台湾にて
本間雅晴中将を思う

2003年10月24日(日本時間)台湾の故蒋介石総統夫人・宋美齢がアメリカ・ニューヨークの自宅で逝去された。105歳。
中国近代史を動かした孫文、蒋介石、毛沢東。その身近で女性でありながらも自立し、政治に大きな影響と発言力を発揮した、「宋家三姉妹」の時代に終止符が打たれた。

「蒋介石と台湾」について、これまでの私は単なる断片の積み重ねを脈絡もなく理解していたに過ぎず実際は何も知らなかった様だ。
わずか、10月13日から2泊3日の台湾旅行で、遅まきながら私の目に罹った靄が晴れた。すっきりと整理され、日本との関わりにおける「台湾と中国」が理解できた気がする。
これまで蒋介石は、私の中で「日本の恩人」として不動の地位を占めていた。
廃墟と化し何もかも失った戦後。
「以徳報怨」と述べた蒋介石の言葉に敗残の国民は痺れるほどの感動を受けた。
私の思いも大多数の国民同様「戦後の賠償金放棄」への感謝から発した。
その延長として、民衆を愛し、国民から敬愛される政治家。非人間的な共産・中国に毅然と対峙する哲人政治家・蒋介石の像が私の中に形成された。
「戦後・台湾」は「大陸・中国」との間で生存を賭け、熾烈な対立が続き、国民党による戒厳政治を余儀なくされ、にも拘らず目を見張る経済発展を遂げた台湾のエネルギー、それを実現させた指導力に感嘆。これが私たち日本人の代表的な台湾に対する印象であった。
李登輝総統誕生以降、私たちは戦後台湾の真実の姿を知ることになった。
多くの日本人がそうであったように、司馬遼太郎氏の「街道をゆく・台湾紀行」が、私にとっても「戦後・台湾」理解のスタートとなった。
しかし、司馬氏の「街道をゆく」シリーズ43冊中、最高傑作との評価が高い「台湾紀行」を読んだ後も、私の頭から、予ねてより固着した「蒋介石・台湾イメージ」が破壊されることはなかった。
文豪・司馬遼太郎が義憤を込めて提起した台湾現代史と、私がそれまで抱いて来たイメージとが奇妙な同居を続けたまま雑居して残っていた。

中正国際空港に着いた私は、車で通訳氏と共に、台北に向かった。
台北市街に近づいた時、進行方向左側に、「大廈高楼」と以外適切な言葉の見つからない中華伝統建築の風を残す、壮大壮麗な建物が見えた。
聞けば、円山大飯店(ホテル)。蒋介石の妻に過ぎない一私人・宋美齢の私物。嘗てはその経営までしていたという。そこは日本時代、台湾神社のあった処である。
故宮に在った多くの財宝を夜盗狼藉の末、台湾に持ち込んだ、幾分の滑稽談としての響きもある蒋介石・流亡の物語は知っていた。
蒋介石にとって台湾は、故郷でもないし、命からがら逃げ込んだ異郷であった。
そして得た権力の大きさ、それの傍若無人な行使、「王」として植民地同然に統治した1945年以降の台湾の悲劇を垣間見る思いだ。「公と私」の区別のできない、漢人特有の気質が台湾統治に如実に現れた一例なのだろう。
「2・28事件記念館」を訪ねた。
1947年2月28日に勃発した、搾取をのみ目的にやって来た日本に替わる統治者としての国民党。孫文の「天下為公」理想は漢人に無縁なお題目にしか過ぎなかったようだ。賄賂の横行、「権力の恣意的な乱用」毅然とした日本統治時代との違いに唖然とした怒りが、憤然と、民衆を蜂起させた。
しかしその結末は、その後の知識人などをターゲットにした「白色テロ」(共産党は赤、国民党は白)へと続き。犠牲者は3万人とも5万人にも上ったという。蒋介石の一族郎党としか呼べない「私」。それが国民党の実態であった。
大陸での権力闘争に負け、逃げ込んだ主不在の台湾。
戦勝国同士の戦利品のお零れとしての不法占拠。「私」を恣にした侵略統治が、1988年、蒋経国の死、つまり李登輝総統誕生まで続くのであった。
この間一衣帯水の隣国に在りながら、我々の関心は共産・中国の脅威とその動向のみにあった。廃墟から立ち上がり、自ら生きることに懸命な余り、宗主国としての責任から開放された安堵感からか、エアーポケットに入ってしまった様に、悲惨な台湾の現実から目を逸らして来た。
2003年10月13日、蔡焜燦ご夫妻とともに
台湾到着の夜、私は蔡焜燦ご夫妻に招かれ宿泊したホテルの中華料理店で3時間余の貴重な時間を共にさせて頂いた。
(翌日も2時間、お話を聞かせていただく時間を頂いた)
快活・博識な「蔡先生独演会」の開始となった。
何かの弾みで、話題は、マッカーサーに転じた。そのマッカーサーを最も恐れさせ、屈辱を与えた本間雅晴中将に更に及んだ。
蔡先生から、「今尚、本間雅晴の妻たるを誇りとする。娘も亦本間の様な人に嫁せしめたい」と軍事法廷で証言された奥様の言葉が出た。
『立派な方でした。』
そして、本間将軍が作詞された台湾に所縁(ゆかり)の3曲を、淀みなく、辺りを憚りながらも、堂々と、力強く歌って聞かせて下さった。
『旭日に匂う桜花  春や霞める大八洲  紅葉色映え菊薫る
秋空高く富士の山  昔ながらの御柱を  建てて仰ぐ神の国』
                           (旭日に匂う)
更に、「高砂義勇隊を称える歌」「台湾軍の歌」へと朗々と続いた。

本間中将が台湾軍司令官として赴任されたのは昭和15年12月。暮れも押し迫った頃である。
蔡先生によれば、奥様を始めご家族で来ておられたという。(後日、ご家族に確認したところ台湾小学校2年生の三男・聖作氏)
その頃少年であった蔡先生と、本間中将との間に直接の出会いがあったとは思えない。
私たちが母校の校歌を歌うように、昂然と、『作詞は本間雅晴中将です』とまで深い親しみを抱いていて下さる「台湾の心」に私は震えるほどの感動を覚えた。

本間雅晴将軍は、我が故郷新潟県・佐渡の人である。
そして、将軍の次男・雅彦先生は、私の妹の恩人であり、子弟の育成と学究に全てを捧げ、島にある農業高校・分校の閉校まで教職を続けられていた。(勿論、お元気に現在も佐渡で暮らしておられる)
更に、私は学生時代、自らを次のように紹介し吼えていた。
『佐渡は本土を隔てること 荒波四十九里
日本海に蝙蝠型の姿態を見せて浮かぶ辺境です
大佐渡、小佐渡の2条の山脈は 厳しい風波に耐え
毅然としてそそり立っています
故郷が生んだ英傑 北一輝 本間雅晴中将が如く
いつの日にか志を得、世の為にならん』
その本間中将の話題が、司馬遼太郎氏の著作を通し、最も関心を抱いた老台北(ラオタイペイ)から出たのである。

当時台湾に住まいした一家の記念写真を、私は帰島後、見せていただいた。台湾に住まいした一家の記念写真。中央が本間雅晴中将。
佐渡の生家には台湾時代のアルバムが一冊に纏められてあった。
馬上豊かな凛々しい台北着任のスナップから始まり。高雄、台南、花蓮、阿里山など台湾全土に足を伸ばした事が知れた。
東京農大在学中の雅彦氏も二夏、卒業論文作成を目的に台湾に渡り台湾各地を訪ね歩いたそうな。時には官舎住まいの家族の下にふらりと帰る、恵まれた夏休みを過ごしたらしい。
テーマは「台湾農業の歩み」を調べることであった。
「高砂族」「蕃族」は、10以上の部族に別れ、元々狩猟の民であった。
農業は日本統治と共にその指導を受け始まったのだという。
論文の後日談。昭和17年大学を繰り上げ卒業、そして入隊。本人不在中その論文が学会の評価を得、出版されることとなる。父である将軍の了解の元、論文それに付随する写真、資料などが大学から出版社に移された。しかし出版社は空襲の直撃弾に遭い全てが灰に帰してしまう。
昭和24年10月、シベリア抑留から無事帰国した後、子を思う父の優しい思い出として雅彦氏は母から聞かされたという。
家庭でも『気の弱い父は、怒ったことはなかった』らしい。
旧制佐渡中学時代、清純な恋愛に身を焦がし、恋愛小説を書いて物議を醸したエピソードまで残した。同級生や後輩からは、後年世界的な文豪として名を成すものと期待された程文学趣味旺盛な、ロマンチストで在ったという。
将軍の在りし日の言動から武ばったものはほとんど見えて来ない。
佐渡中学在学中、『旅順占領の歌』を作詞したり、陸軍将校の身で、多門二郎中将から渡された従軍日記を基に『弾雨をくぐりて』という日露戦争実録小説を世に問い、ベストセラーになった。
(稀少本の為、新潟県立図書館で読んでみた。本間中将著作と取れる記述はどこにも見当たらなかったが、本間家に残されている同書の背表紙に奥様・富士子さんの直筆で執筆に際する自身の協力が書かれているのが何よりの証拠と思う)
本間将軍最初の奥さん、雅彦氏の実母。その父、つまり雅彦氏には祖父に当たる「田村怡与造」少将は日露戦争遂行を設計した影の大功労者であった。
日露戦争を勝利に導く研究に没頭。為に過労で開戦直前の10月1日に死亡。その後を児玉源太郎大将が引き継いだ。
「参謀本部次長」ほど過酷な職務はなかったようだ。日清戦争当時の川上操六、そして田村、日露戦争後、児玉源太郎も枯れ木が朽ち倒れるように死んでしまった。国家の運命を五尺の少躯一身に背負い、脳髄の全てを搾り出し作戦を練る。
雅彦氏にとって祖父に当たる田村中将(死後昇進)は、憧れであり、母との別離を子供に強いた父への幾分の恨みも込め、大きな存在として今尚自宅にその写真が飾られている。複雑な思い入れの強さが偲ばれた。
他人の愛憎劇は軽々しく覗くものではないが、私は角田房子著「いっさい夢にござ候」に記された、本間中将の親友・今村均の述懐ほど、本間雅晴の人間性を理解する上で欠かせないものはないと思う。
「慰謝料を払って、離縁してきた」と告げる本間に「何という馬鹿か」と唖然とする今村。
「七年間慰めてくれた恋の屍の葬式費用のつもりなんだ。君は笑うだろうが。」と答え本間は、両頬に涙を流した。
一人の女性に徹底的に傾倒し、裏切られても、踏みつけられても、なお七年間の自分の愛情に悔いを残さない愚直。
『俺にはできぬ』  感服した。    大正10年12月の話である。
『この方は、私の生母と別れた後、インドに滞在した時代、交際していたイギリスの女性です。本間中将のご子息、本間雅彦氏とともに。先方から結婚を申し込まれたものの、父は習慣と環境が違うからと宥めるのに苦労したらしい。
戦後その女性のお母さんが、佐渡を訪ねて来られました。良く娘を説得いただいたと感謝されました。
受け答えしたのは、継母です。その女性から父が頂いた膨大な手紙(ラブレター)は、子である私が預かり今も仕舞ってあります。』
『父は、軍人では今村さん、河辺さんと特に親しくしていました。それは、三人とも陸軍幼年学校からではなく旧制中学出身。英語に堪能。陸軍には稀な存在だった仲間だからでしょう』
今村均、河辺正三の両・元大将が父の10回忌に弔問にお出で頂いた折、父の母校で講演頂き、我が家に泊まったことがあった。河辺さんが話された裸の本間雅晴の寸評には笑わされた。『本間とは、映画も落語も一緒に行くものではない。悲しかったり、感動すれば大声を上げ、クシャクシャになって泣く。可笑しければ、人の体を叩いて大声で笑う。一緒にいるこっちは恥ずかしくて堪らん。』
当時の軍人の標準タイプとは、可なり異質で、司馬先生の語法を真似れば、大きな「涙袋と笑い袋」を持った、情感豊かな方であったようだ。

私の住む佐渡と台湾とは縁が深い。
九代続いた最期の文官・第16代台湾総督・中川謙蔵氏(昭和7年から12年)は佐渡・畑野三宮(さんぐう)出身。
台湾製糖創設に関わった三井物産の益田孝翁は「佐渡金山」地役人の5代目・相川出身。
台湾製糖創立支配人、後に社長となり政界に転じる山本悌次郎氏は佐渡・真野出身。
そして、将軍台湾在任中、佐渡中学時代の、同級生・後輩が台湾製糖幹部として勤務されており、その折の交遊も伝えられている。
台湾と佐渡。島国同士という共通項だけではなく、佐渡人から観た時、南国の台湾には魅かれるものが多くあったのだろう。
あの町に、あの村からだれ某と名前が上がるほど人間の往来も可なりあったらしい。
外の世界との交流が偶の船便しかない北の島国・佐渡に生まれた本間中将。
繊細な感性を持ちながらも時代の子として島国・佐渡から、つまり海洋国家・日本からの雄飛を夢見て学び。骨太な人生に憧れ勇を鼓し世界狭ましと飛び歩き、わずかな任期の中でも台湾に忘れがたい印象を残された。
そして開戦。台湾から第14軍司令官に任命され16年12月23日フイリピン・ルソン島に上陸。
後年、占領軍総司令官として日本に進駐することとなるマッカーサーに、緒戦で遭遇。国家の運命を双肩に担い皇軍兵士と共に力戦。マニラを占領し、難攻不落を謳われたコレヒドール要塞を陥落せしめ、誇り高いマッカーサーに、拭い難い敗北・逃亡の屈辱を与える。
フィリピンで勝利を収めた三ヵ月後、不仲の東条英機総理に睨まれ、大本営との作戦指揮の齟齬が原因か、凱旋将軍・本間中将は何故か司令官の任を解かれ予備役に編入。二度と戦線に出ることなく、敗戦を迎えた。
しかし、本間の運命はマッカーサーとの出会いの時点で決まっていた。佐渡・畑野町にある本間雅晴中将顕彰碑前にて。
自分の命令でなく、容認もせず、知らなかったバタアン俘虜死の行進事件について、指揮官としてそれを為さしめたとの責任を問われ軍事裁判で死刑の判決を受ける。
『さあ、来い』銃声が響いた。六発命中。
勝者の為す「痛快な復讐心に満ちた法的私刑」の犠牲となって、異国の刑場に露と消え、絶命した。
『甦るすめらみ国の祭壇に いけにえとして命捧げむ』(本間雅晴・辞世より)
昭和21年4月3日。フィリピン・マニラ郊外ロスバニヨス刑場に於いてであった。

敗戦後、勝者が為した理不尽な処置への恨みは、呆気ないほど直ぐに消えた。
近代の懸命な歩みの全てを誤りと認め納得し、真摯な先人の努力と向き合うことすら私たちは止め「戦犯裁判」を受け入れた。
茫然自失、全てを闇の彼方に葬り、今の幸せだけを後生大事と抱え、舵を無くし生きて来た。

敢えて言いたい。日本人は「鬼」(クイ)ではない。2.28事件記念館前
「2・28記念館」にある残虐・非道は、大陸・中国に幾つもある旧・日本軍糾弾モニュメント、「南京事件記念館」のものと全く同じ手法による野蛮行為の焼き直し展示である。
私が戦後生まれであるにしても、武を忘れた世代としても、日本人である以上等しく持っているDNAにあの残虐性はない。中共・国民党を問わず、自らの民族が持つ習慣を、我々に当てはめ、為した行為と転嫁しているとしか思えない。
「2・28事件」を生んだ陳儀は蒋介石の意を受けた漢人である。非道、賄賂を当然とする文化は、少なくとも50年に渡った台湾統治の日本にはなかった。
異民族が支配する屈辱を与えたことは非として認める。
しかし、あの頃、世界に伍して生きていくため止むを得ない選択であったことも知って欲しい。
国力以上を、植民地経営に傾けた純情な日本の誠意は、台湾の心ある人々の中に今尚生きていることがその証左ではないのか。
我の真心が、台湾国民をして、漢人と似ても似つかぬ、高等民族に変える何等かの役割を担うに貢献したと言ったら言い過ぎだろうか。
台湾は、大陸から「化外の地」と呼ばれ、1895年、日本統治下に入った。故に大陸の外省ではない。
台湾は「中華民国」にあらず。国民党政権が、ある日舞い降り、世界一の版図を持つとした空想の国名が未だに生き続けていることが喜劇である。台湾は台湾人の台湾なり。「正しい名前」を早く取り戻すことを祈るや切なるものがある。
総統選挙は来春3月。悔いなき選択を期待したい。

角田房子著「いっさい夢にござ候・本間雅晴中将伝」の背表紙裏に私の読後感ともつかぬ寸評があった。
第一刷の発売が9月9日。どうやら私は発売と同時に買い求め、一気に読み終えたものらしい。黄色く変色した書を手に取れば、巻末に新刊本新聞広告の切り取りが栞代りとして挟んであった。
『本間雅晴は、北一輝と共に私が最も敬慕する郷里の先輩である。
寂しい北国の孤島より出でた英雄・先哲への誇り、胸に熱く我を鼓舞する。』
(昭和47年9月29日読了)
(2003年10月26日記す)

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