開設42年

「星尋山荘」を1981年7月に建設
建設中の星尋山荘
建設中の星尋山荘

 最初は「星の階段」、または「山小屋」と呼び、
 「倉敷天文台賀陽分室」の表札を掲げてもいました。
 「星尋山荘」と名づけたのは1988年です。

 倉敷天文台が光害に悩まされはじめたため、
 暗い星空をもとめて
 本田は車に観測機材を積み、
 移動観測を続けていました。
  倉敷市の種松山、総社市、美星町(現・井原市)、
 賀陽町(現・吉備中央町)など、
 観測地は27ヵ所にもおよびました。
 賀陽町(当時)で観測中の本田実を見つけた同町東村自治会の先山信夫さんの協力で
 現在の観測所の建設が実現しました。

 星尋山荘では、4個の新星を発見しています。



「倉敷での近況」  東亜天文学会1988年度総会での報告から
倉敷からの光害
星尋山荘から見た倉敷の光害

 全国各地におられる会員の方々のところが空が明るく星が見にくくなって、遠くまで暗い空を求めて出かけられると聞きます。
 私の住む倉敷地方も例外ではなく、天の川などは1960年代の半ば頃から見えなくなってしまいました。
 いきおい彗星のような面積のある淡いイメージの天体の観測はダメになってしまいました。
 しかし、しばらくはガマンしていましたが、年のはじめ頃からトラックに機材をつんで毎晴夜でかけることにしました。
 積んででかける機材は、 スカイメモ  2台
 はじめの頃は、このスカイメモにミノルタの6×6をそれぞれ載せました。しばらくこれを使って星野写真を撮りましたが、つぎにコーワ6を2台手に入れて、これにかえました。 やはりスカイメモに載せたのです。
 中国地方は、瀬戸内の沿岸から、日本海に直線に抜けてもセイゼイ110kmほどですから、岡山、倉敷、福山など沿岸の都市からの光は、中国山地の中央までとどいています。
 そこで、あちこち暗い空を求めてさまよいました。数えてみると27ケ所ばかりも場所を変えていましたが、1981年8月から、岡山県賀陽町の山の上に、土地の人の好意で、小さな山小屋を作りました。ここまでの距離が30km。車で1時間かかりますが、街の明りから逃げきれたわけではありません。直線距離にしたら、わずかに山のなかに逃れたばかりでしよう。

 とにかくここで  
星にものを尋ねる  ことを始めました。
 夜毎往復に60km走りますが、2時間かかります。ある意味では無駄だと思えるこの2時間を、ほんとうに心を休ませるための、かけがえのない時間だと思いたいのです。
               本田 実  M・Honda   (倉敷天文台) 
  
「天界」1988年11月号より転載

「星尋山荘」を再開
星尋山荘の再開
再開をよろこぶ慧(さとる)夫人ら=1997年8月9日
 1997年8月9日夜、
 慧夫人や地元の人たち約30人が参加し、7年ぶりの観測会に。
  東村自治会と大和公民館の協力、天文愛好家らの善意で
再建整備がすすみ、 再開が実現しました。

きっかけは「ヘールボップ彗星」
ヘールボップ彗星と星尋山荘
ヘールボップ彗星と星尋山荘
1997年4月19日

撮影・監物邦男

 再開のきっかけを作ったのは、ヘール・ボップ彗星です。

 1997年4月19日夜、監物邦男さんとともに、写真を撮ると、星尋山荘の屋根が赤くさびていました。
 監物さんは「本田先生がヘール・ボップ彗星に乗って帰り、『おーい、なんとかしてくれ』と訴えたかもね」と。

 休日に、屋根の塗装、鉄骨のさびおとしと塗装、畳の撤去、天井張り替え、草刈り、樹木伐採、発電機導入…。

 奥野浩自治会長(当時)は観測所までの長い農道を草刈りしてくださり感激の協力。

 本田先生の彗星捜索用口径15センチ40倍双眼鏡も、大和公民館の協力で使えるようになりました。
 この双眼鏡は、観測所控室の東の窓際に置いていたもので、いまは毎年の夏に、子どもたちの観望会で活躍しています。

       管理人

開設20周年記念にHP「星尋山荘」公開
   星尋山荘の開設20年(2001年7月)を契機に、ホームページ製作にとりかかり、2002年2月26日に公開しました。


木辺望遠鏡を設置
木辺望遠鏡と大型双眼鏡
2002年7月、木辺望遠鏡(口径30cmカセグレン)を設置し、観測体制を整えました。

もどる