私の場合●



▼私が解離症状や他人格の存在を知った時の簡単な経緯です▼
(参考ですので 読み飛ばしは もちろん可能)

私は最初自分の記憶に残らないリストカット (腕を自ら切る自傷行為)の痕跡を見つけ、不審に思ったので近く(電車で二駅)の

ちいさな個人クリニックに 親に内緒で通うようになりました。そこでは10分ほどの診察と、薬の処方を行っていたのですが

ある日、カウンセリングを受けたいか、と聞かれ、「もう少し長く話を聞いてもらえるなら…」と思い、ハイと答えました。

しかし結局、相手側(カウンセラー)にお電話した所、カウンセリングは現在していませんと言われ、その話はなくなりました。

後日、クリニックの先生が書いてくださった 依頼書のようなものを、返せとも言われなかったので開封して見てみたところ、

そこには 疑われる障害1 境界性人格性障害 2 多重人格障害 と書かれていたのを覚えています。



その頃 高校の保健の先生から紹介してもらった別のクリニックを一件尋ねてみたりしましたが 親がいないなら話にならない、

ということと 「記憶に無いなんていうのは多分(無意識であろうとも)嘘。貴方は自分でやってるのよ」と言われたのがショックで、

一度目の初診以来 とても行けそうにはありませんでした。

今思えば 治療途中で安易に別のお医者さんにもかかるなんていうことをしてしまって、最初のクリニックの先生に

とっても失礼なことをしてしまったな、と反省しています。信頼関係なしで 治療なんてできるわけもないですよね。



しかし その頃は高校生活 対人関係 バイト 日常生活と、心身共にヘトヘトだった時期で、周りの人の心配もよそに

どんどん自虐的な考えを巡らしていた毎日でもありました。自殺願望を行動に移してしまうことも数回。

意識の無い自傷に、救われてると感じた日もありました。

(私には怖くて自傷行為はできなかったけれど 自己嫌悪からか、自分の体が傷つくということが不快ではなかったのです)

2000年の8月、部活の夏合宿で対人関係や 自分自身に耐えられなくなり、合宿から帰ってきた翌日に 自殺を図りました。

処方されてはいたものの 飲まずに溜めてしまった 抗鬱剤・睡眠剤・安定剤等を30錠ほど服薬し、意識消失。

仕事から帰った親に発見され 意識の無いまま胃洗浄などの処置をもらい、2日ほど爆睡の後に目を覚ましました。

この時運ばれた病院が 現在も通っている大学付属病院です。(主治医は今と当時では違う人ですが)



多分 その日がきっかけ、というか 境目だったのですが、 頭の中からの声(呼びかけ)が聴こえるようになりました。

それは 現在でこそ人に言うことができるのですが、当時はとうとう狂ってしまったのだろうか、と悩みました。

声だけでなく 姿形まで見えるようになったのはその直後です。最初に出会ったのは 眼鏡をかけた男の人と 

私と近い年に見える女子高生風の女の子と ちいさな(小学生ぐらいの)髪の長い女の子で、

記憶が無い間に 腕が切れている、といった訴えも 彼らにしたら当然の出来事のようで驚きもしないで聞いてくれました。



実を言うと 実際に目や耳で 彼らを認識した日の後も、ずっとこれは夢か幻覚だろう。と考えていたものでした。

多重人格障害を自分の独学で勉強してみても、とても自分に当てはまる障害には思えなかったからです。

私には 幼児期の虐待の記憶は無いに等しいです。実父とは5歳前後に離れて暮らしており それ以前の記憶は

ほぼ無いのです。(現在 他人格から虐待があったとの訴えがあり 私自身が忘れたままなのかもしれません)

当初は医学的な知識までは とても独学で学ぶ力も気力もなく うやむやなまま、過ごしていました。



日を追うごとに増えていく 記憶の欠落や その間に起こしてしまう行動により 学校側から入院したらどうだろうか?と言われ

私は「卒業させてくれるなら」と言い 都内の大学付属病院(通院治療していた場所)に入院しました。



無事 高校を卒業したものの 決まっていた就職を蹴ってしまったことなど 辛いこともありました。

バイトも 長くて4ヶ月、すべては私本人の体調管理不足の問題ですが、現在もバイトを探して 四苦八苦です。

治療のこともあるので 焦りたくはないのですが、働かざるを得ない状況でもあります。

それでも充分に甘えきった生活をしているんですけれどね(^−^;)


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