撃、背靠。
技それ自体ははっきり見た。
これ以上は望むべくもないというぐらい、しっかりと。
その威力も、当たれば死ぬというその威の恐るべきも、ひしひしと伝わってきた。
だが……

その技を出すまでの動き、技から技へ移るあいだの流れは何一つ、影さえ、残像さえ、彼らの眼に映らなかった。

(リングからいつ背中を剥がした?)
ヤナチェク・クラスホイはそう自問した。
(いつポケットから手を出した? 立つ前か? 後か?)
“クソソプラノ”は心中そう呻いた。
(手を抜いたとき拳は作られてたか? いなかったか? どっちだ?) 
“ほほ笑みカス”は手元に目を落としては顔を上げ、顔を上げては目を落とすを繰り返し、視力確認を行なっていた。
(どうやって肘をたたんだ?)(どんな風に踏み込んだ! 一体いつ肩を突き出した!)
“イワガキ小僧”は首を傾げ、“まな板面”は頭を捻る。
((どの段階で反対の手が外に!? そして後ろにいつ回した?!))(((いつ腰を捻って、足をいつ送って、自然体に戻ったのはいつで、どうやってだ!?!)))

こんな不気味なことを目にする(、、、、)のは生まれて初めてだった。
ここまでワケの解らないモノなど、誰もこれまで見たことがない(、、、、、、、)
身長や体重でどれだけ優位を占めていたところで、気休めにもならない。
起動も軌道も機動も判らない、見えないのでは、勝負にならない。
ようやく――彼らの思考は直感に追いつく。

(((((この男の攻撃から身を守ることなど、どうやっても不可能だ!!!!!!!!!!)))))


「そのツラ付きからすると、わしの言う事を疑ってるな」

その言葉に分隊員たちが意識をビクッと現実に戻すと、サザン人は不快そうな表情を浮かべていた。
そしてこう続けた。
この老いぼれサザン人は密かに刃物を隠し持っていて、それで切り込みを入れやがったのではないか。
あるいは水風船の底に小型の『爆竹』や、『花火』でも貼り付けやがったのではあるまいかと。
その言葉に第二分隊はさらに表情を強ばらせる。

彼らはまさにそう考えていた、と言うより、そう願っていた。
せめてそれ位は、それだけでもそうあって欲しかったのだ。
相手の機嫌を損ねまいと、何とかこの場を取り繕おうとは思うものの、呻き声一つ上げられない。
そんな第二分隊員に、しかし、サザン人からは愉快げな哄笑が上がった。

「良いぞ、クズども。まだクソ見込みはありそうだ、脱水症状起こしてるスズメの涙ぐらいは、まだな。わしが垂れたクソを、そのまま、バカ素直に丸呑みしちまうほどのアホがこの場にいやがったら、どうしてやろうかと思ってたが、流石にそこまでのマラ頭は居ないらしい。そうだ。見せられたもの、聞かされたこと全てをクソ正直に信じ込む。所属、人種、兵科、階級の別なく、「いやらしくも」クソ軍人なら、絶対採ってはならんクソ行動だ。戦場で未知なるクソに出くわしたとき、クソ軍人が真っ先にすべきなのぁそのクソにクソ疑いの眼を向けることだ。そしてクソ状況が許せば――まあ、んなこたぁ、クソ滅多か有りゃしねぇが――そのクソをこねくり回してクソ中味を確かめることだ。そうして掴んだクソ情報を、全てクソ本部に報告してやることだ。クソ感情をクソ交えずにな」

この言葉に“ほほ笑みカス”が、その場に居た全員を代表する形で、顔を(珍しく)強ばらせ、引きつった声を上げた。
「も、もし。その、もしも、だな、そのじょじょ、状況が、ゆ、ゆ、許さなかった場合は、い、一体どうす、れば?」と。
質問者を一瞥したサザン人の口から、何の感情もこもらぬ言葉がこぼれ出る。

「疑わしきに遭遇した場合、陸戦隊員が採るよう命じられてる戦術は一つしかなかったとわしは記憶してるが、それは記憶違いか、“ほほ笑みカス”? それともこれは、わしの『成長』が数段進行しただけか? あるいはカンヌ・フォードにわしが引っ込んでるあいだに、『本物の死線』を越えた先での適用が義務付けられた、新しい命令でも発令されたのか?」

ライオット・ワーブは正しい。
疑わしい状況に直面した場合、陸戦隊員が採れと命令されている行動は二つ、あることはある。
真っ先にすべきなのは、後方に連絡を入れ、上からの指示や専門家の判断を仰ぐことだ。
しかしこれまでにそうした環境下で、悠長に後方と情報をやり取りできた現場の職員など一人も、ただの、クソ一人も、居ない。
従って、実際に選択できるのは、クソたった一つの行動しか残されていない。
そしてこの場に居る全員はその一つを熟知している。
だからこそ今ここに居るのだ。


「で?」
少し間を置いたのち、サザン人がそんな言葉を発した。
「「「「で、で、で、『で?』とは?」」」」
「それで、そのクソ滅多かねぇクソ状況がクソ許したクソ状況にあるってのに、なにそこでアホ面並べて休んでやがる、アホンダラども。今、このサザン人が口で垂れたなぁ本当のクソか、ウソの皮か。この老いぼれがファックしやがったあの潮吹き女皇ジェーンは、本当にイッちまったのか、それともただイッたクソフリしてるだけか。それ確かめたくて確かめたくて、貧ソなムスコを膨らましてると見たのはわしの「ひがみ」か、ボケナスども?」
嘲笑を引っ込め、サザン人はさらに言葉を続けた。

「似合いもしねぇネコっ被りのサル芝居はクソ直ちに今直ぐクソやめろ、おフェラ豚ども。知能がクソ足りないお前らエテ公のお寒いカス偽装に気持ちよく引っ掛かってくれるなぁ、一年もチンポ日照りにハァハァ喘いでたメダマとドタマがクソ不自由なオカマのクソブサイクなクソ淫売だけだ、汚れスキン! ファックしにくだけのガッツも度胸もクソ道具も無いってんなら、クソ今すぐに片付るぞ、クソ臆病マラどもが!」

その一言で第二分隊員たちの思考停止は解除された。
水はねを上げて彼らはウォーターバッグの残骸に殺到する。
普段は不仲の“キンキン声”と“ほほ笑みカス”は仲良く肩と顔を寄せ合って、底の部分に刃物や爆発物が使われた痕跡が無いかを確かめ、“イワガキ小僧”はズボンが濡れるのも構わず水溜りに這いつくばって異物が無いか探り、“まな板面”はサザン人が叩いた辺りを中心にウォーターバッグ表面を舐めるように徹底的に撫で擦り調べまくった。
自分たちの手で相手を、このサザン人を打倒する唯一無二の拠り所、戦術的優位を守るのに彼らは必死だった。

だが――安心材料は一つも揚がらなかった。

刃物が使われた形跡はない。
ウォーターバッグは中から外に向かって弾けている。
内部をめくってもみたが、『爆弾』などで焼かれた痕はなく、臭いもしない。
大体誰も爆発音など聞いてないし、バッグ上部にある注入口には網(メッシュ)が張られている。
針やネジクギなど、先の尖った物が誤って入らないようにする為の措置だ。
『魔法の爆弾』はもちろん、一番小型の『爆竹』すら通らない細かさだし、注入口周りがいじられた形跡もない。
他の目立たない場所に穴を開けて塞いだのではとも考えたが、接着剤などが使用された痕跡も見当たらなかった。

そもそも――穴や破損箇所があれば、毎日欠かさず叩いてきた分隊指揮官が必ず気付くか、破くかしている、いや……。
サンドバッグをどうこうする以前に、この兵舎に侵入すること自体が不可能なのだ。
彼らは兵站部の係官からそう保証されていた。


第二分隊が教官室兼宿舎として使用しているこの仮設兵舎は、本来鐘官クラスの軍人や外部から視察に訪れたVIP用のもので、ベルビア陸軍が採用しているプレハブ施設のなかでも最高クラスのものだ。
最新の魔法複合素材が用いられ、魔法水洗トイレに魔法空調器はもちろん、魔法簡易調理室や魔法簡易シャワー室まで完備されており、魔法防犯対策も万全。
仮設兵舎とは思えない、快適且つ安全な居住性を実現している。
通気性が悪く窓も少ないために、真夏時は蒸し風呂状態になる射撃術科の最旧式簡易兵舎など比較にもならない。

また、付属の設備やオプション類も非常に充実している。
試合が行なわれていたリング、一隅に運び込まれている魔法ウォーキングマシーンやウェイトトレーニング用の機材一式、応接用のソファーにテーブル、そしてこの問題のウォーターサンドバッグもそう言ったものの一つだ。

外部から侵入があれば警報が鳴りだす。
そしてそれより先に鍛え抜かれた自分たち、戦士の五感が即座に反応する――如何にいぎたなく眠りこけてたとしても。

この一月近く、兵舎に異変など無かった。
彼らにはそう断言できた。
最新の魔法セキュリティに、“まな板面”が敷いた哨戒網、そして分隊員による監視の目。
それらのどれにも引っかかることなく、ここに忍び込める者など絶対に居ない、と。
しかし――

それはサザン人が使ったモノが、呪術でもなければインチキでもない、純粋な武技である事を逆説的に証明することに繋がる。

この期に及んでも――自分たちの遥か上を行っている分隊指揮官が無残な完敗を喫する一部始終を目撃しておきながらも――第二分隊員はまだライオット・ワーブに勝てる(見込みはある)と思っていた、思おうとしていた(この神経はスゴイ)。
戦術面で『多少の』遅れを取ってることは認めるが、自分たちの持つ優位を覆せるほどではない。
このサザン人は斃せる…………望みはある、と……。
第二分隊員たちはそう信じていた、信じたがっていたのだ。

だがその優位は完全に崩れた。
徹底的に、木っ端みじんに打ち砕かれた。
最後に残った希望が擂り潰されていく音を、彼らは確かに耳にしていた。


「イースタン人って連中は、そりゃ、クソ恐ろしい生き物だぞ」
分隊員のなかに広がっていく暗澹たる雰囲気を見抜いたかのように、サザン人は感慨深げに呟く。

「魔術や神術が他と目劣りするってなぁクソ事実だが、それ以外の兵科、料理や医療やファック。本能に直結した分野を任せりゃ、中々クソどうして、クソ滅多かねぇ掘り出しモンだ。中でも人体のコワし方。『生き物』のバラし方ほど、奴らがタンセー込めて研究してきたモンはねぇ。どこをどの位の弱さでファックすりゃ、相手はくたばるか。どこをどんな風にシゴいてやりゃ、手前ぇのフニャマラがいきり立つか。奴らはもう何百年以上も昔にその知識と技術を完成させてる。奴らがクソ丹念にシコシコ磨きヌイてきたイチモツに較べりゃ、いまの莫迦どもがクソ有り難がってる軍隊カクトーギなんざ」
言葉を切り、「ハッ」と嘲笑う。
「イヌのクソだ!」

サザン人は物凄まじい笑みを浮かべていた。
ヒトが持つ原始的な恐怖を呼び覚ます禍々しさに溢れかえった笑みだった。
人を人臭いとも思わぬ第二分隊員ですら、この男は恐いと思った。
胆が冷えるという言葉は決して比喩などではないことを、彼らは自身の肉体で、身体の奥深くで、経験していた。


「ちゃんと見たか、チワワ小僧? わしが何をしたか。はっきり解ったか? 納得したか? 満足できたか?」
ロープ際に立っていたクラスホイが気付くと、“南部の人喰い熊”はリングにもたれてこちらを見上げていた。
熱さも冷たさも感じられない視線だった。
感情の揺らぎと呼べそうなモノなど、まったく見付けられない、眼差しだった。

「あ、ああ。この目で見た。よく解った。眼福した。納得できた」
歯がカチカチと鳴るのだけは何とか抑えられたが、顔と声が強ばるのまではどうにもできなかった。

(改めて告げられるまでもない)
ヤナチェク・クラスホイは自分が敗北したという事実を痛いほど、嫌と言うほど、自覚していた。
ウォーターサンドバッグを破ったのがトリックか否かは重要ではない。
起動も機動も軌道も不明な、異常の技を持っていることも問題ではない。
その威力の大小に至ってはウジのクソほどの意味すら持ってはこない。
そんなことよりも前に“南部の人喰い熊”はこちらの攻撃を全て回避してみせているのだ。

(この男がその気なら、私は既に数え切れないほどの死を……いや。初弾で私はもう死んでいる!)
その現実は否定できなかった。
油断しただの、老体を気遣っただの、本気ではなかっただの、疲労が残っていただのと腐った言い逃れをする気はなかった。
自分の全身全霊は“南部の人喰い熊”を倒すまでには全然至らなかったという事実を彼は認めていた。
全局面対応型撃拳術が完全なる敗北を喫したという結果を、クラスホイは受け容れていたのだ。

「ケッコーだ。じゃあ……」

“南部の人喰い熊”がまたしても消えた。
消失とほぼ同時に「キシッ」という幽かな音を右の耳が拾う。
そちらへ、コーナーポストの方へと目を向けた時、視界の右端隅、リング中央に小さな背中が見えた。
身体ごとリング中央を向いたとき、相手と目がぶつかる。


「この状況を終わらすぞ。クソとっとと掛かって来い、チワワ小僧」


「な、に? ……貴様、いったい、一体、貴様、なにを言ってる? 状況? 終わらせる? 掛かって来……しょ、勝負ならもう既に着いてるだろう!! この勝負、完全に私の負け……」
ヤナチェク・クラスホイが狼狽した声を上げる。

第二分隊は誰もサザン人の言った意味を理解できなかった。
この男がリング外からリング中央まで一瞬で――それもポケットに手を入れたまま、だらしなくリング基部に完全にもたれきり、後頭部をマットに着けた態勢から一瞬で――移動を完了させたことに衝撃を受け、どうやればヒトにそんな化け物じみたマネができるのか激甚なまでの衝撃を受け、頭がまったく働いてなかった。
分隊指揮官に至っては混乱の極みにあった。

無茶な戦術機動を採りつづけた為に、クラスホイの全身は激しく痛み、傷み、疲労は限界を越えていた。
何より“Spoon Crush”とやらを受けたせいで、心臓は激しい不調を訴えている。
それは“南部の人喰い熊”が自分で言ったことだ、庭を走り回る力すら出せないと。
そもそも……

(続けて何になる? 貴様の方が強い事は、いや、貴様が陸戦隊最強であることは、この場の誰もが認めているんだぞ!)
ヤナチェク・クラスホイはそう叫ぼうとした、しかし……

「莫迦でも! 弱いヤツでも!!」
勝者の罵声は弱々しい敗者の異議申し立てを遮る。
「ケンカを始めれだけはする、今回のお前の様にだ、チワワ小僧。だがな、ケンカを終わらすかどうかは、強い方が決める。勝ってる方が決定権、主導権を持つ。弱いヤツではない、負けたヤツがでは断じてない。そんなことすら知らなかったのか?」

(ケ、ケンカでは! いや、ケンカでも戦争でも確かにそれはそうだが、しかし今は平時で、ここは軍隊で、リング上で、私は貴様よりも上級者なんだぞ!!)
そう声に出して言いたいのに、呼吸すらままならない。
クラスホイの顔は、比喩でなく本当に真っ青で、一面に冷や汗が浮かび、唇は紫色に変色までしていた。

(一番貴様がこちらが戦えない状況にあるのを知ってるだろう! これが一目誰だって芝居でないのは判れば、部下たちだって見てるんだぞ!!)
左手を太腿に当てた前屈みの態勢で、心臓に右手を置き、酸素を求めて必死に喘いでようやく息を繋げているというのが現状だ。
何かしようと必死になればなるほど、心臓の圧迫は強さを増すみたいだった。
絶対にこれ以上『試合』を続けられる状態ではない。

(確かに私から一線を売った! ケンカを越える及びにも振る舞った! それについては誠意する! あとで謝罪も示す!! だが、これ以上ないぐらい戦いがはっきり着いている白黒を、これ以上続ける意味的戦略がどこにある? 〜〜っ! 竜園寺閣下との繋がりが深いのに、「氷河」は水溜りでは「踊らない」という格言を聞いたことないのか、貴様は! 将来取り立てを利息する積りで、恩を売っておけば済む話だろう! なのに、なぜいま『それ以上』を求める?! この状況で私にこれ以上の払いを求めることは、貴様にとっても害にしかならんハズだろう!!)
ヤナチェク・キリーロヴィッチは狼狽しきっている。
恐怖で声が震えてるのがバレても、裏返った声を聞かれても、知能を疑われても構わないから、とにかくあらん限り大声でそう叫びたかった。


……言うまでもなく、「氷河(ry
構成要素の三分の二以上が明後日の方向にイッちまってて、突っ込み所が満載すぎと、突っ込めるレベルですら最早ねー。
とにかく、このアレなのの意味、心は……一流の『芸者』が最高のパフォーマンスをする為には最高の仲間(スタッフ)と、最高の舞台と、最高の道具に、そのパフォーマンスを理解できる一流の観客がなにより絶対に必要であり……。
そしてその為に、一流は最高の報酬と待遇とを要求する、要求する権利を持つ、だ。
……少なくとも、クラスホイはそういった意味だと聞かされたのだ。

確かにアレが踊る(テレビ版の話)ときの背景は水溜りじゃなく、その二つ名通り、吹き荒ぶブリザードが良く似合う氷原だったから、正しいのは正しいが……。
まあ、クラスホイとしては

「一流なら仕事を選べよ! 陸戦隊最強の格や品位を貶めるような莫迦な、恥知らずなマネなんかしてんじゃねーよ!」

と言いたかったのである。
諸事情によりコレの正解の発表は、今回の話のケツのほうに回させてもらう。


「誤解がないように言っておくがな」
注がれてくる白い目にはウジのクソほども拘泥することなく“南部の人喰い熊”はそう前置きし、平板な声で続けた。
「飽くまでもこれは断罪だ。と言っても、お前が殺す気で掛かってきてたことなんぞ、わしは気にも留めとらん。軍服(コレ)にケツを押し込んでる限り、どこに居ようが、二六時中、戦死の可能性が付きまとってくるのは話の前だ。最強の肩書きを寄こしやがれと、わしにクソ垂らしに来たはねっかえりも、お前らが最初じゃねぇ。今まで数え切れんぐらい居た。トイレのシツケもできてねぇ、下士官崩れのクソ漏らしに気付かなかったのも、ロックハースト(陸軍士官学校)「歯抜け」のボンボン鉦官じゃしょうがねぇと諦めてる。編成間も無い寄り合い所帯だ、そんなミスやヘマの一つ二つは愛嬌ってモンだ。そんなクソ当り前の、に、に、日常茶飯! 日常茶飯事に、一々目くじら立てるほど、わしのケツの穴は小さかねぇ」
そこで“南部の人喰い熊”は口調と眼差しとを優しいとさえ言えるものに変化させた。

「わしが目くじら立ててんのはなぁ、チワワ小僧、軍のクソ根幹をクソ揺るがすクソ問題についてだ。クソ大局的で、クソ単純で、クソ根深〜い、クソ問題にだ。つまり……」
そこで雷が落ちた。

「貴様がこの世で最も劣った、最っ下等の生命体であることについてだ! ウチの“ピンポン玉”に勝っても劣れない無能な働き者!! カエルのクソをかき集めたほどの値打すらありゃしねぇ、正真正銘の役立たず!!! 噛み捨てられたガム八十二キロ分!!!! 『笑かされて』当然の愚かマラ!!!!! つけれる薬も無けりゃ、治療法も無ぇ、生まれ付いてのクソ莫迦野郎だからだ!!!!!!!!!!」
“南部の人喰い熊”の轟吼に兵舎中の窓ガラスがビリビリと鳴動した。

「わしは、勝つためのあらゆるチャンスを、お前らにくれてやった。戦力差を認識させ、全兵器使用自由を承認し、撤退の自由まで認めて、可能な限りの助言までしてやった。にも関わらず、お前はその全部を一切ダメにした。とことん無視し、無批判で前動続行し、活用しようという意識すら持たなかった。たかがナメられたぐらいで冷静さを失い、ヘタな挑発を受けた程度でトチ狂い、挙句の果て、どんな莫迦にでもクソ真っ先に思いつけるクソありっきたりな作戦を、何のクソ疑いも抱かず選択し、クソ工夫などクソ一切凝らさず実行した。クソ悲劇のクソヒーロー気取りで敵主攻クソ正面にクソノコノコクソ単騎で躍りでて、ヘッタ糞と言ってもまだおっつきやがらねぇマズい撫でっこのデーモンストレーションをおっ始めやがって。バカか、お前は? それとも、お前がバカか? お前のクソドタマは、バカ犬の掛け合わせにしか智恵を絞れねぇようにできてやがんのか? ロックハースト三位の成績は、ドタマにモノ言わせた成果じゃなく、ケツにモノ咥え込ませたケッカか? 教官連中から「マーガリン犬」の調教業務でも請け負って、特別目こぼしにでも預かりやがったのか?!!」
サザン人はそこで大きく息を継ぐ。

「忘れたのか、それとも最初っから習っちゃいねえのか。それは知らん。知りたくもない。何より今さら知ったところで何の意味もない。が、「メイドの揉み上げ」だ、チワワ小僧、特別に教えといてやる。鉦官の仕事、戦闘部隊の指揮官の本分は、戦うことじゃねぇ、戦うクソどもを指揮することだ。主力を掌握し、戦力を有効活用し、敵にばかり出血を強い、部隊の損耗を最小限にまで減らし、そして……兵どもが満足する死に場所まで連れてってやることだ。兵に少しでも有意義な死を、誇るに足る死に甲斐を与えてやることだ。手持ちのコマ、なけなしのフダ、「あでやかな」運、そういった諸々すべてをひっくるめて総動員し、そのための状況を作りだしてくことだ」
サザン人鈴長は憤りの視線と言葉とを濁流の様に浴びせかけてきた。

「その本分をなぜ全うしない?! クソ鉦官にもなってその義務を果たさずにいれるなんて腐れ怠惰がどうしてできる!? 恥知らずにも『その』最善を尽くさずにいれるのはなぜだ!? なぜ分隊指揮官という配置を利用しようとすらしなかった!? 与えられてる予備兵力をなぜ腐らせ、ハエがたかるに任せた!? 敵のやり方に付き合ってやる余裕が戦場の一体どこに、お前みたいなフニャマラ野郎のどこにある!! 素手で戦いつづけることが戦力倍増要素にでもなるのか!? 一騎打ちにこだわった動機は!? 自力では絶対に勝てないと判明した、そもそもなんの戦略的価値もない戦闘を続けた意味は!? 面子か?! 誇りか!? 競技会三連覇の意地か?! クソふざけるのもクソ大っ概にしろ、雌豚!! 意地や誇りなんてモンが現場で! 兵の命が次々と失われていく最前線で何の役に立つ?! 戦闘の役に立たん意地や誇りなど犬にでも食わせろ!! 戦争は部隊全員でやるモンだ!! 一人でやれるような仕事でも、一人で背負いきれるようなシロモンでも決してない!! 一鉦官や一鈴卒の技能や装備に、戦局を一変させれるちからなど有るか、バカモン!!」
古参兵は静かな、息苦しさを感じるほど静かな、静謐な口調で「裁定してやる」と言った。

「貴様が採った行動を部隊戦闘に置きかえるなら全滅だ。当たり前だ。引き際は定めず、負けた場合の備えを策定すらせず、具体的根拠にもとづく確信などからでは断じてなく、乏しい体験から得た自負、自信、虚栄心、そして娑婆で暮らしてる無責任な学者連中が、小遣い銭欲しさでデッチ上げた、いい加減クソデタラメなケンキュー結果を鵜呑みにし、そこからボーフラのように湧いた必勝の信念のみで戦端を開き、無思慮無分別に無様な戦闘を、戦果がまったく挙がらんクソ無意味な戦闘を継続していけば、絶対そうしかならん。一兵余さず無駄死にだ。いや、一匹残らず犬死した、と評されるのが好みか、バカ犬が何よりも大好きなチワワ小僧には?」
第二分隊分隊指揮官の上には不倶戴天の敵でも見るような憎しみの眼差しが注がれている。

「鉦官の資格と呼べるようなモンは、バクテリアが垂らしたフンほども貴様には存在してないぞ、ヤナチェク・キリーロヴィッチ・クラスホイ」
“南部の人喰い熊”が剥き出しにした歯の隙間から、憎憎しげな声が搾り出された。
聞いた者を総毛立たせずにはおかない憤怒と侮蔑、何よりも不吉な響きに満ちた声だった。


演習とはいえ、目隠しし、手をポケットに突っ込んだまま、上級者相手に不遜な言動を崩さないのは確かに無礼だ。
それで死んだなら、もう無能や無様といった次元をブッチギリで超越しているが、現実はそうならなかった。
“南部の人喰い熊”はそれでも余裕で勝利を、完全にして完璧な勝利を納めた。
そして――

現象面だけ取り出すなら、“南部の人喰い熊”は狡猾で強力な敵役を務めながら、戦場を知り尽くした現場の下士官として、『まだまだ』本番には不慣れな鉦官に軍事原則に断然合致する適切な助言を行なっていたと、確かに、解釈できるのだ(そこそこ有能な弁護士官なら、目撃者からその証言を確実に引き出すことができる)。

問題はその未熟な鉦官にこそある。
演習と仮定するなら、ヤナチェク・クラスホイはその『忠告』にまったく耳を貸さず、間違った行動をとり続けたことになる。
致命的なのは、軍紀をかき乱しつづける鈴長を実力で黙らせ、鉦官としての威厳を保つこともできなかったクソ弱さだ。
そして本番だったと判断するなら、敵をむざむざと自軍陣地に招き入れた上に、五倍もの兵力差があったにも関わらず、勝利を収められなかったことになる。
選りにも選って、自分から吹っ掛けた戦闘で……。

どちらにしても、こういう輩を軍は無能な働き者と判断する。
どれだけ好意的にみても、それ以外の解釈など絶対できない。
そして無礼なベテラン下士官よりも、愚劣で無能な働き者の将校の方が軍では圧倒的に罪が重い。
クラスホイ自身も認識してる通り、軍隊の存在意義は戦闘に勝つこと、戦争に勝利することだからだ。

手段や過程など原則どうでも良い。
『その為』なら如何なる非情卑怯も戦場では肯定される。
時には、嘔吐すら催す残虐非道さえ軍隊では推奨される。
軍隊とは勝利するためだけに存在する、暴力装置なのだ。
勝てない軍隊に、敵を殺せない弱い軍人に意味などない。
カエルのクソをかき集めたほどの値打ちすら無いのだ。

“南部の人喰い熊”の言行は軍事的組織運営的にまったく理に適っている。
愚劣な判断を下す現場の指揮官に『過剰な防衛』が行なわれても、軍の今後の安全を確保するための予防措置との解釈が成り立つ。
そして軍で暮らす者なら誰でも知ってる。
事故はいつでも、どこでも、誰にでも起こりうると。
そしてこのサザン人は、政治的に、ここにいる軍人たちの中では最上級者なのだ。
この状況でその行動が罪に問われることはない。
仮に問えたとしても、重い刑罰が科されることはない。
昔から強いという単純な事実以上に、軍と戦場で幅を利かせてきた道理はない。
なにより――

軍隊の上に立つものであっても、軍『法』と言うからには軍法だって法だ。
暴力の前で法は常に沈黙すると、これも昔から決まっている。
問われるのはその質量だけで、それさえも“南部の人喰い熊”は解決している。
なにも問題はない。


「……さて」
「さ、さ、さ『さて』とは?」
「『戦場で生起しうるあらゆる状況を想定し尽くし』てあるんだったな?」
“南部の人喰い熊”は奇妙なことを口にし、そして無造作に構えた。
先ほど見せたのと同じ完璧なアップライトだが、先ほどとは違って、今回は小刻みに身体を揺すっている。
それこそ本当に完璧な、ヤナチェク・クラスホイが理想に想い描いてきたアップ……

いきなり“南部の人喰い熊”が動いた。
『撃ち気』が完全に殺されていて、反応できなかった。
ステップインからのワンツーストレート。
そして、腕を戻すと言うより、自分から撞きだした腕を取りにいってるように映るほど速く、大きく――なによりも強く!――右足を踏み込んでの腎臓打ち――公式では禁じ手だが、全ry――へと繋ぐ。
その直後に相手の正面に占移して、肩腰の回転が完璧に同調融合したボディブローを実に二十発以上を、一呼吸で叩き込んだ後、こちらに右拳をかざす高さで“南部の人喰い熊”は動きを止めた。
鳥肌が立つほど、滑らかな動きだった。
真正面から見ていたのにクラスホイには起点、接合点がまったく解らなかった。

「ウッカリ余分なモンを前に二つほど付けちまったが、こうだろう、ロングパンチ(、、、、、、)から次にカマす気でいたなぁ?」

拳を下ろし、“南部の人喰い熊”はクラスホイに平板な表情を向ける。
向けられた方は驚愕に目を見開き、恐怖でガチガチ歯を噛み鳴らしていた(リングの外も似たりよったりだ)。
その言葉通り、“南部の人喰い熊”が見せたモノは、先ほど全局面対応型撃拳術がこの男に叩き込んでやる積りでいた、いや、それ以上のコンビネーションだった。


“南部の人喰い熊”のロングパンチ(、、、、、、)は全局面対応型撃拳術と、最低でも、同じ完成度を誇っていた。
しかし――クラスホイはまだそれを実戦に投入できるレベルではない(演習中に連携に組み込めるようにすらなっていない)。
そして余分とうそぶいているが、その前の踏み込みからのジャブ二発も断じて余分などではない。
“南部の人喰い熊”がクラスホイの制空圏に侵入するのに、必要にして充分な牽制打だった。
合理的且つ具体的な戦略に基づき、最適化された戦技。
本当にそれがウッカリだというなら、それはそれだけ技が身に着いているということであり、余計に恐ろしいということだ。

しかも――撃ったのは予備動作皆無の完璧な左だった。
鏡の前で何千回、何万回と打撃フォームを確認し、修正を重ね続けていった末ようやく手に入れられる、最速最高の技だ。
その後の腎臓打ち(キドニーブロー)も普通とは音が違っていた。
アレは腎臓に打撃を与えるだけの拳技ではない。
浮動肋骨を砕いて、他の臓器に盲管創を引き起こさせる打法だった。
地面を蹴る勢いが要諦となることから、全局面対応型撃拳術はアイアン・ホース(鉄馬の棘蹄)と名付けている。
そしてシメである腹への連撃も、単なる力任せの滅多打ちではない。
急所のみを的確に抉り貫く、ラミカズ・ストライクス(弓姫の閃撃)と呼ぶ無呼吸連打。
どれ一つとっても平均以上の才能と、なにより膨大な量の修練とを必要とする、もはやそれは『業』だ。


「『これ』とやり合うことも、勝つ方法も、クソ当然、ソーテーしてるんだろうなぁ、ああ? 全局面対応型撃拳術?」
“南部の人喰い熊”がよこした眼差しは爬虫のモノだった。


……なぜ、“南部の人喰い熊”が自分と同じ純粋拳技――戦場では意味のない曲技――を自分以上の錬度でできたかは、もう良い。
東方古式武術の得体の知れない技まで身に付けている男だ。
あらゆる戦術に精通した人獣とまで呼ばれたほどの達人だ。
完璧な左が撃てるぐらい、まともな『ロングパンチ』が放てるぐらい、エゲツナイ腎臓打ちが、無呼吸連打ができるぐらい、もう驚きではない。
不発に終わった連携の内容が解ったことまでひっくるめ、年の功だとしよう。
しかし……

(なぜそこまで確信できる? どうしてそこまで絶対の、鉄石の如き確信を持って連携の全容がこうなどだと、なぜ断言などできる?)
確信に満ち満ちた相手の声がクラスホイにはどうしても不可解だった。
他のどんなことよりも不可解だった。


「今までに四人、お前を入れてだ、“チワワ小僧”。たかがクソ撫でっこ如きに、クソご大層な名前付けて、ケンカ吹っかけてきた愚かマラがいた」
疑問と驚愕と恐怖を満面に貼り付けているノーザン人に“南部の人喰い熊”が吐き捨てた
このサザン人が何を言ってるのか、しかしクラスホイにはさっぱり解らない。
雰囲気からそれを察したらしい。
サザン人は嘆息し、淡々とした口調で語り始めた。

「ツポレフ角提儀、無差別拳闘八稚女流、コマカイ流拳法。名前だけは違うが、やること、やってくるこたぁクソどいつもまるっきりクソ一緒だ。目新しいモノなんざスズメの涙ほども有りやがらねぇ、イヌのクソだ。四度目にもなりゃあ、それまでの演しモンの数と順番、位置取り、間合い、態勢、錬度、疲労度を当てハメりゃあ、ナニやろうとしてたかなんざ一目瞭然だ。いや、待てよ……」
そこでサザン人は顎に右手をやり、視線を虚空に向ける。

「いや、違った。違うとこがクソ一箇所だけありやがった。お前は、パンチの打ち方もロクに知らねぇ、能無しだが、そいつらは、パンチの打ち方しか解らねぇ、人でなしだった。そこんとこがクソ唯一の違いだ。だから、お前のは、イヌのクソじゃねぇ。イヌのクソでのたくってるウジ虫の、フィラリアのクソだ。……で、だ、“チワワ小僧”」
そう言って“南部の人喰い熊”は少し首を傾げ、他の者には、いや、クラスホイにも意味不明な(、、、、、、、、、、、、)言葉を口にした。

「お前が聞いたなぁ何だ?」

「何?」
クラスホイの呟き(というか呻き)に“南部の人喰い熊”は肩をすくめる。
「アホ相手に質問すんのはわしの役だが、まあ、これで最後だからな、大目に見てやる。……娑婆でも軍でも、いわゆるストレートと呼ばれてるモンは、ストレートじゃねぇ。ニセモン、マ・ヤ・カ・シ・モノだ。喰らった場所が腫れたり、青染んだり、骨折したり。喰らったのが『本当のストレート』なら、戦禍はそんな生やさしいモノでは済まん。ストレートとはそんなヌルい技ではない。本当のストレートは一触絶命の現象なのだ……ってのが、そいつら三匹が、そっくり返って、わしにコいてきやがったノ書きだが……」
“南部の人喰い熊”は嘆息し、そして(心底ウンザリとした口調で)言った。

「“チワワ小僧”、いま、自分が、どんなツラしてるか、判るか? お前の顔にゃあ、こんな言葉が書いてある。『私しか知らない真理を、なぜ貴様如き下賎な低脳マラが知っているっ!!』って言葉がな。まったく。事態の急変にクソモロいだけじゃねぇ。流行り廃りにもクソ疎いアホだ。救いようがねぇ愚かマラだ」


水たまりに立ち尽くしている分隊員たちには指揮官の背中しか見えなかったが、サザン人が事実を口にしたのは判った。
指揮官の身体に衝撃が走るのが見えたからだ。
両手が力無くだらりと下に落ち、ガタガタ震え出し、それが全身に波及していくのも。
だから、サザン人が図星を刺したというのは判った。
しかし――何の話をしてるのかは、まったく、解らなかった。
彼ら第二分隊の面々にとってすら、不意を衝いてさえ、一撃必殺など空想にも過ぎなかった。


(ば……バカなっ?!)
それを言ったらもう死ぬしかない言葉。『ばかな』を、胸の裡でとはいえ、クラスホイは唱えてしまった!


ヤナチェク・クラスホイはライオット・ワーブが口にした通りのことを信仰していた。
本当のストレートとは一触必滅の現象(わざ)であると。
標的が何であれ、どこであれ、(あた)ればマトは死ぬ。
絶対にタダでは済まない。
全局面対応型撃拳術はそう認識している。
死なないストレートは、ただのロングパンチでしかないと。
そして――

この認識こそ五年前にクラスホイが手にできた唯一の戦果。
彼に撃拳にこだわらせている動機の一つであり、彼を非凡な拳闘家、傑出した徒手武術家たらしめている主要因であり、原動力だった。
戦技競技会への参加や、そこでの三連覇にしても、自らが開発したシステムを軍全体に広めるための宣伝活動だった。
その結果として戦技研究科との繋がりができ、色々な資料に触れる機会にも恵まれた。
しかし――

これまで読み漁ってきた軍のどの記録にも、自分と同じ境地にまで達した拳闘士の記述など一行もなかった。

「クソ地獄を覗き込んだ回数と、肉に錬り込めれた技術精度。それだけが必要なクソ条件を教える。互いのクソ距離や、クソ態勢や、クソ角度や、クソスピードや、クソ力の入れ具合、抜き加減。本人ですら認識するのぁ、ほとんどクソ不可能ってぐらい、クソ極めてクソ微妙だがクソ厳密でクソ絶対の要素が、ゲンコツをカマしきるまでの瞬きしきるヒマすらねぇほどのクソ一瞬に、ピタリとクソハマった時、拳にはヒトの常識が及ばねぇナニかが宿る。見えてんのに避けれず、守りを固めてんのに耐えれず、術も薬も間に合わず、必ずマトをクソ地獄にたたき落とすちからだ。クソチョッとかすっただけでも千切れる、ハジける、全然べつんとこがクソ深刻なクソ被害を訴えてくる……そう言った、普通では考えれんクソ事態をひき起こすモノがだ」
分隊員の誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。

今“南部の人喰い熊”が口にした条々を、クラスホイは実際に自らの肉体で経験していた。
具体的必須条件は未だ不明ではあったが、ブラスナックル以外の兵装をひたすら拒み抜き、国境警備に当たりつづけた五年間は、僅かだが確かな成果をクラスホイの拳にもたらしていた。

ベテランの常識、慣れを、僅かに超えるスピード。
全局面対応型撃拳術は、実戦慣れした戦士の反射、回避を僅かに上回るロングパンチを確実に撃つ秘訣、それだけは掴んでいた(整った環境にあってすら中々実践できないが)。
相手をコーナーに追い詰めたときにやろうとしていたのは(そして“南部の人喰い熊”がいま遣ってみせたのも)それだ。

――起動や『打ち気』が察知されても、途中の加速が違う。
――ならば相手の予想よりも、こちらの弾着のほうが僅かに早い。つまり……
――回避は絶対に間に合わない!

先ほどはそういう計算が働いていた。
仮に運良く回避が間に合っても、交戦軸と腕の角度、それに腰の捻りとによって、拳二個半の余裕が今度はある。
“南部の人喰い熊”に逃がれる術は、逃げ口は無い、とにかく当てさえすれば自分の勝ちだと。
予想外の、絶対にあり得ない事態に敵の反応は絶対一瞬遅れ、その間にこちらの拳打全てが着弾すると。
それはクラスホイにしか解らない事実のハズだった。


「そして……」
語気と間に「聞け」という相手の意志を感じた。
「コレが起きた時、撃ったヤツぁ必ず、あるおかしなクソ出来事を経験する。マトをファックした瞬間、拳からドタマまで、骨を伝って、衝き抜けるような音が聞こえるってぇ現象だ。そばに居る奴らの耳にゃ何も聞こえたりゃしねぇが、撃った当人には確かに聞こえる、そして喰らったヤツにも多分聞こえてるだろう、クソ奇妙な音が。一触絶命を手前の肉体で経験したほとんどの連中は、その『音』が雷の落ちたのとそっくりの音だと抜かしやがるが……」
そこで“南部の人喰い熊”は言葉を切り、立ち聞きを警戒するかのように、やや声量を落とした。

「中にゃ丸っきり別なことワメきだす○チ○イもいる。極々クソマレにだ、手前ぇの拳に神が、魔物が、偉大な魂が、生霊の大酋長が宿ったのを確かに感じたと謳い出すイカレポンチどもがだ。そしてそのクサレポンチどもは必ず、クソッ必ず、こうヌかしやがる。『オレが聞いたのは雷の音なんかじゃない』と、『アレは動物の声だった。爪や牙をはやした猛獣が獲物を仕留めたとき上げる勝利の雄叫びだった』とな」
ガチガチとクラスホイの歯が鳴るテンポがさらに上がる。
これも五年前に彼が体験したモノと完全に一致していた。

「中尉殿は「豹の吼える声が聞こえたんだ!」と大はしゃぎされとった。八稚女少佐は象が鳴く声だと言い、コマカイのアホウはライオンの唸り声だと抜かしてやがった。今回で、一応、クソ四人目ってことになるからな。いや最初の一匹ちゃんって呼ばれる方が好みか? とにかくだ、スズメの涙ぽっちの興味が湧いたってぇわけだ、果たしてチワワ小僧が執り憑かれたなぁ、一体ナンの声だったのか、な」

“南部の人喰い熊”の声は、クラスホイの頭を右から左に流れていった。
自らの敗北や、この五年間が徒労ですらなかった事など比較にもならない、もっと重要で重大な事態が持ち上がっていた。

(ツポレフでも、ヤコヴレフでも、ストラヴィンスキーでもなんでも良い。なぜ、それらを貴様は報告しなかった? それが判っていれば、そんなモノがあると判れば、戦技研究科なりどこなりかが動いていたハズだ。『柔道』と『空手』だけでなく、手技だけの戦闘スタイルを制式格闘技に加えていた、加えようとする動きは起こったハズだ。打倒した三人の誰か一人だけでも良い、貴様が上に報告さえしていれば…………なぜだ? なぜ言わなかった? なぜ貴様は黙秘しつづけた、“南部の人喰い熊”?!)


「敵バラすのにクソ破壊力は要らねぇと本気で信じてるヤツは、あんな音させて前肢を振ったりゃせん」
表情に強く出ていた『なぜ』を別の意味に取ったらしい。
“南部の人喰い熊”はそう吐きすてた。

「『アレ』で九十九死に一生をつないだってぇクソタレだけが、普段からクソの臭いを周囲にバラ撒く。肉にクソ手応えがこびりついてやがるから、シコシコ毎日クソ厭きもせずにオケイコしてきたんだろうが? 自由自在に『アレ』をカマせれるようなるために? で、何の声を聞いた? オオカミか、犬好きらしく? それとも、ノーザン人らしく、また豹か? それとも虎か? ああ、虎の声だったらしいな。わしはまたネズミがチューチュー鳴く声かと思ってたぞ、 ダニエラにも仕留めれたクソ唯一の野生動物のな(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)
サザン人鈴長の口から出た、出るはずのない名に、言葉に、ヤナチェク・キリーロヴィッチは反応する。

「ま、て……。なぜ、貴様がダニーのことを、ストレートの、撃拳の理法、格闘技についてならまだともかく、なぜ、一体なぜ、その名前を貴様が知っているっ!!」
素っ頓狂なクラスホイの雄叫びに、“南部の人喰い熊”はしわを寄せた額に掌を当て、ハァ〜ッと深いため息を吐いた。

「なんだ、わしをクソバカと呼びたいのか、“チワワ小僧”? まさか、お前、現場の下士官がクソバカにも務まる商売とでも思い込んでたのか? 自分らが投入される状況に関する情報ぐらい、一通り集めるに決まってるだろう。おめでたいボケナスだ。いや、おめでたいって段じゃねぇぞ、そりゃ。もう、クソ完っ全に、クソ罪悪だぞ」
リングの外では分隊員たちが、また一体今度はなにが起きたのかと、ダニエラという女性が一体どうしたのかと傾注していた。


子どもの頃、ヤナチェク・キリーロヴィッチが可愛がっていた『ヨークシャーテリア』はメスだ。
話にものぼった通り、本当の名前はダニエラ、ダニーというのは愛称だ。
そこそこの地所と資産をいまだ保ってる、ノーザン人貴族の総領息子が愛犬に付けるにしてはかなりおかしな名だが(そもそも愛犬が愛玩用の小型犬で、メスだというのも結構おかしなことだが)、それも道理。
これは彼が学校に通えた日にはほぼ必ずお世話になっていた、そして子ども心に憧れていた、妙齢のウェスタン人の女性校医の洗礼名なのだ(通ってたのは国教会系の私学。よって職員は一人残らず、洗礼済みの、ラヴェル信者)。
だからダニーは、愛称というよりも、周囲にそのことを知られないようするための偽装だったというべきかもしらん。
しかし……

ダニーと呼ばれる小型犬が屋敷に居たのは、家族や当時の使用人たちなら、多分、覚えてはいるだろう。
だがクラスホイはダニーとしか呼んでこなかったから、みんな、絶対に、オスだと思い込んでるハズだ。
ダニー=ダニエラはクラスホイの自室(というよりも病室、独房)に、業者が連れてきた犬だ。
不甲斐ない(病弱な)嫡男の寂しさを紛らす道具として、両親が業者に命じて、十把一絡げに運び込ませたうちの一匹だ。
『ドーベルマン』や『ウルフハウンド』や『セントバーナード』といった大型犬(いずれも血統書付き)も、そこには当然含まれていた。

血統書のない『ヨークシャーテリア』が一匹紛れ込んでいたのは業者の手違いだ。

親犬や兄弟犬たちから引き離され、見たこともない巨大なオス犬たちと、見たこともない場所と、嗅いだこともない薬品や消毒液の臭いに怯え、哀しそうな声で鳴いている仔犬の弱々しい、痛々しい姿に、繊弱だったヤナチェク少年は自分自身の姿を重ね、その『ヨークシャーテリア』を友だちに選んだ。
そしてメスだと聞いて直ぐにクラスホイは「名前はダニエラだ」と心に決め、ダニーと声に出して呼んだ。

その時その場に居合わせていたのは業者と執事、それに主治医の三人だけで、肉親は誰も居なかった。
執事は業者がメスだと言うのを聞いていたし、主人(とその配偶者。つまりクラスホイの両親)にも報告は入れたであろうが、報告を受けとった側は(掛かった金額にだけ注目し)、そんな瑣末な事柄は右から左に聞き流したハズだ。
そしてその執事も亡くなって、もうずい分になる。
医者が死んだとの知らせは受けてないが、息子だか娘婿だかに後を譲り、どこか遠くの田舎に引っ込んだと聞いている。
ダニーに会わせてくれたのがなんという業者だったかはクラスホイも知らないし、屋敷にも最早その記録は残ってなどいないだろう。
軍隊に入って何かの折、犬を飼っていたとチラリと話したことはあったが、犬種、名前(愛称ではなく)、性別を口にしたことは一度もない。
ガスパジン・バルコープニックすら、これは知らないことだ。


(誰も知らないことを、今となっては知ることなど絶対に不可能なことを、何故、どうやってこの男は調べた?!)

誰も思い込んでなどいない、ヤナチェク・キリーロヴィッチは信じ込んでいたのだ。
“南部の人喰い熊”は腕っ節しか自慢できるものがないクソバカだと(分隊の内情を、何より軍上層部が軍機にした情報を掴まれてたことをクラスホイはすっかり忘れている)。
と言うより……単純な暴力信奉者以外の何者でもない容貌と雰囲気と言行をしていて、情報など重視するタイプにはどうしたって見えない(←ものすごく失礼)……いや。
これだけ理不尽な強さがあって、どうして情報なんかが要るんだという想いが巨大すぎた。


「戦場に出るまえから戦いは始まってる」
大陸屈指の経歴を誇るベテラン下士官が淡々たる口調で語り始めた。
「いや、戦場に出るまでが本当の戦いだ。兵を動かすというのは、最後の段階だ。本当に勝つ積もりなら、それまでに必要な全ての手筈を完璧に整えておかねばならん。ほとんどの場合、戦うまえから勝負は、戦略的な勝敗は、決まってる。実際に戦場で矛を交えるというのは本当は無駄な、不必要な手順だ。すでに上の方では解りきっている現実、当然の事実を周囲に、互いの国の槍後で空想に耽ってる莫迦どもに見せるため、理解させるため行なう茶番、クソ儀式でしかない」
ライオット・ワーブは、大変厳粛な面持ちでヤナチェク・クラスホイと対していた。
入隊したての新兵(以前のウジ虫)を閲兵する、歴戦の名将、勇将のごとき威厳と貫禄があった。

「故に軍人が戦術状況に関わってくる可能性のある情報をできるだけ多く集め分析するのは、装備を整え、技能を磨き、体力を着け、健康管理を心掛けておくのと何ら変わらん。いや。何より一番真っ先に優先されるべき任務であり、絶対的な義務だ。だからこそ現場の兵士にとって戦いは常に同じだ。いつも、一つしかない」

「生き残るか、死ぬかだ。わしら現場の軍人に用意されるのは、いつもそれら二つのうちのどちらかしかない。いや、最初から片方しか用意されてない場合のほうが遥かに多いのだ」

「敵が乳歯も生え揃っていない『ヨークシャーテリア』だろうが、「ハリガネ入りの」前線豚だろうが、敗北したという結果には違いがない。そこまで白星が百億万、千億万並んでようが、黒星が一個着いたところで全て終わりだ。そこから先は無い。だから我々軍人は、投入されるのがどんな状況であっても手を抜かず、勝つため生き残るために、万全の手配りをしなければならない。いや、しておくのが、し続けて当たり前なのだ。そんなことは話にのぼる以前の問題だ」
そこでギロリとクラスホイを睨んだ。

「見た目だけで相手の技能、錬度、装備ばかりか、財布になんの写真を挟んで、ゴム製品をいくつ忍ばせてあるかまで見通した気んなって、敵をあなどり! さえずり! 舌なめずり! 貴様の嫌いなネコでも、ネズミを前にそこまでクソバカなマネはせん。戦いにのぞむ心構え、戦術状況以外に対する意識、姿勢、なによりも覚悟において、貴様はネコにすら劣る! 故に! 今!! これから!!! 貴様は不名誉な行為で処罰されていく。だが心配するな。さすがに次に運命の輪ぁ旅するときゃあ、も少しマシな、フリーズドライ加工されたスズメが流す涙ぐらいはマシな、軍人にゃなれるだろうよ。……さて、執行されたい「プロポーション」はあるか? 『撫でられっこ』か? 『蹴られっこ』か? どんなのが好みだ、チワワ小僧?」
ヤナチェク・クラスホイはなにも言えず、ただ呆然とその場に立ち尽くしている。
迫力より、『やる気』より、このサザン人下士官の指摘に、大陸屈指のベテラン軍人の吐いた正論に、ヤナチェク・キリーロヴィッチは徹底的に打ちのめされていた。

「リクエストが無いんなら、わしがクソ一番クソ親しんできた「プロポーション」で行かしてもらうが、良いんだな、それで?」
そう言って“南部の人喰い熊”はまたベルトをは…ず……いや違う! 

“南部の人喰い熊”はベルト(さや)から得物を抜いた。

室内灯の光を受けてにぶい銀色の光沢を放っているのは、刃渡り六十センチ、巻尺やゼンマイに使われるようなバネ鉱でできた、弾性のきつい両刃のブレードだ。
読み漁ってきた古い資料で見たことがあった。
武器の持込が厳しく制限される場所への隠密携行を最優先に考え、製作された武器だ。
最優先課題は達成できたが、刀身の剛性はほぼ完全に失われた。
切っ先は付けられているが、危なくて刺突などには使えず、敵の武器と打ち合わせることすらできない欠陥品だ(よって現在では生産が中止されている)。
精々、背後から近付いて喉笛を掻っ切るのに使うか、振り回して威嚇するぐらいしか使い道がない、が……

練達の士ならば、打ち合わせにきた武器を支点に刀身をしなわせ、敵の手元などへの斬撃(削撃)が可能だ。
そして、非常に至難ではあるが、相手の武器を巻きとり奪い去ることも、決して、不可能ではない。
なにより今の状況では、刃物を振り回してこられるだけでも危険その物なのだ。
しかも相手が取り出したのはそれだけではなかった。
聞いたことも無いような凄まじい『刃』唸りをたてて、その左手が襟首から繰りだしてきたのは……

「『オムニチェーン』!!」
思わずヤナチェク・クラスホイの口を衝いて出た言葉に、“怖るべき熊”は、奇妙なことを耳にしたという風に、眉をしかめる。
「……呼び名はともかく、コレを見たことはあるみたいだが……相手にすんのは初めてらしいな」

ライオット・ワーブが取り出したのは、東方武術で使われる器械、鎖分銅だ。
流派によって鎖と錘の形状が異なり、物干し竿なみに長く鎖をとるところもある。
“南部の人喰い熊”のは――隠し武器として使用される場合の多い、そして、クラスホイも見たことのある――小型のものだ。
間合いや殺傷力では刀槍などの長物には遠く及ばないが、代わりに戻りの速さはこちらに軍配が上がる。
そして、いつ、どこから、どんな風に繰り出されてくるか、いや、来ないかすら解らないというのは非常に恐ろしい。
凶器を左拳に巻きつかせ、“南部の人喰い熊”はニコリと――ニヤリやニタリではなく――ニコリと微笑った。

「交戦規定を確認しなかったこともだが、部外者をヤサに入れるってぇのに身体検査をしないなぁ、クソ致命的だったなぁ、チワワ小僧。それも選りに選って、万州帰りを手前ぇの真ん前まで近づけさせるなんてなぁ、クソ自殺行為だぞ」
完全に弱りきった圧倒的格下の、しかも丸腰の若造を相手に武器まで持ちだすことに、やましさどころか、良心の呵責すら感じてないことがはっきりと解る明朗な笑顔であり、闊達な口調であり、快活な雰囲気だった。


(((((同じ隊の人員に身体検査を求める莫迦が、一体この大陸のどこに居る?)))))
第二分隊は相手の精神性、思考回路にげんなりしている。

慈悲や誇り(軍人や武人としてのだが)そして、これだけはどうにか人並みと呼べそうな羞恥心ぐらいは、彼ら第二にもある。
圧倒的に格下であるのがハッキリした相手や、敗北を認め、完全に心の折れきった敵を――リング上で満面に笑みを浮かべて――いたぶり殺す趣味は、そこまでの図太さは彼らもさすがに持ち合わせていない。
しかも武器まで持ち出してくるなど、考えることすらできなかった。

そもそも――戦場でそのテのことをやるというのは逆に大変危険だ。
逃げ場のない敗軍の抵抗、生き物の死に物狂いの抵抗は、とてもとても恐ろしいモノだ。
それとは逆に、圧倒的優勢にある側は油断や楽観、気の弛み、何より生への強い未練や執着――勝ち戦なのに死にたくない。いや、勝ち戦だからこそ絶対に死にたくない!――が頻繁に起こりやすく、結果として被害が甚大なレベルにまで膨れあがる恐れがある(彼らはそれをよく知っている)。

故に『プロ』は、道徳や人権思想からでは決してなく、飽くまで全体の損害を抑えるという必要から、使用する暴力の容量用法をキチッと守らなくてはならない、いや。
いかなる状況でも、その見極めがつけられてこそ軍人だ。

いくつか合わない点はあるものの、今日彼らの目に映ったヤナチェク・クラスホイは、一言で言うならば、名誉ある()だ。
その相手に、この状況下、そこまでやるというのは、経緯がどんなであれ、絶対やり過ぎ……というか、あまりにも大人げない。
同じベルビア軍人であることがイヤになる、恥ずかしくなる天魔羅刹の所業だった。

((((貴様は『クマ』だろう? ライオンじゃないだろう? ウサギ以下の相手に全力出してドーする?!!!))))

……自分たちがやろうとしてたことを完全に棚上げし、“まな板面”たちは心底からそう思う。
このサザン人ほどの技能が自分たちにあれば、中尉殿程度(、、)の腕前の青二才がすこしナメた口叩いたことぐらい、それこそ「フッ」と憫笑して、許してやるだろうにと。
しかし……

「お前はわしらが、チセツな殴り合い取っ組み合いの手管で、万州戦争を戦ってたと信じてるみてぇだが、それは間違いだ、“チワワ小僧”。そんなモンにわしらが手ぇ出したことはいっぺんもない。そんな高等で、優雅で、クソお上品なシロモンに、わしらが「手を濡らした」ことなんざ、クソいっぺんもない! 万州戦争でわしらがやってたなぁ、ただの! 人殺しだ!! ただの!!! それも『殺るか、殺られるか』なんてユーチョーでクソ甘っちょろいモンなんかじゃねぇ。『先に見つけて相手をバラせなきゃ、絶対にこっちが殺られる』、クソそのもののバラし合いだ!」
サザン人は歯を剥きだした。

ライオット・ワーブは万州帰還兵だ。
「男のクセに!」だの、「情けない!」だの、「武器使うなんて卑怯よ!」だの言われたぐらいで騎士道精神に立ち返れる高尚さなど、ウジのクソ程も有りはしない。

「わしが七輪選手にでも見えたか? 別荘の管理人や日曜学校の説法士だとでも思ったか? ただ強いというだけで、堂々たる莫迦のお守りをしてやらねばならん義務が生まれるとでも信じてたのか?」
そこで“南部の人喰い熊”は、鼻の穴を大きく広げて一呼吸し、こう述べた。

「クソ軍人だ! “チワワ小僧”! わしは! これまでに軍と戦場で『勝てば官軍』という言葉を! 『目的は手段を肯定する』とはどういう事なのかを! クソいやってぇほど味わわされてきた! クソ呼ばわりされたぐらいでシクシク傷む心なんざ、とうの昔に捨ててる! 当たり前だ! だから生きてる! 生きて! こうして!! 無様に!!! 生き恥を晒しつづけてる! 勇敢と無謀は、イヌとネコほども、男と女ほども、カマ掘るのと掘られるほども違う! そんなことも知らず、スカンク並の悪臭を今日までバラ撒きつづけてきやがったのか、ああ?」



「ドタマのクソ加減に免じて、最後に特別「慈悲を掛けてやる」、“チワワ小僧”。クソ軍人らしく、闘って死なせてやる。『ヨーイ・ドン』はお前が掛けろ。前肢を構える。いま立ってるその場から、どの方向であれ、クソ一歩でも動く。あるいは莫迦どもに攻撃参加を命じるクソを口で垂れる。それらのいずれかを開戦の合図であると、わしはそう解釈する。望みどおり、今度ぁ手加減はクソいっさい抜きだ。ナメもあなどりもしてやらんから感謝しろ。クソ最初から最大クソ戦力、クソ全兵器使用クソ自由、最短クソ時間でこのクソ状況を終わらせる。ノーザン人貴族鉦官サマゴショモーの、稚拙な取っ組み合い殴り合いのクソ手管、万州戦争「プロポーション」を、死ぬ前にクソタップリ味わわせてやる。腹一杯んなっても死ぬまで、喰らわせ続けてやる。解ったか? 解ったらとっととお祈り済ませて、クソ合図をしやがれ、ウジ虫!!」
陸戦隊最強の男(、、、、、、、)が咆哮する。
付け入る隙も、逃げ出せるチャンスも、“南部の人喰い熊”には存在しなかった。

ヤナチェク・キリーロヴィッチの目の前は真っ暗だった。


時計の針は一九〇〇時を指していた。






[Central]