新庄藩主戸沢正令公の随筆「雪の詞」

新庄城跡戸沢正令公について
 新庄藩第10代藩主、戸沢正令公は,幕末に近い天保の頃の方で、31才という短い生涯で終わったのではあるが、学問に親しみ、幾多の著作を遺された。この点では、新庄藩歴代藩主の中では異色の殿様であった。

 

戸沢正令公の像随筆「雪の詞」について
 戸沢正令公が遺した随筆「雪の詞」は、雪国新庄について書き記した最も古い文章ではないかと思われる。
 天保13年夏、正令公は父正胤の後をついで領地を治めるために、江戸からはじめて新庄にやってきた。新庄で一冬を過ごして書き記した文章が随筆「雪の詞」である。
 この随筆は、土井利位の「雪華図説」や鈴木牧之の 「北越雪譜」が相次いで世に出された丁度同じ天保の頃に書き記されたということからも貴重な文章である。
 戸沢正令公が遺した随筆「雪の詞」は、和紙3枚の短い文章であるが、現在「新庄ふるさと歴史センター」(新庄市堀端町)に保管されている。


「雪の詞」の内容

 雪が積っているのを人に見せ、きれいだとほめたたえる人もいるが、去年から今年にかけて出羽の国の城にいて思うに,雪は見てきれいだとか、趣きのあるものとは思えない。
 少し積ったのは、趣きがあるように見えるけれど、一晩に三尺・四尺と積ったり、軒のツララが家の脇の川水につく位長くなったりすると、雪はきれいだなんて思えなくなる。寒いときは、火桶・炭びつに火をたくさんおこしても、なんとなく寒いし、黒貂の皮も役に立たない。
 源氏物語の常陸の宮の姫君(末摘花)をこんな所に住まわせたなら、赤い鼻がどんなにか色まさるであろうかと思われるくらい寒い。
 吹雪のときは、明かり障子など開けることもできない。雪が降り始めると、道の表面に雪が見る見るうちに積って、遠くの山は勿論、一寸先も見えない位に降ってくる。それでも、住んでいる地元の人々は、今年は例年より雪が少ないと言って喜んでいる。 
 この地方では、雪囲いといって、わらで家屋をおおったり、軒先に木の柱を立てて、上の方には窓を開け下の方は板でおおいをするようだが、家の中があまりうっとうしくなるので、私はそういうことはしない。こんなに強い寒さは、今まで体験したことがない。
(古文書解読 佐藤健治)

雪の詞1
雪の詞2
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戸沢正令公の略歴
 1813年(文化10年)江戸森本町新庄藩邸で生まれる。13才より和歌を学び、17〜8才の青年となって、「かつらのや集」など数々の歌集をまとめる。
 一方で本居宣長を師と仰いで「国体本義諸篇」等を著す。
 天保13年8月、父正胤が隠居したので、新庄に初入部。天保14年5月、江戸に向かう途中病にかかり江戸に到着後他界した。31年間という短い生涯であった。



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