ぱすてるチャイム Another Season One More Time 菊と刀 32 are you men enough to fight with me, YOU BITCHES?--Round Four 作:ティースプン |
(なにをやっている!! 貴様はそれでもノーザン人貴族か?!) 他の分隊員たちが指揮官の そして『それ』と正面から向き合っている“南部の人喰い熊”ライオット・ワーブの対応は……。 「そいつぁなんの冗談だ、チワワ小僧? そんなんでわしが油断してホイホイ近付いてくクソ莫迦だと思ってんのなら、クソとんでもねぇ見当違いだ。お前の前に立ってんなぁな、なにごとにつけても用意が良い、クソ軍人だぞ。体当たりの装備だけじゃねぇ、ちゃんと飛び道具だってここには持ち込んできた。そっちがそのカッコでいるってんなら、近付くまでもねぇ、遠間からプスプスと矢ぁ射掛けるだけだ。抵抗の構えすら採れずにくたばるなんてなぁ軍人の恥さらしだが……」 熱さも冷たさも感じられない声で“南部の人喰い熊”は(えげつなく卑怯なことを)言った。 「それ以前に由緒正しい家柄のノーザン人貴族サマが『その格好』で死ぬってなぁ、恥さらしなんてモンじゃねぇ、不敬や冒涜にあたるんじゃねぇのか、ああ?」 それは事実のみを、過去に起こった出来事を語るがごとき、淡々とした口調だった。 結論を言うと、全局面対応型撃拳術は『白旗は揚げなかった』。 ヤナチェク・クラスホイが採った行動はそれではない。 ベルビア王国陸軍貴族中尉が選んだのは“南部の人喰い熊”に正対し、地面に両膝を着いて腰を折り、額を地面に擦りつけ両手を頭の前にさらす……要するに、イースタン人が土下座と呼ぶ姿勢をとることだった。 ――ノーザン人貴族が忌み嫌っている、徹底的に嫌いぬいてる行為である。 ノーザン人貴族に限らず、ベルビア国民には、地上の何者かに額ずかなければならない義務は存在しない。 自らが忠誠を誓う国王、地上の最高権威に対してすら、そこまでの礼を取らねばならぬ義務はない。 片膝を着き、頭を垂れる。 これで地上の権力者に対し、最高の礼を尽くしたことになる(位階に拠ってはさらに上体を傾ける角度やら、右手を顔の前にかざしたり、左掌を晒したり、帯剣の可否といった付帯条項がつくが)。 人の身でそれ以上を他者に求める権利、強制する資格は国王はおろか神官や大僧正にもない(民主化が進み、王室と貴族、貴族と民衆との距離が開きすぎた現代では、ここまで求めること、求められること自体が少ないが、完全に無くなった訳ではない)。 地上の最高権威すら飛び越し、神を遇するのとまったく同じ礼で以って地上に生きる何者かに接する(または逆に自らそう敬されるのを望む)のは、王に対する不敬であり、神をも恐れぬ鬼畜の振る舞いだ。 彼らが土下座という行為を嫌うのは当然と言える。 そしてこれがノーザン人がイースタン人を蔑視した一番大きな理由だ。 神以外のモノを神に匹敵するほどの神聖な存在として――その時々においてはそれ以上の存在として――遇し、敬える心性。 『時の氏神』だの『一寸の虫にも五分の魂』などという言葉が、そんなおぞましく不届きな表現が生まれる精神が、彼らにはどうしても理解できない。 故に――イースタン人がこの国に移り住んできたとき、ノーザン人の間に彼らを(恐れるとともに)侮る精神が作られていくことになったのである。 「どうか許してください。私は、まだ、死にたくありません」 ヤナチェク・クラスホイの口から漏れたのは、苦渋に満ちた呻くような声だった。 地面に顔を伏せているために低く、まだ心臓の不調があるためか、それとも屈辱か、或いは他の理由からか、震えていた。 「チワワ小僧をバラしたって自慢にゃあならん。わしは確かにそう言った。だがな、チワワ小僧もバラせないってなぁ恥にしかならん。一対一で、しかも狭いリングの上で仕留めれんかったってなぁ、前線豚のあいだじゃ二番目だ。最低から数えて二番目に恥だ。ましてやそのチワワ小僧が、万州帰りに向かってクソふざけた口叩いた愚かマラだってのは、わしらにとっては、クソ最悪の罪だ。戦って死なせてやるなぁ、「掛けてやれる最高の慈悲」だ。『ヨーイ・ドン』まで掛けさせてやるなんてなぁ、もう、奇跡と幸運が「シルダク」だ。わしには始末しなきゃならんクソが、貴様の他にも、まだ山ほど残ってる。これ以上フザケる積りなら、慈悲も何もかも引っ込めるぞ」 「仰せの通り、半言隻句の反駁も御座いません。ご立腹どころか、怒り心頭に発せられるのは当然であると、身も重々承知しております。ですが、どうか身に対するお怒りをお治めになられ、身の嘆願をお聞き届け頂きたく、伏してお願い奉ります」 「殺す積りは有っても、殺される覚悟は無ぇってのか? 殺される覚悟も無ぇのに、あんだけクソギョーギョーしいたわ言を、やる前にホザいてたのか? お前、本当に軍人か? ガキん頃パパかママか執事かに二階の部屋の窓からドタマ下にして庭石の上にでも叩き落されてきたのか? 弟妹とのお医者さんゴッコで、患者サマの役させられて、マヂでタマタマ二個とも去勢されちまってんのか? 部屋んなかでダニーのケツを追っ掛けてるときにでも、タンスの角にサオを引っ掛けたか? 敵わない相手であっても、ここは雄豚なら勝負だろう? 違うか? それも品評会「揉んでくれステレンキョー」にも選ばれそうなぐらい由緒正しい血筋のノーザン白豚なら、命惜しまず名を惜しんでの、玉砕特攻あるのみだろうが、ええ?」 「身は幼少の砌に、父や母や執事に二階の窓から頭を下にして庭石の上に落とされた低脳です。弟妹とのお医者さんゴッコで患者の役をさせられて、本当にタマタマを二個とも去勢された意気地なしです。部屋の中で愛犬との追い掛けっこで、タンスの角でサオを引っ掛けた役立たずです。家名よりも自分自身の命の方が大事な大事な臆病マラです。ですからどうか命ばかりはお助けください」 「戦場でクソ半端な対応を採ることは、後々の災いを生む。一度でも例外を認めれば、必ず、敵はそれに付けこんでくる。可哀想なんてクソ感傷はな、自分だけじゃねぇ、部隊全体を壊滅の危険にさらしかねんイヌのクソだ。“南部の人喰い熊”にクソ垂れても、五体無事で、帰ってこれたヤツがいる、なんて噂が立ってみろ、明日からわしは貴様みたいな臆病マラや、貴様以上のド低脳マラの相手させられるハメんなる。それも分刻みグロス単位でだ。そんなことをわしが嬉しがるオカマ野郎に見えるか、チワワ小僧? だとすりゃあお前はクソドタマだけでなく、目まで悪いアホンダラだ」 「神と国王陛下に誓って、納得のいく身代金も出させて頂きます! 拳や膝を砕かれても、手足をもがれても、例え半身不随になって寝たきりにされたとしても文句など言いません! その旨書面にして、血判も捺してお渡しします! ですから、どうか! どうか、命だけはお助けください! お願いします!!」 「万州帰りにナメた口叩きやがったクソ莫迦の降伏を受け容れる積りも、助命の嘆願を聞き入れる気もわしには無ぇ。が……短気は損気ってぇイースタン人の言葉を知らねぇのか。無知なチワワ小僧だ」 “南部の人喰い熊”は言葉を切り、鼻を鳴らしたあとで、こう続けた、「降伏を容れる積りはないが、戦死なら認めてやる」と。 「このさき一生、公けの場以外、わしがいる所では貴様には死人として行動してもらう。 土下座しているノーザン人貴族鉦校にサザン人は爬虫の眼を注ぐ。 そして静かな、不吉さを感じるほど静かな、静謐な声でこう言った。 「わしが何を言ったか。ちゃんと、聞こえたか、チワワ小僧? 理解したか? 了承できたか?」 ヤナチェク・クラスホイの身体から放たれていた悲愴な気配が消え、弛緩した空気が立ち昇る。 そして何か言葉を発そうとする気配がその全身…… いきなりクラスホイが土下座してる身体を強ばらせた! 一瞬その周りの空気が凍り付いたようにも分隊員たちの目には映った。 そのことにサザン人は苦々しげに舌打ちする。 「引っ掛かりやがらなかったな、『元』チワワ小僧。そうだ。話しかけられても、ただの死体は返事をしねぇもんだ」 「ノーザン人の脳ミソはブタと同じ臭いがするって噂が本当かどうか。閉まりのねぇ口からチビッとでもクソを垂らしてりゃ、ドタマかち割って確かめてやってたとこだが……まあ良い。まだ機会はある。これから幾らでもな」 (恥知らずのクソバカめ!!) 歯を軋らせながらチャイカ・ガラーホフは分隊指揮官の振る舞いをそう断じた。 ヤナチェク・キリーロヴィッチは神以外のモノを神と同格に扱い、陛下以外の者にひざまずき、戦闘を放棄した。 自分からケンカを吹っ掛けたにも関わらず、無様に地面に這いつくばって、情けなくも敵に――それも選りにも選って劣等種であるサザン人の下士官風情に!――命乞いまでした。 ラヴェル信徒として、軍人として、何より同じノーザン人貴族として、まことに以って度し難い、許すべからざる振る舞いだ。 (貴様も貴族ならば命より名を、家名を惜しむべきだろう!) “クソソプラノ”が胸のうちで上官をそのように罵倒したときだ。 突然「ビシッッ!」という音が兵舎中に響き、右の頬に熱さを覚える。 思わず頬に手を持っていった。 「損害・一に気ぃ取られ過ぎててどうする、マヌケ」 完全に人を莫迦にしきった、見下してナメきった声が分隊員の耳朶を打つ。 マットに這いつくばってる面汚しのケツから視線を上に向けるとサザン人が右手を真横に広げていた。 その手に握られていた弾剣はマットに切っ先をめり込ませ、ビョンビョン頼り無さげにその刀身を震わせている。 兵舎中に響いた音と頬に感じた熱さ、そして相手の姿からある考えがガラーホフの脳裏に浮かんだ。 ぎこちない動きで自分の背後を――壁に張られている鏡を――振り返る。 鏡に映った自分の姿に黒塗りのスローピックが突き刺さって短い亀裂が放射状に走り、手をのけた頬には赤い蚯蚓腫れが浮かんでいた。 (手元が狂えば、私が少しでも身じろぎしてれば、人中か喉に刺さっていたぞ!) チャイカ・ガラーホフは身体の震えを止めることができなかった。 ライオット・ワーブは、ロープとロープの隙間を抜けて、こちらの頬を掠めるように、スローピックを投げてきた。 それも深々と強化ガラスに突き刺さるほどの力を込めて……。 「なかまぁバラされて気も「ゾロゾロ」になるってなぁわしにも覚えがあるが、 「つ、つ、つ、次とはい、い、い、一体、貴様、な、な、な、何の話をしている?」 こちらの言葉に対してサザン人はペチンと額を叩き、深い溜め息を、深く嘆かわしげな溜め息を吐きやがった……。 「よく聞け、ピーピーヤカン。指揮官が戦死した場合、指揮権を引き継ぐなぁその場にいる最上級者だ。中尉ドノはたった今『戦死された』。なら、分隊最先任の貴様が指揮官だ。そして中尉ドノがわしに達せられた最後のご命令は、『わしがこれまで身につけてきた技を 強勢の置かれた部分に、分隊員全員、不吉なモノを感じた。 「だが、んなモンは、実際手前ぇの肉体で喰らって覚えれるモンだ。そうだったな、“ほほえみカス”? デーモンストレーションを見たぐらいでできるようになるモンでも、クソ理屈聞かされてクソ判るようなモンでもねぇ。そうだろう、“まな板面”? 一目見て解った、聞いただけで出来るようになったとハッタリをカマす愚かマラもいるが、自己申告を鵜呑みにしてたんじゃ、わしがアホに見える。現場じゃ命がいくつあってもクソ足りゃしねぇ。何より任務を途中でおっ放り出したら、職務怠慢のかどで縛り首だ。そんななぁクソ願い下げだ。時間がクソ押してやがるが、なに、クソたった四人に 「ぎ、ぎ、ぎじゅ、ぎじゅ、ぎじゅちゅ、技術を……」 理論の無茶苦茶さに舌がもつれ、上手くしゃべれなかった。 「『ギジュチュを還元しろというのは、中尉殿と貴様の間だけでの取り決めだ。自分たち分隊員には一切関係が無い』。お前の言い訳はそんなのか、ウスノロ?」 こちらの様子にクソ頭は、わずかに首を傾げた上から目線で、そんな言葉をほざいてきやがった……。 「じゃあ、そのトリキメが持たれてたときに、ベロ切り取られたみてぇにクソ黙っていやがったなぁ何故だ、エセ貴族気取り? チワワ小僧がわしにクソ垂れやがったとき、貴様は反対することができた。副官には反対意見を口にするクソ権利がある。アホな指揮官がクソ冷静に、クソ客観的に状況判断できるようにな。そのクソ義務を、なぜ果たさなかった? 莫迦な青二才の行動を嫌がる気持ちが、クソ本当に、貴様に有りやがったんなら、なぜクソを垂れなかった? 他のボケナスどももだ。貴様らも反対の意思をヒョーメーしようとすることだけはできた。なぜ、やらなかった? どいつもこいつも、借りてきたネコみてぇに、なぜ、そのマズいバカ面をクソ澄まさして、クソ黙り込んでやがった? ああ?」 これまでの言行やその風貌に似合わぬ、軍一般常識に則った反駁に、応接の言葉を失った。 「経緯や思惑はどうあれ、貴様らの採った行動は、消極的賛成と軍では判断される。つまり、わしと今は亡きチワワ小僧との取り決め、“クソソプラノ”流に言うと、ギ・ジュ・チュ・カンゲンは、貴様ら第二のカス軍人どもの、クソ総意ってことだ」 「消極的賛成を抜きにしても、隊の一員がしでかした不始末は隊の全員で責任を取り、隊の一員に売られたケンカは隊全員のワリカンだ。指揮官でも下っ端でも例外はない。陸戦隊員の不文律だ。そして演習中の負傷や死亡は、原則、全て事故として処理される。リングの上でやる以上、それは演習以外の何物でもない。そのことも込みで、お前らウチの“白アスパラ”を可愛がってくれてたんだろうが? わしをここに引きずり上げる為によ。だがな……」 サザン人の口からこぼれてきたのは、ニンゲン的な感情がいっさい感じられない、乾ききった声だった。 「その原則が自分らにも適用されるってことは認識したうえでの行動だったんだろうな? ええ? “クソソプラノ”、“まな板面”、“岩ガキ小僧”、“ほほえみカス”?」 「ちゅちゅ、中止、中止だ! 演習も何もかも、これで中止だ! こ、これ以上貴様の悪ふざけになど付き合ってられるか! 馬鹿馬鹿しい!!」 理性よりも感情が先走り、そんな言葉を叫んでいた。 しかし…… 「なんで ((((指揮官とヌかしてきたのはキサマだろうが!!!)))) 「演習だ、“クソソプラノ”、これは。だろう? なんたって、クソリングの上でやるんだからなぁ。貴様らの中尉ドノは、『戦死と判定された』ってだけで、本当にお隠れ遊ばしなさられましたってぇワケじゃねぇ。統裁官が演習終了とクソ垂れるまで、状況におクチバシをお突っ込みなさられることがおできになり遊ばせれねぇってだけだ」 ムカツくニヤニヤ笑いを浮かべてるクソ頭野郎に、分隊員は二の句が継げない。 (((((緘口令がどうのと、今日ここで『あった』ことと言ったのはこの為か!!!!))))) 「解ってねぇだろうから教えてやる、“クソソプラノ”。この演習の統裁官はこのわしだ。わしが終了と判断するまで演習は終わらん。そして貴様にできるのは、戦術的判断だけだ。戦略に関わる行動、つまり、撤退や降伏を選ぶ権限はない。噛み砕いて言うと、誰からここに上がるのか、その順番を決める自由しかないってぇこと……」 またしても急にサザン人の姿がその場から消えた! リング際でこちらにケツを晒して這いつくばっていた恥知らずの姿が消え、今度はサザン人がそこで、いつの間にか、無礼にもこちらにケツを向けていた。 『面汚し』はリングの向こう側、トップロープに両腕を絡ませて、訳が解らないと言いたげな呆然とした表情を浮かべている。 「ただの死体は返事がねぇだけじゃねぇ、動いたりも出来ねぇってことを知らなかったのか、ボンクラ?」 ((((一瞬でリング際まで移動して、そこに這いつくばってた、いや、身体を起こしてたか? どっちでも良い! とにかく、貴族の面汚しをリング反対側まで、一息で投げ飛ばしたのか?! 六十キロ少々のウェイトで、八十キロもウェイトのある相手を?! 一体、どうやって、どんな投げ方をした?!)))) 状況から察するに他の解釈は有り得ないが、どうやってそれを理解すれば良いのか……。 「勘違いしてるみてぇだから、これだけはハッキリさせておく。お前みたいな愚かマラにまだもうしばらくハァハァ息をさせといてやってるのは、竜園寺少佐への義理だ。お前の土下座や歌の中身にカンドーしたワケでもなけりゃ、お前らの腐れ飼い主のクソご威光とやらをはばかったからでもねぇ。この世にまだ未練が有るんなら、そのことをドタマにブチ込んどけ。イースタン人の考えじゃ『神様の顔は三度まである』らしいが、わしの顔はもう無いぞ」 そのとき“面汚し”は、なんとも言えない、複雑な表情を浮かべていた。 「今のクソ口上でクソ三七秒もクソ浪費させられたぞ。クソこれ以上クソ「流暢」にマラ頭どもにクソ説明してれるヒマはねぇ」 クソ頭は舌打ちして、右手首を、眺めてやがる……。 「スキン小僧ども、一分やる。クソ一分だ、マヌケ! クソとっととクソ装備を整えてリングに上がれ!」 視線をこちらに向けて宿舎奥、個室がある方を指差す。 言ってる意味を掴みかねているのを察したのだろう、こう続けてきやがった……。 「届いただろうが、先週、クソ飼い主のクソご威光をクソ笠に着まくりやがったクソ態度とクソ物言いで注文した、騎士の鎧がよ?」 そう言ってクソ頭はニヤリと笑った。 格好のオモチャを見つけた、ネコを彷彿とさせる笑いだった……。 騎士の鎧は、ベルビアの重要無形文化財キングギアとその弟子たちの手による、この国で最高の武具だ。 軽さと堅牢さを兼ね備え、どれほどの悪戦からでも着用者を護り、五体無事に戦場から帰還させてくれると謳われている。 かつては王族専用に指定され、現在でも購入を許されるのは『貴族』と、国家への功労大と認められた一部の優秀な軍人だけだ。 既存兵科の軍人たちの士気掲揚の一環としてでもなければ、まだまだ第二分隊員には購入資格は認められなかっただろう。 それほど高価で、貴重で、非常に格式のある武具であり…… 対“南部の人喰い熊”攻略において、彼ら第二分隊員たちが恃みにしてきた戦術的優位だった。 本番なら、互いに全兵器使用自由でやり合えるのなら、俺たちが勝つ。 たとえ起動も、機動も、軌道も見えなくても、後の先を取れば、先に打ち込ませてそれに耐えれば、このサザン人は斃せる。 “Spoon Crush”とやらを目にするまで、彼らは自らをそう鼓舞してきた。 しかし、素手で鎧越しに致命的打撃を入れられるこのサザン人が相手では、防具などまったく無意味だった。 「最後だけでもビビしく着飾りてぇだろ。わしは構わんぞ。得手にしてる道具も持ってこい。徒手武術教導分隊とか言うクソ肩書なんざ気にするな、わしが許す。それでもまだまだ差が有りやがり過ぎるからよぉ、わしの方は道具無しで相手ぇしてやる。チワワ小僧に輪ぁ掛けてもまだ足んねぇぐれぇ弱くて、ヘボくて、臆病マラな弱卒四匹サバくのに道具使うなんてなぁ、前線豚のハジだ。他人にゃ死んでも話せねぇ。何より、その、アレだ。自分のなかに後味のクソ良くねぇモンを残す、ってぇヤツだ!」 サザン人はそうほざいて、「ガッハッハッ」と嘲笑いやがった……。 そして巻き付けていた手鎖を解き、本当にこちらの足もとへと放って寄越した。 そして次に、軍靴の内側から小型のコンバットナイフ二丁を取り出すと、山なりに放って寄越した。 そして次にそれから、ダマスカスナイフ一丁に、スペツナズ二丁に、フリントナイフ三丁に、ホーリーメス六本と、もう四本のスローピックを取り出し、それらも放って寄越した……。 そして次にそれから更に、峨嵋刺(この名称は後で情報の提供を受けた)三個と、スパイクナックル一組を取り出し、やっぱり、放って寄越した………。 そして次にそれから更にその上、カミソリ(バラ数枚と『襟巻き用』にヒモで繋がれてるのが一本)と、ジャラジャラと音がする細長い皮袋(どうやら大量のパチンコ玉であったらしいことが後で判明)と、ピアノ線三巻きと、ティー(ゴルフで使う長さ二インチほどの木のクギ)二十本近くを、またしても、放って寄越した…………。 そして次にそれから更にその上まだ、ヌンチャク一丁とトンファ一対を、丸めたティッシュでも捨てるように、放って寄越した………………。 そして次にそれから更にその上まだ他にも、三段式の仕込み槍! まで取り出して、読み終えた新聞や週刊誌でも捨てるみたいに、放って寄越した…………………。 そして次にそれから更にその上まだ他にもなんと、二十センチ近い長さのハリ(東方医術で使われる『鍼』との情報ry)を合計二十本以上、鳥にエサでもやるように、放って寄越した……………………。 “クソソプラノ”以下分隊員は青ざめ、どうしようもない無力感に襲われている。 ヌンチャクが有ったのは股ぐらで、仕込み槍を隠していたのは背中で、ハリを抜き出してきたのが左右両手首の内側!(皮膚と肉との隙間に差し込んでry)だったのは判った、と言うか見えた……。 だが、それ以外の武器をこの男が一体どこに、どうやって隠し持っていたのかは、見ていてもまったく解らなかった。 これまでの姿勢にも、動きにも、体の線にも、なにひとつ不自然なところは無かった。 それなのにクソ頭野郎は、手品のように、呪術のように武器を取り出し、池の魚にエサでもやるように、次々放ってきたのだ。 ((((武器を捨てたって、貴様が身軽になるってだけじゃねぇか!!!!!)))) 彼らは現状をそのように分析し、次のように判断していた。 ((((とにかく今は待ちの一手だ。リングに上がりさえしなければ安全なんだ。この男が諦めて引き揚げるまで、何が何でも時間を稼ぐぞ)))) 「……さて」 「「「「さ、さ、『さて』?」」」」 固唾を飲んで相手の次の言葉を待つ。 クソ頭野郎は、道端に落ちてる犬のフンでも見るような顔をこちらに向け、右掌をリングの外へと突き出した。 「時間切れだ」 「……ってやるたぁ言ったが、『待て』とは言わなかったぞ。なぜ何の行動も採らなかった? 貴様ら軍の害虫相手に、わしがセーセードードーと振る舞うとでも思ってやがったのか? それともまだ話し合いで済ませれるとクーソーしてやがったのか? ああ?!」 静電気がパチパチ弾ける音に混じって聞こえてくるクソ頭野郎の声は、遠くの誰かが叫んだ余韻か木霊のようだった。 なぜ自分が、自分たちが天井を眺めてるのか、なぜ身体が動かないのか、なぜ声すら出せないのか。 それらが気になって、相手の話に意識を向けられる余裕というか、体力というか、とにかくそう言ったモノはまったく無かった。 チャイカ・“クソソプラノ”・ガラーホフ以下第二分隊員四名は、仲良く水たまりにひっくり返り、全身を小刻みにケイレンさせていた。 「ヒヨッコですらないチワワ小僧相手に、なんでわざわざ万洲戦争「プロポーション」のインチキ技使ったか、ウジのクソほども疑問に思わなかったのか? 最低最悪の前線豚、万洲帰りのクソ軍人がムダなことを、クソ少しでも手前ぇのクソ不利にクソ繋がるようなクソ莫迦なマネ、クソするワキャねぇだろう、アホンダラどもめ」 あくまでもこちらの思考を邪魔する積りらしい。 なんとか睨みつけてやろうと思うが、どれだけ力を入れても首が動かない。 まるで見えない手で床に強く押し付けられてるように、頭がまったく持ち上がらなかった。 止むを得ず首をねじろうとするが、それすらもままならない。 やりたくはなかったが、重い物を持ち上げるみたいに声を出しながら力を込め、首を動かそうとする。 ようやく声が出た。 しかし前線で兵を指揮してるときと同じぐらい声を張り上げてるハズなのに、口から出てきたのは情けなくなるぐらい小さな――蚊の羽音よりも小さな――幽かな音だった。 「『クソ眼前のクソ状況をクソ疑え』、『クソ野郎がクソ残してきやがった ようやく視界に納めたクソ頭野郎はやはりクソ頭野郎だった。 頭を振り、右第一指(人差し指)でそのクソ頭をコツコツと叩いている。 莫迦にしてる風はなく、本当に嘆かわしげな雰囲気だった。 だからなおさら余計に一層腹が立った。 しかし……自分たちの身に何が起きたのかはまだ解らなかった……。 実のところ相手が何をしたか、自分たちの身に何が起きたのか、本当は全員が認識していた。 ただ知覚したものの受け容れを、理性と感情の両方が拒んでいただけだ。 しかし、それを不甲斐ないと断じてやるのは難しい、可哀そうなところがある。 打撃を受けたことは失態だが、並の兵士ならそれで意識を喪うか、命を手放すかしている。 だが彼らは命も落とさず、はっきり意識を保ち、思考も実にしっかりしている。 その点だけを見るなら、第二分隊は決して無能の集団ではない。 「水はデンドー体、鉄もデンドー体、魔繊もデンドー体だ。オス豚漁りにセェ出し過ぎて、ガッコで習ったことを忘れたのか? いや、セェ出すなぁ、お前らおフェラ豚の漁ったオス豚の役か」 水に鉄に魔法繊維。それらが伝導体であることぐらい、言われなくても知っている。 そんな物理知識など、学校で教わるまでもない、一般常識として備わってる。 知らなかった、予想だにしていなかったのはそんなことではなく…… (……魔術…戦士だと……) 電撃呪の残滓が水溜りを跳ねる音がやけに大きく聞こえてくるなか、ヤナチェク・キリーロヴィッチは言葉にできない呻きを持て余している。 鏡に映ったのをハッキリ見た。 “南部の人喰い熊”が突き出した右掌から、耳を劈く放電音とともに、紫電が迸るのが……。 紫電はその先にいたチャイカ・ガラーホフを直撃し、一瞬の遅延なく、他の三人が勢いよく――出会い頭、顔に一発デカいのをもらったボクサーみたいに勢いよく――仰向けにひっくり返った。 トレント・“岩ガキ小僧”・クフィルなどは勢いがつき過ぎて、空中で一回転し、水たまりに突っ伏している。 あの様子だと回避しようとするどころか、 ライオット・ワーブが使用した『打撃』の名称は、雷系一般中級攻撃魔術ライトニング。 分類上は中級だが、単体への威力を見るなら、決して火系の上級ナパームにもひけは取らない。 何より――総合的な性能をどうこう言う以前に、最早これは専門家の領域だ。 『三百六十人に一人の器用貧乏』如きに手が出せるシロモノでは決してない。 (なぜ、鈴卒が! いや、どうして陸戦隊員に魔術が遣える?! そもそも魔術が遣える人員が、なぜ陸戦隊『如き』に配属されて、いや、訓練教官なんかに甘んじていた?!) ヤナチェク・キリーロヴィッチの頭は真っ白になっている。 陸戦隊が投入される状況は最前線だ。 その主任務は『互いに臭い息を嗅ぎあえる距離での打ち物を使った殴り合い』である。 故に血の気が多く、屈強で、頑丈で、元気イッパイな連中(要するにアホ勇者やタフガイ気取り)が配属されてくる。 そのなかでも選りすぐりの猛者である“まな板面”たち四人を――いくら不意討ちとはいえ――一発で行動不能にできる魔力強度、法術適性が有るのなら、魔術士団に配属されてるのが普通だ。 かてて加えて徒手格闘の技能に、術の効果を高められる知恵まであれば、最近なにかとその存在が取り沙汰されている越境特務隊――ベルビア王国政府はその存在を一切認めていない――などの特殊部隊に振り分けられなければ絶対におかしい。 原則……と言うより、これはほとんど鉄則に近いが、雷系の攻撃魔術は直線軌道を取り、攻撃可能範囲もそれに順ずる。 ライトニング(貫通属性)の進路上にいたのはチャイカ・ガラーホフだけで、残る三人はバラけて立ち、延長線上からも影響圏からも外れていた。 そしてライオット・ワーブの位置からでは、どうやっても、一人以上を標的に捉えることはできなかった。 しかし…… 四人が立ってた ウォーターサンドバッグを弾いたのはこの為で、クラスホイに“Spoon Crush”を遣ったのはその為で、「片付ける」と怒鳴ったのは四人から冷静な判断力を奪う為、設えた 全員まんまとそれにハメられたのだ。 そして武装解除にしても、ただハンデを与えるため、闇雲にリング外へ放擲していたわけではない。 水溜りから外れそうになっていた“クソソプラノ”を後退させ、残る三名も同じ効果範囲に封じ込めるために牽制して、さりげなく危険物を身体から外して、なにより詠唱完了までの時間を稼ぐという狙いがあったのだ(人体は電気を引き寄せるから、時計やら指輪ぐらいの小物を外したってホントは気休めにもならないが、量が量だ……)。 いや――ハンデを与える積りなど、初めから“南部の人喰い熊”にはなかった。 全ては手っ取り早く、後腐れなく、一網打尽に四人を仕留めるための術策だった(そう判断せざるを得ない)。 こうなると最初に自分を空中に放り上げてみせたのも、この為の布石だった、布石にしたのではと疑う気持ちが湧いてくる……しかし。 なぜ、陸戦隊最強の男が魔術を、それも上級魔術――ライトニングより高位の術はあるが、遣える者がルーベンスには 「ドッグヘッドマウンテンを巡る七日間の攻防の内、前半四日は法撃戦。雨季に入った後半三日は、打ち物とってのタマの殺り合いが殆どだ。それがどういうことだか解ってりゃあ、わしのパンツについたクソ程度の脳ミソもないチワワ小僧でも考え付けてたハズだ」 静電気の弾ける音が完全に絶えた頃、“南部の人喰い熊”は背後の『死体』へわずかに頭を巡らし怒鳴った。 「『ホットドッグリッジ』で死に損なったなぁ、唄や踊りもできるクソ野郎ではないか?! 生き残ったナマグサ坊主やカス術士のなかにゃあ、オモチャ遊びもウマイ連中が、混ざってやがったんじゃないのかってな!!」 (『あらゆる兵器と戦術に精通したヒトの皮をかぶった獣』。確かに私はそう言った、そう耳にもした。しかし! ……) 第二分隊指揮官は先ほど自らが口にした言葉を思い出す。 (『兵器』に『杖』が含まれるなど! 『戦術』に『魔術』が含まれるなど!! 常識の範囲を超えている!!!) クラスホイは心中そう嘆いた。 確かに武術魔術両方ここまでの素質、才能が一人のニンゲンに具わるなど滅多にあるものではない(少なくとも、三百六十人に一人などと言うケチな話では絶対にない)。 しかし、常識で考えればライオット・ワーブに、第一分隊に法術素養があることだけは彼らでも気付けたはずなのだ。 なぜなら―― 「たとえ戦史のオベンキョなんざしたことがクソ無くても、本物のクソ下士官なら思いついてなきゃあウソだ!」 万洲帰還兵は正面に向き直り、蔑みの表情も顕わに吐き捨てる。 「「いやらしくも」 第二は、自分たちがとんでもない見落としをやらかしていたことに、ようやく気付いた。 誰でも扱えるようになったとは言え、銃は、あくまで、魔力消費武器。 法術素養がまったく無い者、極端に低い者では、兵器システムとして十全に活用することはできない。 魔力量とその成長率、成長速度は、原則法術素養の高さに比例するからだ。 当たり前過ぎると思って共通点に挙げなかったのだが、射撃術科に集められたあの五人は魔術か神術の素養を――平均以上の魔力強度と魔力許容量を――具えている。 一人の例外も無く、あんな連中がである……いや。 内訳を言うと“白アスパラ”と“フケツ”が神術素養で、“癌マン(=ピンポン球)”、“デブシロサンボ”は魔術組。 そして――“サエズリ野郎”と分隊指揮官の二名は、神術と魔術、両方の素養に恵まれている。 対する第二はと言うと、とにもかくにも法術が遣えるのは分隊指揮官だけだ。 他に法術素養のある軍人は一人も、ただの、クソ一人も、居やがらない。 正真正銘純血のノーザン人貴族であり、洗礼を受けたラヴェル信徒であるヤナチェク・キリーロヴィッチただ一名のみが、貧弱な神術素養を有していた(遣えるのは癒しの指、解毒、それに神術剣儀の光牙だけ)。 それゆえ、武器を放り出していく“南部の人喰い熊”から放たれてる妙な気配――大気中の 気付いたが、法術の予兆だとは認識できなかった(魔術が遣われるのを間近で見た経験がなかった為)。 そしてそれを部下に警告することも不可能だった(戦死していた為)。 つまり、こいつらは徒手格闘や器械戦闘は凄腕でも、法術関連の技能と知識、なにより素質や才能では、クズと蔑んでる連中の足もとにも及ばないのだ。 だから目の前で電撃呪が着々と編成されていってることに、気付くことすらできなかったのだ。 「本当にその程度のことすら考え付けなかったのか? だとすりゃ、もう、はく製にされたスズメの涙ほどの見込みすらねぇな」 グーの音も出せないでいるパーどもに対する万洲帰りの口調は、きわめて淡々としたものだった。 まるで一昨年の天気について話してるみたいだった。 肩の辺りにかざされた右掌には金色の炎がメラメラ燃えている。 「お前らは サザン人の表情、態度、なによりその淡々とした口調に――F言葉が一言も混じっていないことに!――パーどもは言い知れぬ不安と恐怖を掻きたてられる。 「貴様らは同じ釜のメシを、同じ箱の戦闘糧食を食った仲間を手に掛けようとした。妬み僻みという度し難い理由から戦友の、兄弟の謀殺を図った。その時点で貴様らは陸戦隊員ではない。ニンゲンですらない。この世で最下等の生命体、生かしておく価値もない人でなしだ。軍法務部に訴状を提出するまでも無い。現場の下士官権限により、いまこの場でわしが裁く」 それに対し、まだ痺れの残る舌を必死に動かして、オズワルド・グリッペンが可及的大声で怒鳴りつけた。 「ここここ、この状況で、オオ、オレた、オレたちちを、こここ、殺して、タタタダ、タダ、タダですすす済むと、おおお思っていやがるのか、ここのおおば、お大莫迦野郎め!! かかか過剰防衛と、じょじょ上官、上官反逆罪と、ああ後ほかにも、さささ殺人罪とで、ききき貴様こそ、ししし縛り首だ、ぞ!」 聞き苦しくはあったが、この“まな板面”の大僧でさえ状況を正しく認識している。 自分たちがリングに上っていない以上(一番無能な検事官でもこの証言だけは“面汚し”からでも引き出せる)、演習中であったとの言い逃れはできない。 この状況での負傷や死亡は事件として扱われる。 事故としてでは決してない! 「手前ぇの立場ってモンがクソ理解できてねぇ莫迦どもだな。ああ。だからクソ寝っ転がってやがんのか。今まで見聞きしたファッキン・ジョークのなかじゃクソ最高の出来だぞ、“まな板面”」 万洲帰りはせせら笑い、そして言った。 「 目ン玉をくり抜かれた気がした。 第二分隊には陸軍全体から選び抜かれた格闘スペシャリストが集められている(対外的にはそう報道されているし、対内的にもそれはある程度当たっている)。 そこに選ばれた者が選ばれなかった者に遅れを取るなどあってはならない。 自分たちの兵舎で、自分たちの領域で戦いを挑まれながら、矛を交えることなく退散するなど許されない。 ましてや敗退する、全滅するなどあってはならない、いや。 リングに上らなければ安全だ。 分隊員誰もがそう思っていた。 攻勢とやらを明日に控えてるのだから、相手はそれほど長居はしてられないだろうとタカを括っていた。 どんな挑発にも乗らず、時間を稼げば助かると。 そしてチャイカ・ガラーホフは「いざとなれば、自分には捨て駒が三つも残っている」と考えていた。 『イースタンの仔ザル』をここに来させるまでのあいだ、莫迦どもに時間を稼がせれば良い、落とし前を付けさせれば良いと。 これまでの相手の態度、“面汚し”への対応から考えれば、装具を整える時間を寄越すと思っていた。 そのときも、最悪の場合、順番が回ってきてから一人ずつバラバラに取りに行けば良いと認識していた。 鈴長が鉦官を手に掛けようとするなど、それこそ軍の根幹を揺るがす大問題であり、絶対に有り得ないと確信していた。 ましてやガスパジン・バルコープニックの意向に逆らおうとする者など、今の軍に居るワケがないと信仰すらしていたのだ。 だが違った。 リングの上か下かなど、問題ではなかった。 ココへの侵入を許した時点でとっくに自分たちは敗北していた。 間抜けな分隊指揮官が(愚かにも)このサザン人の入室を許可しくさりやがった段階で、自分たちに勝てる見込みなど無かった。 ましてや、引き揚げようとしていたのを呼び止めて、ケンカを吹っ掛けたことに至っては弁解の余地は無い。 その時点で生き残れる目など完全に無くなっていたのだ(現実は“南部の人喰い熊”をマトに掛けようと考えた時点で敗北は確定していたし、そもそもこれが自分たちの播いたタネだという事実から“クソソプラノ”は目を背けている)。 「一つ、どうしてもフに落ちねぇんだがな、ウェスタン豚ども」 サザン人は素朴な疑問の眼差しを向けた。 「お前ら、わしの仇名の意味を知ったうえで、ケンカ売ってたんじゃねぇのか?」 “南部の人喰い熊”の言葉に、分隊員の誰もが心臓を鷲づかみにされたような感覚を覚える。 そして―― 情けないと呼んでやるには余りにも悲痛な色合いを帯びた叫びが四人の口から迸った。 ライオット・ワーブはこれまで三十件以上もの鉦校殺害容疑を掛けられている。 掛けられただけでなく、現実に告発までされて、軍事法廷に立たされかけたことすらある。 しかし、いずれの場合も、どう言うわけか、軍法務部は証拠不十分として訴えそのものを退ける判決を下してきた。 “南部の人喰い熊”とは尊称ではない。 これは息子を亡くした親たち、それも王国の有力なノーザン人貴族数家が連名でこのサザン人鈴長に、限りなく黒に近い灰色の容疑者に与えた蔑称。 莫大な額の懸賞金とともに ここにいる第二分隊員たちは、だから、ライオット・ワーブを狙ってきた。 出世の足がかりにする為や権勢欲、好奇心、金目当てと、それぞれ動機は異なっていたが、彼らは“南部の人喰い熊”の首を狙っていたのだ。 事ここに至り、“クソソプラノ”たちは――ようやく――原隊を離れるまえ、最先任下士官が伝えてきた忠告を思い出していた。 軍に入って以来、何度となく耳にしてきた言葉を。 すなわち、 ――ライオット・ワーブに近づくな。 ――ライオット・ワーブには逆らうな。 ――ライオット・ワーブだけは絶対に怒らすな。 なぜこれまで一度も疑問に思わなかったのだろう。 “クソソプラノ”たちは心中呻いた。 貴族が権力を欲しい侭にしていた頃に、ノーザン人貴族鉦官を何人も殺してきた男が、そして今日まで生き延びてきた男が弱いなんてこと、あるワケないじゃないか。虚像だなんてこと、あるワケないじゃないか。 ましてやバッカンすら手に掛けてきたのに、庶民出のムジガネを始末するのにためらったり、遠慮したりするハズ、ないじゃないか。 なぜもっと早くに気付かなかったのだろう。 “まな板面”たちは歯噛みした。 実戦経験者の言葉は真実しかないじゃないか。 軍と言う組織で十五年以上も生きてきた鈴長の予言は、いつも、現実になってくるのを、見てきたじゃないか。 軍の古老たちがわざわざ(毛嫌いしてる若造のところまで足を運んで)伝えにきたのなら、それはもう、最大級の警告以外、考えられないじゃないか! 分隊員たちの心と将来への見通しは暗くなったが、現実の兵舎内の光量は増大している。 ライオット・ワーブは講釈を垂れながらも、休むことなく、魔術編成を続けていた。 法術素養がなくても判る。 いまやサザン人の手は頭上高くに掲げられ、ソフトボール大だった炎玉は抱えきれない大きさにまで膨らんでいる。 リング上には陽炎がゆらめき、キャンバスはおろかロープが溶ける臭いまで漂い、水溜りの水すら温んだように感じられた。 「さて……」 “南部の人喰い熊”が口を開く。 「「ペットのアルバム」は処分したか? ママにお別れは? ホモだちのケツにしがみ付いて、命乞いのクソ垂れるお口の準備はオゥケィ? ……解ってるたぁ思うが、オゥケィだろうがなかろうが、待ってやる積もりはわしには無い。害虫に「掛けてやるクソ慈悲」もな。じゃ、クソ地獄でも達者でやれよ、メスブタども」 紛れもない『やる気』がその短躯から立ち上った! 万洲帰還兵が選んだ打撃の名称は、火系一般中級攻撃魔術フレイムブラスト。 ナパームに較べればかなり位負けしている感はあるが、この状況なら四匹のおフェラ豚をローストポークに変えるには充分だった。 目標とのあいだに、邪魔するものが何もなければ…… “南部の人喰い熊”の上げた気炎が標的に着弾する刹那、なにか青いものが飛び込んできた。 「ボスンッ!」とくぐもった破裂音が響き、もうもうたる蒸気が立ち昇る。 一面に立ち込めた白いとばりの向うから「ホキャアー!」だの、「水! 水!」だの、「金が!」だの、「ママ……いや。 とにかく歴戦の勇士の口から出たとは思われない情けなく、甲高く、恐怖で引きつった悲鳴が兵舎中に響いた。 一面の水蒸気をまえに“南部の人喰い熊”は黙然と佇立し…… 「がぁぁぁぁぁっ!」 いきなり唸り声を上げ、頭をガシガシとかきむしる! 「出やがった! クソッ最悪だ! クソ折角クソここまで、クソシコシコクソ念入りにクソ段取りしてきたクソ手筈が、クソ丸ごとクソ全部、クソパーだぁっっっ!!!!!!!」 「主力を掌握するべき指揮官が、部下に仕事を丸投げして、自分は持ち場離れて、ヨソさまのオウチ上がり込んで、遊び倒して、捜索隊に逆ギレ……。もう指揮官の資格がどうの、大人の自覚がどうのと議論する以前に、あんたのヒトとしてのレベルについてトコトン議論し合う必要がありますな、閣下」 サザン人の忌々しげな悪罵に対し、湯気のなかから応えてくる冷淡な声があった。 “クソソプラノ”以下の分隊員も状況を、まだ自分たちが生きてることを――やっとのことで――認識する。 熱気に目をしばたたかせつつもリングの方、声がした方に目を向けると、“南部の人喰い熊”と自分たちの間に、うっすらと人影が見えた。 晴れてきた水蒸気の向うに立ってたのは長身痩躯の一人の老兵。 色あせた野戦服に身を包んでいるウェスタン人の伍長、“南部の人喰い熊”の副官だった。 「ああ、言い訳は結構。あんたのヘ理屈に付きあってやれるよな時間、と言うよりも忍耐力は、ウジのクソほどもありゃしません。あたしゃ後始末に入りますんで、あんたは邪魔になんないようクソ何処かヨソ行って、クソ独りクソ静かにクソ遊んでやがってて下さい。よろしくありますな? よろしくありますな。いやいや、聞き分けの良い上司に恵まれて、あたしゃ六国一の果報者ですよ、まったく」 老兵は自分の上官から顔を背けると、シッシッと、まるで野良ネコでも追い払うように右手を振る。 慣れか、諦めか、弱みでも握られてるのか。 それは解らないが、“南部の人喰い熊”は爆発しなかった。 不敬、無礼と言ったぐらいではおっつかない副官の態度に、怒りの表情を顕わにしつつも、沈黙を保っていた。 「……さて」 老兵のその言葉に思わず先ほどの恐怖が分隊員のなかに蘇る。 「声ぐらいでビビッてんじゃねぇですよ! まったく」 しかしその気配を敏感に掴んだ老兵は四人の鉦官を一喝して、拳をビュッと横に振った。 キラキラ光る微細な粒、霧が、分隊員にフワフワと降ってきた。 「「「「おっ…………」」」」 霧の掛かった部分から痺れが抜け、次第に身体の自由が戻ってくる。 どうやら治療の聖水を撒いてよこしたらしい。 役立たずどももモゾモゾ床の上に上体を起こす。 それを見た老兵はツカツカと移動を開始し、こんなことを語りだした。 「いつ頃からですか、ベッドから出りゃいつもイ、ああ、いや、スケキーヨの気持ちでいましたが」 こちらとリング上でへたり込んでいる『面汚し』、双方を視界に納められる地点で振り向く。 そして莫迦にしたように鼻を鳴らす。 「今は、って言うか先刻ウチが本格的に状況を開始してからは、ホーンブロワーの心境が解るようになってきましたよ。こちらにお伺いしてからは特にです、解るよになって参りましたよ」 老兵の言葉に第二分隊は全員眉をしかめていたが、指揮官と部下とではその理由はおおいに異なる。 分隊員どもが眉をしかめたのは話に挙がった二人を知らなかったからであり、指揮官の方は相手の意外な教養に瞠目させられた為だ。 クラスホイの解釈はこうだ。 スケキーヨとは、恐らく、かつてナナギ皇国の覇権争いで武力集団コヅエー(梢氏)に滅ぼされたマドゥーカ(円氏)の総帥にして異相の武将スケキヨー(ノーザン人はこの発音になる)――円 佐清(まどかのすけきよ)――のことであり、ホーンブロワーとはビアンキの天才劇作家クェイクピロムが著した四大悲劇の一つ、ロムレットの登場人物のことだろう。 ならば老兵の言ったスケキヨーの気持ちとは、ドールズシー(雛の浦)の海戦でコヅエーの指揮官ヒトツグー(梢 仁継)に敗れ、死ぬまえに遺したとされる言葉――見るべき程のことは見つ、今は自刃せん――のことであり…… ホーンブロワーの心境というのは、第一幕第五場のセリフ――ホーンブロワーよ、星とわだつみの狭間には、貴様の美学が妄想できる以上のモノが棲息しているのだ――を指しているに違いないと(この解釈は完全に当たってる)。 ロムレットは、この老兵と同じ、ウェスタン人種が著した作品だ。 年配者で、いまよりも娯楽の少ない時代を過ごしてきたのだから、興味を覚え、触れる機会もあったろう。 しかし……ナナギの歴史や円家物語なぞを陸戦隊の、それも伍長如きがなぜ知っているのか(例の同僚から教えられるまで、クラスホイ自身、円曲という名前すら知らなかった)。 いや、そもそも自分たちはこのウェスタン人の老兵については本当に何も知らない。 一体この老兵は…… 「上手な撫でっこの技前だけで万州帰りを打倒できると、そう思い込んでおられる坊ばちゃんにも驚きましたが、しかし、これも時代の流れですか。まさか、ライオット・ワーブが魔術を使えること『すら』知らない、元陸戦隊員が存在してるとは。この分ですと『多分』みなさんは、閣下が神術医療兵の上がりだったこともご存じないんでしょうし、ホットドッグリッジでの実績を見込まれて、しばらく弓術兵に回されてたことも、『きっと』、お聞き及びになってないんでしょうし、ましてやそれで挙げた戦果から“ベルビアのパーフェクト・ソルジャー”と恐れられるようになったことも、『恐らく』、教わってないんでしょうなぁ」 失笑を含んだ老兵の言葉に、第二分隊は全員「ソレなんてコレフズィルバーの英雄?」と泣きだしたい気分だった。 「ベルビア陸軍最小の戦略単位が、キングギアの最新モデルを二三着重ね着したぐらいで殲滅できるんなら、これまでにどこかの誰かがヤってますよ。そうしてこの国は、と言うより……」 老兵は軽く鼻を鳴らし、意味不明なことを口走る。 「六大国すべてが崩壊してますな」 こちらが怪訝さを面に浮かべているのに気付いたらしい、「一つ質問しましょう」と続けた。 「ウチの閣下の本当のあだ名は何と言うのか? 世間一般に流布している、下っ端どもが頻繁に耳にするモノではなく、この国の権力機構、その中枢付近におられる方々が、ライオット・ワーブを何という名で呼んでいるか、ご存知ですかな?」 (((((……なにをしゃべってんだ、このじじ……いや、伍長は?))))) 相手の意図が判らず、読めず、第二は一様に沈黙を保った。 そのことに老兵は破顔する。 「ははぁ。クェイクピロムの有名な言葉、『完黙は金』を実行なさっとられるんですな。その若さで鉦官になられるだけあって、みなさん、さすがに教養がお有りだ。タブロイドのエロ小説欄にうつつ抜かしてやがる、どっかのアホサザン人クソ下士官に、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいですな、ええ。ああ。いやいや、他人のことをとやかく言えた義理じゃありませんな、自分も。『完黙は金、能弁は銀』、そんな風に考えてた時期は自分にもありました。ですが、お若い方々、そいつはクェイクピロムの、巧妙な、プロパガンダです。時宜を得た能弁は金以上の輝きを放ちます。そして発言を求められたときに黙り込んだりしようものなら男、じゃない、女の、も近頃マズくなってましたな。ニンゲン、そう、ニンゲンの真価は下げ止まりをみせません。なによりみなさん、こっちもご承知でしょう? 金に付いてクェイキーが遺したもう一つの格言、『光る物のすべてが黄金とは限らない』も?」 ((((だから、先刻から、ナニ言ってんだ、オメエわ?! あぁっ?)))) 伍長とは言え、『いやしくも』相手は命の恩人。 ゆえに抑えてはいたが、普段なら分隊員の誰もがとっくにそう怒鳴りつけてるところだ。 欲で目が眩み、認識の甘さも目立つものの、彼らは決して怠け者ではない。 上を目指してる以上、それなりに勉強もしてるし、本だって読んでる。 全員『インファントリー・ディスティニー』や『ジェニファー年間』を定期購読してるし、地要誌や自分たちが放り込まれそうな状況に関する技術書、専門書のチェックは欠かさず行ってもきている。 文化的教養を求められても大丈夫なように、最近は(ってか、この作戦に選ばれてからは)文学、芸術方面にも力を入れてきた。 『ロメオとアリエット』を書いたビアンキの天才作家、T・G・クェイクピロムなら一番に手を出して、こう思ったさ。 「「「「諺ばっかりで、オリジナリティが欠片もない作品だなぁ」」」」と……。 無論、分隊指揮官は、部下が諺や格言だと思い込んでるものの殆どがクェイクピロムが作り出したセリフである事を知っている……。 「賞品が付かなきゃボルテージが上がりませんか? それとも、どこかから修正、もとい、ツッコミが入るとでもお思いですかな? そっちの心配は要りませんよ。アレは押さえてあります。どなたでも、忌憚のないお答えをどうぞ」 「“南部の人喰い熊”……だろう」 こちらの答えに、老兵はピシャッと額を叩き、「Fu―Ah!」と失礼な奇声を上げやがった……。 「こう言う質問の仕方をされれば、『フツーは』裏があるなと考えて然るべきところですが、なるほど! 指揮官に花を持たせてナンボの副官らしく、『わざと』バカを装われたってワケですな?! いやいや。遠からぬ将来、自分は天国の大陪審に召喚されるでしょうが、そのとき『所属は問わん。理想の副官を一名挙げよ』と意見を求められたら、こう答えますな、『Sir! それは『元』ベルビア王国陸軍陸戦隊、チャイカ・ガラーホフ少尉ドノ以外は考えられません! 少尉殿こそは副官の鑑であらせられます! Sir!』と。が、残念ながら違います、少尉ドノ。貴族のバカ息子二、三人『笑かした』ことなんか、月卿雲客のどなたも気にしてすらおりませんよ。「ああ、そんなのあったねw」って程度でしょうな。どなたか、他にご意見がお有りの方は?」 「“怖るべき熊”。ここに来るまえ、ベリエフ閣下の副官をなさっておられる方がそう仰っておられるのを耳にしたが……」 “ノーザン人貴族の恥”の言葉に老兵はスッと目を細めた。 「それは中尉殿お一人が? それともここにおいでの皆さん全員が?」 “面汚し”の「全員だ」という答えに――そして全員がそれを認める気配に――老兵は大きく目を見開く。 「な・る・ほ・ど。なるほど、なるほど。興味深い。じつに興味深い。あのガスパジン・バルコープニックがあなた方に閣下を“怖るべき熊”と話した、いや、あなた方にはライオット・ワーブを“怖るべき熊”と『しか』話されてないというのは、じつに、非常に、大変、まことに興味深い」 「いったい先刻から何の話をしている、貴様は?!」 このままでは埒があかん、そう思ったチャイカ・ガラーホフが口を開いた。 「確かにこれ以上は、閣下じゃありませんが、百億万年河清を待つが如しですな。よろしい。正解をお教えしましょう。上の方々が閣下にお付けになったコードネームは、“触れ得ざるもの”です」 ((((“触れ得ざるもの”?)))) 昔、子どもの頃に聞いたような気が……そのとき周りの大人たちが興奮して騒いでたような……いや? そんな大昔ではない。 ここ最近、つい三、四年ぐらい前にその名が連呼されるのを聞いた憶えがある、確かテレビで。 あれは果たして…… その名が老兵の口から出た瞬間、「バッ!」と音がした。 音のした方に目を向けると、サザン人が厭な所を突かれたという表情を浮かべて自分の副官を…… 「嘘だ! 有り得ん、そんなこと! 第一、あのテロリストは……」 驚愕の雄叫びが兵舎中に響き渡った。 そちらに目をやると無駄飯喰らいの大男、オズワルド・“まな板面”・グリッペンが血相を変え、上体を乗り出し、血走った目をカッとひん剥いていた。 「首長殺害を計画してのアガメン潜伏中、現地の捜査員にアジトまで踏み込まれ、最早これまでと爆身自殺した……ですか。あんな使い古された手を信じてるバ、ああ、いや、純真な心の持ち主がこんな身近にいるとは夢にも思いませんでしたな。それに……」 その言葉がどんな効力を発揮するのか知り尽くした表情で老兵は言った。 「“触れ得ざるもの”がテロリストなら、その衣鉢を継いだ越境特務隊もテロリストってことになりますが……」 ギョッとした顔を浮かべる“まな板面”を見て老兵はニヤリと笑った。 「この世が善悪二色で完璧に塗り分けられると信じておいででしたか、少尉? いやはや、ホーンブロワーです。ますますもって、ホーンブロワーです」 小隊最年長下士官はそう言って愉快そうに笑った。 “触れ得ざるもの”。 ルーべンス全土を股にかけ、犯罪史上他に例を見ないほどの大量殺人と大量破壊を繰り返し――そして無数の模倣犯を生み出した――正体不明、最悪且つ伝説のテロリスト(もしくはテロリスト集団)の仇名だ。 万州戦争が終結した王国歴五三八年初頭から活動を開始。 以後約七年間――正確には王国歴五四四年十月二十日まで――あらゆる国と地域で、老若男女美醜貴賎種族人種の別なく何千人もの命を奪い、幾つもの公共施設、文化遺産、歴史的建造物や宗教建築物を破壊し、人類全体の宝とも言うべき芸術品や文化財の強奪や損壊を繰り返して、六大国全てから指名手配を受けた。 自分の犯行だと顕示するためか、それとも特別な理由でもあるのか。 犯行現場かその近くに奇妙なシルシは残していくが、正体に結びつく証拠やその足取りを追う手懸りはなにも遺さないこと。 目撃者(と思しき者)は必ず殺害してきたこと。 一度使った手口や道具は二度と使わないこと。 なにより、当局の捜査努力が最後まで本当になにも実を結ばなかったことから、“触れ得ざるもの”と呼ばれるようになった。 他の者は当時十歳になるかならずだからハッキリ覚えてなくても無理はないが、オズワルド・グリッペンは成人に差し掛かっていた。 そして他でもないその日にベルビア陸軍に、陸戦隊に入隊したのだ。 カンヌ・フォード基地の理髪店で頭を丸坊主にされながら、その報道をテレビで見たのだ。 そんな簡単に忘れられるものではなかった。 「クェイキーは『始め良ければ、すべて良し』とも言っとりますが、なに、いくら天才でも奴さんも所詮はニンゲン。逆立ちしたってカミサマにはなれないってこってすな。まあ、見事としか言いようがないやり口で始められた万洲戦争、いや、聖塩戦争? それとも、第二次人権戦争といった呼び方がお好きですかな、ノーザン人中尉ドノは、やはり? とにかくあの最悪をダク盛りにした戦争で、最高に最悪なことは、本当にどうしようも無かったとは言え、到底腹に据えかねるほどの怨み、辛み、わだかまり、なにより――」 「色んな終わりの可能性をはらんだまま、一つまみほどのお偉いさんの思惑だけで、無理やり終戦を迎えさせられたってことですよ」 老兵が苦々しげに吐き捨てた。 普段のこの人物らしからぬ、それは非常に憎々しげな表情であり、本当に、本当に、忌々しげな口調だった。 時計の針は一九○五時を指していた。 |
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