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作:水瀬愁







1.


 青い空。
 白い雲。
 きっとあなたは、青い空の下、白い雲のその向こうを見ていることでしょう。
 俺はその横顔しか見ることが出来ません。
 だからってこんなのは間違った形なのかもしれません。けれど、俺はあなたの顔を真っ直ぐ見てみたいのです。
 あなたの瞳に真っ直ぐ見つめられたい。
 こんな恋の形は誤りなのでしょうか――。

 
 


「たとえば、そうだなぁ……よし、そこの列。そう、おまえらだ。全員立って、こっちに来い……
たとえば、今ここにいる祐美ゆうみ数多あまた、えびっち、優心ゆうみは『俺に呼ばれた』という条件が共通している要素で、この四人を纏めて集合と呼ぶ」
 逆に呼ばれていないおまえらも集合と呼べるからな。親しげにも生徒を下の名で呼ぶ年配の教師が、その脇に立たせた四人を腕にくるみつつ他の生徒達に向けてニカッと笑った。
 反応する生徒達は少しハメをはずしていて、"あれ、あいつらって名前の読み同じジャン"という誰かの一言から派生した"結成、ゆみーズ!"の声や"残りは、はみーズ!"などが四人に投げかけられた。
 えびっちと先生に言われた、染色料をつけた毛をトゲトゲにしている男子学生が悪乗りしておどける。少しキザめの第一印象を受ける数多はそれに、外野とともにちょっと悪い笑みを浮かべた。
 そして祐美は、ふわふわとした髪に目を落としていた。
 同じユウミの名を持つ、ロングの髪の彼女。チャラチャラとした風がなくて、どちらかといえば影の薄い部類であろう。祐美も、今日あの先生に名指しされるまで、同じ読み方の少女が同じ列に――それこそ同じクラスに居たなんて気付かなかった。
 ユウミ。祐美は、口の中でその名前を舌に絡めてみる。
 自分と同じ音。しかしその味は、彼女を見ていると、なんだか別物のように感じられた。


「祐美って名前、少し不思議ね」
 昼休み。祐美は優心に話しかけられた。
「なぜ御両親は、男の子に美しいなんて付けたのかしら」
 最初祐美は、自分が話しかけられている実感が湧かず、ぼぉっと放心した風に優心を見つめてしまった。見つめられている優心が小さく首を傾げたことで、祐美はハッと我に返る。
 まばらに人が残るクラスだが、幸いなことに祐美の周りは全て空席だった。祐美が少し話し始めて、その話題に優心が興味を抱く。いつしか優心は、祐美の席の机に両肘を乗せて頬杖を突き、祐美の席の前にあるイスに腰を下ろしていた。
 ――姿勢はちょうど、イスを馬に見立てた感じといったところか。つまり、机によって隠されているが、両脚はイスの背と同じ幅だけ開かれているわけである。
 真正面から話しているうえ妄想を膨らませてしまったこともあってか、祐美は気合を入れすぎというくらい、しゃべりたててしまう。
 しかし優心は、特に嫌気をおぼえた風はなかった。それどころか話が長引くうちに柔らかい笑みさえ浮かべながらうん、うんと相槌をうつようになる。
 そして、話に一応のひと段落がついた時に彼女はこう言った。
「祐美君って、良い人だね。勇気出して話しかけてよかった」

 秋の春的出会い。この時から祐美は、同じ読み方の彼女をクラスで確かに意識するようになった。
 いや――
 祐美はこのときから、クラスで優心と二人っきりでいる幻覚に囚われて。
 どうしようもない取り止めのない気持ちで、彼女ばかり目で追っていた。
 祐美が感じるのは、ちょっとした病であるという見解だけである。

 祐美曰く"病"のコレには、自覚症状があった。
 第一に、変にボケてしまう。
 ちょっとした反射反応が遅れたり、時間にルーズになってしまったり――
 祐美が通うのは進学校の部類に入るため、結構な痛手であるのだ。
 しかし、祐美は幸せであった。
 なぜなら、授業中に目を向けていれば優心は此方に気付き、教師の隙を窺って小さく手を振ってくれたりするからだ。
 移動教室の際に出会ってもちょっと笑ってくれたりして、それに何か特別さがあるのではと祐美は独りよがりがごとく悶絶しそうになる。
 青春。病とは、つまりそういうこと。
 そして、毎時限で教師に怒られてしまうところまで零落れてしまった頃のある日――

 祐美君、ちょっといいかな。と、優心は放課後に入った途端、話を持ち出した。
 祐美は座っていたイスをがたっと揺らすほどに動揺して、ブンブン縦に首を振る。実は"祐美"の名について話したあの日から、やっと訪れた二度目の会話なのだ。
 場所は教室。しかし、クラスメイトの大半はすぐに部活の集合へ走り去ってしまい、残る少数派も趣味に浸るためか暇を潰すためか素早く下校する。そのため、祐美と優心は今、二人っきりだった。だから優心も話しかけることができたのかもしれないが、祐美にとっては心臓に悪い状況下である。
 まさか、と嬉しい事態を想像してしまうのも健全な男子学徒としては致し方あるまい。
 まさか・・・の信憑性を跳ね上げるような態度――祐美の基準では、胸の前で両手を組んでいるのもそうなる。優心の瞳が潤んで見えたりするのは、幾分かは光の具合や視線の角度、大体は祐美の妄想である。ちなみに優心がもじもじしているように見えるのは真実――をして、優心はあのねと話し出し始める。
「あのね――祐美君って、もしかして、何か悩み事を抱えているの?」
「へ?」
「ほら、最近よく叱られているでしょ。目が合うときも、なんだか慌てているし」
 まさか・・・がまさかで終わってしまった音を幻聴きつつ、祐美は苦笑いを浮かべた。
「成績のほうはなんとかするよ。大丈夫だよ……」
「わ、私、何か手伝えないかなっ!!」
 優心は勢いあまって顔が近づけてしまいながら、想いを口にした。
「いっしょに取っている講座のものなら、私でもアドバイスできると思うの! どう、かな」
「ああ、うん。気を使わせて悪いね」
 気圧される祐美は、両手を優心に突き出してじりじりと距離を取った。誘惑させまられるまま、というのはどうやら趣向でないらしい。単に今は理性の皮が厚いだけかもしれないが。
「でも、俺って志望校とかの目標がないだけだから……もしかしたら、やればできるの、かも、だなんて思ったり?アハハ」
「……」
 優心は祐美の見えぬところで少し、不安げな顔つきをした。哀れみに似た目つきもセットである。
 そんな優心の心情を知らぬ祐美だが、しどろもどろに変なことを口走ったかと少し後悔の念に駆られていた。
 だが、ふと思い至ったのである。
「そういや最近さ、志望校調査があったけど……ゆ、優心さんは、どこかもう決まっているの?」
 一年なのにクソ早ぇよ。などと友達とけなしていたショートホームルームの出来事。祐美は今日初めて、この進学校の体制に感謝した。
 その感謝にはもちろん"優心さん"と初めて呼ぶタイミングとなってくれたことも含む。
「わ、私は……私はね、X校に行こうかなって」
 自らの胸に手を当てて、優心はまるで恥じらいながら告白する乙女のように頬を赤めた。
「X校か。進学校経由で進学するには、妥当なのかもね」
 祐美は忘れぬように胸に刻む。
 X校というのは名門大学だ。"X校に進学する"というのが誰からでもジョークであると認識されるほど、レベルは高い。そこいらの高校出ではどんなに努力しても進学は不可能といっていい。
 優心からその名が出るとは思ってもみなかった祐美だが、それがジョークでないというのは察するまでもない、
 笑い飛ばすこともできず普通な相槌を打つが、しかし心のどこかではショックを受けていた。
 寄せる好意に付き従うまま同じにできる志望校、というわけではないのだから――
「そ、それじゃ……うん。もし勉強に困ってしまったら助けを借りるよ。でも、できるだけ一人で頑張ってみる。優心さん、心配してくれてありがとね」
「ううん」
 優心はふわふわとした髪を小さく揺らして、小さく笑った。

 祐美は参考書片手に自室へ駆け込んだ。
 授業内容の復習をするにしても、ノートや教科書を見直すのでは効率が悪いと思ったのだろうか。祐美はすぐさま机に向かうと、躊躇無く解答書を開いて赤ペンを手にする。
 参考書を無駄にするという表現そのままな様。なぜなら祐美は、穴埋め問題も記号問題も何もかも赤で書き切らんとしているのだから。
 他人にとって意味の無さ過ぎるこの行為。しかし祐美にとって、意味はあった。
「(優心さんならきっと、これが全部黒字なんだ――)」
 自分と彼女は違う色にいる。
 それは同じユウミの、歴然とした差の証拠。
 果てしない絶望を感じた。しかし祐美には、登るべき階段も、それに足をかける方法も、しっかりと見通せていた。
 登る気力と、それに必要不可欠な覚悟。
「(優心さんに、追いつきたい)」
 鼓動も、指も、ペンですらも、今は覚悟の力に満ち溢れている――
 祐美はそんな気がした。




 おまえ最近、付き合い悪いよなー。えびっちこと戎崎えびざきが祐美の背中を叩いた。
 そこには、ちょっとした悪意ふまんが宿っている。祐美はごめんごめんと引きずり気味の愛想笑いを浮かべ、もう少し教室で自主勉したら次は塾なんだと説明する。
 戎崎はちぇーと退屈気に唸りながらも、それ以上祐美を掻き回すことなく背を向けた。
 根は素晴らしいくらいに清いヤツなのである。
 それをわかっている祐美は、クスリと小さく微笑みながら戎崎の背中を見送る。
 そして、誰も居なくて寒々しい教室をちょっと見回す。
 ――二学期中間テストで良い結果を残した。
 それに好いペースを掴んでコツコツと勉強していく祐美は、ここ最近は遊んだおぼえが全くない。
 しかし彼は満足していた。赤色の減っていく参考書も授業についていける自分も、祐美は良いなと思っていた。
 できれば目標を早く達成したいけれど、それは過ぎた願い。だからこそ、ちょっとした幸せに立ち留まらず、目も暮れずに走り続けられる。
 そして祐美は、窓から外を見上げた。
 小鳥の囀りを耳にして、目を細める。

 青い空。
 白い雲。
 きっとあなたは、青い空の下、白い雲のその向こうを見ていることでしょう。
 俺はその横顔しか見ることが出来ません。
 だからってこんなのは間違った形なのかもしれません。けれど、俺はあなたの顔を真っ直ぐ見てみたいのです。
 あなたの瞳に真っ直ぐ見つめられたい。
 こんな恋の形は誤りなのでしょうか――。
 いや、そんなはずはないでしょう。
 だって、恋の正しい形なんて誰も知らないから。
 わからないから人は恋をしてしまう。それはどうしようもない、理屈にできない。
 ――理屈にできない。
 それは、なんと正しい表現なのでしょうか。俺自身、どこが好きなのかわからないくらい、あなたの全てが好きで好きでたまらないのですから。

「あの……祐美君。ちょっといいかな」
「え。優心さん?」
 もじもじと、まるで恥じらいながら告白する乙女のように頬を赤める優心が戎崎と入れ違いに教室へ入ってきた。
「あ、あの、あのねっ。祐美君って最近、女の子の中でもすごく評判良いんだよ」
 濡れた瞳を向けられて、祐美はそれを綺麗だなと思って見惚れてしまう。
「だから……その、祐美君なら頼れるかなって」
 見惚れている間に、その瞬間は訪れて。
「私ね。実は――」
 窓から吹き込んでくる風に揺れる、赤い糸を見た気がしたのだった。

 こんな恋の形は誤りなのでしょうか――。
 不安だけれど、少し思うのです。
 恋の形なんて、わからなくて良い。というよりも、願わくば。
 わからないくらいの恋をしたい。
 きっとその恋は、どこかの誰かが赤い糸と称したくらい運命的で、激しい幸せでしょうから。


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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「おまえ最近、付き合い悪いよな」
 えびっちこと戎崎が祐美の背中を叩いた。
 そこには、ちょっとした悪意ふまんが宿っている。祐美はごめんごめんと引きずり気味の愛想笑いを浮かべ、もう少し教室で自主勉したら次は塾なんだと説明する。
「ちぇー」
 戎崎は退屈気に唸りながらも、それ以上祐美を掻き回すことなく背を向けた。
 根は素晴らしいくらいに清いヤツなのである。
 それをわかっている祐美は、クスリと小さく微笑みながら戎崎の背中を見送る。

 祐美の視線を感じながら教室を出た戎崎は、小リスにぶつかってこられる幻覚を見た。
「あっ、ご、ごめんね」
 ぶつかってきたのは人間。小リスかと思った相手――優心は、ぺこぺこと頭を下げて怒涛の勢いで戎崎の脇を抜ける。
 まるで嵐のようだ。一言も発する暇がなかった戎崎はぽりぽりと頬を掻いた後、気分を一新して歩みだす。
 しかし、校門前で苦虫を噛み潰したような顔をしてしまう。
「……戎崎。アンタ、ピアノのレッスンだけじゃなくて学校までサボるつもり?」
「ちげーよ。一年生は二年と違って、今日は午前中授業なんだ」
 目を向けることも拒んで、戎崎は彼女・・の脇をすたすたと歩き去っていく。
 華やかな灯り、のように戎崎は思った。見惚みとれた時期がった気もする。
 華やかな芳香を嗅いだ。形ないそれがこちらを嘲笑ってきているように感じて、戎崎は顔をしかめて足を速めた。
 背中に叩きつけられる声も無くなった頃、戎崎は振り返る。
 当然のことだが、ムスッとした顔の彼女の立つ校門など見えない。
 うたた寝する子供を飛び起きさせるような轟音をたてて、使い込まれたように見える車が過ぎ去る。
 けれどそれの引いた黒い煙の尾はすぐに立ち消えず、戎崎の前で残留した。
 それはまるで、隔てる壁。

 ある種寂れた、喫茶店の独特の雰囲気に似ているその場所。
 雰囲気を醸し出しているのは、喫茶店で流れていそうな曲を淡々と弾く彼。
 そして、照明の淡い蒼。
「……燃えるような赤だ。炎ではないのに、なぜか熱く感じてしまう」
 年不相応に好青年じみた声が、穏やかにそう話し出した。
「なぜ髪を、戻すわけでもなくまたそのような異色に染めたんだい?」
「アンタみたいに何もかも理屈で繋げねぇからな、理由なんて無いに等しいよ」
「それだけでも十分な理由だ――君はいつも、僕に突っかかるね」
 戎崎は近くにあった丸イスに腰かけ、目を向けた。
 声と同様に年不相応な美貌。スラッと伸びた脚も、やたら細いくせに強い力をひねり出す腕も、まるで陶器のように艶やか。
 白いのはただ外にあまり出ない所為。戎崎もこの男との関係は長いめだが、この男が日焼けしたところなんて見たことが無い。
「当たり前だよ……」
 戎崎は少し背中を丸めて、じっとその憎らしい男を見つめた。
 その目は座っていて、とこしえの冷たさに満ちている。
「だってアンタは、俺に無い物を全部持ってるんだ」
「……よっぽど不機嫌なようだね。その原因はやはり、ピアノを辞めた理由と一緒?」
 ピアノの鍵盤を収納しながら、男は戎崎にヘラッと微笑を向けた。戎崎は顔を背け、むっつり顔で舌打ちをうつ。
 男はやれやれと疲れ気味な一言を漏らしながら、戎崎の前までゆるゆると歩み寄り――
「それよりもさぁー、おとうとくぅーん。僕もう、お腹ぺこぺこだよぉー」
「ああ、はいはい! 今日は俺の当番でしたねスミマセンっ!!」
 戎崎に抱きついた。
 媚びる雌猫のごときいやらしい仕草で首筋に腕を回し、頬をぐいぐいと擦り寄せる。そんな男に戎崎は耐え切れず、半分自棄になって言葉をぶつけながら大股に部屋から出て行った。

 残された男は、戎崎の座っていた丸イスに片頬を引っ付けて、戎崎の去った後を見続ける。
『誰もかれも、ピアノピアノって――』
 その耳に、別れ際に戎崎の漏らした一言が残響し続けるから。
「……僕以外にも、おとうとくんの爆弾の導火線に火を点けんとする者がいるようだね」
 穏やかなれど傍観者めいた瞳の色。
 それは願いをかける、
 祈りの眼差し。

 出て行った戎崎は、水道の蛇口に手を添えて硬直していた。
『誰もかれも、ピアノピアノって――』
 ――一瞬だけ漏れてしまった本音。
 本音? 果たして本当にそうだろうか。
 本音に通ずる事ではあれど、些か歪曲がすぎる。
 だって、本音とは――
「ッ」
 戎崎が蛇口を捻ったことで、水の奔流が音をたてはじめた。


2.


 あなたの音楽を初めて聴いたとき。
 私は感動のあまり、言葉も出なかった。
 それまで見ていた世界にどれだけ光が足りなかったか、その瞬間に見せ付けられたのだ。
 いや――足りないものは、光だけじゃなくて。
 たとえば楽しさや、喜びや、好い物は全部そこにあった。自分ここにはなかった。
 ちょっと悔しくて、とても羨ましかった。
 そして、止められなかった。
 元々格好良いわけじゃなかったあなたが、性格を知ったことで余計にいけ好かないとわかっても、
 あなたが私の王子様なんだって、日に日に思いは膨らむばかりで。





 朝。眩しい陽射しが、カーテンの隙間を縫ってそのベッドに一筋の線を延ばす。
 不幸か幸か、その直線状にはちょうど彼女の閉じられた双眸があった。
「……ん」
 だんだん蓄積される熱量に、彼女は鬱陶しそうに唸りながら身動みじろぐ。
 元々寝相が悪いのだろう。髪は入り乱れた線を描いて枕をすっぽり覆い込んでしまうほどに広がり、かけ布団の代わりにくるめた毛布は九十度回ってお腹に添えられている程度と寒々しい。
「ん、ん――」
 顔の位置を変えたはいいが、今度は頬に熱線が染み込んできてしまった。
 彼女はやはりまた身動ぎ、しかし同じ失敗は二度は踏まぬと言う風に、大胆にも窓に背を向けるようにうつ伏せ寝する。
 それに伴って、毛布は折り込まれるようにして彼女の下敷きになる。元々腹の全周を毛布でぐるぐる巻きにしていたわけではなく、普通大抵のとおりに毛布はかけていただけなのだ。毛布の中で向きを変えきれない辺り彼女の性格的性質がよくわかるが、もし他者が彼女を見ていたならばそれどころではない。
 生足の度合、的な意味で。
 照明が無いのが幸い、悩殺威力は半減している。しかし女性特有の曲線は、暗やみで艶かしく揺れる。
 ――一番魅惑したい相手に目も向けられぬままだというのに。
 だからこそその不満をも喰らって、身は成熟していくのだろうか。
「ぅん……ぁ」
 そして彼女は、ゆるゆると目を開けて一切の光の無い天井を見た。
 理由は簡単。目覚ましアラームが鳴っただけのこと。
 彼女はいつもそう。目覚ましアラームが鳴るまでは起きそうで起きず、目覚ましアラームが鳴るとゆるゆると起床する。
 そしていつも、彼女は嬉しいような虚しいようなごちゃごちゃした感情に苛まれる。
「――む」
 今日も彼女は、憤るように口をへの字に曲げて、機嫌はそこそこ悪い。


「弾け!!」
「いやだ!」
 周囲にとっては毎度のこと。
 放課後になると決まって訪れる彼女が、今日もまた戎崎に一声を投げ込んだだけのこと。
「いつも大変だね……」
「まぁ、な」
 怒声を返した戎崎がカバンを手に取る。そして、小声で話しかけてくる友人・祐美に疲れた笑みを浮かべ、彼女の方にすたすたと歩き進んだ。
「ちょ、ねぇ! ねぇったら、ちょっと止まりなさいよ、戎崎っ」
「あー、うっせ」
 いつもどおり戎崎はその脇を駆け抜け、いつもどおりがみがみ言いながら追ってくる彼女にいつもどおりぶっきらぼうな言葉を返す。
 ――今日は、ちょっと違った。
 下駄箱が並ぶ区域までの廊下で、彼女は突然戎崎の前に回りこみ、戎崎へ両手を突き出したのだ。
 瞬時に戎崎の脳裏を駆けるイメージ。突き飛ばされる自分の図。
「明後日だから!」
「……は?」
 しかし現実は大分違って、なぜか彼女は赤面しながら慌てている。
 なんだかいつもとちがう。そう思える要素がありすぎて、戎崎は戸惑った。
 そして、自分が胸の前にやっていた手にチケットがあると気づき、それと彼女とを見比べてすっとんきょんな声をあげる。
 そして、いつもと違ってそそくさと先を行ってしまった彼女を、いつもと違って嬉しくは無い気持ちで見送る戎崎。
 ――結論、
「いつも以上に、大変……」
 何が大変ともわからないくらいだが。戎崎は、共感して励ましてくれた友人の顔とさっきの言葉を思い浮かべ、手遅れながらも今、返答を訂正した。
 明後日の方がもっと大変そうであることも、予想しながら。


 そして白昼の炎天下、戎崎は彼女と落ち合った。
 妙にキメられた彼女の服装――妙に機嫌の良さそうな笑み、足取り、口調。
 反比例するように戎崎は、ひどくムッツリして彼女を一瞥。
「……じゃあ行くぞ」
「あっ、ちょ、ちょっと!!」
 評価の意見を求むようにうきうきしていた彼女は豆鉄砲を喰らったようなまでに表情を一変させ、すたすた先に進む戎崎を早足で追う。
 しかしその表情は、まだちょっと嬉しげ。
「――待ってよ!」
 甘えじゃれにくる猫のような口調で彼女は、戎崎の隣に並んだ。

 行き着いた先は、映画館の入口前のような場所。
 しかし実際には、此の場は映画館ではなくコンサート会場なのである。
 勿論、ピアノの。
「……」
 戎崎は若干、ゾクリと冷めた。
 表に表れなかったのが幸いか不幸か、何も気づかぬ彼女は戎崎の腕を引いてチケット番号とナンバーが合致する座席へ。
 そして、戎崎は生唾を飲み込んでいた。
 久しい空気に触れたからか、途方も無く前の方にグランドピアノがあるからか。その耳には名残が今再び旋律となって聞こえ、五指には鍵盤を滑るように叩く・・・・・・・感触なごりが。
 身に叩き込んだプログラムが、必須要素が一つ足りぬままに揺り動かんとしている。
 それは衝動。伴奏に成り得ぬ、伴奏に成り得る直前過程の自身。自身を満たす全て、たる一の総称。
 戎崎は、まるで目の前に偉大なる威圧を帯びた何かが立ちはだかってきて腰が引けてしまったかのような、思考停止の状態にあった。
 白く染まった脳裏には、走馬灯が駆ける。
 体から心が離れ、その間にも世界はちゃんと時間の針を進め――
 そして来てしまった。
「ッ」
 一曲目。吃驚して口をあんぐり開けてしまう壮大さを行使した、これから連続する曲目への期待ほのおの発火剤とも成り得る最高最美、最麗のアンダンテの音律。
 生きている蝶が清楚に確かに羽音をたてるような、淑やかな音楽。
 戎崎は、音楽世界を象徴するとも言えるその素晴らしき演奏に、聞き惚れた。


 戎崎が隣を見る。そこには誰もらず、自然と折り畳む状態に戻っている上等なイスがあるだけ。
 本来そこにるべき彼女は、どっちを向いても見つけられない。
 ――戎崎が集中を途切れさせたのも、無理はなかった。
 一曲目ハードルを乗り越えるほどの曲は二曲、三曲が過ぎても現れない。いま一つ物足りないピアノ曲は、今も尚戎崎の耳に入っては来るが素通りである。
 そうでもなければ隣の彼女が消えたことに一生気づけぬままだったかもしれない戎崎は、やはり集中していた間のことはわからないらしい。いつ彼女が消えたのか、なんで彼女が消えたのか、全く見当がつかない。
「…………トイレだろ」
 ぶっきらぼうに、しかし胸の底をざわめかせる自身に言い聞かせるように戎崎は呟いた。
 自然と視線が戻る先は、グランドピアノ。
 社交辞令的な拍手喝采に対し、優雅さを気取って一礼してみせた金髪の好青年が満足げに口端を歪めて待合室の方に向き直る。
 ――と、その目が途端に『どうだっ?』と強気な色を帯びた。
 演奏は、どうだと言われても困るくらいにひどい物だったおぼえがある。とすれば自己満足してしまっているのか。
 あんな奴を同じ部類とは思われたくないものだな、と戎崎は顔をしかめた。
 いや、顔をしかめたのには別の要因がある。
 自分と比べて、戎崎にも思う所があるのだ。

 たとえ上手くなくっても、たとえナルシストの気があるのでも――

 その瞬間のことであった。
 まさに不意打ち。
 同じ美に見えるかもしれないが、その実は真実オリジナル模造レプリカなほどに差がある。
 いや、模造というのですら真実に失礼かもしれない。
 真実は、本当に美しかった。
「――」
 そして、始まりの曲を再来させるまでの業もあった。
 その曲は、一曲目ハードルを越したのは言うまでもない。性質は対比。さきが蝶の淑やかかつ≪在る≫羽音であるならば、これは百獣の王の剛なる威厳かつ≪平伏させる≫咆哮。
 解放に対し屈服。極端に言うなら、緩に対し急。休まる暇などない。力強い一音一音の束ねられたその強大な旋律は、膨れ上がるにつれ、聞く者の心音すら合わさせる・・・・・
 前が心地よく心を洗うなら、これは邪念ごと心から何もかもを奪って真っ白にしてしまう。奔流。聴衆はこれの暴威に恐怖し、これの綺麗に魅入る。
 戎崎は自然と拳を握り締めていた。
 そうでなければ耐え切れそうに無かった。耐え切らぬという選択は毛頭、浮かんできていない。
 聞けねば損――一生に一度あるかないかの最大の感動が、目の前にあるのだから。
 戎崎は打ちひしがれた。
 曲に聞き惚れるという意味でも、それ以外の意味でも。


 お前がピアニストだったなんてな、戎崎は言った。
「何言ってんの。初めて会ったのって、コンサートの待合室だったじゃない」
 彼女は軽い口調で笑ってのける。
 場は、コンサート会場から出てすぐの明るい広場である。デパートの中央にでも在りそうな風景が一望できるが、それもそのはず、この度のコンサートはデパートの一部たる場で行われた非常にレベルの低めなものなのである。
 一流に手を伸ばすことのできるピアニストが来るはずもない。しかし実際には、二人もそのようなピアニストが今回は音をかき鳴らした。戎崎がナルシストと悪評した好青年も、全体から見れば悪い方ではない。むしろ三位を勝ち取ったにちがいないという程だ。
 本来は場違いたるそんな三柱がなぜ居たのか――同一の先生か同一の団体が何かしらの意図を以って彼女らに出場を催促したのだと考えれば筋は通る。
 兎も角、彼女は今回のコンサートで飛びぬけて優秀な部類であった。
 普段のレベル相応なコンサートであっても、勿論そうなのである。しかし今回は彼女自身も満足している。故に、理想どおりとはいかなくとも、自分の演奏が戎崎に何らかを響かせたと信じて――小さな火種の不安が膨らまんとするのを必死に押し殺して、彼女は戎崎が見ていないというのに必死に笑みを作った。
 愛想笑いなど幾つもこなしている彼女だというのに、その微笑はうすっぺらかった。
「そうだったな――俺達、全部が全部、ピアノなんだよな」
 戎崎は俯いたまま、ぼぉっとそんな事を呟く。
 その陰湿さには彼女も少なからずショックを受けた。
 仕方の無いことだろう。変わってくれると信じていたのだから。
 恋焦がれし彼のことだけを思って、彼のためだけの曲を弾いた。最高の物に仕上げた気はしている。思いを伝えたてごたえという、演奏終了時の爽快感は嘘でなかった。
 手放すためではなく手に入れるために弾いた。それは間違いない。

「もう、うんざりなんだよ」

 なのに戎崎は、立ち上がってすぐにそう吐き捨てた。
 彼女は言葉も無い。呆然と、何が何だかわからなくなってしまった。
 視界は真っ白――つまり、目の前にいる仏頂面の戎崎を嘘と思い込もうとしていた。
 何も聞こえない。何も嗅がない。何も感じない――また然り。
 しかしそんなこと数秒。彼女は独りであることが怖くなって、また戎崎の元に戻ってくる。基本、彼女は大事なこととなると弱虫になるのだ。故にもしかしたら、我にかえるのに数秒もかからなかったかもしれない。
 しかし。
 戻ってきたら戻ってきたで、彼女の視界に戎崎は居ない。
 名残すら、彼女の胸底にも燻ってすらいなかった。
『もう、うんざりなんだよ』
 ――怒ることはあってもこちらを向き続けてくれた彼が、
 ――早足で距離を離しても追いつかせてくれた彼なのに、
「……ぅ」
 ――甘えていたのかもしれない。
 そう考えれば、仕方ない。何も知らずにじゃれてきていた私なんて、嫌気がさされても仕方なかったのだ。
 つらい。彼女は思って、嗚咽をひとつ漏らした。
 それは防波堤の破砕の知らせ。しかし彼女はそれ以上漏らしたくなくて、口元を両手でぎゅうっと押さえる。
「ぅ……うぇ――」
 理想郷が、建築し終えるよりも先に全部崩れ去ってしまったのだ。つらくならない道理もない。
 しかし彼女は、不満を抱くでも怒りを抱くでもなく、ただただ悲しくなっていた。
 そして、自分を呪っていた。
 ――望みすぎたのかもしれない。
 夢の欠片を手放すことになるなんて、最も嫌なことなのに。
 けどあの時点では、進む先には隅々まで幸せのみが散りばめられているような気がしていて。

 底無しのふしあわせ。彼女はそこに脚まで沈んで、どんどん埋まっていって――
 いつしか、小さくなる彼の背中すら見れなくなる時が来る予感がしていた。




 すでにスタスタと帰路に着き始めて、戎崎は渋い顔をして笑っていた。
 それは自嘲であった。


 そしてその一部始終を一階上から見下ろしていた者が、一人。
「補えぬ自分の足りない要素を――それをきちんと集めた者の完璧たる演奏を見せ付けられるなんて、おとうとくんも非常に酷だね」
 戎崎の兄。戎崎に無い物を持つ男。
 戎崎から足りない要素それを先に奪い去った兄と言ってもいいだろう。
 ――もしこの兄が今、音楽を奏でていたら。
 どんな人間も服の裾で拭いきれぬほどの涙を流して、そこに悲劇は生まれただろう。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ん、と祐美は猫を撫でる手を止めて顧みた。
 顧みられた相手――戎崎は、ジロリと目をひん剥く。
「おまえ……野良猫相手に、何してんの」
「え。んと、いつも見かけて気になってはいたんだ」
 祐美は苦笑し立ち上がった。
 まだ秋だというのに少し大きめのフードを羽織っている祐美は、もこもこしていて手も袖の内に隠れてしまっている。その手で口元を押さえ、小さく首をかしげているのは――自覚はしていないだろうが――ぶりっ子がするそれ。今までは気づいていなかったが祐美は"美"の付く者らしく女の子らしい顔立ちをしていたらしい、ぶりっ子がするそれが案外似合っていて戎崎はスッと顔を背けた。
 小ぶりのツインテールでも付属していたならばやられていただろう、と戎崎は思う。
 そしてはぁっと溜息を吐いた。
「……暢気だな、お前って」
「む、むぅ。ひどいことを言うな、えびっちは!」
 青いジーンズは、足をすらりと見せることに長けているのだろうが意味をなしてはいない。大人っぽさを醸し出さんとは意識していない祐美のせいであるのは、間違いがないだろう。
 ショートカットなので少し変わった風だが、傍から見れば戎崎と祐美は年の差が一つ空いている彼氏彼女のようであった。
「いや、暢気だよ。なんていうか、幸せボケ? 彼女できたからって浮ついてると、すぐ不幸になっちまうぞ。わかってんのかよ」
「――えびっち。なんかあった?」
 妙に毒づいていたのがバレたか、祐美はくりっとした瞳で戎崎を覗き込んだ。心配げなそれによって戎崎は悪気をパッと晴らされて、首を横に振る。
「ごめん。身勝手だったな」
「分析する以外のときに、自分勝手じゃない人なんて稀だよ。気にしないで」
 祐美がにっこり笑った。
 戎崎は救われた気がした。
 ――その時になって、戎崎は自分が泣くことを堪えていることに気づいた。
 ハッとして、片手を目尻に当てる。そんな仕草のせいか、祐美はまたも戎崎を心配げに見上げていた。
 戎崎は思う。もし自分が動いていなかったとしても、祐美はちょっとした雰囲気の変化から気づいていただろうことを。
 戎崎の知る祐美とは、そういう人物なのだ。
 優しい仔犬のような奴。だからこそ――と、戎崎はちょっと目を潤ませ始めていた。
「祐美。話を聞いてくれないか」
「うん、いいよ。秋だし、夕方は長いもんね」

 戎崎はこの瞬間、小道で祐美にめぐり合えた偶然を幸せと思い込んでいた。
 でも現実がそうでないということに戎崎は気づくことはない。


3.



「じゃーん。ほらほら、見て。えびっちのベッドの下にあったやつみたく、髪の毛を二つくくりにしてみましたっ」
「ど阿呆――」
 戎崎はペシンと祐美の後頭部を叩いた。祐美はわざとらしく、ぴぇーんと泣き声をあげる。
 ――場所は、戎崎の家である。
 寒がりの祐美は外で長話は嫌と主張。戎崎はしぶしぶ、雑談の場として差し出した。歩いてすぐだったのも決め手だろうが、ちょうど今日はただ一人の家族の兄も出掛けていて密談にはもってこいだったのである。
 テーブルに置いた透明のコップは、すでに飲み切られている。遠慮無くがぶがぶ飲んだ祐美の仕業である。その様子に、やはり戎崎は暢気だなと溜息を吐きたくなってしまうのだった。
 そして今も、本題に入れずにいる。いらいらしてしまって、戎崎は強引に切り出すこととした。
「――好きな奴が、いるんだ」
「うん」
 口調は同じ。しかし真剣さを滲ませて、祐美は頷く。戎崎は、友達という言葉の重さを最実感しつつ、勿体無くもそれを押し殺して言葉を続けた。
 ある程度話すと、主導権が祐美アドヴァイスサイドに移る。
 言ったことは至極簡単、
「身勝手だね」
 対し戎崎は、唖然とした。
「……お前、ちょっと前に自分勝手は仕方ないとか言ってたろーが」
「うん。でも、身勝手と自分勝手は違うよ。言うなら身勝手は、悪い自分勝手――。
押し付けの優しさや、思い込みの善処を指すのだと俺は思うよ」
 ベッドとフローリングとの段差に背中を預け、脚を三角に折る祐美が微笑みかける。
「相手の気持ちも知らないえびっちが、勝手な決め付けを前提としてマイナス思考に浸ってしまうのは無理ないよ。それが恋。それが人の恋。不安九割幸せ九割、恋ってのは十割なんて幅じゃ説明しきれないものだよね。
悪いのは、自虐妄想を現実と重ねて、相手につっけんどんな態度をとってしまったこと。恋も何もかも、自分勝手にしちゃっていいんだけどさ――身勝手はいけないよ。うん。駄目、駄目」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「好きなことを諦めない努力と、好きな気持ちを優先する努力、かな」
「――身勝手だよ。やっぱお前は、幸せボケしてるんだ」
 戎崎は奥歯を噛み締めて、祐美の首根っこを引っ掴みベッドに押し込んだ。
 その双眸は、凶器の照り返すような光をギラつかせている。
「お前は知っているか、幸せってのは簡単に壊せるんだ。この場でお前を、立ち上がれなくなるくらいにぶっ飛ばして、この部屋の中に詰め込んどきゃ幸せなんて直ぐに壊れちまう」
 まるで、割れやすい硝子のようなもの。
 幸せも――友情も。戎崎は思った。戎崎は今、友情の硝子に向いて拳を握りこんだも同然だ。
 心身ともに離れる彼我距離を予期してか、今までとは違うものが見えてくる。
 戎崎は、今までよりちょっと遠くから祐美を見ていた。今までは多彩に喜怒哀楽を反映させる表情にばかり目が入っていたのだと、初めて気がつく。
「むしゃくしゃする――壊していいか、お前の幸せ」
「壊そうとしても、いいよ」
 祐美が両腕を伸ばし、ぱふっとベッドの上で胸を広げた。
 脱力する祐美。なすがまま、されるがままとなる覚悟の体勢である。
 戎崎は祐美の腹回りに膝をつけるように下ろした。
 四つの瞳が交差する。


 ――硝子にヒビが入ることすら怖がる、弱虫。
 それが自分なのだと、戎崎は小さく笑った。
「卑しいのだとか、自分を責めなくていいよ。身勝手なのは、つらいときに悲鳴を堪えること。自分勝手なのは、つらいときに悲鳴をあげること」
 祐美も小さく笑った。
「素直になれば、おのずと答えは胸の内に――ちがう?」
「ちがわないな」
 ベッドの端に腰掛けていた戎崎だったが、ベッドの上で寝そべる祐美に首を捻った後、気合を入れて立ち上がった。
「有難う」
「どういたしまして」
 祐美も身を起こす。それはドアまで歩み進んだ戎崎が振り返るのと同時。
 自然と目は合った。
「……一曲さ、聴いてかないか」
「へ?」
「俺、ピアノ弾けるんだ」
 喜々とした大声をあげて吃驚する祐美。
 彼を引き連れて、戎崎は部屋を移動した。
 行った先は、ピアノが真ん中にでんと鎮座している白の部屋だ。
 壁一辺を楽譜の本棚が占めている。祐美が興味津々にそれをきょろきょろと見回す内に、戎崎は鍵盤の前に腰を下ろした。
 その手はもう待ち焦がれている。待望しすぎて、とち狂ってしまったかのように猛る。
 浮かぶ譜面は限り無くて、飲まんとしてくる衝動もあった。身体の全ては伴奏を望んでいるのだと、戎崎は思い知る。
 故に――心から弾こう。
 戎崎は懐かしみながら、ゆるりと手を這わせ始めた。


 ぜぇぜぇと荒い息を吐き、彼女は此処へ辿り着いた。
 音が聞こえることに気づいたのは、それから少ししてのこと。防音室の窓が少し開いているのか、音量はとても低い。
 しかし、彼女にはハッキリと理解できた。それが何の曲か、どれほどの難易度か、弾く者の高いレベルさえも。
 ハッと彼女は前に向き直る。
 此処は、戎崎の家。となれば――期待せざるをえない。
『もう、うんざりなんだよ』
 何がうんざりだ、ツンデレめ。彼女はほくそ笑んだ。
 無駄に悲しんで無駄に泣いてしまった分、勢いよく特攻してやろうと彼女は突入を開始する。
 まずポーチに足をつけねばなるまい。彼女は門を軽々と飛び越えるために手をつけた。
 初めは何と言おうか。コンサートの表彰から抜け出してきて損したっ。でも、今後のことを考えればもう少しデレてもいいかもしれない――頭の中ではこんなことを考えながら。

「うぃ〜」

 そんな無防備なところに、その声は突き刺さってきた。
「……」
 門を飛び越えた彼女の前に、ジーンズに包まれた尻が突き出されていた。上半身は腹までをまだ門の向こうに埋めて、今この瞬間にも引っこ抜かれている。
 最後は勢いよく身を引きずり出し、その子は直立にようやく戻る。
 髪の二つくくりが、ぴょんと陽気に跳ねた。
 彼女は硬直してそれを傍観してしまう。
 イリーガルすぎる因子の搭乗に、頭がまだ処理を追いつかせていないのだ。その間に、その子は彼女に気づいて振り返る。
「――ええと、えびっちの友達ですか? すみません。今彼は、落ち込んでいたのからやっと立ち直ったところなんで、できればそっとしてあげてほしいのですが」
 その子は、彼女の顔を覗き込んで言った。
 彼女は、自分は鈍感でないと思っている。その子が女の子・・・で、戎崎が落ち込んでいるのから立ち直ったとすればそれは、その子のせいなのだと解る。
 一体どういう関係なの。彼女は、目が潤んでしまうのを止められなかった。
 だから彼女は踵を返して駆け出した。
 敗者はただ去るのみと、そんな綺麗事は何一つ思いつかぬままがむしゃらに――
「……?」
 取り残されたその子・祐美は「あ、髪縛ったままだった」と気づいて二つのゴムをはずした。


 あなたは酷い。
 掴む手をちょっと緩めたら、あなたはその隙を突いて私の知らない世界にすぐに逃げ込んでしまう。
 知らない世界そこは私からは遠すぎて、絶対に行けない。
 だから私は、あなたが閉じこもった殻の前で、小さく三角座りして待つしかなくて。
 ――最初は文句を垂らすことを考えるけれど、途中からは切実にあなたの帰還を願うの。
 その耳には、感動を巻き起こした初めてのあなたの音がずっと響くの。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「たとえば、そうだなぁ……よし、そこの列。そう、おまえらだ。全員立って、こっちに来い……
たとえば、今ここにいる祐美ゆうみ数多あまた、えびっち、優心ゆうみは『俺に呼ばれた』という条件が共通している要素で、この四人を纏めて集合と呼ぶ」
 逆に呼ばれていないおまえらも集合と呼べるからな。親しげにも生徒を下の名で呼ぶ年配の教師が、その脇に立たせた四人を腕にくるみつつ他の生徒達に向けてニカッと笑った。
 反応する生徒達は少しハメをはずしていて、"あれ、あいつらって名前の読み同じジャン"という誰かの一言から派生した"結成、ゆみーズ!"の声や"残りは、はみーズ!"などが四人に投げかけられた。
 えびっちと先生に言われた、染色料をつけた毛をトゲトゲにしている男子学生が悪乗りしておどける。少しキザめの第一印象を受ける数多はそれに、外野とともにちょっと悪い笑みを浮かべた。
 ――ふと、数多が目を向けた先。
 深い意味を予想させる視線を、優心に傾ける祐美。
 数多は優心の心情を察し、ニヤリと微笑んで目を細めた。

「おまえ最近、付き合い悪いよなー」
 数週間が過ぎて。
 えびっちこと戎崎えびざきのそんな声を背に聞きつつ、数多は教室から身を出した。
 下駄箱までの長い距離は、クラス決めという一種の運試しで敗北側についた者の罰ゲームである。毎回めんどくさいと思い、また今日もめんどくさいと悪態吐く数多であった。
 ……と、その時。
「あ」
「おっと」
 廊下を曲がる瞬間、飛び出してきた影に数多はぶつかってしまう。
 咄嗟に差し出した手に柔らかな感触がすっぽり収まる。
「ごめんよ……怪我はないみたいだね」
 数多が抱えたのは、小さめの女の子。
 長いふわふわとした髪が、おっとりした印象を与える。しかしそれに反して、今その女の子は真っ赤な顔をして慌てていた。
「うん。それじゃ、行くよ。ほんとにごめんね――」
 数多は手を振ってその女の子・優心の背中が去るのを見送った。
 そして、ふぅっと息を吐く。
 祐美の進む先には、勿論だが我らが教室が位置している。その内には祐美と戎崎が。
 戎崎がKY・・なことをしなければ春色物語が開幕しそうだな。と、数多はほくそ笑んだ。

「――ん?」
 そしてある日、街の喧騒の中、彼女が後ろを駆け去っていく気配を感じて数多は振り返る。
 華やかに光る髪を見たような気がする。数多は首を捻るが、考えないこととして前に向き直った。
 数多が立つのは、二階建ての音楽店の前。
 すたすたと歩いて中に入れば、ぼんやりと垂れ流されるギター曲が耳に入る。
「やあ、好青年くん。恋愛を捨て置いて、趣味に走るかい?」
 途端数多は、ヘラッと微笑を浮かべる優男に声をかけられた。
 しっとり物静かな、ギターの旋律。それよりももっとアップテントで陽気な曲が似合うだろう、目の前の微笑。
「いいね、その年頃だとギターでも弾くんだろう? 同じバンドのヴォーカリストと恋に落ちる運命――うん、いいね。うらやましいうらやましい」
 数多は眉を顰めた。対しその男は、ニコニコ満面顔で更に言い募る。
「どうだろう。僕に曲を選ばせてみない? リードできたりスキンシップがとれたりする選曲をしてあげるよ――」
「い、いえ、結構ですっ」
 数多はセールスを振り切るかのように吐き捨てて、二階へと駆け上がった。
 追ってくるかと身構えるが、そうではなかったらしい。階段を昇りきった所で息を忍ばせていると、男がブツブツと暗い表情をして何かしら漏らしているのがわかった。
 憂鬱なのはこちらだ。数多ははぁっと息を吐く――
「数多くん?」
「わっ」
 しかしその時、何かを抱えた優心が声をかけてきた。
 吃驚する数多に、優心は可愛らしく首を傾げる。
「ゆ、優心さん。奇遇だね」
「うん。奇遇だね――あ、それと、この前はありがとね」
 ううん、気にしないで。数多が言う。
 優心が小さく頬を緩めて、何かを抱える力をぎゅうっと強めた。数多が指差し、尋ねる。
「それ、何?」
「あ、えっと、弦よ。アコギをってるの」
 誰にも言ってないから秘密にしてね。優心が上目遣いでお願いした。数多は頷く。
 その後はなんと言うこともない。"秘密"から派生して、ギター曲の話題に伸びる。
 数多は音楽をよく聞く方だ。そして、優心は最新の曲を軽く弾いてみるのが趣味というのも幸いして、話は大いに盛り上がった。
「じゃあね、数多くん」
「ああ――」
 結局、優心がレジを通って入口に向かい始めるまで喋り倒し、数多は片手をひらひらと振って優心を見送る。
 優心は小さくお辞儀し、自動ドアを過ぎて街道に飲まれた。
「……青春しているねぇ」
「まだ居たんですか、あなたは」
 話に夢中になっていた数多だが、音楽店の一階はあの男の領土だったと、耳元に響いた声で気づいた。
 行儀に対する配慮も忘れ、皮肉混じりに数多は言う。対し男は、ヘラッと笑う。
「緩めた頬の、あの幸せな表情――」
 男がそう言うに、数多は思い当たる節があった。
「君の反応を気にするような、わたわたした仕草に口調――」
 男がまたそう言うに、数多はまたも思い当たる節が。しかも、同じ像が浮上してきたのである。
「あの、絶対君のことを好きだよ。天地神明と勝利の女神に誓って、僕が保障するよ」
「はァ?」
 数多はすっとんきょんな声をあげて吃驚した。
 自然と、視線が戻る。
 その目には、今一心に考えている者の姿など映らない。

「いや、あの二人ってどう考えても付き合ってるだろ」
 ある昼休みのこと。数多は戎崎に尋ねてみた。
 戎崎はそっけなくそう言い切り、数多はうんと頷く。
 ――しかし、と思って表情を暗めた。
 信じるわけではないけれど、もしあの男の言うとおりだったならば、根拠もなく、数多は不安を抱いていた。
「ねぇねぇ、何話してるの?」
 その時、昼食を買いに走っていた祐美が戻ってくる。カツサンドをもぐもぐしながら首を傾げる様子に、戎崎はうげっと声を漏らし、数多は表情を凍らせた。
 戎崎の脳裏をツインテール版祐美が掠めた事実を、補足しておく。
「……」
 話を聞かれたかと数多は肝を冷やすが、まだ聞かれて困るような話はしていなかったと杞憂を押し殺す。
「こんにちは」
 祐美の隣に居た優心が、パンの入った小包を胸に抱きしめながらペコリと挨拶した。
 おうと豪快に微笑んで応える戎崎は気づかない。その目線が、真っ直ぐ数多にしか向いていないことに。
 数多が顔を逸らす。逸らした先では、祐美が笑顔を浮かべていた。
 その笑みは、彫刻のように上っ面めいていた。
「――ッ」
 優心の態度は、まるであの男の言う通り。
 そして祐美の態度は、まるで気づいているかのよう。
 数多は弱気にも、更に顔を逸らした。

 メランコリックな心情は臨界にまで膨れ、世界も物語も変える爆発ちからになるまであと少し――


「にゃ、にゃあ、ニャッ」
「ふふ……」
 車が煙を吹きながら走り抜けた。
 路地裏から這い出てきた猫とじゃれる祐美は、風に髪が乱れるのも気にせずに微笑んでいる。スカートを軽く押さえる優心は、祐美を見てクスリと声を漏らした。
 まるで妹とお姉さんのよう。祐美は猫を抱え込み、にくきゅ・・・・ーを優心に向けた。
 ほらほら、ぷにぷにだよ。祐美が言う。

「数多くんって、ロングの髪の子は好きなのかな?」

 祐美の笑顔から、一瞬、全ての力が抜け去った。
 空虚な、幸せそうな笑み――次の瞬間には祐美は目を細めて穏やかに笑えていた。
「大丈夫だよ。うん」
 うん、大丈夫だよ。同じ単語を、配列を替えて繰り返す。
 祐美も優心も、同じ瞳をしていた。
 でもそれは見た目だけのこと。優心は心から幸せで、光に満ち溢れていて。
 祐美の瞳は、奥は暗い。


 メランコリックな心情は臨界にまで膨れ、世界も物語も変える爆発ちからになるまであと少し――
 しかし、爆発は起こり得ない。
 なぜなら誰も望まないから。

 幸せになることは望まれていても、不幸になることなんて今はまだ誰も望んでいないから。
 誰もがまだこのときは、自分の中にある初恋ばくだんのことしか眼中になかったから。
 相手に爆弾を投げ込んで、どうやってその導火線に火を点けるかに夢中になっていたから。


4.


 恋する資格――
 テロに資格なんてなくて、けれど子供も大人も考えてしまう。
 自分が恋していて良いのか、不安であるから。
 自分の恋が抑制できなくて、不安であるから。


「数多くん。あのね、私――」
 高速道路が真横に位置する道で。突然数多は、優心に話を切り出されていた。
 優心は、まるで告白する直前の恋し乙女のよう。まるで、というものではなく、まさにそうなのである。
 数多は少し、泣きそうな顔をしていた。
 その眼には、目の前の人物ではない者の微笑が幻影とは思えないほどの力を以って現実のカットに割り込んできている。
 ――凄く幸せそうだったり、困惑気味だったり、疲れ気味だったり。
 この三つは、好い思い出として残すことができるけれど。
 ――悲しそうだったり、空っぽであったり。
 この二つは、どうしても認められなくて。
 数多は、大事な瞬間の優心の言葉を軽く聞き逃して、考え事に耽った。
 その背後を、車が一つ二つと駆け抜けていく。
「おやおや……」
「ふん、ふん、ふん――にゃぁっ!」
「ちょっとアンタ達! 私の車なんだから、汚さないでよね!!」
 数多には思いもよらぬことだろう。
 まさかその車の一つに、祐美と彼女と戎崎の兄が乗っているだなんて。
「ふにゃぅ、開かないぃ」
「どれどれ、貸してごらん」
 戎崎の兄・宮鄙みひが祐美の手からしょうゆせんべいの入った袋を取り上げた。涙目の祐美をミラー越しに見て、彼女・あんなが溜息を吐く。
「せんせい。運転可能になる年を軽く越してるでしょうに、なんで助手席そっちなんですか……」
「いえ、僕はペーパードライバーなんですよ。それに、自分の車は自分で運転したいと思うものでしょう?」
 何が"ものでしょう"だ、と毒づくあんな。
 あんなは今夏に免許証を取ったばかりだ。しかしその運転力はいまだ皆無である。
 なぜなら、すぐに高速道路にのったので直進しかしていないから。
「――で、勢いで飛び出してきちゃいましたけど、一体どこに向かうんですか」
「どこでもいいんじゃないかな。漫画のように、朝日の昇る方にでも向かうかい?」
「……今、真反対に向かってますけど」
 ガシガシとしょうゆせんべいを喰らい始める祐美。それを微笑ましげに見てから、宮鄙はあんなに向いた。
「終わりの方向、というわけだね。それもいいのではないかな? 何かが始まることを望むとは、つまり何かを終わらせるつもりなのだから」
 思う所があるのかどうかはわからない。兎も角あんなは、高速道路の真っ直ぐの先に目を凝らすフリをして顔を前に押し出し背中を丸めた。
 まるで、恋色に憂鬱が滲むあまり机に突っ伏さんとする学生のごとく。
「そうですね。それもいいかもしれません」
 昨日の自分にさよなら。
 一言で表すならそんな、この旅のタイトル。
 この後のことを暗示するならば、こう言っておくべきだろう――たとえ静まりの夜であっても、旅に休符は無い。
「……」
 あんなの見る先、道はまだ真っ直ぐと続いていた。
 けれど、あんなは迷子になっていた。

 景色で選んで、しかし方向だけは変えずに夜まで進んだ結果、宮鄙の知り合いが経営するホテルに辿り着いた。
「いやぁ、ほんとにすごい偶然だねぇ。彼に会うのも何年ぶりかな。昔は、もう少し髪の毛があった気がするけどね――ああ、お金のことは気にしなくていいからね、学生の君たちにどうこう求める気はないよ」
 与えられた部屋のある階に上がるまでの、エレベーターでの余暇。あんなは冷ややかな目線を宮鄙に向ける。
 対し宮鄙はずっとヘラッと微笑むだけ。
 対し祐美は、呆けた風に宮鄙を見上げていた。

「なんで男と同じ部屋なのよ! せんせいったら、絶対勘違いしてるわ!!」
「……」
 その和室からは、月夜を眺めることができた。
「バカー!」
 あんなのように浴衣から豪快に脚を曝け出して叫んだ者は、この旅館では初めてであろう。
 しかし祐美は、座布団にすわったままそんなあんなにニッコリ微笑んでみせた。
「でも、晩御飯がすっごく美味しかったよね」
 あんなはじっと祐美を見つめ、何を思ったかその眼前に座り込む。
 そしてぽつりと、呟いた。
「よく、ご飯の味がしたわね」
 祐美は笑みを崩しはしない。
「私なんて、全く美味しいだなんて感じなかったのに」
「――御免。ほんとうは味なんて、なかったよ」
 そう。
 話し出しても、祐美は笑みを浮かべ続けていた。
 まるで陽気な話を切り出すかのように。
「一口食べるたびに飲み下しにくくなって、いつ咽てしまうかと心配だったよ」
「……私よりも重傷なのね」
「度合は決め付けられないと思うよ。五十歩百歩。だって僕らは、共に迷ってるじゃない」
 その言葉に何を思ったか、あんなはそっと祐美の肩を押した。
 ――祐美は下に、あんなは上に。
 あんなの股の間に祐美の両脚が押し込まれている。あんなの浴衣ははだけ、足の付け根までがもう露になっていた。
 作為的か、乳房もちらりと祐美に見せ付けられている。
 人にまたがるという姿勢は、あんなの美麗な曲線をより艶かしくしていた。
 ――祐美は下に、あんなは上に。
 押し倒されても祐美の笑顔は崩れない。
「せんせいが配慮したのかもね。お互いに傷を舐め合うといいって」
 ――祐美は下に、あんなは上に。
 あんなは誘うように揺れ動いた。擦れ合う体と体。甘美な刺激が軽く走って、自然と唇を舐める。
「――ねぇ」
「……ごめん」
 淡い光の灯った目を見合わせる中、祐美はあんなの頬に手を伸ばした。
 そして、そこにかかっていた髪の毛を、そっと脇へ避けた。
「俺、我慢するって決めたんだ。この旅で俺は、そのために強くなる」
 望んでいた告白と真反対だったからって、好きな気持ちは変わらないから。祐美は目を細めて、微笑を浮かべ続ける。
 それは痛々しくも、力に溢れていた。
「――ごめん」
 次に謝るのは、あんなの方。
 そして、此の場に居られなくなって、浴衣を大雑把に着直して廊下に飛び出す。
 その目は、自分が情けなくて涙をにじませていた。

 たとえこの恋が実らないのだとしても――
 祐美かれは傍にいるために、我慢することにした。
 押し隠されたその気持ちはもう、絶対に実ることはないのであろう。
 果たして、そんな結末は幸せなのだろうか。望むより一歩足りぬ距離で見ていなければならないのだ。ならばいっそ、当たって砕けて、泣き腫らしてしまえれば楽ではないだろうか。
「君の考えていることを当てて見せようか――身に満ち溢れる衝動の、誤認識だよ」
 宮鄙の声に、あんなは思考から浮上した。
 ぼぉっと窓の外を見ていたあんなと違い、宮鄙は真っ直ぐとあんなに向いている。
「素直じゃないね」
「――なんですか、素直って」
「祐美は素直だよ、さっき素直になったところ。それに対して君は、全然素直じゃない。
そう言えば、解るのではないかな?」
 解る。解ってしまう。でも解らないフリをする。あんなは首を横に振った。
「わからないです。だって祐美は、本心を押し殺しましたよ。我慢すると彼は言ったけれど、それはつまり諦めたわけですよね。なら、迷ってる私の方がまだ素直に近いんじゃないですか?」
「そうではないのだけどね」
「せんせいの言うこと、全然わからない――」
「恋愛の違いだよ。つまるところ」
 宮鄙はあんなの髪を撫でた。そして、そっとその頬に触れた。
「あんなは恋をしているね。触れたい、傍にいたい、見てほしい、そんな欲望ものが満たされると幸せな"恋"だ。
対し祐美は、"愛"しているのだよ。支えたい、笑っていて欲しい……相手の幸せが、自分の幸せに変わる」
「そんなのって」
 宮鄙は掌で、あんなの強張りを感じ取った。
 ああ、その通りだ。宮鄙は言う。
「ああ、その通りだ――とても儚く一途で、救われない生き様だね。
でもそれが祐美の素直。だから祐美は幸せになれる」
「わからない、です」
 泣き出しそうな顔をして、あんながそう言った。
「でもこれから気づいていけばいいよ。君にとってこの旅は、そのためにあるのかもしれない」
「……じゃあ」
 掠れ声。
「せんせいにとってこの旅は……?」
「ああ、僕にだって意味はあるよ――好きな女の子が、居るんだ」
 年からして、今さらだけどね。宮鄙は笑う。
「その子も僕が好きで、両思いで、付き合っていて、その気持ちのままならずっと一緒のはずなんだけどね。でも運命は皮肉にも、僕らを離そうとする。
だから僕は、いろいろと考えなくてはいけないんだよ」
「ピアノでも弾いてあげると良いと思いますよ。すっごく綺麗な音ですから」
 それはいいね。宮鄙は手を合わせて、嬉しげに言う。
 しかしその瞳は、隠しきれない悲愴の色を露わにしていた。
「――それじゃ、僕はこれで。あんなはどうする?」
「私は、もう少しここにいます」
 あんなはコクコクと頷いて、宮鄙が去るのを見送った。
 その目は次に、窓の外を――窓の外ではない何かを、ぼぉっと見つめた。

 あんなはほんとうに、もう少しだけその場に留まった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


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「ごめん。君とは付き合えない」
 わかっていたことなのだ。高嶺の花だということは。
 けれど、前に休日にあったときに話が弾んだこともあって、優心は少し期待をもっていた。
 しかし、結果はこのとおり当たって砕けたわけである。
 優心は数多と道を違えた後、一人静かに泣き始めた。
「……」
 心細くて――そして、この結果を一番に伝えなければならないため、彼に電話をかける。
 だが繋がらない。なんとタイミングの悪いことだろうか。
「祐美、くん」
 ユウミ。優心は、口の中でその名前を舌に絡めてみる。
 自分と同じ音。しかしその味は、なんだか別物のように感じられた。
 彼の前だと、もっと違うようになる。平凡で味気ない自分とは真反対に、不思議と幸せなわくわくに溢れるのが彼なのだ。
 笑顔が可愛くて、格好良くて、すごく綺麗。
 考えている間に優心は、そっと微笑んでいた。
「祐美、くん――ッ」
 だから気づく。
 嗚呼、と空を仰ぎ見た。


 青い空。
 白い雲。
 きっとあなたは、青い空の下、白い雲のその向こうを見ていることでしょう。
 私はその横顔しか見ることが出来ません。
 ――いえ、あなたならきっと私にも笑顔を振りまいてくれるでしょうけど。それは私が望むのとはまた違う色をしていて。
 だからってこんなのは間違った形なのかもしれません。けれど、私はあなたの顔を真っ直ぐ見てみたいのです。
 あなたの瞳に真っ直ぐ見つめられたい。


「こんな恋の形は誤りなのかな」
 ――なんて自分勝手。いくら彼でも、こんなことでは見放してしまうだろうか。
 けれど、優心はもう心を決めていた。

 誰よりもを応援してくれた人を好きになるだなんて、皮肉であった。

 キスする瞬間を思い浮かべれば数多よりもどきどきしてしまうだなんて、皮肉であった。

 ――それが恋模様の天気の性質だとは、優心は若すぎてわかりはしなかった。


5.


(二年とちょっと、て所か)
 年月を計算した。周りの絶え間ない喧騒、鼻にくる酒の臭い、叩きつけられるかのようなやかましい音楽。
 なるほど。この場で会うにはちょうどいいくらいの時間が流れていたようだ。
「なんていうか……久しぶり、だな。いや、あまり変わってないようにも感じるけど、一応な」
「おう。まあ俺なんかはあまり変わってないけどな、祐美なんて別人だぜ。なんつーか、女らしくなったっていうか……ムラムラできる。ほんとマジで」
 必然の出会いの前の、強運的な偶然の出会いであった。戎崎と数多。煩雑もとい繁雑に追われていたために関係はプツリと途絶えていたが、元は高校時代の悪友である。隙間なんて無しにすぐに打ち解けて、戎崎と数多は余興に酒を交わしていた。
「祐美と会ってるのか」
「おう。なんたって同じ大学だからな。お前が居ない分あいつに絡むようになって、初めて気づいたことが色々ある。
だからもしかしたら、俺はあいつに惚れたかもしれん」
「おいおい。あいつにも彼女が居る頃だろう?」
「……何言ってんだよ。祐美は女だろーが」
 数多は黙った。戎崎を軽蔑した。あの頃よりもいい加減に映ったかつての友人、別の友人のためにちょっくらったほうがいいのかもしれないと本気で分析した。
「冗談だよ。そう怖い顔すんな。そりゃここ最近、自慰のネタといえばツインテール時の祐美ばかりだが――」
 墓穴を掘る戎崎は思考から追い出し、数多はグラスの中を飲み干した。
 ――とその時、視界の隅にそいつが映った。
 思わず数多は、飲み下すべき物を嘔吐しそうになる。
「おうおう。てめぇ、俺というものがありながら!」
「え、えびっち、誤解だよぉ。優心さんとはさっき、電車で偶然会っただけで……」
 まるで恋人の男女のよう。"俺というものがありながら"と言う戎崎も戎崎だが、慌てて弁解する祐美も祐美である。
「――」
 数多はぽかんと口を開けて、祐美を凝視してしまっていた。
 仕方ない。物凄くナイスバディなのだ。
 男なのに、女のような誘う腰つき。華奢な輪郭の、艶かしげな線。
 何よりも、笑顔の美しさに磨きがかかっている。まるで屈託がない。
「お久しぶり、数多くんも」
「あ。ああ……」
 祐美がしっとり濡れる唇で囁いた。数多はどぎまぎしつつ、言葉を発する。
 戎崎のどうだ? という目に、数多は深刻げに頷いた。
 今はもう、戎崎を軽蔑視できない数多である。
「それじゃあ、まぁ、女といっしょに来たのは偶然ってことにしといて――早く座れよ。祐美は俺の隣、または膝の上な」
「や、やだよぉ」
 あの頃とは違う日常スタイル。もしあの頃の自分達が知れば嘆くだろうか、または染まるだろうか――数多は思った。できるだけ優心を意識しないようにして、今の雰囲気の好さを損ねないように力強く微笑を形作る。
 優心も、向かい側に座っておきながら数多に話しかけようとはしなかった。

 それはちょっとした、同窓会みたいなもの。

 計画して、呼ぶ人を決めるとき、戎崎は祐美に首をかしげた。
 どうして優心を呼ぶのだ、と――それは、クラス全員のなかから数多と優心しか選ばなかった祐美の意見を、聞きたがっていたのである。
 そのときの祐美の返答は、こう。
『俺たちは、集合でしょ?』
 戎崎にとってほんの小さな出来事であったのだけれど、祐美にとっては忘れられない事だったのか、真相は不明である。
 しかしなんとなく心惹かれることがあって、戎崎は承諾したのだったが。
「集合とか……ほんと、懐かしい」
 社会で使うはずもない数学知識。すでに大半が埋もれてしまって、思い出しはしてもあまりにもおぼろげである。
 ただ、戎崎は、会を終えた帰りにふと思いついた。
 それはできれば、あの会話をしたときに言いたかったこと。
「――」
 だが、それは今立ち止まった理由とはまた別物。
 ならば立ち止まった理由は何か。深夜、地下鉄駅までの誰もいない道、立ち止まる理由など背景には一つもない。
 ただ、目の前に彼女が立っていたから――戎崎は立ち止まったのだ。
 言うことはないのか、戎崎は何も言わない。彼女も、だんまりを決め込んでいる。
 だが陰湿な雰囲気はない。穏やか、その一言に尽きる。
 突然、戎崎が彼女に向かって駆け出した。酔いはどこに消えたか、その足取りはしっかり確かだ。
「あんな――」
 目の前に行くまでに待ちきれなくなって、戎崎は呼んだ。彼女も、戎崎の名に口の形を変えるが、何かが原因で声は一つも絞り出せなかった。
 目元を潤ませるものと、その何かは同じなのだろうか――それは彼女にも、戎崎にももしかしたら解り得ないかもしれない。
 だがなんとなく感じるものは、少なくとも負の類ではないと二人は断言できた。
 だって、もし喜びや嬉しさ以外の何物であれば。

 こんなにも走り出すことはなかっただろうから。
 こんなに泣きたくなることもなかったはずだから。


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 in line


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「――う」
 朝。あんなは歯を食い縛った。
 それはまるで、獣が威嚇するかのようである。
「裏切ったわね、せんせいったら!!」
 唸り声の代わりにあげられたのは、不満の一声。これによって、二つの笑みが作られた。
「でもねぇ、サボれるのも一日くらいでしょう? だから、早めにを摂取させた方がいいかと思ったんだけどねぇ」
 一つは、全く悪びれないヘラッとした笑顔。
「っていうか、不機嫌さに身を任せて俺の兄ちゃんに迷惑かけてんじゃねーよ。まずそっちを俺に謝罪しろ、どれだけ心配したと思ってんだ……」
 一つは、鬱憤げな苦笑。
「うぅ。でも『恋せよ若し者よ。旅せよ春を青に喩える者よ――ところで、その色に似た広大なものを見てみたくはないかい?』って旅の話を持ち出したのはせんせいなんだから! 全ッ然海の方に向かってなかったけど!!」
「オイ、兄ちゃん」
「いやぁ、初恋は応援すべきだろう?」
 ノット悪びれヘラ顔、二度目の炸裂。戎崎は頭を抱えた。

 ケ、ケホンっ。

 戎崎が説教を展開せんとした時、あんながわざとらしく咳払いした。
 はぁ? とでも言いたげな瞳が、あんなに向く。
「そ、それじゃあ私は帰るわよ、帰ればいいんでしょ、言うとおりにしてあげるから私の車は頼んだわよ戎崎弟っ」
「ちょ、おま」
 何か言いたげな戎崎と別段変わりない宮鄙の間を大股でぐんぐん突っ走って、あんなは去っていった。


「見つけたわ」
「……ええと。見つけられちゃった、けど、ん?」
 ホテル前から折れて少し先に、とぼとぼ歩く祐美の背中が見えた。あんなは直ぐさまその背中に声を放り、足を止めさせる。
 首を傾げる祐美に、あんなはちょっと説明しそうになった。だが趣旨はそこではないと思いなおし、胸に手を当てることで強引に忘れる。
 伝えるべくして胸の内にある言葉かくごが、あるのだ。
「私、決めたから。アンタみたいに恋と愛を判別したりできないから、もう少しこの恋を大切にする」
「――強いんだね」
「何言ってんのよ。私の初恋成就には、みんなに手伝ってもらうんだからね」
 あんなはニヤリと笑った。羨ましげに目を細めた祐美だったが、表情がすぐさま凍る。
「……俺も? マジで言ってる?」
「大マジ。腐れ縁でしょ。いいじゃない」
 拒否権も何もない。祐美はあんなに腕を引っ掴まれ、ずるずると引きずられた。
「今日は荷物持ちなさい。財布になれといわないだけマシと思ってよね。さあとっとといくわよっ!」
 強制連行。見た目そのままな四文字を思い浮かべ、祐美は無駄と予想しつつも交渉のために口を開く。
 勿論、その交渉は無駄に終わり、何を考えたかあんなはテンションをヒートアップさせて叫ぶのであった。
 ――今宵はCまで突っ切るわよ、と。
 古い表現である。なかなかどうして、本作品はもしかしたら1980年代中盤という設定なのかもしれない。単にあんながちょっと昔の映画を選り好んで観賞したのかもしれないが。


 追って、ちょっとしてから立ち止まった戎崎はその一部始終を見ていた。
 感想は、たった一言。
「あいつの初恋の相手って、祐美なのかな」
「――ぷっ」
 それは宮鄙の笑いのツボに入ったようだ。
 宮鄙はお腹を抱えて爆笑し始めた。
 口元がわなないていることから、堪えようとはしているようだとわかる。それでも笑い声があがってしまうのを止められないとは、相当おもしろいことだったのだろう。
 そのことが癇に障って、戎崎はジロリと白い目を向ける。
「こっちは真剣なんだぞ。なんだってそんなに笑う」
「いやぁ、ごめんごめん。悪気はないんだけどね」
 そう言うまでにある程度は収まったようだが、まだいつもよりも笑顔は満面である。
 その理由は、これからの恋愛劇に期待するあまりのことだろうか。
「それじゃあ、この鍵を渡しておかないとね。あんなの車の、だよ」
「――いや、俺まだ未成年だから。運転免許持ってないから」
「なせばなる。ばれなきゃいいって、言うでしょ?」
「悪い奴ですねアンタ!?」
 ショックを受けるのも馬鹿らしくなって、戎崎はけらけらと笑うことにした。
 そうなるように促してくれた兄に、戎崎は心の内で感謝を述べた。


$◇$
 肩を並べて歩いている。同じくらいの歩幅で、越すも越されるもなく、並んで歩いている――
 いつだってそんな感じだったのかもしれない。三年が過ぎた方の祐美は、ふと思った。
 独りが怖いのか、根が優しいのか、小まめに両隣の人を確かめてきた。両隣の人を気にして、次々と一歩を踏み出してきた。
 大学までの道のりも半分が過ぎている。もう少しで戎崎にも優心にも会うことができる。しかしそういう意味とは、もっと別なのだ。
「――」
 大学までの道のりも半分が過ぎている。
 もう少しで戎崎にも優心にも会うことができる。
 だけれど――隣では、前だけを見る二人が一歩を踏み出そうとしている気がした。
 戎崎は考えを止めて、一歩を踏み出した。
 その一歩は、それまでよりも少し重く地面を踏み込む。

 青い空。
 白い雲。
 きっとあなたは、青い空の下、白い雲のその向こうを見ていることでしょう。
 俺はその横顔しか見ることが出来ません。
 だからってこんなのは間違った形なのかもしれません。けれど、俺はあなたの顔を真っ直ぐ見てみたいのです。
 あなたの瞳に真っ直ぐ見つめられたい。
 けれど、いいのです。
 俺も前を見ながら、そっとあなたと手を繋ぐ。それだけで幸せな気持ちになれるから。
 だから望むのは、たぶんあなたが隣に居てくれることだけ。
 俺の手を拒まないで欲しいけれど、それは過ぎた願いなのだと思います


「――」

 戎崎が言った。青い空はどうですか、と。

「――」

 数多は仰ぎ見た。白い雲は綺麗ですか、と。

「――」

 優心も、宮鄙も、あんなも、青い空と白い雲を見上げていた。
 けれど、その目に映る景色は全部違う。もしかしたら、その目には人が映っているかもしれないから。



 その日の光景は、雨上がりの虹も何もないけれど、そっと誰も彼もを見守る太陽の陽射しに似た色をしていた――








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