『色-a tour for colors-』


                               
水瀬愁





 ――夢は、澄み切っていて綺麗だ。
 この場合の夢は、将来に関する願望である。そして、客観的でないということにも注意してほしい。
 つまるところ、先入観やら固定観念やらで塗り固まったいち個人の意見でしかないわけだ。
 だが彼は、自身のその意見が間違いでないといえる"経験"をしている。
 現在の彼において問題・障害ともいえる"経験"は、彼が妥協しているせいではないか、客観的な推察という名目で自身の限界を勝手に作ってしまっているのではないか、と疑わせやすいが彼自身はそうでないと思っている。確信すらある、がこの場合この単語では語弊があってしまう。
 もっと違うものであった、その絶望は。
 例えば今、彼は自分の番のピアノレッスンを待つ間に前の番の人が弾くつたない演奏を耳にしている。
 もしこの場がコンサートであれば誰もが顔をしかめていたかもしれない曲であるが、彼は此の場での感想が其の場でのものと同一だろうと予想していた。確信すらあった、といっても過言ではない。
 この場合は、語弊がない。
 そう考えに耽るうちに、彼の番になる。彼は意識を現実に浮上させると同時、反射的にソファから腰を上げた。
「長い付き合いじゃない。今更どーしたの翔ちゃん?」
 それを彼が緊張するあまりの行動と取ったのだろう、ピアノの先生は苦笑気味にクスリと笑って言った。
 人妻になって幾十年、今では若母から脱した年齢であるはずの先生だが、男子学徒に受けの良い保健室の保険医(マドンナ)に類似する魅力が顕在している。
 話も雰囲気ものんびりしてしまうこと百パーセントの天然が入っているのが、玉に瑕である。だが、まだ実害はないので彼にとっては好印象。
「はい」
 茶を濁す意味も込めて、彼は大きく頷いた。そして彼の番が、来た。


「よぉっ」
 空気の濁った街。ネオンの濁った光が包み込んでいる。
 星空は――本当の光は、見えない。
 帰り道の途中、正確には保険医の似合うピアノの先生の家から出て直ぐに、彼は声をかけられた。
「もう、何さ何さ何なのよさ!」
 だが彼は、声の主よりも街並に意識をとられてしまった。そんな彼に、声の主はぷりぷりと怒った。
 怒ってますという仕草をする様子は、彼女――未汐においてまだまだ大丈夫なライン。彼は特に対応せず、歩き出す。
 そして未汐は、その後を追った。
「ねぇねぇ、私の演奏どうだった?」
 未汐は彼の前の番にレッスンを受ける。また、彼とともに待合室に入ったので、彼が端から端までを聞いていたことも把握できている。
 練習熱心な未汐は、先生の感想だけでなく彼の感想をも糧にせんと思っているのだろう。
 嫌な気はしない、むしろ好感度が上がる。彼は顎を人差し指で撫で、思考し、ぽつりと呟いた。
「……まあ、良かったと思うよ」
 技術面で言えることは多い、だが彼はしかしと接続語を置く。
 彼に無い物がある。未汐が聞けばハテナマークを頭上に浮かべてしまうほど悩むか、否定するであろう。だが彼にとっては、断定できる。
 それは、いえば技術面ではない差。彼はそれを実感して、それが彼には眩すぎて、悪く言うことはできないのだった――悪い点などあったとしても喉につまってしまう。
「そんな歯切れの悪い言い方」
 未汐は、しゅんと身を縮みこませて俯いた。足が止まる。
 その直前に見た未汐が涙目であったのを思い、彼も未汐を向いて立ち止まった。
「あ! そういえば天気予報で、そろそろこの地域にも雪が降るって言ってたよ」
 心配して、さらに言葉を一つ二つ付け足そうとした瞬間、ぴょんと跳ね上がった。
 姿勢も、テンションも、上向きに。その勢いで、彼と前後を逆にする。
 未汐を覗き込もうとして上半身を若干折ったその状態のまま、首を回し、彼は未汐を振り返った――苦笑。しかし、毒気はぬかれるまでもなく、存在しない。
「……ねぇ。イブって何か、予定ある?」
「んー、先生のお願いでグループレッスンの方のクリパに参加する」
 潤んだ目をして尋ねる未汐は、あっさり砕けた。
 ――まず、彼が未汐の様子に気づいた風すらない。彼が鈍感なのか未汐が奥手なのかは、この際保留ということにしておく。
「そっか」
「ってか、イブの前にテストあるだろ。センターのために、今はそっち考えないと」
「そっか」
 残念そうに、未汐が目を伏せた。しかしそれは、周りに気づかせぬほどの落ち込み具合に抑えられていた。
 内面もその程度であるかは、未汐にしかわからない。


 舞い降りる雪がスモッグまみれの街を彩り、雑踏を縫うようにアスファルトを覆い、凍えを介して温もりを伝えるこの季節。
 冬の夜。しかも、ただの夜ではなく、一年に一度しかないイヴである。
 ネオンの光が、真の美であるふりをして得意げに輝く。本当とは、そんなものではないのに――彼は、マフラーに口元を埋めてそう思った。
 自分も知らないくせに、得意げに。
「ちわっす」
 コンビニ店の上にある、グループレッスン用の教室。二部屋の内、手前のドアノブを回して彼は中に入り込んだ。
 中心で円陣を組んでいる、彼より背丈の低い者達。彼が高校生なので、その者達は中学生かそれ以前と予想させた。
 男子が三人、女子が二人。円陣に含まれない先生も合わせて、合計十二の目に注視される彼。
 だがその注視も、時間が経つにつれてゆるゆると薄れていった。小さな異物が一つ混入しただけの日常は、人間の適応力の前では異常に成り得ないということか。
 音楽に合わせて、各自で用意したクリスマスプレゼントを順繰り回す。音楽は、彼の係。
 止めるタイミング一つできゃーっやわーっと声があがるのは、楽しい気持ちをそこはかとなく生み、彼に自然と笑顔を浮かべさせた。
 そして、彼が一曲弾く。彼自身が気に入っていない、しかし技術だけはたいしたことある腕は、細かくて速い曲を奏であげ、聴衆から拍手を湧かせる。
 次に、グループレッスンの生徒が発表する。一番目、二番目ともに男子であったのは、気の強弱の問題だろう。実証するように、三番目には活発そうな女の子が名乗り出た。
 四番、五番は、言葉は悪いが残り物である。盛り上がりの妨げになるような良くも悪くもない曲が、何変哲ない時間を作る。五番も同じに予想する彼は、しかし最後までしっかり聞かねば悪いと気を引き締め、五番目の娘に目を向けた。
 その瞬間、彼が受けたのは正負で喩えがたいものだった。
 好評価、であるのは間違いない。魅力に惹かれた、という言葉が合いそうで何気にしっくりこない。彼自身わかっていない。
 なぜなら、目を見張るほどその娘が美人だったわけでもないから。クラスでは、存在感をあまり表明せずひっそり居座っているのであろう。
 笑うでもない――五人の輪から抜けて、笑っているのもまたおかしいが――無表情じみた横顔が真っ直ぐ前を向いていて、彼はなんとなくその娘を目で追ってしまっていた。
 演奏も、良いでも悪いでもなかった。しっとり物静かな、最後に相応しいような曲。曲の性質から、自然と皆の口が閉じたので、案外上手い部類なのかもしれないと彼は思う。ぼんやりとしている中での好評ほど喜べないものはないが、彼自身、もし評価を聞かれたら"普通"と答え、思い浮かんだ好評は胸の内に沈殿させる腹積もりであった。
 なぜ――彼は、その自問に答えられない。
 場に流されて適当に動く間、ずっと考える。先生と一言二言交わして部屋を出、コンビニのある階に下りるまで、彼はずっと考えた。
 しかし、理由は見つからなかった。そこに彼は、自分に欠けていて未汐には感じられるものの存在を感じた。
 ――似ているのだろうか。あの娘と、自分は。
 彼はスモッグまみれの街の空を見上げた。白い吐息、それ越しなのもあって余計に星空は見えない。
 せっかくの聖夜に不似合いだなと、口元だけで笑って彼は歩み出そうとした。
「お」
「あっ」
 しかしその瞬間、前に向けた足は慌てて後ろにつく。進行方向に障害物があったからだ。
 有機体、詳しくいえばグループレッスンの生徒の一人であったが。
「こんばんは」
「こんばんは」
「さっきは、どうも――帰らないのかい?」
 彼が尋ねる。少女は、空に向いて言った。
「雪が、やまないので」
 少女は、彼の惹かれたあの娘の方だった。
 だからかもしれない。彼も空を見上げながら、しかし少女の隣に居座ったまま進もうとはしなかった。
「傘を持ち歩いてればよかったな、天気予報でも言ってたのに」
「ですねぇ」
 少女と違い、雪の中を歩いて来た彼なら傘も何も問題はないだろうに。少女は相槌を打ち、ニッコリ笑いかけた。
 それだけで、彼の胸の奥がかっと熱くなる。彼が一度惹かれた、無関心の横顔とはまた違い、力の満ち溢れた笑顔は斑雪よりも月光よりも、いまここにある何よりも柔らかかったからだ。
 彼の胸は高鳴っていた。
「――レッスンは、どう? 付いていけるかい」
「はい」
 話題に困って、少し静寂が流れる。なんとか彼が持ち出しても、少女に一言呟かせるだけ。
 雪が降るのに音があればいいのにと、彼は空を睨んでしまう。
「……すみません。嘘、吐きました」
「え?」
「実は、困ってることがあるんです」
 え? と言って、彼が少女に向く。少女は、楽譜等が詰め込んであるカバンをぎゅうっと腕に抱いて、目を伏せる。
「作曲、しなければいけないのですが――」


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 ピアノを弾きたいと彼が思ったのは、父親から影響を受けたからだった。
 父親は下手の横好きというやつで、そのくせ評論家の顔をして、毎年一度は若者しか演奏しないコンサートに出向く。
 理由作りには、幼い頃の彼もつかわれていた。彼が通うピアノ教室が彼をコンサートに誘えば、保護者同伴という言葉が使える。
 尤も、父親がそう理由を作りたがるのは、妻にがみがみ言われて抑制されないためという何とも気弱なものだったと幼い頃の彼も記憶している。また、父親と違って音楽に興味のない母親がそれを軽く見破って、ぶつぶつ言っていたことも共に。
 そのときの彼がずばぬけて上手かったかというと、そうではない。父親がああであるだけに、子供もそうであるのは当然といえば当然だ。だが腕の問題は、この際置いておいてもいい。そのときに気づいていなかったものがあり、それが重要であったのだから。
 そして彼は、気づかぬままピアノを日常の一部に埋め込み、憧れのピアニストも持って、平々凡々のように過ごす。だがふと、彼は気づいたのだ。
 冷めている自分に。
 誰に言われたわけでもない。いや、友達にサラリと言われたことは何度かあったが、そのときに実感することはなかった。本当に突然に、彼は自分の色の無さを思い知った。
 クラスで、無特徴の部類。特徴的で、中心となって人の視線を集めるようなユーモアある人間がクラスに居たとすれば、彼はそれを見る二つの目。劇でいえば木、スポットライトが意識されて向かうことはない。
 無色透明の自分。色あざやかな喧騒(まわり)が、どれほど眩いか。
 それは奏でる音にも現れる。だから、望んだものとの差に歯痒くなる。
 いや、歯痒い程度ではすまない。夢が途絶えたかのような無力・敗北感は、どれだけ足掻いても無駄な、絶望のそれに何ら変わりない。
 気づいてから、彼は無感動の歳月を繰り返すことになる。
 笑うことはあった、作り笑いを浮かべることはあった、ニュースで貧しい人の話を聞けば自分が幸せとも思う、けれど――
 けれど、絶望している人間が幸せなはずがあるだろうか。


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 彼は思った。その少女もちょうど、それであると。
「自分の弾きたいと思うものがない、か」
「はい」
 確認するように彼が言うと、少女はさらっと返してのけた。
「与えられる課題曲を弾いてばかりだったからなのか、特に音楽の趣味がないからなのか、わからないんですけど」
「確かに、両方ともってのもありえそうだ」
 雪はまだまだ止みそうにない。それはつまり、彼に逃げ道がないということであり、少女の真剣さからすると答えずに茶を濁すのも無理ということである。
 だが、彼に答えよというのもまた無理な話。自分も迷っているのに、正しいことは言えない。言えるとすれば、つまらないことか歯の浮くような台詞。
「君の問題点は、インスピレーションが湧かないってだけだろうね。起点さえなんとかなれば、君の実力からすれば作曲は難しくないはずだよ」
「どうすれば、いいんでしょうか……?」
 少女の目がアーモンドの形をして、彼をじっと凝視する。
 彼は笑いかけた。
「俺に任せてくれるのかい?」


 彼は、たとえば錯覚していた。
 生まれてから今日までの渦(みち)のなかで、自分は色を得た。期待、優越、親近、後悔、不安、憧憬……。そんな無限にも近いさまざまな、感情という色を得た。そう、錯覚していた。
 いや、錯覚というべきなのだろうか。それは上塗りされた塗装に過ぎないと、自らを欺き偽り装っていたに過ぎないと、本当は奥底で最初から解っていたのに。
 だが同時に、唯一つ真実といえることがある。
 夢だ。
 ――夢は、澄み切っていて綺麗だ。
 少なくとも、無色の彼にはそう思える。現に、彼の持つ夢は、彼の目蓋の裏では、白い光と白い森と心地いい音に溢れている。
 新たに身に付けたものに、錯覚であったことで裏切られ、やはり彼に残ったのは夢だけだった。
 憧憬だけは確かに、ネオンでない光を発していた。
 見たことはないけれど、星空のような光だった。


 彼は、今に見切りを付け終えて、少女に手を差し伸べる。
「行こう」
 足を止めさせた雪は、もう止んでいる。










 タタン…… タタン……
 聞こえるのは電車が走る音だけ。あとは開け放った窓から夜風が吹き込んでくる。
「寒くないかい?」
「はい」
 対面して座る図。何度も気を利かせてくれた彼に、少女は一つ以外をやんわり断りを入れた。
 その一つとは、缶コーヒーだ。これだけは、すでに買ってしまっていたからどうしようもない。
「それで、どこに向かうんですか?」
 失礼にならない程度、間隔をあけて缶に口を付ける。べつに、好きでも嫌いでもない味である。
 少女が問題視しているのは、水分を取りすぎることで尿意がくることだった。
「んー、海」
「……季節はずれ、ではないでしょうか?」
「ごめんね」
 でも、定番ぽかったからなぁ。彼が笑う。
 行き先に要望もあてもないので、少女は文句を言うつもりはなかった。だから缶に口を付けて、誤魔化した。
 ふと、会話が止まる。彼を盗み見ると、この事実を重く受け取ったらしい表情をしているのが解った。
 心情が顔に出すぎなのである。少女は笑ってしまいそうになった。
 そして結局、電車を下りるまで再び会話することはなかった。少女の中で、彼が意気地なしにカテゴライズされたのは言うまでもない。


 海。
「やっぱり寒いですね……海の真ん前だと、視覚的にも余計に」
「ラーメンでも食って温まりたいな」
 少女が言う。彼が言う。少女がクスクスと笑った。
「冬だからってインスタント麺ばかり食べていては、駄目ですよ」
「誤解だ。鍋も食う。それに、カップじゃなきゃ野菜入れまくれるだろ」
 海。一面に青いが、雪を孕む雲に輝きを濁されている。
 世界を彩るのは自分だと、屈服させるかのように。
 だが、海と空は本来なら似たもの同士。似たような色をして、似たような形をして、そっと互いを見つめ合っている。
 前に読んだ小説の言葉を引用するなら『空は海に恋焦がれて、色を似せた』 なら、冬のこの光景は在り得ない。
 空が海を睨みつけていいはずがない。
「――どうだ」
 彼が尋ねる。何が、を詳しく付け足されなくても少女には解せる。翻訳――インスピレーションが湧くか否か。
 少女は首を横に振った。そうか、と彼は落胆の色を見せずに海を向いて目を細めた。
 少女に寂寥はない。さざ波が聞けたから、が理由ではなかった。海が見れたから、も理由ではない。
「――帰るか」
 彼が踵を返した。少女は"任せた"のだから、付いて行くしか選択肢はない。
 いや――本当にそうだろうか。
「帰りたくないです」
 少女は早足で彼に追いついて、その裾をちょびっとだけ引っ張った。手を掴むのは、なんだか良くない気がした。けれど止めなければ少女の意図通りの展開に持ち込めないので、少女は裾で妥協した。
 触れていない。けれど、人肌の温もりを感じた。矛盾。
「まだ何も見つけれてません。だから帰らないです」
「――あのなぁ」
 彼が説得を試みようとする。少女としても、想定内のことだ。
 我侭を通すのには、必要なものがいくつかある。とりあえず今は、説得をすべて突っぱねる頑固さが必須である。
 だが、少女にとって想定外なことが起きた。彼は何かを言いかけて、少女と睨みあった後、口を閉ざしたのだ。
 何も言わず、帰路に着く彼。少女はその背中をぼぉっと見つめ、迷う。
 我侭が通ったのか、彼の言うとおりのままなのか、について――
 そして少女は決断し、彼に付いて行った。
 早足。しかし追いつく寸前で、頬に冷たい物が当たるのを感じ、少女は立ち止まってその正体を確かめる。
「雪……?」
 足を止めさせる雪。今日の旅はここで終わり。
 旅する者は――一時の止まり木で、羽を休めなければならないのだ。

 その背後では、海に向かっても雪がはらはらと舞い散っていた。
 まるで、少女の言葉を否定するように――
 その雪に、恋心の全てを詰め込んで、決して手を伸ばせない海(かれ)の元へ、この時だけ空(かのじょ)が想いを伝えているように。


「迷惑かけて悪い」
 彼には、女性と泊まることを同居人である両親に伝える勇気がなかった。
 そこで助け舟として、未汐の名が挙がる。彼は携帯をプッシュし、事情を簡単に説明して、お泊り会か何かと偽って少女を泊めて欲しいとお願いした――そして未汐は、なんとものの数秒で承諾したのであった。
「ううん。いいよ。ぜんぜん大丈夫だから」
 彼なりの礼儀で、学校で借りたノートを返しに来たという名目でわざわざ未汐の家を訪問し、礼を述べる。
 家の近くで少女を明け渡したときにも未汐とは会っているのだから、そのときにでも言えばいい。実は、お礼とはついでで、彼には別件があったのだ。
「これで、今回の迷惑ごと全ての借りもチャラにしてくれると嬉しいんだが、俺でもさすがに、この程度でそこまでは望めないと解ってるんでね――せめて飛び跳ねるくらい喜んでくれると、幸いだ」
 そう言って彼がポケットから取り出す、ラッピングされた紙包み。わーなんだろー、とでも言うと彼は予想したが、未汐は目を真ん丸くして慌てて中身を取り出した。
 玩具の指輪。とはいっても玩具とわかるようなものでない。彼の財布が物凄く軽くなってしまったのは裏話、元々軽いのであまり大差ないというのも突かないほうがいい彼の情けない所。
 少なくともこの瞬間、未汐には、彼が月明りを返すこの指輪と同じように輝いて見えたのだ。
「綺麗……」
「メリークリスマス、未汐」
 彼が微笑む。未汐もつられて笑う。雪はまだ止んでおらず、淡い月の光も二人を祝福するかのようだった。










 旅二日目。冬枯れた街を横切り、彼はまず未汐の家の近くまで歩いてきた。
 少女と合流すると約束した場所である。
「あれ?」
 着いた途端、彼はすっとんきょんな声をあげてしまう。
 予想通りの人物像と、予想外の人物像がそれぞれひとつずつ。
「やほ」
「……今日もよろしくおねがいします」
 未汐が片手を振って笑い、少女がぺこりとお辞儀した。
 なんとなくではあるが、彼はこの時すでに予想がついていた。
「一応聞くけど、もしかして未汐は付いて来る気?」
「うん」
 予感的中。だが彼は、あまり嬉しくない。
 いや、嬉しくないと言っては語弊がある――彼自身、よくわからない感情だった。
「沙耶香ちゃんとね、夜通し話してたら気があっちゃって。事情もだいたい聞いたよ」
 別に隠さねばならないわけではない。だが、彼は少女の方を睨みつけてしまう。
「一人より、二人のほうがきっと上手くいくって!」
 その瞬間に未汐が、キラキラと瞳を輝かせて彼の手を握った。
 彼は不意を突かれ、口をへの字にし、それから黙したまま苦笑いを浮かべた。


 そして、彼の先導により三人は高層なデパートに来た。
 一階まで吹き抜けの場所があり、三人がエスカレーターから見下ろすと肌色の光に包まれた大きなクリスマスツリーが最高に輝いていた。
 まるで、自身が一時の線香花火のようであることを悟っているかのように。
「中はやっぱり、暖かいね」
「……マフラーだけだと、やっぱ寒いか?」
 未汐が素手をすり合わせているので、彼は心配する。
 未汐がぷるぷると首を横に振る。だがそんなことは、彼にとっては予想済み。本心でないことも、長年の付き合いからすぐにわかってしまう。
「あれだけじゃ、まだ借りは返しきれないだろ。どうだ、今から可愛い手袋でも」
「――ううん。良いの。ほんとうに、大丈夫だから」
 それに、と。未汐は左の薬指を見た。
 正しくは、そこにはめられた指輪を。
「それに、隠れちゃうのは勿体無い気がするな」
「さいですか」
 それ以上は言わないでおくと、彼は視線に気づいた。
 少女のものである。彼が振り向くと、少女はわざとらしく顔を背けて無視を決め込む。
 彼は、少女のその行動が何を意味するか――未汐の言葉の意味すら、解っていなかった。
「あ。私、ちょっと買いたいものがあるんだ」
「付いていこうか」
 今時の音楽を知ろう、ということで下りたフロアだったが、未汐はふとそう言い出す。彼の誘いも断って、未汐はひとり別方向へ駆け去った。
 そして、少女と彼は二人きり。とぼとぼ歩くうち、少女がおもむろに口を開く。
「……なぜ、彼女は付いてきたんでしょう」
「さあな。いや、彼女は俺と友達でいたりといろいろ物好きだから、ちょっとした気まぐれなんじゃないか」
 彼は未汐ではないので、分かりはしない。しかしわからないながらも、彼はぼそぼそと考えを口に出してみた。
 だが、少女はぷくっと頬を膨らませて、彼を一睨みした。
 どうやら少女の欲した回答ではなかったらしい。彼は大袈裟に肩を竦めて見せる。
「全く。あそこまで感情を顔や態度に出す人も、珍しいのに」
「って、お前はわかってるのか。なら聞いてくるなよ」
「あなたがわかってなきゃ意味がないんですっ」
「じゃあ、言ってみれ」
 少女は言葉を詰まらせた。その行動すら、彼には意味がわからないだろう。
 そんな彼が、余計少女を落胆させる。
「もういいです」
 つっけんどんな少女のジト目に、また肩を竦めた彼。
 少女が、内面では恋する乙女のように恥じらいで頬を赤く染めていることなど推し量れるはずもない。
 ――もし、二人だけだったなら……。
 そして少女は、思った。
 ――クリスマスに二人っきりの男女だなんて、嫌でも想像ついちゃうじゃないですか。
 そのはずなのに、と。彼を鈍感にカテゴライズする。そうして鬱憤を、
 鬱憤に似た何かの感情を、晴らす。
 たとえばそれは、彼の気づかないことを知ってしまった少女だからこその、そわそわした、失望のような。
 または、クリスマスの二人っきりの男『女』と意識してもらえない歯痒さのような。


 空から舞い落ちる。
 それは雨。
 雪でないなど、空の上にいる神様はなんて意地悪なやつだろうか――彼は思った。そしてその考えは、少女のものでもあった。
「不似合いですね。煙たがられるにはお似合いですけど」
 いや、やっぱり彼とは違った。少女はこの雨を、クリスマスのロマンチックを害したと取ったようである。
 彼でもさすがに、雨の中は歩けない。少女や未汐を連れていれば尚更だ。傘もない、となればここで足止めを喰らわざるを得ない――少女がそのことを気にすると、彼は心配したのだが。
「んんー、煙たがられることはないと思うなぁ」
「世間一般論を述べたまでです。未汐さんの意見がそれにそぐわないなど、とうにわかっていますよ」
「それじゃまるで、私が世間一般からはずれてるみたいじゃない〜」
「そうでしょうに。ただののほほんせいじんならまだしも、周りに危害を加えるとなれば世間一般的から大いにはずれています」
「あ、昨夜のこと根に持ってるの? ねぇそうなの? 何度もごめんって謝ったのにまだまだご立腹モード?」
 彼を間に挟んで、少女と未汐が楽しげに談笑している。台詞から察すればまるで喧嘩腰だが、ツンとそっぽを向いたりする少女はずっと笑顔なのである。
 『気があった』という言葉をふと思い出す彼であった。未汐が振り回されているというのは、この際置いておくようだ。
「でも、冬の雨も私は好きだよ」
 そう言って、未汐が手を空に差し伸べようとする。
 雨粒は雪のように優しく残りもしないというのに、舞い散る雪を包み込むのと同じくらい大切そうに。
 そして彼は、顔をしかめてしまいそうになる。
 未汐がそうやって手を雨粒で濡らすことを、心配するように。
 さっきも寒がっていたのに、今度は芯まで冷えてしまう。そうなれば風邪をひいてしまう可能性も跳ね上がるだろう。
 彼としては、こういうことはあまりしてほしくない。
 はたから見れば煙たがられてしまいそうなもののために、損をしてしまうなど――彼自身の色の無さまで包み込んでくれてしまいそうで。
 未汐に迷惑をかけてしまうのではないかという、彼の奥底で燻る不安。
 杞憂じみていると、彼は思ったことがある。
 でもこうしたことがあれば、幾度となく不安は燻りだす。
「……」
「……」
 彼の視線に、未汐が気づいた。
「……」
「……」
「……え、えと。そだ」
 ぽっと頬を赤く染め、未汐がわざとらしく大袈裟に声をあげて、ラッピングされた紙包みを取り出した。
 彼は既視感に包まれる。紙包みのラッピングが、彼が未汐に手渡したそれと色違いだったりしたからかもしれない。
「メリークリスマス、幸せな日々をありがとう」
「……そうか。今日でお別れなんだな」
 彼は悲しげに眉を顰め、首を振った。
「え、えぇっ!?」
 対し、吃驚する未汐。
「俺も、今まで楽しかったよ。いやぁほんと、寂しくなる――」
「ちょ、ちょっと待ってよ、何それわけわかんない、ずっ、ずっといっしょだよね?」
「だって、引っ越ししちゃうんだろ?」
「シナリオがかみ合ってないよ〜」
 えぐえぐ悲しむ未汐は可愛いと、彼が思う。
「――雨は止みそうにありませんし、旅はここまでということで」
 さらに冗談を一つ二つ言い連ねようとした彼。だが、それまで傍観に徹していた少女が、パンッと手を叩いて大きな音をたてた。
 少女に向く四つの瞳。少女は柔らかく笑う。
「さよなら」


 冬の雨が 雑音をつくる
 君に届くまえに 途絶えてしまいそうで
 けれど 必死に搾り出した声は
 震えそうな声は 君に想いを運んでくれた
 海に恋心を落とす 空とは違って
 鋭く深く伝わる なぜなら激情だったから

 誰かのための旅は おしまい
 君の腰に そっと手を回し
 「共に旅をしませんか」 大人を気取ってみても冬の雨の時と同じ
 けれど キャンドルの火が揺れるように
 君は目に見えて動揺して 大人を気取ることすら忘れさせられた
 やっぱり好き

 旅のはじまり まずは手をつなぐ
 行き先はない あえて言うなら未来(まえ)
 夜明けとか決めず 雨にも邪魔されずに
 けれど 立ち止まっているみたいに緩やかに
 二人 見つめあいながら
 たった一つの色になる










「じゃ、そこに座って」
 突然、少女は彼の家にやって来た。
 どうしてここを知っているのか、だとか、何の用があるのか、だとかは兎も角、少女を案内し居間のソファに腰掛けさせる。
 そして彼はまず、両親が出かけてしまっているので、キッチンへ行ってコーヒーを淹れる準備を始めた。
「久しぶりだね」
「といっても、正味まだ一ヶ月も経ってませんけど」
 少女が持ってきたケーキに合うよう、カフェオレ風味に仕上げる。彼は居間に戻り、カップをテーブルに、少女の前と彼自身の前にひとつずつ置く。
「インスピレーションの方は、どうなった?」
「――解決、しましたよ」
 少女の口から語られるのを一言に纏めると「勘違い」だったとのこと。
 作曲の構想はきちんと脳裏にあったが、物足りない、つまり当人の満足がいかないようなものでしかなかったのだった。
 それは、少女自身がまだまだ未熟であるから仕方が無い。だが少女は、自らの力で打開策を見つけ出した。
 歌詞をつける、所謂弾き語りという形だ。
「未汐さんが言っていた、一人より、二人のほうがきっと上手くいく、というやつです。音だけで無理なら、もうひとつ音楽を重ねることくらいしか、今の私にはできませんから」
「そう。満足できて、よかったね」
「いえ、満足なんてできてませんよ」
 矛盾している。解決したというなら、満足できないという問題点が解消されたこととイコールのはず。
 首を捻る彼。少女はニッコリ笑ってみせた。
「これからもっともっと上達して、私の伝えたい事に音楽を近づけていかないと」
「――ああ」
 賢い子だなぁと、まるで年老いた側のように彼は感慨を受ける。コーヒーを一口啜り、ケーキを一口食らう。
 ――その瞬間に少女の笑みがちょっとだけ変わった。が、彼は気づけなかった。
「今日来たのは、他でもないです。クリスマスに言い忘れた、未汐さんのことで」
「あなたがわかってなきゃ意味がないんですっ、とか言い争ったあれか」
 その日を永久保存版に加工していたのもあって、彼は即座に言い返すことができた。少女が頷く。
 少女が言いたいことを察して、彼は先に口を開いた。
「あの後、いろいろと理解したし理解してもらったりもした――心配かけたか」
「ええ。そして、悪い予感が的中しちゃったのだと今解りました」
「……は?」
「ところで、今日はお一人ですか。ご両親くらいは居ると、いろいろ練習してきたのですが」
 彼の意識が段々と薄れて行く。
 ガンッとテーブルにぶつかって頭に鈍痛が走ったが、まぶたが重いほどに。
「なぜ服を脱ぐ……」
「細かいことは気にせず、委ねてくださって良いです」
 少女の柔らかな笑顔を見送りながら、彼は意識を失った。










<end>











[Central]