これから始まるのは、一つの未来。
祝福と御都合に支配された、平和という言葉に最も近い、明日。
平穏と言える日々は存在しない。
ここに在るのは、大津名という名の都市を覆った、とある子供達のドタバタ喜劇。
今宵語るのはその第十六話。
始まりを告げるのは、ただ常にこの一言。
「それでは、良い夜を」






  スラップスティック・デイズ
            第十六話。もしくは誘拐でも可。


                               
滑稽




テストが終わった翌週の金曜。その午後。
星川邸。
星川夫人、瑞希は午前中の家事を終わらせて、一息ついた所だった。
「ふぅ…」
ソファに座り、テレビの電源を点けようとした、瞬間。
ぞくり、と。
背後に殺気を受けてその動きを止めた。
「よぉ、ミズキぃ。幸せそうで何よりだなぁ?」
「…誰?」
声に聞き覚えはない。だが、彼女はこの口調には心当たりがあった。
…既にこの世に存在している筈のない男のものだったが。
「…まさか、ハイジ?」
「おぉ、覚えていてくれたかい!?」
纏わり憑くような口調。不快だ。
彼の最期は夫から聞いて知っている。
だが、ハイジを名乗るこの男の調子は、確かに当時彼女が知っていた卑劣漢のものと一緒だった。
(翼の事を信じられない訳じゃないけど…)
「…何の用?」
「なぁに。俺達のシアワセを踏みつけにして一人幸せを甘受してやがる女の所に挨拶をなぁ?」
「私を…犯す気?」
「そうだなぁ?人妻なお前をじっくり味わうのも楽しいんだが、生憎『この体』はてめぇよりてめぇの娘が『好き』らしくてなぁ」
「『この体』…?娘!?」
「おぉっと、振り返るんじゃねぇぜ?てめぇは最早何の力も持ってねぇんだ。こっち向いたら即殺すぜ?」
「くっ…」
悔しさに、歯噛みする。
自分の無力を今日ほど悔いた日はない。
「娘を…、美麗をどうするつもり…?」
「俺はてめぇに挨拶をしに来ただけさ。そして俺自身はもうすぐ『この体』に吸収されて『ハイジ』ですらなくなっちまうからな」
「…自業自得よ」
「ひゃっはっは、言いやがる。ま、この後の行動は『この体』の持ち主の勝手だからな?俺の知った事じゃない」
「なら…、娘に手を出さない可能性もある訳ね」
「そうだな?だが、俺を植え付けられた奴がそんなまともな奴だと思うのか?」
…思えない。決して。
それを肯定と取ったのだろう。
「そういう訳だ。精々絶望してやがれ」
気配が消えた。
周囲から何の気配もなくなり、それからなお三分ほど様子を伺って。
瑞希は美麗の部屋へと駆け込んだ。


桜水台学園、中庭。
今は昼休み。私用で部室へ向かっていた美麗の前に、会いたくもない男が現れた。
「やぁ、星川君」
「っ!?山形…さん」
薄く蛇のような笑みを浮かべる山形馨一。
「迎えに来たよ」
「は?」
危険信号が頭の中で鳴り響く。
「どういう事ですか…?」
「君は僕のモノになるんだ」
「そんな事…私は承諾してませんけど?」
「大丈夫さ、僕がそう決めたんだから」
…正常じゃない。
美麗が一歩後ろに足をやった。
瞬間。
「駄目じゃないか逃げちゃ…逃げちゃぁぁっ!!」
瞳に狂気を湛えて、馨一が襲いかかってきた。

「っ!?」
「どうしたの?シン」
真言葉と二人並んで廊下を歩いていたシンは、ふと立ち止まった。
「いや…、何か、嫌な予感が…」
「嫌な予感?」
「…悪い真言葉。ちょっと部室に顔を出してくる」
「あ、ちょっとシン!?」
真言葉の承諾も聞かずに、シンは走りだした。
―『重ね』の能力者は感じた『予感』を疑うな。それがどんなモノでも、だ。
と言う、父親の言葉を信じて。

「ぜぇ…ぜぇ!!」
追い立てられたのは、校舎裏。
助けは来ない。恐らく。
もうすぐ授業なのだ。校舎裏で上げた悲鳴は、樹木と喧騒に隠れて消えるだろう。
「何で逃げるんだい?」
「貴方が嫌だからです」
「ふふ…ははは…何を言っているんだい?僕はこんなに君を愛しているのに」
「ちっ…」
どうあっても話が通じない。
とにかく抵抗出来る限りは抵抗しなければ。
「…美麗さーーん…」
と。
彼女にとって最も愛しい男の声が聞こえた。
「シンく…」
だが。
皮肉にもその一瞬が、どうしようもない隙になった。
言葉を出しきる前に。
美麗の首筋を強い衝撃が襲った。

「…シンく…」
かすかな声が聞こえて。
「美麗さん!?」
そちらにシンが駆けつけた時、そこには。
脱力した少女を抱えた、男の背中が見えた。
「美麗さんっ!!」
声をかけるが、反応はない。
男は気にせず走り出す。
背負われた少女の、綺麗なクリーム色の髪が見え。
「くっ!!」
男を追う為に、シンは再び駆け出した。


「イーちゃん!!」
「キュイ?」
籠の中で寝ていた飯綱が、目を覚ます。
「イーちゃん!お願い!!美麗を護って!!」
声をかけたのは、主人の母。
いたく慌てている様子だ。
「キュイ…?」
まだ寝惚けた頭に、あってはいけない言葉が落とされる。
「美麗が…!アクイに攫われてしまうかもしれないの!!」
「キュイッ!?」
がば、と跳ね起きる。
「お願い…!美麗を…っ!!」
「キュイィッ!!」
一声吠えて、イーちゃんは窓から飛び去って行った。
「…後は、翼達に…」
憔悴しきった様子で、瑞希は部屋を出た。


「くそっ…!何てスピードだ」
脱力した人間一人。
担いで走っているにしては速過ぎる。
それにしても。
後姿だが、見覚えがある気がする。
誰だったか。
思考に集中すれば、思い出す事も出来るのだろうが。
そんな事をして、見失う訳にはいかない。
正体を明かすのは、向こうが根負けしてからでいい。
「こちとら十年以上体力養ってるんだ…、お前なんぞに撒かれる程柔じゃねぇぞ」
追われる男と、追うシン。
追う事に夢中だったシンは気付いて居なかったが。
二人とも既に軽いバイク並のスピードで走っていた。
そしてシンはやはり気付いていなかった。
二人の周囲に、青白い光が満ち始めていたことに。


「何だって!?美麗がっ!?」
『…ええ』
星川貿易本社ビル、会長室。
「…ハイジ…ィィッ…!!」
受話器を叩きつけ、呻く翼。
「ハイジがどうしたって?」
ちょうど其処に居た亮が問う。
今朝方鏡花に呼び出され、先ほど全員が揃った所なのだ。
「さっき、瑞希の所に現れたらしい…。美麗を襲う、と予告したみたいだ」
「何!?」
「馬鹿な…」
驚愕したのは亮とマコトの二人。
サカキも驚いては居たようだが、それでも二人ほどではなかった。
「…生きていたのか、ハイジの奴」
健人が呟く。
「…いや、真言美ちゃんが攫われたあの日、僕と亮とマコトが確かに奴にトドメを刺したんだ。間違いないよ」
「本当か?」
「ああ…」
答えながらも、困った表情を浮かべる亮。
「どうしたんです?」
今日もまたいずみとキララは居ない。
学校の仕事がある以上、仕方がない事だが。
「…この前、シンを初めてアクイとの戦闘に連れ出した時、ハイジが現れた」
「何?」
「じゃ、じゃあ…っ!!」
詰め寄る翼。亮がトドメを刺し損ねたのではないか、と思っているのだろう。
「勘違いするな。無論亮がきっちりとトドメを刺した」
亮の胸倉を掴む翼に冷ややかな顔で言葉を向けるマコト。
「誰かが奴を復活させたというのなら、何度だって同じ事が出来るのが道理という事なのだろうな」
「す、済まない…亮」
「いや、構わない。親として当然の事さ」
と。
再び電話が鳴り響いた。
「!?」
だが、今度はこの部屋のものではなかった。
出所は亮の懐。
「…いずみさん?」
とにかく、出る。
『もしもし!?亮君!?』
「あ、ああ。俺だけど…、どうしたんだ?」
『それが…、美麗ちゃんとシン君が居なくなっちゃったの!!』
「美麗ちゃんが…!?…遅かったか…」
『え!?』
背後で、翼が歯を軋らせる。
「…美麗ちゃんはハイジに攫われたらしい」
『な、何ですって!?』
いずみが慌てているのが判る。
だが、亮にはもう一つ聞かなければならない事があった。
「それで?…シンも居なくなった、って言っていたようだが」
『え、ええ。真言葉ちゃんがそう言って来たんだけど…』
「真言葉ちゃんは?」
『教室に行ってる』
「どういう経緯でシンが居なくなったか、判るか?」
『…真言葉ちゃんは『嫌な予感がするらしくて』って言ってたけど…まさか!?』
「…奴も『重ね』だ。こういう時の勘は確かだと思う」
『なら…』
「ああ。完全に安心は出来ないが、少しは目が出てきたって事だ」
『…それじゃ、私達は―』
「いずみさんとキララは天文部の生徒を護ってやってくれないか?他の連中が狙われるかもしれない」
『…判ったわ』
電話が切れる。
「…俺達も動くぞ」
「勿論だ!あの卑劣漢、今度こそブチのめしてやる!!」
「あのさ…」
と、それまで沈黙を保っていた鏡花が口を開いた。
「ちょっと、サカキさんと亮に…ついてきて欲しい所があるの」
鏡花の表情は真剣だ。
「何だって?」
「昨夜…Kidって名乗ったアクイの思考を読んだの」
「む…」
「もしかしたら…、連中の居場所も判るかもしれないから」
「本当か!?」
「ええ」
「なら何で俺達二人なんだ?」
「…相手がハイジだったとしたら、連中の拠点を使うかどうか判らないから」
「む…」
確かに、その通りだ。
「でももしかしたらシンをおびき寄せる為に拠点を使うかもしれない。確率は五分五分。だから二人に来て欲しいの」
「判った。サカキさんも大丈夫か?」
「ええ」
頷いたところに、翼が声をかける。
「サカキさん。貴方の知っている奴の根城、教えてもらっていいかな?」
「はい」
怒ってはいるようだが、ある程度冷静さを取り戻しているようだ。
翼の方に歩み寄り、広げられた地図を指差すサカキ。
「…駄目か」
と、亮が呟いて携帯電話を仕舞う。
「どうした?」
「シンに電話をかけてみたんだが、出ない」
「…まさか」
「今も追いかけているのか、既に殺されたか…と言う事か」
「ちょっと、マコト!?自分の息子でしょ!?」
鏡花の抗議。
「冷静に分析しただけだ」
見れば、マコトの拳が震えている。
「そうね…貴方も母親だったのよね。…ゴメン」
「構わん」
「では俺、鏡花、サカキさんが昨日の鏡花の覚りを元にアクイの根城の調査」
「俺とホシの二人で昨日の洋館の再調査」
「私と壮一さんとマコト先輩が繁華街の裏路地の探索ですね」
「…『あの時』のライブハウスじゃないのか?」
「当時の奴の根城は場末のライブハウスの殆どでしたから。そこを選んだのも単なる偶然だったと思います」
「一応探してみる価値はあるだろうが、…皆、店の名前を覚えているか?」
「いや…」
「私も判りません…。壮一さんは?」
「…いや、覚えてねぇ。済まねぇ」
その問いに答えられる者はなく。
「しらみつぶしに探すしか手はない…という事なのだろうな、結局」
そう、結論付けられた。
「…では行こう」
その会話を最後に、皆が部屋を出て行く。
許されざる過去の亡霊を討ち果たし、大事な子供達を救う為に。
それが手遅れかもしれないと、思っていても口には出さずに。
…一縷の望みに願いをかけて。


「ち…、まだか…!?」
走り続けるシンだったが、流石に限界が近づいてきていた。
ここは繁華街の中。人の流れはあるにはあるが、やはり彼らに気付く様子はない。
だが、シンもまたそれに気付く事はなく。
一心不乱に目の前の男を追い続けていた。
と。ふいに男が路地を曲がった。
「くっ…」
それを追って、自分も曲がる。
だが。
「!?」
男の姿はどこにもなかった。
「どこに…消えた?」
視線を左右に巡らせ、下へ降りる階段を見つける。
「ここか…?いや、ここの筈だ」
周囲に他の出入り口がない事を確認して。
シンはその建物に入った。
今では単なる廃墟と化した、ライブハウス『ラウドネス』に。


「…邪魔者が来たようだね」
馨一は眉を顰めてそう呟いた。
「だけど、簡単にはここに来られない」
狂気に満ちた視線の先には、ぐったりとしている美麗が居た。
「君の目が醒めた時、僕は君を僕のモノにするんだ」
とても楽しそうに笑う馨一。
「そして僕の事しか見えないようにする」
その為の手段は幾らでもあるからね、と笑いながら。
「そうなった君を見せつけながら、殺すんだ、羽村を」
『羽村』が追ってきていたのは判っている。
「…シ、シン君…」
「可哀想に、美麗。もうすぐあんな奴から君を解放してあげるよ」
そう。もうすぐ奴は現れるだろう。
そして身も心も自分のモノになった少女と、自分に憎悪と絶望を向けながら死ぬのだ。
「あははははは…」
その様子を思い浮かべると、
「ヒャァーッハッハッハッハッハ!!」
笑いが止まらなかった。


第十七話。もしくは憤怒でも可。
               に続く











後書き
どうも、滑稽です。
…そろそろ「ドタバタ喜劇」と言えなくなってきたような気もするのですが…(汗)
差し当たってはこういう運びになりましたが、如何でしたでしょうか。
今回は伏線張りに終始した感じです。
次回から少しずつ伏線を剥がしていこうかな、と考えています。
それでは、次の作品でお会いしましょう。






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