

周麗梅さんが2003年11月19日台湾・台北市内の病院で亡くなった。
台湾先住民・タイヤル族の女性長老で、民族名はリムイ・アベオ。75歳。
周さんの義兄ターナ・タイモ氏は元・高砂義勇兵。本間雅晴中将指揮の下、フィリピン戦線に従軍した。
後年、本間中将が戦勝国・アメリカによって、不当な理由で処刑されたことを知り、将軍辞世の歌碑を、台北から南東30キロに位置する自身の故郷・烏来(ウーライ)に建立した。
『かくありて許さるべきや 密林のかなたに消えし 戦友をおもえば』
更に、ターナ・タイモ氏は「台湾高砂義勇隊慰霊碑」の建立を熱心に働きかけた。その志は奥さんの妹・周麗梅さんに引き継がれ1992年11月に除幕された。ターナ・タイモ氏は、慰霊碑落成式を見ることなく、その3ヶ月前に亡くなられていた。
私は、新潟県・佐渡に生まれた故郷の先輩・本間雅晴中将について調べる課程で、台湾・高砂義勇隊を知った。
この一文を万感の思いを込め、周麗梅さんに捧げる。
横井庄一さん、小野田寛郎さんのことを知らない日本人は珍しい。
逆に中村輝夫さんの事を知っている人はほとんどいない。
戦後30数年を経て、南のジャングルから生き残り帰還した皇軍兵士の最後が中村さんであったにも拘らず。
事実私も知らなかった。何故知ることなく今日まで来てしまったのだろう。
1972年1月24日、グアムから届いた元日本兵・横井庄一さん発見のニュースは衝撃を持って日本中を駆け巡り、2月2日、28年振りに祖国の土を踏む。
『恥ずかしながら生き長らえて』横井さんの最初に発した言葉が流行語にまでなった。横井さんの一挙手一投足が詳細に報道され、国民はテレビに釘付けになった。
1974年3月。小野田寛郎さんの帰還は、横井さん以上の衝撃だった。
小野田さんは30年間、ルバング島を逃げ惑っていたのではなく、戦闘と情報活動を継続していたのだった。手入れの行き届いた銃。きびきびとした挙措。古武士を思わせる風貌。日本人が忘れ、捨て去ったものを思い起こさせ、思わず背筋が伸びた。
1974年(昭和49)12月27日、インドネシア・モロタイ島でまた日本兵が発見されたと報じられた。中村輝夫さんだった。しかし中村さんの場合、横井さん、小野田さんと事情が全く違っていた。台湾・高砂族生まれの中村さん、日本人としての出征であったが、戦闘の終結を知らずにいた間にサンフランシスコ条約により台湾は日本領から中華民国になり、主人が変わっていた。
名前も、中村輝夫から李光輝に本人の知らぬ間に改名されていた。高砂族・アミ族に属した彼の通り名は【スニヨン】。
12月30日、モロタイ島からジャカルタに移送された時点で中村さんの写真が掲載され、翌31日・大晦日、中村さんのモロタイ島における生活の詳細、記者会見の模様、健康状態など多くの写真と共に数ページを割いて伝えられた。
1975年1月8日、中村さん台湾に到着。家族との再会。
その後の家族間のいざこざが掲載されはしたものの、日毎に扱いは小さくなり、月半ばには紙面から完全に消えた。
中村さん台湾帰国に際し、台北に迎えた日本人取材陣は14人。全国紙の新聞社はサンケイ新聞一紙のみ。
横井さん、小野田さんに対する呆れるほど執拗な報道と、余りにも違いすぎた。
「旧・日本兵」発見・3度目のニュースに国民も飽きていたのだろうか。
当時の日本は異常なまでの中国ブームにあった。
1972年9月、国交回復を果たしたばかりの日本には必要以上に中共への遠慮があり、それに伴い国民党政権との国交を断絶した日本にとって、中村さんは『触らぬ神』であったのだろう。
1974年4月20日、日中航空協定が調印され、復交2周年の9月29日、日中間に一番機が飛び、日・台間の空路は停止された。
同年12月20日には、中華人民共和国を承認する国が101ヶ国に達し、台湾承認国は、全世界約140カ国中32ヶ国(23%)にまで激減し、台湾外交は冬の時代を迎えていた。(2003年11月7日現在、台湾と国交を持つ国は27ヶ国)
12月1日、椎名裁定によって三木武夫が自民党の総裁に推薦され、連日激動する政局が紙面を賑わせた。
翌年の1月15日には、保利茂氏が三木総理の親書を携行し、懸案の日中平和友好条約に前向きな政権の意向を伝えるべく訪中することが決まり、同時に日・台空路の再開が急務となっていた。
こんな時期での、旧・日本兵であった台湾人の帰還騒動である。
しかし、30年という人生を、戦争の延長のままジャングルで過ごした旧・日本兵に対する仕打ちとしては余りにも情けない。マスコミも時流に阿ることなく、正視すべき歴史に世論の喚起を促すべきであった。知りうる立場、伝えるべき立場にいる者たちにとって無視できない貴重な教材ではなかったのか。
中国への贖罪、気兼ねが意識の底にあり、台湾を見棄てる「後ろめたさ」の反動として無関心を装ったのだろうか。
昨年9月以降の、北朝鮮・拉致問題に対する(狂騒)振りを直近のこととして知るだけにそれとの落差、台湾・高砂族への理解と友情の欠如、そこにあった問題の執拗な掘り下げを放棄した姿勢に怒りを禁じえない。
国民党政権にとっても旧・敵国兵である中村さんは正に招かれざる客。むざむざ日本に「苦難に耐えた英雄」として返すもならず、かと言って国内で騒ぐであろうマスコミの喧騒も迷惑。素っ気無いまで冷静な対応に終始した。
台湾軍司令官を務めた本間雅晴中将は、バターン半島攻略戦での劣勢を挽回するため台湾先住民・高砂族の活用に着目。南方ジャングル地帯における戦闘では、密林や、絶壁の岩場を自由自在に駆け巡る高い運動能力が求められた。
台湾・山地人である高砂族の生活環境そのもの、そこを彼らは裸足で駆け巡り、蕃刀一本で切り開き、物を加工し、生活していた。「好勇喜闘」は高砂族に特有な気質。台湾では「日本人・台湾人・高砂族」と分けられ人種的な偏見に晒されていたからだろうか、従軍による皇民化を熱望してもいた。
高砂挺身報国隊(後に台湾高砂義勇隊と改称)が初めて結成されたのは昭和17年3月。高砂義勇隊の募集は7回あり、その都度300倍から400倍の応募者が殺到した。
当時の高砂族の総人口は15万人。6000人が戦地に赴く。激戦地に多く配属。その70%近くが戦死した。ちなみに台湾人207,000人が戦地に駆り出され、戦没者数は30,306人。内27,864柱が靖国に静かに祀られている。
台湾軍の歌 本間雅晴 作詞
輝く南十字星 黒潮しぶく椰子の島 荒波吼ゆる赤道を
にらみて立てる南の 護りは我等台湾軍 ああ厳として台湾軍
昭和18年11月、中村さんは台湾先住民族500名の特別志願兵募集に応募。台湾新竹州湖口で入隊。約2ヶ月間の訓練の後マニラの戦線に送り込まれ転戦、後に発見されることになるモロタイ島には19年7月上陸。
志願兵として出陣した台湾高砂義勇隊は、聖戦に赴く名誉に奮え、胸を張り、思いをこの歌に託し激戦地に向かった。
20年9月まで無線の途絶えた島をさまよい米軍に対しゲリラ戦を挑み、山地人の特性をいかし、日本人の目となり、ジャングルを駆け回る。飢餓の中、食料調達に高砂族は異能を発揮した。野豚の捕獲。蛇、トカゲ、サゴ椰子を切り倒しての澱粉採取など。高砂義勇隊が食料を探し出し、日本人の上官を養っていた。餓死者を最小限にくい止める事に大きな役割を果たした。
中村さんら一部を除き、9月7日分散した部隊の終結を待って、軍旗は焼かれ、捕虜収容所に入れられた。モロタイ島では引き続き投降呼びかけと捜索が続けられたが、翌21年6月、復員船に乗り込み帰還した。
出発の時の遊撃隊500名は170名になっていた。
しかし、奥地に分散し展開していた中村さんたちには敗戦の涙も、不安と喜びの復員も無縁なことであった。
戦後5年ほど残存兵12名が三々五々合流し一緒になって生き延びていたが、何かの事情で中村さんは一人で離脱。(2人は病死。他の9名は昭和31年帰国)
以来25年一人きりで過ごす。
草葦の小さな小屋を立て、その周りにタロイモ、バナナの畑が作られていた。夜明けと共に起き、食事は朝夕の2回。野豚や牛を捕らえることもせず狭い生活圏に閉じこもりひっそりと規則正しく暮らしていた。
一人の寂しさを慰めるため、中村さんは台湾で日本人教師から習い、公用語の日本語で覚えた軍歌、国民愛唱歌を歌ったと言う。
中村さんは、帰国後中華民国国民となってからも、話せたのはアミ族の言葉と、日本語だけであった。
発見された時、所持品は少なかった。よく手入れされ機能良好なままの三八騎兵銃1丁。小銃弾18発。水筒1個。山刀1振。ボロボロになった米兵の軍服。
中村さんが亡くなった後、入営に際しての寄せ書きの「日の丸」が出てきた。「赤誠」「武運」のかすかな文字に混じり、寄せ書きした兵士の名前が読み取れる。肌身離さず所持していたらしく四つに畳み折り目が切れてあった。生前「陛下にお返しに行かなければ」と口癖のように言っていたそうな。
後は一銭銅貨一枚。神社の守り札。穴の開いた茶色の紙入れ。これが30年の財産の一切であった。
日本政府が中村さんに支払った金額は、帰還手当ての30,000円と昭和19年モロタイ島上陸以降未払いの給料38,279円。
合わせて68,279円だけであった。
既にこの頃、横井さん、小野田さんとの比較で、中村さんに対する政府の差別的な対応への批判が現れていた。
発足したばかりの三木政権は1975年1月4日、新春早々の閣議で政府見舞金として200万円。各閣僚が5万円ずつ、政務次官が1万円ずつを拠出し、計150万円を贈ることにしたのではあるが…
横井さんには政府や民間から約2,400万円が送られ、小野田さんには、自らの著書の印税を含め約3,500万円が与えられたと聞く。
横井さん、小野田さんと比べ金額の多寡は別途のこととしても、中村さんに対する日本国の対応には大きな違いがあった。
担当窓口は厚生省。横井さんを出迎えに行ったのは、援護局長と係員の2名。
小野田さんの場合は、大臣代理の事務次官と4名の係官が現地まで飛んだ。
中村さんの場合、援護局の係長補佐1名だけであった。
何とか、日本に外交上の懸案を持ち込まないでもらいたいとの、心根が透けて見えるようだ。
しかし、台湾において中村さんは暫しの英雄となった。見舞金として国民党政府や民間から台湾ではかなりとなる支援金があったようだ。
家を建て替え。わずかばかりの田畑を購入したと言われる。せめてもの救いになったのであればと願わずにはおれない。
尚、一時期、中村さんと一緒に残存兵としてモロタイ島に過ごした9名の内、3名は日本人。6名が高砂族。その内台湾に帰ったのは1名のみ。残りの高砂兵5名は日本に来て帰化した。彼らも中村さん同様日本政府から頂いたのは、戦時中の給料38,000円だけ。長くジャングルで飢餓に怯えた生活が、都会のジャングルに変わったにしか過ぎなかったようだ。貧しい生活が異邦人に待っていた。
スニヨン・中村輝夫・李光輝さんの、遅れてやってきた戦後は、呆気なく終わった。わずか4年程のことであった。
その原因は、タバコと浴びるほど毎日飲んだ酒の所為である。
中村さんが台湾に戻ってからの4年間は、平穏なものではなかった。
帰国直後、故郷へと向かう「凱旋」の車中、彼は妻から、戦後10年待ったが再婚したと聞かされた。彼は狂ったように大声を上げ、妻を車から降ろし、歓迎の用意をして待つ自分の家に向かわず、姉の住む実家へと進路を変えた。
妻には当然の言い分が在った。何も入っていなかったとは言え「遺骨箱」が送られてきていたのだった。母系家族制度(入り婿婚)の農耕社会では、男手はどうしても必要だった。中村さんにとって長い30年の空白は、台湾に帰ったことで昨日の続きの今日となり。妻には「愛国の母」で歌われた
『勇士のあとを雄雄しくも 家をば子をば守りゆく
優しい母やまた妻は まごごろ燃える紅椿』
を当然のこととして求め、妻を拒絶した。一族の話し合いが持たれ紛糾した。
妻の再婚相手の男性は高齢になっていた(72歳)、スニヨンが残し出征し9歳になっていた子供を20年間養育し、田を耕し、財産を増やし、一家の柱として支えてきた謂わば恩人であった。
長男のとりなしで妻を許し、手切れ金を渡し、再度妻と結婚にまでたどり着いた。その式典に複雑な表情のまま前夫も座っていたと言う。この間、前夫への処遇を巡り親族間にわだかまりが生まれ、疎遠になる者も出た。
妻と長男、その妻、そして4人の孫に囲まれる生活が始まった。
彼は無口だった。
モロタイ島での生活の様子、何を考え、如何に耐えたか、肉声は皆無というほどどこからも出てこなかったという。
30年の歳月を懸命に取り戻そうとするかの様に、酒を飲み、日に60本ものタバコを吸い、ビンロウを噛んだ。
孤独に慣れた習性がさせたのか、家を離れ、「蛮荒生活の紹介」と称し観光客向けのショーに出演し、斧を持ち、長髪のカツラに、髭をつけ台湾各地を巡業した。
ジャングルの孤独から解き放たれ、都会のネオンの輝きと喧騒に魅せられたのであろうか。生き急ぎ、孤独なさすらいを続けた。
1979年6月15日、肺がん、妻に看取られ死亡。最期は『スニヨン、スニヨン』と呼びかける奥さんの声を遠くに聞きながら。
かつて日本領であった台湾から、或いは韓国から、大東亜共栄圏の崇高な使命に殉じ陛下の馬前に多くの兵士が、御盾となって散華した。
戦争の悲惨さは、銃後の日本国民だけにあったかの誤解をしたまま、私たちは約60年間放置してきた。
南瞑のジャングル、シベリアの荒原に今尚眠る自国の兵士一人一人に対し魂を静める努力をしてきたのだろうか。
感謝も忘れ、軍国主義の名の下に一刀両断。民族の志すら無くし、経済にのみ特化した歩みを続けてきた。このような国を作り上げた私たちの責任は万死に値する。
どうして、イラクに自衛隊が出て行けるだろう。感謝もされず、名誉も与えられない無駄死にを誰が強要できるというのか。どんなにそれが必要でも。国の生存に欠かせないにしても。
憲法9条によって、戦争を放棄しているから、自衛隊が戦争に参加することはない。この前提で組み立てられた法体系。故に自衛隊には「戦死」という概念はない。国内の訓練で起きた事故による公務死と同じ扱いとなる。
これまで地方公務員である警察官が殉職した場合より、自衛隊員の「戦死」に対する支給額が少なかった。
この格差を埋めるべく、政府はこの11月6日、その金額を最大1億円に引き上げる方針を決めたが「金額の多寡」が問題ではない。
自衛隊の目の前で、他国の軍隊が攻撃を受けた際、それを守ることも、攻めて来た敵兵に攻撃も出来ず、ただ見守るか、逃げ出すしか出来ない。
こんな不名誉な任務を、誰が発令できると言うのか。
台湾高砂族の祖国・日本を思う真摯な姿に、戦後一貫して報いてくることのなかった日本。自国(昭和20年8月まで)の為に命も名誉も投げ出し、在る者は戦死。在る者は傷病。帰還後は敵勢国の軍隊に加担したものとして肩身狭く、補償も無く台湾の山野に融けこんで生きてきた。
残された遺族もまた、不名誉な戦後を生き続けなければならなかった。
自衛隊を戦地に出すとは、最低限こんな贖罪意識の共有があって初めてできることである。覚めなければならない。それが日本の責任である。
(中村さんの帰国後、台湾人に対する戦後補償に批判的な世論が澎湃として起こり、1987年9月「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」が成立。一人に対し200万円、29,645人に総計592億9000万円が終戦後42年経って支払われた)
(2003年11月6日記す)
(2003年11月末日一部改定)
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