繋いだその手の温もりを


                               
月球儀





 紫陽花の咲き誇る季節にしては、今日は珍しい上天気だった。梅雨時には珍しいその天
気に、この機会を逃してたまるかとばかりにグラウンドで部活動に励む生徒たちの声が、
ここまで聞こえてくる。
 まあそれは、この教室の中が異様に静まりかえっている、という要因もあるが。何しろ
二人しか居ないこの教室で、二人して黙っているのだから。
 いま俺と机一つを挟んで向かい合っている女性は、一言も喋らなくなってから既に2分
近くが経っている。俺としても彼女に聞かれなければ答えることが出来ないため、結果、
こうして静まりかえった教室という状況が出来上がったわけである。
 特にすることがないので目の前の女性の顔を眺めていたら、腕を組んで考え込んでいた
彼女の瞳に、ようやく理解の色らしきモノが宿ってきた、ように思えた。この人のことだ
から油断は出来ないが。
「……ろん、どん?」
 顔をしかめて呟いた彼女は、自称、士郎のお姉ちゃん。その実体は、衛宮家のエンゲル
係数をただ一人で跳ね上げている半居候。その名も藤村大河という。
 そんな彼女の世を忍ぶ仮の姿は、俺の通う穂群原学園の教師だ。さらに言うなら、俺の
クラス担任でもある。つまり、夏休みも間近となれば、こうして三者面談などと言うもの
もやらなければならなかったりする。
「ああ。卒業したら、俺はロンドンに行く。」
 先程言った言葉を繰り返し、頷いたのは赤毛の少年。これと言って特徴のある外見では
ないが、その瞳には強い意志が見て取れるだろう……と言うのは、自惚れだろうか。つま
り、俺である。
 俺の名は、衛宮士郎。六年前に父親を亡くし天涯孤独になって以来、親父の遺してくれ
た、独りで住むには持てあますほどの屋敷で暮らしている。だが今は、家族と呼べるよう
な人が何人かいるので、寂しさを感じる暇もない。
 特に目の前にいる彼女、藤ねえが側にいてくれたから、俺は寂しくなかったのだろう。
彼女とは親父がまだ生きていた頃からの付き合いで、六年前に親父が亡くなってからも、
彼女が俺から離れていくことはなかった。と言うか、今ではほとんど居候と化している彼
女のために、朝晩の食事に加えて時々昼の弁当まで作ってやっている。
 作って『もらって』いるのではなく、作って『やって』いるという事実に一抹の疑問を
覚えるのだが、人間の食事がしたいのなら彼女に包丁を持たせてはいけないと言うことを
誰よりも理解しているため、その点に関してはもはや諦めの境地だ。
 それでも俺は、藤ねえを尊敬している部分もある。例えば、今日の三者面談だ。どうせ
朝晩と家で顔を合わせるのだし、俺には親がいないんだし、わざわざ学校でやる必要なん
か無いんじゃないかという俺の意見に対し、藤ねえは、
「それだと甘えが出ちゃうでしょう。これは士郎の一生の問題なんだから、お姉ちゃんと
しての立場と先生としての立場は、ちゃんと区別しないとね。」
 と言って、俺だけ特別扱いすることなく、しっかり三者面談の日程に組み込んでしまっ
たのだ。普段の行動は確かに子供のようだが、こうして大事なところでは大人の顔を見せ
る藤ねえを、口に出すことはないが俺は尊敬――
「だめだよぅそんなの! お姉ちゃんは許しません!!」
 ――前言撤回、出来るわけねぇだろこのタイガー。言ったそばから思いっきり公私混同
してんじゃねぇ。
「ぬぅうっ、私を虎と呼ぶなー!」
「ってちょと待て藤ねえ、俺まだ口に出して言ってないぞ!?」
「私はお姉ちゃんなんだから、士郎の考えていることくらいわかるもん! とにかく断固
反対なんだからね!」
 がー、と立ち上がって叫ぶその姿は、虎の咆吼もかくやと思わせる迫力に満ちていた。
まさかとは思うのだが、藤ねえには人間の常識というものが通用しないのかもしれない。
さすがはタイガー、恐るべし野生の勘!
「ああっ、一度ならず二度までも……士郎、そこに直りなさーいっ!」
「マジで心が読めるのかあんたは! ってゆーかなんでそんなに反対すんだよ!?」
「……だっていつ帰ってくるか、分からないんでしょう?」
 途端に先程までの剣幕は鳴りを潜め、今度は拗ねたように上目遣いで、藤ねえ。
 まあ、確かにそう言われれば、そうだ。俺は俺の目的が達せられるまでは多分戻ってこ
ないだろうし、下手をすれば一生かかるかもしれない。
「ああ。目的があるから、それを叶えるまでは戻らない。ひょっとしたら、もう戻ってこ
ないかも知れないな。」
 でも、それは俺の夢だから、諦めるわけにはいかない。むしろ目的を達成するまで日本
に帰らない、なんてプレッシャーを自分に与えた方がいいかも……と思ったその時。
「だめ駄目だめダメ、絶対だめーーーっ!!」
 などと仰りやがってくれましたよこの虎は。っていうか首を絞めてガクガク揺さぶるの
はマジで効くので勘弁していただけないでしょうか。
「いや極まってる、極まってるって藤ねえ!」
 死に物狂いで振り解き、立ち上がりかけ……俺は、足が竦んでいるのを自覚した。
 彼女の目には、紛れもなく怒気。俺が彼女の感情を読み違えるわけがない。
 彼女の手には、紛れもなく竹刀。俺が彼女の竹刀を見間違えるわけがない。だって虎の
ストラップが付いてるし。
 足が動かない。まさしく蛇に睨まれたカエル、いや、この場合は虎に睨まれたウサギと
言ったほうが適切か。
 そう思った瞬間、藤ねえの目に浮かぶ怒りの炎が、まるでガソリンでもぶっかけられた
かのように盛大に燃え上がった。……ひょっとしてお姉さまは、今の比喩もお気に召さな
かったのでございましょうか?
「召すかー! ええい、私の愛刀・虎竹刀で士郎の根性を叩き直してやるー!」
 その言葉が終わるよりも早く、俺の脳天に虎竹刀が振り下ろされた。しかし、俺はその
一撃を聖杯戦争で鍛え上げた心眼(真)とも言うべき直感で察知し、横っ飛びにかわす。
 ……おい。俺の代わりに竹刀を受け止めた机に、ひび入ってないか……?
「藤ねえ、少しは加減しろ!」
 じゃなかったら根性が叩き直される前に身体が叩き壊されるわ、このバカ虎ー!
「加減して欲しかったら素直に打たれなさい!」
 なんつー理不尽な。かつては冬木の虎と言われ、その剣に並ぶ者なしとまで謳われた藤
ねえだ。今でこそ現役を退いてはいるが、かつて剣道界の一世を風靡した実力者。竹刀と
はいえ、あんなマジな一撃が当たったら脳天が陥没しかねない。
 その想像に震える暇もなく襲いかかる妖刀・虎竹刀。その速度と軌跡はまさしく疾風、
縦横無尽に駆け巡る。踏み込む隙はなく、かといって、背中を向けて逃げようものならば
間違いなく倒される。故に出来るのはただ、紙一重の差でかわすことのみ――!
「くっ!」
 だがそれも、教室という限定された空間の中ではいつまでも続くものではない。教室中
の机をなぎ倒し、邪魔な椅子を蹴り倒して逃げ回ったが、目の前の全てを破壊しながら突
き進む虎の前では、所詮虚しい抵抗でしかない。程なく俺は、教室の隅へと追いやられた。
衛宮士郎、ただいまライブで大ぴんちですか!?
「ふっふっふ。悪足掻きは此処までなんだからね、士郎。」
「た、体罰反対っ、つーか丸腰の相手に得物持って凄むな!」
「も・ん・ど・う・む・よ・う……天誅ーっ!」
 勝利を確信した藤ねえは竹刀を大きく振りかぶり、覚悟を決めた俺は硬く目を閉じる。
 親父、俺も今すぐそっちに逝くよ――。
 台風でも通り過ぎたかのように荒れ果てた教室で、悲壮な決意を固めた、その瞬間。
「かーーーーーーーっつ!!!」
 裂帛の気合いが轟き、俺も藤ねえもその場に凍り付いた。その声の持ち主は当然俺では
なく、もちろん藤ねぇでもない。
 藤ねぇは竹刀を振り下ろしかけた格好で、俺は両手を交差させ脳天をかばった格好で、
二人して固まったまま声の出所に目を向けた。すると教壇側の出入り口、夕陽を背負って
顔の判別も付かない男が、そこに立っていた。
「藤村教諭、それに衛宮か。まったく騒がしい、一体何をやっているのだお主らは!」
 その怒声のおかげで、ようやく相手が誰だか分かった。この声、この言葉遣い、思い当
たるのは一人しかいない。
「一成……助かったぜ、地獄に仏だ。」
「む、俺はまだ解脱した覚えはないが。」
 その惚けた答えはやはり親友、柳洞一成のものだった。

「やれやれ、死ぬかと思った。」
 ところ変わって、生徒会室。俺は一成を相手に、生の喜びを謳歌していた。
「む、随分と大袈裟だな衛宮。……とばかりも言えんか、教室があの惨状ではな。」
 額に一筋の汗を浮かべつつ、まずは一杯、と緑茶を振る舞う一成からありがたく湯飲み
を受け取る。俺の好みの、舌が痺れるほど熱いやつだ。
「さんきゅ。んー、美味い。」
 うん、やっぱりお茶は、一成が淹れてくれた方が美味い。少しだけ悔しいが。
 俺も料理を始めとして、家事全般には些かの自信があるが、こと日本茶を淹れることに
関しては一成に及ばない。聞くところによると、柳洞寺の跡取りである一成は、現住職の
親父さんに随分と鍛えられているらしい。なんでも、小坊主の修行の第一歩は、美味しい
お茶を淹れることから始まるのだそうな。
「ま、つまり。虎は檻に入れておくべきだってことだな、結論としては。」
「む。お主がそうやって挑発するから、藤村教諭が暴れたのではないのか。彼女が自分の
あだ名を嫌っているのは、周知の事実だろうに。」
 一成は眉をひそめる。名前が大河だからあだ名はタイガー、単純な名付け方だが、俺は
これ以上ないほど藤ねえにぴったりのあだ名だと思っている。ちなみに話題の虎は、現在
校長室という檻の中で説教を喰らっている最中だ。本来ならば俺も同罪なのだが、
「一成、そろそろ暑くなってきたよな。確か、部室の壊れたエアコン買い換えの嘆願書が
各文化部長の連名で出されてきたって、この前ぼやいてなかったっけ?」
「む、何が言いたいのだ。」
「いや、ここに腕の良い修理工がいるっていうだけの話だけどな。」
「……衛宮、お主も悪よのう。」
 という高度な政治的取引により、心強い弁護士を手に入れて無罪放免。今はこうして、
生徒会室でのんびりとお茶を啜っている。
 いや、それはともかく。
「一成、俺は別に挑発なんかしてないぞ。面談で俺がロンドンに行くって言ったら、急に
藤ねえが暴れ出したんだ。」
 そう、実際それだけなのだから、俺が怒られる道理など無い。なのに一成は、俺の言葉
を聞いたとたん、目を丸くしてしまった。
「……ろんどん?」
「そう、ロンドン。」
 あ、既視感。
 目を丸くして、呆然と呟いて、それから――。
「……初耳だ。衛宮、面談で言ったということは、卒業後の進路なのだな?」
「そのつもりだけど。」
 さすがは一成、我が校の誇る文武両道の生徒会長。急に暴れ出した虎とはひと味違う。
落ち着いたその態度は、悟りを開くための修行が決して伊達ではないことを示している。
「確認するが、衛宮。俺は初耳だが、藤村教諭にその事を一度でも相談したか?」
「いや、しようとは思ったんだが、藤ねえが聞いてくれなかったんだ。フライングはだめ
とかで。おかげで、今日まで延び延びになっちまった。」
 ……いや、一成。なんで頭を抱えるんだ、そこで。眼鏡もずり落ちかけてるし。
「おい、一成?」
「話はよく分かった。藤村教諭が暴れたのも頷ける。」
「はぁ?」
「こうしてはおれん、今すぐ藤村教諭の弁護に向かわねば。衛宮、お主はそこで気の済む
まで茶でも啜っているがいい。」
 言うなり一成は立ち上がる。……すまん、話が全然見えないんだが。
「ひょっとして、俺が悪いのか?」
「衛宮、お主は良い奴だが、他人の気持ちに鈍感だというのはよく分かっている。だから
俺は何も言わん。だが、お主のその甘えが、藤村教諭には我慢できなかったのだろうよ。
それだけは憶えておけ。」
「……さっぱりわからないんだが。」
「分からなければ、分かるまで考えろ。悩みの果てに辿り着いた、その答えこそが尊いの
だと知れ。日々是、精進也。喝!」
 そうお決まりの台詞を残して、一成は走り去った。寺の跡取り息子だからか、それとも
生まれつきの性格だからかは知らないが、一成は嘘を吐かない。それはもう、建前という
ものを知らないのかと思うほど本音で喋る。そのあいつがあそこまで言ったという事は、
やはり、藤ねえの暴れた原因は俺にあるということだろう。
 しかし、どうにも分からない。なんで藤ねえは怒ったのか。虎と呼んだことが原因では
ない、それは分かる。しかし逆に言えば、それくらいしか分からない。
 火傷しそうなほど熱かった茶が冷たくなるまで考えたが、どうしてもわからなかった。

 気が付けば、下校時間はすぐそこに迫っていた。それでも原因に思い当たらない俺は、
ひょっとしてどこか、人間として欠陥があるのではないかとまで思ってしまう。
「けど、どんなに反対されたって、行くって決めたんだしな。」
 そう、もう決めたのだ。
 だって、衛宮士郎は救われた。十一年前の大火事で家族も友も亡くしたが、士郎だけは
救われた。士郎だけが、救われたのだ。
 だから、自分も誰かを救えるようになろうと思った。
 あの時士郎を助けてくれた義父のように、誰かを救える男になろうと思った。
 そして、ただの士郎は衛宮士郎になり。少年は魔術師になった。
 どこかの誰かの未来のために、どこかで泣く子供が一人でも減るように。
 正義の味方になることを夢見た少年は、正義の味方だと信じて疑わなかった義父の後を
追ったのだ。
 ならばこそ、立ち止まるわけにはいかない。少年はもう、衛宮士郎になったのだから。
 セイギノミカタ      セイギノミカタ
 衛宮切継の息子として、衛宮の名を継いだのだから――。
 だから、ロンドンに行く。もっと強くなるために、もっと揺らがずにすむように。
 黄金の丘にただ一人立ち、理想のために戦場を駆け抜けた彼女のように。
 士郎もまた自分の理想を、譲れない夢を貫くと、彼女に誓ったのだから。
 そう、例えそのために、二度とこの地に戻れなくても――

 そこまで思考し、途端、何もかもが腑に落ちた。

 ――あ。ああ。……そう、だったのか。
 唐突に、本当に偶然だけど、藤ねえがあそこまで怒った理由に思い当たった。
 そういうこと、か。だから藤ねえは教師としてではなく、姉として怒ってくれたのか。
 ああ、やはり衛宮士郎は歪んでいる。こんな単純なことに気付かないほどに。
 すぐに藤ねえを迎えに行こう。もう帰っちまったかもしれないけど、それなら藤ねえの
家まで押し掛けるだけだ。
 まずは校長室か職員室、と勢い込んで生徒会室の扉を開ける。と、目の前に。
「柳洞くんが、士郎が此処に居るって教えてくれたんだ。じゃあ帰ろっか、士郎。」
 いつも通りの笑顔を浮かべた藤ねえが、そこにいた。

 二人、並んで歩く。言葉もなく、紫陽花に彩られた通学路を、ただ並んで歩く。
 久しぶりに二人で並んで歩いていると、昔はよく、こうして帰っていたことを思い出し
た。あれは確か、小学校の時だった。家から学校までの行き帰りを、藤ねえは俺の手を引
いて歩いてくれた。当時は恥ずかしかった、藤ねえがしてくれたことの意味が分かったの
は、親父が死んでしばらく経ってからだった。
 守ってくれていたのだ、彼女は。衛宮士郎を取り巻く悪意から、己自身を盾にして。
 冬木市の歴史に残る大火災の生き残りである俺は、口さがない連中にとっては、格好の
ゴシップだっただろうに。それでも俺が気付かなかったということは、つまり、そう言う
ことなのだ。
 好奇の目を、同情の目を、哀れみの目を。彼女は己の身一つで跳ね除けてくれていた。
俺のために、俺が傷付かないですむように、彼女はそうしてくれていたのだ。
 気付いた日、俺は精一杯のご馳走を作った。藤ねえの喜ぶ顔が見たかった。予想通り、
藤ねえは満面の笑顔で食べてくれて、それがとても嬉しかったのを覚えている。唐突なご
馳走の意味を教えなかったのは、俺のささやかな意地だった。
 懐かしく思い出していると、ふと、伸びた影に視線がいった。藤ねえと二人、影踏みを
しながら帰ったこともある。
 けれど、以前とは違う影法師の長さに気が付いた。俺の影が、藤ねえのものより長い。
 いつの間に追い越していたのだろう。思い返そうとしても、浮かぶのはただ、藤ねえの
笑顔だけ。目線の高さなどは些細なことだと言わんばかりに、ただ、藤ねえの笑顔だけ。
 ああ、そうだった。見上げていても、同じ高さから見ても、見下ろすようになっても。
俺の隣に居た藤ねえは、いつも変わらず笑顔だった。だから、そんな事に気付かなかった。
 そう、なんて事はない。俺の傍らには、いつだって藤ねえが居た。だから気付かなかっ
たんだ。藤ねえの傍から離れるということがどういう事か、情けないことに、衛宮士郎に
は分からなかった。
 歩みを止める。想いが溢れ出しそうで、これ以上は一歩も歩けない。
「藤ねえ。」
「んー?」
 小首を傾げ、立ち止まって。
「どうしたの、士郎?」
 少しだけ先に行った藤ねえが振り返る。目を合わせられずに顔を背け、考えるより先に
口が開いた。ただ一つの言葉を言うために。
「ごめん。」
「……それは、何に対して謝っているのかな?」
 その声は優しく、どこまでも柔らかく。だから、泣きそうになってしまう。
 けれど、言わなくてはいけない。でなければ衛宮士郎は、彼女の顔を見る資格を二度と
得られないだろう。
「藤ねえに甘えていたことに。」
 家族だから、言わなくても分かってくれると思っていたことに。
 家族だから、笑って受け入れてくれると思っていたことに。
 藤ねえにばかり要求し、俺はただ与えられるだけだったことに。
 あまりにも居心地の良い関係に慣れすぎて、それを維持する努力を怠ったことに。

 考えてみれば単純なこと。衛宮士郎は藤村大河の弟ではなく、藤村大河は衛宮士郎の姉
ではない。
 ならば、なぜ俺たちは家族たりえたのか。それは、居心地が良かったからだ。
 互いに互いが傍らにいることを望み、それが幸せであると思ったからだ。
 なんてシンプル。ただ一つの想いで繋がれたその絆は、だからこそ強く。だからこそ、
片方が願わなくなれば瞬時に終わりを告げるもの。
 俺は藤ねぇが傍にいてくれることを望んでいた。ずっと傍にいてくれると思っていた。
 だが、俺は。衛宮士郎は。
 藤村大河の傍に居ることを望まず、そこから離れようとしているではないか。
 互いに傍にいることを望むのではなく、ただ一方的に傍に居ろと彼女に言っている。
 衛宮士郎、お前は何様のつもりだ?
 これでは藤ねえが怒るのも、まったく当然の結果ではないか。いつまで甘えれば気が済
むのか、俺は……!

 反省と恥ずかしさと情けなさで顔を上げられないでいると、藤ねぇが笑った。
「馬鹿ねー、士郎ったら。そんなこと気にしなくて良いのに。」
「……え?」
 思わず顔を上げそうになって、出来なかった。何故なら。
「士郎は弟なんだから、お姉ちゃんに甘えて良いんだよ。当たり前でしょう?」
 子供の頃のように、抱きしめられていた。もう背はとっくに追い越しているのに。
「いいんだよ、士郎は我が侭になって。どれだけ我が侭になったって、お姉ちゃんは許し
てあげる。だってお姉ちゃんだもん。」
「藤ねえ……。」
 優しい言葉。とてもとても、優しい言葉。ずっと俺を守ってくれていた、優しい姉。
「だからね、士郎。代わりに一つだけ、私の我が侭を聞いてくれる?」
 だから、俺は気付いてしまった。
 その優しい言葉の裏に隠された、想いに。




「だからね、士郎。一つだけ約束して。」
 ――お願い、士郎。

「士郎はちょっとだけ長い間、お出かけするの。だから、さよならなんて言わないで。」
 ――帰ってきて、なんて言えない。けど、もう帰らない、なんて言わせないよ。

「出かけるときは行ってきますだよ、士郎。そうしたら、私はいつでもお帰りなさいって
言ってあげるから。」
 ――帰ってくるまで待ってるから。たとえ帰ってこなくても、私は待ってるから。

「私がいる、桜ちゃんもいる。士郎、一人じゃないんだから。帰る家があるんだから。」
 ――この町には、士郎を待ってる家族が居るんだから。

「忘れないでね、士郎。どこに行っても、どこにいても、私たちは家族だから。」
 ――たとえ傍にいなくても、私たちは家族なんだから。

「だから、その日は、行ってきますって言ってね。さよならなんて言わないで。」
 ――だから、私たちの絆を断ち切らないで欲しいの。

「それだけ、約束して欲しいのよ。……だめかなぁ?」
 ――だって私たちは、家族なんだから。




 ――ああ。俺はバカだ。大馬鹿だ。こんなにも愛してくれる人がいる事を、何だって今
まで当たり前のように思ってきた。世界中で誰よりも幸せだったことに、どうして今まで
気付かなかった。
 母のように。
 姉のように。
 彼女は惜しみない愛情を、溢れるほどに注いでくれていたのに。歪んだ器の衛宮士郎は
その事に気付かなかった、その意味に気付かなかった。その奇蹟に気付けなかった――!
「藤ねえ……!」
 俺はただ頷いた。何度も、何度も。藤ねえの胸の中で、頷いた。優しい姉の胸の中で、
ただ己の幸せを噛み締める。
「さ、帰ろっか、士郎。私もうお腹ぺこぺこだよー。」
 俺の頭をゆっくりと撫でながら、藤ねえ。そう言う彼女の口調はまったくのいつも通り
で、それが彼女の優しさだ。だから、俺もそれに便乗させてもらうことにして。
「……だな、随分遅くなっちまった。今日は急いで作らないと。藤ねぇ、少し走るぞ。」
 そう言って、俺は返事を待たずに駆けだした。少し顔が赤くなっているだろうから。
「あ、ずるいこら待て士郎ー!」
 僅かに遅れて、藤ねえも走り出す。
 先を走る俺、それを追いかける藤ねえ。その差は縮まることはない。
 こうしていつか、俺は藤ねえを置いていくのかも知れない。衛宮士郎の見た夢を叶える
ために、かつて愛した少女に誓った理想を叶えるために。
 いつか、そんな日が来るのかも知れない。
 でも、それならば……いいや。だからこそ、今を大切にしよう。
 いま、この手で守れるものを取り零さないために。この手を、差し出してみよう。
「藤ねえ、ほら。手、出して。」
「え、ちょっとし、士郎?」
 振り返り、藤ねえの手を握る。もう無くさないように。彼女の想いを見失わないように。
「ほらほら、置いてくぞ!」
 ずっと傍には居られないかも知れない。戻ってくることも出来ないかも知れない。
 俺に出来る約束なんて、本当に一つだけだ。
 でも、望むことは出来る。我が侭を言っても良いと、いくらだって望んで良いのだと、
他ならぬ彼女が言ったのだから。俺はありがたく、その言葉に甘えよう。
 俺は、何度でも帰って来よう。
 どんなに遠くへ行ったとしても、どれだけ長い時が経ったとしても。
 年中世界を放浪していた親父が、それでも俺の元へ帰ってきてくれたように。
 俺の帰る場所は、俺の帰りを待っていて欲しい人は、目の前にいるのだから。
 ただ一つの我が侭を、何度でも繰り返そう。
 この人に、「お帰りなさい」と言ってもらえるように。

 繋いだこの手の温もりが、どこにいても、どれだけ経っても、たとえかけらとなっても
残っていてくれることを願おう。
 そうすれば、俺はいつかここに帰って来られるだろうから。
「藤ねえ。」
 いつか離さなければならないかも知れないこの手を、だからこそ強く握りしめて。
「約束するよ。だって、俺の家はここだから。」
 たとえこの手を離したとしても、何度でも繋ぎ直すこと。それが俺の我が侭だ。
 そう言ったら、藤ねえは。
「うん!」

 ――咲き誇る紫陽花よりも、それは、綺麗な笑顔だった。




                                  〜Fin〜











あとがき

 お久しぶりの月球儀です。今回投稿させて頂いたのは、TYPE-MOON様制作の「Fate」
から、セイバーエンド後の士郎×藤ねえです。なんでオフィシャルに藤ねえのエンドが
ないんだヽ(`Д´)ノ
 それはともかくFateですよ。久しぶりに時間を忘れてプレイさせてくれたゲームで、
とてもお勧めです。今までで感動したゲームランキングの、トップ3にきましたね。
 しかし、プレイしたのは二週間ほど前。発売したのは半年近く前だったのに何故だ?
もっと早くプレイしたかったなぁ。

 というわけで初のFateSSでしたが、此処まで読んでいただきありがとうございました。
よろしければ、感想・批判などを頂けると幸せでございます。次回の糧となりますので。

 それでは皆様、ご縁がありましたなら、いつかまたここでお会いしましょう。


追記
 竜園の「444,444hit」を記念して。竜庭様、おめでとうございます〜♪










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