

“ 悲しい思い出なぞは何一つとしてない。おれは生きてきたのだ。生きられるだけ生きとおしてきたのだ。瓢吉よ、----辰巳屋の暖簾は腐っても、おれの志を腐らしてはならんぞ、しっかりやれ、くたばるな、おれがちゃんとついているぞ!”(尾崎士郎・人生劇場青春篇より)
昭和54年10月7日仏暁、私の父は不帰の客となった。63才であった。
私が長い回り道の末、ようやく念願の政治家修行の本道にもどったばかりの頃であった。
衆議院議員・村山達雄先生の選挙の最終日。妹からの切迫した電話で、事態の容易ならざる事を知った。
“チチキトク”速鐘の鳴る如く耳底に響き、私は言葉を失っていた。
遠くで妹が、「お兄ちゃん、なんとかして!なんとかしてヨ!」と泣き叫んでいる声が聞こえた。 一生に一度、誰にでもある事と自らに言い聞かせ、平静を装おうとしても、蒼白になった表情、ふるえる声は、いつもの自分のものではなかった。
はやる心と道連れの、佐渡までの道中は余りに長く、連絡船の途絶えた、夜の海は、恐ろしいまでに静かだった。
昭和25年6月13日、私は4人兄弟の3番目、長男として両津市住吉で誕生した。
戦前、戦中すでに二人の子供を設けていた両親ではあったが、いずれも父にとって期待外れの女の子であった為、男児として生まれた私の存在は、父の人生に強い刺激を与えた“事件”であった様だ。
「父の職業は」と問われると、私は「昔は僧侶、ついこの間までは映画屋、そして今は野菜などの行商です。」と答えた。
赤茶けた古い写真帖をめくれば、坊主頭の青年の頃の父が、幾分すまして写っている。
北蒲原郡笹神村金屋生まれの父が、いつ僧籍に身を置く様になったかは知らない。家庭の事情もあったのだろう。しかし青雲の志を抱いて、京都の東寺に学び僧侶として完成された人格を追及し、一生を完うしようと願った事は、事実であった様だ。
僧として配属されたのが東京都荒川区荒川一丁目。北千住、山谷の近くらしい。
在家僧として出発。結婚、長女の誕生、応召、除隊。そして再度の一銭五厘。その時、母のお腹には、二番目の子供を宿した徴候があり、「男ならば正男、女ならば正子」と生還おぼつかなしとの覚悟からか、父の名前の一字を名残りに残しての二度目の入隊であった。
アリューシャン列島に浮ぶ名もない島の防人からアッツ島の玉砕後転進、満州凍土に渡ったと聞く。
10メートル以上もある長いコンブを獲った話、真っ黒になって昇ってくる鮭を手づかみにした自慢話。
真っ赤に沈む満州原野の夕陽。倒れた戦友を燃やす炎を前に、一晩中従軍僧として読経を唱えた夜の凍える程に寒かったこと。
しかし話はいつもここで途切れた。戦争体験、抑留生活については、遂に父の生前、聞くことはできなかった。
一方、母は二人の子供を連れ故郷の佐渡ヶ島に疎開。そこで受け取った父の死亡通知。
自力で、ほったて小屋の様な住まいを建て、塩をくみ、縫い物をし、野良に出、寡婦、疎開者に向ける冷たい視線をはね返しながら必死の毎日を送っていた。何度も何度も、ふところに石をつめ、子供を抱いて冷たい海に入ったと聞いた。
赤色ロシア4年余りの抑留生活を経、ほとんど終わりに近い引揚船で舞鶴に帰還。
思いもかけぬ、そしてうれしい父の生還。両津港に降りた父は、迎えた多くの聴衆を前に、戦争をひきずったままの憤怒を言葉にして投げつけたという。
一時の英雄に待っていたものはしかし過酷な現実であり、妻子を抱え、恒産の途からの転換を余儀なくされた、深い絶望であったらしい。
数珠をツルハシに変え、ダム工事人夫として飯場に泊り込む生活から、父の戦後は始まった。
それ故に、翌25年の私の誕生は、父が抱き続けた戦争に対する怨念からの訣別であり、現実を受け入れ、素直に第二の人生をスタートする大きな契機であった。
小さな私は、父にとって生きる希望そのものであった様だ。
父は巡回映画の導入を思い立った。それは、暗く貧しい島の風土に、温かく熱狂的に迎え入れられなかなか他所者を受けつけない島の人々にも、私達一家は、隣人として認められるまでになった。
娯楽のない、島の農村、漁村にもたらす、それは唯一の文化であり、活気を呈し始めた青年団活動にとって映画の興行は、代表的な事業にまでなった。
三益愛子の母ものに泣き、エノケンに笑い、嵐寛や高田浩吉に胸おどらせた。
我家は、どうやら人並みに近い生活を取り戻し始めていた。
私は「父親っ子」である。私の思い出の中には、いつも父が隣で静かに笑って立っていた。
島の浜風に向って走るオートバイの荷台に乗って、私は父の付属品としていつもくっ付いていた。
私は父の様に運命に弄ばれる人生を歩くまい。父が果たそうとして、果たし得なかった夢を私は私の人生の中で必ず果たしてみせると誓っていた。
父は今、異郷であった島を故郷として海の見える丘の上に眠っている。
かつて、異郷にあった私は、父在ったが故に島を想い、父眠るが故に島を懐かしんだ。
そして精根尽き傷ついた私は、父の温もりにすがりつくように故郷に帰って来た。
故郷の道を歩きながら、いつも私と二人で歩いているような錯覚に襲われる。
父の愛した佐渡、私を育んだ両津、いい町を創りたい。私を再び受け入れてくれた隣人の、同級生の優しさに報いる為にも。
※昭和54年10月7日。
父の命日であると共に、今は亡き近藤元次先生が衆議院初当選された島民にとって歓喜の忘れられない日でもある。
私の父もまた、一人の島民として、近藤先生に夢を託し、一票を投ずることはできなかったものの、ささやかな支援を懸命に送っていたと、その夜、母から聞いた。
「天下悉く眠って居るなら諸君起きようではないか。
この切迫せる世の中に、眠って居るのもうすら眠りであろう。諸君が起きて直ちに暁鐘を撞けば、皆覚めることは必定である。
誰が真剣に起ちあがると天下はその一人に率いられる。諸君みな起てば諸君は日本の正気を分担するのである。天下一人を以て興れ!」
中野正剛「天下一人を以て興る」より
昭和45年春、私は一浪の後、憧れの早稲田大学に入学した。
新宿騒乱事件、安田講堂事件を経、70年安保騒動本番を迎えた年である。
「学生運動」が社会問題となり、デモ、ストライキが騒然とした世情を作り出している頃であった。
キャンパスは、左翼学生の立てた大きな立看板に埋めつくされ、校祖・大隈重信候の銅像も、口を一文字に結んだ厳しい顔を寂しげに出しているだけという有様であった。
休み時間といわず、ほとんど終日、ヘルメット姿の活動家による一本調子なアジ演説が、拡声器を通してバックグラウンドミュージックの様に流れていた。
机を積み上げたバリケードによって学園封鎖が続けられ、授業は休講、試験までも郵送によるレポート提出に代わり、全く正常な機能を喪失していた。
誰もが、濃淡の差はあっても、時代の空気に敏感に感染し、多くは俯き加減に、教科書と新聞を小脇に抱え、ジーパンをはいて歩いていた。
高度経済成長の爛熟期でもあった。それに伴う急激な物価の上昇が、田舎からの仕送りを月毎に目減りさせていた。
新聞配達、土方、出版社での徹夜アルバイトなどと、必死の苦学生ではあったが、家に縛られない学生の気易さから、貧しくとも、夜には焼鳥の煙が充満する酒場で、政治談議に熱中したりもした。
それは進むべき方角の見えにくい、それでいて絶えず政治と正面から対峙する事を余儀なくされた。奇妙に不安定な時代であった。
豪快な早稲田、政治学校、青春道場・早稲田、こんな風に思い描いて来た私の早稲田像は、日に日に赤茶け、変色していった。
余りに憂鬱、余りに暗く、早稲田は絶望的にまで時代に迎合した姿で、私を迎えたのである。
『栄光は 緑の風に
花開く 若き日の夢
重ね来し 歴史尊く
受け継ぎて 輝く早稲田
早稲田 早稲田
我等の早稲田』
破れ角帽、朴歯の下駄、腰に手拭い。学生服あり、羽織・袴姿あり、或る者は寝起きのドテラ姿。
明治時代の書生が、現代に蘇った様なスタイルで私達は、桜吹雪の中を高歌放吟して歩いていた。
入学したての後輩が、一升瓶を後生大事に抱え、後に続く。
時代を完全燃焼で突っ走り、生きる方向と、自分の生き様の原理原則を確立したい、それが、当時自分に課たした大それた目的であった。
早稲田に同化し、早稲田の先哲の歩みを早稲田の杜で追体験することで、自分を鍛え、自分を発見しようと願っていた。
ブラックボックスに落ちてしまった様な、苦悶の一年を経て、私はようやく、自分の憧れた早稲田像を体験しうる生活を探し出したのだった。
ともあれ「早稲田精神昂揚会」入会と共に、元気に満ちた新生活は開始された。
翌46年、春のことである。
怒涛の日々が始まった。体育館を一万余の観衆で脹れあがらせた早慶戦前夜祭、神宮球場での応援、テニアン島への遺骨収集団の組織と参加。そして秋の本庄・早稲田の100kmハイク…等々。
疑問を差しはさむ余地とて与えられないまま行事行事で忙殺されていった。
青成瓢吉の青春を追い掛け、未だ見ぬ「お袖」に恋をし、坂本龍馬に憧れ、大時代的な生き方を大真面目にやっていた。
酔眼朦朧とした顔で、偉大な先人の幻を見、大きく、骨太い男の一生を思い描き、夢に酔い、自由な時を満喫していた。色んな可能性が、少し手を伸ばせば届きそうな(?)とうそぶきつつ、酒と歌と大言壮語だけの楽天家集団の中でも、ひときわ過激に、早稲田三昧に明け暮れていた。
政治家になりたい、子供の頃からの夢だった。
しかし、その思いを、不退転の決意を込めて、宣言する自信は無かった。
私達のクラブは、一面では政治家養成の性格を持っていた。誰もが熱にうかされた様に「俺は政治家になる。」と言ってはいた。
だが就職試験の時期を迎えると、それまでのバンカラが嘘の様に、リクルートスタイルに身を包み、入社試験情報を交換したりしていた。
「いつまでも馬鹿はできないサ!」
彼らがかつて私達に対し熱く語りかけた夢は、就職という現実に向かいあう時、こんなにももろく崩れるものかと、半ばあきれ、そしてこんな先輩達と同列の人間にだけはなりたくない。と思いはしても、私が政治家になれる可能性は、当時の自分には絶無としか思えなかった。
私の父は、佐渡では他所者であった。そして全く政治に無縁な人であった。勿論、貧しくもあった。
私が政治家になる為には、気の遠くなるばかりの困難のみがある様に思えた。
何が何でもなって見せる。この固い決意を抱くまで、自分は自由人でいつづけよう。それが自分に正直な生き方ではないかと思っていた。
一人取り残される寂しさを感じながらも、
「佐渡は本土を隔てる事、荒波49里、日本海に蝙蝠型の姿態を見せて浮かぶ辺境であります。
大佐渡、小佐渡の二条の山脈は厳しい風波に耐え毅然としてそそり立って居ります。
古里が生んだ偉大な巨人、北一輝、本間雅晴中将が如く、いつの日にか、事を為さんと、大望を 抱き、早稲田に学ぶ…伝々。」
私は陽気に吠えていた。
そして、思いがけない出会いが、私に感動と決意を植え付けた。
先輩にさそわれ、政治事務所の年賀状のアテ名書きのアルバイトに行った。
千葉県一区、臼井荘一先生の事務所だった。
残業が終わり、みんなで茶わん酒をくんでいる席に臼井先生は現われた。
一人一人と握手をされ、名前を書き、楽しそうに談笑された。
その折、私に、君は誰を尊敬しているかと問われた。「中野正剛です。」「何故?。」「いさぎよい出処進退に感動します。」と答えた。
昭和18年10月、あの軍国主義の嵐の中で、東条内閣に敢然と戦いをいどみ、文筆で弁論で追い詰めたものの、力及ばず、自刃して果てた中野正剛の獅子吼が私の人生に大きな影響を与えようとしていた。
先生はその場で為書をされ、私に一冊の本を渡された。
「勉強なさい。良い政治家になりなさい。これからは君達が日本を創るんだよ。」と言われて。
「中野正剛の生涯」(猪俣敬太郎著)、今でも私の愛読書であり、それを手にする時、いつもその日その時の情景が浮かんで来る。
臼井先生は早稲田の先輩であり、中野正剛の同志であった。私はそんな事も知らず、青っぽい理想論を先生に向かって平気でいどんでいた。先生はニコニコ笑っていた。
私は感動と、自分の未熟さに焦り、益々酩酊していった。
寒風に晒されながら、友の肩につかまり、先生から贈られた本だけはしっかり抱え、
“俺は政治家になる”
“俺は必ず政治家になる”
うわ事の様に叫びを繰り返していた。
『贈呈 清野正男君
至誠 臼井荘一』
顔から火が飛び出る程の恥ずかしさと、懐かしさで、その頃を思い出し、今でも私はページをめくる。