彼女に捧げた愛があった。
彼女の幸せを何よりも求めた。
彼女の為に全てを捨て去った。
友を、家族を、火者を、そして人である事すらも。
火倉宗司。
自分の存在全てを忘却されてもなお、ただひたすらに最愛の女性の幸せを願った男は、今一度その姿を現世へと現した。






  七年目の吉日に

                               
滑稽





挙式前夜。
新郎である鹿島達行はホテルの表で酒をちびちびと飲んでいた。
初夜まで交歓はしない、と美里に約束し(一方的なものだが)、それを愚直に守っている彼であるが。
流石にこういう日に同じ部屋だと、中々我慢できるものでもない。
新婦に適当な理由をつけて、表で義弟と義妹と酒を飲んでいたのである。
階段に座っての酒盛りというのは非常にホテル側からしたら迷惑なのだろうが。
「…ん、酒がなくなっちゃったな」
「取ってきますよ」
「あ、アタシも行くわ」
二人が酒を取りにホテルへ戻り、達行は手に持っていたカップ酒をぐいっと呷った。
「ふぅ」
息を吐き出す。
と。
「お一人ですか?」
「え?」
何時から居たのか、神父の服を来た青年がこちらを見下ろしていた。
「神父さん…?あれ?確か明日は神前なんだけどな」
「ああ、ご結婚なのですね」
「ええ。明日」
「それはおめでとうございます」
「有難う御座います。…ところで、貴方は?」
「単なる通りすがりですよ」
神父の目は赤みがかっている。どこかで見たことがあるような。
「神父さんの通りすがりなんて、どんな偶然でしょうね」
この日本で、しかも結婚式前日に。
「そうですね」
小さく笑う青年。
「ですが、この服は古い友人に貰ったものでしてね。私は神父ではないのですよ」
「ああ、そうなんですか」
神父の服を渡す人間も、貰ってそれを好んで着る者もあまり居ないような気がするが。
「それにしても、何故こんなところで?」
奥様はどちらに?と問うてくる彼に、苦笑で返す。
「部屋です。そろそろ寝ている頃じゃないかな」
「おや」
「恥ずかしながら、我慢できなくなってしまいそうでね」
「ふむ…」
小さく笑みを浮かべる、青年。
「貴方は奥様をとても大事にしておいでのようですね」
「いやいや」
面と向かってそう言われると、照れる。
「…神父と言われたのも何かの縁です。もしよろしければ、いくつか質問させていただいてよろしいですか?」
「ん?」
「なに、ちょっとした言葉遊びですよ」
「構いませんよ」
どうせ二人が戻ってくるにはもう少し時間がかかる。
酔い覚ましにいいだろうな、と頷く。
「先ず最初に、貴方は奥様を愛していらっしゃいます?」
「それは勿論」
照れるが、だが言いよどむ事無く答えられる。
酒の勢いか、それとも他の何かか。
「成る程。では奥様は貴方を愛してらっしゃると思いますか?」
「んー…。そうであって欲しい、とは思う」
後は要努力だねえ、と続けると青年は意外そうな顔をした。
「ほう。ならば次ですが…」


「ね、亮」
「ん?」
新しい酒を見繕っていると、ふと鏡花が声を漏らした。
「姉さん、幸せになれるかな」
「んー、どうだろうな」
「…無責任な言い方ねぇ」
呆れた様子の鏡花。
「と言うかさ。義姉さんが幸せに『してもらう』んじゃなくて、一緒に幸せに『なる』のが正しいんじゃないか?」
「むぅ」
「鹿島せ…義兄さんに全部乗せてかかるのはどうかと思うんだよ」
「まあ、そうねぇ」
唇を尖らせながら、鏡花は酒で両手の塞がった亮にヘッドロックをかけた。
「何すんだよ」
力が入ってないので、亮も苦笑交じりに聞くのみだ。
「…生意気なのよ、亮のくせに」
「ひでぇ」
「五月蝿い…馬鹿」
ぎゅ、と。何時の間にかヘッドロックが柔らかく抱き締める形になっている。
「酒臭いな」
唇を重ねての亮の感想に、
「あの時みたい?」
「そうだな。メイド服だったらあの時のまんまだな」
「それは明日、帰ったらね」
くすくすと微笑む。
「だから今日は、このまま…ね?」
「おいおい、義兄さんはどうするんだよ」
「構わないわよ。明日二日酔いでへろへろじゃ話にならないんだから」
「ま、それもそうか」
理論武装を完了させた二人は、互いにベッドに飛び込んで―


幾つかの質問に答えて、その度に笑ったり考え込んだり照れたりと忙しい達行と、問いを重ねる神父姿の青年。
子供は何人欲しいですか、とか真顔で聞かれたらそれはこちらの方が照れる。
と、青年はふと顔つきを固くした。
「では、貴方は『奥様』と『奥様以外の全て』、そのうちのどちらかを選ばなければならないとしたら、どちらを選びます?」
「また、嫌な事を聞くね」
「…申し訳ありません」
「んー…。事に拠るんだろうけどね」
眉間に皺を寄せながら、答える。
「悩んで迷って血反吐吐くまで考え通して決めると思うから、ここでは答えを出せないな」
「成る程…」
彼は少なからず落胆したようだった。
「やっぱりここは迷わず奥さんを選んだ方が良かったかな?」
「あ、いえ…」
「でも、さ。言い訳になってしまうと思うんだけど、奥さんに心から笑ってもらうには、僕自身が心から笑えるようにしないといけないと思うんだ」
「!」
「もしもその結果奥さん以外を選んだとしても、きっと僕の奥さんは笑って許してくれるよ」
「…そうですね」
青年がふっ、と力の抜けた笑みを浮かべた。
「いや、失礼な事を聞きました」
「いえ」
「それでは、これ以上お話して明日に差し障っても申し訳ありませんから、これで」
「そう?」
「ええ」
ふと。達人はこんな事を口にしてみた。
「…ふむ。良ければ美里に会って行くかい?」
「…え?」
青年が絶句する。
能面のように殆ど顔を動かさなかった彼だったが、ここで二つほど表情を大きく崩した訳だ。
そして、同時に納得する。
「やっぱり、君は美里を知っているね」
「…」
沈黙はこの場合、如実な肯定でしかない。
「君は彼女の『無い記憶』について何かを知っていると見たが、どうだろう」
「何故、そんな事を?」
「…ま、彼女のカウンセリングも担当していたからね。断片的な記憶なら、何度か聞いてる」
とても大事な人が居た、と。
それを聞く度、昔の自分は随分とその誰かに嫉妬したものだ。
「亮君も鏡花ちゃんも巧妙に隠してはいるようだけれども」
「…どうして、私が彼らの知己だと」
「色々あったんだ、とは思うけどね」
質問には答えず、苦笑する。
それにしても、二人は遅い。
まあ、何をしているのかは察しがつくが。
「ああ、質問に答えてなかったか」
意地悪な笑みを口許に浮かべ、答えてやる。
「結婚式前夜に、偶然神父姿の神父じゃない男と出会う。これが神父だったら…まあ違和感はあっても『そんなもんか』で済むけれど」
この建物には一応式場も完備されている。神父と出会う確率もゼロではない筈だ。
「僕は奇跡なんてのは信じてなくてね。神父じゃないなら幾らなんでも奇跡か、そうじゃなければ何かしらの思惑があるとしか、ねえ」
「それは…」
「で、どうする?会っていくかい?」
黙り込む、青年。
彼は随分と考え込んだ後、答えた。
「いえ、遠慮しておきます」
「そうかい」
「ええ。貴方になら、美里を任せられる」
「え?」
今度はこっちが呆気に取られる番だった。
少し悲しげな笑みを浮かべ、青年は達人に背を向けた。
「君は…」
「…火倉宗司。その名を…そう、羽村君に聞けばきっと」
気付く。
目の前に居るのは、つまり美里の記憶におぼろげに残る、『彼』だ。
「…僕は、君の事を亮君には問わない。今後人生が終わるまで、今日の事は僕の心の中に留めておく」
「…はい」
「そして、君の事は美里には話さない」
「ええ、そうしてください。私はもう、彼女を愛せない」
「それは嘘だ。君はまだ、彼女を愛している」
これは確信だった。そうでなければ、彼は今ここには居ないだろう。
「だが、僕は君にだけは、彼女を渡せない。彼女がすべてを思い出したとしても、決して渡さない」
「…」
「君はっ…!」
「…美里が選んだのが、貴方のような方で良かった」
「っ…!!」
言葉が、出ない。
「美里を…。いや、『七荻さん』を幸せにしてあげてください」
「…もう、彼女は七荻美里じゃない。鹿島美里だ」
「…申し訳ありません。では」
「心配する事はない。彼女は僕が全てを賭けて幸せにする。君は二度と僕たちの前にその姿を見せるな」
「…ええ」
宗司を見送る事もなく、達人は立ち上がり、ホテルへの階段を歩き出した。
酔いはもう、醒めていた。


彼は、歩いていた。
当てがある訳ではない。
ゆっくりと、歩く。
ふと。なんとはなしに、昔聞いた歌を口ずさむ。

 『金色の船に 君が乗り込んだ
 金色の朝が 僕らを飲み込むよ
 たぶん二度ともう会えないから 君の姿忘れるよ
 今度僕ら出会えたとしても 君は僕をわからない』

夜の道を、歩く。
彼は最早、『誰でもない』。
幾人か彼を覚えている者は居るだろうが、百年も経てばそれもなくなる。

 『柔らかい風に 季節は巡るけれど
 暖かい日々の中ででも 君を忘れないから』

もしかしたら彼を覚えている誰かは、彼の事を伝えるかもしれない。
だがそれも、永い時間の果てにいつか擦り切れるだろう。

 『果てしのない旅 終わりのない夢
 目覚めて思えば 君だけがいないよ
 いくら君を引き留めてみても 何故かうまくいかなくて
 ついに君のひとみの中には 僕の影も映らない』

それを悔いた事はない。
最後の懸念も、先ほど消えた。
だが、それでも。

 『郊外につづく 緑の中の道を
 君と歩いた時のように 僕は歩くのでしょう』

君と歩く彼は、君を幸せにしてくれるだろう。
そう、心の中で呟く。
そして自分が向かう先は何もない闇。

 『街を歩くときもまだ 君の影と歩いているんだ
 次の角を曲がったら 消えてくれていい 僕はもう泣かない』

共に歩く者はなく、彼を記憶に残す者もない。
選んだのは永遠の孤独。
自問する。そして、自答する。

 『懐かしむ度に 記憶はうすれるけど
 思い出より僕は確かに 君を愛してたから』

愛している。今も。だから君の幸せを祈るんだ。
弱かったから。
君を捨てる事も、君を選ぶ事も出来なかった弱さが、君を壊してしまったから。
嗚呼、何故あの時の自分は。
世界よりも大事だと思った筈の彼女よりも、里の掟などに縛られたのか。

 『柔らかい風に 季節は巡るけれど
 暖かい日々の中ででも 君を忘れないから』

あの時死んでいたら、どうだっただろうか。
義理の妹になったかもしれない少女と、義理の弟になったかもしれない少年に倒された時。
その渾身を以って、自分の全てを否定された時。
あの一瞬、自分は確かに満ち足りてはいなかっただろうか。

 『街を吹く風に 高く舞い上がれ 君はもう自由だから
 夜中に目覚めて 声を上げたのは 君のためではないから
 苦しめないから 苦しまないから 君はもう自由だから
 空を行く風に 高く舞い上がれ 君はもう泣かないから』

だがきっと、満ち足りていたとしても、彼はいつかその死をどこかで悔いただろう。
何故なら、自分は信じる事が出来たからだ。
無限に近い空虚と引き換えに、心から求めたものを確信する事が出来たのだから。
「幸せに。…美里」
見なくても、判る。
愛した女性は幸せの中で微笑み、涙し、そして生きていけるだろうと。
彼と共に。
自分ではない、だが自分よりもきっと彼女を信じられるであろう人と共に。
嫉妬らしき感情は、ある。
だが、それもまた己の業なのだ。
ぐっと息を呑み、天を仰ぐ。
愛した人との思い出を、ひとつひとつ思い返す。
と。
「…ああ、忘れていた」
まだ、ひとつだけやり残したことがあった。
彼女を託した二人の幸せを、確認してはいなかったではないか。
「ペシミストなど気取るものではないな」
自嘲気味に独りごちる。
「もう一度だけ、戻る」
誰に伝えるでもなく、そう口にする。
そして、火倉宗司は薄蒼い夜の中に溶けるように消えた。


翌日。
結婚式は本当に恙無く終わった。
美里は涙を流しながら、それでも心から幸せそうな笑顔を浮かべ。
それを見る鏡花もまた、同じように涙を流しながら微笑んでいた。
美里と笑い泣きの状態で話す鏡花と、鏡花の両親。
「…もう、義兄さんに任せてもいいよな。宗司さん」
その様子を一歩離れた場所で見ながら、そんな事を呟く。
見届ける、などと偉そうな事を言えた義理ではないが。
だが、そうする責任があるのだと、二人、そう信じていた。
ふと、鏡花が涙でぐしゃぐしゃの顔をこちらに向ける。
示し合わせたように、互いに笑顔を浮かべた。
自分の頬を伝う、二筋の熱。
心から愛しいその笑顔を見た時、亮もまた、決意した。


「…鏡花、次は俺たちだ」


二年目の休日に。
三年目の元旦に。
四年目の平日に。
五年目の月末に。
六年目の連休に。
そして七年目の嘉日を経て。
八年目の記念日は訪れる。


「なぁ、鏡花」
「なーにー?」
「今更だけどさぁ、式でも挙げるか」
「…ホンットーに今更よね…」












後書き
ども、滑稽です。
かなーり当初の予定と比較してクドくなってしまいましたが、『八年目の記念日に』シリーズ、これにて完結となります。
途中で組み込んだ『歌詞』は、爆風スランプの『暖かい日々』です。
僕がとても好きな歌で、そしてこの宗司の心情を表すには、これ以上の歌はないのではないかな、というチョイスです。
…歌詞流用は『その想いは遠く断たれ』でも使ってしまったので『二番煎じってドウヨ』と少々悩んだのですが。
鹿島夫妻、羽村夫妻の今後に関しては書く事はきっとないかと思います。
子供も生まれるでしょう、喧嘩もするでしょう。
ですが彼らは幸せに生涯を添い遂げる。
僕はそう信じていますし、もしこれを読んで下さった読者の皆さんにも、心の端っこ辺りででもそんな彼らの未来を思い浮かべて頂けたとしたら。
この作品にはきっと僕が思った以上に大成功だったのだと思います。
それでは、また別の作品でお会いしましょう。
有難う御座いました。






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